栗木伸一(林紘義)●1980年2月10日「火花」第436号
連合や統一戦線についてのおしゃぺりが花盛りである。こうした現代の流行は、30年代のスターリニストの人民戦線にはじまるが、その先駆こそトロツキーの「統一戦線」戦術の空虚な議論であった。我々はトロツキーの批判を通してこうした議論の不毛性を明らかにする。引用はすぺて、選集七巻「社会ファシズム論批判」からである。
――――――――――――はじめに●
トロツキーの1930年代の「統一戦線戦術」は、いうまでもなくスターリニストの「社会ファシズム論」に対置されたものである。トロツキーの主張によれは、スターリンの戦術は世界の労働者階級を破滅に導くが、他方「統一戦線戦術」は労働者階級をファシズムの脅威から救い、労働者階級の解放をもたらす唯一の道であった。
スターリンの「社会ファシズム論」がドイツをはじめ全世界の労働者階級の闘いに致命的な打撃を与えたのは確かだとしても、トロツキーの「統一戦線戦術」ははたして労働者の解放の唯一の道であったろうか? まさにそれが問題である。
歴史は、トロツキー流の「社共統一戦線」
もまた破産したことを明らかにして来なかったであろうか? 現在、日本の自覚した労働者で、「社共統一戦線」に幻想をもつ者は一人もいないであろう(第四インター、社会主義協会、共産党の連中は別である)。
今の共産党はかつての共産党とちがうから同列には論じられない。というのか? しかし1930年代のフランス、スペインの社共連合政権(つまり人民戦線政府だ!)はどうなのか。トロツキーは、30年代の人民戦線政府は、プロレタリア(社共)統一戦線のワクをこえて、ブルジョア党派まで含めたが故に正しくなかった、とスターリニストを非難するのが常である。しかし社会民主党もまたある意味でブルジョア政党なのだから、トロツキーのような区別は奇妙なものであろう。もし、労働組合を基礎にする党とのみ連合すべきだ――なぜなら労働者の全階級的統一が課題だから――というなら、こうした問題の提起自体のなかに、ブルジョア政党も拒否しないという原則が含まれている。労働者大衆に基盤をもつれっきとしたブルジョア政党も存在するのである、例えば、西欧のキリスト教民主党である。また、日本の民社党はどうなるのか、トロツキストの諸君よ!
我々は、スターリンの綱領のみならずトロツキーの綱領も失敗した、と結論する。なぜ失敗したのか、トロツキーの考え方はどんなものであり、どこがまちがっていたのか――それを検討するのがこの小論の目的である。
――――――――――――なぜ「統一戦線戦術」か?●
まず彼のスターリニストのえせ極左戦術の暴露から紹介しよう。彼はその批判を通して自らの統一戦線戦術を展開しているのだから。
「しかし、社会民主々義にたいする勝利なくして、ファシズムに勝つことは不可能である、とスターリン主義者は返答する。それは本当だろうか? ある意味では本当だ。しかし、逆の定理もまた同様に真である。つまりファシズムに対する勝利をなくして、社会民主々義に勝つことはできない。ファシズムも、社会民主々義も、ブルジョアジーの道具なのだ。資本が社会の主である間は、社会民主々義やファシズムは、異なった組合せのもとに、存在するだろう。このように、すべての問題は、単一の分母、すなわち、プロレタリアートはブルジョア政体を転覆させなければならない、ということに帰着する」(143〜4頁)。
「今日、ドイツ共産党の指導部は、イタリア共産党の最初の態度を、ほとんどそのままくりかえしている。すなわち、ファシズムは資本主義的反動の一つでしかない、プロレタリアートの観点からいえば、資本主義的反動の種々の形態を区別することは、重要ではない、などといっているのだ」(168頁)。
スターリニストの無責任な混乱した政策に対するトロツキーのこれらの批判は正当である。ファシズムと社会民主主義者さらには自由主義的ブルジョアジーを同一視すること、そして社会民主主義(以下、社民)を打倒することなしにファシズムを打倒しえないという立場を一面的に強調し戦術的原則にまで高めること――これらがどんなにファシズムを助け、反革命を助長し、労働者の階級的闘いを解体するものであることは、多くの説明を要しない。
トロツキーは、社員に対する闘いにかわって、社民との「統一戦線」を捏出する。すでにこうした形での問題の提起自体が、広汎な左翼的労働者――社民に深い不信と憎悪と軽蔑を抱いている――に反発をよんだであろうことは想像に難くない。
トロツキーは、社共統一戦線の必要性を、次のように説明している。すでにこの彼の思想は、1922年ごろに形成されていたのであるが。
彼の見解によれは、労働者階級は均質の存在でなく様々な部分をもち、また様々な段階や道をとおって階級的自意識に到達する。また、労働者のなかで、いくつかの政党が同時に活躍している。根本的には、こういった状態が、そして共産党がこうした状態のなかで労働者の多数を獲得しなくてはならないという必要が、統一戦線を必然化するのだそうである。
他方では、統一戦線(つまり労働者階級の統一、とトロツキーは考える)は、企業や国家や反革命やファシスト(資本の諸勢力)と闘うために、行動の統一を確保するために、必要であり、これがなければ労働者階級は単なる「宣伝のための集まり」になってしまい大衆運動の組織ではなく、闘うことができなくなってしまう。彼は1922年にすでに言っている。
「共産党が、社会民主主義者との、根本的かつ決定的な訣別を実現しなかったなら、決して、プロレタリア革命の党にはなれなかっただろう。また、もし共産党が、共産主義労働者大衆と非共産主義労働者大衆(社会民主主義的労働者も含めて)との間に、統制された統一行動を常々可能ならしめるような組織の道をとらないならば、そのこと自体によって、党は、大衆行動をもって労勘考階級の多数を獲得できない、ということを示すことになるだろう」(153頁)。
