ジュール・ヴァレース■「パリ・コミューン」
最初のブロレタリア革命を描く――パリ・コミューンの栄光と挫折
パリ・コミューン――このことばは、百年以上たった今でも、労働者階級の解放の事業への情熱と勇気を、我々のうちにかりたてずにはおかない。史上はじめてのプロレタリア革命として、パリ・コミューンは幾多の弱点や欠陥をもっていたが、にもかかわらず、マルクスがこの革命からプロレタリア独裁という重要な、決定的な教訓をひきだしたように、我々も多くの教訓とはげましをひきだすことができる。
史上初のプロレタリア革命の名称を戴いたこの小説は、パリ・コミューン自体がそうであったように、幾つもの混乱した要素や、誤謬や、日和見主義を含んでいる。だが我々はこうした点をとがめようとは少しも思わない。コミューンの闘いを、その栄光を挫折の一切を、革命のまっただなかにあって自ら実践したジュール・ヴァレースが刻明に描いているその一つ一つの場面が、我々の心を揺さぶるのである。
この小説の原題は『ジャン・ヴァントラースの生涯』といい、「生いたち」 「大学入学資格者」「決起」の三部から成っている(中央公論社版では第二部は割愛されているが、本書の生命は、何といっても邦訳者によって「パリ・コミューン」と題された第三部にあり、不都合はない)。パリ・コミューンが史上はじめてのプロレタリア革命であるなら、この小説は史上はじめてのプロレタリア文学の一つといってもいい。そのため(あるいはそれにもかかわらず)、ヴァレースの作品には多くの点でフランス・ブルジョア文学、とりわけスタンダールの影響が見られ、主人公のジャン・ヴァントラースをジュリアン・ソレルに擬する評価も生まれるのである。だがこうした比較は全くのナンセンスと言うべきである。ヴァレースは形式や文体において、ブルジョア文学、スタンダールの文学に多くを依存したかもしれない。またスタンダールほどには洗錬されなかったかもしれない。しかしスタンダールは次のようなことばを吐きえただろうか。
「ラ・マルセイエーズ、きみたちのいまのマルセイエーズの歌はわたしをぞっとさせる。ラ・マルセイエーズは国歌となってしまった。この歌はもう志願兵たちの心をとらえることはなく、ただ部隊を引っばっていくだけのものとなっている。それはほんとうの熱情によって、家畜の首につけられた鐘の音にすぎない」
「この長椅子の上に腰をおろし、この壁にもたれて立ち、この傍聴席に肘をのせているのが、革命である。労働服を着た革命なのだ! ここで労働階級のインタナショナル結社の会議が開かれ、労働協同組合の連合会の集会が行なわれるのだ。これこそ、古代ローマの中央大広場にも匹敵する。ロベスピエールに幻惑された人民に向かって、しまりのない雷のような声でダントンが、パリ裁判所の窓から投げつけたような、大衆をわきたたせる言葉がこの窓からとびだすかもしれないのだ」
本番の、革命の日々を刻々追っていく事件の進行にあわせて、大きな魅力となっているのは、コミューンの戦士たちが実名で登場(ヴァレース自身、毎日顔をあわせ議論し、行動していた人々が)することである。プランキ、シャルル・ロング、ミシュレ、グランジュ等々の“大物”ばかりでなく、どの街角にもいるジャックやマリーもおそらくヴァレース自身が関わって生きた人々なのである。
我々も、こうした日々を早く体験する時代を迎えることができるように!(Y)
(1983年6月26日『火花』第595号)
1996年6月30日『海つばめ』第587号【四面・読書】
《コミューンの内部を生き生きと――ジュール・ヴァレース著『パリ・コミューン』》
パリ・コミューンが生まれてから、今年で125周年を迎えた。
ナポレオン三世のクーデタによって成立した第二帝政は、プロシャとの戦争を引き起こした。闘いはプロシャの優勢で、ナポレオンはセダンで捕虜になったが、これを契機としてパリでは革命が起こり、共和政による国防政府が成立した。この間にもプロシャ軍は進軍を続け、パリを包囲した。労働者の闘いの発展を恐れたティエールの国防政府は、パリや地方の抵抗を無視して、ひたすらプロシャとの和平を急いだ。
