資本主義の民主的改良か社会主義的変革か
     ---- 日本共産党批判---- (定価1200円)

編 著 マルクス主義労働者同盟政治局
発行所 全国社研社
発売元 ウニタ書舗

1974年3月15日 発行

【目  次】

 はじめに
 序章 「民主連合政府綱領」批判と階級闘争の展望

第一部 日本共産党の資本主義「分析」と社会経済政策批判

 第一章 国際通貨体制の危機と共産党の小ブルジョア民族主義
      ---- 円切り上げ時における共産党のたわごとを暴露する ----
    一、円切り下げと円切り上げに対する共産党の態度のちがいは何を語るか?
    二、円切り上げが小ブルジョアジーを圧迫するのは「対米従属」のためか?
    三、円切り上げは「いっそうの労働の安売り」か?
    四、円切り上げは物価水準に影響をおよぼさないか?
    五、円の切り上げは「不条理」か?
    六、現代の”国際通貨体制”と日本共産党の俗物的小ブルジョア民族主義
    七、共産党の”新秩序”と革命的労働者の立場

 第二章 共産党の資本主義「改造」計画
      ---- ブルジョア改良主義の体系化 ----
    まえがき
    一、共産党の日本資本主義「批判」の階級的性格
    二、共産党の資本主義「改造」計画
    三、結び

第二部 日本共産党の戦略・戦術と実践批判

 第三章 「人民的」議会主義の階級的性格
      ---- ブルジョア議会主義の一変種 ----
    はじめに
    一、革命的議会主義とブルジョア議会主義 -- 「人民的」議会主義の階級的本質は何か?
    二、共産党によるブルジョア議会制度の美化とマルクス主義国家論の歪曲
    三、プロレタリアート独裁の概念の自由主義的歪曲とその意味するもの
    最後に

 第四章 小ブルジョア改良主義と社会党・公明党への追従
      ---- 共産党の統一戦線論・民主連合政府論批判 ----
    一、共産党の統一戦線論の基礎にある階級協調主義
    二、統一戦線による綱領的立場の実際上の放棄
    三、なれあいといがみ合いをくり返す社共統一戦線
    四、「革新」統一戦線か社公民連合か
    五、「民主連合政府」論と共産党の改良主義的純化
    六、各国の共産党の統一戦線戦術による革命闘争の解体と共産党の小ブルジョア政党への転化

 第五章 現代の「自治体社会主義」
      ---- ”革新”自治体と共産党 ----
    一、「都市問題」の深刻化と「革新」自治体の拡大
    二、共産党のメンシェヴィキ的自治体論
    三、「革新」自治体のブルジョア改良政治と共産党の「現実的政策」の反動性
    四、美濃部の反労働者的政治と共産党によるその隠蔽
    五、革新自治体の本質を隠蔽し階級闘争に敵対する共産党

 第六章 ブルジョア自由主義的「原則」の導入による労働運動の解体
      ---- 共産党の労働組合戦術批判 ----
    一、抬頭する”国民的”労働運動に反撃を!
    二、動労における動労民同・革マルと共産党の対立
    三、労働運動の現状とマルクス主義労働者同盟の基本戦術

第三部 国際共産主義運動の歴史的経験と日本共産党の歴史

 第七章 国際共産主義運動の歴史的経験と日本共産党
    序
    一、コミンテルン第三回、第四回大会と「統一戦線戦術」
    二、「人民戦線」の歴史的「教訓」
    三、チリ「人民連合政権」崩壊の「教訓」とは何か

 第八章 小ブルジョア民主派のブルジョア的”進化”の歴史
      ---- 日本共産党の”輝ける五○年”批判 ----
    一、戦前の日本共産党の”闘い”
    二、「占領下平和革命」論から極左冒険主義へ
    三、”前衛神話”の崩壊
    四、六○年代から七○年代へ -- 共産党の小ブルジョア改良派への純化

 第九章 共産党の許されざる半デマゴギー政治
      ---- トロツキー主義者・新左翼批判にみる共産党の政治の本質 ----
    一、共産党の急進主義批判の反デマゴギー的性格
    二、スターリニストの”反トロ”キャンペーンの役割とその歴史的起源
    三、”反トロ”デマゴギーの歴史的社会的基盤は何か?
    あとがき


<はじめに ---- 資本主義の民主的改良でなく社会主義的変革のために ---->

    (一)