トロツキーは、一応は、社民との「根本的かつ決定的な訣別」をロにする、しかしすぐに、彼らとの「統一戦線」を謳うのである。彼にあっては、社民との「訣別」は、単に組織的形式的問題であって、政治的かつ実践的な問題ではないかのようである。彼は、統一行動、統一戦線の形でしか、労働者階級は資本の陣営と闘わない、闘うことができないと、事実上言っているのであるが、これが混乱したドグマであることに気がついていない。もちろん、労働者が資本と闘う上で、労働者全体としてたち上ることができたらそれにこしたことはないであろう。しかし実際の階級的闘いがそのようなスマートで単純な形で進まないことは、どんな労働者でも知っている。トロツキーのように問題をたてること自体、社民への幻想を拡大し、労働者の社民への依存心や期待をふくれ上らせる以外の何ものも生まないであろう。
トロツキーは、次のようにも、断定的に述べている。
「階級の多数を獲得しようとする政党の闘いは、戦線を統一するという労働者にとっての必要性にいかなる場合にも、抵触してはならない」(131頁)。
一体、トロツキーは何を言いたいのであろうか? 彼はかつて、統一戦線と統一行動を通してのみ、共産主義者の党は大衆の多数を獲得できると言った。今度は、この道を通して以外に多数を獲得しようとしてはならない、と恫喝しているかである。彼にとってまず第一義的なのは、抽象的な「階級の統一なのであって、共産主義の下への大衆の獲得ではない。大衆の獲得が、階級の統一に抵触する――とトロツキーに思われる――ときには、彼はただちに、党による大衆の獲得に抗議するのである、それはお説教である、抽象的宣伝である、分裂主義である、と。我々はこうしたさけび声を、何千、何万回と、社会民主主義者の連中からきかされて来なかっただろうか。トロツキーは、社民の言葉で語っているのだ。
「プロレタリアートが自意識を獲得するのは、学校の講義のような段階を経てでなく、中断を許さない階級闘争を通してなのである。プロレタリアートは、闘いのために、自らの隊列の中に統一を必要とする」(130頁)
労働者の自覚は階級闘争を通してであり、階級闘争のためには統一が必要である、かくして労働者の自覚、労働者の闘い、政党への結集、ひいては階級闘争の勝利も、みな統一戦線から流れ出してくるというわけである!まさに、統一戦線の物神崇拝であり、神秘的絶対化である。
労働者の自覚が階級闘争の結果であるというのは真理であるが、一面の真理でしかない。労働者は自らの階級的立場の自覚によって共産主義的意識に到達する、しかし他方では、自然発生性のままでは、労働者党の宣伝と指導がなくては(つまり科学的社会主義の理論の助けなくしては)、労働者は本当の共産主義意識に到達することはできないのである。トロツキーは、すべての急進主義者、すべての改良主義者(すなわち社会民主主義者)と同じように、前者の側面を強調するが後者の真実については一切口をつむっているつむっているばかりか、むしろこの真実を否定し拒否しているのである。実にこれは、1903年にレーニンと対立したときのトロツキーの立場であった。三つ児の魂百までだ!――トロツキーのメンシェヴィキ的偏向は、終生変らなかったといえるだろう。
――――――――――――統一戦線の現実的諸相●
それでは、この社民との統一戦線はどんな形式のものでなければならないのだろうか?
まず、これはあくまで、社民指導層との統一戦線であって、労働者大衆の間だけの問題ではない。これは当然、トロツキーの思想から出てくる結論である。
「戦線の統一は、労働者大衆だけに及ぶのか? それとも、日和見主義的指導者をも含むのか? という質問は、誤解の産物でしかない。もし、改良主義的組織、政党、労働組合などをなおざりにして、一般に使われているわれわれの言葉だけで、われわれの旗のまわりに労働者大衆を統一させることができれば、それにまさることはない。しかし、そうなれば、統一戦線の問題は、現在の形では提起されてもいないだろう」(153頁)
だが他方では、統一戦線内での社民や他党派への批判の権利は完全に保持すべきであって、この点ではどんなあいまいさもあってはならない、とトロツキーは強調する。例えばトロツキーは、スターリニストがドイツでの決定的な敗北を契機に「統一戦線」の戦術へと政策的転換をなしつつあったとき、その日和見主義的“行きすぎ”を弾劾した。
「統一戦線の立場にむかって、めまいのするような跳躍をしながら、執行委員会は、それのみが統一戦線政策に、革命的内容を確保することができる根本的保証をふみにじる。スターリン主義者は、改良主義者の、いわゆる『相互不可侵』への偽善的、外交的要求を考慮し、これを受け入れる。マルクス主義及びボリシェヴィズムのすべての伝統と断絶しかれらは、各国共産党にたいして、統一戦線成立の場合には、『共同活動の間、社会民主々義組織にたいする』攻撃を拒否することを勧告している。社会民主主義にたいする攻撃(!)を放棄すること(なんと恥ずき公式だろうか!)は、政治的批判の自由、いいかえれば、革命的政党の主要任務を放棄することである、というのだ」(424頁)。
一方で社員や労働組合のダラ幹どもに「統一戦線」をよぴかけながら、他方で、彼らに対する批判の全き自由と権利を保持せよと力むのであるが、これははなはだしい自己分裂というものであろう。まさにこれは一つの“観念論”である。
トロツキーは「巧妙な宣伝家」として、このように呼びかけよという一例を示してくれているので、それを引用するとしよう。彼はいう、『きみたちは民主々義に賭けている。われわれは、出口が革命の中にしかないと信じている。しかし、われわれはきみたちなしで革命を行なうことはできないし、望んでもいない。今日ヒトラーは共通の敵である。かれを打ち破ってのちに、われわれはきみたちと一緒に総計を出し、道の続きが実際上どこに通じているかを見よう』(310頁)。
我々は君たち(社民や組合主義者)なしで革命を行なうことはできないし、望んでもいない――まさにトロツキーの思想的根底をさらけ出す言葉ではないか。彼は、統一戦線は社民への批判の完全な自由がなくてはならないというが、ここには、批判どころか、社民への手ばなしの幻想が存在している。トロツキーが社民との統一戦線を謳うのは、“戦術”のためでなく、彼の社民への親近性の故であると結論するのは不当であろうか?
