社会主義入門
「変革」92号(1986.3.16)〜118号(1986.9.28)
●HOME
●index
第1回 空想的社会主義@
原始共産制の社会――その意義と限界
第2回 空想的社会主義A
本源的蓄積期の矛盾を告発――モアの「ユートピア」
第3回 空想的社会主義B
いきなり全人類の開放めざす――三人の偉大な空想家
第4回 科学的社会主義の内実@
剰余価値論と唯物史観――マルクス主義理論の根底
第5回 科学的社会主義の内実A
唯物論――世界の科学的把握の基礎
第6回 科学的社会主義の内実B
弁証法――客観的世界の思惟への科学的反映
第7回 科学的社会主義の内実C
“価値”分析の意義――古典派の限界を止揚して
第8回 科学的社会主義の内実D
搾取の仕組みを解明――剰余価値の分析
第9回 科学的社会主義の内実E
資本主義の基本矛盾――社会主義の必然性
第10回 科学的社会主義の内実F
マルクス主義の政治理論――宮本流の“統一戦線”などの余地は全くない
第11回 社会主義の概念について@
商品生産と社会主義――社会主義では「価値規定」が残るだけ
第12回 社会主義の概念についてA
商品生産と社会主義は両立?――スターリンの歪曲と修正
第13回 社会主義の概念についてB
生産手段の共有化――生産の意識的な組織
第14回 社会主義の概念についてC
社会主義と国家――労働者国家は死滅する
第15回 社会主義の概念についてD
労働者階級の歴史的使命――唯一の革命的階級
第16回 社会主義の概念についてE
階級闘争とは何か――政治闘争への一面化は危険
第17回 まとめ@「生成期社会主義論」の欺瞞
――中ソは社会主義ではなく特殊な資本主義
第18回 まとめA 現代世界体制の意義
――社会主義への世界史的移行が現実的課題に
第1回 空想的社会主義@
原始共産制の社会――その意義と限界
まずはじめに原始共産主義社会について紹介しておきます。この社会は、階級もなく従ってどんな差別も存在しない人間の共同社会のことです。これはある意味で(ある意味というのは、階級のない共産主義社会という点では、未来の社会主義=共産主義社会と同一ですが、生産力の発展段階やその組織化の内容としては異なっているからです)、労働者が闘いとるべき未来社会の原型ともなっているからです。
そして、この分析は社会的な不平等(金持ちと貧しい者の対立)などは生まれつきの“素質”や個人的な能力の不平等といった人間の”本性”のしからむるところだ等々の通説がどんなに根拠のないものであるかも明らかにしてくれるでしょう。
二本足で歩行し、道具を利用する人類が地上に登場して以来、百万年以上の歴史がありますが、奴隷制、封建制、資本主義といった階級社会があらわれるのは、ここ数千年のことです。そしてこの階級社会に先行する形で、階級に分化していない原始的な共産主義社会が存在したことが確認されています。
原始共産社会は、狩猟、漁労や、のちには牧畜、農耕をいとなみ、生産手段(土地や猟場など)を共有して共同で働き、生産物もすべて平等に分かちあった社会のことです。この社会は血縁的な関係(主として氏族制度)を基礎とした政治的、宗教的機能を備えており、農耕社会では母系を、遊牧社会では父系を中心としていました。
マルクスやエンゲルスの原始共産社会についての言及は、晩年になってからでしたが、『家族、私有財産、国家の起源』の中でイロクォイ族(アメリカのインディアン)を例にして、「その無邪気さと単純さにもかかわらず、なんと驚くべき制度であろう」と感嘆の声をあげつつ次のように述べています。
「軍隊も憲兵も警察官もなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄も訴訟もなく、それでいて万事が規則正しくおこなわれる」。
「共同の事項はいまよりもはるかに多い――世帯は一連の家族の共同で、共産制であり、土地は部族所有であり、わずかに小園圃だけがさし当たり世帯に割り当てられている――にもかかわらず、現代の広汎で複雑な行政機構の形跡さえ必要としない。決定は当事者たちがするのである」。
「貧乏人や困窮者はありえない――共産制的世帯と氏族は、老人や病人や戦争不具者に対する義務をわきまえている。万人が平等であり、自由である――女もそうである。奴隷はまだ存在する余地がなく、他部族の抑圧もまた原則として存在する余地がない」(岩波文庫127〜8頁)。
人間社会が種々の階級に分離、対立する以前の社会(原始共産社会)とはこうした様相だったのです。
階級対立、不平等、私有財産、国家等々、これらは決して永久不変のものではないのです。
と同時に、こうした原始共産社会は、歴史的に没落の運命にありました。エンゲルスによれば、それが部族以上にすすめば他部族とは「法のそと」の存在として「人間独特の残忍さ」で戦争しあったこと、未発達な生産力を前提にしていたので「不可解な外的自然」に完全に支配されていたこと、氏族社会の諸制度は不可侵であり、個々人は感情、思考、行動において無条件に隷属したままであり「自然発生的な共同体のへその緒」にまだくっついたままであり、新たな生産力の発展の中で階級社会にとってかわらなければならなかったのです。
従って、私達は原始共産社会から、未来の社会主義の一定のイメージを獲得するとともに、単なる原始共産制への“復帰”ではなく(その後の“共産主義者”はひたすら、この社会にあこがれただけでした)来るべき社会主義、共産主義は資本主義の矛盾の現実的解決として出現することを確認すべきです。
(山田明人) ▲index
第2回 空想的社会主義A
本源的蓄積期の矛盾を告発――モアの「ユートピア」
今回は3人の空想的社会主義者(サン・シモン、フーリエ、オーエン)の前段階として、16世紀初頭に登場したトーマス・モアの社会主義をとりあげることにします。
15世紀から16世紀にかけての西ヨーロッパの状況は、地理上の発見により世界貿易の基盤が形成されるとともに、手工業からマニュファクチュアへの移行がすすめられた時代、「資本の本源的蓄積(「資本論」24章参照)がすすめられた時代でした。
イギリスでは羊毛産栗が発達し始め、貴族は耕地を牧羊場化し、農民を大量に農村から追放しました(「囲い込み」といいます)。このために農民は、村から村へ、町から町へと放浪していったのです。
トーマス・モアは、こうしたイギリスの状況を告発し、“どこにもない国”としての「ユートピア」(理想郷)について語ったのです。
この同じ時期にドイツではトーマス・ミンツアーに指導された革命的農民戦争が闘われ、エンゲルスは、「農民の背後に財産の共有を口にする」プロレタリアートの前身がいたといっていますが、モアもまた土地から追放された農民(近代的プロレタリアの前身)への同情と共感を表明したのです。
第1巻で次のように述べられています。
「おかげで、国内いたるところの田地や家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。そのわけは、……その土地の貴族や紳士(ヨーマン)や、その他自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家のためになるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです」。
これが、近代プロレタリアートを創出して、イギリスの資本主義的発展の一つの条件を形成したのですが、こうした評価は勿論モアにはありません。ただ、ここには、資本主義がかかえる大きな矛盾が暴露されています。
モアは、土地から追放された農民が、食うに困って泥棒をやらねばならなくなる、といった事態についても、人々に盗みをさせるようにしておきながら、それを残酷な刑に処する不合理を激しく非難しています。
そして、次のように私有財産制への批判を展開します。
「あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆の幸福への唯一の道である。……そして、この平等ということは、すべての人々が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行われるべくもない……こういう訳で、私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福がわれわれの間に確立しがたい、ということを私は深く信じて疑いません」。
そして第2巻で手工業を基礎にした40人程の家族集団を単位としたユートピア社会について語るのです。そこでは労働時間は6時間とされます、というのはイギリスのように「自分で何もやってない連中」「やっているとしても大して必要でないこと」をして怠惰な生活を送っている連中、つまり不生産的な不労階級がいないからです。人間は全員が共同して生産し、共同して消費する、共同食堂が設けられ、貨幣は存在せず、政治的には「民主主義」が実行される、というのです。
もちろん、モアの「ユートピア」の中に時代的制約をみることは容易です。例えばマニュファクチュアが支配的になっているのに手工業を基礎にした社会を展望するとか、家父長制を認めているとか、宗教の容認とか、等々です。
ただ中世の共産主義とは次の点で違っていました。キリスト教の観念に訴えて理想社会(千年王国など)を展望するというより、現実の資本主義の矛盾を理性的に解決し、理性にかなった社会組織――それが空想的ではあれ――を展望したことです。
