ツルゲーネフ「父と子」
すべてを否定……新しい革命家像
1983年2月6日「火花」第576号


 ツルゲーネフは何人もの革命家――革命家というのが言いすぎなら反体制派――を小説に描いたが、「何をなすべきか」のラフメートフと共に1860年代のロシアの学生たちが自分たちが見習うべきかがみとしたのが、「父と子」のバザーロフであった。
 バザーロフはまだ自覚した革命家ではなく、単なる自然科学者であり医者の卵であるにすぎない。しかし彼は徹底してニヒリストである。実にニヒリストという言葉はツルゲネーフのこの小説から人口に膾炙(かいしゃ)されるようになったのである。
 「ニヒリスト……それはラテン語の nihil つまり無から出た言葉だな。……とすると、この言葉は――何ものも認めぬ人間――という意味かね」
 「ニヒリストというのは、いかなる権威の前にも頭をさげぬ人、いかなる原理も、たとえその原理が人々にどんなに尊敬されているものであっても、そのまま信条として受け入れぬ人をいうのです」。
 だからバザーロフは一切を――宗教や哲学や芸術を否定する(「芸術は金もうけです、いやそれより痔(ぢ)の患者をこさえますよ!」)、そして自分が信奉する唯一のものである「科学」さえも批判的に取り扱っている(「立派な化学者なら、どんな詩人よりも二〇倍も有益ですよ」「科学とは一体何でしょう――科学一般とは?……科学にもいろいろあります」云々)。
 バザーロフはすでに完全に平民(雑階級)出の反体制派インテリ(ラズノチーネツ)であって、『ルージン』や『貴族の染』の主人公のような貴族出身の反体制派、言葉と行動の一致しない、根なし草の「余計者」ではない。
 彼は誠実で力強く、信念にみち、立派な意志の力をもち、どんな権威(とりわけ貴族とその文化の権威)にも属せず(ニヒリズムの本当の意義)、すべてを理性の審判にかけ、科学の力を深く信じている。彼は「ロマンチシズム」つまり個人的な愛情によって自分の意志が左右されるのを認めない。彼は「父」たちに、プーシキンではなくピュヒネル(ドイツの機械的唯物論者)を読めと勧めるほどに徹底している。
 彼の貴族――当時の支配階級――に対する軽蔑は容赦ないものであり、「ゴミみたいな奴さ、陣笠貴族だよ」と公然と言うことができる。「『貴族主義(アリストラチズム)、自由主義(リベラリズム)、進歩(プログレス)、原理(プリンシープ)』とバサーロフはかまわずに言った。『どうです、この外来の……しかも役に立たぬ言葉の氾濫!』」。
 これは言うまでもなく、支配階級のふりまく改良主義や「進歩」への手厳しい批判であり、バサーロフが宮本、不破らと全くちがった人間であり、共産党の俗物的な“革命家”よりも百倍も革命的であったことを教えている!
 しかしバザーロフの革命観は不十分である、というより明確なものは何もない。彼は社会変革においても、自然科学に大きな役割を与えている。
 「あなたはすべてを否定する。いや、もっと正確に言えば、すべてを破壊する……だが建設も必要じゃありませんか」
 「それはもう、われわれの仕事ではありません……まず整地が必要なのです」
 疑いもなく、バザーロフは六〇年代とそのあとの“人民主義派”の革命家の一つの典型であり芸術的形象である。
多くの欠陥をもつとはいえ、バザーロフを、力強く、肯定的に描いたのはツルゲーネフの功績としなけれはならない。
 『ルージン』などの『余計者』から、『その前夜』のインサーロフやエレーナ、『父と子』のバザーロフ、そして『処女地』のソローミンやマリアンナと、ツルゲーネフの描く反体制派を追っていけば、ロシアの時代時代の革命家のイメージをもつことができ、次の時代のレーニンらポリシェヴィキの登場の必然性といったものも了解できるだろう。
 亡命してロシアに恋いこがれていた(?)レーニンは、クルプスカヤの証言によれば好んでツルゲーネフを読んだそうである。ツルゲーネフの本性が『ルージン』らの余計者(貴族的反体制派)に近いとしても、その芸術は時代を反映することで、我々にロシアの革命家のいくつかのイメージを与えてくれる。(H)