1983年3月13日 『火花』第581号
ソ連・中国は国家資本主義の社会か“過渡期”社会か
榎原氏のマル労同批判に反論する
林 紘義
――彼(女)のような小人的根性の持ち主の一ばん唾棄すべき習慣の一つは、自分のけちくさい根性を他人にも想定することなのである――
(バルザック「ゴリオ爺さん」)
共産主義者同盟(RG――いわゆる“榎原”派)が「共産主義」十八号で「国家資本主義論」をめぐってマル労同の「歴史観が問題」と批判している。我々はまさにこの言葉を“榎原”派にこそお返ししよう。実際、彼らのソ連論=国家資本主義論には、ソ連や中国は「社会主義への過渡期」であるというトロツキー的なドグマ――社会主義でも資本主義でもないというだけの無概念――以外何一つない、といっても決して言いすぎではないからである。彼らは、こうした無概念にもとづいて他党派の見解を批判できると考えているようだ。そこで我々は彼らのおそるべき「歴史観の欠如」つまり唯物史観の「欠如」を明らかにしよう。
1.ロシアの革命運動史について語る「無学の者」
彼らはまず、マル労同の見解がメンシェヴィキと同じものである、と非難する。しかしそうすることで、彼らはロシアの経済的発展の歴史や革命運動について全く無知であることを暴露している。
「(マル労同のソ連論は)17年革命前後に、ロシアは後れた資本主義国家であり社会主義社会を建設しうる物質的条件がないから、プロレタリアートが権力を握っても社会主義社会を建設しえず、せいぜい国家資本主義を実現しうるだけであると主張したメンシェヴィキに属する人々の説を継承している」。
榎原氏らは、ロシアの革命運動の歴史について語るなら、もう少し事実に学んでから語ってもらいたいものである。ここには少なくとも二つの事実上のあやまりがある。
まず第一に、19世紀末から20世紀はじめにかけて、ロシア革命の性格や展望ということでいくつかの見解が対立したとき、来るべき革命を直接に社会主義革命と主張したのは社会革命党であって、社会民主党ではなかったこと、来るべき革命がツァーリズムと封建制を一掃する民主主義革命であるという点では、ポリシェヴィキもメンシェヴィキも、マルクス主義に立脚する政党として同じ認識に立っていたこと、これらのことは、例えばレーニンの「二つの戦術」でもひもといてみればすぐ明らかになるであろう。
「二つの戦術」はポリシェヴィキとメンシェヴィキがすでに分裂したあと、1905年の革命の直前に善かれており、メンシュヴィキ批判を主目的としたものであったが、その中でレーニンは来たるべきロシア革命はブルジョア民主主義革命である、ロシアは資本主義の段階をとびこえることはできない、そんなことを考えるのは「無学の者だけ」だとはっきり主張している!
レーニンは、農民革命を社会主義革命と思いちがいをした社会革命党や、メンシェヴィキに属しながらも政治的急進主義に走ってロシアでも即時に社会主義が可能であるかの幻想(永久革命論)をふりまいていたトロツキーらを念頭において、こうした文章を書いているのであり榎原氏らがブルジョア革命を謳ったのはメンシェヴィキだけだなどというのは彼らの無学ぶりをさらけ出すだけであろう。
それとも彼らは1905年ではなくて1917年のころの歴史をもち出すのであろうか?
しかし1917年でさえレーニンは「社会主義」については極度に用心深い態度をとり、十月革命の直前でさえ、社会主義を直接実現するために権力をとるのではない、現在の経済的崩壊と闘うためには一連の“社会主義的”方法をとる以外道がないからそのために権力を握るのだ、社会主義へ向かって進むのをおそれてはいけないと強調しているのである。
それとも榎原氏らは「戦時共産主義」を社会主義の実現、とみなすのだろうか。それが内乱及び経済的崩壊と闘うための一時的手段であり、戦時共産主義はネップ(国家資本主義)へと転化せざるをえなかったことは歴史的事実ではないのか。そして、ネップこそ、ロシアにおいて直接に社会主義を建設する物質的条件つまり生産力がないことの表現ではなかったのか。
さて、第二の彼らの誤りは、メンシェヴィキが「国家資本主義を実現しうるとした」と書いていることである。メンシェヴィキは1905年にも17年にも、こんな主張をしなかったし、するはずもないことは榎原氏自身がよく知っていることであろう。
メンシェヴィキが望んだのは“西欧的な”自由主義的ブルジョア社会、民主主義の下での資本の支配であって、だからこそ彼らは1917年に破綻したし、せざるをえなかったのだ。ロシアには“西欧的な”資本主義が発展する歴史的条件がなかったからである。
2.まさに「歴史観が問題」!!
「マル労同の主張は、革命後のソ連ではまず社会主義の物質的基礎をつくり出す必要があったこと、次にこれは国家資本の形成としてなされざるをえず、労働者と農民の搾取によってしか実現しえなかったこと、それゆえソ連では初期の革命的人民国家が専制的な野蛮な国家たるスターリニズム国家に進化していかざるをえなかったということにつきる」。
これは、とにかくマル労同の見解を正しく述べている。しかし「つきる」とはどういうことか?
「マル労同の推論は、ネップの時期には社会主義の物質的基礎がなかった、農業集団化は社会主義をもたらさなかった、国有化はそれ自体で社会主義を意味するものではない、等々からだからソ連は資本主義であるという結論を導き出しているので(自らの習癖から、他をおしはかることなかれ!――引用者)結局ソ連は社会主義か資本主義か、という二者択一にもとづいて議論をしていることが明らかとなる。ところがソ連が非社会主義社会であるという場合が成立しうる(何だって?)。つまり歪められた過渡期社会という範疇の存立の余地がありうるのだが(ハッハ!)、マル労同はそれを考慮していない。ここにマル労同の歴史観の最大の欠陥が存在している」。
彼らは、マル労同が現実からではなしにドグマから、無前提のある何らかの“立場”から出発し、単に「社会主義でない」ということから、では資本主義であるという結論を引き出している、と批判するのである。
だが実際に、現実からではなしにドグマから出発しているのはどちらであろうか?「過渡期」というトロツキー的ドグマにいつまでもとらわれ、隷属しつつ発言しているのは一体どこのどなた様でしょうか?
彼らこそ「過渡期社会という範疇の存立の余地がありうる」ということから、ソ連社会の「過渡期社会」を説明して平然としているのではないのか。
しかし、「余地がありうる」ということと、実際そうだということは決して同じではない。彼らは、我々が、「過渡期社会の範疇の余地がありうる」ことを「考慮してない」などと知ったかぶりで解説してくれる。ところで我々の見解が、トロツキー的な「過渡期」云々の俗説を「考慮しない」どころか、とことん「考慮し」それを批判的に克服するなかで形成されたということほど明瞭な事実があろうか。彼らはここでも「無学ぶり」をさらけ出している!
我々の著書や見解を少しでもまじめに検討してみれば、我々がソ連の体制とその現実の“進化”の過程を忠実にあとづけ、まさにその中で、国家資本主義の概念を規定していることを認めざるをえないであろう。実際我々の見解は、十数年前まではある意味では仮説であった――というのは中国や東欧諸国や要するに全世界の「社会主義国家」で、現在ほどの“怒涛のような”ブルジョア化(経済自由化)はまだ現れておらず、我々はこうした顕在化したブルジョア的生産諸関係を目前にしてはいなかったからである。我々は実に、文化大革命の中国を目の前にしつつも、(つまり現在のようなブルジョア的中国の反対物を目の前にしつつも)、ソ連、中国の「国家資本主義」の概念を提出したのであるが、このことをやるにはどれほどの洞察力と正しい「歴史観」が必要であったかを彼らが想像できないことはまことに残念ではある!
そしてこの十年間、文化大革命の中国が「資本主義の道を歩む」実権派の中国に、つまりブルジョア的中国に転化し、“進化”したという一つの歴史的事実だけでも、我々の概念の正しさを証明して余りあるだろう。我々の“仮説”は見事に事実によって実証されたのである。ところが、榎原氏らの「過渡期」云々のトロツキー的ドグマはいつまでたってもドグマであり、ブルジョア的中国の登場に対してどんな合理的で唯物論的な説明も与えることができないのである!これこそまさに「歴史観の欠如」そのものである。
証明すべきことを前提している、というマル労同への非難は、むしろ自分自身に向けるべきではないのか。彼らは、ソ連や中国が「過渡期」であるということを前提にするだけで、なぜ、いかにして過渡期であるかを少しも論証していない。
せいぜい、「過渡期」でも商品生産は形式としてありうる(では“利潤”はどうしますか?これはやっかいですぞ)、というだけで、それが現実に純然たる形式であるということは論証できないし、していない。
彼らは、マルクスやレーニンが、資本主義から社会主義への「過渡期」とよんだ時代について、何ら本質的な反省も行っていない。商品=資本家的生産が数十年(すでにロシア革命から三分の二世紀がたった!)も続く「過渡期」などといったものは、それを概念的に規定しようとしてみればどんなにばかげていて矛盾したものであるかが、すぐ明らかになるだろう。それに気がつかないとすれば、彼らの「無学ぶり」は救いようがない、ということだ。
結局彼らの見解は社会主義の物質的条件がなくても、“プロレタリア権力”の政策さえ正しければ社会主義を建設しうるという史的観念論、空想的社会主義もしくはトロツキー的な政治的急進主義(ロマンチシズム)へと帰着するのであり、主観的なあれこれの解釈に時間をついやして自己満足にふけるのである。
3.「過渡期」の概念
この観念論者たちは思弁論者にふさわしく「論理学の立場」をもち出している。
「この特徴づけ(つまり価格統制)を資本主義の本性の全面的展開が抑圧されているといったことから根拠づけるとしたらそれは詭弁以外の何ものでもない。何故なら過渡期社会においては、社会主義の本性の全面的展開も資本主義のそれも双方とも抑圧されているのであって、非資本主義的要素と資本主義的要素とから成るものを、資本主義の本性の全面的展開が抑圧された資本主義と規定することは論理学の立場からみても成立しえないからである」。彼らは、社会主義の本性も資本主義の本性もともに抑圧される体制として「過渡期」を規定する。しかしこうした無内容な規定に対しては、はたして「過渡期」は、資本主義はともかく、社会主義の本性が抑圧される体制として規定するだけでいいのか、という質問を出すだけで、そのナンセンスさをあばくには十分であろう。彼らは「過渡期」を「過渡期」としてでなく、資本主義でも社会主義でもなく、その両者の規定が共存する何か中間的な、何か折衷的なある体制として規定するだけである。
しかもこの「過渡期」は「過渡期」として数十年も百年も続き、アメリカや日本のブルジョア大国とまさに民族国家として対峙し、その上「政治革命」さえ必要な国家――レーニンが 「過渡期」国家の本質的特徴であるとした“半”国家では全然ない国家――としてあらわれるというのである。「過渡期」について語りながら「論理上の立場からみても成立しえない」とたわごとを並べているのは、共産同(RG)であってマル労同ではない!
彼らは、マル労同を「過渡期社会をもっぱら(?)社会主義社会に向けて前進していく社会と位置づけている」と非難している。つまり、社会主義に「向けて前進していかない」過渡期社会といったものがある、と彼らはいうのである。これこそ確かに彼らの新発明の議論であって、まさに空文句の最たるものであろう。彼らはそもそも「過渡期」という概念をもう少し反省してみるべきであろう。「社会主義に向かって前進していかない」過渡期社会!たしかに諸君は「論理学の立場」の研究からはじめるべきであろう。
「マル労同はその自生的な発展の延長に社会主義社会への到達をもたらさないような過渡期社会、社会主義社会に向けて前進するためにはプロレタリアートによる官僚階級打倒という新たな革命を必要とするような過渡期社会について全然予想していないのである」。
どういたしまして。我々はこうした概念を「予想していない」どころか、トロツキーの概念として1960年前後以降よく知っている。
つい最近まで(或いは現在も)、共産党は、“社会主義”社会における、商品、貨幣、利潤の存在を肯定したばかりではない、それらを十分に“利用”することなしには“社会主義”は発展することができないと論じていた。そして今、事実上同じ論理を新左翼やトロツキー派がもち出すのである、ただ“社会主義”のかわりに“過渡期”という言葉を用いるところだけがスターリニスト連中とちがうのであるが。
しかし“社会主義”であろうと“過渡期”であろうと本質的に同じことではないのか? いずれも、すでに資本主義が打倒され、資本の支配が廃絶された(もしくはされつつある)段階ではないのか?
もし、決定的な“境界線”を引くとすれば、資本主義及び過渡期と・社会主義の間にではなくて、資本主義と・過渡期及び社会主義の間であることは明らかであろう!過渡期とは、資本主義社会ではなくて、あくまで社会主義への過渡期であること、つまりすでに社会主義の最初の一歩であり、ある意味で社会主義社会――階級が廃絶されつつある限りで――であって、それ以外ではないことが確認されなくてはならないだろう。そして労働者階級が権力を握り、勝利しながら、階級の廃絶に向かって進まない、などとまじめに議論することができるだろうか?RG派の諸君のいう“過渡期”とは一体どんな過渡期なのであろうか?それは要するに「資本主義でもなく社会主義でもない」という否定的な規定以外どんな規定ももたない社会、つまり無概念である。
4.マルクスの「過渡期」論
マルクスは「過渡期」について多くは語っていないが、しかし、その本質的な概念を与えている(「ゴータ綱領批判」に特徴的に示されている)。
それによれば、それは資本主義から社会主義への「革命的転化の時期」(榎原氏、謹聴!)であり、「この時期の国家はプロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもない」のであり、さらに、この過渡的国家(レーニンによれば、すでに本来の階級国家ではない「半国家」)は、「階級闘争を手段として、すべての階級と、したがってまたすべての階級支配とを廃止することにつとめる」こと(これこそ社会主義を実現することではないか)を、その歴史的役割とも本来的機能ともしているのである。
ところでRG派の諸君(もしくは新左翼一般)にたずねたいのだが、現在のソ連やポーランドや中国や北朝鮮の「社会主義国家」に、こうした概念と一致した何ものかがほんのわずかでもあるだろうか?それらは「半国家」どころか、まさにその反対物、つまり本来の階級国家そのものではないだろうか?
