エミール・ゾラ■「ジェルミナール」
資本と賃労働の死闘――第二帝政時代のフランス労働者の生き様
1962年に初めて岩波文庫で手にして以来、私は少なくとも三度この小説を読んでいる。それほどにこれは私の最愛読書の一つである。
ゾラはバルザックの「人間喜劇」にならって「ルーゴン・マッカール叢書」を計画、第二帝政時代(1852〜70年)のあらゆる社会の人間をその叢書二〇巻で潤いたが、その第十三巻に当たるのがこの「ジェルミナール」である。
この小説で、ゾラがその冷静な客観的で“科学的な”方法で描き出そうとしているのは、炭鉱労働者の生活と闘いであり、もっと直截に言えば、とことん闘いぬかれてしかも敗北した大ストライキ闘争である。
主人公の機械工エチエンヌは上司とけんかして失業、職を求めて飢えながら北フランスのモンスー炭鉱にたどりつき、そこで雇われる。そしてマユという堅実で、立派な仕事を尊敬する労働者一家にひろわれ、その家庭に住みつき、マユの娘カトリーヌと愛し合うようになる。しかし二人は色々な行きがかりがあって結ばれない。
だがこうした炭鉱労働者達のところにも、マルクスの第一インターナショナルの影響が及んでくる。「今話題になっていたのは、国際労働者協会のこと、ロンドンに創立されたばかりのかの有名なインターナショナルのことだった。それは正義がついに勝利を得ようとしているすばらしい努力、運動ではなかったか? 国境はもはやなくなり、全世界の労働者たちは立ちあがり団結して、労働者にパンの獲得を保障しようとしていた」(中央公論社版128頁)
エチエンヌはモンスーに「協会」の支部をつくろうと欲し、労働者に社会主義の話をしはじめる。折しも、不況が石炭資本を襲い、資本は労働者の犠牲によって困難をのり切ろうと策し、賃金切り下げを強要してくる。すでにギリギリの生活に苦しんでいたモンスーの何千人の労働者は激昂し、抑えがたい力におされて大ストライキ闘争に突入する。
ストライキの中で、ストを続けるかどうかの集会が森の中で開かれ、エチエンヌは演説する。「賃金生活者は新しい形の奴隷なんだ。炭鉱は坑夫のものでなきゃならぬ、…いいか諸君! 炭坑は君たちの、君たちみんなのものなんだ、君たちが百年も前からあれほど多くの血と貧困とを代償としてあがなって来たものなんだぞ!」と。そして彼は「労働用具(つまり私有財産)を共同社会のものにする」社会主義的理想を語るのであった(これは宮本らにきかせたいほどだ!)。
だが飢餓に瀕し、追いつめられた労働者大衆は暴動化し、炭鉱を破壊し、ブルジョアを襲い、商店を掠奪し、最後には軍隊と衝突してその一斉射撃に打ち破られる。かくして何か月ものストライキ闘争は敗北する。
エチエンヌもカトリーヌも「正しいことを望んで、こんなに不幸になるなんてことがあってもいいもんかね!」というマユの妻――夫を虐殺された――の無限の悲しみの声の中で再び炭鉱に入る。生きるがためには働かざるをえないのだ。だが入坑の日、恐ろしい炭鉱事故が起こり(アナーキストのスヴァーリンの仕業)、二人は他の坑夫と共に地底にとじこめられる。地底で二人ははじめて結ばれるが、カトリーヌは死に、エチエンヌだけは辛うじて救出される。ゾラは自らこの小説を説明している、「この小説は一言にしていえば資本と労働との闘いである。そこにこの書物の重要性がある。私はこの書物によって未来を予言し、二十世紀の最も重大な問題となるはずの問題を提出したい」と。
この小説が労働者階級に対して持つ意義は明らかであろう。それは労働者階級の自己認識の書であり、従ってまたいかに生き、いかに闘うかを教えてくれる書でもある。ゾラは“自然主義”作家として、「絶対に正確に現実を描くこと。その果てに倫理はおのずと浮かび出る」という自己の方法にあくまで忠実であり、客観的である、しかし、実際には、ゾラの他の偉大な小説(「大地」「屠酒屋」等々)と同じように、この小説でも作者の労働者や農民や職人たち――労働者人民――への深い愛情や理解を我々はひしひしと感じないであろうか?(H)
(1983年7月3日『火花』596号)
1997年7月27日『海つばめ』639号【四面読書】
《19世紀後半仏下層階級を描く……エミール・ゾラ著『居酒屋』》
本書はゾラの著作のなかでも最も著名なものであろう。かつては映画化されたこともあり、そのリアリズムあふれた白黒スタンダードの画面はなかなかの傑作であった(という記憶がある)。
