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「60年安保闘争50周年集会」の記録


マルクス主義同志会は2010年6月12日、60年安保闘争50周年を記念して集会を開催しました。集会は予想を上回る参加者を得て成功裏に終了しました。以下はその記録をまとめたものです。

実行委員会アピール(1)(『海つばめ』1121号,2010.5.16)
集会結集呼びかけ(『海つばめ』1121号,2010.5.16)
実行委員会アピール(2)(『海つばめ』1122号,2010.5.30)
集会プログラム(『海つばめ』1122号,2010.5.30)
ブント批判(『海つばめ』1122号,2010.5.30)
集会報告(1)(『海つばめ』1124号,2010.6.27)
集会報告(2)(『海つばめ』1124号,2010.6.27)
集会宣言(『海つばめ』1124号,2010.6.27)


  実行委員会アピール(1)
(『海つばめ』1121号、2010年5月16日)
働く仲間の圧倒的結集を
6月12日、東京・池袋で開催


   60年安保闘争から50周年になります。

 我々がこの集会で「笑い飛ばせ、ブントと新左翼」と訴えるのは偶然ではありません。すでに、60年安保闘争から半世紀を経過しましたが、ブントのプチブル急進主義の破綻は安保闘争の中で完全に暴露されており、今更深刻ぶってブントの闘いを総括するまでもなく、むしろ我々にとってはすでに“笑い飛ばす”対象でしかありません。

 なるほど、ブントと60年安保闘争は、戦前戦後数十年にわたって労働者の闘いを指導してきた革新社共の偽りの仮面をはぎ取りました。こうした歴史的な意義を我々は現在も断固として承認するものです。

 しかし、この闘いを領導したブント指導部は、書記長の島成郎や全学連委員長であった唐牛健太郎に代表されるように思想的にも政治的にも未熟というよりいい加減で無責任でした。彼ら大多数の幹部(島、唐牛、生田浩二、青木昌彦など)は、安保闘争が終わると闘いから召還してブルジョア社会の現実に“適応”して行きました。運動を続けた者も一方で、プチブル急進主義を拡大再生産して開き直る連中(再建ブントにつながる連中)や、他方で表面だけそれを否定しながら、革共同に乗り移っていった連中(清水丈夫、北小路敏など)を生み出しました。

 60年の5月、6月に何万、何十万の安保反対のデモ隊が国会に向かう中で、豊かな可能性を秘めた大学生の樺美智子の命が奪われました。ブントの幹部達は、社共は労働者大衆を裏切ったと叫び散らしましたが(それは真実でした)、彼らの指導も運動を急進化させるに夢中でした。警察権力が“威信”をかけて国会を防御する中でデモ隊に素手で国会に突入を命じるのも無責任なことでした。

 そしてブントから生まれた新左翼の闘いは、その表面的な戦闘性とは裏腹に急速に頽廃と腐敗を深め、内ゲバ・テロルに浮かれ、さらには連合赤軍事件に突き進んだのです。プチブル的な急進主義は、最終的に破綻し、社会的な影響力を失っていきました。

 こうした中で、ブントの急進主義を乗り越え、新しい労働者政党を目ざす闘いが開始されました。安保闘争の総括の中で「共産主義の旗」派に結集した人々を中心に全国社研(マル労同・社労党)が結成され、国政選挙にも十回ほど参加するなど粘り強い闘いがくり広げられました。

 60年安保闘争から半世紀、労働者にとって単なる郷愁やセンチメンタルな回想は意味のないことです。必要なのは未来に向けた労働者の闘いであり、ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者の闘いと政治をつくり出していくことです。歴史的にも完全に破綻したブントや新左翼の急進主義を“笑い飛ばし”、新たな労働者の政治をつくり出し発展させるという我々の任務を断固として貫徹しなくてはなりません。

 ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者の政治という叫びは、現在においても色あせるどころか一層の緊急性をもって私たちに突きつけられています(二“大愚”政党のお粗末や共産党のさらなるブルジョア的堕落をみよ!)

 同時に我々は闘いの中で死んだ樺美智子、さらには昨年亡くなった池尾正勇哉(72年の参議院選挙で、全国区から立候補した江波進一)を追悼したいと思います。また今年は大逆事件100周年です。幸徳秋水をはじめ多くの先人、革命家達もまた我々が追悼し、その偉大な闘いや人生を讃えるべきです。

 60年安保闘争50周年集会に、是非ご参加下さい。(集会実行委員会)

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  集会結集呼びかけ
(『海つばめ』1121号、2010年5月16日)
60年安保闘争50周年集会へ
二“大愚”政党による閉塞状況を打破せよ
労働者の政治的進出を勝ち取ろう


   来たる6月12日(土)、《60年安保闘争50周年集会――「笑い飛ばせ、ブントと新左翼」、樺美智子・池尾正勇哉追悼》を開催します。集会実行委員会の「呼びかけ文」は別掲の通りです。労働者、読者の皆さんの圧倒的な結集を呼びかけます!

 今年は、60年安保闘争の50周年である。

 我々の闘いの出発点でもあるが、しかし我々はまさに、この闘いとブント(共産主義者同盟)を止揚した時点から、我々の闘いを開始したのである。

 この闘いを指導したブントは、58年12月に結成され、社共の政治を徹底的に批判し、新しい労働者の闘いと政治を呼びかけた。

 こうした呼びかけは、確かに労働者にとって緊要な課題ではあったが、しかし、ブントはただ口先だけでそれを謳ったにすぎず、それ故にたちまち破産して行った。

 我々は、60年安保闘争とブントの崩壊の中で、こうした課題を実現すべく闘いを開始した。全国社研―マル労同―社労党―マルクス主義同志会として、既成左翼である社共に反対するとともに、新左翼の不毛な急進主義とも一線を画し、新たな労働者の階級的政治を一貫して、「ただ一筋に」追求してきた。

 我々は、ブルジョア民主主義の体制の下、議会に進出し、徹底的な政治闘争を貫徹する意義を確認し、十回以上も国政・地方選挙に参加し、果敢に挑戦してきたが、決定的な成果を上げことなく後退を余儀なくされ、二十一世紀に入るとともに、再び“同志会的な”闘いに戻らざるを得なかった。議会制選挙に参加することが、供託金制度(確認団体として参加するには何千万円が必要)がさらに負担の重いものに変えられたり、小選挙区制度が導入されたり、選挙制度の非民主的な改悪が行われたりしたために、余りに「高くつ」いたり、意義が薄れたりして来たから、そして闘いの継続が困難になって来たからである。

 しかし資本主義の矛盾が激化し、小選挙区制や二“大愚”政党制の破綻が暴露され、労働者の政治的な進出だけが、現在の政治的な閉塞状態を突破していく鍵であることがますます明らかになっている。

 五十年前の日本は、所得倍増政策を掲げる池田内閣が登場し、資本の蓄積が急速に進み、資本主義が上昇して行った時代、まがりなりにも経済的な繁栄を謳歌し得た時代であり、労働者もその幻想にからめとられがちであった。

 しかし現在の日本資本主義はすでに巨大な生産力をもてあまし、過剰生産と金融不安、そして世界的な恐慌におびえる日々である。国家財政は国民総生産の二倍近い借金を抱えて破産したも同様であり、今年度予算は借金が税収をついに上回るまでに悪化した。資本主義はその矛盾と頽廃、腐朽性と寄生性を露呈するばかりである。貧富の格差はいよいよ拡大し、労働者の三分の一は非正規のワーキングプアである。深刻な雇用不安が続き、新卒でも就職できない若者も珍しくない。