RG派白身が、トロツキストに追随して、ソ連等の国家における「政治革命」の必要性を承認している。とすれば、これは、彼ら自身が、ソ連等の国家が階級支配と階級そのものの廃止に「つとめる」プロレタリア独裁=過渡期国家とは全く別のものであることを自ら語っている、ということだ。
一体、ソ連、中国の国家がプロレタリア国家であると、彼らは本気で信じているのだろうか。そして又、彼らに、「過渡期」の国家とは、階級廃絶につとめる(つまり社会主義を闘いとる)プロレタリア独裁の国家である、という深い本質的な反省があるのだろうか。
ソ連、中国が、革命の直後においてさえ、客観的に、プロレタリア国家でなかったことは、レーニンも認め、毛沢東も認めていた。レーニンは「プロレタリア国家」という「抽象」をふりまわすトロツキーをいさめロシアに現存するのは「プロレタリア国家でなく、労働者、農民の国家」、つまり実際は“人民”国家であると言ったし、毛沢東は中国革命が「民主主義」革命であり、生まれた国家が「人民民主主義」国家であることを信じて疑わなかった(とはいえこれは、毛沢東が「人民公社」の勝利によって中国に社会主義を建設しえたという幻想におぼれるのを妨げなかったのであるが)。
毛沢東ならともかく、マルクスが、この「過渡期」を五〇年も百年も続くものと考えていなかったことは、それを「革命的転化の時期」と規定しているところからも明らかであろう。
トロツキーも新左翼も、ブロレタリアートの権力は、もしそれが言葉の真の意味でプロレタリア権力なら、その内的論理に従って、必然的に一切の階級の廃止に、つまり社会主義に向かって直接に進まざるをえないということ、まさにその意味で革命的な過渡国家として現れざるをえないことを理解してはいないのである。
ソ連、中国の革命が社会主義に直接に移行しえず、国家資本主義の体制として登場したとするなら、それは、ロシア革命、中国革命が真実のプロレタリア革命の水準にまで高まることができなかったこと――低い生産力、物質的条件の欠如の故に――の、急進的“人民”革命の限界を越えられなかったこと――プロレタリアートがこの革命に自らの「刻印をおした」ことは事実だとしても――の事実による証明以外の何ものでもないだろう。そして我々は事実から出発すべきであって、観念もしくは幻想から出発すべきではないのだ。革命を誰がやったかということと、革命の歴史的社会的内容が直接に同じでないことはすでにフランス革命でも明らかではなかったのか。貧民や小ブルジョアの革命からブルジョア社会がとび出して来たのだ。
5.「予想の当たら」なかったのは誰か?
彼らの理屈をこれ以上追うことは「不毛」であろう。最後に彼らがマル労同の「『自由化』の予想もはずれる」などと強調していることをとりあげよう。これが彼らのマル労同批判の結論(!)であることに、読者の注意をうながしたい。
「ソ連での経済改革の導入に際して、中国共産党はこれを資本主義の復活とみなして批判した。マル労同はこれを、もともと資本主義ではあったがその本性の全面的展開が抑圧されていたスターリン体制がブルジョア的に進化したものと把えた。そして『自由化』は国家によって抑圧されていた資本主義の本性を解きはなち、ブルジョア的関係、資本・賃労働関係があらわになってくるだろうと展望した。しかし実際には、このマル労同の展望のようには事態は進まなかった。『内在的矛盾の展開』として位置づけられていた過程の見通しが現実と合致していないということは、マル労同のソ連=国家資本主義論が現実と合致していないことを示したのである」。
文化大革命の中国がブルジョア的中国に進化し、――中国では、人民公社が解体されただけではない、“利潤”はますます支配的な経済関係に高められ、“自由な”賃労働者さえ登場するような“改革”が行われようとしている!――東欧諸国で(軍政下のポーランドでさえ)資本主義的関係が公認され、ソ連も又「自由化」へと進まざるをえない状況――実際、今もスターリン的体制を守っている「社会主義」国家といえば、千里馬運動から「八〇年速度」運動へと進む“精神”連動で増産と軍事体制強化をはかる北朝鮮ぐらいのものである――を、こうした「現実」を見ながら、「マル労同の展望のようには事態は進まなかった」とは、一体諸君は何をみているのか?
我々は諸君などの急進派が、文化大革命の中国に無批判的に追随し賛美していたまさにその当時に、文革の中国は実権派の中国に、つまりブルジョア的中国に転化し、“進化”するだろうと明確に――共産党のように「権力闘争」の中国は社会主義国家であるのだからやがて“正常化”されるだろうといった卑俗な形ではなく――語ったのである。これこそ、我々の概念の正しさであり、我々の理論が「現実と合致していた」ことの証明でなくて何であろうか?
もしRG派が、ソ連や中国が“自由な”資本主義、つまり“西側の”資本主義と同じような資本主義に進化しなかったからマル労同の展望は正しくなかったと考えているとすれば、それは我々の見解への無理解から来ているのだ。
我々はそのような形で国家資本主義を評価してはいないからである。むしろそのような“自由な”貸本主義へ「逆もどり」しえないからこそ、国家資本主義は国家資本主義であり、それ特有の矛盾を展開せざるをえないのである。
6.結論にかえて
彼らの「方法」は単純で、無反省のものである。彼らこそ、どんな分析も「実証」もなしに、ソ連や中国が資本主義から社会主義への「過渡期」である、と規定する。そして、このドグマを前提にすれば、あとは他の見解がこのドグマと一致するかしないかだけを検討し、批判すればこと足りる、というわけである。
しかも彼らは「論理学の立場からみても」完全な誤りを犯して、社会主義への「過渡期」でありながら社会主義へ移行する社会と考えてはならない、それには新たな革命が必要だとまでおっしゃるのである。革命さえ必要とするような社会主義への「過渡期」社会といったものは純然たる空文句であり、急進派の頭の中にのみ巣くう観念的存在でしかないだろう。
共産党は、「過渡期」が「過渡期」として数十年も百年も続くという観念をおそれる、そして彼らは、国家所有、協同組合所有(コルホーズ等)を根拠に(スターリンや毛沢東に追随して)、ソ連・中国を社会主義国家、と宣告する。
しかし共産党は、ソ連や中国の社会と国家の実在的な矛盾、その反動性を説明することができず、社会主義の「生成期」論といったその場かぎりの理論的ごまかしに逃避する。この場合、彼らは「生成期」であろうと何であろうと、なぜ、社会主義国家がスターリンの野蛮な専制や帝国主義や或いは「利潤の生産」までも生み出すのかを、強弁とこじつけ以外によっては説明することができない。
共産党がソ連、中国等のブルジョア的関係の発展に目を閉ざしてソ連、中国等を「社会主義」と美化するのに対し急進派もやはりブルジョア的関係を見て見ぬふりをしつつそれらを「過渡期の現象」とよんで、共産党の立場を補っている。過渡期も又、広い意味では社会主義社会であって資本主義社会ではない。そうでなければ、一体、プロレタリア革命の本質的意義はどこにあるというのか?結局は、共産党の見解も急進派の見解もお互いに接近し、一致するのである。彼らはともに、ソ連、中国のブルジョア大国としての登場を認めず、かくしてこれらのブルジョア大国を社会主義国家とか「過渡期国家」とかよぷことで、その反動性と帝国主義に対してあいまいな態度をとり、それを免罪にしたり美化したりして(意図して、或いは意図せずして)、世界中のブルジョアジーを助け、労働大衆を裏切っているのである。
彼らに反対して、我々はソ連や中国の社会経済構成体と国家のブルジョア的反動的本性をあばき出し、その転覆と社会主義的変革が必要であり、必然であること、それは世界の労働者階級の歴史的任務であり課題であることを明瞭に語るであろう!
<English version>
1984年6月3日 『変革』第4号
感傷主義は歴史科学ではない
トロツキスト・香山恭氏の批判に答えて
林 紘義
第四インタナショナル中央書記局機関紙「第四インタナショナル」173号で、香山恭氏が、我々の党内の論争に知ったかぷりの論評を加えて「混乱の源泉は、マル労同=社会主義労働者党が、ソ連・中国を“国家資本主義”と規定しているところにある」と叫んでいる。正直に言って、香山氏に反論を書くことは私にとって憂うつなことである、というのは、香山氏がきまり切ったトロツキー流の“公式”以外は何一つ新しいこと、積極的なことを展開せず、従って理論的にはすペて我々にとって解決されていることしかしゃペっていないからである。もし、香山氏の批判に反論することが、大会における我々の議論といくらかでも関係していなかったなら、私は氏に対して筆をとる気はなかったであろう。だが我々の大会においても、香山氏が問題にしたまさにその箇所が議論されたのである――もっとも香山氏のような低い、粗雑な理論的レベルで発言した同志は我が社会主義労働者党のなかには一人もいなかったのではあるが。かくして私は気が進まないままに香山氏への反論の筆をとり、氏がどんなにレーニンの1905年の理論を歪曲しているか、どんなに唯物論を理解していないか、さらにまたどんなにトロツキーの理論にさえ“忠実”でないかを明らかにする。
革命の政治過程と歴史的、経済的内容
まず香山氏が問題にするのは、我々の綱領がロシア革命を「全体としては労農革命」と評価しつつも、ポリシェヴィキ政権を「プロレタリア国家」とよぷ“矛盾”である。
これに対する香山氏の解釈もしくは理解は以下のようである 「(綱領)草案に従えば、1917年にロシアでは“労農革命”から“プロレタリア権力”が生まれ、それは“限界に衝突”して“国家資本主義への道”を歩んだというのである!」。
「マル労同の諸君の見地からしても、ロシアの国家は『プロレタリアートの刻印を強く押された労農革命から生まれたプロレタリアートの権力』だった」。
香山氏は、ロシア革命「中国革命が「全体としては『労農革命』すなわち急進的ブルジョア革命であり、その限界を越えることができず、その結果、これらの国家は国家資本主義の道を歩むことになった」(社労党綱領)と言うことと、この「全体としては労農革命」であったロシア革命の一時期に、そのピークにプロレタリア政権が登場することと何ら矛盾しないということ、18世紀末のフランス革命――「全体としての」ブルジョア革命――におけるジャコバン支配が事実であったのと同様に、「全体として労農革命」であったロシア革命においてプロレタリアの支配が事実であったことを認めないのである。
香山氏は我々の見解に「純粋経済主義の公式」などという的はずれの悪罵をなげかけている。しかし我々のこうした見解のどこに「純粋経済主義」があるであろうか?むしろ反対に、我々は革命の歴史的“経済的”内容と政治的内容は必ずしも直接的に一致しないことを強調しているのではないのか?
私は大会で次のように主張した。それは、我々の綱領がロシア革命を「全体としての労農革命」として評価しつつ、ポリシェヴィキ政権を「プロレタリア国家」と呼ぶことはおかしいのではないか、という一部の同志の見解に反論するためのものであった。
「さきほども言いましたように、プロレタリア国家というのは、あくまでも、これは政治的な概念問題でありまして、経済的に成熟していなくてもありうる、たとえば、ブルジョア革命の時代にもジャコバン支配というのが生まれるわけです。産業ブルジョアジー、自由主義的ブルジョアジーの支配といえるか、というとけっしてそうじゃなくて、都市の貧民を基礎にしたような非常に急進主義的な独裁権力として出てくるわけです。(ロシアでも、)必ずしも直接に経済的に成熟していなかったということからプロレタリア権力じゃないというふうにはでてこない。政治過程と経済過程というのは、若干のなんというか(ちがいがある)、もちろん究極的には、経済的過程によって規定されるがゆえに、ロシアのポリシェヴィキ政権も変質を余儀なくされていつたという面はあるにしても。プロレタリア国家としてのポリシェヴィキ政権を――もちろん、いろいろ限界や制限があるからこそ、『“”』がついているわけだが――このプロレタリア国家としてのポリシェヴィキ政権を否定するということはまずい、色々歴史を実際評価していくうえでも正しくないんじゃないか、これは、パリコミューンをプロレタリア権力として評価しないのがおかしいというのと同じような意味でおかしいだろう。レーニン自身も1921年までと21年のあとはかなり違ったかたちで発言しているだろう、21年までは、これはプロレタリア独裁を非常に強調していると思うんです。21年のあとは“労働組合論争”の中における発言をみてもわかりますように、トロツキーを批判しながら、トロツキーが労働者の国家である、労働者国家であることを強調していることに対して、レーニンは労働者の国家じゃないんだと、労働者と農民の国家だということを、ネップと同じころ出てきました“労働組合論争”の中でいっているわけです。だからレーニンの発言自身も若干かわっている、あるいは権力の性格の変化を反映している、あきらかにネップというのは小ブルジルジョアジーとの統一というか、協力、協同という方向、妥協という方向の政策であって、やはり21年までと21年のあととはちがってきていると言えるだろうと思います」。
実際には、香山氏こそが「純粋経済主義」に、裏返しの「純粋経済主義」に陥っているのである。なぜなら氏が、ロシア革命はプロレタリア革命であり――というのはポリシェヴイキの政府つまりプロレタリアートの政権が生まれたから――従ってロシア革命は歴史的経済的内容においても社会主義革命である(もしくは、そうでなくてはならない)といった立場にこだわっているからである。氏は、実際には、卑俗な形で革命の政治的過程と経済的内容を直接に同一視しているのであり、機械的でひからびた“史的唯物論”を、裏返しにされた「純粋経済主義」をもってまわっているのである!こうした俗悪な“唯物論”はトロツキストにふさわしいものかもしれないが、マルクス・レーニン主義者のものでないことだけは確かである。
香山氏が、我々の見解を全く理解できないでいることは、マル労同=社労党が「“労農革命”から“プロレタリア権力”が生まれた」と主張しているなどと歪曲したバカ話をふりまいていることからも明らかである。勿論、我々は、こんなばかげたことはどこでも言っていないし、言うはずもないのである。こうした汚い歪曲をすることなしには、香山氏が我々の見解を批判できなかったことこそ特徴的ではないだろうか。
我々が主張するのは、「全体としての労農革命」と、その経過的一契機として「プロレタリアの権力」が両立することは十分ありうるということ、それが一つの歴史的な事実であるということだけである。このことは「“労農革命”から“プロレタリア権力”が生まれた」などといったこととは全く別である。香山氏のように言うことは全くの不合理であり、何のことか分からないたわごとであろう。“労農革命”から“プロレタリア権力”が生まれるのではない。かつてのジャコバン独裁が妥協的な自由主義的ブルジョアジー(ジロンド)の支配をこえて革命をおしすすめ、封建的勢力と諸関係をとことん一掃し、資本主義への道を切り開いたのと同様にポリシェヴィキの独裁こそが、ロシアの発展にとって桎梏と化した古い諸関係を一掃し、国家資本主義への道を切り開いたのである。これはまさに、トロツキー流の「歴史の複合的発展」ではないのか?なぜ香山氏はトロツキーの理論の積極面をすてて消極面に固執するのか?香山氏は「トロツキー読みのトロツキー知らず」ではないのか?