 われわれは、本書によって、共産党の(個々の側面、個々の現われでなく)総体を全面的体系的に批判し、この党の階級的性格と階級闘争における客観的役割を明らかにし、同時に、現在労働者階級は、何のために、どのように闘わなければならないかを明らかにしようとした。

 われわれの共産党批判の視点は、明確である。われわれは、共産党の現在の到達点を、「民主的連合政府綱領」とそのための闘いに象徴されるプチブル改良主義への決定的な純化という点に見出している。「民主連合政府」こそは、現在共産党が掲げる最大の実践的課題であるとともに、この党の全歴史、とりわけ第八回党大会以降の全実践の必然的帰結であり、その日和見主義が、全面的に開花し結実したものである。

 共産党の第十二回党大会は、民主連合政府は、今や「宣伝のスローガン」から「実践的スローガン」に転化したと宣伝し、国民の間に鳴物入りで売り込んでいる。だがこの民主連合政府たるや、独占資本を打倒する労働者階級の革命的政権ではなくて、独占資本の支配の下で、小ブルジョア党派(社会党や公明党)との統一戦線によって、「憲法を全面的に擁護し尊重」しつつ(つまり、私的所有制とブルジョア法秩序の枠内で)「国民生活防衛と民主的改革」を果たす政府、すなわち小ブルジョア的半ブルジョア的改良主義の政府にすぎないのである。御丁寧にも、共産党は、この政府は決して社会主義をめざさないと繰り返し誓っている。つまり、共産党はこうした誓いによって、この政府が、独占資本と徹底的に対決しこれを打倒する革命的政権ではなくて、臆病で中途半端な妥協主義的日和見主義的政権にすぎないと、断言しているのだ。共産党自身がこのようにうけあっている以上、労働者階級がこの政府にどんな期待も幻想ももてないことは、明らかであろう。

 共産党の現在の闘いは、すべて民主連合政府の実現のための闘いに集約される。そこから先、民族民主「革命」の政府に進むかどうかは、すべて「国民の選択」の問題であり、果てしなく遠い道である。いわんや社会主義政府においてをや、だ。こうして共産党は、社会主義的変革はもとより、自らの綱領が「当面の」課題としている「民族民主革命」さえ断念して、独占資本の支配の下での体制内改良に専心すること、つまり、ベルンシュタイン主義=ミルラン主義への転化を公然と宣言したのである。幾百万幾千万の労働者の革命的大衆行動によって、独占資本とその国家を打倒するのでなく、独占資本の国家の下で政府を組織し(政府党となり)、資本主義の改良に徹すること ---- これこそ、第二インター以来の各国の日和見主義者が実践し、その破産を繰り返し証明してきた(労働者の血の犠牲と資本主義の”延命”という代償とひきかえに!)あのベルンシュタイン主義=ミルラン主義(入閣主義)でなくて何であろうか!共産党は今や、「民族民主革命」といったみせかけの革命性さえ投げ捨てて、純然たるプチブルジョア改良主義の党に転化したのである。独占資本主義の打倒でなくて「民主的規制」、ブルジョア議会主義の一変種としての「人民的」議会主義、「訳語問題」に名を借りたプロレタリア独裁の放棄、プチブルジョア党派とのブロック=統一戦線戦術の自己目的化、自由主義的「革新」首長への追従、労働運動への自由主義的原則の導入による労働者の階級的団結の解体等々、およびこれらの集大成としての「民主連合政府綱領」こそは、このことの証明である。

 われわれは、共産党がこのように、自らの反労働者的日和見主義的本質を公然と明らかにしたことを、労働者階級がこの党のかかる本質を認識することを容易にし促進するという意味で、またその限りで歓迎する。事態の本質の正しい認識こそは、常に事態の真の解決の第一歩であるからである。



    (二)

 共産党が現在到達しているこのような立場は、決して、偶然でも、また単なる理論的誤りによるものでもない。それはこの党の全歴史を貫く一貫して日和見主義の内的進化の産物であり、また現実的基盤、つまり階級的基礎をもつものである。

 「輝かしい革命的伝統の五十年」の最大の証明として自賛されている戦前の天皇制に対する闘いも、決して一貫したマルクス主義の立場=プロレタリアートの階級的立場からの闘いではなかった。「三二テーゼ」に象徴されるように、共産党がスターリニストの「二段階革命」論に立脚して、天皇制との闘いを民主主義革命のための闘いとしてしか提起しなかったことは、日本独占が帝国主義に成長し、海外への軍事的進出を開始していた当時、共産党が天皇制に対する闘いを独占資本打倒の社会主義的闘いから切り離す小ブル民主派に転落したことを意味するものであった。共産党は、一部幹部の「非転向」(大部分の幹部は「転向」したのだ!)を誇るまえに、広汎な労働者階級と結びつき、革命的闘いを組織することを不可能にした小ブル民主派としての限界をこそ、問題にすべきなのだ!

