ネクラーソフ■「デカブリストの妻」
偉大なる革命の詩……専制の犠牲者に熱い愛情
1983年2月20日「火花」第578号
いつ、何回読んでも、魂の底の底からゆりうごかされるような感動をおぼえる――それがネクラーソフの「デカブリストの妻」である。
1825年12月14日、ツァーリズムの反動化の中で、西欧諸国におけるような解放を望み、若い貴族たち(近衛聯隊の将校ら)は農奴制打倒、憲法制定のスローガンの下、反乱に決起した。
反乱は失敗し、多くの貴族はとらえられた。数百名の逮補者のうち、五名が死刑、88名が徒刑、18人が流刑、その他何らかの罪を問われた者数千人にのぼったのである。
徒刑囚、流刑囚はシベリアに送られたが、そのうちの九人の若い夫人は極寒の荒れはてたシベリアまで夫をしたっていき、長年夫と辛苦を共にした。1856年許され、老婆として故郷へ帰ることができたのはわずか3人であった。
ネクラーソフは1870年代、人民主義運動の高まりを背景に、長詩「公爵夫人トゥルベッカーヤ」を、次いで「公爵夫人ヴォルコーンスカヤ」を発表し、この二つの長編が「デカブリストの妻(たち)」を構成している。
二つの話とも、夫人が夫をしたい、夫の闘いの意義を理解し、住みなれた安楽な貴族の生活をすてて、シベリアの夫のところにたどりつくまでの物語りである。
これらの話は発表されると当時の革命派であった人民主義者の青年たちに大きな感動を与えた。というのは、それが単にデカブリストとその妻たちへの頌歌にとどまらず、何よりも、当時専制の儀牲者となっていたチェルヌイシェフスキーらへの真実の同情と愛情の表明であり、専制と貴族社会への告発であること、さらにはそれとの闘いこそが高い道徳性を獲得できることの証言である、とうけとられたからである。
トゥルベッカーヤはシベリヤヘの道を閉ざそうとするイルクーツクの知事に言う。
「あそこ(ペトログラードの貴族社会)では 人間が生きながらくさりはてておりますわ――
立ち歩く棺桶、男たちは――ユダのあつまり
そして 女たちは――奴隷。
あそこにあるものは何? 偽善
うちこわされた名誉
つまらない悪意の勝利
そしてけちくさい覆讐。
……いえいえ どっちへでもころぷ鈍い人たちを わたしは 見たくありません」。
ヴォルコーンスカヤも同じである。彼女は子供さえ残し「けれど大きくなって おそろしい秘密を彼が知った時/わたしは信じます――母の気持ちを理解してきっとゆるしてくれるでしょう!」と、旅立っていく。プーシキンは彼女をはげまして言う。
「いらっしゃい、いらっしゃい!
あなたの心は温く あなたは雄々しい忍耐力に富んでいる
……
お信じなさるがよい このような心の清らかさに このいやな上流社会はあたいしない!
このむなしさを きよらかな愛の仕ごとととりかえられる人々はしあわせですとも!
上流社会とは何? いとわしい仮面舞踏会!
そこでは こころは冷えはてねむっている
そこでは打算的な 永遠の冷やかさが支配して燃えさかる真実をおおいかぷせる……」
勿論、これらの詩は単に純潔な強い愛情をうたっただけのものではない。ツァーリズムの専制への怒りとデカブリストヘの深い愛情を底にひめ、それを根本基調にしているのであって、いたるところに、ツァーリの専制と貴族社会の腐敗堕落の告発、民衆への信頼と愛情が息づいている。
「わたしは話したい
ロシアの民衆への感謝のおもいを!
旅の途中でも徒刑地でも
いつでも 辛い苦しい時には
おお 民衆よ! わたしは、力にあまる重圧を
けな気にも お身といっしょに運んだのだ。
どんなにたくさんのみじめさが おのが身にふりかかっていようとも
お身はひとの悲しみをわけもった
…
…、…あのかざり気のない人たちは
わたしたちのためにしてくれる骨折りを 何とも思わないばかりか
誰一人として、わたしたちのさかずきに にがさをつぎ足す者はなかった。
ねえおまえたち ただの一人もなかったのだよ!……」
この詩に対して、反動どもは事実とちがう、夫人たちはもっと保守的であり、ネクラーソフは60年代の革命家のイメージを20年代の貴族夫人に投影したと誹謗したが、仮にそうした面があったにしても、それはこの革命詩の偉大な価値をいささかもそこなうものではない。(H)