マヤコフスキー■叙事詩「レーニン」
ロシア革命叙事詩……詩の全てを「攻撃する階級」=プロレタリアートに捧げて
1983年4月3日「火花」584号
ロシアの文学は、プーシキンに代表される古典的な貴族文学、次いで、「人民主義」運動と多かれ少なかれ関連をもつ“傾向主義”文学、そして19世紀末のデカタン主義と象徴主義の文学をへて、プロレタリア革命運動と1917年の革命の時代の文学へと移って行く。
散文でこの時代を代表したのがゴーリキーだとするなら、詩ではマヤコフスキーだ。
彼は芸術家としての生涯を「未来主義」(フトゥリズム)からはじめている。すでに十代半ばの少年時代、ポリシェヴィキとして三回も逮捕された彼は、政治運動を一時断念すると共に、12年ごろより詩作を発表、未来主義者の一人として自らを位置づけたが、17年の革命勃発と共にたちまち、ロシア革命と内乱と“建設”を謳う詩人として頭角をあらわす。そして代表作として24年に叙事詩「レーニン」を、27年に同じく「ハラショー――十月革命叙事詩」を発表する。
叙事詩「レーニン」は、資本主義の歴史、マルクス主義の誕生の必然性、ロシア革命運動の歴史とレーニンの登場の意義、レーニンと党、ロシア革命の勝利と“建設”、レーニンの死と葬儀を、まさに詩の形式と芸術の高みでレーニンへの深い愛をこめて謳っている。こんな具合である。
ためて
くらって
ねるばかりで
資本主義は
ふくれあがり
うごけなくなった。
みうごきならず、
歴史のとちゅうで
世界によこたわった
じぷんの ねどこに
のびるように。
こいつは
どんなにしても
よけてはゆけない、
ただ ひとつの ては
爆破すること!
(国民文庫44〜5頁)
「ハラショー」には次のような詩句が見出される。小プルジョア社会主義者(社共)を暴露するフレーズだ。
そう、私は
王冠や
紋章ばりの
専制政治には反対だ
だが
社会主義には
土台が要る。
先ず民主主義
それから
議会だね
文化が必要。
ところが我が国はー
アジア同然ですよ!
私はむしろ――
社会主義者だ。
だが強奪や放火はやらん。
いちどきに可能だと?
とんでもない、不可能!
だんだんと、
少しずつ
一寸ずつ
一歩ずつ、
今日、
明日、
二十年を経てだね。
(マヤコフスキー詩集、彰考書院、130頁)。
このように、彼は独特の形式で謳っているが、これは「未来主義」がとりわけ“言葉”を重視し、それに対し新しい態度で接近し、言葉の“創造”等々に大きなエネルギーを注いで来たことを無関係ではないだろう。そもそも「未来主義」は、ヨーロッパでは反動と帝国主義に傾斜したブルジョア青年の気分のあらわれ、ファシズムの先駆であったが、ロシアでは既成の一切の権威への反抗という表面的な類似性の背後に、革命的なものを秘めていた。
レーニンは「未来主義」のしっぼをつけていたマヤコフスキーを必ずしも好まなかったといわれるが(とはいえ、彼は成熟し、脱皮したマヤコフスキーの作品は知らなかった)、彼が会議ばかりしているソビエトの指導者や役人を嘲笑して「おお、せめて/いま一つ/会議があってほしい、/あらゆる会議の廃止に関する会議が!」と謳った時(「会議にふける人々」前出62〜5頁)、「政治的に全く正しい」(全集33巻223頁)と評し、労働者や共産主義者のなかのオブローモフ主義に警告を発している。
マヤコススキーは“スターリニズム”が擡頭する1930年、37歳の若さで自殺している。原因は色々といわれているが、彼が“スターリニズム”と共存できなかったことだけは確かであろう。「わたしは、おそれる、/行列とか/霊廟とか、/さだめられた/礼拝のきまりとかが/ねっとりとした/聖油を/レーニンの/純粋さに/そそぎはしないか、と」(「レーニン」9〜10頁)(H)