香山氏がトロツキーの理論の意義さえよく理解しているとはいえないだろう。少なくともトロツキーは、革命の政治的過程と経済的内容を直接に同一視するなど機械的な唯物論者ではなかった――とはいえ、トロツキーは、経済的過程ではなく政治的過程にこそ優位を認めたのであり、かくしてこの点で1905年ごろレーニンと対立して「永久革命論」のドグマをもち出したのであったが。
勿論、香山氏は一面では真にトロツキーの弟子であり、だからこそ「全体として“労農革命”」であったと考える我々と対立し、「純粋経済主義」に対してのろいの言葉をなげつけざるをえないのである。しかしこれは氏の政治主義的偏向を、つまり唯物史観から何らかの観念史観、ロマン史観もしくはデューリング流の“ゲヴアルト・テオリー”への逸脱を暴露する以外の何ものでもないのである。
レーニン主義とトロツキズムについて
さらに香山氏はレーニンについても知ったかぶりをしていろいろ書きつらねているが、まじめにレーニンの「二つの戦術」さえ読んでおらず、ただトロツキーの主張(永続革命論)の色めがねを通してしかレーニンを評価していない。
例えば彼は次のように言う。
「栗木論文に従えば、レーニンは後進国におけるブルジョア革命とプロレタリア革命の間には、何年も、何十年もの長い年月の隔たりがあると考えていたが……レーニンが二つの革命の間に“万里の長城”を築いたりしなかったことは既に明白であろう。実際レーニンは、1905年のかの『二つの戦術』の中で、要約すれば『プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁には過去と未来がある。その過去とは封建制度・大土地所有制度を打ち砕く闘争であり、その未来はブルジョアジーを打倒し、社会主義をめざす闘争である』(全集9巻78頁)と述べているのであるが、この過去と未来の時間的な隔たりは、1917年に照らしていえば、2月から10月までの数ヶ月にすぎなかったのである。
二つの革命の間に万里の長城を築いたのは、実際には、まず第一に栗木(林)君その人であり、当時のメンシェヴィキであり、1924年反トロツキズム闘争後のスターリンであった」。
香山氏がトロツキズムの色めがねを通してしかレーニンの主張を理解できないのは氏の自由としても、レーニンの見解がブルジョア革命とプロレタリア革命の混同もしくは同一視にあったといったたわごとは驚くべきものだ。これは事実上レーニンは史的唯物論者でなかったというに等しい。
レーニンは「二つの戦術」の中で、即時の社会主義の実現を願うようなエス・エル的、トロツキー的な理論を、マルクス主義を理解しない「無学な」者の理論、「無政府主義的」空論とよんでいるのである!
レーニンが「二つの戦術」で「民主主義的独裁」を謳った意味を香山氏は何一つ分かっていない。この“民主主義的”ということは、社会的変革の内容がブルジョア的であり、その限界を越えない(つまり社会主義的ではない)ということを表現しているのであって、権力自体が政治的な意味で民主主義的であるということではない。権力は、労働者と農民の「独裁」である。
レーニンの「労働者、農民の民主主義的独裁」は、社会主義をもたらすためのものではなく、ただ古い封建的な諸問題をとことん破壊し、一掃して、資本主義の自由な、一そう急速な発展を保障するために必要とされているのである。このことは「二つの戦術」をちょっとひもとく労さえとれば誰にも自明なこととして目に入るだろう。一体香山氏は「二つの戦術」をよんだことさえあるのか?
レーニンは、この革命的な臨時政府が反革命を粉砕し、憲法制定議会を召集し、それが召集されるとともに、自ら革命的役割を終えるものと考えていた。レーニンは必ずしもこれを明言してはいない。しかし、ロシアに急速な生産力の発展をもたらす、民主的で“開明的な”資本主義(プロシヤ型ではなく、アメリカ型の資本主義の発展)を期待していた当時のレーニンの思想からすれば、それ以外の結論を引き出すことはできないであろう。レーニンのみならず、すべてのロシアのマルクス主義者は当面の革命がブルジョア民主主義革命であるという点では一致していた。ポリシェヴィキとメンシェヴィキがこの問題で争ったのは、革命が社会主義革命かブルジョア革命かということではなくて、このブルジョア革命がどんな形で、いかなる階級のヘゲモニーによって行われ、どんな結果がもたらされるべきかという点をめぐってであった。
ただエス・エルとトロツキーだけはちがっていた。エス・エルはナロードニキの伝統をうけついで農民革命を社会主義革命とみなしていたが故に、ロシアの当面する革命は社会主義革命であると主張したが、これは彼らの小ブルジョア的空想を暴露する以外の何ものでもなかった。
トロツキーは、一応はマルクス主義と唯物論に立脚するかに装いつつも、革命をもっぱら政治革命の契機においてのみ抽象し、ロシアの政治闘争は結局プロレタリアートを権力の座におしあげるが故に、仮にロシアの革命がブルジョア革命として出発するとしても、プロレタリア社会主義革命に転化《しなければならない》というドグマ(つまり自らの願望を“理論”の名で呼ぶような)をつくりあげた。ここにあるのは政治主義的偏向であり、我々のよく知っているプチブルジョア急進主義の一つのあらわれである。
ロシア革命も、もし政治過程としてだけそれを見るなら、それはプロレタリア社会主義革命であった――というのはマルクス主義に立脚するプロレタリア政党のポリシェヴィキがロシアの労働者階級を指導して権力を握ったからである。プロレタリアートの権力が、ポリシェヴィキ政権が樹立された以上、どうしてロシア革命が社会主義革命でないことがありえようか、プロレタリアートは一たん握った権力を自ら手ばなすことはありえず、従ってこの権力はブルジョア的変革の段階で立ちどまって自ら挫折することはできず――そんなことを言うのは実践的ではない“空論派”のマル労同=社会主義労働者党の諸君たちだけだ――社会主義的変革にまで進ま《ねばならない》。
こうしたものがざっとトロツキー=香川氏の見解である。
1917年の二月革命と十月革命をとりあげて、二月革命はブルジョア革命、十月革命はプロレタリア社会主義革命といっな一面的な抽象を行ったのはトロツキーであり、そして又、スターリンであった。レーニンは、仮にこうした抽象をするときでも「権力がブルジョアジーに移った限りで」二月革命はブルジョア革命であると、限定をつけてつねに語っている。権力の問題はたしかに革命の中心問題ではあるが、権力を握った階級によってのみ革命の性格がきまるかにいうこと――生産力や社会の発展段階とかかわりなく――は史的観念論であり、一種の「ゲヴアルト・テオリー」(強力論)である。こうした政治主義的偏向こそトロツキズムに固有な特徴であり、その限界を教えている。
レーニンは、マルクス主義者として、ブルジョア革命とプロレタリア革命を概念的には勿論のこと、実際的にもはっきり区別していた。今、トロツキー主義者の諸君は、こうしたレーニン的立場をすべて「二つの革命の間に“万里の長城”を築いている」と大声で非難している。だが、ブルジョア革命とプロレタリア革命の区別をなくすこと――概念的に、実践的に――自体、おそるべき理論的混乱であろう。これは概念的立場が一切無意義であると言うにひとしいであろう。彼らは、自分たちがどんなにスターリニズムに接近し、それと事実上融合してしまっているかに気がつかないのである。実際、スターリニストたちこそ香山氏と殆んど同じ口調で、ロシアの二月、十月の革命について語り、また現在の中ソが社会主義であることを“論証”して来なかったであろうか。我々が、トロツキストはセミ・スターリニストだと言うのは、はたして不当であろうか。
香山氏はいろいろしゃべったあげく、1905年においてはレーニンとトロツキーの見解がことなったものであったこと、レーニンが「労農の民主主義的独裁」をとなえたのに対し、トロツキーがプロレタリ権力の樹立と社会主義革命をとなえたことを認めざるをえなかった。これは本質的なちがいではないのか?
レーニンとトロツキーのこの本質的な対立を前にして、彼はレーニンとトロツキーが同じ観点にあったとかの自分の立論が根底からくずれたことを承認したであろうか?否、こうしたあつかましいドグマチストはいくらでも別の理屈をもってくることができる。香山氏はトロツキーのいつわりの、自己正当化のためのたわごとをくり返して、1917年にはレーニンが自分の古い論理の誤りを認めてトロツキーの論理に近づき、かくして1905年の対立は解消された、と。
こうした見解がどんなにいいかげんなものであるかは、すでに多くの所で私は書いているのでくり返さない。両者が一致したのは表面だけ、一時だけであったことは、あらゆる証拠からも明らかであろう。レーニンは1917年の革命を準備する段階でさえ、当面する労働者・農民の革命的民主主義的独裁について語り、直ちに社会主義を導入するものではない(そのために権力をにぎるのではない)とくりかえし主張している。レーニンが、一応保留なしに、プロレタリア独裁や社会主義革命について語っているのは、「戦時共産主義」の時代だけである。だが特別の時代であった「戦時共産主義」の時代をもってロシア革命の全体の性格や歴史的内容について語ることができないのは余りに明らかであろう。
社会主義労働者党の綱領はこの点で、ロシア革命を「全体としては労農革命」と評価しつつも、他方では「プロレタリア国家」の成立を認めている。これは歴史的事実であって何ら理論的な“矛盾”ではない。こうした“複合的な”理解なくして、革命後のロシアの発展の「全体」や現在のロシアの現実を正しく理解することは決してできないであろう。
「ロシアの全歴史過程」とは何か?
香山氏の(否、トロツキスト一般の)親スターリニズムを証明するもう一つのものは、「過渡期社会」についてのおしゃべりであろう。
「栗木君は、ネップにロシアでは資本主義が不可避であることを教えられたという。だが、もしネップが我々に何かを教えたとするならば、それは、プロレタリアートの国家は、資本主義的な諸要素を、すなわち、商業計算や利潤、小商品生産や市場を、行政力の行使によって一掃してしまうことはできないという事であろう」。「過渡期社会にあっては尚、価値法則は種々の形態で貫徹するのである」「どんな先進国であっても、プロレタリアートの権力獲得後直ちに、資本主義的諸要素の全てが消滅するわけではない。1917年当時のロシアのような後進国では、このことは尚更である。だがマル労同(=社労党)の諸君は、革命後のロシアに、商業計算、小商品生産、商業等々、資本主義的要素が存在するということだけを根拠にして、それは資本主義国家―国家資本主義であると規定した。だが暴力革命によって樹立されたプロレタリアートの国家が、反革命の暴力なしに、単に資本主義的要素が存在し、或いは拡大したということのみで覆ることはない」。
この最後の“論理”の余りの荒唐無稽さにはあきれるが、しかしそのことはあとまわしにして、まず香山氏の(トロツキスト一般の)社会主義の概念を点検することにしょう。
彼らはスターリl「ストの尻うまにのって、“過渡期社会”でも「価値法則が貫徹」し、価値の(商品の)生産はもちろん、利潤のための生産があっても何らおかしくない、と公然と言いはやしている。
みられるように、この政治的急進主義者は、社会主義についてのどんな科学的な概念ももちあわせていない。仮に“過渡期社会”について発言しているのであって社会主義社会についてではない(だからスターリニストとはちがう)と弁解してみても、彼らがスターリニストと事実上同じ立場に転落しているという“罪”をまぬがれることはできない、というのは“過渡期社会”はすでにブルジョア社会ではなく、むしろ社会主義社会のはじまりだからである。
我々は今度の大会で、プロレタリア国家とはすでに本来の意味での抑圧国家ではないこと、成立とともに死滅の契機をもつ(現実に死滅しはじめる)“半国家”であることを強調して、スターリニストの見解――プロレタリア国家も又国家であり、他の階級を抑圧するための“独裁”であり、従って簡単には死滅しないし、することはできない、かえって強化されうる等々の――に反撃した。
トロツキストは今やスターリニストと同じである、すなわち彼らはスターリニストと口を合わせて、プロレタリアートが勝利しても、価値や利潤の生産が「一挙に」なくなることはない(なくすことはできない)、むしろそれは「貫徹」しさえする、直接に社会主義の建設を謳ったり、“国家”の死滅について語るのは空論だ、非現実的だ云々と事実上わめきたて、社会主義を求めて闘う先進労働者を侮辱しさえしているのである!!
「価値法則が貫徹する」ような“過渡期社会”といったもの自体、概念矛盾であることは明らかである。プロレタリア権力は、ただちに利潤のための生産だけでなく、価値のための生産をも規制し、その「貫徹」を許さないであろう。こんなことは余りに明らかなことではないのか?一体香山氏の理解する“過渡期社会”とか社会主義とかはどんな社会であろうか?それがプロレタリアの解放されざる社会、現在のブルジョア社会と余り変わらない社会であることだけは確かである、というのは利潤のための生産があり、「価値法則の貫徹」があるのだから。
香山氏は、単にブルジョア的な“要素”が存在するにすぎず資本主義そのものではない、と釈明するのであろうか?