 共産党が天皇制との闘いのなかで民主主義を絶対化してきたことこそが、彼らをして戦後、天皇制、寄生地主制、財閥等の解体を指令した占領軍を「解放軍」と呼ばしめたゆえんである。

 占領下平和革命路線という超日和見主義路線から地域人民闘争を経て、武力革命という極左冒険主義へとゆれ動いた共産党は、第八回党大会で現綱領を確立した。それは、独占資本が既に国家的独立を回復し、階級支配を確立した日本における「当面の」革命を「民族民主革命」としていることに象徴されるように、独占資本との階級的社会主義的闘いを回避するプチブル民族主義・民主主義派としての自己の立場を確定したものに他ならなかった。

 だが共産党が、日本の「対米従属」「反占領」の最大の根拠であり、「民族民主」革命によってのみ解決されると説いてきた沖縄・小笠原返還が独占資本の政府自身の手で実現され、また安保条約も日本独占の帝国主義的「自立化」のなかで相対化され変質するにつれて、共産党の「民族民主革命」路線のエセ革命性はますます明瞭になってきた。日本独占の帝国主義的成長の一歩一歩が、共産党のプチブル民族主義・民主主義のみせかけの革命性をはぎとり、この党の日和見主義的純化を促進し、こうして共産党は、遂に純然たるプチブル改良主義の党へと転化したのである。

  共産党の「輝やかしい革命的伝統の五十年」は、まさしく欺瞞と裏切りに満ちた恥ずべき五十年である!

 すでに共産党は、日本独占の対外政策の面では、帝国主義の隠れた支柱としての性格を明瞭にしている(円切上げの際の「国益」擁護の立場、また金大中事件での「主権侵害」論等をみよ!)。現在、民主連合政府を最大の実践的スローガンとしておしだすことによって、共産党は、独占資本の危機を救済し、その支配を補完する役割を果たそうとしているのである。

 現在客観的に問われているのは、本書の表題が示すように、また本書の全内容が立証しているように、まさに資本主義の「民主的改良」ではなくて、労働者階級の革命的大衆行動による独占資本の打倒であり、社会主義的変革なのだ。独占資本の危機の時代に、独占資本の打倒ではなく、その改良を第一義的課題とするものは、好むと好まざるとにかかわらず、独占資本の従僕、その政治支配の「衝立て」、「避雷針」の役割を果たさざるをえないであろう。それこそが、共産党が果たそうとしており、現に果たしつつある客観的役割である。



    (三)

 七二年末の総選挙での「躍進」に象徴される共産党の勢力拡大は、共産党にかわる「真の前衛党の建設」を叫び続けてきた(口先で。そのための真剣な理論的実践的闘いを回避し、学生の急進的闘争に埋没してきた)新左翼急進派の焦りと絶望を拡大してきた。彼らは今や真の敵を見失って、陰惨な狂気じみた内ゲバに狂奔し、自滅と解体の一途を辿っている。

 新左翼急進派は、共産党のブルジョア議会主義、合法主義、民族主義、改良主義の個々の側面を鋭くついてきた。だがこうした彼らの革命的批判も一貫したマルクス主義の立場に立脚したものでなく、急進主義的実力闘争を擁護するためになされてきたにすぎないため、不徹底であり、実践的には、共産党の政治的立場をある意味で(左翼的に)補完してきた(例えば、共産党の民族主義を批判しながら、「安保粉砕・日帝打倒」、「沖縄奪還」といった急進的空文句を叫ぶなど)。結局は、新左翼のプチブル急進主義こそが、広汎な労働者階級との結びつきを不可能にし、彼らの闘いを無力化し、こうして彼らを絶望と自滅の道に追いやったのである。

 こうした状況の下で、「全国社研」時代以来一貫して社共の日和見主義と新左翼の急進主義に反対して、真のプロレタリア的な政治闘争の発展のために闘ってきたわれわれは、一昨年七月に革命的労働者の政治組織=マルクス主義労働者同盟を結成し、遂に今年の参院選には全国区に候補者をたてて、一大政治闘争を闘い抜かんとするまでに着実な成長を遂げてきた。本書は、われわれの現在の理論的力量を結集したものであり、共産党の総体に対する真にマルクス主義的な批判の書としては、おそらく唯一のものであると確信する。

