ホセ・ソンブレ・プイグ■「ベルチリヨン一六六」
キューバ革命の前夜を描く……労働者の闘いと苦悩を反映
この小説は、「キューバ革命を描いた最初の小説」だといわれている。
タイトルの「ベルチリヨン一六六」は、一見すると地名のようにも思われるが、そうではなくて、「フランスの刑法学者アルフォンス・ベルティヨンの分類からとったもので、その第一六六の項目は、射殺された犠牲者となっていて、スパイの手にかかったものの名前を知らせる方法として採用された」ものである。その日その日の新聞の死亡欄には、例えば、「ギリエルモ・エスピノサ、59歳、ベルチリヨン166。カルロス・エスピノサ、18歳、ベルチリヨン166。……ノエリア・アパリシオ、10ヶ月、胃腸炎」といった具合に表示され、人々は彼らの知っているあるいは全く未知の何十人、何百人の人間が、バチスタによって殺されたことを知るのだ。
小説の舞台は1958年の夏、サンチャゴ・デ・クーバである。そして小説が終った直後の時期から、カストロの指導する7月26日運動を中心とするキューバ人民とバチスタ軍との最後の大戦争が、サンチャゴで行なわれ、半年後の59年1月にはキューバ革命が勝利することになる。
こうした革命的激動の予感を基調として、小説はかなりのアップ・テンポで展開する。共産主義者で人民社会党(のちの共産党)のオルグであり人民社会党――キューバ労働者を代表する――とカストロの率いる七月二六日運動との間で統一戦線を結成するためにサンチャゴに派遣されたが、バチスタの警察に発見され銃殺される黒人(名前は最後までわからない)、シェラ・マエストラのカストロのゲリラに加わろうとする学生のロランドとその恋人のラケルとその父母、爆弾を投げようとして未遂のままバチスタの警察に捕われ、拷問の末に殺される学生のカルロスと彼の父でかつては労働運動の指導者だったギリエルモ、臆病者の洋服屋でスパイに殺されるキコと彼の妻などがこの小説の登場人物である。すなわち、バチスタと闘おうとする人々、バチスタによって苦しめられ辱しめられているサンチャゴの下層階級が、そしてバチスタの支配の下での彼らの生活と闘いが、この小説の主人公なのである。おのおのは直接の連関は持たないこれらの人々の闘いと生活が、まるで映画の一シーンずつのようにセクション毎に展開され、全体として、サンチャゴ・デ・クーバ――ひいてはキューバ全体に拡散していく――での労働者人民の反バチスタ闘争の深化と拡大を表現していくのである。
これらの人々は――やや類型的とはいえ――、あるものは勇敢で思慮深く、またあるものは若さゆえの無謀さもあり、さらにはかつての闘いの敗北からすっかり屈服させられてしまっているものもある。そしてこれらの登場人物のうち、警官を殺して銃を奪い、カストロの下へ走るロランドとラケルを除いては、殆んどがバチスタによって殺されてしまう。しかし、ロランドとラケルは「ベルチリヨン166」によって殺された人々の熱い血を背負って革命戦争に加わるのである。それはまさにキューバ革命の前夜なのだ。
どこの“後進国”革命においてもそうであるように、この時のキューバ革命はまさに労働者農民の統一戦線によるものであったろう。カストロ自身が、この時には自らをまだマルクス主義者(スターリン主義者?)と自覚していなかった(マルクス主義の優位は認めつつも)。そしてその限り、この小説はキューバ革命の一年後に発表されただけあって、スターリン主義的なステロ・タイプからも自由であり、キューバ革命の息吹きを生き生きと伝えていると同時に、登場する唯一の共産主義者である黒人が無名であることが何か暗示的でさえある。それは、作者のプイグが当時は40歳の独学の労働者であり、この作品が彼の処女作であることにもいくらかはよっているだろう。そしてまた、ここには農民――カストロを支持し、ゲリラ戦を可能にした一大勢力――さえ殆んど登場せず、小説の場面がすべてサンチャゴ・デ・クーパの労働者街であることも、作者の出身階級によるのかもしれない。(Y)
1984年3月18日「火花」第631号