国防政府の裏切りに怒ったパリの労働者、市民は立上り、社会主義的共和国政府の樹立を宣言した。これがパリ・コミューンである。パリ・コミューンは、1871年3月18日から5月28日のわずか72日間の労働者の政権である。史上初めての労働者の政権であったパリ・コミューンの歴史的意義については、マルクスの『フランスの内乱』に詳しい。マルクスは、プロシャとの全面戦争には反対であり、労働者の蜂起は無謀だとして思いとどまるように警告した。にもかかわらず、コミューンが樹立されるとこれを支持し、その意義を見事に明らかにした。そしてマルクスは、プロシャと手を結んだティエールの軍隊によって壊滅させられた直後、「労働者のパリとそのコミューンとは、新社会の光栄ある先駆者として、永久にたたえられるであろう。その殉教者たちは、労働者階級の偉大な胸のうちに祭られている。歴史は、それを滅ぼした者どもを、すでに永遠の曝し台に釘づけにしている。彼らの司祭どもがどんなに祈っても、彼らをその曝し台から救いだすことはできないだろう」と、その偉業をたたえている。
本書は、パリ・コミューンの指導者の一人であったヴァレースの自伝小説である。解説によれば本書は、少年時代を描いた「生いたち」、青年時代の「大学入学資格者」、そしてパリ・コミューンの「決起」の三部作のうち、青年時代を除いた部分の翻訳である。
ヴァレースの父は公立高等中学校の自習監督をしていたが、ヴァレースは食べるものも満足に口にできないような極貧の少年時代を送った。貧困のうちにも大学入学資格を取得し、学士号をとるためにパリで生活を送るようになった。そして彼は政治、社会への関心を強め、1851年のルイ・ナポレオンのクーデタの時には、独裁者に反対してバリケード戦に参加した。この事件はヴァレースが社会主義者としての行動へと踏み出していく決定的な第一歩となった。その後、国家の追及を逃れて故郷に帰るも、再びパリに戻り、生活の糧をえるために区役所の戸籍係になった。そのかたわら小説を書き、新聞にはエッセイ、短編を掲載ジャーナリストとしての地位を確立していった。
彼は、プロシャとの戦争では包囲されたパリで銃を取り戦闘に参加した。そしてパリ開城後は、彼は抵抗を呼びかけ、市民の決起を呼び掛けた。本書の「決起」は、この頃のことから書き始められている。
コミューンでは、彼は中央委員の一員として、蜂起の指導者として活躍するが、本書ではコミューンの意義がことさら述べられているわけではない。小説とはいっても日記風で、ヴァレースが見たり体験したこと、彼の周りに起こったことがらが時を追って書かれている。だがここには、事件をみずから体験した者ではなければ書きえない、いきいきとした叙述が随所に見られる。例えば、インタナショナル結社の集会についてはこう書かれている。
「ここで労働階級のインタナショナル結社の会議が開かれ、労働協同組合の連合会の集会が行われるのだ。……人々の態度は、大革命当時の人たちのようにすざまじくはない。どんな町の片隅にも、あたりをふるわせるサンテール(93年のパリ国民軍指揮官)の太鼓の音など聞こえない。目かくしをして、短剣の切っ先を伏せて誓いあうような、秘密めいた陰謀の影も見あたらない。
素朴で力強く、鍛冶屋のような腕をしたシャツ一枚姿の労働、手にした仕事道具を闇のなかにひらめかせ、《おれはだれにも殺されないぞ! おれは殺されない、おれはしゃべるんだ!》と叫ぶ労働が、ここにいる。
その労働が発言したのだ!
インタナショナルの支部の人たち、共通の目的のもとに集まったすべての社会主義者たちが集合したのである。4時間つづいた討議から、新しい力がようやく浮かび出してきた――二十区委員会。……
わたしたちは全市にわたって、ただちに連合体の綱をはりめぐらした。……この連合体こそ、歴史のなかにどれほどか大きな波乱を巻きおこすものとなろう。
話し合い、行動しようとし――必要とあれば闘うことも辞さない――ているのは、四十八の陋屋から出てきた四十八人の貧乏人である――貧困のなかで、闘うために連帯責任を負ったパリすべての街の名において」
ここには、ダントンなどが活躍していた1789年のブルジョア革命当時のような大げさな身振りや陰謀めいた野心もない。素朴であるが、虐げられた労働階級が、闘いを貫こうとする断固とした力強い決意と団結が見事に活写されている。
ヴァレースは、最後のバリケードで反革命のティエール軍隊に抵抗した後、辛くも逃れ、イギリスに亡命して、本書を書いた。ここに出てくるヴァントラースとは彼本人である。ヴァントラースは、自ら参加したパリ・コミューンを描くことによって、労働者の生きていく道を指し示している。
(中央公論社版)
(田口)