それは一体どこの国か
「危険な」国口実に
国家主義あおる
安倍等に言わせると、憲法改定の目的は自分で自分の国を守る実力と決意を持つ、“普通の”国になることである。
なぜ国を守る必要があるかといえば、世界は「危険な」国々に満ち満ちており、無防備の姿でおちおちとしていられないからである。日本が戦後「安全」だったのは、自分の力によってではなく、アメリカの保護のもとに自ら安んじて来たからにすぎない。
国家はそもそも自国を防衛する固有の権利があるといったことも強調されている。「戸締まり論」といった俗論もまことしやかに言われて来た。
安倍は要するに、世界には「危険な」国が山とあり、それに備えなくてはならないと言うのだ。
もっともらしい見解だが、本質的にごまかしである。労働者は、「外国は危険だ」というが、しかしそれは一体どこの国のことか、とブルジョアジーや反動派に聞いてやらなくてはならない。
「国家」そのもの、その存在そのものが「危険」だということなのか。とするなら、日本もまた国家なのだから、日本もまた「危険な」国である。
自国の防衛をわめいて、軍国主義国家になり上がっていくなら、日本もまた「危険」な国家にますます転化していく。何しろ、日本は「危険な」国家として、すでに前科を持っているのである。
一九四五年まで、日本はナチスドイツなどとともに、世界で最も「危険な」無法者の国家、天皇制軍部独裁のファシズム国家、帝国主義国家であった(その野蛮性、極悪さにおいて、現在の北朝鮮国家など足もとに及ばなかった)。
そして現在でさえ、かつての軍国主義国家を正義の国家であり、そのやったことは正当であったと公然と主張するような安倍が権力を握って、往年の国家再建を目指して策動を強めているような国家である。こうした今の日本国家もまた「危険で」ないわけがない。
だから、外国は「危険だから」「自衛」しなくてはならないといった理屈はごまかしと矛盾でしかない、というのは、日本国自身が、また他国にとって「危険な」存在だからである。
中国や韓国等々にとっては、日本国は「他国」であり、自衛隊は「他国」の軍隊でしかないのだ。安倍や反動どもが中国の軍事力は外国のだから「危険だ」というなら、中国の“愛国主義者”たちもまた、イージス艦までも保有する日本の自衛隊は「危険だ」と言いはやすことができるのであり、事実言いはやしている。
しかし、安倍内閣は、すべての国家が「危険」だというのではない、自国は自国にとって「危険」とはなりえないし、また自国と同盟する国家もまた同様である、世界の中には、「危険な」国と「危険ではない」国があると言うのだろうか。
確かにもっともらしい主張ではある。しかしいかにして、「危険な」国と、そうでない国を区別できるのか、その基準は何なのか。今同盟している国が、次の時期には対立する、敵対的な国にならないという保障は何もない。また現在「危険で」なく見える国家が、いくらでも「危険な」国家に早がわりするといったことは、歴史の中で常に見られることである。
とするなら、「危険な」国とそうでない国といった色分けもまたナンセンスであって、すべての階級国家は現実的に、そして潜在的に「危険」であり、その「危険な」国家の中にはまた自分の国家、つまり日本も入るのである。
だから、他国の「危険」を口実に、自国の「防衛」を強大化するのは根底から矛盾している。
アメリカは「自衛」のためと称して、イラクに侵攻したが、しかしそれは「自衛」ではなく、実際には武力による他国家の粉砕であり、事実上の「侵略」であったこと、つまりアメリカが世界でも最も「危険な」国家であることを証明したにすぎなかった。そしてこの犯罪行為や蛮行はいまだに何ら罰せられていないのだから、アメリカ国家の「危険性」は限度のないものとさえ言えるのだ。実際イラク国民にとって、アメリカほどに「危険な」国があるだろうか。
外国だけが危険であって、日本は危険ではないといった理屈は、国家そのものが危険だという論理とたちまちに矛盾してしまう。また、世の中には「危険な」国と「危険でない」国がある、という理屈も破綻する。
実際、「平和憲法」を有するという日本もまたますます「危険な」国に転化し、世界に対して「危険な」国として現われようとしているのを見ればいい。