 「マルクス・レーニン主義」の立場を標榜しつつ一定のまとまった共産党批判を行っている現実的勢力としては、社会主義協会(向坂派)がある。彼らが最近発行した「日本共産党論」は、「マルクス・レーニン主義の党と称する日本共産党のブルジョア民族主義的・日和見主義的理論と実践を批判して、その誤りと問題点を明らかにする」と称している(引用は、同書あとがきより)。

 もちろんわれわれは、共産党に対するすべての革命的批判を心から歓迎する。それが、どの党派によってなされようとも、労働者の階級的意識を発展させる役割を果たすことは疑いないからである。しかし、協会派の「マルクス・レーニン主義」は、実は全く口先だけのものであり、その背後にどんなにひどい(共産党に優るとも劣らない)欺瞞に満ちた日和見主義を隠しているかは、次の事実から明らかである。つまり、同書は、プロレタリア独裁を擁護すると称しながら、「平和革命必然論」を叫び、共産党の「統一戦線論」を批判しながら社会党の「反帝反独占の国民的統一戦線」を擁護し、「人民的」議会主義をブルジョア議会主義と批判しながら、「国民連合」政府という議会内での民主的改良のための多数派形成戦術を擁護し、共産党の自治体論の「自治体社会主義」を批判しながら社会党首長を弁護しているのである!実に社会主義協会派こそは、口先でのマルクス・レーニン主義の擁護、実践での純然たる改良主義・組合主義というあのカウツキー主義の典型である。協会派がプチブル改良主義・平和主義・合法主義の党である社会党の内部に止まり、その支柱となっているのは、必然である。



    (四)

 現在、「狂乱状態」のインフレ、深刻化する”石油危機”、おそるべき規模と速度で日々国民大衆の肉体をむしばんでいる公害、さらには住宅・土地等の都市問題等々、戦後自民党政府のもとで蓄積されてきた独占資本主義の諸矛盾は一気に噴出し、独占資本に対する激しい怒りに満ちて労働者階級は闘いに立ち上がりつつある。自民党は、今年の参院選に自民党内閣の「命運をかける」と言わざるをえないほどに追い詰められ、独占資本の政治支配の危機は深刻化している。一方共産党は(社会党はもとより)、この高まりつつある労働者階級の闘いを、独占資本とその国家権力の打倒にむけて発展させるのではなく、民主連合政府の下へ、すなわち資本主義の民主的改良の方向へそらせようと躍起になっている。労働者階級の闘いを、共産党のふりまく小ブル改良主義的幻想から解き放ち、断固たる階級闘争を推し進め、独占資本を打倒する革命的大衆行動、全般的蜂起にまで発展させるために闘うことは、全ての先進的労働者、マルクス主義者の無条件の、ますます緊急の義務となっている。このような階級情勢の下で発行される本書の意義にははかり知れないものがある。

 本書の特徴の一つは、日本共産党の総体を、理論と実践の主要なすべての側面を、マルクス主義の観点から系統的かつ歴史的に分析、批判していることである。これによって読者は共産党の反労働者的反動的本質を鮮明に認識し、真のプロレタリア党派の必然性と必要性を痛感するであろう。

 さらに、われわれの共産党批判は、単なる批判のための批判ではなく、独占資本の支配の暴露、社会主義のための闘いの呼びかけと不可分に結びつき一体となっている(帝国主義に対する闘いは、日和見主義に対する革命的批判と結合されなければ空文句となるというのは、レーニンが一貫して強調した教えであった)。今問われているのは、共産党の言うような、議会主義的多数派形成による資本主義の民主的改良などでは決してなくて、労働者の革命的大衆行動による独占資本の打倒、社会主義的変革であること---このことを読者は、本書を通じて理論的に認識し、社会主義のために闘う決意と確信を固めることができるであろう。まさにそれこそは、本書が一貫して追求したテーマである。

 われわれは、本書が広汎な労働者大衆の間でくり返し読まれ、真剣に討議されることを、熱望している。また本書に対するすべての科学的批判を我々は歓迎する。それはマルクス主義の発展のために有益であり、そしてマルクス主義の理論的発展は、労働者階級の解放の事業にとって無条件に有利だからである。

 われわれは、本書が、社会主義のために闘うことを望んでいるすべての先進的労働者、読者諸氏とわれわれを固く結び付ける絆となることを心から念願してやまない。



一九七四年二月七日

マルクス主義労働者同盟政治局