老舎■「駱駝祥子(ロートシャンズ)」
“純”労働者小説……挫折した北京の車夫の一生
これは純粋にプロレタリア的な小説である。中国にこれ以上の労働者小説があるかどうか、私は寡聞にして知らない。
主人公は北京の車夫――人力車引き――の祥子である。時代は1930年代の後半、日中戦争が始まる頃である。当時北京には数万という車夫がいて物すごい生存競争を演じていたという。作者は一人の車夫の人生を描くことによって、当時の中国の労働者と貧民の生活と社会の実相を浮き彫りにしている。
祥子は若く、立派で強壮な体格をした、しかも「第一流の車夫」になる希望にもえた労働者であり、自分の車をもつことが夢である。彼の走り方はまさに芸術的である。彼は遊びも酒もタバコもやらず金をためて、三年ほどで新しい車を買い、賃借りの地位から自分の車をもつ独立した車夫へと成り上がり、洋々たる前途が開けたかにみえる。
しかし彼の順調な人生は長続きしない。戦争や意にそわない結婚や病気や妻の死や淡い恋や、すべてこうした人生の諸契機が、彼の立派な希望と目的を打ち砕き、裏切っていく。作者は、労働者は決して成り上がることができず、貧民は貧民として終るしかないことを執拗に“論証”しょぅとしているかである。例えばこんな具合だ。
「彼ら(貧民)にとって一番大きな損害は、雨に濡れて病気になることである。……彼らは力仕事をして飯を食う連中なので、いつもピッショリと汗をかいている。そこへ猛烈な(夏の)雨がザーと来る。華北のこうした暴雨は実に急激に襲いかかり、しかもその冷たいこと、時には桃の種ほどもあるすごい雹を交えてくる。その氷のように冷たい雨が、汗で口を開いている毛穴に当ると、ゾクゾクと冷たく、大抵の者は少なくとも一日や二日は熱を出して寝込んでしまう。
…詩人達は雨後の蓮葉に置く珠の露を眺めて歌を詠ずるかもしれないが、貧しき人々は一家うえに泣くのだ。……雨は富める者にも貧しき者にも降る。ただしき者にも降り、ただしからざる者にも降る。雨そのものは全く公平に降っているのだ。ただその降りそぞぐ先が不公平な世の中だというだけのことなのだ。(かくして)祥子は病気になった。)」(新潮文庫、327頁)。
祥子は立派な車夫となろうとして果たせず、その反動から堕落していく。次のような文章はこの小説の魅力を十分語ってはいないだろうか?
「眼前の安逸は高尚な志操を駆逐する。彼らは刹那の快楽を追求し、閑さえあれば、グーグー高鼾で寝てしまう。そうだ。それに限るのだ。どうせ生活はかくも無柳(ぷりょう)であり、苦痛であり、絶望であるのだ。生活の苦痛は酒とタバコなどという毒薬の力を借りて、暫く麻酔するより外はない。毒を以て毒を制するのだ。それを続けていったら、きっとその内に毒のためにたおれる日が来るにきまっている。それ位の理屈は誰でも知っていた。だがそうする外に、誰がこれに代わるべき好い方法を知っているのだろう?」(372頁)。どんなに働いても結局、車を言うこともできず、彼の社会的地位と生活はますます下降していき、最後には、他の多くの車夫と同様ののたれ死にしか残されていない。作者は小説の最後で、祥子の挫折の原因が彼の「個人主義」にあるかの叙述を行っている。「個人主義は彼の魂であり、この魂は、彼と共に土の中に埋まって、土の中で朽ちて行くのだ」(428頁)、「何時何処に彼自身の死骸を埋めることになるのだろう?、この堕落した、利己的な、不幸な、社会病胎の産児であり、個人主義のなれの果てである。哀れなゆき倒れの死骸を!」(431頁)
しかし小説は、個人主義の告発というより、労働者が何か労働者以上のものになり上ろうとしてもそれは不可能であることを示そうとしているように思われる、そしてその限りで「個人主義」の非難が結論となっているのであろう。しかしではどう生きるかは、作者は何一つ語っていないし、示唆さえも与えていない。この小説はあくまで“純”労働者小説にとどまっている。1937年という小説の書かれた年を考えると、このことの意味を我々はつい考えこんでしまうのだが、そんなに深刻ぶらずに読むべき小説なのかもしれない。北京の街や自然の美しさと魅力、そしてまた人との伝統的生活の描写も我々をひきつける。(H)
1983年12月4日火花第617号