彼は、日和見主義者と協調、妥協するならその場で、「批判の完全な自由」とかをあれこれもち出すことが全然余分なことだという簡単な事情が分っていない、つまり物事の機微が分らないのである。彼の“戦術”といったものが、頭の中で考えられた空論にすぎないことを、我々は確認せざるをえない。
「統一戦線の実践的綱領は、大衆の目前で結ばれる協定によって、組織の闇で決定される。すべての組織は、それぞれの旗幟と、指導部のもとに留まる。すべての組織は、行動においては、統一戦線の規律を守る。
『階級対階級!』社会民主々義的組織と改良主義的労働組合が、『鉄の戦線』に参加している不誠実なブルジョア同盟者と手を切り、共産主義的組織やプロレタリアートの他のすぺての組織と共通の陣営に参加するように、執拗に煽動を続けなくてはならない」(257頁)。
これがトロツキーの描く統一戦線のイメージである。それは、今共産党がもってまわっている“民主”統一戦線と本質的には何一つ異なっていない。彼は、こんなものを、資本とファシズムに反対して闘ううえで決定的な役割と意義をもつ唯一のもの、として提出したのである。彼は、ソビエトについても次のように言っている。
「労働組合が、経済闘争においての統一戦線の初歩的形態であるごとく、ソビエトは、プロレタリアートが権力への闘争の時期に突入するような条件のもとでは、統一戦線のもっとも進んだ形態なのである。……ソビエトは、種々の政治的傾向をもち、また異なった発展段階にある労働者が、権力への革命的闘争の中で、一致協力できるような、組織的可能性をつくり出す」(171頁)。
ソビエトのこうした意義つけもおかしなものであろう。牧は「統一戦線」を絶対視し、その窓からソビエトを評価しているにすぎない。しかも彼は、ここで、異なった発展段階や政治的傾向をもつ労働者と、様々な日和見主義政党を区別することさえしていない。彼は、社民政党と、プロレタリア権力のための革命闘争のなかで「一致協力できる」と言っているのであろうか? 全く不可解な空論と言わざるをえないのである。彼はここでは、事実上、ソビエトを物神崇拝する日和見主義たちへ道を開いているのである。
――――――――――――トロツキズムとレーニズム●
トロツキーは、統一戦線戦術の現実的、具体的効能を並べたててくれる。彼は、この戦術が、社民指導者を暴露し、大衆を彼らから引きはなす最良の方法である、と強調する。この戦術は、社民的、改良主義的指導者をその「避難所」、かくれ場所から大衆の前に引き出し、彼らに大衆の利益と要求にそって行動するかしないかのテストにかけることになる、という。
「統一戦線の政策は、闘うことを望むものを、それを望まないものから引きはなし、躊躇するものを励まし、最後に卑怯な指導者たちの権威を労働者の眼前で失墜させることによって、労働者の闘争力を強化することを任務としている」(307頁)。
かくしてファシズムとの闘いは、共産党が統一戦線の綱領を決定するかどうかに、ただこのことのみにかかっていた、とトロツキーは総括する。この結論を支えるのは、労働者の階級的統一のみが、そしてそれにもとづく行動のみがファシズムの攻勢を防ぐことができる、という図式である。これはまさに労働者の階級闘争の内容を形式にすりかえるものであり、一種の日和見主義以外の何ものでもない。社民と提携することでファシズムが除去できるなら、これほど簡単なことがまたとあろうか? だが実際には、死にもの狂いの階級的闘いなくして、資本の権力やファシズムを打倒することはできないであろう、そしてこの闘いで社民や組合主義者にどんな期待も抱くことはできないのである。まさにこの自覚こそ労働者の闘いの出発点でなくてはならない。
トロツキーは、コルニロフの反乱のときのレーニンの戦術こそ、トロツキー的戦術の適用であったかに言いはやしている。はたして本当であろうか。
ケレンスキー政権に対するコルニロフの反乱に直面したときのレーニンの戦術は、ケレンスキーの政権(メンシェヴィキやエス・エルの政権)を助けるが、しかし彼らへの今までの批判を一切とり消さず、彼らを支持しない、そして我々は、コルニロフと断固として闘うことによってケレンスキーを暴露する、といったものであり、ここにはトロツキー的な形而上学的、形式的な「統一戦線戦術」といったものは全くなかったのである。トロツキーの戦術は、ポリシェヴィキの戦術の戯画であり、むしろスターリン主義者の人民(民主)統一戦線という日和見主義の本当の先駆をなしたのである。彼はせいぜい、レーニン的戦術の個々の側面を一面的に固定化し、絶対化したにすぎない。
レーニンは、「左翼小児病」のなかで、メンシェヴィキ等々との「協調、妥協」の必要性を強調したが(「たとえ一時的な、確実でない、ぐらぐらした条件つきのものでも」)それは「迂回政策」であって、トロツキー的な何らかの原則や“戦術”でないことを明らかにしている。
トロツキーはスターリニストを「政治闘争のかわりに抽象的宣伝を、弁証法的戦術のかわりに官僚主義的計画」(144頁)をもち出していると非難したが、それはまたトロツキーの戦術についても言えたのであった。彼の戦術はその空論性の故に「抽象的宣伝」と「官僚主義的計画」を越えることはできなかった、彼の主観的意図に反して、社民との統一戦線を絶対化するような戦術をもち出してどんなプロレタリア的「政治闘争」も問題にならないのは自明であろう。
トロツキーはすぺての「統一戦線」論者にとって他山の石である。我々は「統一戦線」の空文旬に、プロレタリア党の断固たる政治闘争、党派闘争を対置する。
大阪・長沢●1983年4月24日「火花」第587号
