革命的社会主義の旗をかかげて
----マル労同は選挙闘争をどう闘うか----
労働者派・社会主義派の代表を国会へ!
労働者諸君、マル労同の熱き革命的アピールを受けとめよ!ともに闘わん!
ブルジョア化したエセ労働者党、”社共”に代わる若き労働者政党=マル労同は、74参院選に続き、来る衆院選にも敢然と参加し、社会主義の旗をかかげて闘い抜く!
本書は、74参院選におけるマル労同の鮮烈な闘いの生々としたレポートであり、腐敗・堕落せる既成政党への宣戦布告の書である。
定 価 800円
編 著 マルクス主義労働者同盟政治局
発行所 全国社研社
発行元 ウニタ書舗
発 行 1975年12月10日
【目 次】
まえがき
第一部 頽廃深める”既成”政党の政治とマル労同の選挙闘争
第一章 現在の政治情勢とマル労同の選挙闘争の意義
一、参院選から衆院選へ
二、三木政権の登場とその急速な頽廃
三、三木を助けた”社共”の政治(一)
−−共産党の場合−−
四、三木を助けた”社共”の政治(二)
−−社会党の場合−−
五、共産党の愚劣さと公明党の反動性を暴露した「憲法論争」
六、労働者派、社会主義派の代表を国会へ!
第二章 現代修正主義者=共産党と「人民的」議会主義
はじめに
一、議会制民主主義の階級的性格と共産党によるその歪曲
二、共産党の国会闘争論
−−「人民的」議会主義のブルジョア的本質−−
三、議会制民主主義とプロレタリア党派の議会=選挙闘争
第三章 現代の入閣主義=与党主義の道を歩む共産党
一、共産党のブルジョア改良主義・自由主義への接近
二、現代の入閣主義者の政府綱領
三、ブルジョア・小ブルジョア勢力への屈伏を深める共産党
四、現代入閣主義の国際的経験
−−イタリアとチリに見る−−
第四章 新左翼の頽廃と戸村選挙
一、七四年以降の新左翼の選挙闘争
二、新左翼=小ブルジョア急進派の破産と戸村選挙
三、戸村選挙の非マルクス主義的選挙戦術
四、戸村選挙の結果とその総括
第二部 革命的議会主義の旗を掲げて
−−七四参院選におけるマル労同の闘い−−
第一章 七四参院選をめぐる政治情勢
一、自民党政治に旋回の衝撃与えた七四参院選
二、参院選にむけて開花した共産党の超日和見主義政策
第二章 七四参院選をマル労同はどう闘ったか
−−それは激しい党派闘争であった−−
序、七四参院選の幕は切って落とされた!
一万キロの”社会主義的大伝道”ここに開始さる!
一、寄せられた労働者人民の熱い連帯と支持
二、マル労同の参院選挙戦は激しい党派闘争であった
三、民社・同盟に背を向けマル労同を支持する民社=同盟の運動員
四、「奇妙な連中」=社会党との闘い
五、デマ記事、暴力、たれこみなど
共産党のきたない選挙妨害の数々を弾劾する!
六、劇的な向洋駅頭におけるマル労同・共産党の対決
七、労働者の選挙集会でも公然と”社共”を批判して発言(静岡)
八、急進派=戸村派にも確固たる批判的立場を堅持
第三章 労働者人民の意思示した七四参院選の結果
一、示された労働者人民の自民党への反発と”革新”への不信
二、共産党の小ブルジョア協調主義とそれを補完したセクト主義
三、小ブルジョア急進派=戸村派とマル労同の選挙闘争の総括
《参考資料》
一、当時の政治情勢と参院選闘争に臨んだマル労同の立場
−−「火花」及び同号外に見る−−
二、参院選での”公認の”選挙闘争手段に見るマル労同の主張
三、マル労同と江波候補に対する共産党の卑劣なひぼう・中傷と
われわれの抗議と反論
四、開始された激動の時代
−−参院選直後に、三木の登場を予見し、その自由主義的政治
との闘いを呼びかけたマル労同−−
第三部 マル労同は何故、いかにして結成されたか
−−その結成の必然性と闘いの歴史−−
”社共”のブルジョア的日和見主義に反対して
−−マル労同の闘いの必然性とその意義−−
一、マル労同の政治の基本的”進路”
二、マル労同の簡単な歴史
三、ブルジョア的修正主義に転落する共産党に反対し、
真のプロレタリア的社会主義を擁護して起ち上がろう!
