アンリ・バルビュス■「砲火」
戦争の悲惨・大衆の覚醒――フランスの側からの反戦小説
まだ第一次大戦のさなかの1915年12月に書かれたパルビュスの「砲火」は、レーニンも戦争に反対する労働者人民の意思の増大の一表現として注目したが、戦争の悲惨さと生き地獄を、さらにその中での兵士の意識の変化を描いて、大きな反響をまきおこしたのであった。
これは、ドイツの側からの「西部戦線異状なし」に対応する、フランスの側からの“反戦”小説である。
パルビュスは個人主義的な立場から出発したブルジョア作家であり、第一次大戦が勃発すると41歳の年でありながら、ドイツの勝利は軍団主義の勝利となり、自由と民主主義の祖国フランスが蹂躙されると考え、志願して前線におもむいたような人間である。
だが泥濘と砲火の中の塹壕生活を経験し、戦争の現実を見るにつれて、彼の思想は大きく旋回し」ドイツの敗北ではなく、帝国主義の根本的な原因がなくならない限り人類の行う戦争は続くという真理を悟るようになる。
彼は小説で、戦争の悲惨と兵士たちの困難を書きつづけるが、しかしその中でも、兵士たちが陸軍大臣のミルランをののしったり、またリープクネヒトを「見るがいい!戦争を超越して、美しい偉大な勇気にかがやいている人の姿が一つだけある」とたたえ、希望をたくしている様子を点綴(てつ)させている。又、戦争をはじめた卑劣な金持ち連中こそが「戦争の前に一番愛国心を口にしていたやつらだ」ということを、兵士たちはようやく思い出す。
こんな話はどうだろうか。
第一次大戦でははじめて毒ガスが使われたが、一兵士が毒ガスを「正当で認められている」砲弾に対置して「卑劣な手さ」とののしると、もう一人が反対して言う。
「おまえの正当な手、不正当な手にゃ聞きあきたよ。……普通の大砲の弾で人間がふっとばされ、二つに引き切られたり、上下にバラバラにされ、木片みじん、腹はすっかり中味がとびだして、熊手でひっかきまわされたようなていたらく、頭は槌でなぐりつけられでもしたように肺のなかへのめりこんでしまうか、頭のあたりにゃ首がちょっぴり残っているだけで、そこからすぐりのジャムみいたな脳みそが胸から背中へ一面にたれているところを見てさ、そんなところをみても、『いや全く、正当な手さ!』なんていうんだからな」(三笠書房版、164頁)。
いや、これは全く宮本らにきかせたい名文句ではある!
小説はおそろしい任務にでかけ、さんざんな目にあってうちひしがれた兵士たちが戦争の意味や人類の将来について考え、語りあうなかで終っている。
兵士たちは、自由や民主主義や同胞愛ではなく万人の平等が第一であり、それさえ実現されれば「やりたくない三千万の人間――フランスの人口――によってなされた恐ろしい出来事なんて、もうなくなるよ」と言う。
作者は書いている。
「ああ、君らのいうことは正しい。戦争のあわれな無数の労働者たちよ、自らの手で大戦争をやってのけた諸君、未だ幸福をつくりだすことは役立たない全能の力、一人一人が苦の世界のような顔をしている地上の群衆――そうだ、君らのいうことは正しい。みんな諸君の意志に反して行われているのだ。
銀行家や大小の事業家たち、怪物のような利害関係者だけだ。彼らは銀行や家で鎧かぶとをつけて、戦争で食っている。えたいのしれない主義に額をよせ、金庫のように顔を閉め切って、この戦争のさなかにいとも平和に戦争をくいものにしているのだ」。
この小説は、自覚した労働者や社会主義者の筆によるものでなく、従って帝国主義戦争の其の暴露としては単に悲惨であるという次元以上ではなく中途半端であるし、兵士(従って労働者人民)の目ざめも書かれているが、何となく歯がゆく、正当なリアリズム以外の余計なものも感じられる。
パルビュスは戦争を通してブルジョア個人主義をぬけ出し社会主義に接近したが、しかし「スターリニズム」はこうしたインテリの前進を本当に助けるのではなく、彼らを便宜的に平和主義と人民戦線戦術のために利用したにすぎなかった。(H)
1983年7月10日『火花』第597号