モアの「ユートピア」は大衆の悲惨な状能への同情や共感はあったにしても、登場しつつあった近代プロレタリアートを、未来を切り開く社会勢力としては全く考えていなかったこと(本書はラテン語で書かれた)、現実の矛盾に対して理性的思考から到達した一つの理想郷の描出にすぎなかったことなど指摘できますが、これは後の三人の空想的社会主義者に共通する特徴であり、モアの意義は一つの先駆的役割を果たしたというところにあるのです。
(山田明人) ▲index
第3回 空想的社会主義B
いきなり全人類の開放めざす――三人の偉大な空想家
マルクスやエンゲルスによって「遠大な空想的社会主義置と呼ばれたサン・シモン、フーリエ、オーエンが登場したのは1800年代初頭でした。イギリスでは一八世紀後半の産業革命により大工業が発展しはじめ、フランスでは1789年のフランス革命が成功したすぐ後のことです。
彼らは、資本主義に対する批判的な認識を出発点にしていました。被らは、フランス革命を準備した啓蒙思想家のいう「理性の王国」が実際にはブルジョアジーの国の理想化に他ならないことをつぶさに経験していました。永遠の「正義」はブルジョア的司法の実現であり、平等はブルジョア的平等であり、人権とはブルジョア的所有権に他なりませんでした。貧富の対立はいっそうひどくなり、大衆の貧しさやみじめさは資本主義の存続の必要条件の一つになっていたのです。
3人の空想的社会主義者はこの「理性の勝利」した社会がそれ以前の社会=封建社会に比べて合理的であったとはいえ、少しも理性的でないことを鋭く暴露しました。
しかし、3人には共通した限界がありました。 「この三人のすべてに共通の点は、彼らが、そのころ歴史的に生まれていたプロレタリアートの利害の代表者として登場したのではないということである。啓蒙思想家たちと同様に、彼らは、まずある特定の階級を解放しようと思わないで、いきなり全人類を解放しようと思った。啓蒙思想家たちと同様に、被らは理性と永遠の正義の国を実現したいと願った」(「空想から科学へ」)。
このエンゲルスの指摘は重要です。空想的社会主義者の限界は、まずプロレタリアートを解放しようとしないで全人類をいっぺんに解放しようというのです。彼らの空想的たるゆえんの一つがプロレタリアートという特定の階級の利害の代表者でなかったこと(全国民的な利害の代表者として登場したこと)ですが、同じようなおしゃべりを、日本の社共は階級政党でなく国民政党だといった形で再現してはいないでしょうか。日本のように資本主義が高度に発展している社会――生産の社会化が極度におしすすめられ、社会主義の物質的基礎が十二分に形成され、またその事業を担うべきプロレタリアートが存在している――で、プロレタリアートの階級利益の代表者として闘わない人は、エンゲルスのこの指摘から何も学んでいないことを暴露しているのです。
勿論、空想的社会主義者と社共を同列におくことはできません(空想的社会主義者がかわいそうです)。というのは、彼らがいきなり全人類の解放者として登場したのは、当時の時代的制約と不可分だったからです。
当時、プロレタリアートは登場しはじめていましたが、まだ未熟な段階でした。プロレタリアートとブルジョアジーの本格的闘争は、大工業の急激な発展が前提となるからです。大工業の発達こそ資本と賃労働の階級対立を深化拡大し、生産力と生産関係の矛盾をぬきさしならないものに発展させるのです(そしてその矛盾の解決の手段をも準備、形成するのです)が、当時の社会はそこまで十分に発展していませんでした。とすれば、これら社会的な弊害を除去するためには、現実の社会的関係の中にではなく、啓蒙思想家と同じように理性の力によって頭の中で(解決策が)つくり出される以外になかったのです。
「これらの弊害をとりのぞくのは、思考する理性の任務であった。社会的秩序の新しい、より完全な体系を孝えだして、これを宣伝によって、できれば模範的実験の実例をつうじて、社会に外からおしつけることが必要であった」(同〉
こうした社会主義が一つのユートピア(その細部が詳しく仕上げられれば仕上げられる程)にしかなりえなかったのは、必然でした(と同時にマルクスやエンゲルスは、この3人の天才たちの「空想の覆いの下から」いたるところで顔を出している「天才的思想の萌芽」を紹介しています。日本の社共の俗物とは大違いです。詳しくは「空想から科学へ」を参照)。
空想的社会主義者がその時代的制約から、空想家たらざるをえなかったとすれば、大工業が本格的に発展してきた19世紀半ばに登場したマルクスやエンゲルスによって、社会主義は空想から、「実在的な基礎のうえ」にすえられる必要がありました。社会主義は、空想から科学に発展していったのです。
(山田明人) ▲index
第4回 科学的社会主義の内実@
剰余価値論と唯物史観――マルクス主義理論の根底
前3回は空想的社会主義が紹介されていましたが、今回から社会主義(=マルクス主義を紹介します。特に今回は、社会主義がマルクスによって一つの科学となった、その理由について述べます。
エンゲルスはその著『空想から科学へ』の中で、「唯物史観」と「剰余価値による資本主義的生産の秘密」がマルクスにより発見され、この発見が社会主義を科学的なものとしたといっています。
では、前回紹介された「偉大な空想的社会主義者」サン・シモンらのいう社会主義の限界をもう一度見てみましょう。エンゲルスは彼らに対して「資本主義的生産方法と不可分に結びついている労働者階級の搾取をいかに猛烈に非難しても、搾取がどこに存在するのか、それはいかにして発生するのかを明瞭に説明することはますますできなかった」のであり、これを説明する為には「資本主義的生産方法を一方でその歴史的関連において示し、一定の歴史的時期におけるその必然性を、したがってまた、その没落の必然性を示すことが必要だった」と述べています。
社会主義は人間の主観によって選ばれたり願望とかによって生れるのではなく歴史の必然的な一過程としてあるのです。科学的社会主義が科学的でありうるのは社会主義の実現の客観的「物質的」諸条件を基碇としているからなのです。
人類の歴史は、原始共産制から古代奴隷制へ、古代奴隷制から中世封建制へ、そして封建制から資本主義へと進み更に資本主義から社会主義へと進んでいくし、いかざるを得ないのです。こうした社会の発展を生産力と生産関係(人間生活の物質的基礎の生産は、社会的生産としておこなわれるのであり、この生産をおこなうにあたって人間のむすぶ社会的関係のこと)との矛盾において説明するのが唯物史観の考え方です。そこで資本主義から社会主義への発展の必然性を見てみましょう。
資本主義の社会制度は現在の支配階級であるブルジョアジーによって作り出されたものですが、「マルクス以来、資本主義的生産方法と呼ばれているブルジョアジー特有の生産方法は封建制下での狭い地域での又身分的特権とも、その人間のめんどうくさい相互関係とも相容れないものであった。そこでブルジョアジーは封建制を打ち壊しその廃墟の上にブルジョア的社会制度をうちたてた。それは自由競争、移転の自由、商品所有者の同権の王国であった」(同書より)のです。
このようにして、資本主義的生産方法は自由に発展ができるようになり、以前から行われていたマニュファクチャーを蒸気と新たな機械が大工業に変えてから、ブルジョアジーの主導によってつくり出された生産力は莫大な規模で発展し、この発展が更に進むと、今度は自らの資本主義的な生産方法にも衝突する様になってきたのです。
そして生産力が極限にまで上昇した現在において、その生産力は社会化されているのにもかかわらず、その生産関係は依然として資本家的私的なものにとどまり、経済矛盾は深く広くなりつつあります。又その政治的な現われとして、資本家と労働者の根本的対立とそれの激化があります。今や膨脹した生産力を収めるのには資本主義的な狭い生産関係では不可能となりつつあり、その生産力の解放は社会主義経済の中にしかありえなくなってさているのです。
このようにしてマルクスは資本主義的生産方法の一定の歴史的時期におけるその必然性を示してくれました。
さらにまた剰余価値の暴露によって資本主義的生産方法のかくされていた正体を明らかにしてくれたのです。これで「不払労働の取得こそ資本主義的生産方法とそれによって行われる労働者搾取の根本形態」であることがわかり、又、資本家は「彼の労働者の労働力を商品として商品市場でもっている価値どおりに買う場合でも、それに対し支払ったより多くの価値をそれからひきだすこと、そしてこの剰余価値こそが、有産階級の手中に、不断に増大する資本量を積み上げるところの価値額を、結局、形成するものであることを証明した」(同書)のです。
以上、科学的社会主義の成果である唯物史観により資本主義的生産の来歴が、剰余価値による資本制生産の秘密の暴露により資本の生産の正体が各々明らかにされたことになります。
(D) ▲index
第5回 科学的社会主義の内実A
唯物論――世界の科学的把握の基礎
人類は、世界を認識するにあたり、わずかでもそれを体系的に語りはじめた大昔以来、唯物論と観念論の、いずれかの見地に立っていました。すなわち、人間の思惟とは独立した客観的存在、物質が世界を形づくる第一義的なものか、あるいは、人間の主観、思考が世界の根源であるか――この二つの陣営に分かれて、議論をつくしてきたのです。
自然に対する素朴な畏怖を表現したシャーマニズムから畏怖の念を天界に上げた宗教、あるいは精神を一人歩きさせた観念論の最高の到達点とでも言うべきヘーゲル哲学に到るまで、観念論は、その結論において、現実の世界に何らの合理的説明を与えることができませんでした。