要するに、反動どもが「外国は危険だ」から、あるいは「危険な」外国が存在するから、日本は強大な軍隊を持ち、防衛力を強めなくてはならないと絶叫するのには、どんな正当性もない、「ためにする議論」だということである。
外国が危険だというなら、軍国主義を鼓吹し、軍事大国になり上がろうとする安倍の「美しい」国もまた危険である。もし日本が「危険でない」というなら、それと同程度に、外国も(中国やロシア等々も)危険ではないのだ。アメリカは危険ではないが、中国は危険だといったことは簡単には言えないのである。
現在、北朝鮮がミサイルを打ち込んで来たらどうするのか、あるいは中国が日本を侵略してきたらどうするのか、と言った粗雑な感情論が幅を利かし、デマゴギー的煽動がまかり通っているが、しかしそれは現実的、実際的な議論では少しもないのである。
国際主義に揺るぎなく立脚する労働者は、外国が危険だという代わりに、どんな階級国家も危険であり、全世界の労働者の階級的闘いによって、一切の国家、資本の国家の「危険な」本性と闘うように呼びかけるのである。
『海つばめ』第1045号●2007年6月17日
改憲に執念燃やす安倍
「国民の自主憲法」幻想を
打ち破れ
国民投票法案が成立必至となり、自民党中心の政権が続く限り、今後数年間、憲法改定問題が政治闘争の最も中心的な環となることがはっきりした。
我々はこの問題に対する、労働者の立場を明らかにする。もちろんこの課題については、これまでもしばしば語ってきたのだが。
労働者の階級的な立場、したがってまた我々の立場は単純であり、明確である。我々は安倍内閣の憲法改定策動に断固として反対し、その粉砕を呼びかけるが、しかし共産党や社民党(社共)のように、決して現行憲法を美化することも擁護することもしないで、反対にそのブルジョア的、プチブル的本性を暴露する。
社共は現行憲法(軍隊を持たない国家を謳う)を「平和憲法」として美化するが、もちろん独占資本の支配のもとで、それが幻想であるのは、戦後日本の実際の歴史的過程からも明らかである。
日本は、まさにこの“平和憲法”のもとで、それを一つの支柱として独占資本の支配の強大化をかちとり、世界でも二、三を争う軍事大国になり上がって来たのである。核兵器を除けば、日本ほどの最新鋭で強力な軍隊を保持している国は多くない。
こんなにも強大で“近代化”した軍隊を持ちながら、日本が「平和国家」であるなどと信じている人がいるなら、彼らは白昼夢と幻想の中で遊んでいるにすぎない。
そして反動どもは今、過去の二つの憲法は「国民」の自由な意思によって作られたのではない、今後こそ、本当に国民の意思による憲法になるだろう、などとつまらない幻想を広げている。
我々は、こうした“国民的憲法”“初の自主憲法”といった幼稚な幻想とも断固として闘っていかなくはならない。
実際、安倍内閣が提起し、ヘゲモニーをもって行う憲法改定には、どんな「国民(労働者)の意思」もないし、あり得ない。それは安倍内閣の意思、つまり反動や独占資本の意思であって、労働者の「意思」とは全く別である。
そもそも、彼らは明治憲法もまた「国民の意思」ではない、また戦後憲法も「国民の意思」ではないと、どうして言えるのか。
明治憲法は薩長の藩閥専制政府のものであり、また現行憲法はアメリカが「押しつけた」ものだから、「国民が自ら決めた」、自主憲法ではない、と言うのである。
しかし明治憲法といえども、政府が作成、枢密院で可決されているのであり、そして当時にあっては、これらの機関ははたして「国民の代表」ではなかったのか。そもそも反動たちは、明治憲法を専制政府の勝手な作文だなどと言っていいのか、そんな形で、明治憲法を否定していいのか(諸君は、憲法改定によって、天皇制などを明治憲法の形、元首の形に戻したいのではないか、それなのに、明治憲法をくさし、いいかげんなものだ、などとその価値や有がた味をないがしろにしていいのか)。
そしてまた戦後憲法もまた「国民の意思」ではないと、どうして言えるのか。それもまた国会で、しかも満場一致で(つまり反動派も含めて)可決されている。アメリカの圧力によって、反動派諸君もやむなく賛成したとでも言いたいのか。もしそうだとするなら、諸君は臆病で、無節操な連中でしかないことを自ら証明する。