赫旗派流の統一戦線戦術にシンパシーを持つ火花読者から「レーニン主義を標ぼうするマル労同は統一戦線戦術を否定しているが、この戦術は、レーニンが指導したコミンテルン第3回大会の決定にもとづいているのではないか」といった意見が寄せられた。なるほどスターリニズム共産党ばかりではなく、第四インターなどの新左翼諸党派もまた、この日和見主義的、階級協調主義的政策をレーニンによって権威づけているのが常である。だが、これは事実だろうか。ここでは主に3回大会の時期のレーニンの諸論文を通じてこの問題を検討したい。(この小論は大阪府同盟の理論研究発表会でのレジュメをもとにまとめたものです)。
――――――――――――第3回大会での方向転換●
1921年6〜7月に開かれたコミンテルン第3回大会は、ドイツの「三月行動」に現れた左翼的急進主義、「攻勢理論」をきびしく批判し、「若干の国々で客観情勢が激しく革命化し、若干の大衆的共産党が形成され、しかもそれらが今なお現実の革命的闘争において労働階級の多数の事実上の指導権をとっていない、という時期における戦術の問題」を検討し、「最も重要な任務」は「労働者階級の多数に対する支配的影響力を獲得し、彼らのうちの決定的な層を闘争のなかへ持ちきたすことである」とする「戦術テーゼ」を定めた。
コミンテルン執行委員会はこの年の12月にジノヴィエフらのヘゲモニーのもとで「多数者の獲得」にもとづく実践的方策として「統一戦線」戦術を公式のものとし、さらに22年11〜12月の第4回大会ではブルジョア改良主義者や社会民主主義者との連合政府をも認めた「労働者政府」のスローガンに仕上げたのである。
後にトロツキーが「第3回大会をもって、戦後の革命的動揺は終ったことが自覚された。…統一戦線の利用、すなわち大衆を過渡的要求というプログラムに基づいて組織することによって大衆を獲得することに方向が転換された」(コミンテルン・ドキュメント@197頁)と書き、21年12月のコミンテルン執行委員会でジノヴィエフが「大戦と終戦直後との闘争とにより、労働者階級は疲れ、無気力の状態をつづけている。彼らは労働者の敗北を不統一によるものだと考えており、統一戦線政策をうち出せば彼らの支持を得ることができよう」(同、363頁)と述べたように、彼らは、第3回大会が掲げた「多数者の獲得」のスローガンから、部分的要求にもとつく統一行動や第二および第二半インターナショナルとの統一戦線といった立場を引き出し、指導したのである。
――――――――――――“左翼小児病”とのレーニンの闘い●
「戦術テーゼ」や、これを擁護したレーニンの見解は、はたして日和見主義者との統一戦線に道を開く内容を持つものであろうか。
レーニンは、戦術テーゼ草案を作成したロシア代表団を積極的に指導し、テーゼの中心思想として次のことが明確に強調されなければならない、とした。
「共産党はまだ芝こでも多数者(労働者階級の)を獲得してはいない。組織的指導のもとに獲得していないだけではなく、共産主義の原理の味方にも獲得していない。これがすべての根本である。唯一の合理的な戦術のこの土台を『弱める』ことは、はなはだ無分別である」こと、したがって容易な勝利を得る可能性をあてにして戦術を立てるのは左翼的愚行であり、「共産主義インターナショナルの戦術は、つぎのことを基礎としなければならない。労働者階級の多数者を、なによりも第一に古い労働組合内で、うまずたゆまず、系統的に獲得してゆくこと。そうすれば、事態がどう転換しようと、われわれは必ず勝利するであろう」(全集42巻「429〜430頁)と。
また第3回大会後、党大会をひかえたドイツの共産主義者にあてた手紙の中でレーニンは「第3回大会では、実務的・積極的な活動を開始し、すでに開始された共産主義的闘争の実際の経験を考慮しながら、戦術の面・組織の面で、こんご、まさにどう活動するかを、具体的にきめなければならなかった」(32巻、559頁)と、3回大会の基本的任務がどこにあったかを説明している。
ところが大会では、ドイツやイタリア、ハンガリーをはじめとした多くの有力な代表団グループが「多数者の獲得」という任務を理解することができず、「攻勢理論」をもてあそび(この害悪は当時、左派が指導権を握っていたドイツにおける21年の三月行動として現れた)「度はずれに『左翼的』な、まちがった左翼的な立場をとり、即時の直接の革命的行動にあまり有利でない情勢を冷静に考慮するかわりに、はげしく赤旗を振ろうとした」(33巻、105頁)のである。
レーニンは、「共産主義内の『左翼主義』小児病」において「われわれは、労働者大衆がメンシェヴィキからしだいにボリシェヴィキにうつっていくのを、1917年にはっきり見た。…ドイツでも労働者に右から左へと同じような、まったく同じ性質の移動がおこったのに、なぜそれがすぐに共産党の勢力を強めないで、まず『独立派』という中間的な政党の勢力を強めたのであろうか?」と問い、「その原因の一つがドイツ共産党員の誤った戦術であったことは明白である。…誤りは、反動的なブルジョア議会と反動的な労働組合に参加することを否定したことである。誤りは、『左翼』小児病が無数に現れたことである」(31巻、60〜61頁)と指摘したか、左翼主義にとらわれた、生れて間もない若い共産党は、革命闘争を裏切ってきた第二インターナショナルや中央派の日和見主義的指導者たちに対する、ある意味で正当な革命的労働者の憎しみから、また革命的性急さや政治的未経験から、日和見主義者の影響下にある旧来の労勒組合やさまざまな大衆団体、ブルジョア議会での活動を拒否することによって、また、ただ共産主義の一般原則の説教にとどまることによって、プロレタリア大衆との緊密な接触の道を閉ざし、革命政党をセクトに変えてしまいかねなかつた。
大会の討議でレーニンは「もし大会が、こういう誤りにたいして、こういう『左翼的』愚行にたいして断固たる攻勢をおこなわないなら、全運動は破滅するほかないであろう」と左翼的急進主義をきびしく批判し、「ある発展した資本主義国におけるプロレタリアートが組織されていればいるほど、歴史は、われわれがそれだけ根本的に革命を準備することを要求し、またわれわれはそれだけ根本的に労働者階級の多数者を獲得しなければならない」(32巻、513頁)ことを明らかにした。