 労働者大衆の地位はますます不安定になり、資本の激しい搾取と支配の下に呻吟しているのであり、階級矛盾は深化し、新たな激動の兆しは至る所に見出される。

 そして、日本資本主義の危機が深まる中で、政治は小選挙区制のもと、二“大愚”政党制に堕し、政党政治は行き詰まり、“閉塞状況”に陥っている。こうした状況は、二大政党制の崩壊から軍部ファシズムの進出・支配を許していった戦前の一時代すら想起させる。

 昨年鳩山民主党政権が誕生し、“国民生活が第一”、“コンクリートから人へ”のスローガンが掲げられたが、しかしそれが実際にやってきたことは、これまでの自公の政治そのまま、あるいはそれ以下の、まさに悪政そのものであった。金権腐敗、バラマキ、借金漬け財政、基地問題をはじめとする安保外交、農業政策等々どれを取ってもまともなものはなく、ただ選挙目当ての、国民総買収の卑しい政治が横行するだけである。誕生わずか八ヶ月で、鳩山政権は破綻し、国民全体から見捨てられ手しまった。

 もちろん、共産党にせよ、社民党にせよ、せいぜい鳩山政権の情けない付随物、付録としてしか存在していないし、機能してもいない。これらの政党も、急速にその無力さと反動性をさらけ出しつつある。

 特徴的なことは、鳩山政権の支持率が二〇%そこそこに低落しているにもかかわらず、自民党の支持率が伸びていないことである。国民大衆は、民主党に愛想をつかしながらも、自民党政治への復帰はなおさらごめんだというのである。議会政治全体への不信が広がり、深化しつつある。

 九〇年代に「政治改革」と称して小選挙区制が導入され、二大政党制が喧伝されてきたが、その実態は二“大愚”政党制でしかなく、労働者国民に困難や災厄ばかりを強要するものと化している。二“大愚”政党は一刻も早くゴミ箱へ捨て去るべきであり、捨て去らなければならない。

 そんな中で、石原に続いて橋下などを先頭にして、反動的、デマゴギー的な地方政治家が輩出し、また「たちあがれ日本」をはじめとする国家主義的・民族主義的な、珍奇なゴミくず新党が乱立し、二“大愚”政党への不満と不信につけ込もうと策動を開始している。自衛隊制服組が鳩山政権を公然と批判したり、「在特会」のような“草の根右翼”もうごめき出している。

 すべての心ある労働者、青年、活動家が何らなすすべを知らず、拱手傍観し、安閑としていい状況では少しもない。

 今こそ、社共に代わる新しい労働者の闘いを、政治的進出を勝ち取るときである。共産党のえせ“革新主義”、“共産主義”はもちろん、ブントや“新左翼”の空虚なプチブル急進主義など吹き飛ばし、笑い飛ばして、新たな闘いに向けて前進すべきときである。

 断固として階級的、革命的な労働者の政党を組織し、結集せよ!

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実行委員会アピール(2)
(『海つばめ』1122号、2010年5月30日)
6.12集会に圧倒的な参加を!
50周年集会の意義を確認しよう!


 50周年というこの歴史の節目を迎えていますが、左翼系グループにおいてはほとんどまともな集会の企画も見あたりません。我々の集会の意義はますます大きいといえます。

 我々が「笑い飛ばせ、60年ブント」というのは、ブントと60年安保闘争の歴史的な意義――社共に代わる新たな労働者の闘いの必要性を訴えた――を承認した上での訴えです。ただ、ブントはそれを口先で唱えたにとどまり、その運動は全体としてみればプチブル急進主義を超えることは出来ませんでした。そしてその無力さは、その後のブント崩壊や新左翼の経験が十分に明らかにしているのであって、半世紀もたって今更深刻ぶって総括する必要もない、ただ笑い飛ばして労働者の新たな闘いを前進させるのみだという、我々の新たな決意の表明でもあるのです。それはまた、社共の右翼日和見主義は勿論新左翼の急進主義にも反対し、労働者の階級的な闘いを前進させよう、という集会の意義を象徴するものです。

 そして60年ブントが掲げた課題は、現在ますます緊要のものとなっています。

 鳩山政権は、普天間の基地移設問題を5月末までに結論を出すと約束してきましたが、出てきた政府方針は労働者国民を愚弄するものでした。「最低でも県外」という約束は完全に反古にされ、移設先は沖縄県内の辺野古周辺というものでした。自民党政権と基本的に何も変わらないものが、9カ月もの“大騒ぎ”の末たどり着いた結論だというのです。

 普天間問題一つとってみても、鳩山民主党政権は自民党政権と同じ、或いはもっと悪い政権にすぎないことが暴露されました。まさに二大政党ならぬ二“大愚”政党による政治支配であり、ちまたには、もうこんな政治はたくさんだという怒りの声が満ちています。

 私たちは、いたずらに過去を感傷的に振り返るのではなく、社共に代わる新しい闘い、労働者の政治的進出が必要であり、政党政治の腐敗・頽廃が深化するなか、断固として労働者の政治的進出をかちとって行かなければなりません。

 今回の集会のプログラムは別掲の通りです。記念講演の林紘義氏は60年安保闘争の時、大学4年生の若きブントの活動家であり、ブント分裂時には「共産主義の旗」派に所属し、その後全国社研を組織した中心メンバーの一人です。

 挨拶の鈴木半一氏は60年安保闘争を早大生として闘い、小島保雄氏は70年安保闘争に参加、その後、明治大学の二部学生自治会(学苑会)の執行委員長として大学闘争を闘いました。また、5月末に『樺美智子 聖少女伝説』(文芸春秋社)を出版した江刺昭子氏も挨拶してくれることになりました。池尾正勇哉追悼の鈴木研一氏は、池尾氏と同じ信州大学文理学部で自治会委員長として活躍しました。

 実行委員会としても、新たな案内書をつくるなど、取り組みをさらに強化していく決意です。読者の皆さんも集会の意義を確認され、周りの人にも参加を呼びかけて下さい。

 労働者、読者の皆さんの圧倒的な結集を呼びかけます。

 (集会実行委員会)

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集会プログラム
(『海つばめ』1122号、2010年5月30日)
60年安保闘争50周年集会
今こそ、労働者の政治的進出を
樺美智子・池尾正勇哉追悼
●日  時 6月12日(土) 午後6時から
●会 場 豊島勤労福祉会館(池袋駅西口下車徒歩5分、池袋消防署隣)
●集会プログラム
 ◎DVD上映 60年安保闘争記録映像
 ◎記念講演 「笑い飛ばせ、60年ブントと新左翼」
       林紘義(元都学連執行委員)
 ◎挨  拶
  ・60年安保闘争を闘って
       鈴木半一(元ブント同盟員)
  ・全共闘世代から見た60年安保闘争
       小島保雄(元明治大学二部自治会委員長)
  ・『樺美智子 聖少女伝説』を書き終えて
       江刺昭子(ノンフィクション・ライター)
 ◎樺・池尾正勇哉追悼
       田口騏一郎(元ブント同盟員)
       鈴木研一(元信州大学文理自治会委員長)
 ◎集会宣言
●主  催  集会実行委員会

