エメ・ア・アストウリアス■「緑の法王」
米国大資本を告発……中南米の「法王」として君臨
「禄の法王」(グリーン・ポープ)の「緑」とはバナナの葉のしたたるような緑のことである。これは、中南米のグアテマラに広大な農園をきずきあげ、現地人の搾取と支配の上にウォール街の王者の一人にのしあがるまでの一米国人の物語りである。
この小説の第一部と第二部はいってみれば二つの小説ともいえるはどにちがっている。
第一部では、野心家のゲオ・メイカー・トンプソンという元船乗りが、19世記すでに郵便物の無償輸送を餌にグアテマラのバナナ産業に進出していた果実会社(小説の中では「トロピカル・プラタネーラ」社。モデルは「ユナイテッド・フルーツ」社=1889年誕生)に加わり、そのへゲモニーを握って農民から奪った土地に広大な農園をつくりあげ、あらゆる悪らつな行為を重ねながらバナナ栽培を基礎にした一大植民帝国をきずきあげていく様子が描かれる。
主人公のゲオがグアテマラに来たとき、彼は現地人の娘マヤリーと愛し合うが、しかしマヤリーはゲオが現地人から土地を奪い、「緑の法王」になる野心を捨てないことを知るや、かえってゲオをはなれ、土地接収に対するインデイオ農民の反対運動を指導するチーポ・チポーのもとに走り、共に農民を煽動し最後にはモタグマ川に身を投げて死ぬ。
アメリカの大独占は現地のインデイオから土地を買ったのではない、というのは彼らは土地を売ろうとしなかったから。大独占は軍隊の力をかり、あらゆる卑劣な策略と陰謀により、ただこうした手段によってのみ、農民をおい出し、土地を手にし、大農園をつくりあげ、インディオを農園労働者にかえることができたのである。
第一部の前半はアメリカ大資本のこうしたやり口とインディオの反抗が語られている。
「村がさびれたのは、ほかでもない、おおかたは土地っ子の原住農民が<トロピカル・プラタネーラ社>に追い立てをくわされたからだ。今までは木一本切る権利も、草一本植える権利もなかった、そんなよそ者の会社に、土地の人間が追い出されてしまったのだ」。
「かつてスペイン人は、インデイオたちの色塗りの板やイチジクの樹皮に字をきざんだ写本や、偶像や紋章などを焼き払った。そして四百年後の今日、それと同じ火が、こんどはキリスト像と、聖母像、聖アントニオ像、十字架、祈祷書、数珠、聖骨、聖牌などを、ことごとく火燈のうちに消し去ろうとしていた。外には野獣のうなり声、内には蓄音機の音。外には大自然、内には写真。外にはふくいくたる香気、内にはウイスキーのビン。ドルという別の神が登場したのだ。<経済支配>(ビッグステイク)という別の宗教が生まれたのだ」(上、114〜5頁)。
十年、十数年たち、ゲオは農園全体の最高責任者となり、その権益を一そう確実たらしめるために、グアテマラの合衆国への併合を(24番日の州!)さえたくらむが、――この併合は、彼にグアテマラの支配権を支えるはずだった――しかしこの野心も考古学者を称して農園に入りこんだリチヤード・ワットンが、会社が「現地でやった悪事や、迫害や、買収や、犯罪もみんな洗いざらい書いてある」報告書を国務長官に提出することによって挫折し、彼自身社長就任を辞退して“引退”し、ここで第一部は終る。
第二部は、いったん「緑の法王」になることを断念したゲオが、富豪の株主で、小規模農民を協同組合に組織したストーナーという男の遺産をもらった、その共同経営者らを懐柔し、この競争会社におされて危機に陥っていた自社の株を買い占めることで、ついにウォール街の王者の一人になりあがる道のりが措かれるが、しかしリーノというゲオの懐柔を拒否して生きる自由な農民も一つの典型として登場する。
「緑の法王」はまさにアメリカの大独占の暴虐とそれに支配され搾取される中南米の現実の告発であり、同時に現地農民の抵抗の物語りである。
中南米の物語りは、それがアメリカ帝国主義の本質的側面をその野蛮さと非人間性を赤裸々に暴露しているという点でも、また現在闘われている中南米の人民の闘いへの理解を一そう強めるという点でも、さらにはこの現地人民がかつてのあの偉大なマヤ文明をきずいた民族の後裔であるという点でも、我々の興味を刺激し、限りない夢にさそうのである。 (H)
(今回でもってこの連載を終ります。担当は林、葉上両同志でした)
1984年5月20日「変革」第2号