ゴンチャロフ「オブローモフ」
  支配階級の退廃を描く
1983年2月27日「火花」第579号


 あるいはこの小説は、若きドブロリューボフの評論、『オブローモフ主義とは何か?』がなければロシアの革命的民主々義的文学の陣営からそれほどの注目を浴びなかったかもしれない。
 オブローモフは、これまでに我々が取り上げてきたいくつかの作品の主人公たちとは全く性質の違った、どの点をみても首まで地主的・貴族的な生活習慣にどっぶりとつかった人物である。彼は、訳者の総括するところによれば、「ほとんど病的といっていいほどな意志薄弱、それに起因する懶惰(らんだ)、倦怠、生きた興味と希望の欠如、生活に対する危惧、一切の変化に対する恐怖」を主な性格にしている。主人公が無気力な人間であるばかりではない。この小説にはおよそ劇的な事件などはなく(オブローモフの失恋はあるにはあるが)、第一部などはオブローモフがベットに横たわったまま(朝めざめてから夜眠るまで!)の一日で、延々埋め尽くされている。全く“退屈”な小説、ちょっと中断すれば一体どこを読んでいたのかさえ失念しかねないような小説ではある。
 ドブロリューボフも、「オブローモフの怠惰と無気力――これが彼の物語全体を通じての行動のただ一つの原動力である。どうしてこれを四部からなる作品にひきのばすことができたのであろう!」と自問し、次のように答えている、「そこにはロシアの生活が反映している。そこには容赦のないきびしさと真実さとをもってはっきりとえがき出された、生きる現代のロシア人のタイプがわれわれのまえに示されている。そこには…あたらしいことばが語られている。このことばとは――オブローモフ主義である」と。
 この「生きる現代のロシア人のタイプ」が、農奴制にあぐらをかき、何百年もロシアの農民=勤労人民を収奪してきた地主・貴族階級、ロシアの支配者階級であることは明らかである。ドプロリューボフは、「イソップのことば」で語らねばならず、このオブローモフ主義を「国民的タイプ」としていることから、何かスラブ民族の一般的特性であるかに論じる評者もいるが、ゴンチャロフ自身、オブローモフを、執事のザハールの妻や恋人のオリガ、ドイツ系の友人シュトルツらの活動的・進取的な人々と截然と描きわけており、このような論は成立しないだろう。
 オブローモフは、プーシキン以来、何度となくロシアの小説の中に登場してくる「無頼人」(ドブロリューポフ)プーシキンのオネーギンやツルゲーネフのルージン、レールモントフのペチョーリン(『現代の英雄』)などの系譜の最後の、完成した姿であるとも言えよう。オブローモフ以前のこれらの「タイプ」は、それぞれロシアの農奴制、ツアーリの体制の後退の過程で吐き出されたような人間たちだが、しかしオブローモフよりもいくらか“自覚的な”活動(社会への消極的な反抗やニヒルぷってみせるなど)も行ないえた。しかしオブローモフとなると、どちらかといえばこれは呆けたといってもいいほど(人はそれほど悪くないのである)である。家父長的な家庭で(だが決して無教養ではない!)、何人もの従僕にかしづかれ、小さい頃から靴や下物まで着せてもらい、他人の労働の成果を完全に浪費することでのみ生きることがその人間の人格的特性にまでなった時、人はオブローモフになる。彼は社会に対して何事も働きかけることをしない。無為の人間が何百・何千家族もの勤労人民の労働の上に君臨して全く無反省である、ということはと、その社会の退廃、その社会がもはや存在理由を失ないつつある、ということを端的に表現する事態があろうか。
 ゴンチャロフの小説は「純粋客観小説」といわれている。文学理論上、はたしてこの「純粋客観性」が共にその時代と階級闘争の現実をリアルに反映することができるか、という点については議論の生じるところである。また実際、ゴンチャロフ自身、チェルヌィシェフスキーやツルゲーネフなどが描いたロシアの革命家たちを意識的に描こうとしたとも思えない(オリガと『何をなすペきか』のヴェーラを比較せよ!)。しかし『オブローモフ』一巻がロシアの支配階級・知識階級の衰弱した姿をよく描き出したということはまぎれもない事実で、ここにこの小説の意義がある。(Y)