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  ブント批判
(『海つばめ』1122号、2010年5月30日)
60年安保闘争と“ブント”

皮相で一面的な現実認識
空威張りの「安保改定“阻止”」のスローガン

 
  鳩山政権は基地問題でも右往左往したあげくに、自民党と同じ立場に逆戻りし、「政権交代そのものに意義がある、とにかく政権交代を」と呼び掛けた、昨年の総選挙が全くの茶番であり、民主党は単に国民を瞞着し、たらし込んで政権を手にしたにすぎないことが完璧に明らかになってしまった。政権担当の能力も資格もない民主党と鳩山政権はただちに退陣し、自民党とともに消えてなくなるべきであろう。民主党が基地問題で右往左往するしかないのは、変化し、流動していく現実の世界の動きも、日米安保同盟関係やその客観的な条件や背景の変化についても、どんな明確で賢明な観念も持ち合わせていないからである。六〇年安保闘争五十周年を迎え、我々はかつて激しく争われた「安保闘争」とは何だったのか、そこで持ち出された安保条約や日米同盟についての評価や観念は、歴史的、現実的に正当であったのかどうかを、ブントや共産党の当時の見地を検討しつつ明らかにしなくてはならないし、すべきであろう。このことはブントとは、安保闘争とは何であったのかという問題と深くかかわっている。

◆安保改定「阻止」のスローガン

 ブントのスローガンは「安保反対」でも「安保破棄」でもなく、「安保改定阻止」であった。そしてまた、それと結び付いて、「岸内閣打倒」も押し出された。

 新安保条約は、五一年に結ばれた最初の安保条約と比べて、より「双務的な」ものであり、だからこそ、岸はこの改定を実現することで、国民の民族主義的意識をあおり、また満足させて政権の強化、安定を計り、それをテコに憲法改定など、彼らの国家主義的な路線を一挙に推し進めようと策動したのであった。

 ブントは、だから「安保改定」が行われたら、岸の“長期安定”政権となり、反動化が一挙に進みかねないと評価し、結論したのであり、岸の野望を粉砕するには、「安保改定阻止」こそが必要であり、それこそがキイポイントである、と主張したのであった。

 ブントと学生の街頭闘争に“主導された”安保反対闘争は、一九五九年十一月の国会構内占拠闘争から六〇年六月にかけて“空前の”規模で盛り上がり、「安保改定阻止」は空文句に終わったものの、ついに岸を退陣に追い込み、反動派は一時的に後退を余儀なくされたのであった。

 ブントは「安保改定を阻止」することができず、みじめに“敗北”したと言われたが、他方、方便として「安保改定阻止」を掲げたのであって、本当の、あるいは第一義的な目的は岸内閣打倒だったのだ、だからブントは結局敗北したのではなく勝利したのであり、歴史的に決定的に重要な役割を果たしたのだ、と総括する向きもないこともない。

 しかし「安保改定阻止」はブントの戦略的課題であって、ブントは、そこから(つまり、政府の決定的な基本政策の「阻止」や「粉砕」から)政府危機や国家危機を展望し、そこに「革命」の可能性を見ていたのであった、といっても、こうしたことはただ漠然と想定され、期待されていたにすぎなかったのだが。

 実際には、六〇年安保闘争は「安保改定阻止」さえ結果せず――「安保破棄」は言うまでもなく――、「平和と民主主義擁護のための」闘争に帰着したのであって、岸政権は安保条約のためというより、民主主義をないがしろにし、否定したが故に袋叩きにあい、「打倒された」のである。かくして、安保闘争を「民主主義のための」偉大な闘争として評価し、民主主義の「防衛」のために大きな意義と役割を有したと総括することは、一般的で、通俗的な見解にさえなっている。

 安保闘争も、基本的に、「平和のための」闘争として位置づけられ、日本の「帝国主義的自立」――つまり帝国主義化する日本のブルジョアジー――に対する闘いとしてはほとんど評価もされておらず、また位置づけられてもいない。

 他方、安保反対(破棄)は、共産党のスローガンであり、要求であった。彼らは、この課題を、「日本の真の独立」という、彼らの戦略的、綱領的立場から位置づけたのであった、つまり安保条約を破棄して、アメリカから「真の独立」を勝ち取ろうと、呼び掛けたのであった。

 共産党の立場は軽薄な平和主義とも結びついていた、つまり安保条約を破棄するなら、日本は「アメリカの戦争に巻き込まれる」ことがなく、かくして平和な日本が可能になる、といった俗見である。

 またブルジョア的立場、国家主義の立場から、安保反対を主張した連中もいなかったわけではない、つまり“自主防衛論”の連中であったが(彼らは共産党と同様に、「日本の真の独立」を願う連中でもあった)、これはしかしブルジョアジー全体の意思としては現われて来なかった。軍隊らしきものがまだしっかり形成されていなかったから、そしてソ連などの核で武装された強大な軍事力に対して、“自主防衛”が非現実的で、空論的とみなされたからである。

 要するにブントは、単なる「安保反対」や「破棄」ではなく(民族主義的観点からの闘いではなく)、「安保改定阻止」であり、そうでなくてはならない(資本の支配、その帝国主義的企図や野望に反対し、それを打ち破っていく闘いである)と強調し、また大衆(主として学生たち)にそのように訴えたのであった。

 また、そう位置づけ、訴えることなくしては、学生(そしてその付録として、労働者)を安保闘争に動員し、“駆り立てる”ことはできなかったのである。共産党のように、安保条約を破棄し、なくして「真の独立」を勝ち取り、「平和で民主的な」日本にしようといった、つまらないプチブル的世迷い言や幻想を振りまくわけには行かなかったのである。

◆日本独占と「帝国主義的自立」

 ブントは「安保改定阻止」を唱え、共産党は安保反対(破棄)と、それによる「民族独立」を叫び、さらに“トロツキスト”(=革共同――後の“黒田派”に始まる革共同とは区別される)は「反革命軍事同盟」論を展開した。

 問題は、これらの諸主張の階級的な性格と、客観的な政治的意味である。

 “トロツキスト”の主張が、共産党の主張に容易に接近し、事実上(実践上)一致し、融合していくことを察知することはそれほど難しくない。彼らはともに、日米安保同盟に反対するのだが、それは、それが基本的に“社会主義国家”であるソ連や中国に対抗する、ブルジョア国家同士の“反革命的”連合であると評価したからである。ただ、トロツキストたちの方が共産党より、いくらかラジカルに、この“民族的”主張を押し出すところで区別されたにすぎない。

 これに対して、ブントは、安保条約に反対する闘争も、日本(とアメリカ)の帝国主義的ブルジョアジーとその外交政策に反対する階級的闘いとして、したがってまた必然的に、岸内閣に反対する闘い、その政治外交に反対する(それを「粉砕する」)闘いとして位置づけたのであった。

 困難は、岸の外交政策が、対米不平等の条約を一層平等で、一層対等で、一層“自主的な”ものに変えるのだ、そのための日米安保条約改定なのだと強調され、また客観的にもそうした性格も持っていたということである。

 もちろん、岸の言う“自主性”云々はインチキであって、日本が軍事的、政治的にアメリカに全面的に追随し、協調する限りでの、その枠内でのものであったとしても、である。

 その枠内であっても、“より”自主的で、対等なものに改定するということに、ブントはいかにして反対し、その改定を粉砕すると主張し得たのか、そうした闘いをいかに理論的に正当化することができたのか。あるいはまた、改定を阻止し、その岸の外交・政策を粉砕することで、何を獲得し、実現しようとしたのか。

