コールドウェル■「タバコ・ロード」
貧窮農民(プーア・ホワイト)を描く……1930年代のアメリカ南部の一断面
1983年11月13日「火花」第614号
「ディープ・サウス」のジョージア州のプーア・ホワイト(白人貧農)を描きつづけたコールドウェルの小説は、労働者文学の系譜に入らない。彼は労働者も描くが、しかしそれは農民の生活や行動をきわだたせる契機としているにすぎない、とも思われるほどだ。
「タバコ・ロード」は「神の小さき土地」と並んで彼の代表作であり、同時に1930年代を代表するアメリカの小説である。濫作して土地を浪費したためにタバコができなくなり、荒れはてた南部の不毛の農村に、あくまで住みついてたばこづくりを夢みるプーア・ホワイトのジーヌー爺さんが主人公である。子供たちの多くはこんな生活に見切りをつけて近くの町の工場に逃げ出してしまったが、主人公夫婦、夫の母、みつくちの娘エリー・メイ、弟のデュードという障害者の五人が食うや食わずのすさまじい生活を送っている。
コールドウェルはこの一家の物欲と性欲がむきだしになった絶望的な生活を描くのである。宗教も道徳も、ここではただ言葉の上でだけ存在しているにすぎない。神を信じるジーター爺さんは罪ばかり犯し、自分の欲望充足のためにはどんなことでもやるが、しかしちゃっかりとそれなりの理屈が神の名のもとにつくのである。
ここにあるのは没落貧窮農民の飢えと絶望と堕落の世界であるが、しかし小説は悲惨とか怒りとか反抗とかを強調しない。貧困と堕落のなかで強情に、ある意味でたくましく生きる農民を、どこかコミックに、愛情をもって描いており、悲壮感よりもあきれたという半ば賛嘆の気持ちやおかしみの方が先だってくるのである。
勿論、主人公が次のように言うところもある。
「おめえさんたちオーガスタの金持ちども(金融会社――農民に金を貸して綿花をつくらせてとことん搾取する)は、おらたち貧乏人がくたばっちまうまで血を絞るだよ。自分たちはちっとも働きもしねえでいて、おらたち百姓のつくる金をみんな取りあげちまうだからな。おらあこうして年がら年じゅう働いてよ……それでおらにどんな得がいくだ。得どころじゃねえ、3ドルの借金までつくっただ」(新潮文庫159頁)。
売り上げが300ドル以上もあったのに、一年働いてたった7ドルの分け前を金融会社からうけとったが、綿をつくるための騾馬(らば)の借り賃10ドルが残っていて結局、一年一家族の汗水たらしての労働の結果が3ドルの損だったという現実が、つまりなぜ、いかにして農民が没落し、土地が荒廃し、今や農民がどんな農業もできないほどの状態がもたらされたかの次第が――語られている。
しかし、それはこの小説の背景としてあるだけであって、直接のテーマではない。作者の意図は、ジョージアのプーア・ホワイトの悲惨な生活に深く感動し、それをありのままに表現すること、である。
物欲と性欲、つまり原始的な人間の欲望が表面に出て来るこうした脱落農民の生活が、どの程度まで彼らの本当の生活なのか、我々は判断する資料をもっていない。少なくも、同じ時代の脱落する農民を措いたスタインベックの「怒りのぶどう」とはかなり感触のちがう小説ではある。もっともこれは、黒人やプーア・ホワイトなど多くの困難や問題をかかえていた「ディープ・サウス」に生れたコールドウェルと、カリフォルニアの美しい肥沃な渓谷のサリーナスに生れたスタインベックの差なのかもしれない。
コールドウェルは、窮乏化し前途に希望を失くし、原始的な欲望もあらわに荒唐な夢に生きる農民――例えば「神の小さき土地」の主人公は自分の土地から黄金が出るという幻想にとりつかれている――とは若干ちがった資質をもつ人々として、労働者を描いている。
「タバコ・ロード」では、美しい12歳の妻パールに執着を示す石炭落しの労働者のラヴだけがまともである。「神の小さき土地」では、おやじの黄金熱に反対なのは娘ロザモンドの良人で工場労働者のウイル・トムスンであるが、彼は織物工場の閉鎖――1930年代の大恐慌の結果だ――に苦悩し、それに反対して闘っている闘士だ。こうした“まともな”人々も、プーア・ホワイトから脱出しても工場制度によって救われず、やはり貧困と不安に苦しまざるをえないことが示されている。
(H)