ドストエフスキー■「貧しき人々」
不幸な人々へ深い同情……ヒューマニズムの限界も示す
1983年3月20日「火花」第582号
レーニンが「反動的」と言ったドストエフスキー――といってもレーニンはごくついでに言ったにすぎないのだが――をとりあげるのには若干のためらいがなしとしない。しかし「貧しき人々」は、当然とりあげられてしかるべき価値を持つであろう。
ドストエフスキーのこの処女作は、直接にゴーゴリの「外套」につながる小説である。このことは、この小説の主人公が「外套」の主人公と同じくまずしい小官吏であり、しかも「大したものではない写字という仕事」(新潮文庫82頁)についているという一事からも明らかであろう。作者自身が、「我々はみなゴーゴリの『外套』から出て来た」とも言っている。
中年を越えた貧しい孤独な小官吏ヂェーヴシキンと、その遠縁にあたるあわれな孤児の娘ワーリニカの間で交された手紙が、この小説のすべてであり、二人の関係は――従ってこの小説も――ワーリニカが、俗物的な地主商人であるブイコフにとつぐことによって終りを告げる。
この小説は、原稿に目を通したネクラーソフやベリンスキーを驚嘆させ、その才能を激賞させたという。ドストエフスキーはこの一作によってたちまち有名な作家の列に加えられた。それほどに、この小説は心をうつヒューマニスティックな何ものかがある。
主人公の二人の男女の間にあるものは深い、献身的な愛情である――しかしこれはいかなる愛情であろうか。貧しい、よるべのない、きよらかで孤独な二つの魂の中に宿ったこの愛は――その結末が悲劇的であればあるほど――純粋な強さをもって、感動的に読者に迫ってくる。
小説をつらぬくものは、表面は何の価値もないようにみえるみじめな貧しい人々、不幸な人々への作者の深い同情であり、愛情である。
「どうぞ、不幸にもなんにも動じない、立派な人になって下さいまし。貧乏は罪悪にあらずということを忘れないで下さいまし。それに何を絶望することがありませう――こんなことはみな一時のことじゃありませんか」(女より男へ、164頁)。
「第一にあなたという人を知ったからこそ、私は自分自身をよく知るようになり、あなたを愛するようになったのです。私の天使よ、あなたを知るまでは、私は孤独で、まるで眠っているようなものでした。この世に生きてるものではなかったのです。彼ら、私の敵どもは、私の姿形まで無作法だといって、私を馬鹿にしましたので、それで私も、自分を馬鹿にするようになっていたのです。みんなが私を愚鈍だと言いましたので、私も本当に自分は愚鈍なのだと思っていました。ところがあなたが現われて、私の暗の生活に光明を投げて下すったので、私の心も魂も急に光り出し、私の心は平安を得、自分も別に他人より劣ってはいないのだということを知りました。ただ、これといって別に光ったところがなく、光沢もなく品格もないけれど、ただしとにかく自分も人間だ、心にしても考えにしても、人間に違いないということを知ったのです」(男より女へ、168頁)。
「貧しき人々」をよんで、我々は、一体なぜこの小説を書いたドストエフスキーから後年の反動的ドストエフスキーが生れたのか、と疑うのである。彼は「悪霊」の中では無神論的唯物論や革命家と闘うことを自らの課題とし、又数々の大作の中で宗教的な神秘主義、キリスト教的な温順と無抵抗を説教するに到ったのである(といっても、彼はむしろ「悪魔の」味方たちすなわち「罪と罰」のラスコーリニコフ、「悪霊」のスタヴローギン、「カラマーゾフの兄弟」のイヴン等々を生き生きと描いている!)。
ドストエフスキーは1849年、空想的社会主義の組織と関係したカドで死刑を宣告されるが、死刑直前に許されてシベリヤへ流され、この数年間の体験の中で社会主義や無神論をすてて、深く宗教的な人間に脱皮したが、勿論「貧しき人々」の中にもその後退の萌芽はある。
ドストエフスキーの一生はもし人がどんなにヒューマニズムの立場にあろうとも、その立場を科学的社会主義の立場に止揚しないなら、結局は反動に転落し、思想的に堕落せざるをえないことを教えている、といえないだろうか。つまりそれは「ヒューマニスト」への警告でもある。(H)