魯迅■『阿Q正伝』
封建中国を告発……だがインテリ的立場を出ず
『阿Q正伝』は魯迅の最初の小説集『吶喊』の一編であり、この小説集におさめられている他の作品――例えば『狂人日記』など――と同じく、辛亥革命の時代への魯迅なりの総括として、ひとまず位置づけておいていいだろう。
阿Qは中国の寒村に住むルンペン・プロレタリアートである彼の出自は誰も知らない。定職などなく、家族もない。地主の趙家や銭家に日雇いにやとわれ村の土地廟(お社のようなもの)を借りて雨露をしのいでいる。体格も貧弱で、時々人に喧嘩をふっかけてみるが、すぐに弁髪をつかまれ、殴られてしまう。村の人間で誰も彼をまともに相手にするものはいないし、彼も趙家や銭家の悪口などたたいてはみても、いざ当の本人たちの前に出ればたちまち卑屈に物乞いさえする。要するに最も卑屈で、自分の目の前の利益のことしか考えず、弱い者にはいばり散らし(若い尼をしつこくからかったりする)、強い者には媚びへつらう、典型的なルン・プロが阿Qである。
その阿Qが、近くの地方都市への革命軍の進攻に際して(辛亥革命の国民軍である)、突然革命派に変身する。といっても阿Qに革命に殉じるほどの節操があるはずもない。彼はたまたま、革命軍の進攻におびえる村人や町の有力者の姿を見て、自分が革命派であれば人の畏敬を集められるかに思いこみ、かつ革命派であることを口にしてみたら人々がこれを他愛もなく信じこんで彼を恐怖したためであり、また、革命のついでに少しばかり略奪してみようかなどと甘い夢想にふけったためである。
そしてまさにそのために、彼は革命の際の略奪者として捕えられ、銃殺される。しかも阿Qは、なぜ自分が捕えられ、銃殺の際の市内引き廻しの時でさえ自分が銃殺されるという自覚がない。銃が自分に向けられた時にはじめて気がつくが、その時には「阿Qの叫びは口から出なかった。とっくに眼がくらみ、耳が鳴り、かれは全身がこなごなにとび散るような気がしただけである」。
魯迅は阿Qを次のように位置づけている。
「私の考えでは、もし中国が革命しないなら、阿Qもしないが、革命したとなれぼ、阿Qもする。わが阿Qの運命はこれ以外にないので、したがって性格も前後不一致(阿Qが革命党を自称する前と後の性格の意――引用者)ではないはずだ。民国元年はすでに過ぎ去って追うべくもないが、今後もしまた改革があれば、阿Qのような革命党はかならず出現すると私は信じる。人々の言うように、私が描いたのは現在より前の一時期である、ということは、私もそうあってほしい。ただ私は、自分の見たものが現代の前身ではなくて、現代の後身、しかもほんの二、三十年後のことかもしれないことを恐れる」と(「『阿Q正伝』の成り立ち」)。
この文章は1926年のものである。十数年前の辛亥革命後の中国の文学上の大きな変革のオピニオンリーダーだった魯迅は、この頃には郭沫若らとはすでに一線を画した立場を表明していたが、阿Qのこのような位置づけ、中国の労働者農民大衆の性格づけは、魯迅の政治的見地をもはっきりと浮かび上がらせている。
魯迅は確かに中国近代化の旗手であり、小説や評論を通じて封建中国の遅れ、農民大衆に対する地主的支配と収奪を鋭く告発してきた。しかし彼が描くところの中国の大衆は、阿Qばかりでなく、孔乙己も(『孔乙己』)七斤も(『から巌ぎ』)はとんどどうしようもない“無知蒙昧”の大衆以上ではない。
こうしたオポチュニックで受動的な大衆がなぜ中国で革命に決起したか、という問題はおよそ、問題としてさえ、魯迅の観念にはなかったのではなかろうか。
魯迅の文学は、封建中国に対する激しい告発文である。その意味では、彼は地主制度や封建権力の収専の酷薄さを徹底的に糾弾している。『阿Q正伝』をとり上げるのはまさにこの理由からである。
だがこの支配の下に坤吟する大衆を描く段になると、魯迅は自らのインテリ的な立場を出ることができず、革命の原動力が農民大衆のどこにひそんでいるかまでは、とうてい描き切れないのである。(Y)
1983年12月11日火花第618号