大河の氾濫は、自然神の怒りであり、王と領主の権力は神権であり、プロシア君主国家は“絶対精神”の実現であると彼らは語ってきましたが、歴史は、地球の公転が大洪水を招き、城壁と武器が領主の権力を作り上げ、不変であるはずの“絶対精神”は、ブルジョア国家に取って変わったことを明らかにしています。
観念論が、一つの潮流となりうる現実の根拠についていえば、例えば人間の平等を唱える宗教が普及するのは、それが現実の貧富の差に根ざしているからですが、宗教においてはその原因の把握が、非合理なものである以上、その解決は非現実的なものとならざるをえず、また現実の矛盾を糊塗するものにならざるを得ません。
唯物論の正当性は、いくつかの偶然的事例によってではなく、人類の長い、哲学と自然科学の歴史の中で証明されています。
封建的制約から解放された資本主義は、巨大な生産力を登場させ、人間と自然との交通をいかなる時代にも比肩なきほどに拡げていきました。それは、自然の解明を更に必要なものとし、ベールをはがされた自炊は、更に生産力を推し進める結果となっていきます。
この封建制から資本制への移行の際に、自然科学が、その発展の基礎を古代ギリシャ哲学に求めて行ったことも偶然のことではありません。
科学史の上で、教会の教義とスコラ哲学が支配的であった封建制では、ほとんど見るべきものがなく、一方、唯物論的哲学で、自然を把握しようとしたギリシャ哲学には、デモクリトスの原子論、プトレマイオスの天文学、地理学、ヘロフィロスの生理学等々、実り豊かな“科学”が開化していったからです。
世界を合理的に説明しようとする唯物論の地歩は、その後の多くの自然科学の成果とともに、増々拡大しています。
かつて、偉大な科学者でもあったカントは、当時の自然科学の発展の限界のなかで、人間は“物”そのものを把握することはできないと語り、不可知論に陥り、またその後の歴史のなかでも幾多の大同小異の“科学的”観念論が登場してきました。
彼らに共通していることは、思考や思惟の問題にも唯物論的観点を貫くことができなかったということです。
人間の思考は、脳に写し出された自然の模写であり、その反映であること――近代大脳生理学は、その反映が脳のどの部分であるかを明らかにしつつある――地球を認識している個人が死んだ後にも客観的な存在としての地球はありつづけること(エンゲルス)、すなわち、世界の統一性は、その物質性にあること、彼らは、この徹底した唯物論の立場を貫くことができなかったのです。
思考を食して生き永らえたことのない人類は、ある意味では、素朴な唯物論者です。しかし世界の認識のためには、それだけでは決定的に不充分であり、時には機械的唯物論が如き誤った見解を生み出すことにもなります。
自然科学の分野のみならず、社会科学の分野においても、徹底して、意識的に唯物論の立場に立つこと、これこそがマルクスとエンゲルスが見出した、従来の唯物論とは比較にならないほど豊かな内容を有した唯物論です。
社会、すなわち、人間と人間の繋(つなが)り、人間と自然との関連を、徹底して唯物論的観点で把握していくこと、この科学的態度のみが、現実の社会の矛盾を明らかにし、社会主義への展望を打ち立てる大きな磐石になるのです。
(MI) ▲index
第6回 科学的社会主義の内実B
弁証法――客観的世界の思惟への科学的反映
弁証法という言葉は“問答法”を意味するギリシア語からきています。古代ギリシアにおいて弁証法は始まり、その代表者たるヘラクレイトスは「万物は流転する」と述べています。しかし、この考えは諸現象の全体の一般的性格を正しくとらえてはいますが、全体を構成する個々の事物を十分には説明していません。
その後、中世はキリスト教が支配し神が万物を創ったという万古不易の世界でした。15世紀後半より自然科学がおこりその未熟な科学的思考が哲学に移され、ヘーゲルが名づけるところの形而上学となりました。形而上学は事物を与えられた固定した存在として研究する方法であり、それら事物の連関、運動、生成と消滅を忘れ、木をみて森をみない考え方でした。
科学の進歩(細胞の発見、エネルギー転化の法則の発見、ダーウィンの進化論等々)と共に自然では全てが形而上学的にではなく弁証法的に行なわれていることが明らかになってきました。近代において弁証法を体系づけだのはヘーゲルでした。ヘーゲルはカント(主観的観念論者)に代表される形而上学に反論する形で弁証法を「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である」と述べています。
しかし、ヘーゲルにも観念論としての限界がありました。すなわち彼の思想では世界は絶対者=神の自己産出の過程とみなされていたため全てのものが逆立ちさせられていて、現実の世界の連関はひっくりかえされていました。観念論の限界が明らかになり必然的に唯物論へと進まざるをえませんでした。
マルクス、エンゲルス、レーニンらはヘーゲルを発展的に継承して弁証法を「自然、人間社会、思惟の一般的運動=発展法則に関する科学」と特徴づけました。思惟の法則としての弁証法は何よりも客観的世界の運動法則の思考への反映であり、本質的合理的な形態では唯物論の立場と一致し、唯物論的弁証法として真に科学的合理的認識法となりました。それをマルクスは歴史に適用し、史的唯物論となり、科学としての社会主義を確立したのです。
それではこの一般的運動=発展法則としての弁証法の内容はどのようなものでしょうか。レーニンは「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる」と概説しており、また「一つのものを二つに分けこの一つのものの矛盾した二つの部分を認識することは弁証法の核心である」と述べています。
さらに発展としての弁証法を「すでに経過した諸段階をくり返すかのように見えながら以前とは違った形でいっそう高い基盤の上でそれをくり返す発展(否定の否定)、直線的に行なわれるのではなしにいわば螺旋を描く発展、飛躍的な、激変的な、革命的な発展、『漸次性の中断』、量の質への転化、ある物体に、またはある現象の範囲内で、あるいはある社会の内部で作用している様々な力や傾向の矛盾、衝突によって与えられる発展への内的衝動、おのおのの現象の全ての側面の相互依存性と、もっとも緊密な、切り離すことのできない連関、単一の合法則的な世界的運動過程をなしている連関」を弁証法の特質としてあげています。
また「弁証法は疑いもなく否定の要素を、しかもその最も重要な要素として含んでいる。この弁証法で特徴的であり本質的であるのは単なる否定でもなければいたずらなる否定でもなく、懐疑的な否定、動揺、疑惑でもない。そうではなくて肯定的なものを保持した、すなわちどんな動揺もなく、どんな折衷主義もない連関の契機としての、発展の契機としての否定なのである」。
以上引用が長くなりましたが、ほぼ弁証法の内容を示しています。
(HO) ▲index
第7回 科学的社会主義の内実C
“価値”分析の意義――古典派の限界を止揚して
唯物史観は、次の命題から出発します。
「生産が、そして生産の次には生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であること、歴史上にあらわれたどの社会においても、生産物の分配はそれとともに諸階級または諸身分への社会の編成は、何がどのように生産され、また生産されたものがどのようにして交換されるかによって決まるということ、である」。 従って、いっさいの社会変動と政治的変革の究極の原因は、生産と交換の様式に求めるべきこと、「哲学にではなくその時代の経済に求める」必要があります。
そこで今回から、3回でマルクス主義の経済学について検討してみましょう。まず最初は、価値論についてです。
マルクスは、哲学においてヘーゲルの弁証法を学んだ(止揚した)と同じように、経済学においては、古典派経済学の成果を批判的に利用しながら資本主義の全面的分析を行ったのです。
すでに古典派経済学(スミス、リカードら)は、価値の実体が労働であることを知っていました。しかし、彼らは資本主義(そして商品生産)の歴史的な性格について考えも及びませんでした。彼らは商品生産を社会的生産の唯一の形態と信じていたためにその独自の性格を把握することは不可能でした。
マルクスの言葉を借りていえば、次の通りです。
「なるほど経済学は、不完全にではあるが価値及び価値の大きさを分析して、これらの形態のうちにかくされている内容を発見した。だが経済学は、なぜこの内容がかの形態をとるのか、すなわち、なぜ労働が労働生産物の価値でまたその時間的継続による労働の度量が労働生産物の価値の大きさで、自らを表示するのか?という問題をば、かつて提起したことさえもないのである」。
マルクスの価値論は、こうした古典派の理論を批判的に総括しながら、展開されています。つまり、価値規定の内容においては、古典派の成果(価値とは労働の対象化であり、その大きさは労働時間によってきまる)をより一層厳密に仕上げるとともに、さらに価値表現のあり方や商品生産の歴史的な地位も明らかにしたのです。商品生産とは――資本主義とは商品生産の全面的に発展した社会です――私有財産制度のもとに相互に独立化されている私的生産者によって行われる社会的生産です。直接には私的な彼らの労働は、生産物の交換関係ではじめて独自の社会的形態を獲得すること、すなわち、彼らの労働の生産物は、それらの交換の関係において使用価値としての千差万別にもかかわらず価値として相互に等置されること、従って彼らの私的労働も価値を形成する限りでそれらの差異を捨象され、無差別一様な人間労働、すなわち人間労働力の単なる支出の一定量に他ならないとされたのです。そしてこの一般的な人間労働の結晶(対象化されたもの)としての「価値」の形態において――生産物の価値というこの物的な形態において――はじめて商品生産者の労働は、社会がその欲望の充足のために支出する総労働時間中の一定量を意味するものとなるのです。
