鳩山政権は基地問題でも右往左往したあげくに、自民党と同じ立場に逆戻りし、「政権交代そのものに意義がある、とにかく政権交代を」と呼び掛けた、昨年の総選挙が全くの茶番であり、民主党は単に国民を瞞着し、たらし込んで政権を手にしたにすぎないことが完璧に明らかになってしまった。政権担当の能力も資格もない民主党と鳩山政権はただちに退陣し、自民党とともに消えてなくなるべきであろう。民主党が基地問題で右往左往するしかないのは、変化し、流動していく現実の世界の動きも、日米安保同盟関係やその客観的な条件や背景の変化についても、どんな明確で賢明な観念も持ち合わせていないからである。六〇年安保闘争五十周年を迎え、我々はかつて激しく争われた「安保闘争」とは何だったのか、そこで持ち出された安保条約や日米同盟についての評価や観念は、歴史的、現実的に正当であったのかどうかを、ブントや共産党の当時の見地を検討しつつ明らかにしなくてはならないし、すべきであろう。このことはブントとは、安保闘争とは何であったのかという問題と深くかかわっている。
◆安保改定「阻止」のスローガン
ブントのスローガンは「安保反対」でも「安保破棄」でもなく、「安保改定阻止」であった。そしてまた、それと結び付いて、「岸内閣打倒」も押し出された。
新安保条約は、五一年に結ばれた最初の安保条約と比べて、より「双務的な」ものであり、だからこそ、岸はこの改定を実現することで、国民の民族主義的意識をあおり、また満足させて政権の強化、安定を計り、それをテコに憲法改定など、彼らの国家主義的な路線を一挙に推し進めようと策動したのであった。
ブントは、だから「安保改定」が行われたら、岸の“長期安定”政権となり、反動化が一挙に進みかねないと評価し、結論したのであり、岸の野望を粉砕するには、「安保改定阻止」こそが必要であり、それこそがキイポイントである、と主張したのであった。
ブントと学生の街頭闘争に“主導された”安保反対闘争は、一九五九年十一月の国会構内占拠闘争から六〇年六月にかけて“空前の”規模で盛り上がり、「安保改定阻止」は空文句に終わったものの、ついに岸を退陣に追い込み、反動派は一時的に後退を余儀なくされたのであった。
ブントは「安保改定を阻止」することができず、みじめに“敗北”したと言われたが、他方、方便として「安保改定阻止」を掲げたのであって、本当の、あるいは第一義的な目的は岸内閣打倒だったのだ、だからブントは結局敗北したのではなく勝利したのであり、歴史的に決定的に重要な役割を果たしたのだ、と総括する向きもないこともない。
しかし「安保改定阻止」はブントの戦略的課題であって、ブントは、そこから(つまり、政府の決定的な基本政策の「阻止」や「粉砕」から)政府危機や国家危機を展望し、そこに「革命」の可能性を見ていたのであった、といっても、こうしたことはただ漠然と想定され、期待されていたにすぎなかったのだが。
実際には、六〇年安保闘争は「安保改定阻止」さえ結果せず――「安保破棄」は言うまでもなく――、「平和と民主主義擁護のための」闘争に帰着したのであって、岸政権は安保条約のためというより、民主主義をないがしろにし、否定したが故に袋叩きにあい、「打倒された」のである。かくして、安保闘争を「民主主義のための」偉大な闘争として評価し、民主主義の「防衛」のために大きな意義と役割を有したと総括することは、一般的で、通俗的な見解にさえなっている。
安保闘争も、基本的に、「平和のための」闘争として位置づけられ、日本の「帝国主義的自立」――つまり帝国主義化する日本のブルジョアジー――に対する闘いとしてはほとんど評価もされておらず、また位置づけられてもいない。
他方、安保反対(破棄)は、共産党のスローガンであり、要求であった。彼らは、この課題を、「日本の真の独立」という、彼らの戦略的、綱領的立場から位置づけたのであった、つまり安保条約を破棄して、アメリカから「真の独立」を勝ち取ろうと、呼び掛けたのであった。
共産党の立場は軽薄な平和主義とも結びついていた、つまり安保条約を破棄するなら、日本は「アメリカの戦争に巻き込まれる」ことがなく、かくして平和な日本が可能になる、といった俗見である。
またブルジョア的立場、国家主義の立場から、安保反対を主張した連中もいなかったわけではない、つまり“自主防衛論”の連中であったが(彼らは共産党と同様に、「日本の真の独立」を願う連中でもあった)、これはしかしブルジョアジー全体の意思としては現われて来なかった。軍隊らしきものがまだしっかり形成されていなかったから、そしてソ連などの核で武装された強大な軍事力に対して、“自主防衛”が非現実的で、空論的とみなされたからである。