現行憲法が、当時にあっては、どの憲法案よりもまさっていると国民全体がおもったからこそ、それはすんなりと国民に受け入れられたのであって、例えば、当時の政府が提起したような憲法(基本的に、明治憲法の枠内にあった松本案などを見よ)であったなら、そんなものが国民からそっぽを向かれたことだけは確かであろう。軍国主義を否定し、大きな変革を含んでいた憲法だったからこそ、それは国民の歓迎するものとなったのである。
十数年の無意味で反動的な帝国主義戦争に疲れはて、その犠牲と負担に耐えきれなくなっていた「国民」の圧倒的な多数が、“平和と民主主義”を謳った新憲法を圧倒的に支持したのであって(つまりそうした装いを凝らした資本の支配を「押しつけられた」とも言える)、そこには明白な「国民の意思」があったのである。
安倍内閣が国会の反動議員たちに支持されて改定しようとする憲法には、「国民の意思」といったものは全く存在しない、あるいはその「国民の意思」とは反動たちや反動化するブルジョアやプチブルの卑しい「意思」、民族主義的エゴイズム等々であるにすぎない。
もちろん、反動たちもいっぺんに、裸の軍国主義を押し出して、憲法改定が可能になるとは思っていない。
そこで彼らはごまかし、迂回し、あれこれのつまらない術策にふけり、その中で軍国主義国家にまでたどりつこうと策動を繰り返すのである。
例えば、彼らは憲法には「環境権」や「プライバシー権」など「時代に適応した規定がない」などと、もったいぶった理屈を持ち出し、プチブルや遅れた労働者を取り込もうとするのである。
しかし、現行憲法は国民の「権利」ばかり謳っている、それが国家を堕落させたと言いはやしている連中が、「環境権」や「プライバシー権」などを持ち出すこと自体、自己矛盾も甚だしい。
労働者は安倍の憲法改定策動に反対して闘いぬくが、それは現行憲法を絶対化し、それを擁護するためではなく、安倍の憲法改定が軍国主義日本を作り上げるための策動の中心環だからであり、ブルジョア憲法の軍国主義憲法への転化を策するものだからである。
労働者は資本の支配の転覆を目指す社会主義的闘争の一貫として、安倍の憲法改定策動と闘うのであって、この闘いを社会主義を目指す階級的闘いと結合し、それに従属させるのである。
『海つばめ』第1042号●2007年5月6日
労働者は改憲策動と
いかに闘うか
安倍は自らの “歴史的な”使命として憲法改定を企んでおり、それといかに闘うかが、労働者階級に問われている。
まず確認されるべきは、憲法によって政治的、経済的体制が“決定される”のではなく、反対に、憲法はむしろその表現であり、経済的過程と階級闘争、政治闘争の結果でさえある、ということである。
ファシズム的憲法はファシズムが勝利した結果であり、その体制の表現であって、ファシズム憲法によってファシズム体制が作られたのではない。それと同様に、日本の戦後憲法もまた日本資本主義の戦後の客観的なあり様によって規定されてきたのであって、憲法があったから、“民主主義”、“平和主義”の日本があったわけではない(「憲法」なるものを絶対化する、観念的なプチブル共産党や自由主義者は、しばしば反対に理解する)。そして、仮りに憲法が現実の政治過程、階級闘争に影響を及ぼすとしても、従属的、副次的な形においてにすぎない。
とするなら、安倍が憲法改定に執念を燃やすのはなぜであろうか。実際、彼らは現行憲法のもとで、立派に強大な軍隊を作り上げ、すでに保有しているのであり、あるいは好き勝手にアメリカと事実上の軍事同盟を結び、あまつさえ海外にいくらでも軍隊を派遣しているのである。彼らの政治にとって、現行憲法は本質的なところで、少しも桎梏にはなっていないのである。
彼が現行憲法によって戦後日本の頬廃や堕落がもたらされたと妄想する、もう一方の観念論者であることを別とするなら、安倍は、憲法改定策動によって、「来たるべき日」に備えて、反動的、反革命的勢力の総結集を図り、その戦線を強大化しようとするのである。安倍が明確に意識するとしないとにかかわらず、反動勢力にとっての憲法改定策動の意義はここにある。単に憲法に、日本は軍隊を持つと記し、愛国主義を謳うといったところにあるのではない。
そして労働者にとってもまた、憲法闘争の意義は単に、それを阻止するか、しないとかといったところにはないのである。現行憲法が残ったところで、それがブルジョア憲法であり、資本の支配を――その反動的な支配さえも――妨げないことは、すでに経験済みである。