しかし、このことは古典派が価値の実体やその大きさを明らかにした意義を決してなくするものではありません。むしろ、現在のようなブルジョア経済学の洪水の中では、この点の強調――価値とは社会的な人間労働が対象化したものであり、その大きさは労働時間の長さによって決まること――は必要だと思います。彼らは、価値の大きさは需要と供給のバランスによって決まるとか、商品の有用性に規定されるとか、マルクスが引きついだ古典派の遺産そのものを攻撃しているのですから。
つけ加えれば、宇野学派の「実体なしの価値規定」云々のたわ言(ドグマ?)もこうしたブルジョア俗流派の主張と少しも異なるものではありません。
この価値論は、次回みる剰余価値や利潤、(生産)価格、ひいては資本主義全体を理解するための前提であり、基礎ともなっているだけに、その意義は大きいものです〈それだけにブルジョア経済学はこぞってこの価値論へ批判を集中したのですが〉。
私たちは、マルクス経済学を学ぶ第一歩として、古典派の意義と限界をふまえて展開されている価値論の意義をはっきりと確認しておくことが大切なのです。
(山田明人) ▲index
第8回 科学的社会主義の内実D
搾取の仕組みを解明――剰余価値の分析
マルクスによる剰余価値の分析は、エンゲルスによって「二つの偉大な発見」の一つにあげられています。
マルクス以前の社会主義者も、労働こそが富をつくり出しているのに労働者はその一部しか手にすることができず貧困にあえいでいることを指摘していました。
しかし、なぜどんな仕組によって搾取が行なわれているかを明らかにすることはできませんでした。
「従来の社会主義はたしかに現存の資本主義的生産様式とその結果を批判したが、しかしそれを説明することができなかったし、したがってそれを克服することも出来なかった。従来の社会主義はそれを簡単に悪いものと投げすてることができただけである」(「空想から科学へ」)。
労働者が資本家にやとわれ賃金をもらって働く過程にも、商品交挽の法則が貫かれます。労働者は8時間の「労働」に対する「対価」を賃金として受け取っていますが、もし8時間労働に対して全部支払いが行われたら、資本はどこから利潤を手にすることができるのでしょうか?
現実には、資本は莫大な利潤をあげているのに、です。
この資本主義的生産の秘密を明らかにしなければ、資本に対する非難は道徳的非難の水準をこえることはできません。
マルクスは、これを次のように説明しました。
労働者が資本に売り渡すのは、「労働」でなく「労働力」である、「労働」と「労働力」とをまず区別しなければならない、としました。
一見すると、賃金は「労働」に対する支払いであるかに見えます。賃金とは一日8時間、月25日間労働して20万円、とかいった形で現象しているのですから。
しかし、それは一つの仮象であって、資本が支払うのは労働力の価値に対してだったのです。もともと、労働そのものは、価値ではありません。労働が対象化したものは価値ですが、労働それ自体は、価値でも何でもないのです。
資本が労働者に支払う賃金とは、生産過程の中で労働者が行う労働に対してではなく、労働者の精神的、肉体的能力である労働力に対してだったのです。
この労働力の価値は、他の商品と同じようにその生産に必要な労働時間によって決定されます。この大きさは、結局のところ、労働者を維持再生産するために必要な生活手段の価値に等しいことになります(これを仮に2時間としておきます)。
ところが労働力という商品は、その使用価値が価値を生み出すという特別の性質をもっています。すなわち、資本家は労働者に支払った以上の価値を労働者を働かせることによって生み出させることができます。一日8時間労働させるとすれば、6時間分の労働を資本は労働者に支払うことなく手にすることが可能となるのです。こうした不払い労働によって生み出されたものが剰余価値であり、利潤の源泉なのです。
勿論、資本はできるだけ安い賃金で、できるだけ長い時間、できるだけ過密な労働を強要し、これに対し労働者は抵抗しますから、実際の貸金や労働条件はこの階級闘争の結果によって左右されます。ただ、ここで注意しておくべきは、たとえ資本が価値どおりの貸金を支払った場合でさえ資本は労働者をタダ働きさせ不払い労働(剰余労働)を手にし、ますます拡大する剰余価値をつみあげていくことが可能だということです。
従って、この剰余価値の分析は、価値どおりの交換がなされても資本による労働者の搾取が貫かれること、搾取をなくすためには資本主義の枠内で労働力商品の売買条件を改善しようという闘いの限界をも示しているのです。すなわち、資本主義的搾取の廃絶のためには、労働力の価値どおりの支払いを要求するにとどまらず、貸金制度そのものの廃止のスローガンを掲げなければならないという、革命的結論が導き出されるのです。
「社会主義は科学になった」という時、資本主義的生産の秘密の暴露がこうした革命的結論と不可分に結びついていることを忘れるとしたら、それはマルクス主義をひどく矮小化するものでしょう。
ところが「科学的社会主義」の看板を掲げつつ、賃金制度の廃止でなく、「民主的改良」のスローガンを掲げる政党がいるのですから困ったものです。
(山田明人) ▲index
第9回 科学的社会主義の内実E
資本主義の基本矛盾――社会主義の必然性
今回は資本主義の基本的矛盾について、またその矛盾の解決としての社会主義への必然性について考えてみましょう。
マルクスは、次のように述べています。
「この資本主義的生産様式の矛盾は、まさに生産力の絶対的な発展へのこの生産様式の傾向にあるのであり、しかもこの発展は、資本がそのもとで運動しておりまたただそのもとでのみ運動できる独自な生産条件と絶えず衝突するのである」(第1部15章)。
資本主義が、これまでのどの社会とも比較にならないぐらい生産力を飛躍的に発展させることは、戦後の「技術革新」や最近のME革命をみても明らかです。資本主義にとって生産力発展のこの傾向は「絶対的」なものといえます。
商品生産特有の「生産の無政府性」は、資本主義的生産の中でずっと大っぴらに強力に作用しますが、それは個々の資本家にとっては「競争の強制法則」として効力をあらわします。彼らにとって没落したくなければ自分の機構を改良し、生産力をたえず拡大しなければならないという「強制命令」が作用します。いわば「自然淘汰」の法則が貫かれるのですから、自由競争は資本家をして生産力の飛躍的発展に(そしてそれだけ激しい搾取に)かりたてるのです。
しかし、こうした生産力の発展は資本主義の「独自の生産条件」つまりその資本主義的生産関係と衝突せざるをえません。資本にとっての目的は最大限の利潤の獲得であり、剰余価値(できるだけ大きな)の生産ですが、この資本としての特質は、生産力の自由な発展の桎梏、諸制限としてあらわれざるをえないのです。
恐慌は、このことをはっきりと暴露します。そこでは、生産手段は遊休し、失業者も大量に生み出されます。生産と富のいっさいの要素がありあまっているのに(過剰生産)そのことが生産手段の資本への転化を妨げているのです。生産手段と生活手段が資本の性質をとらなければならないという資本主義の必然性は、生産活動そのものを阻害してしまうのです。
こうして、資本主義は一方で生産力を「絶対的」に発展させていく傾向をもつとともに、資本主義的生産の枠組みはその制限とも桎梏ともなっているという根本的な矛盾をもっているのです。
この矛盾を解決するためには、資本主義的な「生産の外皮」を粉砕する以外にありません。マルクスは「資本論」で資本主義の矛盾を全面的に明らかにするとともに、次のように述べています。
資本主義は中世的小経営の個別的、分散性を一掃し、「生産手段の集中」と「労働の社会化」を徹底的におしすすめるが、それが資本主義の「資本独占」と衝突するようになるというのです。
「資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化もそれが資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」(第1部24章第7節)。
ここでいう、資本主義的「外皮の爆破」とは、生産手段と生産力を社会の手に移す社会主義革命のことであり、その担い手が資本主義の発展とともに成長してきた労働者階級であることは、明らかです。資本主義は、そのもとで飛躍的に発展した生産力を管理することができなくなったのですから、社会が公然とその生産力を掌握することによってのみ、矛盾の解決は現実的になるのです。
先の引用につづいて、マルクスは次のように述べていますが、これをまとめとします。
「資本主義的生産様式から発生する資本主義的取得様式は、したがって資本制的な私的所有は、自分の労働を基礎とする個人的な私的所有の第一の否定である。だが、資本制的生産は、自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は私的所有を再建する訳ではないが、しかも、資本主義時代に達成されたもの――すなわち協業や、土地・および労働そのものによって生産された生産手段・の共有――を基礎とする個人的所有を生み出す」(前同)。
(山田明人) ▲index
第10回 科学的社会主義の内実F
マルクス主義の政治理論――宮本流の“統一戦線”などの余地は全くない