要するにブントは、単なる「安保反対」や「破棄」ではなく(民族主義的観点からの闘いではなく)、「安保改定阻止」であり、そうでなくてはならない(資本の支配、その帝国主義的企図や野望に反対し、それを打ち破っていく闘いである)と強調し、また大衆(主として学生たち)にそのように訴えたのであった。
また、そう位置づけ、訴えることなくしては、学生(そしてその付録として、労働者)を安保闘争に動員し、“駆り立てる”ことはできなかったのである。共産党のように、安保条約を破棄し、なくして「真の独立」を勝ち取り、「平和で民主的な」日本にしようといった、つまらないプチブル的世迷い言や幻想を振りまくわけには行かなかったのである。
◆日本独占と「帝国主義的自立」
ブントは「安保改定阻止」を唱え、共産党は安保反対(破棄)と、それによる「民族独立」を叫び、さらに“トロツキスト”(=革共同――後の“黒田派”に始まる革共同とは区別される)は「反革命軍事同盟」論を展開した。
問題は、これらの諸主張の階級的な性格と、客観的な政治的意味である。
“トロツキスト”の主張が、共産党の主張に容易に接近し、事実上(実践上)一致し、融合していくことを察知することはそれほど難しくない。彼らはともに、日米安保同盟に反対するのだが、それは、それが基本的に“社会主義国家”であるソ連や中国に対抗する、ブルジョア国家同士の“反革命的”連合であると評価したからである。ただ、トロツキストたちの方が共産党より、いくらかラジカルに、この“民族的”主張を押し出すところで区別されたにすぎない。
これに対して、ブントは、安保条約に反対する闘争も、日本(とアメリカ)の帝国主義的ブルジョアジーとその外交政策に反対する階級的闘いとして、したがってまた必然的に、岸内閣に反対する闘い、その政治外交に反対する(それを「粉砕する」)闘いとして位置づけたのであった。
困難は、岸の外交政策が、対米不平等の条約を一層平等で、一層対等で、一層“自主的な”ものに変えるのだ、そのための日米安保条約改定なのだと強調され、また客観的にもそうした性格も持っていたということである。
もちろん、岸の言う“自主性”云々はインチキであって、日本が軍事的、政治的にアメリカに全面的に追随し、協調する限りでの、その枠内でのものであったとしても、である。
その枠内であっても、“より”自主的で、対等なものに改定するということに、ブントはいかにして反対し、その改定を粉砕すると主張し得たのか、そうした闘いをいかに理論的に正当化することができたのか。あるいはまた、改定を阻止し、その岸の外交・政策を粉砕することで、何を獲得し、実現しようとしたのか。
ブントは、「安保条約改定を阻止したら、古い、より従属的な旧安保条約が残るだけである、それがどうして日本の労働者人民の利益となるのか」という労働者の素朴な疑問に答えなかったし、答えることができなかった。安保条約改定に込めた岸の野望は、日本の「帝国主義的自立」であり、憲法改定、公然たる再軍備である、だからこそ、それは粉砕されなくてはならないと主張し得たとしても、しかし安保条約改定はいわば、一種の不平等条約をより対等のものに変える――つまり日米関係をより対等な二つのブルジョア国家間の関係に修正する――ということでしかなかった。
もちろん仮に、ブントが安保条約関係を日米の軍事同盟だと評価したとしても、軍事同盟だという点では、古い条約も新しい条約も同じであろう。そして、岸は、再びブルジョア大国として登場しつつあった日本の実際と実力に対応して、日米の軍事同盟を再編強化し、安定させようとしたにすぎない。したがって、「改定阻止」こそ決定的と言うことは、「安保改定阻止でもいいが、それから廃棄に進まねば無意味だ」とブントを批判した共産党(や革共同)と同じ立場に立つか、古い条約関係のままに甘んじるか、どちらかしかなかった。
しかし、ブントの主張、その政治的立場は、安保条約改定は不平等条約の修正や“自主性”獲得の要求であるというよりは、むしろ日本ブルジョアジーの“帝国主義的自立”への志向であり、危険な衝動であるからこそ、断固として「阻止」され、粉砕されなくてはならない、といったものであった。こうした立場が無政府主義につながって行くことは容易に洞察できるであろう。
