ゴーリキー■「母」
労働者の闘い描く……学ぶべき教訓は無限
1983年3月27日「火花」第583号
やっと、労働者革命家(社会民主党員)の登場である。
デカブリスト(十二月党員)やラジノチーネツ=人民主義者の闘いのあとを受けて、ロシアではマルクス主義で武装し、産業労働者の階級闘争に立脚する社会民主主義(共産主義)者の革命運動が開始され、発展しはじめた。
ゴーリキの「母」は丁度この時代(1902年)の労働者の闘いを素材にしており、自覚した労働者革命家の日々の生活、その目ざめ、その思想、その闘いを描いた小説としてきわめて意義深い、「時宜をえた」小説である。
主人公は工場労働者パーヴェルの母である――しかし実際には、社会民主党に所属して闘う労働者たちこそ本当の主人公である。これらの労働者たちの母としてのみ、「母」は主人公なのである。
飲んだくれの、専制や搾取と闘うすべも知らず身をもちくずした乱暴者の労働者の息子であったパーヴュルは、父親とちがって社会主義に目ざめ、近くの市の社会民主党委員会と結びつき、自覚した労働者に育っていく。彼は理論の学習から実践へと移って行き、彼の家へは多くの同志たちが集まるようになる。
「母」はこのことを喜びもし、恐れもする。息子が乱暴だけして死んだ父親のようにならず、まじめ青年に育ったのはうれしいが、しかし専制と資本の支配の打倒をめざす革命家の道を歩みはじめたのが心配でたまらないのだ。
彼女ははじめ、息子たちの考えや目的を信じなかった。
「心の底では、彼らが自分の流儀で人生を立てなおすことができるとか、すべての労働者を自分の火にひきよせる力があるなどと信じていなかった。……こんな長い苦しい道を進む者はいくらもいないし、その道のはてにおとぎ話のような人間友愛の王国をみとめる目もいくらもないだろう。……母の目にはみんな子供みたいに写っていたのである」(角川文庫上169頁)
労働者たちは、自らの闘いを公然化し、闘争と社会主義の旗を高くかかげてメーデーを祝うことを計画する。それは専制と資本の圧制に反対する労働者階級の偉大なデモンストレーションとなるだろう。
この闘いは成功するが、専制の下では指導的な労働者はみな逮捕され、裁判にかけられ、シベリアに流されることになる。
小説の前半が、労働者の自覚、秘密の活動や公然たる闘いであったとすれば、後半は母の目ざめ、裁判での闘い、社会主義的労働者の闘いの大きな意義の強調である。
母は息子に学び、息子と労働者階級への深い愛ゆえに、息子のあとについて女性革命家へと成長していき、人々の前でも「真理」をしゃべることができるようになる。
「暮しが苦しくて、貧乏と無法におさえつけられ、金持とその手先どもの支配を受けている者ならば、一人残らず全人民が、彼らのために獄中でほろんでいき、死ぬほどの苦労をしている人々(社会主義的革命家――引用者)と合流しなければならないのだよ。その人々は私利私欲をはなれて万人の幸福への道のあり場を教え、嘘いつわりなくそれは苦しい道だ、というのだよ。そして誰ひとり無理に引っばりこむようなことはないのだが、それでいて一度その人たちと肩を並べてみるともう決して離れることはできないし、これこそ正しいことだ、ほかの道ではなくて、これこそ本当の道だ!と悟るのだよ」(下169頁)。
我々はこの小説から、ロシアのプロレタリア革命家たちがいかに目ざめ、いかに闘ったかを学ぶことができる。彼らはツァーリズム専制という我々に百倍する困難な条件下にありながら、真の自覚をもって立派に闘いぬいたのだ。このすぐれた労働者革命家たちの勇敢で自己犠牲的な闘いなくしてロシア革命のあの大勝利はありえなかったのだ。
この小説は、宮本流のけちくさい「自主独立」ではなしに、プロレタリア国際主義を高らかに謳いあげている点だけでも大きな価値を持つ!
「とうの昔すでに、地上に正義を得ようと志を一つにして、固く決心し、無数の苦労でもって自分の決心を照らし明るく楽しい新生活の勝利のために自分の血を何のように流したところの友だちを世界中に見つけて、内心では、理性と感情で世界と一体となっていた。……
『あらゆる国々の労働者が頭をもたげて、断乎として、もう沢山だ!おれたちはもうこれ以上こんな生活はいやだ!という日が必ずやって来ます!』」(下63頁)(H)
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ゴーリキー著『追憶』●海つばめ620号(97年3月9日)