レーニンの伝記 1、兄アレクサンドロフの処刑
2、ロシアの二つのプロレタリア党
3、ロシアの革命戦略についての見とおしと現実
4、帝国主義戦争と「流れに抗して」
5、ロシア革命の勝利とレー二ン
6、革命勝利後のレーニン的政策の意義
7、レーニンの人間像




兄アレクサンドロフの
処刑

 ウラディミ−ル・イリイチ・レーニンは、1870年4月10日に、ヴォルガ河畔のシンピルスク市(現在のウリャノフスク市)に生まれ、1924年1月21日に、その偉大な革命家としての生涯をとじた。レーニンの父は国民学校の校長、母は医師の娘で、教養あるめぐまれた家庭であった。彼ははやくから革命運動に関係し、死ぬまで三十数年にわたって、はじめはロシアの、のちには全世界の労働者人民に革命をよびかけ、革命のために生涯をかけ、革命のためにだけ生きたような人間であった。
 レーニンは、なぜ、いかにして革命家になったのであろうか。ロシアには、すでに19世紀のはじめ以来、ツァーリズム体制に対する革命運動が存在していた。19世紀の中ごろから後半にかけて、ナロードニキ系の革命的民主主義的運動が、インテリゲンチャに大きな影響力をもっていた。こうしたロシアの革命運動の伝統から、レーニンが直接間接に大きな影響をうけたことは、容易に察せられる。レーニンの家庭そのものが自由主義的で、教養豊かな両親は、子供たちを思慮深い、思想性を備えた誠実な人間に育てるように心がけたといわれる。こうした環境にあって、レーニンは若くから、革命的民主主義的文学に自然に親しむことができ、すでに14、5歳の頃、チェルヌイシェフスキーの「何をなすべきか?」を読んで強い印象をうけた。レーニンの家庭では、誰にも妨げられることなく、当時の「発禁書」であったドブロリューボフやピーサレフ――これらの革命的民主主義者にたいする評価や引用は、レーニンの著作のなかにしばしばあらわれる――を読むことができたのである。この家庭の自由主義的な雰囲気と、そのなかでロシアの革命運動の伝統にふれることができたということが、少年期のレーニンの性格を形成するうえで、決定的な役割をはたしたことは明らかである。
1919年3月モスクワ

 しかしレーニンが、革命家になる決意をはつきり固めたのは、兄アレクサンドロフが、ナロードニキ組織の一メンバーとして皇帝アレクサンドル三世暗殺計画に参加し、それが発覚して死刑に処せられる事件がおこってからである。ある観察者は、兄の死刑の報をうけたレーニンについて、「すでに昨日までのじっとしていない、生の喜びにあふれた子供ではなく、重大問題に対して深く考えこむ大人だった」と回想している。16歳という一番感じやすい思春期の年令で、こうした大事件に直面したレーニンが、心のなかでひそかに、何らかの決意を固めたと想像するのは全く道理にかなっている。兄は、逮捕から一年のちに、有名なシェリッセルブルグ要塞監獄で死刑に処せられるが、これはどんなにレーニンの小さな胸をかきむしり、無念、いらだたしさ、反省、決意を生み出したかは察するに難くない。もちろんそれは、ツァーリズムに対する単なる復讐心ではない。レーニンが自分の決意を復讐心に還元するには、すでに彼の思想や教養はあまりに深すぎた。彼はツァーリズムとの闘いを、単なる個人的な動機からではなくて、一定の歴史観から基礎づけるための思想的基盤をもっていた。このことを、事情によく通じていたクルブスカヤは、次のように説明している。 「兄は革命家にはなれないだろう、革命家が環虫類の研究にあんなに時間をつぶせるはずがない、と私はその頃考えたとイリイチは話していた。まもなく、彼の考えがまちがっていたことかわかった。
 兄の運命は、疑いもなく、イリイチに大きな影響をあたえた。イリイチが、この頃すでにいろいろのことについて“独自の考え”をもち、革命的闘争の必要なことを心に決していたことが、このとき大きな役割を演じた。
 もしそうでなかったら、兄の運命は、彼を深い悲しみにおとし入れるにすぎなかったか、うまくいっても、兄の歩いた道を進もうとする決心をかため、その方向に進ませるのがせいぜいだったろう。ところが当時の状態では、兄の運命は、彼の思索活動を先鋭化し、なみなみならぬ冷静さ、真理を見つめる能力をつくりだし、一瞬といえども、美辞麗句や幻影に迷わされることなく、あらゆる問題をもっとも公平にとりあつかう態度をつくりあげた」。
 レーニンは、兄の死から大きな衝撃をうけたが、しかし、兄のやり方に追随し、それを踏襲するつもりはなかった。反対に、彼は、兄のやり方――個人的テロリズム――ではダメなんだということを学んだのである。
 もっとも、レーニンが明確なマルクス主義的歴史観を自分のものとし、それにもとづいて実践活動を開始するのは、1888年ごろ、カザンに移って、プレハーノフのナロードニキに反対する著作「われわれの意見の不一致」などを研究するようになってからであろう。レーニンが、そのマルクス主義的革命家としての生涯をふみ出すにあたって、どれほど強くプレハーノフの影響をうけたかは、プレハーノフの著作とレーニンの初期の著作(例えば「人民の友とは何か」)を比べてみれば、一目瞭然である。ロシア・マルクス主義の父としてのプレハーノフに対するレーニンの当時の尊敬は、あたかも恋人に対するが如き熱烈な深い慕情であったことを、レーニンは未発表の覚え書で告白している。
レーニンが中学生のとき(1887年シンビルスク)
レーニンが中学生のとき
(1887年シンビルスク)
 トロツキーもそうであったが、ロシアのこの時代の革命家たちは、革命家としての生涯をナロードニキ派としてはじめた人が多かった。従ってマルクス主義の立場に立つ人々は、ナロードニキの伝統の魅惑的な印象にとらわれ、その立場にとどまろうとした人々との闘争を経なければならなかった。レーニンはもっともはやく、もっとも徹底的に、もっとも意識的に、ナロードニキ主義と訣別し、これを批判した革命家の一人であった。この点で、最後まで、一ナロードニキ的、ロマン主義的傾向を脱け出ることができなかったトロツキーと好対照をなしている。
 10代のおわり頃のレーニンは、サークルや研究会で、マルクス主義理論を理解し、自分のものにするために、熱心に学習している。20歳ごろには、すでに彼はマルクス主義の学説を誰よりも深く理解しており、労働者にそれを紹介したり、確信をもって説得したりすることができたそうである。すでにこの当時から、レーニンの言葉は信念にみちており、たとえ説得できなくても、強い感銘を与え、感服させずにはおかなかったといわれる。皮相で無思想な急進的「革命家」が氾濫している現在、レーニンが青少年時代に、真剣に学び、研究したことを、反省してみることが必要ではないだろうか。マルクス主義思想も革命理論も知らないでは、一生革命のために闘うことはできないし、またそのための信念をくみ出すこともできないであろう。
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ロシアの
二つのプロレタリア党