 ブントは、「安保条約改定を阻止したら、古い、より従属的な旧安保条約が残るだけである、それがどうして日本の労働者人民の利益となるのか」という労働者の素朴な疑問に答えなかったし、答えることができなかった。安保条約改定に込めた岸の野望は、日本の「帝国主義的自立」であり、憲法改定、公然たる再軍備である、だからこそ、それは粉砕されなくてはならないと主張し得たとしても、しかし安保条約改定はいわば、一種の不平等条約をより対等のものに変える――つまり日米関係をより対等な二つのブルジョア国家間の関係に修正する――ということでしかなかった。

 もちろん仮に、ブントが安保条約関係を日米の軍事同盟だと評価したとしても、軍事同盟だという点では、古い条約も新しい条約も同じであろう。そして、岸は、再びブルジョア大国として登場しつつあった日本の実際と実力に対応して、日米の軍事同盟を再編強化し、安定させようとしたにすぎない。したがって、「改定阻止」こそ決定的と言うことは、「安保改定阻止でもいいが、それから廃棄に進まねば無意味だ」とブントを批判した共産党(や革共同)と同じ立場に立つか、古い条約関係のままに甘んじるか、どちらかしかなかった。

 しかし、ブントの主張、その政治的立場は、安保条約改定は不平等条約の修正や“自主性”獲得の要求であるというよりは、むしろ日本ブルジョアジーの“帝国主義的自立”への志向であり、危険な衝動であるからこそ、断固として「阻止」され、粉砕されなくてはならない、といったものであった。こうした立場が無政府主義につながって行くことは容易に洞察できるであろう。

 しかし不平等条約の訂正と、日本ブルジョアジーの“帝国主義的自立”が、仮りに相互に密接に、また現実的に関係している場合があるとしても、直接に同じことではない。この両者が一致するか、しないかは具体的な状況において検討され、判断されなくてはならない問題であったが、ブントがそうした議論や検討をしたことはなかったし、その気配さえなかった。

 そして“より対等な”日米軍事条約への修正は、日本独占資本の“帝国主義的自立”といったこととは直接に一致しなかったことは、今では誰でも認め得るであろう。

 日本のブルジョアジーは、アメリカと結びついて、一九九〇年代以降、すでに立派に帝国主義的ブルジョアジーとして振る舞い、立ち現われて来たではないか、と言うのか。

 しかし、だからといって、それは決してブントが強調したような、いくらかでも“自立した”帝国主義的強国としてではなく、アメリカと結びついた、アメリカの尻馬に乗ったような、臆病で、“おっかなびっくりの”帝国主義国(“プチ”帝国主義とさえ言えないような)として、ではなかったか。

◆“ブント主義”の限界

 「安保改定阻止」を目的にして闘った、ブントは正当だった、という評価は少しも無条件的ではないし、またそれが「階級闘争」の強調と結びついて提起されていたから正しく、支持されるべきだ、ということには決してならないのである。

 むしろ反対に、安保闘争の課題を「安保改定阻止」に置き、それをスローガンとも、結集軸としても学生に呼び掛け、闘いを組織し、発展させて行ったということ自体に、ブントの政治的、階級的な立場が、その根本的な欠陥が特徴的に、はっきり暴露されていた、と結論すべきであろう。

 いや、それ以前に、労働者階級の闘いの中心環を安保闘争そのものに置いたことさえ疑問であった。

 この闘争課題を誰よりも熱心に主張していたのは、共産党であった。彼らはその「民族民主革命」という戦略的目的からしても、そうしたし、せざるをえなかったのである。安保条約反対闘争を重視するというのは、それは共産党の立場からして当然であって、彼らがその闘いをわめいたのは何の不思議もない、むしろ奇妙に思われるのは、ブントがこの闘いを重視し、「安保反対闘争こそ決定的な闘争であり、ブントはこの闘争に、その政治生命を賭ける」といったことが公然と、半ば本気で言われていたことこそ、ブントの「政治主義」を、プチブル本性を語って余りある。

 労働者活動家にとっては、安保闘争は最初から“重い”闘争であり、それほど重視されるような闘いには見えなかった。日米関係が、いくらか“自主的な”ものになるかならないかといったことは、プチブルら(社共等々)には何か決定的なことに思われたかもしれないが、労働者にとっては二義的な意味しか持たないのであり、また持たなかったのである。

 とは言え、民族独立を謳い、その意味では「外交」を重視する共産党も、この闘いに熱意をもって真剣に取り組む理由や動機を有しなかった、というのは、安保条約改定は日本がアメリカとの関係で、“より”対等な立場に立つことを意味したからである。もちろん、共産党は、実際に安保条約反対を掲げた以上、この“より”対等と言うことに文句をつけ、対等といっても「対米従属」という大きな枠組みは変わっていないではないか、むしろそれは実際には強化さえされ得るのであって、「対等」のためには民族民主革命が必要である、安保条約は単に改定されるのでなく、むしろその廃棄こそが必要である、と訴えたのである。

 つまり、岸が「より対等」というのは、労働者人民を単にたぶらかすためだ、と言いはやすことによって、安保条約反対を言ったのであって、実際に、新安保条約が「より対等」なものであるなら、つまり共産党にとって改善と見えるなら、共産党は安保条約改定に反対し、闘う必要は全くなかったのである。

◆ブント・迷妄の「安保闘争」

 岸の安保条約改定を、“帝国主義的自立”の策動であると結論し、「改定阻止」を叫ぶブントの立場は空虚であって、空文句以上を出ることはなかったのである。

 ブントは岸の外交政策(安保条約改定等々)を、全体のブルジョア政治の中で位置づけようとせず――あるいはまちがって位置づけ――その政策を、それだけを「粉砕せよ!」と叫びたてた。

 必要なことは、ブルジョアジーの政治の全体を、その外交政策を、それらの階級的な性格や意味を労働者の前で暴露し、それとの闘いを訴えることであった。

 安保条約とその改定に反対し、その闘いを労働者の階級闘争の全体の中で位置づけることは、ブントのように、その粉砕や「安保改定阻止」を戦略目標もしくは自己目的として闘うということとは別であるし、またそうでなくてはならないのである。

 このブルジョア世界では、諸国家の離合集散も、つまり諸国家相互間の外交も同盟も一つの必然として現われるのであって、そんなものを一々「粉砕」するとか、「阻止」するとか言ってみても、つまらない空文句にしかならない場合がいくらでもある。

 例えば、戦前の(一九四〇年の)日独伊三国同盟を、「粉砕する」とか、「阻止する」とか言って悪いということもないが、しかしその現実の実現性や実際的条件も考慮せず、そんなことを呪文のように唱え、そのために労働者に決起を呼び掛けるとするなら、そんな“労働者政治”は一日で破産するしかないであろう(一九四〇年に、そんな政治を実行しようとしたら茶番にしかならなかっただろうし、そんなことを実践しようとした“革命党”は疑いもなくたちまち破産し、壊滅したであろう、ちょうどブントが一九六〇年、安保闘争後にそうした運命をたどったのと同様に)。

