トルストイ■「復活」
傾向性と芸術性を両立――支配階級の腐敗全体を告発
1983年3月6日「火花」580号
トルストイの「復活」を前にして、私は途方にくれる――この驚嘆すべき書物をいかにこの短い欄で紹介すべきかと絶望にかられるからである。
「戦争と平和」は深い感動を与えてくれ、「アンナ・カレーニナ」も又私を喜ばせた。しかし「復活」に到ってはじめて、私は心からトルストイの偉大さに驚嘆し、わが意を得た思いがしたのだ。
芸術としては「復活」は前二者に劣る、筋や主人公のニュフリエードフの人格も不自然で無理がある(主人公は老道徳家トルストイの代理人でありロボットだ)云々の評価も当然ありうるだろう。
事実、小説の筋としては単純で、貴族の青年が、かつて誘惑して捨てたカチューシャが倫落の女になっているのに偶然出合い(彼女を裁く裁判の陪審員として)、自分の“罪”の深さをがく然と悟りシベリヤに流されるカチューシャの苦しみを少しでも軽減しようと、自らも貴族の生活を半ば投げうって彼女を追っていくといったものである。
この書を真に偉大なものにしているのは、こうしたロマンスではなく、トルストイがこれを明確な「傾向小説」として、つまり当時のロシアの支配階級とその体制の全体、その腐敗堕落の全体をとことん暴露しようという確固たる目的意識をもって、書いていることである。
トルストイの暴露と非難は容赦ないものであり、徹底的である。「復活」は三篇に分かれているが、第一篇では国家権力とりわけ裁判所とその機能が、第二篇では地主制度とその搾取による農民の窮状が、第三篇では監獄制度の不合理性や囚人虐待や監房の実態とかが、まさにトルストイの怒りの筆であばかれ、糾弾されているのである。
それは実際、19世紀後半のロシア社会の真実の姿であり、その絶望的な抑圧体制の全体の暴露、いやむしろその告発なのであり、この体制の非道徳と非人間性と不合理を絶叫するトルストイの声がなまできこえてくるような小説なのである。彼はまさに一切を、国家も官吏も公けの宗教も裁判も監獄制度も地主制度も貴族社会もすべて否定し、その矛盾や腐敗、非合理をあばき出してやまない。
彼は罪人たちについて書いている。
「これらの人々はすべて、正義を破壊したり無法を働いたりしたために捕縛され、収監され、追放されたのでは決してなく、ただ彼らが、役人や富者が人民から搾取した富を自由にするじゃまをしたからにすぎない……」
「正義、善、法律、信仰、神等々に関するこうしたすべての言葉が、ただ言葉にすぎなくて、もっとも野卑な利欲と残忍をおおい隠しているなんて、そんなことがありうるだろうか」(河出書房新社版、337頁)。
いや、「復活」からは引用することはできない、というのはそれは際限のないものになってしまうからである。これは読者自身に読んでもらうしかないだろう。
カチューシャはシベリヤに送られる途中、人民派の革命派と行動を共にすることになり、「何の努力もなく、きわめて容易に、これらの人々を導いている動機を理解したばかりでなく、民衆出の人間として心からそれに同感」(同412頁)することとなり、革命家の一人(シモンソン)と精神的に結ばれて、“悔い改めた”貴族たる主人公と別れるところでこの小説は終っている。
トルストイは、この書では革命家に大きな同情をよせ、多くの魅力あふれるロシアの革命家の姿を――マーリヤ・パーヴロヴナ、シモンソン、クルイリツォーフ、ナバートフ、コンドラーチェフ等々を、さらにはスターリンの“原型”ともいえる(?)ノヴォドゥウォーロフを、我々に残してくれている。
「復活」は明瞭に「傾向小説」である――しかし私は断言するが、彼の“暴露”はまさに芸術的に最高の傑作であって、人は決してこの小説の非芸術性を云々することはできないであろう。
勿論、人間への絶対的な“許し”を救いとしてもち出すトルストイの結論はばかげており「坊主主義」でしかないが、「ロシア革命の鏡としてのトルストイ」の意義は不滅であろう(トルストイについて書いたレーニンのいくつかの論文もあわせて読まれたい)。(H)