しかし不平等条約の訂正と、日本ブルジョアジーの“帝国主義的自立”が、仮りに相互に密接に、また現実的に関係している場合があるとしても、直接に同じことではない。この両者が一致するか、しないかは具体的な状況において検討され、判断されなくてはならない問題であったが、ブントがそうした議論や検討をしたことはなかったし、その気配さえなかった。
そして“より対等な”日米軍事条約への修正は、日本独占資本の“帝国主義的自立”といったこととは直接に一致しなかったことは、今では誰でも認め得るであろう。
日本のブルジョアジーは、アメリカと結びついて、一九九〇年代以降、すでに立派に帝国主義的ブルジョアジーとして振る舞い、立ち現われて来たではないか、と言うのか。
しかし、だからといって、それは決してブントが強調したような、いくらかでも“自立した”帝国主義的強国としてではなく、アメリカと結びついた、アメリカの尻馬に乗ったような、臆病で、“おっかなびっくりの”帝国主義国(“プチ”帝国主義とさえ言えないような)として、ではなかったか。
◆“ブント主義”の限界
「安保改定阻止」を目的にして闘った、ブントは正当だった、という評価は少しも無条件的ではないし、またそれが「階級闘争」の強調と結びついて提起されていたから正しく、支持されるべきだ、ということには決してならないのである。
むしろ反対に、安保闘争の課題を「安保改定阻止」に置き、それをスローガンとも、結集軸としても学生に呼び掛け、闘いを組織し、発展させて行ったということ自体に、ブントの政治的、階級的な立場が、その根本的な欠陥が特徴的に、はっきり暴露されていた、と結論すべきであろう。
いや、それ以前に、労働者階級の闘いの中心環を安保闘争そのものに置いたことさえ疑問であった。
この闘争課題を誰よりも熱心に主張していたのは、共産党であった。彼らはその「民族民主革命」という戦略的目的からしても、そうしたし、せざるをえなかったのである。安保条約反対闘争を重視するというのは、それは共産党の立場からして当然であって、彼らがその闘いをわめいたのは何の不思議もない、むしろ奇妙に思われるのは、ブントがこの闘いを重視し、「安保反対闘争こそ決定的な闘争であり、ブントはこの闘争に、その政治生命を賭ける」といったことが公然と、半ば本気で言われていたことこそ、ブントの「政治主義」を、プチブル本性を語って余りある。
労働者活動家にとっては、安保闘争は最初から“重い”闘争であり、それほど重視されるような闘いには見えなかった。日米関係が、いくらか“自主的な”ものになるかならないかといったことは、プチブルら(社共等々)には何か決定的なことに思われたかもしれないが、労働者にとっては二義的な意味しか持たないのであり、また持たなかったのである。
とは言え、民族独立を謳い、その意味では「外交」を重視する共産党も、この闘いに熱意をもって真剣に取り組む理由や動機を有しなかった、というのは、安保条約改定は日本がアメリカとの関係で、“より”対等な立場に立つことを意味したからである。もちろん、共産党は、実際に安保条約反対を掲げた以上、この“より”対等と言うことに文句をつけ、対等といっても「対米従属」という大きな枠組みは変わっていないではないか、むしろそれは実際には強化さえされ得るのであって、「対等」のためには民族民主革命が必要である、安保条約は単に改定されるのでなく、むしろその廃棄こそが必要である、と訴えたのである。
つまり、岸が「より対等」というのは、労働者人民を単にたぶらかすためだ、と言いはやすことによって、安保条約反対を言ったのであって、実際に、新安保条約が「より対等」なものであるなら、つまり共産党にとって改善と見えるなら、共産党は安保条約改定に反対し、闘う必要は全くなかったのである。
◆ブント・迷妄の「安保闘争」
岸の安保条約改定を、“帝国主義的自立”の策動であると結論し、「改定阻止」を叫ぶブントの立場は空虚であって、空文句以上を出ることはなかったのである。
ブントは岸の外交政策(安保条約改定等々)を、全体のブルジョア政治の中で位置づけようとせず――あるいはまちがって位置づけ――その政策を、それだけを「粉砕せよ!」と叫びたてた。
必要なことは、ブルジョアジーの政治の全体を、その外交政策を、それらの階級的な性格や意味を労働者の前で暴露し、それとの闘いを訴えることであった。
安保条約とその改定に反対し、その闘いを労働者の階級闘争の全体の中で位置づけることは、ブントのように、その粉砕や「安保改定阻止」を戦略目標もしくは自己目的として闘うということとは別であるし、またそうでなくてはならないのである。