そのためには、左翼主義の空談議にふけっているのではなく、実務的・積極的な活動を開始し、何よりも大衆の中に入り、反動的な労働組合であろうと未組織労働者の間であろうと、労働者大衆に働らきかける機会、場所があるなら、うまずたゆまず、系統的に革命の宣伝を行い、ブルジョア的日和見主義的な第二および第二半インターナショナルの指導者たちの反動的役割を実地に暴露して労働者を彼らの影響からひきはなし、共産主義の原理のもとに労働者階級の多数者を獲得していかねばならないと、レーニンは強調したのである。
――――――――――――レーニンの闘いは「右への偏向」を正当化せず●
「『公開状』は、模範的な政治的方策である。われわれのテーゼにはそう言われている。そして、われわれは、このことを無条件に主張しなければならない。公開状は、労働者階級の多数者を引きよせる実践的措置の最初の行為として、模範的なものである」(32巻、500〜501頁)とレーニンが擁護した「公開状」戦術(これは、パウル・レヴィらのヘゲモニーのもとでドイツ共産党が、賃金・年金の引上げ、物価引下げ、失業者の救済や食料品・原料の生産と分配に対する労働者統制、さらに反革命組織の即時武装解除、プロレタリア的自衛組織の建設などの緊急要求を掲げて21年1月に、社会民主党からドイツ共産主義労働者党にいたる全労働者政党および労働組合に共同闘争を呼びかけたものである)は、トロツキーのいう「過渡的要求にもとづく統一」といった立場と一致するかのようである。
そして、もし「部分的要求にもとづく共同行動」といった闘いを自己目的化するなら、たちまちトロツキーのように、あるいは現在、「一致できる要求にもとづく統一」を唱えている共産党や統一労組懇と同様の、日和見主義、改良主義に陥るだろう。
しかし「左翼的」愚行に反対し、彼らの誤りを正すために(そのために「大会では右翼に立つことが必要であった。そうしなければ、共産主義インターナショナルの方針は正しくなかったであろう」(32巻、556頁)とレーニンは自ら述べている)、また大衆に接近し、大衆の具体的な要求を支持して闘うことの意義を説明し理解させるために、「公開状」の列は必要であった。だが、これをもって、その後のトロツキーやジノヴィエフらの「右」への偏向を正当化することはできないだろう。
――――――――――――真の革命党への脱皮の必要を強調したレーニン●
第3回大会はまた、「戦術テーゼ」と合せて「共産党の構成、その活動の方法と内容とに関するテーゼ」を採択した。
改良主義と思想的、組織的に絶縁し、真の共産主義政党を建設していくうえで、共産党は、議会主義の基盤に立った社会民主党の組織形態や活動を踏襲することはできなかった。労働者階級の多数者を獲得するという任務に沿って、党建設の新しい原則、それに応じた組織構成、活動方法、内容をうちたてることが必要であった。
ここでもレーニンは、テーゼ草案を作成したクーシネンに対しテーゼの各項目について指示を与え、とりわけ次の点を強調して盛り込むよう要請した。「西ヨーロッパの大多数の合法党ではまさにこれが欠けていることを、もっと詳しく述べなければならない。党員ひとりひとりの日常的な活動(革命的な活動)が欠けているのだ。これが主要な欠陥である。この状態を変えること――これがいちばん困難な点である。しかも、これがいちばん重要なことである。」「未組織プロレタリアートと黄色団体に(とりわけ第二および第二半インターナショナルに)組織されたプロレタリアートの大衆および非プロレタリア的な勤労人民諸層のあいだでの義務についてもっと詳しく。」(42巻、425〜426頁、強調はレーニン)。
22年のコミンテルン第4回大会では、最初の発作に倒れた後のレーニンは「ロシア革命の五ヵ年と世界革命の展望」について短い演説を行いえただけであったが、演説の中でこのテーゼについて触れ、決議はすばらしいが、あまりにもロシア的であり、外国人には理解できないだろうし、たまたま理解できたとしても実行することはできないだろうと述べ、「私は、われわれがこの決議で大きな誤りをおかしたという印象、つまり、われわれが自分でこんごの成功への道を断ってしまったという印象を受けた」と深い反省を加えた。
しかし同時に、資本主義諸列強が与えてくれた学ぶ機会を利用して「われわれロシア人も、この決議の原理を外国人に説明する道をさがさなければならない。そうしなければ、外国人は、この決議を絶対に実行できないだろう。…われわれは一般的な意味で学んでいる。外国人は、革命的活動の組織、構成、方法、内容をほんとうにさとるために、特別な意味で学ばなければならない。それらがやられるならば、世界革命の展望は有望であるだけでなく、すばらしいものともなるだろう」(33巻、447〜449頁)と、革命政党の組織、活動、内容について根本的に学び、きたえていく必要を訴えたのである。
22年2月末にもレーニンは次のように書いている。少し長いが引用しよう。「ヨーロッパ議会主義的な、実質上改良主義的な、かるくうわべを革命的な色で塗りたてただけの古い型の党を、真に革命的な、真に共産主義的な、新しい型の党につくりかえること――これは、きわめて困難な事がらである。…日常生活のなかで党活動の型をつくりかえ、月なみなやり方を革新し、党が大衆からはなれることなく、ますます彼らに接近し、彼らが革命的自覚を持ち革命的闘争に立ちあがるようにする、革命的プロレタリアートの前衛となるような成果をかちとること――それはもっとも困難であるが、またもっとも重要なことである。もしヨーロッパの共産主義者が、1912年および1922年の初めにヨーロッパとアメリカの多くの資本主義国が経たような革命的戦闘のとくに激化した時期と時期との中間期(それはおそらく、きわめて短いものであろうが)を利用して、党の全機構と活動全体を根本的に、内面的に、ふかく改造しようとしないならば、それは彼らとして最大の犯罪となるであろう」(33巻、207頁)と。