資本の勢力、反動どもが、憲法改定策動によって、自らの勢力を再編し、再結集しようと企むなら、自覚した労働者もまた、この策動を粉砕する断固たる闘いを通して、自分たちの本当の階級的団結、資本の支配そのものに反対する闘いの決意と団結を深め、勝ち取って行かなくてはならない。プチブルや自由主義者の一切の“憲法”幻想と手を切り、それを労働運動の中から一掃し、資本の支配を粉砕する政治的、組織的な闘いを、社会主義的闘いを作り出して行かなくてはならないのである。
マルクス主義同志会理論誌『プロメテウス』巻頭言●2007年4月
いよいよ“本戦”へ
国民投票法案成立見通し
国民投票法案が今国会で成立する。
安倍が執念を燃やし、自らの長期政権の維持を賭けた法案である。安倍はこの法案の成立によって、三年後には、憲法改定のために実際に策動できることになる。政権への結集力、求心力を維持し、安倍が望んでやまない“長期政権”が可能になるのである。憲法改定を叫んでいれば、誰も安倍を政権から追放できないし、国民もまた自民党を少数党におとしめることもできないというのが、安倍と自民党の思惑である。
しかし国民投票法案は一つの必然である。憲法改定を実際的に問題にするなら、そのやり方を定めなくては一歩も前に進めないからである。一般的に、憲法を変えなくていい、変えるべきではないという立場に立たない以上、国民投票法案は避けられない、そして資本の支配が続くかぎり、憲法改定問題が一つの歴史的、現実的な課題として登場して来る可能性を、誰も否定できないだろう。
労働者にとっても、現行の憲法は、ブルジョア的憲法としてもいくらでも修正されるべき内容を含んでいる。そのことは、例えば、天皇制条項一つ取り上げるだけでも明らかであろう。労働者は無条件で、天皇制条項を憲法から一掃することに賛成である。
労働者は決して国民投票法案を恐れないし、恐れることはないし、またそれが成立したからといって、それを憲法改定の実現と同一視する必要もない。そもそもそんな観念的で幼稚な立場は現実の政治的過程によって、たちまち破綻をさらけ出すしかないのである。
しかし自由主義者ならまだしも、社民党も共産党は、なぜ、国民投票法案の成立を“恐れ”、それに反対するのであろうか。
それは、社共(我々は、これを社会党と共産党というかつての意味ではなく、社民党と共産党という意味で用いるのだが)は、現行憲法(ブルジョア憲法)を絶対化し、その修正をどんなことがあっても許さないと考えていて、そのどんな可能性、わずかな可能性さえもなくしておこう――そうすることができる、いや、そうしなくてはならない――と妄想するからである。
しかし彼らは、今回の国民投票法案に反対するのであって、公平で“中立的な”国民投票法案なら決して反対しないと言うかもしれない。
しかしそれなら、彼らはそうした法案を提出して争うべきであろう、というのは、彼らは常日頃から「対案を出して闘う」と強調しているからである。だが、彼らは決してここで「対案」を出さないのであり、かくしてその立場の観念性、非実践性を自ら暴露するのである。
自民党や政府が出す国民投票法案などが、彼らに有利であり、憲法改定がやりやすいようになるのは当然であるが、それを恐れるどんな理由もない。
というのは、社共が例えば、天皇制廃止の憲法改定を提案する場合、それは社共に有利に働くだろうからである。それとも、社共は、こうした憲法改定もやる気はない、現行のままで、どんな変更も必要ないとでも言うのか。
もし社共が憲法改定をしようするときには、この規定は、社共にとって極めて有害な規定となる。それとも、社共は自ら決して憲法改定を提起することはない、とでも言うのであろうか。そうだとするなら、奇妙なことになる、というのは、現行憲法のブルジョア的、プチブル的性格は余りに明らかだからである。社共は、憲法改定論議においても、その階級的本性をいかんなく暴露している。
社共は、国会議員の三分の二の賛成で、憲法改定を国民に提案できるが、仮にそうなった場合、結局、賛成党や政府が改憲案を国民に説明し、情宣する役割を担うことになる恐れがある、あるいは、カネがある政党や勢力のみがマスコミを独占し、それを通じて宣伝できることになる、と国民投票法案を非難する。