 ブントは、安保闘争(安保改定阻止闘争)を呼び掛け、そのために大衆――労働者大衆ではなく、学生大衆――を動員したが、実際には、その政治は、共産党の政治やトロツキストの政治のレベルを一歩も超えなかったばかりか、むしろその補完をなし、共産党などが六〇年安保闘争後に勢力を拡大するのを、客観的には手助けしたとさえ言えるのである。

 安保闘争の最中に(そしてその後にも)、労働者大衆の中に持ち込まれていたのは、社会党や共産党が振りまいていた、「安保条約は平和にとって危険なものだ、アメリカのやる戦争に日本も『引きずり込まれる』から」といった、浅薄で、“情緒的”で、卑俗な観念、必ずしも正しくない観念でしかなかった。

 そしてブントの急進運動は、こうしたプチブル的な俗流観念を一掃するというより、客観的には、それが一層深く労働者大衆の中に浸透するのを助け、この観念を強化したとさえ言えたのであった。そうしたものは、社共を助け、あるいはプチブル市民主義や市民運動の台頭を助長することはあり得たとしても、労働者の階級的、革命的意識や闘いの深化や発展のためには、ほとんど意義を持たなかったのである。

 実際、「安保改定阻止」というブントのスローガンは結局、闘いの中で、どこかにふっ飛んでしまった。そして安保闘争の最終局面では、「民主主義を守れ」という声がちまたに満ち満ち、ブントは政治的にもヘゲモニーを失って行った。ブントはくやしそうに、プチブル党やインテリたち、市民主義者たちによって闘いが捩じ曲げられ、ゆがめられ、無意味なものに、「民主主義擁護、平和擁護」等々にすり替えられ、おとしめられたと臍(ほぞ)をかみ、呪ったが、「時すでに遅く」、闘いの成果はプチブル党などにかすめとられたのであった。

 しかし「安保改定阻止」という闘いの目的が決定的瞬間に脱落し、どこかにふっ飛んで行ったからといって、それをプチブル党やインテリや「大衆」のせいにすることはできない、というのは、このスローガンは労働者大衆をも全くとらえられなかったのだから、学生の急進主義たちの間でだけ辛うじて影響力を持ったにすぎなかったから、である。むしろ、ブントがこのスローガンに執着すればするほど、労働者とも、学生たちとも遊離し、孤立して行ったのである。

 このスローガンは、岸の政治と闘う上で、その急所を突いたものと、ブントは自ら評価し、うぬぼれたが、しかしそれは本質的に観念的なものであって、「(尊皇)攘夷」のスローガンと同じような空文句にすぎなかったのである。

 このスローガンを正当化するために持ち出された理屈は、現実的であるというより、無理をして“ひねりだされた”もの、現実から切り離されて頭の中で考え出された“理屈”(ドグマ)にすぎなかった。もし日本が“帝国主義的自立”に向かっており、それが日米安保条約の改定として出てきているというなら、労働者の闘いの課題は、帝国主義的ブルジョアジーとして登場しつつある日本の支配階級との全面的で決定的な、長期にわたる闘争として提起されるべきであって、「安保改定阻止」といった珍奇で、実践的に、袋小路に入り込む以外ないような形で提出されるべきではなかった。

 いずれにせよ、「ブントは安保闘争にすべてをかける」(島成郎がしばしば口にした決まり文句)などという、極度に偏狭で浅薄な立場から、帝国主義的ブルジョアジーに対する闘いを提起するのがナンセンスなのは明らかであったが、しかしこうした極端な矮小さ、狭隘さこそブントの本性であった。

 安保闘争に、安保改定阻止に「すべてをかける」などという珍妙なプチブル党派が、安保条約改定が実現するとともにたちまち破綻し、解体して行ったのは一つの必然でさえあった。

 改定を仮に「阻止した」ところで、古い安保条約が残るだけであって、それが労働者にとってさえ利益であり、いいことである、などと誰も言うことはできなかっただろう。ただこのことだけでも、ブントの「戦略目標」は労働者を捕らえることはできなかった、というより、それ以前に、労働者はそんな奇妙な理屈を理解できなかったし、しようともしなかった。

 そしてもし、安保条約改定が、「対米従属」を脱して、より“自主的な”ブルジョアジーとして登場しつつある――登場したいと希求する――日本の支配階級の志向の現われだとするなら(そして、ブントは共産党の「安保条約改定は対米従属を深め、恒久化する、それがこの改定策動の本質だ」といった見解に反対して、そのように評価したのだが)、それに「反対」し、その試みを「阻止」し、「粉砕」することに、客観的にみて、どんな意味があったというのであろうか。何もありはしなかったのである。まさか「改定を阻止」して、つまり旧安保条約体制の下で、アメリカの事実上「軍事占領」のような状態が続く中で、「平和と民主主義の日本」を享受しようと考えたのではなかろうが。

 「安保改定阻止」というブントの政治的立場やスローガンは、ブントの階級的な本性と――したがってまた、その急進的な政治や学生の運動と――切り離しがたく結びついていたのであって、ブントの政治的な破産を避けられないものにし、「規定した」のである。そこには、ブントの本質が表現され、象徴されている。

 「安保改定阻止」といったことが実際に空論であって、積極的な意味を持ちえないスローガンであったとするなら、ブントの目的はそこにはなく、「岸内閣打倒」こそ本当の目的であって、「安保改定阻止」はそのための方便のようなものであった、と言えないこともない(もちろん、このことはブントの多くの連中が、それ(「安保改定阻止」)を実際的、実践的スローガンと信じ込み、本気で「改定阻止」を考えていなかった、ということではない)。

 これは言ってみれば、幕末の志士たちが、「徳川幕府打倒」をこそ第一義としつつも、「尊皇攘夷」をあおり、そのエネルギーを利用したのと同じようなものであったが、労働者の政治としては最低、最悪のものの一つであった、と言うべきであろう。

◆日米安保同盟の現状とブントの幻想

 それでは、一九六〇年の日米安保条約改定は、ブントが主張したように、日本の資本の勢力の“帝国主義的自立”のためのもの、それに向けて決定的な一歩を踏み出すものだったのだろうか、それとも共産党が強調したように、「対米従属を強化し、日本を永遠にアメリカの『従属国』」に、つまり日本を「アメリカに従属した半ば植民地の地位」にしばりつけるものだったのだろうか。それが問題である!

 それから五十年たった今、この問いに明確に答えることができるだろうし、また答えなくてはならない。

 日本は「高度経済成長」や、その後の資本主義的生産の矛盾の深化の中で、確かにますます帝国主義的国家として登場して来ているが、しかし必ずしも「自立した」帝国主義的ブルジョアジーとして登場していないし、その実力もないことを暴露してしまっている。他方、アジアでは中国が日本を凌駕するようなブルジョア大国として――まさにアメリカに対しても“自立した”帝国主義国家として――台頭したし、ますますしつつある。インドや南米のブルジョア大国も出現しつつあるし、今やアフリカにおいてさえ資本主義的発展は加速しつつある。ブントの“公式的な”、青木流の(つまり優等生風の)現実評価や理解は矮小なもの、観念的なもの、空虚なものであったことが暴露されたのである(それなのに、今頃になって、青木昌彦は半世紀前の自分の“理論”がひどく優秀だったことを見出すのだ。まさに、小人は救いがたしだ)。