マルクス主義の「政治理論」は、例えば社会主義労働者党の綱領の一部の「労働者の闘いは、国家権力の奪取をめざす特定の労働者政党の闘いになるに比例して、真の階級闘争になる。社会主義労働者党は、労働者が労働組合に団結して経済闘争を闘うだけでは自己の解放をかちとることができないこと、そのためには、自らを独立した労働者の階級政党に組織し、資本の権力の打倒とプロレタリア権力の樹立をめざす政治的闘いを発展させる必要があることを公然と明らかにする」という文章の中に凝縮されている、といえるでしょう(ついでに言えば、我が党の綱領とくにその第五章は、マルクス主義政治理論の立派な適用であり、それを代表するものだ、といえます)。
マルクス主義の政治理論がマルクス主義の唯物史観や経済理論に従属し、それによって規定されたものであることを、我々はまず確認しなければなりません――さもなければ、デューリング流の「強力論」(まず政治的強力があり、ついで経済体制や社会関係がある)や、共産党流の“政治”関係優先論(日本は経済的には帝国主義的自立をかちとっているが、政治的、軍事的に対米従属国家だ、日米安保条約がすべてを規定している云々)のような観念論やドグマがまかり通ることになってしまいます。
マルクス主義はたしかに、政治闘争を重視しますが、しかしそれは、資本の支配が結局は資本家国家の支配として集中され、貫徹されているからであり、階級間の闘いが国家権力をめぐる闘いとして展開されるからであって、根源に資本主義的生産とそこから生まれる資本と賃労働者の階級闘争があることは前提されているのです。
階級関係の前提を欠いたような政治闘争や政党といったもの――宮本や不破が「社会主義社会」においても想定する「複数政党」制といったもの――は、マルクス主義とは何の関係もないたわごとです。宮本らは、政党が発展し、政党間の激烈な政治闘争が存在するのは、階級分裂があり、階級間のはげしい闘いがあるからである、というマルクス主義的理論のイロハさえ分かっていないのです!
だからこそ、彼らは安易に、民主(革新)統一戦線だ、政治的立場や思想・信条を問わない「非核のための連合政府だ」とか、くだらない俗見を並べたてることができるのです。政治闘争が、階級闘争の集中的な表現であることが分かっていれば、「民主統一戦線」といったものが、労働者の階級闘争をぼかし、あいまいにしてブルジョアジーに奉仕(屈伏)する、一種の階級協調主義であることが、たちどころに理解できるはずなのです。
マルクスもレーニンも、ブルジョアジーや自由主義者(例えばロシアでは、カデット党、ドイツではカンプハウゼン等)との連合をつよく否定し、それは労働者の闘いにとって致命的であると警告しました。
また、小ブルジョア民主党、急進党や改良党との連合さえもただ条件付保留付きで認めたにすぎず、むしろ小ブルジョア党との原則的で一貫した党派閥争を貫徹しています。
メンシェヴィキに対するレーニンのあの激しい闘い――メンシェヴィキはまだ他の党でなく、同じ社会民主党内の一つの分派だったにもかかわらず!――を学んだあとで、なおかつ“革新”(民主)統一戦線が是が非でも必要だ、それなくしては社会主義への展望も道も見出すことができない、などという宮本らの卑俗矮小な“政治理論”は、プチブルスターリニストのくだらない世迷い言ではあっても、マルクス主義の政治理論とは似ても似つかぬしろものです。労働者はこんなにせものにだまされてはなりません。
労働者の階級闘争(その最高の表現が労働者党=社労党の党的闘い、政治的闘いです!)をさいごまで貫徹し、資本の支配を打倒して労働者の階級支配をうちたてる必要がある――これこそがマルクス主義の政治理論が教える本当の結論なのです。
だからこそ我々は安易な連合や“統一戦線”や政治的小陰謀ではなくて、労働者党の何ものもおそれない公然たる党派闘争こそが必要であり、この中からのみ輝かしい労働者の未来が生まれてくる、と主張するのです!
(H) ▲index
第11回 社会主義の概念について@
商品生産と社会主義――社会主義では「価値規定」が残るだけ
今回から、何回かに分けて社会主義の概念について検討してみます。
まず最初は、商品生産との関連における社会主義についてです。
すでに商品生産の歴史的性格については、第7回の価値法則の所で紹介しましたが、これは、一言でいうと商品生産における個々人の私的な労働は、ただ生産物の交換を通して社会的な労働の一部であることを明らかにしていく、ということです。つまり、生産物が商品の形態をとる社会では、人間労働は、それ自体として直接に社会的な労働の支出という形態をとらず、無自覚な形で支出されているということでした。
しかし、このことは他面からみると労働がすでに社会的な性格をもっていること、商品の生産そのものが他人の欲望を充足させるものとして、交換を目的として、なされていることを明らかにしています。社会主義とは、こうした商品生産の社会における労働の社会的性格を徹底的に全面的に承認し、人間の意識的な統制のもとに生産をおしすすめる社会のことです。商品生産社会では、人間関係が商品というモノの関係を通してあらわれるという特徴をもちますが、社会主義社会では人間の意識的な統制のもとに個々人の労働は直接に社会的な総労働の一環にくみこまれ、人間関係はモノを媒介することなく直接に明らかになっています。
従って、社会主義は商品生産社会の中で発展してきた労働の社会的性格を否定するのでなく、社会的労働が商品の形態、価値という対象化された形態をとることを否定することになります。
マルクスの「資本論」は、この辺の事情を第一章の第四節で説明しています。すなわち「自由な人間の一つの協同体」=社会主義社会について次のように述べています。
「人々は、共同の生産手段をもって労働し、彼らの多くの個人的労働力を、意識して一つの社会的労働力として支出する。ロビンソンの労働の一切がここでくり返される。ただ、個人的であるかわりに社会的であることがちがっている」。
ここにいうロビンソンとは例の孤島にたどりついた人間のことで、彼は自分の欲望を充足させるために、道具をつくり、家具を製造し、猟をしたりします。彼は生きるためにいろいろな生産的労働をしますが、彼にとってそれらは人間労働の支出にすぎないことを知っています。必要が彼の労働時間の配分を決定します。ここでは個々の労働が彼の総労働の中でどんな位置を占めているかは、全く明白です。
この同じ原理が、社会主義社会では個人的でなく社会的な形で実行されるのです。ロビンソンの場合に、すべての生産物はもっぱら彼の個人的生産物でしたが、社会主義社会では、一つの社会的総生産物となります。この生産物の一部は社会的再生産のために、他の部分は成員に分配され消費されます。ここでは、社会全体の見地から――その社会の必要性に従って、総労働時間は計画的に配分され、個々人は自分が支出した労働時間から、社会的生産等に必要な部分をとり除いた部分を受けとります。
それは、ある意味で「価値規定」の内容を引きついでいます。つまり、等価物交換(社会的に必要な労働時間の長さが同じ)の原則が貫かれているのですが、しかし事情は一変しています。なぜなら、個々人の労働時間は社会全体の総労働時間の一部であること、生産物が商品(価値物の)形態をとる必然性は何一つないからです。
「労働時間の社会的に計画的な分配は、各種の労働機能が各種の欲望にたいして、正しい比例をとるように規制する。他方において、労働時間は、同時に生産者の共同労働に対する、したがってまた共同生産物の個人的に費消されるべき部分に対する、個人的参加分の尺度として役立つ。人々の労働とその労働生産物とにたいする社会的な連結は、このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変りない」。
だから、社会主義では人間と労働、労働生産物に対する関係は、明瞭であり、生産物が価値物といった形態をとる必然性は全くありません。スターリンがかつて言い出したように「社会主義社会では、価値法則を利用する」などという主張は、全くの誤りであるのです。
(山田明人) ▲index
第12回 社会主義の概念についてA
商品生産と社会主義は両立?――スターリンの歪曲と修正
前回、社会主義社会(この場合資本主義から生まれたばかりの低い段階の共産主義のこと)では、「価値規定」の内容を引きつぐといいました。このことは、「ゴータ綱領」評価やスターリンのいう「社会主義における価値法則の利用」という主張と関連して、長く論争の一つになっていたものです。
しかし、マルクスやエンゲルスの主張をよくよめば誤解する余地はありません。
例えば「ゴータ綱領批判」では次のように述べられています。
「ここでは明らかに、商品交換が等価交換である限りその交換を支配するのと同じ原則が支配している。
内容と形式はかわっている。なぜなら、変化した事情のもとでは、だれも自分の労働のほかにはなにもあたえることができないから、また他方では、個人的消費資料のほかになにものも個人の所有にうつりえないから、である。しかし、個人的消費資料が個々の生産者のあいだに分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し一つの形の労働が、他のひとしい量の労働と交換されるのである」大月、44頁)。
一体、この部分をどう読めば、社会主義と商品生産が両立するなどという議論が出てくるのでしょう。問題はただ等量の労働(時間によってはかられる)が交換されるという限りでのみ、価値規定が残る、といっているにすぎません。