――――――――――――レーニンとトロツキー、ジノヴィエフとの相違●
この時期の国際共産主義運動について、また「多数者の獲得」の意義について、レーニンが念頭に置いていたことが何であったか、明らかであろう。
第3回大会以降、レーニンは病気のためにしばしば休暇をとることを余儀なくされ、あるいは国内問題に忙殺され、直接にコミンテルンの指導にたずさわることははとんどなくなったが(そして主にジノヴィエフやラデック、トロツキー、ブハーリンらによって指導されることになる)、数少ない機会にも、大衆の中に入り、日常的な党活動のなかでねばり強く、共産主義のもとに大衆をひきつける能力を身につけた真の革命政党、新しい型の党にきたえあげていかねはならないことを繰り返し強調した。
過渡的要求のもとに大衆を獲得するとか、統一戦線を呼びかけ、社会民主主義の影響下にある労働者大衆に接近し支持をかすめとるといったトロツキーやジノヴィエフらの戦術は、なるほと手っ取り早い手段ではあるが、レーニンの見解とは何と隔たっていることだろう。それは共産主義のもとへの真の階級的統一、大衆の獲得ではなく、形式的多数の追求(これは「あらかじめ普通選挙権によって多数者を獲得し、ついで、そういう多数者の投票にもとづいて国家権力を獲得」するという日和見主義者の見解と不可分のものである)にはかならず、実際には、共産主義の革命的原則を引っ込め、第二インターナショナルや中央派への幻想を拡大し革命的政治闘争を混乱させ、解体に導くものである。
ジノヴィエフらは、統一戦線戦術は「マヌーバーにすぎない」とも言ったが(そして、コミンテルンの統一戦線戦術の起源がトロツキーやジノヴィエフらにあることを隠したがるスターリニストは、この言葉をとらえて、ジノヴィエフらは統一戦線戦術を正しく理解せず、セクト主義的に解釈したと非難しているのだが)、「労働者政府」のスローガンをめぐる第4回大会の討論のなかで、ポーランドのトムスキーが「もし労働者政府がプロレタリア独裁の単なる別名にすぎないならば、こうした偽名を使って戦闘に勝つわけがない。共産主義者は、自分が信じてもおらず、その日標のために闘わないようなスローガンを掲げるべきでない」(コミンテルン・ドキュメント@、363頁)と批判したのは、全く正当である。
――――――――――――“統一戦線”(日和見主義者との妥協)を原則とすることはできない●
ところで、統一戦線戦術にもとづいて、三つのインターナショナル(第二および第二半、第三インターナショナル)が「共同行動」の協議のために集まった22年4月のベルリン会議に関連して、レーニンもまた「統一戦線戦術」について語っている。
周知のように、この会議でブハーリンとラデックが「共同行動」を実現するため、第二・第二半インターの指導者たちに一方的に譲歩したのに対し、レーニンは「われわれは払いすぎた」ときびしい評価を下した。
しかしレーニンは、同じ論文の中で、この経験から「統一戦線戦術が誤りであるという結論を引き出すとしたら正しくないであろう」として、「もし共産主義者の代表が、これまで改良主義者に完全に『支配されてきた』労働者に、たとえわずかでも呼びかけるいくらかの機会がえられるような会場に入るために、高すぎる料金を払ったとすれば、このつぎの機会には、この誤りを訂正するように努力しなければならない。しかし、どんな条件をも拒否するということ、かなりに要塞堅固で閉鎖的なその会場に入りこむためにどんな入場料をはらうことも拒否するということは、比較にならないほど大きな誤りであろう」(33巻、343頁)と述べている。
ここでレーニンが問題にしているのは、共産主義者が日和見主義的指導者の影響下にある労働者大衆に働きかけることができ、日和見主義者を実地に暴露する機会が得られるなら、一時的に社会民主主義者や日和見主義者に譲歩し、妥協することも必要だということであり、もしこのような一時的妥協、譲歩を統一戦線と呼ぶとするなら、われわれは統一戦線戦術一般を否定するものではない。しかし、これはスターリニストやトロツキー派のように、日和見主義者との妥協、統一戦線を原則とし、前提とすることとは、決して同じことではないのである。
「共産主義内の『左翼主義』小児病」のなかでレーニンは、プロレタリアートの内部に、またプロレタリアから半プロレタリアまで、さまぎまな意識の層に労働者が分かれている以上、共産主義政党にとって迂回、妥協は避けられないこと、「すべての問題はプロレタリア的自覚、革命精神、闘争能力と勝利をかちとる能力の一般水準を引き下げず、たかめるために、この戦術を適用するすべを知ることである」として、「小ブルジョア的民主主義者(メンシェヴィキもふくめて)が、ブルジョアジーとプロレタリアートのあいだ、ブルジョア民主主義とソヴィエト制度のあいだ、改良主義と革命精神のあいだ、労働者にたいする愛とプロレタリア独裁の恐怖との間等を動揺することはまぬかれない。共産主義者の正しい戦術は、この動揺を利用することであって、けっしてそれを無視することであってはならない。この動揺を利用するには、プロレタリアートのほうに向きをかえる分子には、彼らがそうする時とそうする程度に応じて譲歩すると同時に、ブルジョアジーのほうに向きをかえる分子とはたたかわなければならない」(31巻、61〜62頁)と言っている。
このレーニンの見解と照しあわせるとき、トロツキーやジノヴィエフらの統一戦線戦術が、実際には革命的原則を放棄し、どれほど日和見主義者への幻想と期待によって彩られたものであるかが明らかであろう。この戦術はスターリンによって受け継がれ、人民戦線戦術という、あからさまなブルジョア改良主義として完成されたのであるが、これは偶然のことではなく、日和見主義的戦術の必然的産物なのである。