 しかし共産党の観念もまた、愚劣な形而上学的なものでしかないことをさらけ出して破綻し、今では、共産党は日米の「道理のある」関係を求めて、アメリカの大資本の勢力と協調し、“いちゃつく”のに大わらわである(オバマ政権を美化し、持ち上げ、“親善の”ために日参するような堕落ぶりであって、対米独立路線、「真の独立」のためにアメリカ帝国主義を「打倒する」といった勇ましい路線はどこかに完全に棚上げされ、“忘れ去られて”いる。醜悪なことではないのか)。

 歴史の教訓の語ることは、現実世界とその歴史的発展をより客観的に、より深刻に認識し、このブルジョア世界全体の前進し、展開していく方向と、そしてまたその矛盾を正しく、全面的に評価し、闘っていくことこそが決定的であり、労働者党派の闘いの前提である、ということである。

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 集会報告(1)
(『海つばめ』1124号、2010年6月27日)
新たな挑戦を誓う
盛大だった安保50周年集会


 六月十二日、池袋において、60年安保闘争五十周年集会が開催され、会場にあふれるほどの人々が結集し、半世紀前に始まった、労働者の革命的闘い――ブント(共産主義者同盟)などの闘い――の歴史的な意義を承認するとともに、その根本的な限界を止揚して――すなわち、その肯定的な側面を保持しつつ、合法則的に、しかもそれをきっぱり否定して――、我々が一貫して推し進め、追求してきた闘いの意味と役割を改めて確認し、我々の再度の挑戦を誓ったのであった。

 我々以外には、六月十五日、早稲田大学では、坂野潤治とか加藤尚武とかいった、六〇年安保闘争やブントについて語る資格もない、事実上の“ブル転”(これはすなわち、“ブルジョア的転向者”の略称で、“戦前”には自明の概念であった)の連中が空虚なおしゃべりに時間を費やし(しかもその後、六千円もかけて、“懐旧談”のためのパーティを持つというのだから、その頽廃ぶりにあきれるしかない)、また東大では、同じく六〇年安保闘争やブントとは全く無関係な連中、またブントの掲げた「全世界を共産主義に獲得するために」という高い理想などにはまるで無関心で、今も、ただ自分たちの珍奇な“運動”や観念のために、六〇年安保闘争やブントの闘いや樺さんの死を利用するしか知らない連中が、自分らの矮小なインテリ的偏見に固執しながら、勝手な独善に熱をあげただけであった。

 このことは、まさに現代の“左翼”全体(もちろん、“新左翼”も含めて)のとことん頽廃した現状を問わず語りに明らかにしたといえよう。
 安保闘争五十周年を迎えながら、我々以外に、どんなまともな集会も行われなかったが、このことこそがまさに、半世紀前に始まった、「社共に代わる」社会主義・共産主義の新しい運動の担い手が、推進者が、正当な後継者が、つまり「嫡子」が、我々以外では決してないし、あり得ないということ、そして有象無象の“新左翼”の党派、急進的、擬似サンジカリズム的党派――中核派など――が、無力であり、さらに頽廃して行かざるを得ないことを明らかにしたと言えよう。

 我々の集会は何の実践的な課題もない、ためにするような集会とは違って、会場の正面には、「二“大愚”政党はゴミ捨てに」「労働者の政治的進出を勝ち取ろう」という、自覚した労働者と我々の現在の課題を明らかにしたスローガンが高々と掲げられ、単に過去の郷愁や回想にふけるといったことではない、我々の集会の性格と特徴を明らかに示し、全国の労働者に強くアッピールしたのであった。

 我々はブントを「止揚した」のである、つまり正しく総括し、それを徹底的かつ根底的に否定したのであり、まさにそれ故に、ブントの崩壊した時点から、我々の新しい労働者的な闘いを開始したし、することができたのである。

 そしてこの間、我々の闘いのみが、労働者の解放を求める社会主義、共産主義運動の“正道”にそった、原則的で、プロレタリア的な運動であることが実際に明らかにされて来たが、この記念集会によって、その事実が最終的に確認されたと言えよう。

 我々は二つの“大愚”政党がますます堕落し、破綻していく中で、「労働者の政治的な進出を」という、労働者階級全体の緊急にして、決定的に重要な課題を現実的かつ実践的に勝ち取るために、さらに我々の闘いを深め、発展させて行かなくてはならない。

 その決意を改めて確認し、また強固にしてくれた記念集会であった。

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 集会報告(2)
(『海つばめ』1124号、2010年6月27日)
会場にあふれる熱気
「二“大愚”政党」との断固たる闘い呼び掛けて


 6月12日、東京において、60年安保闘争50周年集会が開かれた。会場は予定人員を30人もオーバーする人々が詰めかけ、60年安保闘争をふり返るとともにこの闘いでなくなった樺美智子(さらには昨年亡くなった池尾正勇哉)を追悼し、集会宣言(別掲)を採択して成功裏に終えることが出来た。当日の報告をしたい。

 集会開会予定の6時には、会場はいっぱいになり、補助椅子を準備するほど盛況であった。会場正面には、「二“大愚”政党はゴミ捨てへ、新たな労働者の政治的進出を勝ち取ろう!」の横断幕が張られ、この集会の狙いを明らかにしていた。また、会場入り口には、60年安保闘争を伝える報道写真とともに、樺美智子、池尾正勇哉、さらには幸徳秋水の写真が展示され、早めに会場に入った人は興味深そうに見入っていた。

 集会は、集会実行委員の町田勝氏の司会で始まった。

 はじめに実行委員長の山田明人氏が、この集会について、60年安保闘争から50周年という節目の年であるが、単に回想としてではなく未来に向けてどう闘っていくかという観点から60年安保記念集会を準備した。ブントが掲げた社共に代わる新しい労働者政治というスローガンは、現在においても重要な課題である。菅民主党政権が誕生したが、政治の内実は何も変わっていない。二“大愚”政党をゴミ捨てに、労働者の政治的進出を勝ち取っていくべきだ。同時に樺・池尾の追悼を併せて行いたいと集会の趣旨を明らかにした。

 続いて、60年安保闘争のDVDが上映され、当時の状況が映像でもって明らかにされた。参加した時事通信の記者は、今では考えられないような大衆の闘いがあった当時の状況がよくわかったと感想を述べていた。


◆林紘義氏の講演

 60年安保闘争を都学連の執行委員として闘った林紘義氏(現マルクス主義同志会代表委員)が、「笑い飛ばせ、60年ブントと新左翼」と題して記念講演を行ったが、その要旨は次の通りであった。

 私は11・27闘争で国会に突入し、逮捕されたが、この闘いはブントの闘いにおいて成功した闘いであった。当時、“安保は重い”と言われていたが、警備が手薄なこともあって全学連や労働者大衆が国会に突入し、局面が変わり、安保闘争は一挙に盛り上がっていった。

 ただ、安保闘争とは何だったかを考えると、ブントは安保改定阻止を掲げたが、その内容は今ひとつはっきりしなかった。共産党は対米従属論の立場から、この改訂で対米従属が一層強化され、日本の植民地化が深まると主張し、ブントはそれに反対した。革共同は「反革命軍事同盟」と評価したが、この「反革命」の内容は、ソ連・中国が堕落しているけれども労働者国家であるとの幻想に基づいていた。これに対し、ブントは日本独占の帝国主義的自立を言いつつ、安保改定阻止を掲げた。

 しかし、岸政権が日米の対等な関係への改訂を謳っていた中で、では改定阻止をしてもとの不平等条約のままでいいかとなると答えられなかった。帝国主義化と「改定阻止」がどう関連するかもはっきりしなかったが、ブントは戦術だけを急進化していった。