ところが、こうした部分を利用して、スターリン主義者は社会主義の概念を大きく修正してしまったのです。
スターリンの有名な(?)「社会主義の経済的諸問題」(52年発表)の第二章で次のように述べています。
「われわれの商品生産は、普通の商品生産でなく、特殊な種類の商品生産、資本家のいない商品生産であり……、その『貨幣経済』とともに、社会主義的生産の発展と強化のために働くことを予定されているのである」国民文庫24頁)。
全くひどい主張です。それまでは、社会主義とは商品生産の否定(止揚)であることは常識であり、社会主義における生産物が価値形態をとることなど全く考えもつかないことだったでしょう。
勿論、スターリンは一定の理論的な粉飾をほどこしました。ソ連における商品生産は「特殊な種類の」「資本家のいない商品生産」だといいはりました。そして、商品生産と資本主義は別ものだ、商品生産から資本主義が必然するなどとはいえない、「価値法則は資本主義の基本的経済法則とはいえない」などと、理屈をこねまわしたのです。
しかし、問題は社会主義の概念に関することです。社会主義とは、前回もふれた如く人間の意識的規定のもとに生産が行なわれる共同社会であり、それは生産物が商品の形態をとること、価値対象性という形態をとることの否定のうえに成立する社会です。商品や価値法則が社会主義でも存在するといった主張それ自体が、大変な概念矛盾であり、混乱なのです。
又、商品生産と資本主義は基本的に別のことだから、社会主義に「奉仕させることができる」というのも、デタラメです。たしかに、商品生産と資本主義を区別しないのは、バカげています。
しかし、資本主義は商品生産社会でもあるのです――いや、資本主義は「最高に発展した商品生産社会」であり、資本主義は商品経済の法則によって支配されているのです。剰余労働が剰余価値=利潤という形態をとること自体、価値法則の貫徹を証明しています。価値法則は「資本主義的生産の本質や資本主義的利潤の基礎を形成しない」(スターリン)のではなく、形成しているのであり、抽象的な意味では「資本主義の基本的経済法則」なのです。
このような社会主義の概念の修正と否定は、当時のソ連の国家資本主義の現実を反映していますが、それを世界の「共産主義者」(スターリニスト)は、基本的に今でもうけついでいるのです(例えば「経済学教科書」1016頁)。
我々は、こうした「公認共産主義」による社会主義の概念の歪曲や否定に断固抗議するとともに、真の社会主義の概念を守りぬく必要があります。
(山田明人) ▲index
第13回 社会主義の概念についてB
生産手段の共有化――生産の意識的な組織
今回は資本主義との関連の中で社会主義について考えてみましょう。
すでに第9回の所で、資本主義は生産力の絶対的な発展の傾向をもつが、それはその生産様式と衝突せざるをえないこと、その解決のためには資本主義では管理しえなくなった生産力を公然と社会の手に移すことが必要なことをみました。つまり、資本家が独占している生産手投を社会全体の共有財産に移すことです。
これは、まず搾取の、そして階級一般の廃止を意味します。資本主義は、商品交換つまり“等価交換”の社会ですが、それは形式上、概観上のものであって、その内容は資本による不払い労働の一方的な取得であり、労働者の搾取でした。労働者は生産のための本質的契機である生産手段を所有しておらず、生きるためには資本に労働力を切り売りせざるをえないこと、従って労働者は資本に無償で不払い労働=剰余労働を提供することなしには労働することも生活することもできません。こうした搾取の関係こそ、資本家的生産関係(そこから必然化する資本家的所有)ですが、この関係の廃止を全生産手段の社会的共有化の主張は示しているのです。
搾取の廃止、そして階級の廃止は、人類にとって長い間一つの理想にすぎませんでした。しかし、資本主義は生産力を飛躍的に発展させ、生産を資本主義の枠内で徹底して社会化させ、又自らの墓掘り人たる労働者階級を成長させることによって、この理想に向けた物質的準備を十分に成し遂げたのです。
そして、全生産手段を社会の共有財産に移すことによって、人間はそれまでの生産物による生産者の支配から、生産者が生産物を支配することになります。社会主義は、資本主義が生み出した豊かな生産を人間の意識的な統制におくことを意味するのです。
資本主義では、生産手段は資本として労働者に対立し、死んだ過去の労働が生きた労働を支配しました。資本主義的生産は、ただ盲目的に作用する自然法則として自己を貫き、「社会的理性」は事後になってからはじめて発現(マルクス)しました。社会主義とは、こうした生産の無政府状態に代って、全生産手段を社会が掌握することによって、社全会体ならびに各個人の欲望に応じた生産の社会的・計画的規制を組織しようということなのです。エンゲルスは「空想から科学へ」の中で、次のような簡潔な形で述べています。
「社会による生産手段の掌握とともに、商品生産が廃止され、したがってまた生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産の内部の無政府状態にかわって、計画的、意識的な組織があらわれる」。
すでに労働者にとってこのような社会的生産の自覚的・意識的な再組織は何の不都合もありません。今では労働はすべて他人や社会の欲求のために行なわれています。一般的分業の中で、誰も自分の労働だけで生活を営むことはできません。すべての労働は社会的な総労働の一部分にすぎず、社会主義的生産はこうした労働の社会的性格をそのまま承認し、社会的な共同労働として意識的に再組織することなのです。
最後に共産党の「私有財産擁護」の主張についてふれておきましょう。彼らは、エンゲルスの、社会主義では「一方では、生産の維持と拡大のための手段としての直接に社会的な取得によって、他方では、生産手段と享楽手段としての直接に個人的な取得によってとってかわられる」という文章を引き合いに「社会主義日本でも個人の私有財産は擁護される」などとデタラメをいっています。
社会主義においても、社会的再生産のための労働も個人的消費のための労働も双方とも必要なことは自明ではないでしょうか。むしろ、社会主義とは、こうした配分(必要なら、労働不能者等の社会的控除も考えて)を全社会的な規模で意識的・計画的に行っていくところにこそ、その意義があるのです。
そもそも労働者は私有財産=生産手段をもってないから労働者です。この擁護とは生産手段の共有化=私有財産の廃止の意義を何一つ理解しない、それを恐れる小ブルジョア的なタワ言以外ではありません。
(山田明人) ▲index
第14回 社会主義の概念についてC
社会主義と国家――労働者国家は死滅する
生産手段の社会的共有化を実現するためには、社会主義革命が、労働者権力を樹立することが必要です。
今回は、社会主義の国家論について、とりわけ労働者国家のイメージについて考えてみることにしましょう。ここでもエンゲルスの次のような文章を一つの手掛かりとしてみます。
「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまず国有に転化する。しかしそれによってプロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を廃棄し、それによってプロレタリアートはすべての階級差別と階級的対立を廃棄し、またそれによって国家としての国家を廃棄する」。
ここにいう「国家としての国家を廃棄する」とはどういうことでしょうか。
階級対立の中で動いてきた従来の社会では、そのときどきの支配階級は彼らの生産諸条件を維持するために、そして被抑圧階級の抵抗や闘いを抑圧しておくために国家を必要としました。国家とは「全社会の公式の代表者」であり、「全社会を目に見える一つの団体」にまとめあげたものでしたが、それが国家であるのは自ら全社会を代表する階級の国家である限りのことでした。古代では奴隷を所有するための公民の国家、中性では封建貴族の国家、現代では資本の国家がそうです。
しかし、資本の国家を打ち破って樹立された労働者国家は事情が遠います。生産手段の国有化をすすめ、社会主義が組織されていくに従って、その国家が支配すべき階級はなくなってしまうからです。
「国家が現実に全社会の代表としてあらわれる最初の行為――社会を代表しての生産手段の掌握は、同時に国家としての国家の最後の自主的な行為である。社会的諸関係への国家権力の介入は、一つの分野から他の分野へとつぎつぎによけいなものとなり、やがてひとりでに眠りこんでしまう。人に対する統治にかわって物の管理と生産過程の指導があらわれる。国家は『廃止される』のではなく、それは死滅するのである」。
勿論、ここで言われている「死滅する」国家とは、労働者国家のことであって、資本の国家のことではありません。
資本の国家は、従来の奴隷制国家、封建国家と同じように自然にねむりこむなどということはありません。資本の国家は、それが官僚制度、警察、軍隊、裁判所、ブルジョア議会等々の支配機構と暴力装置によって支えられており、「社会から生まれながら、しかも社会の上にたち、社会から自らをますます疎外していく権力」(エンゲルス)、いわゆる本来の国家に他なりません。このことは「民主共和制」においても本質的に同じです。
したがってこのような資本家国家は、被抑圧階級である労働者階級の大衆的な闘いで打倒され粉砕される以外にはないのです。その意味では、資本の国家の部分的な手直しにすぎない「民主連合政権」等々を何か労働者国家であるかに語る共産党などの主張は、全くの日和見主義であり、誤りなのです。