だが徐々にもしくは急速に消滅し消えていくブルジョア的要素ではなく、数十年にわたって「貫徹」し、そればかりでなくますます自己を主張し、全面的に展開されてくるようなブルジョア的“要素”といったものは、一体何ものであろうか?そもそも数十年にわたってつづく――否、ロシア革命後すでに70年になろうとしている――“過渡期社会”とは、プロレタリア独裁とは何であろうか?こんなものを概念として規定しようとしてみれば、それがどんなに空虚な抽象であるかがたちまち明らかになるだろう(少なくとも普通の人間、或いは少しはマルクス主義的素養を持つ人間にとっては)。だが香山氏はこうした不合理にも平然としていられる特異な才能の持ち主である。
香山氏は、「どんな資本主義国であっても、プロレタリアートの権力獲得後直ちに、資本主義的要素の全てが消滅するわけではない」、とおっしゃる。
しかしこれこそ単なる傍観者的、非実践的なおしゃべり、労働者にとってどんな利益にも励ましにもならない“評論家的な”おしゃべりというものであろう(ところで我々は、トロツキー及びトロツキストとは本質的に“左翼”評論家であって革命家ではないと考えていることを、ここに付記しておこう)。問題は、例えば最高の先進国の一つである日本でプロレタリアートが権力を獲得したら(つまりブルジョアジーを打倒したら)「資本主義的要素」を止揚することができるかどうか、ということである。我々は完全に可能であるばかりか、まさにそれこそプロレタリアートの権力獲得の直接の目的であると強調するだろう。
ところで我が“評論家”たる香山氏はうろうろしてつぶやくだけである。「日本の労働者の諸君、諸君が権力を獲得しても直ちに資本主義的要素をなくすことはできない。価値の生産や利潤の生産も残るし、残らざるをえない、性急になるべきではない、一ペんにすべてが解決すると思ってはならない、ロシア革命を反省してみるべきである」等々。
これはまた何というなきごとであり、日和見主義であろうか。彼は、社会主義の概念も、そして又資本主義を変革して社会主義を獲得する展望も意思も要するに積極的なもの、実践的なものは何一つ持ち合せていないのである。彼が単なる“評論家”でしかないゆえんである。
さいごの「暴力革命によって樹立されたプロレタリアートの国家が、反革命の暴力なしに、単に資本主義的要素が存在し、或いは増大したということのみで覆ることはない」といった理窟はまさに噴飯ものである。これは香山氏がどんなにロシア革命とポリシェヴィキ政権の本質とその実際を理解していないかを暴露しているのである。
ポリシェヴィキ政権は、プロレタリア権力といえども、もしプロレタリアートの解放をなしとげる物質的条件のないところに生まれるなら、崩壊するか、それとも変質するか、どちらかしかないことを明らかにした貴重な歴史的経験でもあった。これは、マルクス主義の唯物史観の正しさを、ある意味で完ぺきに証明したといえるだろう。
ポリシェヴィキ政権は、香山氏は分かっていないようだが、もしトロツキーの忠告(永続革命論)に従って“社会主義的”政策を堅持していたら、現実に農民の反乱の大波のなかで崩壊したであろう――それはフランス革命のジャコバン独裁が崩壊したのと同じ位にたしかなことであった。
ポリシェヴィキ政権が生きのびえたのは、この政権が社会主義的政策(“戦時共産主義”)を放棄して農民のブルジョア的要求に妥協し、それに順応したからにすぎない。つまり“ネップ”の採用故である。ネップこそロシアにおけるブルジョア的生産の必然性を教えたのである。そしてネップのロシアこそが、スターリニズムの勝利を準備し、また必然化したのでありトロツキスト(左派)は敗北せざるをえなかったのである。
トロツキストとは奇妙な諸君である、というのは今にいたるまで、自らの敗北の必然性とその真の理由(根拠)を理解することも総括することもできないのだから。とすれば、彼らが現実を正しく理解することも、正しい立場で闘うこともできないのも何ら不思議ではないといえよう。彼らは今もって、せいぜい次のような“夢”の中に遊ぶしかないのである。
「帝国主義諸国の包囲の中にあって、飢餓と疾病が蔓延し、破滅の淵をさまよっている“ソビエト国家の苛酷な現実”を前にして『唯物史観』について“訓示”をたれることのできる人は幸せである。マル労同(=社労党)の諸君は『ロシアにおける資本主義の不可避性』を確信する余りソビエト国家が直面している“苛酷な現実”を超越したばかりでなく、この中でポリシェヴィキ党指導部が行った社会主義に向けての死活的な闘争をも全く無視してしまったのである」。
「『ロシアでは資本主義のみが可能である』というマル労同(=社労党)の諸君の不抜の信念と、ネップを通して社会主義に到達しようとしたレーニンの見通しとは、従ってまた、その後のロシアの全歴史過程とは相容れない」。
こうした香山氏のセンチメンタリズムに対しては、我々は、ロマン主義や感傷は歴史科学とは全く別の物である、と申し上げる以外ない。
それに、我々は今1917年のロシアを見ているのでなく、20世紀後半のソ連(や中国)の現実に直面しているのである。香山氏は、ソ連や中国がプロレタリア国家であり、.社会主義社会であるかに語るのであり、かくしてソ連や中国の国家を、そのブルジョア的、帝国主義的な現実を美化し正当化しているのである。これはどの世界の労働者に対する裏切りがあるであろうか。トロツキストの論理的立場がすでに世界の労働者の立場とこれはど決定的に対立するまでになっているのだ――だが香山氏はこの自らの裏切りに全く無自覚である。論理のないロマン主義者や感傷主義者ほどたちのわるいものはない!
香山氏は「その後のロシアの全歴史過程」についてもおしゃべりしている。だが、スターリニズムの下で、またその後の歴史のなかで、ロシアが一そうブルジョア的、帝国主義的国家として発展して来たのか、それともプロレタリア的、社会主義的国家として登場して来たのか「そして中国はどうなのか」――これこそ香山氏が自ら反問してみるべき「ロシアの全歴史的過程」ではなかったのか、だが、このことを香山氏に期待することはできない、というのはそれをなしとげるためには、氏はトロツキー的なドグマチズムと決定的に手を切らなければならないからである。
<English version>
1985年1月13日 『変革』第33号
国家資本主義の概念とソ連、中国の体制について
林 紘義
以下は、昨年12月16日、大阪のシンポジューム「今、社会主義を考える」における林紘義同志の講演の全文です。
1、社会主義かどうかが根本問題だった
(他のチユーターの)色々の御話をお聞きしてこんがらがって来るような面もありますが、私のペースで話をしたいと思います。
私などは60年ころの安保条約反対闘争に先だって共産党に入りました。その後、共産主義者同盟が生まれまして、私も党の中でスターリニズム批判を経験し、言ってみれば勇躍として共産主義者同盟に加わった方なわけです。当時東大の駒場には50人ぐらいの党員がいましたが、3分の1ほどは共産党に残る、3分の1ほどはイヤ気がさして政治闘争をやめる、後3分の1ほどが加わった。おおざっぱですけれども大体そんな比率だったと思います。その内でも私は一番左の万でありまして、共産党は数十年にわたって労働者階級を裏切ってきたのだ、新しい党をつくるのは絶対に必要なんだ、そういう意識で加わりました。
その当時共産党の中に残ると言った人たちは、構造改革主義に移ってきておりまして、党中央のゴリゴリの支持者というわけではなくて、野口だとか黒羽とかが指導者になりまして、東風が西風を圧倒するんだ、そういう体制論を持ち出して来ました。要するに“社会主義”国が平和共存の中で経済的に発展していけば、自然に力関係などが変わってきて社会主義の有利な世界が生まれてくるという、非常に漠然とした議論なんですが、平和共存なんだと。(彼らとの論争は)単純化していえば平和共存なのか階級的闘いなのかという議論だったのです。
フルシチョフが出てきて、20年もたてばアメリカの生産力を追い越すだろうと言っていた時代でして、共産党に残った連中の理屈というのが何か妥当性を持つように見える面もあったわけです。
“社会主義”国が本当に社会主義なのかどうなのか?これが根本的問題だったのです。
その後ブントが崩壊した後、私達は「政治闘争は不可能だ」とサークルをつくってやってきたわけですが、その時代を通して、――マル労同になった72年の時には、一種の資本主義ではないかという結論に達していたのですが、それまでは――ソ連・中国は非常に大国である、あるいは第一次世界大戦、第二次世界大戦を通しまして世界の歴史と政治のなかで非常に大きな比重なり役割を持つようになっている、これらの“社会主義”国をどういう体制として理解していくか、これについての結論なしには私達の運動も進められない。色々国際政治の問題も当然関係してくる。あるいは私達が階級闘争を発展させ社会主義を求めていくといった場合、その社会主義は現実の姿としてはソ連とか中国なのだという形で出てきた場合に、はたして闘っていけるのかどうか、こういう実践的問題があったわけです。
これは私達だけが直面したのではなくて、例えば数十年にわたるトロツキズム運動の中でも――まあトロツキズム運動というのはサークル的な形でしか展開されなかった、大きな政治的党派としてはどこの国でも現れなかったわけですが――そのトロツキズム運動の中におきましても、内部におきましていくたびとなくソ連とは何か、あるいはスターリニズムとは何か、という議論が起こりまして、相互批判、分裂をくり返している。あるいはトロツキーも、第二次世界大戦にあたっては、スターリニズムは打倒しなければならない、しかしソ連邦は擁護するんだ、という主張をかかげて、これもまたトロツキズム運動の内部紛争の原因の一つになっているわけです。
そういう歴史もありまして、これはどういう体制なのか、ということを私達も考えざるを得なかったのです。
2、“国家資本主義”という結論を得るまで
1960年代、ソ連において経済自由化というのがでてきました。1952年にスターリンの『ソ連邦における社会主義経済の諸問題』という論文がでましたが、それを一部は勿論うけついでいるわけですが、批判するような形で自由化路線というのがでてきました。それらを私達は色々研究したり、批判的に総括したりして、あるいはネップ以来のソビエト経済の歴史、さらにはレーニンの革命戦略論――レーニンは単純に社会主義革命論者と考えられがちですが1905年ころの著作をみれば、民主主義革命論者である、即時社会主義革命をとなえる、ナロードニキの伝統、人民主義者の伝統をくむエス・エル党というのがあるのですが、そういうのを批判している。唯物論に立てば即時社会主義革命などと言うのは――言葉は忘れましたが――頭の悪い人が言うのだというような、かなり手厳しい批判をしているのです。
そういうソビエトの歴史とレーニンの考え方、あるいはネップの経験、それからスターリニズムの20年代後半から30年代にかけて農業集団化をおこないまして、重工業路線を――社会主義建設路線という名目で――とるわけですが、その総括などの上に立ちまして、やはり資本主義であるというふうに私達は考えたわけです。
当時は中国について言えば文革の時代であって、プロレタリア独裁の永久革命論が唱えられていて、所謂ケ小平一派、これは実権派、走資派と言うことで非常に弾圧されていた時代でありましたが、私達はその時代においても、毛沢東の文革というのは幻想に終わるだろう、結局実権派が復活するだろうと、これは勿論私達の国家資本主義論に基ついてそういう展望をたてたわけです。
1980年ごろからケ小平が復活して今の中国のブルジョア路線というのが出てきた。こういうなかで、私達は、国家資本主義論は、歴史の展開の中で実際的に証明されただろうと考えています。
ソ連におきましては自由化路線は停滞していますが、中国も、東欧も――ルーマニア等を除きまして――そういう方向に動いて来ている。ソ連もだいたい――きっちりは言えないですが――そういう傾向を強めている。
資本主義としては、これはある意味で特殊な資本主義であるというのは一見してあきらかだが、社会主義でないというのはトロツキー派も言っています、或いは1958年に成立した共産主義者同盟、新左翼運動一般が大体社会主義だとは認めていないと思います、ただ全体としてはトロツキーの観点――「過渡期社会」である、社会主義社会ではないが過渡期社会なんだ、過渡期が固定化したんだ、固定して停滞してしまったんだ、前進出来なくなったんだ、堕落した労働者国家なんだと、官僚が権力を握っておりますがその官僚というのは労働者階級の一部なんだと、このような評価をしていると思います。
官僚がなぜ労働者の一部かというと、要するに生産手投が国有化されている、そういう社会であるからどんなに官僚が反動化しても生産手段が国有化されている基盤まで解体できないだろう、官僚が発生する基盤をみずから掘り崩すようなことは出来ないだろう、だから労働者国家なんだ、堕落したが労働者国家なんだ、そういう観点がトロツキーの見解なんですが、だいたいブントも――ブントというのは新左翼運動のはしりであります1958年の共産主義者同盟ですが――同じような観点に立っていたと思います。
私達も、最初から社会主義だとは考えなかったわけですが、数十年続くような過渡期社会というようなものは考えられるのかどうか?社会として見た場合はソ連も中国も明らかに一つの社会的生命体として発展してきている、こういうものを単に過渡期だというような形で言いうるのかどうか?こういうふうに考えたわけです。
3、スターリンの見解とソ連の体制的“進化”
スターリンの1952年の論文を見ますと――私達は国家資本主義論を確立する過程でスターリンの概念も批判的に検討したのですが――スターリンは社会主義というのは商品生産があってもいいんだ、商品生産というのは資本主義とは違うんだ、別のものなんだ、区別されるんだということを強調しているわけです。しかし私達は、普通に考えますと、商品生産と資本主義的生産がむしろ結びついている、これは「資本論」などを読めば誰でもそう思うし、実際の資本主義を見ても分かると思うんですが。ところがスターリンは社会主義と商品生産はむしろ一緒でもいいんだ、資本主義と商品生産の方が別なんだ――これは別だと言えば確かに概念的には別なものでありますし、「資本論」を見ましてもまず商品生産から分析しています、それが直接資本主義的生産と同じだということでやっているわけではない。
しかし、マルクスは商品は資本の基礎だ、商品生産は資本家的生産と密接不可分だ、前者は必然的に後者に成長転化する、という意味で「商品」からはじめている。スターリンとは反対のことを言っている。
スターリン以降になりますと――60年代の自由化の段階になりますと、単に商品生産と資本主義は別だということだけではなくて、こんどは利潤概念というのが入ってくる。
スターリンの時代にはスターリンの論文をみますと、消費手段が商品なんだ、しかし生産手段は商品じゃないんだ、社会主義的計画経済の中で直接分配されたり配置されたりしている。価格はついていますが単にこれは経済計算とか、企業の効率を計るためにすぎないんだ、こういうふうに言われているわけです。
結局商品生産というのは社会主義でもあるんだ。非常にプラグマチズム的と言いますか、商品生産を利用しているんだという観点から、社会主義は商品生産と両立するんだと提起されているのです。
しかし果たしてそうなのか、商品生産或いは価値の生産は労働が共同体労働の一部として支出される限り有りえないということが科学的社会主義の概念です。商品生産をとおして、労働生産物の交換を媒介して、労働の社会的関係が成り立っていることはですね、労働が私的に支出されていると言うことをいみする。これは「資本論」の冒頭でマルクスが分析しているとおりな訳です。