 当時、全学連指導部を握っていたブントと革共同で実践的な中心課題で論争があった。ブントは安保闘争中心で行くべきと言い、革共同(第4インター系で、後の革共同とは違う)は合理化反対中心で行くべきと主張した。当時三池闘争もあり、労働運動のことを考えると合理化反対を強調する革共同の主張もそれなりの論拠があっただろうが、ブントは合理化反対で学生運動が闘えるかと反対した。合理化反対で学生運動が闘えるかとか、第4インターの“トロツキスト”は経済主義だという主張は、「それ自体では」正しかったが、根本的には(労働者的立場に立てば)おかしなものだった。この議論はブントの学生急進主義を象徴していた。

 ブントは安保が自然成立するとあっと言う間に空中分解してしまったが、偶然ではなかった。東大分派を中心にした「革通派」は――私は彼らにラジカルに反対していたが――、池田内閣打倒のゼネストなど急進主義的方針を提起し、破綻していった。その中で、清水丈夫や北小路敏らが革共同黒田派に雪崩れ込んでいった。

 (ここで林氏は、当時の全学連幹部であった青木昌彦を6・18デモを抑えて回った「青木昌彦君は“マッ青に”になって宣伝カーの上から学生のデモを抑えた」、服部信司を「はったり信じましょう」だった、西部邁は「西辺の方に進んでアメリカのブルジョア経済学を学びに行ってしまった」等々と笑い飛ばした)。

 ブントは4分裂し、私たちは「共産主義の旗」派として新たな闘いの道を踏み出した。ブルジョア民主主義の社会では、労働者の政治的な闘いが必要である。選挙や国会の場で他の政党と闘い、労働者を説得し組織していく闘いが必要だ。こうした闘いを積み重ねていくことなくして、革命など出来ないと考えた。

 我々は、社労党を組織して選挙闘争に挑んできたが、厚い壁の前にいったん退いた。資金面の問題が大きかった。供託金制度があるが、比例区で確認団体として闘うためには数千万円のカネが必要である。さらには小選挙区制の成立でミニ政党は排除された。二大政党制と言われるが、民主党も自民党もいい加減な政治ばかりやっている。国会では労働者の立場に立つ議論がほとんどない。新たな労働者の政治的進出が必要だ。

 最後に林氏は、完成されなかった漫才の脚本の「オチ」を紹介して記念講演を締めくくった。それはブントを痛烈に嘲笑し、「笑い飛ばした」つぎのようなものだった。

 「安保闘争の後、ブントの破綻と解体が決定的になったとき、『トラは死んで皮を残す。ブントは死んで名を残す』と云ったことが、負け惜しみのように盛んに言われた。トラは死んで皮を残す。ブントは死んでブント、ブット、ブッと屁を残す」。

◆60年安保・全共闘世代及び江刺氏の挨拶

 60年安保闘争を早稲田の1年生として闘い、ブント同盟員であった鈴木半一氏は、「60年安保を闘って」として次のように挨拶した。

 私は50年前に一学生として安保闘争に参加した。11・27の最初の大きな爆発では、私たちの部隊は国会南側の土手を突破し、正門で対峙していた何万という労学の人たちと合流して「国会構内集会」を闘った。翌年の1・16羽田闘争の直前にブントに加盟した。

 安保闘争が敗北した後のブント第五回大会に私は一代議員として参加した。ブントが分裂した中で、未熟な小ブル急進主義者として「革通」派に入り、ブント自体が崩壊するなかで暗中模索するばかりであった。その後も小ブル急進主義の夢想を捨て切れず、70年安保闘争では解放派に属し、飯場で土方をしたり、下請け労働者としてあてもなく彷徨っていた。「共産主義の旗」派の運動を知ったのは、80年代初頭で、社労党結成に参加して、皆さんと行動を共にしてきた。

 続いて70年当時、明治大学2部の自治会委員長として学園闘争を闘った小島保雄氏が「全共闘世代から見た60年安保」について語った。
 入学したのは68年4月であった。日大や東大闘争、ベトナム戦争、三里塚闘争などが闘われたが、明大2部自治会は三派全学連がヘゲモニーを握っていた。60年安保ブントについては、真剣な総括はなく半ば神格化していた。私にとっては「あこがれ」であり、「60年安保のように闘おう」であった。

 70年安保で急進派は、「安保粉砕」、機動隊との肉弾戦、関係施設への突入・占拠、ゲバルト闘争の激化など、さらなる急進化、軍事路線へ突き進んでいた。明治には赤軍派の田中義三、重信房子、連合赤軍事件の遠山美枝子がいた。71年、闘いに行き詰まりを感じていた頃、全国社研の『科学的共産主義研究』の「新左翼の総決算」をみて、当時の全国社研に接近した。その頃、東京東部に住んでいたので、池尾正勇哉氏に合い、労働者魂を教わった。

 次にノンフィクション・ライターの江刺昭子氏が「『樺美智子 聖少女伝説』を書き終えて」と題して挨拶をした。その要旨は次の通りである。
 私は、当時早稲田大学の1年生で、デモには出かけたが、政治的なことはよくわからなかった。樺美智子について3点述べたい。

 当時の早稲田も男子が多い大学、サークル活動などで女子はおとなしくニコニコしていればかわいがってもらえるが、何かあると女のくせに生意気という風潮があった。すべてとは言わないが圧倒的多数の人が女性を対等な人格として認めていなかった。

 樺さんの東大もそうだったと思う。高校時代から熱心に女性の問題に取り組んでいたが、東大にはいると女性問題について語ることは少なくなっていた。男性が多数の社会の中で、彼女は体を張って活動家として頑張った。しかし、多くの活動家が彼女に期待したのは、ガリ切りなどの黙々とした取り組みであり、当時の活動の補助的なものを期待し、或いは単なる恋愛の対象としてみていたのではないか。学部の副委員長としてクラスの議論をまとめるときにも、女のくせにといった空気があったやに聞く。

 彼女の死因についてであるが、圧死と扼殺で争われてきた。権力側に、女のくせに、生意気だといった女性蔑視の意識が働いて、扼殺に及んだのではないかと思っている。

 最後に国民会議葬で松村善三(シナリオライター)の扱いについて。彼は「この暴挙許すまじ」という文章で、「セーターに身を包んだ可憐な少女のつぶらな瞳」と書いている。死んだ彼女の年齢は22歳、十分な大人の女であって、こうした樺像は彼女の実像とは全く違っている。


◆樺・池尾追悼の三人の挨拶

 まず、60年安保闘争当時、大学生1年生でブントの一員であった田口騏一郎氏は、「樺美智子を偲ぶ」と次のように述べた。
 樺さんについては様々な評価がなされている。「まじめすぎて、融通の利かない」人だといった評価、活動に見切りをつけ学校の先生になることを目指していた、さらにプチブル急進主義者とする評価があるが、賛成できない。

 江刺さんはフェミニズムの観点から樺さんについて話されたが、こうした観点から樺さんをとらえるのは狭く本当の姿を伝えるものでない。林紘義氏は『友へ』の中で、彼女はブントの「党的」な活動に積極的に参加したが、ブントの急進主義的な学連主義者とは違っていた、本能的に急進主義の限界を感じており、反発していたと書いている。彼女は高校時代から貧しい人々に同情し、こうした人々を生みだしている社会への矛盾を感じていた。大学に入ってからも社会の変革を目指してひたむきに活動してしたが、そうした生き方こそ人々の感動と共感を呼んできた。