このブルジョア世界では、諸国家の離合集散も、つまり諸国家相互間の外交も同盟も一つの必然として現われるのであって、そんなものを一々「粉砕」するとか、「阻止」するとか言ってみても、つまらない空文句にしかならない場合がいくらでもある。
例えば、戦前の(一九四〇年の)日独伊三国同盟を、「粉砕する」とか、「阻止する」とか言って悪いということもないが、しかしその現実の実現性や実際的条件も考慮せず、そんなことを呪文のように唱え、そのために労働者に決起を呼び掛けるとするなら、そんな“労働者政治”は一日で破産するしかないであろう(一九四〇年に、そんな政治を実行しようとしたら茶番にしかならなかっただろうし、そんなことを実践しようとした“革命党”は疑いもなくたちまち破産し、壊滅したであろう、ちょうどブントが一九六〇年、安保闘争後にそうした運命をたどったのと同様に)。
ブントは、安保闘争(安保改定阻止闘争)を呼び掛け、そのために大衆――労働者大衆ではなく、学生大衆――を動員したが、実際には、その政治は、共産党の政治やトロツキストの政治のレベルを一歩も超えなかったばかりか、むしろその補完をなし、共産党などが六〇年安保闘争後に勢力を拡大するのを、客観的には手助けしたとさえ言えるのである。
安保闘争の最中に(そしてその後にも)、労働者大衆の中に持ち込まれていたのは、社会党や共産党が振りまいていた、「安保条約は平和にとって危険なものだ、アメリカのやる戦争に日本も『引きずり込まれる』から」といった、浅薄で、“情緒的”で、卑俗な観念、必ずしも正しくない観念でしかなかった。
そしてブントの急進運動は、こうしたプチブル的な俗流観念を一掃するというより、客観的には、それが一層深く労働者大衆の中に浸透するのを助け、この観念を強化したとさえ言えたのであった。そうしたものは、社共を助け、あるいはプチブル市民主義や市民運動の台頭を助長することはあり得たとしても、労働者の階級的、革命的意識や闘いの深化や発展のためには、ほとんど意義を持たなかったのである。
実際、「安保改定阻止」というブントのスローガンは結局、闘いの中で、どこかにふっ飛んでしまった。そして安保闘争の最終局面では、「民主主義を守れ」という声がちまたに満ち満ち、ブントは政治的にもヘゲモニーを失って行った。ブントはくやしそうに、プチブル党やインテリたち、市民主義者たちによって闘いが捩じ曲げられ、ゆがめられ、無意味なものに、「民主主義擁護、平和擁護」等々にすり替えられ、おとしめられたと臍(ほぞ)をかみ、呪ったが、「時すでに遅く」、闘いの成果はプチブル党などにかすめとられたのであった。
しかし「安保改定阻止」という闘いの目的が決定的瞬間に脱落し、どこかにふっ飛んで行ったからといって、それをプチブル党やインテリや「大衆」のせいにすることはできない、というのは、このスローガンは労働者大衆をも全くとらえられなかったのだから、学生の急進主義たちの間でだけ辛うじて影響力を持ったにすぎなかったから、である。むしろ、ブントがこのスローガンに執着すればするほど、労働者とも、学生たちとも遊離し、孤立して行ったのである。
このスローガンは、岸の政治と闘う上で、その急所を突いたものと、ブントは自ら評価し、うぬぼれたが、しかしそれは本質的に観念的なものであって、「(尊皇)攘夷」のスローガンと同じような空文句にすぎなかったのである。
このスローガンを正当化するために持ち出された理屈は、現実的であるというより、無理をして“ひねりだされた”もの、現実から切り離されて頭の中で考え出された“理屈”(ドグマ)にすぎなかった。もし日本が“帝国主義的自立”に向かっており、それが日米安保条約の改定として出てきているというなら、労働者の闘いの課題は、帝国主義的ブルジョアジーとして登場しつつある日本の支配階級との全面的で決定的な、長期にわたる闘争として提起されるべきであって、「安保改定阻止」といった珍奇で、実践的に、袋小路に入り込む以外ないような形で提出されるべきではなかった。
いずれにせよ、「ブントは安保闘争にすべてをかける」(島成郎がしばしば口にした決まり文句)などという、極度に偏狭で浅薄な立場から、帝国主義的ブルジョアジーに対する闘いを提起するのがナンセンスなのは明らかであったが、しかしこうした極端な矮小さ、狭隘さこそブントの本性であった。
安保闘争に、安保改定阻止に「すべてをかける」などという珍妙なプチブル党派が、安保条約改定が実現するとともにたちまち破綻し、解体して行ったのは一つの必然でさえあった。