確かに形式的には生産手段は国有化されているわけですが、まず農業におきましては、革命の直後土地を農民に与えたわけで、小農的生産が支配的になった。あるいはスターリンが共同化しましても、スターリン自身が言ってますように共同所有(グループ所有)なのだ、国家所有じゃ無いんだという形であるわけです。あるいは企業を見ましてもネップの時代の独立採算制で、個々の企業として経営単位或いは経済単位を位置つけるというのはスターリンの体制で否定されているかと言うと、やはり否定されていない、企業体としての形をのこしておるわけです。
これは自由化の中でますます明らかになってきましたし、最近の中国の経済改革の中では、個々の工場単位を取ってみましても企業としての運営が公然と行われるような形になって来ております。
そういう状況を見ますと共同体社会といえない――形としては国有化されております、しかし共同体社会と言えないような経営のありかた、あるいはもっと究極的にいえは労働のありかた、私的労働として支出されている、そういう体制であると考えざるを得ないわけです。
個々の企業を取りましても資本主義的経営が何か計算のためにだけ行われているというふうに言われておけますが、単にそういう機能的な形でですね、最初はそういう形で出てきたかも知れないが、実際運動している中ではどんどん資本としての内在的な本性が出てくるような形で動いて来ている。
たしかに露骨なブルジョア的関係は1920年代後半、スターリンによって否定されていく。或いは中国におきましても色々ジグザグがありました。劉少奇なんかが出てきまして経済自由化の政策をやる時もあれぼ、或いは引き締め的政策を申る時がある。文革の後はケ小平がでてくると言うようなジグザグはあったし、これかちも全然有りえないと勿論言えないわけですが、しかし仮にスターリン的な非常に今の自由化を否定したような形での経済運営となっても、――スターリン自身は形式は商品生産なんだ、形式だけだと言っていますが――そういう“企業”としての形撃を残して運営されて来ているし、これからもまた運営されるだろう。
そういう全体を含めまして、私達は、ソ連や中国を(現代の“社会主義”国家を)一種の資本主義的な社会・資本主義社会というふうに評価すべきである、と考えるのです。
4、マルクスの唯物史観に立脚して
我々の“国家資本主義”論はロシア革命、中国革命の評価ともかかわる、非常に大きな問題でありますが、マルクスの唯物史観をみましても――これは『ドイツ・イデオロギー』から始まりまして、『哲学の貧困』あるいは『経済学批判』の「序文」や『資本論』の中でも色々な形で展開されておりますが――『経済学批判』の「序文」を見ますと、社会主義というのは生産力が一国の経済の中で余すところなく展開され発展していなければ新しい社会というのは生まれないんだということを言っています。
近代の社会主義運動も、こういう資本主義の発展を条件にして、科学的な社会主義の運動として出てきているのだ、それ以前の社会主義というのは理想としての社会主義という事は唱えたけれども、現実的な条件は欠いている、多かれ少なかれ空想的とならざるを得なかったし、空想的な社会主義である、こういうふうに言っているのです。
ヨーロッパにおきましては、マルクス主義というのは、資本主義の発展の・生産力の発展の中で、労働者階級の成長の中で出てきた限り、実際の基盤というか、歴史的な基盤との矛盾は無いと思うのですが、ロシアや中国の革命は、マルクスが生産力が十分資本主義のなかで成長しなかったら社会主義というのはありえないんだという、そういう条件の無い所でプロレタリア革命が起こったら、ではどうか、という問題を歴史的に提起したのです。
これは、たまたまロシアだけという問題ではなくて、「第三世界」という言葉がありますが、後進国にとってかなり普遍的に見られる問題だろう。今も例えば、共産党というか――そういうマルクス主義を看板にしない政党が後進国で権力を握っているばあいも、おなじような体制が生まれている国も多いのですね、これは国家と経済が一体化していくとか、あるいは支配政党と国家権力が一体化していくとか、こういう体制はいくつかあるわけで、かなり一般的な問題がそこには有るだろう、というふうに考えざるを得ない。
プロレタリア革命と言いましても、私は先程レーニンのことを言いましたけれども「レーニンの偉さというか、一番偉い所は、やはり社会革命党=エス・エルの即時の社会主義革命論――これは農民革命を社会主義革命あるいは共産主義革命というふうに考えているわけですが――それにたいして民主主義革命を唱えた、あるいは革命の後も――一時、戦時共産主義のころには色々左翼的な発言も見られるかも知れませんが――全体としては、直接に社会主義に行きえないんだ、当面はネップという形にみられるように、プロレタリア国家の下での商品経済・資本主義経済を導入してやっていくんだ、こういう観点に立ちえた――そういう観点に立ちえたから一層問題が混乱したのだ、と言う人もいるかもしれませんけれども――そういう観点に立ちえたということが偉いところではないか、あるいはむしろマルクス主義にきちっと立っていたからこそ、トロツキー的なロマンチックな空想とか、あるいはナロードニキ的な幻想に対して現実の基盤に立って闘いえたのだというふうに、そういうところがやはりレーニンの偉いところだというふうに私は考えております。
5、われわれの“国家資本主義”論について
また私達は国家資本主義という概念を使っております。これは言葉だけ取りますとレーニンの国家資本主義論と同じですが、内容は違います。レーニンは労働者国家の下での、その許容範囲の中での資本主義を考えていますが、私達はもっと体制的なものとしてこの国家資本主義を考えている。あるいは国家権力自体が国家資本主義の道具になった、すでにそういうものに転化している――いわゆる“スターリニズム”もあるいはスターリニストの国家も、そういう観点から私達は評価している。そういう意味ではレーニンの概念と違っております。
或いはトロツキーの「裏切り史観」というのがあります。レーニンもロシアにおける社会主義の展望を語っています。これは世界革命と関連して、あるいはネップの下で生産力を発展させるという展望の中で語っている。これをどう評価するかという問題もあります。
歴史が機械論的な宿命論的な観点で論じられていいのかどうか、何かソ連・中国の国家資本主義というのは宿命論じゃないか、べつの道が有りえた、あるいは問題はスターリニズムの裏切りであると、こういう観点が広くあるわけです。気持ちは分からないでもないし、私達もそういう観念にとらわれた時期もあるのですが、しかし歴史を何十年の歴史――何年ということならさて置くとしても−何十年の歴史を問題にする場合、あるいは中国やソ連のような人類の歴史を左右するような大国の歴史を評価する場合に、何か恣意的な、偶然的な問題として考えることはできないし、そういうふうに評価しても積極的なものは何も出てこないというふうに、今は考えています。
そういう意味では、レーニンの色々な発言――ネップのロシアから社会主義のロシアが生まれるだろうというような発言――もあるのですが、私達はレーニンのそういう個々の発言ではなくて、歴史の必然性の中でソ連、中国の社会経済体制を理解していく必要があるだろう、またそういうことなくしては、本当の正しい理解に達しえないんでは無いかと考えております。
プロレタリア革命と言いましても、中国革命においては、形式においてもプロレタリア革命では無いわけですが、ロシア革命でも――これは確かに一面ではプロレタリア革命と言えると私は考えております――しかしすでにネップを採用するころ、戦時共産主義の終わり頃、労働組合論争というのがありまして、その中で労働者反対派――サンデイカリズム的傾向と言われておりますが――そういう人達とレーニンが論争している、あるいはトロツキーも交えまして論争している、その中で労働者国家と言っても抽象なんだ、一つの抽象物としてしか無いんだ、実際にはそれは農民の利益を考えなくてはならないし、さらにもっと言えば官僚主義的に歪められている国家としてしか無いんだと言うことを、レーニンがトロツキーを批判して言っております。
ロシア革命自身が、労働者革命と言った場合でも、日本における労働者の社会主義革命という展望を私達は語るわけですが、おなじような意味で語ることはできないだろう、そういうロシア革命の問題――だからと言って私達は、ロシア革命・中国革命の偉大な歴史的意義を否定するわけではないのですが、――ロシア革命あるいは中国革命自身に対する総括というか、もう一度キチットそれをやり直してみるということも含めまして、国家資本主義の概念を考えていかなくてはいけないと考えております。
確かに、商品生産あるいは利潤のための生産、こういうことは国有化とか生産手段の共有ということと矛盾している。
しかし実際にそれが存在しているということです。しかもそれが商品生産を利用するんだ――これはスターリンに言わせれば、商品生産を利用して徐々に商品生産なり貨幣とかそういうカテゴリーを体制の中から無くして行きうるんだ――とスターリンは考えていたわけですが、実際の展開は、ソ連の60年代あるいは中国の70年代と進むにつれて利潤の生産だ、あるいは中国では人民公社の解体なんだ、個人農のあるいは富農の育成なんだ、こういう形になってきている。そういう現実を単に裏切りであるとか、人間の恣意であるとか、“政策”であるとかではなくて、私達はもう一度唯物史観の立場に立って正しく位置つけてみなくてはいけない。
マルクス主義が破産したと言う人は多くいますが、私はマルクス主義でもってしか――マルクス主義というのは基本的には唯物論的な考え方なわけですが、それによってしか――問題を解決し、あるいは評価することは出来ないだろう、このように考えています。
私達の国家資本主義論は、なにか思いつきとかということでは無く、私達の実践的な――安保闘争の後の実践的な――解決しなければならない理論課題として出てきて、そういう中で現実のソ連・中国を分析しながら、あるいはスターリンの理論を批判的に検討しながら得てきた結論であり、必然的なものである、と私達は考えております。
(完)
1996年12月29日 『海つばめ』第612号
ロシア革命80周年--ソ連・中国の“社会主義”--資本主義化の必然性は何か
今年はロシア革命80周年記念であり、また中国革命からもほぼ半世紀となる記念すべき年である。ロシア革命の結果であったソ連“社会主義”と共産党支配は今では「死んだ犬」としてのみ取り扱われ、マイナスのイメージでしか語られていない。とにかく、“共産主義”は失敗し、ソ連を見ても分かるように破産したのである。中国“社会主義”はなおいくらかの面目を保っているかであるが、それが歴史的に意義があるのは、社会主義としてでなく、反対に、中国のブルジョア的発展に一定の役割を果たし、それを加速するかぎりにおいてであるかだ。もし中国共産党が中国の経済的発展にとって一つの桎梏と化するなら、それはどんな存在意義も持たず、打倒の対象としてのみ存在することになるだろう。ソ連、中国の体制は80年あるいは半世紀に渡って“社会主義”の体制として、労働者に説明され、かつそう信じられてきたが故に、ソ連や中国の体制の現実は、ブルジョアの格好の社会主義攻撃の道具とされ、徹底的に利用されてきたばかりか、今その体制が実際に資本主義的体制と何ら区別のない階級社会、権力社会として存在していることが明らかになるにつれて、社会主義の破産の証拠としてあげつらわれている。かくして、世界の労働者階級はソ連や中国の革命とその後の体制や歴史についての真実を知らなくてはならないのだ。
■■■【1】■■■
1917年の革命と国家資本主義
80年前、ロシアにおいて十月革命が勃発したとき、世界の労働者階級は、地球上に初めて、そして人類の歴史において初めて、社会主義の国家が誕生したと歓喜の叫びを上げ、随喜の涙を流したのであった。
ヨーロッパやアジアやアメリカにおいては依然として資本主義が強固に根をはり、労働者階級を抑圧し、手ひどく扱い、人間ではないかに搾取しているが、しかしロシアにはついに、労働者階級が解放された国家が誕生したのであり、そしてロシア革命はただ労働者の世界革命の突破口としてのみ意義をもつものであったのだ。ロシアの次は、自分の国の革命である、と世界の労働者は信じたのであった。
そして、ロシア革命から世界革命につながっていく組織的な手段として、コミンテルン(第三インターナショナルつまり国際的な共産党)が組織され、第一次世界大戦後の激動する社会経済の中で、大きな影響力を及ぼして行ったのである。実際、世界革命は現実的な展望にさえ見えたのである。
しかしヨーロッパと世界の資本主義は持ちこたえることができ、ロシア革命は孤立した。そしてロシアの後進性とこの孤立は相互に規定しあって、ロシアを一つの社会経済体制として固定していったが、我々はこの体制を「国家資本主義」の概念で総括してきたのである。
この概念そのものは何ら目新しいものではない。この概念は、すでにレーニンが第一次世界大戦中にドイツの戦時体制に対して使用していたし、またロシア革命後の体制についても、革命の時期に言及され、そしてもっと明確には、1921年春、ボリシェヴィキ政権がネップ(新経済政策)の政策を採用した時に、レーニンによって語られている。
レーニンはロシアにおいて、直接に社会主義を建設できるとは考えていなかった。ロシアは、社会主義のために経済的に成熟していないことは、レーニンのみならず、ロシアの社会主義者、マルクス主義者にとっては、ナロードニキとの論争のときから余りにはっきりしたことであった。マルクス主義者たちは、ナロードニキとロシア革命の展望について争ったとき、当面問題になりうるのは、ツァーリズムを打倒する“民主主義革命”であり、この民主主義革命がいかなる形で遂行されるか、ということであった。
したがってレーニンがロシアにおいて当面、国家資本主義を建設し、それによって、社会主義の物質的基礎を作り上げ、社会主義につなげていくと主張したことは、マルクス主義者の伝統に忠実であった、ということである。
革命後の内乱時に採用された“戦時共産主義”の経験は、ロシアにおける直接の社会主義が不可能であることを実践的に明らかにした。直接の社会主義を導入することは、人口の大多数を占める農民が決して受け入れないこと、社会主義を押しつけるなら、彼らはボリシェヴィキに反対して決起し、その権力を一掃してしまうことがはっきりしたのであった。ネップだけが唯一の現実的な選択であった。
レーニンがはっきり語っているように、ネップとは一種の資本主義、「プロレタリア国家が管理し、統制する」資本主義、すなわち国家資本主義であった。国家がプロレタリア的であったということは、それだけで、体制が社会主義であることを意味しなかったのである。反対に、プロレタリア国家もまた、この体制によって規定され、それに従属したし、せざるをえなかったのである。
ネップの時代の国家資本主義は、レーニンもいっているように「国家が経済の管制高地」を握っている点に、すなわち財政や流通や貿易や金融の要点を握っている点に、特徴的に現れていた。しかし経済は基本的に商品経済の法則によって動いていくのであり、だからこそ、それはネップであった。農民は自由経済の原則にそって生産を行い、他方では、国家企業もまた「商業計算」に基づいて生産を行ったのである。
スターリン主義の体制
だが、1928年から29年にかけて、スターリンが権力を完全に掌握するとともに、「社会主義を建設」すると称して、農業集団化に乗りだし、また工業の規制も徹底的に強められ、“重工業化”政策が“社会主義”の名で強力に推進されるようになった。