 続いて「池尾さんを偲んで」と題して鈴木研一氏が池尾追悼の言葉を述べた。

 私が信州大学に入ったのは1962年、安保闘争の余韻はほとんど感じられなかった。ただ、当時の新聞は60年6月15日に信大から文理学部生40名、医学部生75名などが上京、国会前のデモに参加し、機動隊と激突したと報じているので、池尾さんは文理学部自治会委員長としてこのデモで勇名を馳せていたのだろう。しかし、池尾さん自身からは“自慢話”を聞くことはなかった。安保闘争は池尾さんにとっては終わったことであり、既に新しい闘いを踏み出していたからだろう。

 入学後、進むべき道を模索していた私は5月に新聞会に入った。ところが、この新聞会こそは、ブント崩壊後、労働者政党の結成をめざして闘いを開始した「共産主義の旗」派の拠点だった。そこに入ったのが“運の尽き”(?)――リーダー格だった池尾さんとの付き合いもそこから始まり、共に自治会指導部を担ったり、一緒に山に登ったりと頼もしい先輩・同志として親しく交流してきた。

 池尾さんは、一言で言えば、ぶれない人だった。大義の前には、自分の不利益も顧みず運動に献身し、労働運動の指導では天性のオルガナイザーとして生き生きと活動していた。激動の時代が来れば、池尾さんの資質と能力はもっともっと発揮されたろうにと思うと、残念だ。池尾さんに教わったカール・リープクネヒトの言葉、「Studiren, Propagandiren, und Organizieren(学び、宣伝し、組織せよ)」が思い出される。

 最後に、池尾氏と18年間連れ添ってきた、榊原氏が遺族を代表して挨拶した。

 池尾と共に過ごしたうち、病気の期間が長かった。胃ガンの手術に始まり、大腸ガンや足、手の骨折が続いていた。その間医者からは酒をやめるようにいわれたが、やめない人であった。私が突然家を訪ねると酒があり、捨ててしまうと、もったいないと言っていたことが思い出される。

 社労党の活動にも誘われ、学習会にも何度も参加したが、議論は難しかった。ビラまきにもメーデーや北千住の街頭宣伝に何度も参加した。

 池尾は優しい人だった。喧嘩したことも余りない。料理が好きで、ムニエルが得意だった。最後の時は、私が孫の用事で少し連絡を取れなかったときに、一人で逝ってしまったが、もっと一緒に生きて欲しかった。今日、こうして追悼の場を設けていただき、感謝している。

 この後、集会宣言が提案され、拍手で承認された。我々は、この集会を過去の郷愁や回想に終わらせるのではなく、60年ブントが掲げた社共に代わる新たな労働者政治を求めて闘う課題を明瞭に押し出した。マスコミも『朝日』と『毎日』が記者会見(6月1日)に参加し、集会当日は時事通信社と共同通信社が取材した。6月9日には『毎日』が我々の集会を記事にし、何人かの読者から電話で問い合わせがあり、集会への参加も勝ち取った。大学や駅頭で配布されたチラシを見て参加した留学生もいた。

 集会は予定の時間をオーバーし、3時間半に及んだが、途中で席を立つ人もなく、大きく盛り上がった。(山田)

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 集会宣言
(『海つばめ』1124号、2010年6月27日)
今こそ、労働者の政治的進出を


 我々は、今日ここに六〇年安保闘争五十周年集会を開催した。この五十周年という記念すべき年に、ほとんどの左翼グループが集会を回避する中で、成功裏に集会を開催できたことをまず確認したい。

 我々は、六〇年安保闘争の意義を明らかにした。それは一言で言えば、戦前戦後の数十年間労働者の闘いを指導してきた社会党や共産党に代わる新たな労働者の政治、新たな労働者政党の闘いを提起したことであった。

 しかし、ブントはこの課題を空語に変え、ひたすら小ブルジョア急進主義運動を展開して崩壊してしまった。この課題はブント崩壊の中で「共産主義の旗」派の流れをくむ心ある人々の粘り強い闘いに引き継がれていった。

 同時に、我々は六〇年安保闘争の中で倒れた樺美智子の真実の姿も明らかにした。彼女はブント指導者のいい加減なプチブル急進主義を超えた存在であり、豊かな可能性を秘めながら、道半ばにして権力に虐殺されたのである。また、「社共に代わるプロレタリア党」のための闘いに生涯を捧げ、昨年六月十五日になくなった池尾正勇哉ともども、二人を追悼し、その遺志を継いで闘い続けることを改めて誓い合った。今年は大逆事件百周年でもあり、幸徳秋水をはじめ社会主義運動、労働者の革命運動に献身した幾多の先人に思いを馳せ、敬意を表明した。

 我々はこの集会で、いたずらに過去を回想するのではなく、未来に向かって闘うこと、労働者に厄災しかもたらさないこの資本主義社会とどう闘うかという観点から、この集会を勝ち取った。そして、ブントが掲げた「社共に代わる新しい労働者の政治」という呼びかけは、現在の政治状況を見るなら、いよいよ喫緊の課題として労働者に迫っている。

 鳩山政権に代わって菅政権が誕生したが、労働者はこの新政権に何も期待することは出来ない。菅は鳩山政権の副総理としてその破綻に大きな責任を負っていた。子供手当や農家の戸別所得補償などのバラマキ政策を基本的に引き継ぐ、基地問題では日米合意を尊重してやっていくと言うのだから、鳩山政権と基本的に同じである。

 菅は、経済成長、財政再建、社会保障を一体としてやればいいと叫んでいる。しかし、こんな「一体」政策は、単なる空語、大ボラの類である。消費税増税をしつつ経済成長も実現すると言うが、増税すれば消費を萎縮させ、景気後退につながるとわめいてきたのは、民主党自身ではなかったか――全くのご都合主義であり、無責任政党である。しかも、消費税増税は三年後にやるというが、もし正しい政策なら、すぐやればいいのだ。なぜ三年も待つ必要があるのか。菅が客観的にわめいていることは、三年間は数十兆円もの借金財政、バラマキ政治にふけり、そのツケを増税ということで労働者国民に押しつけようということにすぎない。

 また、「最小不幸社会」をめざすとも主張するが、これは「不幸」が一般的に存在し、ますます一般的になり、蔓延していく社会を前提にした発言である。この市民運動出身の新首相がめざす社会とは、労働者大衆の苦しみや「不幸」そのものをなくそうというのではなく、現状とほとんど違わない(より悪化した)平凡で矮小な社会である。

 鳩山民主党が自民党と変わりばえのしない腐敗堕落政権だったとしたら、菅民主党も本質的に同じであり、いやそれよりも悪い政治を展開しかねないのである。

 我々は、現在の政治を二大政党ならぬ二“大愚”政党と告発してきた。この真実は菅政権が誕生しても何も変わらない。二“大愚”政党による支配などもう沢山だ、ゴミ箱に捨て去る以外にない。

 我々は、本集会の名において、菅政権に対し断固として宣戦を布告するとともに、全国のすべての心ある働く仲間に呼びかける。

 今こそ新たな労働者の政治的進出を勝ち取ろう! そして、労働者の解放と未来をめざしてともに闘おう!

2010年6月12日 60年安保闘争50周年集会

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