《参考》
マル労同とその前身、全国社研の闘いの歴史
あとがき
《まえがき》
マル労同は昨年、参院選挙戦に参加し、全国区からただ一人ではあったが候補者をたてて闘った。そして今また、来るべき総選挙にも、全国の三つの労働者的な選挙区から候補者をたてることを決定している。
この本は、われわれがなぜ、何のために、このブルジョア民主主義体制のなかで選挙闘争=議会闘争に参加して闘うのか、また、われわれはそれをいかに闘ったかについて、語っている。
マルクス主義が一般的に議会闘争を否定しないこと、そしてマルクスもエンゲルスも議会闘争=政治闘争を、労働者階級を政治的に訓練し、教育して階級的に高め、団結させるために必要なものとみなしたことは、あらゆる文献からも明らかである。そしてレーニンもまた、その実践が示しているように、選挙=国会闘争をきわめて重視したのであった。マルクス主義者は、一方では、選挙=議会闘争を唯一の階級闘争の手段とみなす日和見主義者に反対し、他方では、政治闘争を、従ってまた議会闘争を否定した無政府主義者に反対し、革命のために選挙=議会闘争を利用するようによびかけたのであった。
だがもちろん、労働者の党派は、単に、”利用” といった効用的な観点から、”議会制民主主義”の条件の上で闘われる政治闘争に参加するのではない。われわれは、この政治闘争が、単なる幻影ではなく、一つの現実的な闘いであることを知っている。もちろんこの闘いは、直接に、真の権力をめぐる闘いではないし、ありえない。”議会制民主主義”の枠のなかでのこの政治闘争は、真の権力をめぐる諸階級の闘いではなくて、せいぜい資本の支配のなかで、政府の権力をめぐる闘いであるにすぎない。小ブルジョア党派=反政府派は、常に、この闘いを真の権力をめぐる闘いだと云って労働者をいつわってきた、だが、実際の経験は、彼らのえたものが、ブルジョア社会の上での単なる政府でしかなかったことを教えている。
国会に基礎をおく政府は、たしかに権力の一部ではある。しかし、それは単に一部であってすべてではない。国会と、資本の真の権力が対立したときには、資本は常に国会に国会にもとづく権力を無力なものにするか、自分にとって危険でないものに変質させるか、あるいは転ぷくしてしまった。ロシア革命以降の歴史のすべての経験、そしてごく最近のチリの経験からも、このことは明らかであろう。もし労働者の闘いが、単なる国会の征服の段階にとどまるなら、そしてそれ以上一歩も前進しようとしないなら、結局労働者は勢力を再結集し、体制をたてなおした資本の陣営によってうち負かされるであろう。だが、小ブルジョア”社会主義”の党派(”社共”)は、国会の征服と、政府の組織を労働者の闘いの最終目標とみなしてきたし、今もみなしているのである。
だが労働者は、さらに階級的闘いを発展させ、資本の支配を究極的に打倒するための一つの経過点としてのみ、国会の征服の、つまり、資本の支配を国会の中でおいつめ、転ぷくする闘いの意義を認めるだろう。国会において、資本の利益を公然と代弁するブルジョア政党(自民党)をおいつめ、少数派に追い込む闘いは、決してどうでもいい闘いではない。彼らは、国会において少数派に転落し、政府権力を失うことによって、その支配の”合法的な”見せかけを失うのである−−仮に彼らがまだ、本当の権力を保持していようとも。ブルジョア民主主義は、レーニンも「左翼小児病」で言っているように、「労働者のおくれた大衆と小農のさらにおくれた大衆」に「ブルジョア民主主義的偏見と議会主義的偏見」を与えてきた(全集三一巻五一頁)。すなわち、議会制民主主義にもとづく、資本の支配の合法性についての「偏見」である。