と同時に、労働者国家は「廃止される」のではなく「死滅する」ということは、アナーキストのようにすべての国家を即時廃棄せよという主張の無内容を明らかにしています。資本の国家は粉砕されなければなりませんが、それは「半国家」としての労働者国家におきかえられなければならないのであり、そうしなければ、社会主義を組織することも、階級対立と搾取を廃絶することもできないからです(全社会を代表してあらわれる最初で最後の行為の必要性)。
私達は、こうした日和見主義や無政府主義者の卑俗な国家論の誤りを確認するとともに、労働者がめざすべき労働者国家のイメージをより豊富にしていくことが大切でしょう。
社労党の綱領では、次のようになっています。
「すでに本来の国家でないこの過渡期国家においては、すべての官吏や裁判官等の選挙制、リコール権、労働者なみの報酬という『コンミューンの原則が厳格に実行される。階級の消滅と共に、政治的な意味での国家もなくなり……、社会的生産及び分配の管理と統制の機関のみが残ることになる。プロレタリア国家は搾取者の妨害を粉砕して社会主義を実現することで自らも止揚するのである』。
(山田明人) ▲index
第15回 社会主義の概念についてD
労働者階級の歴史的使命――唯一の革命的階級
資本主義は、生産力を飛躍的に発展させ社会主義社会の客観的条件を準備するとともに、自ら大量の労働者を生み出し社会主義社会の主体的条件も準備します。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「ブルジョアジー、つまり資本が発展するにつれて、プロレタリアートすなわち近代労働者階級もそれだけ発展する」「大工業が発展するにつれて、ブルジョアジーが生産をおこない生産物を取得する基礎そのものが、ブルジョアジーの足もとからとりさられる。ブルジョアジーはなによりもまず自分自身の墓掘り人を生産する」と述べています。
資本主義の発展が自らの「墓掘り人」たる労働者階級をますます成長させるという指摘は、何もむずかしいことではありません。私達の眼前でくり拡げられてきた資本主義の発展と労働者階級の成長発展を少しみるだけでも、このことは明らかです。
例えば戦後の「高度成長」の前の1950年とその後の1980年の労働力人口の構成比だけみても、資本主義の発展は労働者階級の発展であることを示しています。1950年に1100万人足らずだった労働者階級(全労働力人口の38%)は、1980年には3倍以上の3800万人(前同67%)となり、労働力人口の3分の2に達しています。反対に農漁民は1600万人余り(45%)から560万人へと3分の1に減少し、その割合も1割そこそこに急減しています。資本主義の「高度成長」とは、同時に資本と賃労働の階級矛盾の深化・発展を意味しているのです。
そしてこうした現実は、今や日本では「民主革命」等々ではなく「社会主義革命」こそが現実の課題としてつき出されていることを教えています。「世界解放の事業をなしとげることは、プロレタリアートの歴史的使命である」という指摘が、現代では真に現実的可能性として存在すること、従って、先進労働者はこの「歴史的使命」を首尾よく成功させるために理論的組織的に準備すべきだという問題としてとらえかえされなくてはならないでしょう。
そして、マルクスは次のようにも述べています。「今日ブルジョアジーに対立しているすべての階級の中で、ひとりプロレタリアートだけが真に革命的な階級である」。
つまり、労働者階級だけが「真に革命的な階級」として資本の支配を打倒し、社会主義社会を建設する本当の担い手だというのです。もちろん、ここには何らかの道徳的な意味あいは含まれていません。あるのは、労働力を売る以外に生きていくことのできない労働者の社会的地位、その歴史的な地位から必然化する「革命性」です。それは資本の支配と圧迫の中で時に資本と激しく争う小生産者の地位とは区別された労働者階級の「革命性」なのです。
ところが、こうしたマルクス主義の基本命題を、共産党などは平気でふみにじっているのです。やれ「統一戦線」だ、小生産者の経営を守れ、等々と。
共産党の手にかかると、労働者階級の地位と役割についてのマルクス主義の歴史的・社会的規定性など完全に無視され、小生産者と一緒くたにされてしまうのです。これでは、労働者階級の「歴史的使命」も何もあったものではありません。
すでにマルクスは、小生産者の歴史的な役割について次のように述べています。
「これらがブルジョアジーとたたかうのは、すべて中産身分として彼らの地位を没落から守るためである。彼らはしたがって革命的ではなく保守的である。それだけでなく彼らは反動的でさえある。なぜなら、彼らは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。もし彼らが革命的になるとすれば……彼らは現在の利益ではなしに将来の利益をまもっているのであり、彼ら自身の立場をすててプロレタリアートの立場に立っているのである」(前同)。
労働者階級が自らの「歴史的使命」を果たすためには、このような諸階級に対する科学的な分析と位置づけこそが必要であり、共産党のようなおしゃべりとは無縁なのです。
(山田明人) ▲index
第16回 社会主義の概念についてE
階級闘争とは何か――政治闘争への一面化は危険
今回は労働者の階級闘争とは何かについて考えてみます。
マルクスは「共産党宣言」の中で「階級闘争はすべて政治闘争である」という有名な命題を与えていますが、この意味をどう理解すればよいのでしょうか?又、一方では、階級闘争とは政治闘争、経済闘争、理論闘争の三つの分野がある、といわれています。それでは、この三つの分野の関連をどう位置づければよいのでしょうか。
まず、マルクスの「共産党宣言」の命題ですが、そこでいわれている意味は、資本主義の発展とともに、労働者の階級的団結が促進されていくこと、労働者の闘いの「真の成果」は経済的利益を得るという直接の結果ではなく、団結を拡大することにあること、個々の雇主との闘争から「全国的闘争」に発展していくなかで労働者の闘争は階級対階級の闘争へと深められ、階級闘争に発展すること、それにともなってこの闘いは政治的性格をおび政治闘争になるという意味です。
ここでいう政治闘争とは、資本とその国家に反対し、社会主義をめざす政治的な闘いのことですが、階級闘争はそうした権力をめぐる政治闘争に最後には高まっていかなくてはならないということです。
レーニンも、この命題を次のように説明しています。
「資本家にたいする労働者の闘争は、みなつねに政治闘争であるという意味にとるなら、それは誤りであろう。資本家に対する労働者の闘争は、それが階級闘争になるのに応じて、必然的に政治闘争となるという意味にこれを理解しなければならない」(「我々の当面の任務」)。
レーニンのこの分析は、経済闘争と政治闘争、及び階級闘争との関りを示していないでしょうか。個々の雇主との闘いは、それ自体は経済闘争にすぎませんが、それが資本との闘争である限りでは階級闘争の一部であり、「萌芽的」な階級闘争の意義をもっているのです。
ただ、それだけでは、十分に発展した階級闘争ということはできません。経済闘争が職業的形態の狭い枠内にとどまる限りは、階級闘争の一部分、一側面の意義を獲得するにすぎないのです。
労働者の日常的・職業的利益を要求する闘いが、社会主義をめざす特定の理想に基く政党の政治闘争と結びつき、労働運動と社会主義の接近と融合に向って発展していく時、労働者の闘いは階級闘争に高まることができるのです。
従って、ここで言っている意味は、経済闘争の独自の意義を否定したり、経済闘争を政治闘争に解消したりすることではありません。
むしろ、マルクスこそ経済闘争の意義をはじめて明らかにした人物です。彼は「哲学の貧困」の中で経済闘争の独自の意義を否定し、労働者は自らの生活の改善のために闘っても何の意味もないという当時の“社会主義者”(プルードン派ら)に対してその経済闘争(ストライキや組合への団結)の意義について述べました。
ただ問題は、労働者がそうした日常闘争の「ゲリラ戦」に埋没していてはならないこと、資本主義の制度そのものに反対して闘う必要があること、そうした闘いは政治闘争として止揚されていかなくてはならないということです。
「階級闘争はすべて政治闘争である」という命題は、むしろ政治闘争と経済闘争の相対的独自性を明らかにするとともに、その結びつきの意義を明らかにしたものというべきでしょう。
又、理論闘争についても、他の二つの闘争形態と並ぶ意義をマルクス主義は与えています(「ドイツ農民戦争」の序文)。レーニンもまた「何をなすべきか」の中でその意義を完全に承認し、「革命的理論なしには、いくらかでも首尾一貫した革命運動はありえない」と述べています。
こうした三つの分野の闘いは、どれが特別に意義が大きいというものではなく、それぞれの意義が確認されるとともに全体として一つに結びつけられ、階級闘争の不可欠の構成要素として発展されなければならないのです。労働者の階級闘争は最後には、権力をめぐる政治闘争へと高められ、そこに集約されていくのですが、しかし現実には三つの闘争形態のどれが欠けても階級闘争として一面性や不十分さをまぬがれないことを確認すべきでしょう。
(山田明人) ▲index
第17回 まとめ@「生成期社会主義論」の欺瞞
中ソは社会主義ではなく特殊な資本主義
ソ連や中国は一般に「社会主義社会」であり、世界の労働者がめざすべき社会として位置づけられてきました。
しかし、それは本当でしょうか?