山田明人●2001年5月20日「海つばめ」第822号
――――――――――――はじめに●
不破哲三の『レーニンと「資本論」』第七巻が発表された。雑誌『経済』に連載されていたもので、すでに六巻まで発表されていたが、これが最終巻となる。この巻は、副題に「最後の三年間」とあるとおり、20年11月のロシア共産党モクスワ県会議あたりから24年1月にレーニンが死亡する約3年(実質的には2年)を扱っている。
不破によるとこの時期は、レーニンの理論活動が「夜明け」を迎えた時代だと言う。17年の革命後の戦時共産主義と干渉戦争の時代は「夜明け前」であったが、干渉戦争が終了し、国際情勢の変化が生まれ、新しい一時期が到来した、レーニンは新しい情勢に対応して多くの分野で「路線の転換」を要求していることに気づいた、というのである。そして次のように、レーニンを天まで持ち上げる。
「この二ヵ年の間にレーニンが行った理論・政治活動は、その豊かで多面的な内容の点でも、新しい現実に機敏に対応する弾力性の点でも、さらには旧来の定式を大胆に振り捨てて科学的社会主義の活力を発揮した開拓者精神の点でも、その革命的生涯のどの時期をも上回る画期的な意義をもつものでした」
不破のような男が、こうしたレーニン賛美をするときは、労働者は警戒しなければならない。
国内建設の問題については、『プロメテウス』40号でふれられているので、ここでは革命路線について、中でも統一戦線の問題に絞って、レーニンがどのように「旧来の定式を大胆に振り捨てた」のか、そして「新たな開拓者精神を発揮」したのかを検討してみよう。
――――――――――――多数者革命論への「転換」●
不破は、レーニンが世界の革命運動において、「新しい取り組み」を提起したという。 「そこで『多数者獲得』路線が提起され一貫して強調されたこと、その発展として統一戦線の政策、さらには統一戦線政府の問題までが提起されたことが、重要な特徴でした」。
つまり、レーニンはそれまで「少数者革命論」の立場に立っていたが、このとき「多数者革命論」に転じた、そしてそこから統一戦線戦術を提起するまでに「発展」していった、というのである。
これはレーニンの「最後の三年間」の活動を根底から歪めるものである。
まず、多数者革命論についてみてみよう。
たしかに、レーニンは21年5月に開かれたコミンテルンの第三回大会で「多数者の獲得」を強調している。しかしそれは、この大会での課題が、労働者の「攻勢」ばかりがなりたてるドイツのクラ・シンなどの“左翼急進主義”を論破することにあったからである。
レーニンは大会で次のように述べている。
「共産党はまだどこでも多数者(労働者階級の)を獲得していない。組織的指導のもとに獲得していないだけでなく、共産主義の原理の味方にも獲得していない。これがすべての根本である。……(こうした状況のもとでクラ・シンらのように)宣伝の時期は終わり行動の時期が始まった、などと書いたり、考えたりするのは、愚かしく、有害である」。
「インタナショナルの戦術は、次のことを基礎としなければならない。労働者階級の多数者を、何よりも第一に古い労働組合内で、うまずたゆまず、系統的に獲得していくこと、そうすれば事態がどのように転換しようと、我々は必ず勝利するであろう」
こうした提起はコミンテルンとレーニンにとって必然であった。この年の3月にドイツでは「三月行動」といわれる早すぎた“蜂起”が失敗に終わっていた。レーニンが最も大きな期待をかけていたドイツでは、19年1月にローザやリープクネヒトが虐殺され、この年の三月行動でも、多くの労働者活動家を失った。まず、労働者階級の多数を獲得するための粘り強い闘いこそ必要であり、「攻勢だ」「行動の時代が始まった」といった左翼急進主義は有害であったのである。
不破によると、こうした主張は従来のレーニンの主張を否定しようとしたものである。 「第三回大会でレーニンがとなえた多数者獲得の戦術方針は、レーニン自身が1〜2年前となえたこの革命論(少数者革命論)からの転換の方向に、はっきりと舵を切り替えたものでした。労働者階級の多数者だけでなく、被搾取勤労住民の多数者の獲得が、今や革命の勝利に欠くことのできない条件として提起されたのです」
いったいいつからレーニンは「少数者革命論」を言い立てていたのか。不破は次のように説明する。
「レーニンが当初展開した革命論によれば、多数者の獲得なしに権力の獲得に進み、その権力をもって諸改革を実現して見せた後に、この実例の力で広範な勤労住民の共感を得、はじめて多数者に転化する――これが、社会主義革命の通則であるはずでした」
無茶苦茶である。こんな「通則」をレーニンはどこでも述べていない。
おそらく、不破はレーニンが19年12月に発表した「憲法制定議会の選挙とプロレタリアートの独裁(執権)」という論文を念頭に置いているのだろうが、そこでレーニンが明らかにしているのはこの選挙で四分の一しか議席を獲得できなかったボルシェビキが、なぜ革命に勝利したかということである。つまり、権力をにぎったボルシェビキは、農民の要求に応え(エスエル綱領をそのまま採用して)、土地を農民に配分したが、そのことによって革命後一週間で農民の大多数の支持を得たと述べている。
たしかに、この選挙でボルシェビキは農民の多数を獲得していなかった(労働者の多数を獲得していた)が、しかし、これを「社会主義革命の通則」などとは、言っていないのである。
なぜ、こうした主張が労働者階級の「多数を獲得せよ」という主張と矛盾するのか。
むしろレーニンは、「勝利の条件の一つ」として、資本とともに日和見主義に対する長期にわたる頑強で仮借ない闘争を呼びかけており、「多数者獲得」の重要性を明らかにしている。彼は「このような闘争を行わなければ、労働運動内部の日和見主義に対してあらかじめ完全な勝利を得なければ、プロレタリアートの独裁は問題になり得ない」と強調しているのである。