もちろん、農民の集団農業への組織化は決定的な意義を持っていた、というのは、農民は当時なお人口の過半を占めていたからである。小農としての農民の存在を否定し、“社会主義的”集団農場の一員に組織することは、直接に社会主義建設である、とみなされたのであった。
農民の集団化と工業規制の強化、重工業の強行的建設、価格統制(農産物の計画的な引下げ、財政・流通を通しての農民の徹底的な収奪)といった契機に代表される、スターリン的な“国家資本主義”の特徴は何であったのだろうか、そしてそれはレーニンの時代の国家資本主義とどんな形で区別されるのであろうか。
一番明瞭なことは、レーニンの国家資本主義が、基本的に経済の「管制高地」を支配するものであり、経済の個々の単位にあっては、比較的自由な′o済活動の余地があったのに対し、スターリン主義の国家資本主義にあっては、経済のすみずみまでも国家の規制、統制が張りめぐらされたということであった。その焦点は価格であり、価格の統制は徹底的に行われたが、それは農業の収奪と、その収奪された社会的剰余価値を国家に集中し、国家を通して工業化の原資に、すなわち資本に転化する決定的な手段になったのであった。農産物の価格は意図的に低く決定され、販売時には「取引税」(国家の収入となったのだが)を加えて異常に高く引き上げられたが、それは国家による農民のおそるべき収奪と、資本の強蓄積のテコとなったのである。
産業労働もまた、一つの強制労働として現れ、労働者はどんな民主主義的権利も奪われて、スターリン主義的官僚のほしいがままの搾取にゆだねられた。
“価値法則”は国家によって徹底的に(恣意的に)利用されるべきであって、自由な運動に任されてはならない、というスターリンの経済理論は、まさにスターリン主義的な国家資本主義の典型的なイデオロギーであったといえよう。
スターリンの“恐怖主義的”独裁の体制は、こうした国家資本主義の搾取体制の“上部構造”であり、またそうしたものして歴史的な役割と意味を持ったのである。
こうした強権的な体制が一つの内的な矛盾を含むものであることは一見して明らかであろう。それは初期の熱狂的な労働強化の時代を経た後は、社会的生産力を発展させないで、社会の全般的な停滞を準備したのであり、結局は国家資本主義の衰退と破産につながったのである。
顕在化した体制のブルジョア的本性
こうした体制の矛盾は、戦争準備と第二次世界大戦の中では、むしろ一つの積極的なものとして隠蔽されてきた。その矛盾が全面的に顕在化してくるのは戦争の終了と、そしてスターリンの死を待たなくてはならなかったのである。
1945年に戦争が終了し、53年にスターリンが死ぬと――そして戦後経済の時期が終了すると――、スターリン主義の体制がロシアの経済的発展にとって一つの桎梏と化したことが明らかになってきた。
すでにフルシチョフは一九五六年にスターリンを勢いよく暴露したが、しかしその時には、彼はスターリンを道徳的に非難しただけであって、その体制についても、経済政策についてもほとんど語らなかった。
しかしすぐに変化が現れ、フルシチョフもまた後に経済自由化$ュ策――資本主義的政策、あるいは資本主義導入政策――と呼ばれた政策の最初のものを採用し始めた。例えば、トラクター・ステイションの解体を決定したが、この制度は、国家が農民を統制し、支配する重要な道具となっていたものであった。
フルシチョフは、1961年のソ連共産党の第二十二回大会で、ソ連はすでに社会主義の建設を終えており、1980年ころまでに共産主義に到達できるであろう、と宣言して世界を驚愕させた。彼はソ連が共産主義に到達するためには、ただ工業生産の発展、豊かな消費財、アメリカに劣らない生活水準だけが必要であるが、これらはソ連産業の生産性を高め、労働者に対する物質的刺激を強め、新しい進んだ技術の開発と導入を徹底的に進めることだけが必要である、と強調した。
しかしフルシチョフのこうした高言と並行して、共産主義に到達するためには、商品生産をさらに徹底的に発展させなくてはならないとか、工業生産の“効率性”の基準として「利潤概念」を導入しなくてはならないとか言われ、最初から、フルシチョフの「共産主義」の本当の内容をさらけ出したのであった。リーベルマンの「利潤を重視せよ」という論文が発表され、“自由主義”世界全体の“好評を博した”のが、この1961年であったのも決して偶然ではない。
このころになると、「利潤論争」とかいったものが登場し、企業の経営の指標として、もっと物質的刺激などの経済的指標を重視し、また労働者の賃金にも報奨金的な契機を入れるべきだ、そして生産におけるモノの指標を減らすべきだ、といった強力な主張が現れたが、こうした声は、ときとともに、ますます強大になっていき、価格の自由化も、したがって自由競争もまた必要であるという強調にまで高まって行った(一時的な後退はあったにしても)。
1960年代以降、幾多の“自由主義的な”経済改革が行われたが、こうした部分的な改良はすべて、その改革の不十分さ、不徹底を暴露し、古いスターリン主義的体制の矛盾を一層明らかにしただけであって、よりラジカルな改革なくしては、ソ連の経済体制が生き返ることはできないということをますます鮮明にしただけであった。
こうしたすう勢は、ソ連における産業の発展、農業の地位の相対的な後退と歩調をあわせており、その結果でもあった。国民経済的搾取によって、国家をテコにして蓄積された資本は、“資本”としての存在を要求し始めたのであり、かくして、国家資本主義すなわち隠蔽された資本主義から、公然たる資本主義への移行が問題となる時代が到来したのである。
ソ連の内部でも、ブルジョア的勢力が成長し始めたが、彼らはますます経済が資本主義的原則にそって運営されることを、声高に要求しはじめた。ソ連のブルジョア勢力は、国家権力の上層部、国家企業の官僚層、そしてインテリの広汎な層であった。彼らはマルクス主義の意図的な修正、歪曲に乗りだし、あるいはスターリンだけでなく、「スターリン主義の原因となったレーニンやマルクス」に対する攻撃をますます強めていった。すでに1930年代以降のソ連“マルクス主義”といったものは本質的に信用できないものであったが、60年代以後のものは、露骨にブルジョア的な本質をさらけ出しているといえるであろう。こうしたソ連・“マルクス主義”の強力な助力を得て、日本共産党の「民主的革命」路線とか、構造改良主義の日和見主義とか、マルクス主義の露骨な修正主義等々が全面的に開花してくるのである。
一定の段階にまで達したブルジョア勢力がスターリン主義体制の一掃に乗り出したとしても何の不思議もないであろう。1980年代末から90年代にかけて、ブルジョア勢力は国家資本主義的体制の一掃に乗り出し、東欧において、そしてロシアにおいて、この革命を成功させることができたのである。
東欧革命、ソ連邦の解体等々によって、かつて“社会主義体制”と呼ばれていた世界は全面的に、何のためらいもなくブルジョア化し、文字通りの資本主義体制――といっても、なお極度に集中した国家的、独占的な資本主義体制――に移行したかである。
しかしソ連などはこのときに初めて資本主義に移行したのではないのだ。これらの体制は、その体制の根底がブルジョア的であり、ブルジョア的進化を一貫してとげてきたからこそ、そのいわば“完成”として、1990年前後の変革がありえたのである。それはロシアや東欧の体制の隠された本質を暴露したのであって、それ以上ではないのだ。ベトナムや中国やキューバまでもが「後を追った」のは、この体制の発展の必然性とその本質を、我々に語ってくれているのである。
我々はすでに1960年代から、スターリン主義体制――共産党などが“社会主義”と呼んで美化してやまなかったソ連などの体制――のブルジョア的本質を一貫して暴露し、スターリン主義官僚の打倒を呼びかけてきた。
ロシア革命はプロレタリアの偉大な階級的行動として、永遠に世界の労働者にとっての励ましであり、無限の教訓に満ちている、しかしまたそれは、社会主義は一方における高度に発展した生産力、すなわちマルクスが「あふれるばかりの豊かな生産物」と呼んだもの存在と、他方における労働者階級の高い意識を前提にするものであって、その前提を欠くなら、ただ権力的、行政的手段だけで、人間の意志や意欲(主観)だけで獲得されうるものではない、ということを実践的に教えてくれたのである。社会主義もまた歴史的、現実的な存在であって、決して観念的、“意志的”なものではないのだ。
(林 紘義)
■■■【2】■■■
中国革命の性格とその歴史的意義
ロシア革命80周年の今年は、中国にとって香港返還を迎える記念すべき年でもある。革命後の中国の政治経済体制のブルジョア的進化の過程を跡づけよう。
中国の社会経済体制を考察するには、中国革命の性格、革命を必然化した当時の歴史的諸条件を見ておかなければならない。
革命前の中国が基本的に封建的諸関係が根強く残存する農民国、外国帝国主義の抑圧にあえぐ経済的後進国であったことは特に説明を要しないだろう。革命前は、農村人口の約10%を占めるにすぎない地主・富農が中国の全耕地の70%以上を支配し、他方90%近くを占める貧しい農民が所有する耕地は全耕地の30%以下にすぎなかった。
労働者階級は人口の数%を占めるにすぎず、しかも1927年の蒋介石の反革命で労働者の闘いは後退していた。
中国革命は基本的に地主階級と外国帝国主義の支配を一掃する農民革命、“民族民主革命”として闘われたのであり、我々はまずこのことを確認すべきであろう。1949年の中国革命の全国的勝利は「ブルジョア民主主義革命の基本的終結と社会主義革命の始まり」を意味すると毛沢東指導部は呼号したが、革命の性格は実際にはブルジョア的であったし、当時の中国の社会経済的諸条件の下ではそれ以外では有り得なかったのだ。
革命政権は、地主の土地を農民に解放し、かくして広範な小農民が誕生した。中国において小農生産が支配的となったということは商品生産の発展の諸条件が生まれたということである。小農民は自己の消費を超える余剰農産物を市場に投じ、商品生産と流通は不断に形成され発展するだろう。そして商品生産の発展は必然的に農民層の分解、ブルジョアジーとプロレタリアートの形成をもたらす。
中国革命の歴史的意義は、革命が封建的諸関係と外国帝国主義の支配を一掃し、急速な資本主義的発展の諸条件を整えたところにある。社会主義は資本主義的発展の成果の上に、とりわけ生産の高度の発展と社会化の達成の上にのみ可能である以上、中国革命の歴史的意義は明らかである。我々はただ、ブルジョア革命を社会主義革命と偽って美化する人々に反対するのである。
国家資本主義の確立
中国の革命政権は、土地の農民への解放と並んで外国資本家や買弁資本家の所有する工場を国有化した。他方、多数の中小企業は私営のまま存続していたが、国家との「公私合営」の方向へ“誘導”されていった。
商品生産の基礎上での国有化や「公私合営」の体制は、一種の資本主義、国家資本主義を意味するに他ならない。労農政権下のロシアと同様、中国もまたその歴史的条件に規制されて国家資本主義の道を歩むことになるのである。
中国では1953年に第一次五カ年計画が始まるが、その過程でソ連の経験に倣って厳格な中央集権的指令経済、企業長単独責任制、農産物の統一買付け制などが導入される。そして56年には、ほとんどの私営工業と私営商業の「全面的公私合営」が完了し、農家の九割が「高級合作社」に組織された。中国国家資本主義の確立である。
こうしてロシアの場合と同様、「集団化」された農民から国家の強制買付けによって低価格で農産物を買取り、都市労働者に低価格で食料を供給し、労働者の低賃金をテコに利潤上納を確保するシステムが、換言すれば農民の収奪と労働者の搾取による資本主義の急速な確立・“本源的蓄積”の体制が確立する。
農民的共産主義の幻想
しかし、革命後も長い間農民国にとどまっていた中国国家資本主義のその後の歩みは、ソ連とはかなり違っていた。その最も特徴的な現れが“プロレタリア文化革命”として噴出した農民的共産主義の幻想である。
毛沢東の提唱の下、中国は1958年から急進的な経済建設と農民の「人民公社」への組織化を特徴とする「大躍進」期を迎え、「調整期」を経て1966年から“プロレタリア文化革命”に突入する。毛沢東に鼓舞された紅衛兵が全国を席捲し、実権派官僚の頂点として劉少奇は打倒され、トウ小平は失脚した。
当時、日本共産党は、文革は中国共産党内部の「権力闘争」にすぎないと規定し、暴力や“行き過ぎ”の非難に明け暮れたが、こうした見解がどんなに皮相であったかは言うまでもない。文革が単なる「権力闘争」にすぎなかったならそれが多少とも西側諸国の学生たちの共感を呼び、時代的な影響を与えた事実を説明できないだろう。
毛沢東は、国家資本主義確立後の中国の現実の中に官僚の専横、私利追求の風潮、投機や闇取引、幹部の腐敗などブルジョア的傾向を認め、深刻な危機感を抱いた。文革の発動とは中国の新しい支配階級、国家資本主義官僚(実権派)に対する闘いの宣言であった。そして毛沢東は三大差別(工業と農業、都市と農村、肉体労働と精神労働の)の撤廃、パリ・コンミューン型の新しい権力の創設、大衆の自己解放を呼びかけた。
こうした毛沢東の主張は、毛沢東主義の革命的側面を代表するものであり、ブルジョア官僚の専横と腐敗に憤る中国の大衆を(さらに西側諸国の学生や一部労働者をも)引き付けたのである。
しかし毛沢東は農民共産主義者として、資本主義的発展が緒についたばかりの農民国が直接社会主義へ移行できるかの幻想に捕らわれていた。ブルジョア的腐敗に対する闘いを文化革命、即ちイデオロギー闘争として提起する彼の主観主義、観念的急進主義もまた明らかである。
文革は、それ故、学生や農民など小ブルジョアジーを捉えたが、労働者の多くは懐疑的ないしは批判的であった。そして労働者が賃金引き上げ、臨時労働者の常用労働者への格上げなどの経済的要求を掲げて文革に参加するや否や、毛沢東はそれを経済主義として断罪する。プロレタリア文化革命は急進的政治主義的“革命”以外ではなく、それが多少ともプロレタリア的色彩を帯びるや、プロレタリアートを抑圧したのである。
公然たる資本主義的発展
毛沢東が死去し、トウ小平が復活してからの中国の現実は多くの人々が認めるとおり、資本主義そのものである。トウ小平の指導による「改革・開放」路線は、農村から都市へ、商品生産の暗黙の承認から公然たる容認と奨励へ、私的経営の部分的容認から資本家的経営の容認へと進んで来た。人民公社はとっくの昔に解体され、集団企業の名の下にれっきとした資本家的企業、郷鎮企業が発展している。労働者を雇用し搾取する「私営企業」が急速に増え、外資導入が進んで100%外資の企業も登場している。上海や深センなど資本主義の最先端を行く地域には株式市場、資本市場が生まれている。
中国のブルジョア化は誰も否定しようがない現実である。これは国家資本主義の必然的帰結である。中国的特徴を持った社会主義と礼賛されてきた体制は、ブルジョア的性格を内在させた特殊な資本主義、国家資本主義に他ならなかったのであり、それはその一定の発展と共にブルジョア的性格を公然と露呈するに至ったのである。
中国における資本主義の勝利は、社会主義の敗北ではなく、国家資本主義の進化の帰結であり、しいて言うなら国家資本主義論の勝利である。公然隠然と中国社会主義≠礼賛してきたすべての人々は(日本共産党も含めて)今こそ自らの不明を恥じなければならない。
中国のブルジョア化は、香港の復帰によって弾みがつくだろう。そして中国の資本主義的発展は、同時に資本主義に内在する一切の矛盾の発展を通じて労働者の階級闘争を広範に準備し促さずにはおかないだろう。学生や知識人を中心とする“民主化”闘争の時代の次に来るのは労働者の階級闘争の時代であり、その予兆は既に現れている。
(鈴木研一)
<English version>
1983年7月17日 『火花』第598号
マルクス主義のスターリニズムへの転化――それはなぜ、いかにして必然化したか?