改定を仮に「阻止した」ところで、古い安保条約が残るだけであって、それが労働者にとってさえ利益であり、いいことである、などと誰も言うことはできなかっただろう。ただこのことだけでも、ブントの「戦略目標」は労働者を捕らえることはできなかった、というより、それ以前に、労働者はそんな奇妙な理屈を理解できなかったし、しようともしなかった。
そしてもし、安保条約改定が、「対米従属」を脱して、より“自主的な”ブルジョアジーとして登場しつつある――登場したいと希求する――日本の支配階級の志向の現われだとするなら(そして、ブントは共産党の「安保条約改定は対米従属を深め、恒久化する、それがこの改定策動の本質だ」といった見解に反対して、そのように評価したのだが)、それに「反対」し、その試みを「阻止」し、「粉砕」することに、客観的にみて、どんな意味があったというのであろうか。何もありはしなかったのである。まさか「改定を阻止」して、つまり旧安保条約体制の下で、アメリカの事実上「軍事占領」のような状態が続く中で、「平和と民主主義の日本」を享受しようと考えたのではなかろうが。
「安保改定阻止」というブントの政治的立場やスローガンは、ブントの階級的な本性と――したがってまた、その急進的な政治や学生の運動と――切り離しがたく結びついていたのであって、ブントの政治的な破産を避けられないものにし、「規定した」のである。そこには、ブントの本質が表現され、象徴されている。
「安保改定阻止」といったことが実際に空論であって、積極的な意味を持ちえないスローガンであったとするなら、ブントの目的はそこにはなく、「岸内閣打倒」こそ本当の目的であって、「安保改定阻止」はそのための方便のようなものであった、と言えないこともない(もちろん、このことはブントの多くの連中が、それ(「安保改定阻止」)を実際的、実践的スローガンと信じ込み、本気で「改定阻止」を考えていなかった、ということではない)。
これは言ってみれば、幕末の志士たちが、「徳川幕府打倒」をこそ第一義としつつも、「尊皇攘夷」をあおり、そのエネルギーを利用したのと同じようなものであったが、労働者の政治としては最低、最悪のものの一つであった、と言うべきであろう。
◆日米安保同盟の現状とブントの幻想
それでは、一九六〇年の日米安保条約改定は、ブントが主張したように、日本の資本の勢力の“帝国主義的自立”のためのもの、それに向けて決定的な一歩を踏み出すものだったのだろうか、それとも共産党が強調したように、「対米従属を強化し、日本を永遠にアメリカの『従属国』」に、つまり日本を「アメリカに従属した半ば植民地の地位」にしばりつけるものだったのだろうか。それが問題である!
それから五十年たった今、この問いに明確に答えることができるだろうし、また答えなくてはならない。
日本は「高度経済成長」や、その後の資本主義的生産の矛盾の深化の中で、確かにますます帝国主義的国家として登場して来ているが、しかし必ずしも「自立した」帝国主義的ブルジョアジーとして登場していないし、その実力もないことを暴露してしまっている。他方、アジアでは中国が日本を凌駕するようなブルジョア大国として――まさにアメリカに対しても“自立した”帝国主義国家として――台頭したし、ますますしつつある。インドや南米のブルジョア大国も出現しつつあるし、今やアフリカにおいてさえ資本主義的発展は加速しつつある。ブントの“公式的な”、青木流の(つまり優等生風の)現実評価や理解は矮小なもの、観念的なもの、空虚なものであったことが暴露されたのである(それなのに、今頃になって、青木昌彦は半世紀前の自分の“理論”がひどく優秀だったことを見出すのだ。まさに、小人は救いがたしだ)。
しかし共産党の観念もまた、愚劣な形而上学的なものでしかないことをさらけ出して破綻し、今では、共産党は日米の「道理のある」関係を求めて、アメリカの大資本の勢力と協調し、“いちゃつく”のに大わらわである(オバマ政権を美化し、持ち上げ、“親善の”ために日参するような堕落ぶりであって、対米独立路線、「真の独立」のためにアメリカ帝国主義を「打倒する」といった勇ましい路線はどこかに完全に棚上げされ、“忘れ去られて”いる。醜悪なことではないのか)。
歴史の教訓の語ることは、現実世界とその歴史的発展をより客観的に、より深刻に認識し、このブルジョア世界全体の前進し、展開していく方向と、そしてまたその矛盾を正しく、全面的に評価し、闘っていくことこそが決定的であり、労働者党派の闘いの前提である、ということである。
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