また、公務員の地位利用を許さないということで、国民の権利を制限している(例えば、教員の憲法改定反対の活動は、行政罰の対象になる)、また授業で現行憲法を擁護して発言しても罪を問われかねない、とも抗議する。
白紙を無効票として扱うのも問題であって、それも入れて、過半数の賛成によって改憲案の成立とすべきである、ただ有効票のみの過半数というなら、白票の意義が否定される、という批判もある。
要するに、政府自民党の国民投票法案は、憲法改定を目指す政府自民党に有利なように決められているというのである。
しかしもちろん、ブルジョア的民主主義の枠内の話であって、国民投票法案が根底から非民主主義的だということにはならない。要するに、社共は、政府自民党との政治闘争に恐怖し、それを回避することを考えるのである。そのために、政治闘争(憲法改定の闘争)を事前になくそうとするのだが、これは果たして超日和見主義でなくて何であろうか。
要するに、社共は憲法改定ができるだけやりにくくしておくべきだ、というのである。
しかしなぜ、やりにくいのがいいのか、ブルジョア憲法など、改定する、あるいは廃棄する場合に、それがよりやりやすい方が、労働者にとって有利であるのは自明のことではないのか。反動が好きなように変えるから危険だというのだろうが、単なる敗北主義以外の何ものでもない。要するに、今の資本主義がいい、別の形の資本主義は不安だ、恐ろしいと言っているにすぎない。資本主義の一掃にむけて、歴史の未来に向けて闘うことを放棄しているということを、自ら白状しているに等しいのである。
それに、政府自民党が提案しているような憲法改定案は本質的に日和見的なものであって、現行憲法の根底を、つまり現在の日本の政治体制を根底から否定するものではないし、また安倍や中川らの矮小な連中がそんな“過激な”ものを提出する決意や信念を持っているわけではない。
彼らはただ憲法改定を言っていれば、今後数年の長期政権を続けることができると打算しているだけであって、憲法改定の内容などは二の次、三の次にすぎない。
憲法戦役は始まった。それが実際的な戦役になるのか、これまでのようなアドバルーン合戦の段階に留まるのかは、まだはっきりしていない。“改憲”に賛成する勢力が、両院で三分の二を占めるのはいずれにせよ容易なことではない。また、仮に三分の二を占めるとしても、その全体を納得させる改憲が、はたして実際的に改憲の名に値するものになるかどうかも疑問である。
安倍の改憲策動に対する労働者の立場は、我々にとってはすでに明らかである。労働者は安倍の改憲策動に対して最後まで、一貫して闘いぬくであろう、しかし労働者は決して現行憲法を擁護せず、反対に、そのブルジョア的、プチブル的本性を暴露するであろう。
『海つばめ』第1041号●2007年4月22日
安倍の「美しい国」幻想
憲法改定にかける野望
一月中旬の自民党大会で、安倍は「立党の精神に立ち返って憲法改正に取り組む」と大上段で語った。参院選挙でもこれを争点に闘うと公言し、また通常国会でも、憲法改定の前提になる国民投票法案の成立に全力をあげる決意も明らかにした。
安倍は、憲法を「国の骨格、国の形を示すもの」と規定し、今の憲法はアメリカの押しつけによるものであって、本来の憲法ではない、というのである。実際、安倍は憲法もまた「美しい国」にふさわしいものにしなくてはならない、あるいはむしろ、反対に憲法改定によって「美しい国」が作られるのだと妄想するのである。
しかし安倍の言う「美しい国」といったものは、客観的基準を持たない、安倍の一人良がりではないのか。「美しい」といった基準は主観的、情緒的なものであり、個々人によってさえその内容が異なるのである。そんな基準で、どんな国家も、その「骨格」も形成することができないことほどにはっきりしていることはない。
例えば、敗戦までの軍部やブルジョアたちにとっては、天皇絶対化や国家主義、愛国主義で染めあげられた日本こそが「美しい国」に思われたが、しかし何千万の労働者人民にとっては、そんな国家は、美しいどころかむしろ醜悪な国家であり、単に忌まわしいもの、災厄のもとでしかなかったのである。
安倍は一体どんな国家を指して、「美しい国」と呼ぶのだろうか、天皇制軍部らが持ち上げていたような、敗戦までのあの反動国家、帝国主義国家のことであろうか。それが問題である!