ゾラは本書の序で次のように述べている。「わたしは、パリの場末の汚濁した環境のなかでの、ある労働者一家の避けることのできない転落を描こうとしたのである。酩酊と怠惰のすえに生まれる家族関係の解体、卑猥な乱倫、誠実な感情の加速度的な忘却、そして、あげくのはての汚辱と死。これこそ生きた教訓なのだ。それ以外のものではない」
ゾラの言うとおり、本書で描かれているのは凄まじいばかりの貧困(その末に主人公は餓死する)、暴力(とくに夫による妻や子供に対しての)、アルコールによる人格の破壊(これほど酒が人間に及ぼす影響を徹底的に描いたものはそうはない)、性欲等々であり、そのどれもが読む者に恐ろしいばかりの迫力で、真実味を帯びて迫ってくる。
主人公はジェルヴェーズという名の女性である。彼女は14歳で結婚し、すでに8歳と4歳になる男の子がいる。職業はパリの場末にある洗濯場で働くいわゆる「洗濯女」である。彼女は小説の冒頭で夫(ランチエ)に逃げられてしまう。ランチエという男は暇さえあれば女性を追いかけ回している男であり、働くこともせず妻の収入に寄生して生きている“ヒモ”のような男である。
そこにブリキ職人のクーポーが彼女に求婚し、彼女はその熱意に負けて結婚を承諾する。クーポーは以前から彼女に好意を抱いていたのである。二人がカフェで交わす自分たちの望みはささやかなものである。「あたしの願いっていえば、地道に働くこと、三度のパンを欠かさぬこと、寝るためのこざっぱりした住居をもつこと、つまり寝床が一つ、テーブルが一つ、椅子が二つ、それだけあればいいの、……それから子供たちを育てて、できればいい人間を育てて、できればいい人間にしてやりたい……。こんど世帯をもつことがあったら、ぶたれないこと。……ほんとこれだけなの」
ゾラはこうした願いを実現しようと必至で働く若い夫婦(ジェルヴェーズは洗濯屋を開こうとしている)がその夢をなかば手に入れながら、酒や性欲に負けて、とめどもなく転落していく様を冷酷にこれでもか、これでもか、と描写している。
そのきっかけは前夫ランチエによってもたらされる。一緒に逃げた女性と別れたランチエは再び、ジェルヴェーズに近づき、クーポーをも丸め込み、夫婦の家に居候してしまう。そしてしつように彼女にまとわりつき、最後には彼女もランチエに負けて一夜を共にしてしまう。いつしかクーポーもそれを察知し、今までまったく口にしなかった酒を飲むようになり、最後はアルコール中毒により病院で狂死してしまう。
ジェルヴェーズもまた夫との仲が悪くなり、酒を飲んだ夫に暴力を振るわれ、ランチエとの関係を絶つこともできずに、転落していく。あれほど働くことが好きで労働に喜びを見出していた彼女だが、いつしか夫に続いて酒に溺れ、働くことを嫌悪するようになり、恥も捨て去り、友人や親戚に金を無心するようになり、最後は娼婦にまで堕ちていき、誰からも見捨てられた彼女は、人知れず飢え死にしてしまう。
この小説が発表された時、ゾラに対して非難の声が起こったという。あまりに容赦のないゾラの文章に「労働者を侮辱している」というのだ。だが、ゾラはそうした声に対し次のように述べている。「この作品は嘘をつかない。民衆のにおいがしみついている。民衆についての真実の書、民衆についてのはじめての小説である。民衆はだれもかれも不道徳な手合いであるなどと、きめつけてはならない。現に、わたしの作中人物は不道徳ではないのである。彼らはその生きている苛烈な労働と貧困のせめぎあう環境のために、無知となり毒されているまでのことなのである」
ゾラは19世紀のパリの貧困階級の悲惨な生活を描くことで、労働者にこうした貧困と無知をもたらす環境、すなわちこのブルジョア社会、資本主義社会を厳しく告発しているのである。
だが、同時にゾラは資本主義=機械制大工業がもたらす進歩的な意義も承認していた。主人公にほのかな恋心を抱く青年グージェの口を借りてこんなことを言っている。リベック工のグージェは彼を尋ねてきたジェルヴェーズに巨大なリベット製造機を見せてやりながら彼女にこう言う。「ねえ、これがぼくらを完全に打ちのめすんですよ! だけど、あとになれば、たぶんぼくたちみんなの幸福に役立つんでしょうね」
ゾラは機械制大工業の持つ進歩的側面を完全に理解していたのだ。たとえそれが、そこで働く労働者を打ちのめそうともである。
こうしたゾラが本書から8年後に「ジェルミナル」を発表するのは当然であったろう。ジェルヴェーズの4歳の息子の名はエチエンヌである。そう、ジェルミナルの主人公として炭鉱労働者の闘いの先頭に立った若者である。母親は貧困のなかで餓死していったが、息子はそれを乗り越え、労働者の闘いの中にその解決を見出していたのだ。労働者階級のなかでゾラの名は不滅である。
(新潮文庫)
(八鍬)