マル労同委員長 林紘義
マルクスが死んでから百年、「共産党宣言」が出てからすでに135年という長い年月が経過していている。しかし労働者階級の解放の闘い、革命的共産主義の運動は世界的な勝利へとたどりつくのではなく、反対にこの半世紀もの間、深い危機の時代を迎えている。この危機が、マルクス主義の“スターリニズム”への転化によってもたらされたものであることは明らかである。我々は、この転化がなぜ、いかにして生じたのか、そして又その意味は何であるのかを論じてみよう。この小論の論旨は、7月3日に東京、10日に大阪で行われた時局演説会の演説と基本的に同じものでありますが、内容はかなりちがっています。(筆者)
マルクス主義の“後進国への適用”
マルクス主義の“スターリニズム”への転化――これはかつてマルクス主義が世紀の移り目に日和見主義、修正主義に転化した以上の重大な、しかしより一層複雑な歴史的現象であり、この事実を正しく理解することなしには労働者階級は資本に反対する一貫した、徹底的な闘いを闘っていくことはできないだろう。
この転化の意味は明らかである。それは、マルクス主義の、その反対物への移行、すなわち一定のブルジョア的立場や思想への移行であって、この意味ではかつての修正主義的変質の場合と本質的に同じ現象である。
しかし区別も又すぐあらわれる。この場合、区別も又重要であるのは現実に、“社共統一戦線”を強調しつつも、社共が決して最後まで一致できないし、又合同もしないことからも明らかであろう。
共産党の転落は(ブルジョア的立場への移行は)、基本的に二つの面であらわれている。一つは資本主義の社会主義的変革の課題が民主主義的改良の課題にすりかえられ、置きかえられているということ。“民主主義防衛”がどう意味が持つか――現代の日本において――は、マルクス主義者にとって自明である。これは革命的マルクス主義が、ありふれた平凡なブルジョア改良主義に転落したこと以外を意味しない。
もう一つは、資本との階級闘争のかわりに階級協調と“統合”が強調されていること。いわゆる共産党の「民主統一戦線の理論(戦術)」である。
この戦術は直接には小ブルジョア的幻想である。1848年の二月革命以来、「反動に対抗するための“民主的”統一」、大衆団結の思想はくりかえし登場して来たが、しかしその内容がブルジョアジーとの“統一”であり、協調であることが、歴史によって明らかにされている。
1930年代のフランス、スペインの「人民戦線」の経験、第二次大戦直後の“国民”戦線――フランス、イタリアにおけるスターリニスト共産党のブルジョア政党との露骨な連合――、さらには1970年代はじめのチリの社共政権の経験、最近の日本の“革新”自治体の経験――これらはすべて、共産党のいう「統一戦線」が結局はブルジョアジーとの「統一戦線」であり、階級協調主義であったこと、もしくはそこに帰着したことを暴露しているのだ。
マルクス主義のスターリニズムへの転化は、国家資本主義的世界の形成の不可避的結果であり、ロシア、中国の革命が勝利するに比例して、マルクス主義はスターリニズムに転化した。
だが、ロシア、中国の階級闘争へのマルクス主義の適用は必然であった。封建的――もしくは“アジア的”――政治経済関係が支配的な後進諸国、資本主義的発展がほんのわずかしか認められず、労働者階級がほとんど成長していない。おくれた後進諸国も又、こうした“後進性”からの脱け道を見出そうとして、“マルクス主義”に到達したのであった。
とはいえ、これらの国家は、直接に社会主義に直面していたのではなかった(比較的進んでいたロシアさえもそうでなかった)。これらの国家の課題は、“アジア的生産様式”の停滞から抜け出して“国民経済的”発展の道に入りこむことであり、それを妨げている一切の古いものを徹底的に打倒し清掃することであった。
要するにこれらの諸国はやっと資本主義的発展の端緒となるべき“民主主義”革命の時代に入りこんだにすぎなかったのであり、マルクス主義もまた、こうした客観的な要求に応えるかぎりで導入されたのであって、プロレタリア社会主義の理論として直接に導入されたのではない。
ここに、プレハーノフやレーニンによるロシアへのマルクス主義の適用が、一つの先例となり、模範となった理由がある。この適用自体、どんなに困難な過程であったかは、プレハーノフとその「労働解放団」の20年の苦闘を見ればたちどころに明らかになる。ナロードニキからマルクス主義への前進は、ロシアの“反体制派”にとって決して易しい仕事ではなかったのだ。
プレハーノフから学びつつ、レーニンはロシア革命の“戦略”をつくりあげたが、それは、「労働者、農民の革命的、民主主義的独裁」というスローガンに集約されている。レーニンはここで、ブルジョア民主主義革命に労働者階級(労働者党)が先頭に立って闘うというプログラムを提出したのである レーニンのこの“戦略”は、トロツキーの「永久革命論」とちがって、直接にロシアの社会主義建設の展望と結びつけられたものではなかった。
周知のように、トロツキーはヨーロッパのプロレタリア革命の勝利とその援助を媒介にして、プロレタリアートの独裁としてしか勝利しないロシアのブルジョア革命は、“永久的に”社会主義にむけて前進して行かなくてはならないと論じ、こうした形でブルジョア革命と社会主義革命を結合し、両者の“構わたし”をした(お好みなら、ここにスターリンの「革命の成長転化論」の原型がある、ということもできる)。
そこで一つの疑問が自然に生まれてくる――もしレーニンも「民主主義革命論」をとなえ、しかも十月革命ののちには、「ネップのロシアから社会主義のロシアが生まれる」という“確信”を吐露しているとすれば、一体、レーニンの主張とスターリンの「二段階革命論」と、どれだけのちがいがあるというのであろうか? それは事実上同じものではないのか?
こうした質問に対しては、ロシア、中国が社会主義国家であると前提するなら、絶対に正しく回答することはできないであろう。ソ連、中国の社会経済体制のブルジョア的な本性を認識すること、そしてこの認識から出発してレーニンとスターリンの理論を総括すること――これのみが二人の理論に対する科学的に正しい結論をもたらすであろう。
ロシア・マルクス主義のジレンマ
ロシアのマルクス主義者に対して、問題は次のように出されていた――封建的関係が支配的であるおくれた国家、ツァーリが絶対的な支配権を行使している専制主義の国家、産業労働者がまだほとんど育っていない国家、客観的にはブルジョア民主主義革命に直面しているにすぎない国家、こうした国家でマルクス主義者とプロレタリアートはいかに行動し闘うべきであろうか、しかも自らの階級的原則や諸原理をほんのいくらかでもねじまげたり、それにそむいたりすることなしに。
回答は簡単にみえて、そうでない。レーニンはドイツの1848年の革命から学びつつ、強調している。ブルジョア革命を中途半端にとどめないでとことん闘うために労働者階級はブルジョア民主革命に参加する、もしくはその先頭に立つし、立たなければならない、と。
プレハーノフもレーニンも、いやしくも「社会民主党員」はみな、ロシア革命のブルジョア的性格を承認していた。レーニンがメンシェヴィキに反対して主張したことは、「ブルジョア革命だからそれはブルジョアジーの仕事である」という歴史的な宿命論、傍観者的な偽善に対してであった。プロレタリアートは積極的にブルジョア民主革命に参加し、それをとことんおしすすめ、古い勢力、古い関係を一掃しなければならない、――というのはブルジョアジーは労働者の階級闘争が発展するに反比例してブルジョア革命の完遂に消極的となり、古い反動的な勢力と妥協し闘いを放棄するだろうから。だから労働者階級は農民と協力して民主的変革を最後までやりぬくことが必要である。
レーニンはブルジョア革命とマルクス主義の関係について次のように述べている。
「マルクス主義は、プロレタリアに、ブルジョア革命から遠ざかれとも、これに参加するなとも、その指導権をブルジョアジーに与えよとも、教えていない。反対に、マルクス主義は、ブルジョア革命にもっとも精力的に参加せよ。徹底したプロレタリア民主主義のために、革命を最後まで遂行するために、断固としてたたかえ、と教えている。われわれは、ロシア革命のブルジョア民主主義的な枠から飛びだすことができないが、この枠を大いに押しひろげることはできる。われわれは、この枠のなかで、プロレタリアートの利益のため、その直接の必要のため、また将来の完全な勝利にそなえてプロレタリアートの勢力を訓練する条件をつくるために、たたかうことができるし、またたたかわなければならない」(「民主主義革命における二つの戦術」、国民文庫53頁)
ブルジョア革命にプロレタリアートが参加することは必然であった、というのはプロレタリアートは封建的な諸関係を一掃することに大きな利害関係をもっていたからである。問題は、いかなる形で参加するか、であった。ブルジョアジーを信用せず、それをおしのけるような形でか、それともブルジョアジーを信用して(もしくはブルジョア革命であるからブルジョアジーが、先頭に立つべきだという“信念”にもとづいて)、それをおしあげるような形でか、であった。
ポリシェヴィキとメンシェヴィキそれぞれ“難点”があったことは明らかだ。メンシェヴィキのやり方では、ブルジョア民主革命の勝利さえおぼつかなかったであろう。他方ポリシェヴィキのやり方がなにを結果するかはあいまいではっきりしていなかった。メンシェヴィキのやり方に従えば、革命のあと、ブルジョアジーの支配が登場することはきわめて明白でもあった、ところが、ポリシェヴィキのやり方では、一体何が生まれるのであろうか? ブルジョアジーは革命のわきにとりおかれ、下手をすれば(古い封建勢力と連合すれば)プロレタリアートによって打倒されかねない勢いである。労働者農民の独裁政権が組織されるというのだが、この政権は、自ら進んでブルジョアジーに権力をひきわたすのであろうか、それとも、社会主義に向かって何らかの政策を採用するのであろうか? レーニン達はこれらの疑問に明白にはこたえておらず、回答を歴史の進行そのものにゆだねたかである。
レーニンのスローガンは「労働者農民の民主主義的独裁」であった。この「民主主義的」という言葉は、むしろこの革命の歴史的、階級的な性格をあらわす言葉であって、「社会主義的」独裁に対する概念として、ここで用いられている。
しかし、労働者階級がブルジョア民主革命のために、「先頭に立って」闘うということは、ある意味でジレンマではなかったろうか?――レーニンははっきり述べてはいないが、労農民主独裁によって封建勢力が一掃されたあと、憲法制定議会が招集されれば、労働者も又そうしたブルジョア秩序のなかに後退するかに、暗然のうちに前提していた――というのは、彼は、ブルジョア革命と社会主義革命をはっきり区別すべきであって、それを混同すべきではない、とくりかえして主張しているからだ。又、彼は、この革命のあとではじめてロシアにおける本格的な急速な資本主義的発展がありうると強調している。
これは実際上、プロレタリアートがブルジョアジーのために革命の先頭に立つ、ということではないのか。資本主義といえば、労働者にとって、まさに最高に発展した奴隷制度以外ではないのか?
労働者が、自らを抑圧し、搾取するブルジョアジーの支配のために闘うということは、客観的に、彼らがブルジョアジーの手先になることではないのか?