だがこれは両刃の件であるにすぎない。それは、資本の危機の時代には、資本にとって危険なものに転化する。資本は、まだ本当の権力を維持している、しかし、その支配はすでに”合法性”を失っているのだ。資本の党派を国会内でも少数派に追いこみ、彼らの支配から一切の合法性をうばうことができるし、またうばわなければならない。もちろん、これは真のプロレタリア党派が国会で多数派になることではないし、また革命でも社会主義の勝利でもない。それは実際には資本の党に代わって小ブルジョア的な党が政府を組織することであるかもしれない−−だが、これは明らかに資本の支配の重大な一歩後退であり、労働者階級はこの状況を利用して徹底的に階級闘争、政治闘争を発展させることができるし、またさせなければならないのだ。小ブルジョア社会主義者たちが、自らの得た”合法的”権力を社会主義の勝利のために活用できず、また活用しようとしないで、口先では社会主義についておしゃべりしながら資本と妥協し、取引するなら、そのときにこそ、労働者階級はまさに”合法的な”権利にもとづいて社会主義を要求し、闘いとるためにたちあがるであろう。
ブルジョア的議会制民主主義の体制のもとでは、先進的労働者は、選挙=国会闘争に参加し、そのなかで大衆のおくれた偏見と闘い、資本の党派を徹底的においつめることによってのみ、またこうした闘いのなかで大衆を教育し、啓蒙し団結させることによってのみ、労働者の社会主義革命を準備し、その勝利にむかって前進していくことができるだろう。それ以外の展望を抱くことは反動的である。
選挙=国会闘争を回避したり、あるいはこの闘いの意義をいくらかでも過小評価することは、労働者の革命的政治闘争を事実上放棄するか、あるいは無意味なテロルの方向にそらせるだけであり、革命を空語に変え、結局資本の勢力を利するであろう。ブルジョア民主主義体制のもとでプロレタリア社会主義党派が選挙=議会闘争に参加する必要性と必然性は、この体制そのものによってあたえられているのだ。
現在の日本の政治の特徴は、一方で、独占資本=自民党の企業犯罪(労働者の非人間的取扱い、公害、ヤミカルテル、利潤かくし)、権力犯罪(金脈)、国家犯罪(インフレ)等々、底知れない腐敗頽廃を深めながらも、”社共”がその無力とブルジョア的妥協主義のため、独占資本=自民党を徹底しておいつめることができないで、いつまでもそれをのさばらせ、労働者人民に耐えがたい苦しみを負わせている、というところにある。田中内閣の崩壊とともにはじまった自民党政治の危機は、自民党が三木をおし出すごまかしの策動をはじめることにより、そして”社共”がこのやり方に動揺し、さらに自民党政治に追いうちをかけることを放棄したために、回避され自民党をたちなおらせてしまった。この事実は、もはや”社共”には独占資本=自民党と闘う意思も能力もないことを明らかにしている。
マル労同は、独占資本=自民党に反対する闘いを徹底的に発展させ、この闘いの先頭に立つために、来るべき総選挙に参加する。われわれは、この本でも明らかにされているように、昨年の参院選を断固闘いぬいたが、さらにわれわれの闘いを深め、拡大していくだろう。昨年の参院選におけるマル労同の闘いは、それが選挙闘争への最初の登場であり、また立候補したのが全国区であるという事情から、「社会主義は労働者の一大デモンストレーション」という性格が強かった(もちろん、それは不可避的に激しい党派闘争という側面をもったのであるが)。しかし、来るべき衆院選挙戦は、それが「中選挙区」制の下で、即ち各党を代表する一人(又はせいぜい二人)の候補者の間で闘われるという事情からしても、直ちに、参院選の時以上に、激烈な政治闘争=党派闘争となるであろう。”既成”の五大政党は、そこでは、(参院選の時とは違って)マル労同=労働者派・社会主義派の候補者を無視しきれず、それとの”対決”を避けては通れない。マル労同とその候補者は、これらの政党のブルジョア的小ブルジョア的本性を容赦なく、徹底的に暴き出すであろうし、その鋭い闘いによって彼らは労働者人民大衆の前に醜い本性をさらけ出さざるをえないであろう。それが、たとえ三つの選挙区に限られるとしても−−われわれの組織的力量からして、残念ながら現在それ以上の立候補は不可能である−−、こうした闘いが、単に地方的な意義にとどまらず、全国的な意義をもつものとなり、日本の社会主義革命闘争の新しい幕開けを告げるものとなるであろうことは確かである。
マル労同は、全国のすべての先進的労働者に、独占資本=自民党政権打倒、一切の日和見主義反対、労働者派=社会主義派の代表を国会へ!のスローガンのもとに、ともに徹底的に闘いぬくよう熱烈によびかける!
一九七五年十一月十八日
マルクス主義労働者同盟政治局