ロマン・ロラン■「魅せられたる魂」
闘いの時代の真の人間ドラマ……人間主義から共産主義へ
この巨匠の手になる、偉大なしかも3巻にも及ぷ長編小説を、わずかな限られた枠の中で語り尽すことは難しい。
第一次大戦、ロシア革命から第二次大戦にいたるほんの20年ほどの間は、戦争と革命、ファシズムと共産主義(たとえその実体がスターリン主義であったにしろ)の交錯の中で、人間が最も深刻な選択をせまられ、またそれゆえに人間の精神が最も豊かにその創造物を生みだした歴史的時代であったといえるだろう(もちろん、ファシズムの勝利と帝国主義戦争の再開が、こうしたものを資本主義の野蛮な獣性の下に屈伏させたのだが)。
「魅せられたる魂」は、ちょうどその時代そのものを、幾多の登場人物、とりわけヒロインのアンネットとその息子マルク、彼の妻で亡命ロシア人のアーシャを通して描き切っている。
この時代とは、ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの台頭の時代、その交代の過渡にある時代、もっと正確に言えば、社会主義の勝利が目前であるかに、どの人間たちにも思われた――そして脆くも社共の裏切りによって打ち砕かれた――時代である。
アンネットも、まずフランスの中流家庭(典型的な共和派的ブルジョアジー)の出身であり、破産によって労働者階級の一員となる。その過程で、彼女は現実の生活と労働から幾多のものを学び、ブルジョア共和派の偽善を拒否し、「私生児」としてマルクを生み、育てる。
アンネットのこうした生活過程、あるいはそれに規定される思想的変化――我々はそれをロマン・ロラン的な人間主義と見てさしつかえないだろう――は、ある意味ではありきたりの、決して珍らしくはない過程である(ロマン・ロランは、この過程を全く見事に描いているのだが)。
だが、アンネットが――おそらくは彼女の年令的な理由から――先に進めなかったことは、マルクによって、彼の妻で共産主義者であるアーシャによって、おしすすめられる。
アンネットの思想は、彼女がマルクに語っているような言葉で端的に示される。「あなたにとっての真実とは、あなたの本来の性質のことです。あなたの本来の性質を裏切ったり、無理を強いたりしてはいけない。イエスとノーとを暴力に対する熱愛と嫌悪とを、抑制できない自我のさまざまの要求をそのうちのだれをも捨てないように」。マルクは先に進む。「社会運動の戦闘イデオロギーは、彼のイデオロギーと衝突した。この無産大衆精神、その弁証法的唯物論は、彼自身の知的個人主義のロマンティックな貴族主義を責めたてた。マルクがそれから身を救うのには、いわば一種の禁欲的な反動によるほかはなかった。彼自身と彼の階級との無価値さを認めて、それによって自らを罰し、無産階級への奉仕と、その奉仕が必要とする戦闘手段へと、自らを強いて献げるほかはなかった」。
そして、マルクはファシストに刺されて若い生涯を終える。アーシャは、やはり共産主義者であるアメリカ人技師とともにアメリカに渡ろうとするが、その時には、アンネットは、マルクの思想をひきつぐまでになっているのである。アンネットはアーシャに言う。
「行きなさい、あたしの娘! 闘いに行きなさい! それはマルクのためです。彼の代わりに闘いなさい、彼が望んでいたことのために、彼ができなかったことのために!あたしたちの主義のために!」。
このシーンは真に感動的なシーンである。アーシャは思わず「あたしたちの主義ですって? じゃあなたも仲間なんですの?」と義母に問い返してしまう。アンネットは答える、「あたしはあたしたちのマルクといっしょです。マルクはあたしの中にいます。世の中の法則は逆になりました。あたしは彼を生みました。今度は彼があたしを生むのです……」。
アンネットやマルクはおそらくロマン・ロラン自身、さらには当時の多くの――インテリ的人間主義的な――人々自身であったろう。それは労働者階級の闘いが高揚する時代の真に人間的なドラマである。(Y)
「文化批評」
ロマン・ロランの「革命劇」――「魅せられたる魂」に関連して
今週号の「労働者文学・革命文学」にとり上げた「魅せられたる魂」に関連して、ロマン・ロランの戯曲「7月14日」や「愛と死との戯れ」についても論じておいて欲しい、という要請が、編集の段階で出されていた。しかし、何せ、「魅せられたる魂」のような壮大なロマンを、ほんの十数枚で論じろというのが土台難題で、とうとう書くスペースがなくなってしまい、こちらの欄でとりあげよう、ということになってしまった。御寛恕のほどを。
ロマン・ロランは、フランス革命をテーマにした革命劇を八篇製作している。「ダントン」「7月14日」「狼」(いずれも初演は1909年以下同様)、「理性の勝利」(1913年)、「獅子座の流星群」(1928年)、「花の復活祭」(1926年)、「ロベスピエール」(1939年)である。
当時のロランは、一方ではヨーロッパ諸国におこなわれていた農民演劇運動を「人民劇場」として総括しようとし他方では、それとふさわしい革命劇を何篇か製作しようとしていた。
ロランは言う、「フランス芸術は、演説、小説、劇、あるいは絵画の材料としては民衆をよく知っていた。しかし生きた人間として、公衆として、批判者としては、民衆を問題にしていなかった。社会主義の進歩は、この新しい主権者へ注意をひいた」「貴族的な過去の芸術や思想を二十世紀の民衆に、検討を加えずして強制しないことにしよう。また民衆演説は、ブルジョア演劇の残り物を拾い集めるよりも、なすべきはるかに重要なことがあるのである」
この偉大な作家が、民衆劇の内容としてフランス革命をとりあげたのは、彼がまさに最も徹底的な理想主義者、人間主義者として(同時に限りなく社会主義に近づいた人として)、ブルジョアジーとブルジョア社会に対する徹底的な侮蔑と批判を抱いていたからである。ジャン・ジャック・ルソーをとり上げた「花の復活祭」への序で、ロマン・ロランは言っている。「狡猾でしかも常に眼を光らせている社会の精神が、見ていなかったもの、見るものを欲しなかったものを、彼(ルソー)は――あの天啓を受けた近視眼者は見たのである。すなわち累積した憎しみや、お互いの侮蔑を。『啓蒙思想』の名の下に隠れた残酷な不寛容さを。『自由』の名の下に隠れた圧制の欲望を。はなはだしくなる『専制者たちの時代』や、高まる大波を。同じ憎しみによってそれぞれ結び合い、しかも互いに憎み合う人間たちの、執拗で組織的な陰謀を。準備されつつある苛酷な内乱を。楽しげな社会を破滅へと導く『運動』を。反逆と復讐との『神』を――すなわち大革命を」と。ロランのこれらの一連の戯曲が、今日では全集以外に見出すことができないというのは、また殆んど上演されないというのは全く残念なことである。(Y)
1983年7月17日『火花』598号