ここに一つの困難な問題があり、矛盾――勿論これは現実の矛盾の反映であってロシア・マルクス主義者の矛盾した立場はその反映でしかなかったのだが――があったことは疑問の余地がないであろう。
レーニンは、この困難をよく理解していた、だからこそ彼は、ブルジョア革命はブルジョアジーにとってよりもプロレタリアートにとって利益である、と言っているのだ。レーニンは勿論、「ある意味では」と保留をつけている。つまり、ブルジョア革命がとことん遂行されて一切の封建的なものが一掃され、民主共和国がかちとられ、資本主義が急速に発展するなら、そしてプロレタリアートが公然たる社会主義的階級闘争をとことんやりぬく諸条件が獲得されるなら――こうした形でブルジョア革命が行われるなら、それはブルジョアジーにとってよりもプロレタリアートにとって利益であるというわけだ。
我々はレーニンのこの“積極的な”主張をどう評価すべきであろうか? レーニンに対して、メンシェヴィキは、ブルジョア革命はブルジョアの仕事であるから、労働者は「余りに革命的にふるまってブルジョアジーをおじけつかせ、革命闘争からしりごみしないように慎重にやらなくてはならない。労働者はむしろ、政治闘争はブルジョアジーにまかせて階級的立場を保持し、労働組合運動や経済的地位改善の闘いに力をそそがなくてはならない」といった立場にとどまった。
かくしてポリシェヴィキがプルジョア的政党(全人民的政党)としてあらわれ、反対にメンシェヴィキが労働者の階級的政党としてあらわれた。
しかしこれは見かけだけのことであった。ポリシェヴィキが実際に強調したことは、ブルジョア革命を現実にかちとるためには、革命を裏切るブルジョアジーをあてにするのではなく、労働者階級自身がたち上がらなくてはならないということであり、要するにブルジョアジーを信用したり、それと協力したりしても何の役にも立たない、ということであった。
他方、メンシェヴィキはブルジョアジーを信用し、それと協調することこそ第一義的に必要である、というのはロシアが直面している革命はブルジョア革命であり、ブルジョア革命の主体はブルジョアジーだから、と言ったのである。
ポリシェヴィキはブルジョアジーに反対する階級闘争の立場を断固として保持しつつ、しかもブルジョア革命の先頭に立て、と労働者階級に語り、メンシェヴイキは、ブルジョア革命はブルジョアジーの仕事であり、それの先頭に立つのは労働者にとってジレンマである、労働者はブルジョア革命の段階ではせいぜいブルジョアジーをはげまし、その尻おしをする役割しか果たせない(はたすべきではない)、むしろ労働者階級独自の立場、労働組合運動等々にとどまるべきである、と主張したのである。
労働者の諸君が、日和見主義的メンシェヴィキに反対して、革命的ポリシェヴィキに賛成することは確かだと思う。
実際、メンシェヴィキのように、労働者の経済的地位の向上のために闘うといっても、ツァーリズム専制がある限り労働者にどんな権利もなく、従って実際には闘うことができなかったのである。労働者の階級的闘い――経済的地位の向上を目ざす――社会主義的な闘いが自由に発展するためには、レーニンもいったように、ツァーリズムと封建的諸関係が一掃されなければならなかったのである。
後進国の労働者階級は公然たる社会主義的闘いをはじめる前に、まず封建的な、もしくは植民的な諸関係をかたづけるという課題を果たさなければならなかったそしてこの課題を果たすことは、資本主義の自由な急速的な発展の道を切り開くということであって、直接に社会主義へ移っていくことではない。
レーニンの理論のなかには、スターリン的な「民主主義革命の社会主義への成長転化」といったものは一切なかった。むしろレーニンは、ブルジョア革命とプロレタリア社会主義革命をはっきりと区別することを要求している。レーニンは、当面する革命がブルジョア革命であることをはっきりさせるために、この区別に固執したのである。
「(労働者階級の即自の解放、社会主義的解放は)ばかげた、半ば無政府的な思想」である、「ロシアの経済的発展の程度(客観的条件)と、プロレタリアートの広範な大衆の自覚と組織の程度(客観的条件と切りはなしえないように結びついていた主観的条件)では、労働者階級を即自完全に解放することは不可能である。いま進行している民主主義的変革がブルジョア的性格のものであることを無視していられるのは全く無知な人々だけである」(同22頁)
勿論、レーニンもプレハーノフも、ブルジョア革命と社会主義革命を接近させたいと熱望し、「二つの戦術」のなかでも、ロシアの民主主義革命を西欧に「飛火させること」について論じている。
「われわれは、民主主義革命における社会民主党の完全な勝利、すなわちプロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁を、恐れてはならない(マルトィノフが恐れているように)。なぜなら、そうした勝利はヨーロッパを立ちあがらせる可能性をわれわれに与えるであろうが、ヨーロッパの社会主義的プロレタリアートは、ブルジョアジーのくびきをなげすてたのち、こんどは逆にわれわれが社会主義的変革を遂行するのをたすけるであろう」(同99頁)
しかしにもかかわらず、レーニンはブルジョア革命とプロレタリア革命が一つづきの一つの革命の二つの契機であるといった非科学的な議論をきっばりと拒否している。
又、レーニンはフランス革命でさえそうだったのだから、来るべきロシアのブルジョア民主革命にプロレタリアートが消すことのできない刻印をおすであろう(おさなくてはならない)ということを、当然のこととして述べている。だがこの「刻印をおす」ということと、選命全体の歴史的階級的性格が何であるかということは、別の事がらである。仮にどんなに深刻なプロレタリア的刻印がおされようと、来たるべきロシア革命はブルジョア革命であり、「資本主義の基礎に手をふれることはできない」「直接にはブルジョア的な社会=経済諸関係の枠をこえない」ことを確信していた。
国家資本主義の確立とスターリニズム
ロシア革命、中国革命は、労働者階級の“ジレンマ”に、実戦的に結着をつけた、といいうるだろう。
自由主義的ブルジョアジーがツァーリズムと何ら真剣に闘うことができず、その実力もなかったこと彼らにまかせておけば封建勢力の打倒といった課題が決して果たされなかったことは、歴史的に証明された。労働者と「軍服を着た農民」である兵士の決起だけがツァーリズム体制を一掃することができた。この限り、ポリシェヴィキが正しく、メンシェヴィキはまちがっていた。
しかし、では、革命ははたして「労農民主独裁」をもたらしたであろうか。そしてそれは、反革命を粉砕し、「憲法制定議会」を招集し、ブルジョア的民主共和国へと移って行ったであろうか?
十月革命で成立した政権をある意味で「労農民主独裁」とよびうることは、レーニンがポリシェヴィキ政権を「労働者政府でなく労働者と農民の政府である」とわざわざ強調していることからも明らかである。
しかしこの労農政権は憲法制定議会を招集して自らしりぞくかわりに、それを解散させ、自ら新しい国家へとなりあがった。
しかしこの政権は社会主義に直接移行できないで、ネップの“政策”に、すなわち国家資本主義の“導入”に移って行かざるをえなかった。自由主義的ブルジョアジーは破産し、ロシアでは存在しえないことが暴露されたが、しかし資本主義の毒は克服されなかった。ありうべき体制は、国家資本主義以外になかったのである。歴史はこうした形で“ジレンマ”を、“解決”したのである。
この国家資本主義の体制が後進国家にとって一つの必然であることは、中国や東欧やキューバやベトナムや――要するにすべての後進国家の労農革命が国家資本主義に帰着したことによって完ぺきに証明されたというべきであろう、国家資本主義は歴史的な現実となったのである。
国家資本主義は、資本主義的限界のなかにあるとはいえ、封建的、半植民的なロシアや中国に比べれば偉大な歴史的進歩である。こうした形でのみ、「おくれた」ロシアやアジアは、西欧に「追いつく」道を見出しえたのであり、これこそまさに歴史の弁証法というべきものであろう。
プロレタリアートは、ロシア革命等に強烈なプロレタリア的刻印をおしたとはいえ、客観的には国家資本主義体制のために闘ったのである。こうした結論は別におどろくべきものではない。レーニン自身がブルジョア民主主義革命のために先頭に立って闘えと労働者に忠告していたのだから。レーニンの「民主共和国」とアメリカ型の資本主義的発展はそのものとしては実現しなかったが、国家資本主義という形であらわれた――それはある意味でレーニンが求めていたものであるがすなわち、古い封建的なものの徹底的な一掃とそのうえにたつ急速な資本主義的発展をもたらした、という限りで。だがレーニンが期待した「徹底した民主主義」はスターリニズム体制のもとでは存在すべくもなかった(レーニンは徹底した民主主義の下でのみ、労働者の公然たる社会主義的闘いが開始され、遂行されると論じたのであるが)。
大ブルジョアにとって有利な形でではない、「労働者農民にとって有利な形態」でのブルジョア革命というレーニンの“戦略”とてらし合せて、ソ連や中国の国家資本主義はどのように評価されるのであろうか? それははたして、普通の、ブルジョア国家より労働者に「有利な形態」であったろうか? 労働者にとって有利なブルジョア革命といったことは、ある一定の限度内でのみ論じうることは明らかであるように思われる――勿論、レーニンは別に、それを絶対化しているわけではないが。しかし、レーニンがそれを強調していることは事実である。
我々はむしろ、それが「有利な形態」であるかどうかといった議論――それは一面で有利であり、他面ではそうではないであろう――よりも、ソ連、中国の国家資本主義が後進国家において一つの必然であったことを認識することの方がはるかに重要である、と考える。
レーニンは、プロレタリアートはブルジョア民主革命に参加し、その先頭に立たなければならない、というのはブルジョアジーは裏切りを準備しているからであり、もしプロレタリアートが先頭に立たなければブルジョア的発展はゆがめられ、労働者にとって極めて不利な形で行なわれ、労働者が公然と社会主義のために闘う諸条件がちぢめられ、せばめられるからである、と論じた。
スターリンはこのレーニンの論理を“発展”させて、プロレタリアートはブルジョア民主革命に参加すべきである(必ずしも先頭に立つ必要もなく、又ブルジョアジーと一線を画す必要もなく)、そしてこのブルジョア革命は「社会主義に成長転化する」であろう、いつ、いかにしてかは全く分からないが)、と論じた。
これがレーニンとスターリンの論理である。両者はブルジョア民主革命について語っているが、しかし両者の立場はすでに根本的にちがっている。レーニンは、唯物史観に忠実であり、ブルジョア革命とプロレタリア社会主義革命の歴史的、概念的区別をよく知っていた、他方、スターリンはこの点でまったくいいかげんであり、でたらめであった。レーニンは、ロシアではブルジョア革命についてこの革命におけるプロレタリアートの任務について語った。というのは当時ロシアの直面している革命はブルジョア民主主義的革命でしかなかったからである。 しかしスターリンは、レーニンとはちがって、具体的な情況をヌキにして「民主革命の社会主義への成長転化」について語っている。これこそ、スターリンが、レーニンに依拠しており忠実であるかに見えて、実際にはこの反対である所以である。レーニンの思想からは、例えば日本の労働者階級の課題が、直接に、資本の権力を打倒して社会主義を闘いとることだ、という結論が出てくる。
だがスターリニズムからは、日本共産党が実際にそうであるように、「まず民主的改良、そしてそれを通して社会主義へ」といったあわれな「段階論」、おそるべき日和見主義が生まれてくるにすぎないのである。
“スターリニズム”の将来
我々は最後に“スターリニズム”の運命、その将来について論じておこう。
スターリニズムの「二段階革命論」は長い間、大きな影響力を持って来た(今も持っている――宮本らの頭脳のなかに形而上学的ともいえる圧倒的な影響力を!)。
それが影響力をもちえたのはソ連、中国が社会主義国であるという神話がこの数十年間存在していたからであり、スターリンの卑俗な理論がこの現象をうまく説明しているように見えたからである――実際民主革命、労農独裁としてはじまったロシアや中国の革命から社会主義のロシア、中国が生まれ「成長」したのではなかったのか?
我々は、スターリニズムの運命が、一方では、ソ連や中国やその他の国々の――単にすでに国家資本主義的発展の道にはいりこんでいる国々だけでなく、これから入りこもうとしている国々の運命に、他方では、宮本や不破らが提出している革命の展望がどれほど現実的であるかに依存している、という以外ないだろう。
国家資本主義にすでにどんな未来もない、それはすでに頽廃しつくした、と単純にいえないことは明らかである。これからこうした発展の途に入りこむ後進国家が決して少なくないことは、世界的な資本主義体制の矛盾が後進国家にしわよせされ、ますます後進国家で労働者人民の闘いが発展していることからも明らかである。
ロシア革命、中国革命は、全世界の労働者に大きな衝撃を与え、国家資本主義体制への幻想はふくれあがった。だがソ連の“スターリニズム”や中国の文化大革命やケ小平体制のブルジョア的性格は、すでに国家資本主義に対する幻想から大衆をとはなつのに十分である。ソ連、中国の“社会主義”の本当の姿が明らかになるにつれて、この傾向は一そう進むであろう。“スターリニズム”は、このことによってすでに大きな打撃をうけている。
宮本らが“自主独立”を謳ったり、「生成期社会主義論」といったごまかしの議論によって責任のがれと弁解をこととせざるをえないなどにソ連や中国の社会的矛盾が目立って来ているのだ。
勿論、宮本がどんなに「自主独立」を謳っても、スターリニストをしての自己を否定しえないのは、例えば千島“返還”問題でも、ソ連を説得できるのは自分たちだけだと称して、ソ連の国家資本主義ブルジョアジーとの特別のつながりを強調していることからも明らかである。彼らのソ連や中国の共産党への批判は便宜的なものであって原則的なもの、本質的なものではない。彼らの「自主独立」などはペテン以外の何ものでもない。
また、日本における「民主的変革から社会主義へ」といった展望にどんな真実があるというのか。現在、そんなことをまじめに信じているような労働者は一人もいないといっていいだろう。中立、民主連合の「段階」をへて、社会主義が誕生するなどといったことは本質的にたわごとでしかないからだ。
つまり、世界の国家資本主義国――ソ連、中国――の現状がすでに大衆の期待をよびさますことができないということからも、又、国内での宮本らの「革命の展望」といったものが一つのドグマでしかないということからも、スターリニズムにはどんな将来もないし、ありえないという結論を、我々は引き出すことができるだろう。
この参院選でも共産党はやっと四百万票を得たにすぎない数十万の党員をもち、三百何十万の「赤旗」読者を持つと自称する発として、これは何とも貧弱でみじめな数字ではないだろうか。「赤旗」一部につき、一票でしかない。共産党がセクトであって、決して労働者の大衆的支持が得られないということを、この数字は決定的に暴露している。
しかもこの四百万のうちに、どれだけの労働者の票があるのか。私有財産の弁護をみても分かるように、共産党の政策は小ブルジョア層の歓心を得る方向にますます“進化”させられている。共産党の得た四百万票がどんなにあわれな成果でしかないか、そしてこの党が労働者の何百万何千万の支持を得られないのは、「反共攻撃」等々のせいではなく、この党の本性とその政策にこそある、ということは明白である。
スターリニズム政党にどんな未来もない、それは事実上プチブル的セクト政党でありそうしたものにとどまるだろう。
マルクス主義のスターリニズムへの転化は、国家資本主義の世界的な展開という果実と結びついていたが故に、圧倒的な抵抗しがたい力に見えて来た。しかし今では、スターリニズムの本性も十分に暴露され、その破綻がいたるところでさらけ出され新しいプロレタリア党とその闘いの発展の諸条件が拡大している。
レーニンがかつて、マルクス主義の修正主義の転落に抗議しそれと闘い」真に革命的な社会主義を復活させたように、我々も又、スターリニズムと闘い、これを打倒して、真のマルクス主義を復権させ、新しいプロレタリア社会主義運動をつくり出して行かなければならないのだ。
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