今では、ソ連も中国も様々な矛盾や間違点をかかえていることは明らかです。「独立採算制」や利潤制度が導入されたり、農民の土地占有が公認されています。対外的にはポーランド労働者への抑圧やアフガン侵攻など、帝国主義国家と同じようなことばかりやっています。
こうした中で、共産党などは「生成期社会主義論」という規定をふりまわしています。
「今日の社会主義は世界史的には、まだ生成期にある」、つまり、基本的には社会主義社会であるが、民主主義や大国主義などいくつかの政策的誤りを犯している、というのです。
しかし、中ソの大国主義や民主主義の圧殺、或いは「自由化政策」などを単なる政策の誤りと位置づけることができるでしょうか。すでにロシア革命から60年、中国革命からも40年近くの歳月が流れる中で、これらの体制を「政策の誤り」だけをつみ重ねてきた「社会主義」と規定することは科学的な見方ではないでしょう。
むしろ中国・ソ連等を一つの社会体制として規定し、その内的な発展過程を位置づけることが必要なのです。アフガン侵攻にしろ、米国とはりあう核軍拡競争にしろ、そうした帝国主義的政策を規定している経済的要因は何か、ということが解明されなくてはなりません。
社労党の綱領では、次のように述べられています。
「国家資本主義はソ連や中国のかつての半封建的・半植民地的社会に比べれば百倍も千倍も進歩的であり、これら大国の国民経済的発展を可能にしたが、しかし資本主義の一つの特殊な形態であり、何千万、何億の労働者人民に対する苛酷な抑圧と搾取、政治的無権利、粗野で原始的な専制政治をその必然的契機としたのである」。
つまり、ロシア革命や中国革命の歴史的な意義を正しく規定し――社会主義革命といった抽象から出発するのではなく、歴史的な発展段階の中でソ連や中国の社会体制を位置づけるなら、それは半封建的、半植民地的な前社会に比べれば「百倍も千倍」も進歩的であったこと、しかし、それは「一つの資本主義の特殊な形態」であり、社会主義社会とは全く別ものであること、社会主義の物質的条件を準備する一つの社会体制として歴史的意義を備えていること、です。
従って、ソ連や中国の民主主義の圧殺や帝国主義的な政策も、この社会の支配階級の階級的な利害と深く結びついて展開されてきたこと、ソ連や中国の労働者の課題は、西側の労働者と同じように真の階級的解放、社会主義をめざす階級闘争として発展しなければならない、ということです。
この意味で、ソ連や中国を「社会主義」と規定することは、とんでもない誤りであり、そうした迷妄にとらわれている限り、ソ連圏諸国はもちろん自由主義国における労働者の闘いを発展させることはできないのです。
労働者は、ソ連や中国の現実をみて、率直に疑問を提出するでしょう。あのような「自由」のない社会を我々がめざす必要があるのか、どうしてポーランドやアフガンなど他国の労働者人民を圧殺する国が社会主義なのか、利潤制度を導入したり、能率給を導入して労働者のシリをたたく「社会主義」とは、今の日本等の資本主義と同じではないのか、と。
中ソを「社会主義」と規定する限り、こうした疑問に答えることは不可能です。せいぜい、「まだ生成期だから、政策的な誤り」もあるだろう、といったごまかししかできないのです。
私たちは、中ソの現実を「社会主義の事業への信頼を傷つける大きな誤り」(不破哲三)としてではなく、一つの資本主義の内的な本性の現われとして位置づけ、それらは「社会主義の事業」に対する「信頼を傷つける」どころか、「社会主義への信頼」をますます拡大する“反面教師”としてとらえ返す必要があるでしょう。今こそ社会主義の真の概念と理想を大衆のものとしなくてはなりません。
(山田明人) ▲index
第18回 まとめA 現代世界体制の意義
社会主義への世界史的移行が現実的課題に
いよいよ、この連載も最終回となりました。最後は現代の世界体制との関りの中で、私達につきつけられている課題を中心にまとめてみたいと思います。
マルクス主義の基本的な思想が定式化された一九世紀半ば以降、すでに百年余りが経過しました。資本主義の世界体制は、自由主義段階から、独占資本主義=帝国主義段階へ、そして現代では国家独占資本主義と国家資本主義が対立・抗争する“高度”帝国主義の新たな段階に到達しています。この資本主義の新たな段階は、レーニンが「帝国主義は社会主義の前夜」といった以上に、世界史的規模で一つの段階を画しているのです。
世界の資本主義は、資本主義の必然的結果として過剰生産に悩み、退廃と危機を深めています。生産力は世界的規模で発展しながら、これは何一つ人類の幸せのために有効に利用されてはおりません。世界の労働者は一様に失業や生活の不安におののき、資本によるひどい搾取と抑圧に苦悩しています。米ソを中心に人類を破威させかねないような核兵器が乱造され、軍拡競争が展開されています。そして他方でアフリカ大陸の飢餓問題にみられるように資本主義は後進諸国の人民に何の救済の手もさしのべることもできません。
こうした苦悩と矛盾を露呈している現代世界はいわば「人類の社会主義への世界史的移行が現実的課題」(社労党綱領)となった時代であることを、はっきりと示しているでしょう。
とりわけ日本のような国家独占資本主義は、資本主義の枠内では生産を極限まで社会化させており、社会的な生産に対して人間が「意識的な真の主人公」となる直前まで到達しており、「これと社会主義の間にどんな中間の経済体制もないような『社会主義の前夜』」(前同)にあるのです。すでに日本の資本主義はその歴史的使命を終えて退廃と危機を深める中で、その巨大な生産力を人類のために解放することは、世界史的観点からみても大きな意義を備えているのです。
マルクスが『資本論』において社会主義の歴史的必然性を明らかにして以来、社会主義は単なる理想ではなく実践的課題となったといわれてきましたが、まさしく現代こそその言葉にふさわしい歴史的時代なのです。
「科学的社会主義」とは、(これまでみてきた如く)「プロレタリア解放運動の理論的表現です。社会主義者の任務は、労働者階級がこの歴史的使命を自覚できるよう、あらゆる援助をし、階級闘争の発展と組織化に力を尽くすことです。労働運動と社会主義の接近・結合をかちとり、労働者の闘いを台無しにしかねない日和見主義の害悪をとり除き、労働者の真の解放のために闘うことです。
人間は自らの行動や実践を歴史的条件や制約から離れて考えることはできませんが、こうした現代史に生きる社会主義者は極めて恵まれているといえます。社会主義について学び、その歴史的発展法則について確信をえた労働者は、大きな勇気と展望をもってこの事業の成功のために献身せざるをえないでしょう。共産党のように社会主義へ向かうかどうかは「国民の選択の問題だ」云々のおしゃべりを彼らは鼻でせせら笑うに違いありません。
現代の世界が全体として「社会主義を現実的課題」としていること、とりわけ国家独占資本主義の段階にあり、世界の労働者の闘いの先頭にたつべき歴史的使命を課されている日本の労働者階級の責任をかみしめつつ、エンゲルスの次の言葉でこの連載をしめくくりたいと思います。
「社会による生産手段の没収とともに商品生産は除去され、したがって生産者に対する生産物の支配も除去される」「こうなってはじめて人間は完全に意識して自己の歴史をつくりうる。これより後、はじめて人間が動かす社会的諸原因が、主として、またますます多く、人間の希望するような結果をもたらすようになる。それは必然の王国から自由の王国への人類の飛躍である」(「空想から科学へ」)。
(山田明人) ▲index
―完―