反動どもは、日本の“国家像”について、これまでありとあらゆる観念を持ち出してきた。アメリカの「めかけ」の国家だと悪罵されたこともあれば、「普通の国」あるいは「一人前の国」にせよといったことが言われたときもあった。最近では「品格のある国」といったことが、“品格”などとは全く縁のない連中によって言われたし、平沼は「まっとうな国」といった、もっともらしいが、具体的には無内容な観念を持ち出した。そして最後に安倍が現われて、「美しい国」を作るとのたまい、そのために憲法を変えなくてはならないと大見栄を切るのである。
しかし愛国主義や軍国主義が――さらには「つくる会」的な一人良がりのナルシシズム史観、“自愛”史観が――はびこり、横行するような国が「美しい国」だとは、安倍の審美眼もしくは美的感覚は全くナンセンスであり、粗野で「品格」がないと言うしかない。
安倍にとって、こうした国家がどんなに「美しく」見えようとも、客観的には、それは醜悪な国家でしかない、つまり国内では労働者人民を、その自由や権利や生活を容赦なく抑圧し、権力手段で弾圧する凶悪な国家であり、対外的には利己的で、帝国主義的な国家、世界中の嫌われものの国家――戦前の一九三〇年代、四〇年代の前半にそうであったような――でしかないからである。
ブルジョアや反動たちが、美辞麗句をつらねて自分たちの国家について語り始めるときには、労働者は大いに警戒しなくてはならない、というのは、それは彼らが反動化して、国家をますます軍国主義的、専制主義的なものに変え、強権主義的に動かそうと決意したということだからであり、そのために変質していく国家を“美しい”(しかし空虚な)言葉でもって飾り立てる必要性が高まったということだからである。
安倍らは、日本の国家がますます醜く反動的な国家に転落して行けば行くほど、「美しい国」についておしゃべりするし、しなくてはならないのである。
彼らは国家を「再建する」ことなくしては、そしてまた国家に対する国民的幻想を作り出し、そうした幻想に国民を動員することなくしては、自らの支配が足もとから動揺し、崩れ去っていくと感じるのである。彼ら自身が、空虚な「国家」幻想にすがりつく以外に、どんな思想的、精神的な支えもすでにないのである。
幸いなことに安倍政権は、公明党ばかりか、民主党といった応援政党にも事欠かないのである。それに、小泉の無責任な政治の結果、自民党は衆議院では過半数にも達する多数派を形成している。こんな絶好の機会をのがすことはできないのである。
実際、民主党は国民投票法案では、自民党に賛成し、追随する立場を決めようとしている。
民主党がそうするのは、参院選挙で憲法改定を争点にしたくないからだ、というのだからお笑いである。この党は、憲法改定の議論を避けるために、事実上、憲法改定策動に協力する、というのだから、その愚劣さと矛盾ぶりにはただあきれるしかない。
この半自民党政党は、自民党政治(露骨なブルジョア政治)に屈服し、追随すればするほど、それを隠すべく、参院選挙での憲法議論を恐れるのだが、こんな日和見主義政党が、参院選挙で自民党をいくらかでも追いつめ、勝利するなど決してあり得ないのである。
自民党は腐り切っており、労働者なら誰でも、その権力は即時、打倒されるべきだと考えている、しかしそれに反対し、とって代わる政党もまたないのであり、かくして安倍政権はホッと胸を撫で降ろすことができるのである。ひどい話ではないか。
罪はすべて野党に、民主党や共産党や社民党等々にある、つまりこれらの党の政治が自民党政治と代わらない、腐った反動的なブルジョア政治であるか、せいぜいよくて空虚なプチブル政治にすぎないところにある。
労働者の代表か国会にも進出し、その真実の声を響き渡らせる時である。今やブルジョア政治の反動化の中で、その意義と必要性はますます大きくなっている。
『海つばめ』第1035号●2007年1月28日
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