ドライザー「アメリカの悲劇」
アメリカの階級制度を暴露……小説としては上出来ではない

1983年11月20日「火花」第615号

 貧困の中で育ってきた青年がブルジョア的成功を夢みて、資本家となっている伯父のつてを最大限利用しようとし、さらに上流社会の女性と結婚するために自分の愛人を殺害して捕われ結局は破滅するに至る――これが本書のプロットであり、タイトルの『アメリカの悲劇』の悲劇たる所以である。
 悲劇は、主人公のクライドが例えば自らの持って生まれた悪らつさのために殺人を犯したとかいう点にあるのではない。ドライザーは、クライドが成り上がり、成功するために、すなわち資本家の仲間入りをしようとするためには、彼の出身階級との壁を打ち破るためにどれほどの犠牲を強いられるのか、またそれが自由競争の資本の世界の必然的な姿であるのか、をクライドの人生において描こうとしている。悲劇はまさに、資本家的な世界そのものから発生するのである。
 ドライザーのこうした観点が唯物論の見地とかなり接近しており、あるいは唯物論に立脚しているものであることは、例えば似たようなシチューエーションをもつドストエフスキーの『罪と罰』と比べればはっきりするであろう。ラスコリニコフは、自らの思想的、哲学的な確信によって、金貸しの老婆を殺害したが、その思想を賭けた行為であったということそれ自体において、すでに“救済”されていた。しかし、クライドは、彼を告発する検事メイソンによれば「精神的にも道徳的にも臆病者」であり、世俗的な成功の夢に引きずられるありきたりの人間にすぎず、したがって、ドフトエフスキーの小説におけるように、どんな“思想的”な救済もありえない。クライドはただ裁かれるだけの立場におかれており、しかもそれは、彼がただ上流階級へ加わろうとしてむなしい試みを行なった結果にすぎないのである。上流階級と貧乏人、労働者階級は、この当時――おそらくは、アメリカ資本主義がまだ“健全”な発展をとげつつあった1910年代――においても、すでにもはや融和しがたいもの、画然と区切られている全く別の世界のものとして現われていたのである。
 「下層階級が熱望する上層階級は必要なものと考えていた。人間には階級的社会制度がなければならなかった。一人の人間に――たとえそれが親戚であっても――不当に目をかけて必要不可欠な社会的規準に干渉したりそれを崩したりするのは愚かなことだ。商業的にもしくは経済的に自分より下の階級や知能の者を扱う場合には、彼らが慣れている規準に従って扱う必要がある。何より大切なことは、下層の者たちに、金を手に入れることの困難さをはっきりわからせておくこと――この世界で唯一の真の重要性を持った仕事――製造工業に従事するあらゆる人間は、その建設的な仕事を構成するあらゆる細部や課程において厳格に組織的に訓練を受けることは必要だという考えをはっきり持たせておかなければならぬ」
 こうして、クライドの場合も彼が成り上がるにはいくつもの障壁を乗り越えねばならなかったのだが、彼はそれを、上流社会の女性と結婚することで一挙に解決しようとし、その結婚のために殺人を犯したのである。
 ドライザーは、この小説においては、アメリカ資本主義の告発だけに終って、その矛盾の解決の方途は示してはいない。それは、彼がソ連を訪ねたりする後年になって、社会主義のイメージがドライザーなりに鮮明になるまで待たねばならなかった。
 筆者としては、ドライザーの意図の実現の成否はともかく、小説としてはこれはあまり出来がいいとは思えない。背景の説明はかなりステロタイプであり、クライドなどの登場人物の性格付けもかなり紋切り型である。
 とはいえ、この小説はアメリカ資本主義における“サクセス・ストーリ”が虚構の上に成り立っており、ここでも階級制度は厳然として存在することを暴露した点で一読に値する作品ではあろう。(Y)