パブロ・ネルーダ■「チキカマタの夜」
チリ人民の苦悩を歌う……しかし、民族主義をこえず
パブロ・ネルーダは、アジェンデが殺され、チリ人民連合が崩壊した二週間後に、69歳の生涯を閉じた。チリ共産党員であり、長い亡命生活と地下生活を送り、一時は人民連合の大統領侯補とさえ目されたこの詩人は、きわめて膨大な詩を書き続けた。
ネルーダの詩の基調は、彼の代表作である詩集「大いなる歌」に端的に表現されているように、南アメリカの「多様な生活と現実」を反映することであり、そこでは、「新大陸の大自然の地理、動物、植物がうたわれ、南アメリカ諸国と諸国人民のいりくんだ民族の歴史、征服者たちに反抗してたたかった戦士たちの英雄像などがうたいこめられている」(大島博光)。その意味では、ネルーダはまさに、南アメリカの民族詩人、国民詩人といいうるであろう。そしてこのことは、チリ革命においても露呈したように、南米(チリでも)における生産力の発展の低さ、アメリカ帝国主義によって植民地的に支配されてきたことの反映である。彼の詩は、チリぼかりでなくブラジルやアルゼンチンなどでも、民族歌手を通じて人民によって唱われてきた。
だが同時に、チリは南米諸国のうちでも、最も資本主義的生産が発展しており、したがって、労働者階級が最も勢力を得ていた国であった。ネルーダの詩はこのチリ労働者階級の闘いをも反映している
この詩のテーマとなっている「チキカマタ」とは、いうまでもなくチリで一、二を争う大銅山の一つで、米アナコンダ社に支配されていたチキカマタ銅山のことである。
「もう夜はふけて/鐘の内側のように暗かった/わたしの眼の前に、厚い壁がそそりたち/銅鉱がぼた山の上にひっくり返されていた/ここの大地に流された、ひとびとの血は/まだ、なまなましかった」
ネルーダは40年代後半にこの詩を書いている。当時、ネルーダはおそらく、オルグのためにこうした鉱山労働者の間をまわったのであろう。
「一歩一歩 影のような/案内人の手にひかれて/わたしは 組合事務所の方へ行った/7月で チリの寒い季節であった」
この「現代の地獄」にあって「坑道を掘っていたのは/ぼろを着て 空きっ腹をかかえた/孤独で、油だらけのひとびと」だった。ネルーダは「かれらの苦しみを分けもって」うたおうとする。
鉱山労働者の「苦しみ」は当時まだ労働者階級独自の階級闘争を組織して闘うまでに“純化”したものではない。チリはアメリカ独占資本に支配されており、鉱山労働者が「硫黄くさい手」で掘った富はチリを富ますことはなかった。
「がらんとした劇場のような坑道を/ひとは 掘りすすめていった/だが、岩のあいだの銅は掘りつくされて/噴火口のような 大きな穴が残った」
ネルーダのこの詩においては、まだ労働者階級の闘いの姿は直截には現われてこないし、鉱山労働者の意識もいまだ、アメリカ帝国主義による収奪に向けられているかである。
ネルーダはチリの被支配諸階級のおかれている状態をうたった。だがそれは民族主義的色彩がどうしても払拭されないものであった。だから、チリの72年の革命において同じ鉱山労働者について彼はこううたったのである。
「哀れな 不屈な祖国は 掠奪された銅鉱を/奪い返す時を 待たねばならなかった/チキカマタでもエルテニエンテでも/だから だれにも うなずけよう/勝利の旗を その手に 握るやいなや/サルバドル・アジェンデがさっと一挙に/北アメリカの強盗どもの あの鋭い/牙のもとから 氷遠に 銅をうばいとり/主権国チリの手に とりもどしたことが」
ネルーダは確かに「人民の木、革命の木」の詩をうたった。そして「この木を育てたすっぱだかにされた死者たち」をうたった。そしてそれは彼の数多くの詩でみごとに形象化されている。チリの労働者は、ネルーダの詩にあってはまだこの「死者たち」の一員にすぎず、革命の最大の源動力ではない。しかしそれが、チリ革命の悲劇をまねき、またネルーダ自身の死をもまねいたのである。(Y)
1984年2月26日「火花」第628号