不破がここに、「少数者革命論」なるものを見出したとするなら、ブルジョア議会に不破自身が大きな幻想をもっているからであり、カウツキーらの「少数者の独裁」などといった非難に共感を覚えたからだ。そしてこうした“一貫した民主主義者”を、レーニンがきわめて軽蔑的に扱ったことに不満を感じたからである。
さらに、不破は次のようにも言う。
「だいたい、レーニンが“議会を通じて”の革命を否定する最後の決定的論拠としたものが、“権力獲得以前に多数者の支持を得ることができない”というこの命題でした。この命題が放棄されたということは、理論的にさらにつめていけば、コミンテルンがそれまでとってきた議会否定論の再吟味も、問題になってきます」
要するに自らのブルジョア議会主義に合わせて、レーニンの「多数者獲得」の呼びかけを解読したにすぎないのであって、レーニンが「少数者革命論」から「多数者革命論」に転換したなどというのは、ナンセンス以外の何ものでもない。
――――――――――――「統一戦線への流れ」を読み込む●
さらに不破は、レーニンがドイツで出された「公開状」を高く評価したことを、“統一戦線戦術への流れ”にあるものとしてとらえる。
「公開状」というのは、賃金・年金などの諸方策、生計費低廉化のための諸方策などを基礎に共同行動を社民党などに呼びかけたものであるが、レーニンは「ここには労働者の多数者を引き寄せる実践的処置の最初の行為として、模範的なものがある」と主張していた。
「公開状の重要な意味は、共同の呼びかけを、労働者への大衆的な呼びかけにとどめず、社会民主党や独立社会民主党などの諸党や、労働組合のナショナルセンターに対して公式に行ったところにありました。第四回大会に至る過程で、そこから統一戦線戦術が発展していったことは、当然の流れでした」
もちろん、レーニンは三回大会において、統一戦線戦術などといった言葉を使っていない。レーニンにとって、労働者階級の多数者を獲得する戦術、ある意味で最も地道で粘り強い活動を必要とする闘いに世界の共産党は直ちに取り組まなければならない、と呼びかけただけである。不破が勝手に「統一戦線」の“萌芽”を読み込んでいるにすぎない。
そして、第三インターと第二インター、二半インターとの合同会議(22年5月のベルリン会議)などの例を引きつつ、共同行動への新たな発展を遂げているというのである。
しかし、そこでもレーニンが強調しているのは、次のようなことである。
「われわれとしては、三当事者全部の出版物の公式の言明の中で、議論の余地のないことだと認められている事柄の分野で、労働者大衆の直接の実践的な共同行動に関係ある問題だけを、このリストに掲げるようにしなければならない。統一戦線をつくるためにはこういう問題だけに限る必要があるという理由を、われわれはくわしく説明しなければならない」
ここでは「統一戦線」という言葉が使用されている。しかし、その内容は労働者に直接に関係する、実践的な共同行動についてであり、むしろそこに限定すべきだということである。ここから、不破が期待するような戦略戦術としての「統一戦線戦術」や「統一政府」といった主張とは、大分距離があるということである。
また不破は、第四回大会において(22年12月)、統一戦線戦術が強調され、労働者政府のスローガンが採択された、労働者の社会主義的権力ではない「中間的な政権に参加する道」も開かれた等々と述べた後、次のように主張する。
「『労働者政府』が議会の力関係の変化に基づいて、『純粋の議会的起源』をもって生まれることがあり得るという認識は、それを押し進めれば、ブルジョア議会を内部からの『粉砕』としてのみとらえてきたコミンテルンの従来の路線に、重要な変更を迫る契機となる可能性をうちに含んだものであった」
要するに、レーニンはブルジョア議会で多数を獲得して社会主義への道を展望するといった不破の言う路線に大きく転換しはじめた、事実上の統一戦線戦術を提起した、新しい考察や構想を「沸き立つように」展開しはじめていた、と言いたいのである。
しかし、これも正しくない。レーニンは22年の5月に発作で倒れ、この第四回大会には実質的に関わっていなかったからだ。彼は大会の一カ月前にようやくモスクワに戻り、大会の挨拶もネップについてのわずかな報告をしただけで、この決定にほとんど関与していなかったのである。四回大会で、統一戦線戦術が強調されたといっても、それをすべてレーニンの主張であるかにいうのは、事実関係として正しくないだろう。
実際、レーニンの論文では「統一戦線戦術」と言った用語は、ほとんど使用されていないし、手紙などで一部見られるもののその使い方は、他党派や団体との共同行動といった内容である。そして、そうした共同行動をレーニンは、革命以前から一度として否定したことはないのであり、そこに新たな「転換」を見ることはできない。
さすがに、不破も自ら期待するような「統一戦線戦術」をレーニンが提起したなどということはできない。レーニンは「理論的にはまだ仕上げの途上だった」「萌芽的なもの」「探求の第一歩にあたるもの」というしかないが、こうした「統一戦線」への流れの中にレーニンを位置づけようとすること自体が、不当きわまりないものである。
――――――――――――おわりに●
他にも「平和共存路線」やレーニン死後の問題など、不破はレーニン主義の恥ずべき歪曲を繰り返しているが、一言でいえばレーニンの中からその革命的な内容をことごとく骨抜きにし、レーニンをまったく平凡な改良主義者に仕立て上げようとしているだけだ。
何がレーニンの「夜明けの時代」というのだろうか。レーニンを卑しめているだけである。まさにカニは甲羅に似せて穴を掘る、というわけだ!