 レーニンは、1887年に学生運動で逮捕されて学校を追われ、大学への門をとざされた。それ以来、彼は常に「独学」でもって学んだ。彼は、カザンやサマラの数年間の生活を経て、1893年の夏、ロシアの政治上の中心地ペテルスブルグへやって来た。このころまでに、彼は立派なマルクス主義者になっており、当時ロシア革命運動の主流だったナロードニキ理論に対する批判的立場を確立していた。ペテルスブルグでは、労働者階級の大衆闘争が、ロシアの歴史上はじめてもえひろがろうとしていた。レーニンは、労働者階級の若々しいストライキ闘争に参加し、労働運動とふれ合い、それを経験した。クルプスカヤは、レーニンがペテルスブルグで、労働者の大衆闘争を経験した意義を次のように書いている。
プロレタリア解放のための闘争連盟要員の間のレーニン(1897年)
プロレタリア解放のための闘争連盟要員の間の
レーニン(1897年)
 「イリイチには、プロレタリアートの階級本能にたいする、プロレタリアートの創造力にたいする、プロレタリアートの歴史的使命にたいする深い信頼があった。イリイチのこの信頼は、突然生まれたものではなく、彼がマルクスの階級闘争理論を研究し、深く考えていた時代、彼がロシアの現実を研究していた時代、彼が古い革命家の世界観にたいする闘争において、個々の闘士のヒロイズムにたいして階級闘争のカとヒロイズムを対置させることを学んだ時代に、生まれたものである。これは、未知の力にたいする盲目的な信仰ではなく、プロレタリアートの力にたいする、勤労者の解放事業におけるプロレタリアートの巨大な役割にたいする深い信念であり、事実の深い認識と現実の忠実な研究に基づく信念であった。ペテルスプルグのプロレタリアートの中での活動は、労働者階級の力にたいする信頼に生きた形象をあたえた」。
 レーニンは、1895年3月、「労働者階級解放闘争同盟」を組織して革命的宣伝活動を行なったカドで、ツァーリズムの官憲に逮捕された。これがレーニンの長い獄中生活、流刑生活、亡命生活のはじまりであった。レーニンは、結局、獄中に約一年、シベリアの流刑地に約三年いることになる。この間、彼はロシアにおける資本主義の発展を分析して、ロシアには資本主義は成長しない、いやさせてはならないというおセンチな感傷にふけっていたナロードニキを粉砕する大著を書いた。
 また、この流刑中に、彼はロシアの革命運動の計画をたて、構想をねった。当時ロシアには経済主義者、組合主義者が成長しつつあったが、彼らは国際的な日和見主義の潮流と結びついていた。レーニンは、ヨーロッパにのがれてから、彼らの危険性、反動性を暴露し、彼らへの批判と革命運動の展望を結びつけた「何をなすべきか?」を書いた。この本のなかで、レーニンは、革命のために実際に闘う戦士で構成される強固な革命政党、全国的な政治暴露と党的共産主義的実践、闘争における意識的要素などを擁護し、強調した。
機関紙「イスクラ」第1号
機関紙「イスクラ」第1号
 流刑期間が終ると、レーニンは国内では、いくらかでも持続的な革命的宣伝、煽動、組織化の活動が不可能なのを理解していたので、外国へ亡命し、外国から革命運動を指導しようとした。彼は外国へのがれ、プレハーノフらと協力して革命的政治新聞「イスクラ」を発行した。革命運動がまだ混沌としていたこの時代に、ロシアの革命家を団結させ、結集し、革命運動の基礎をきずく上で、この「イスクラ」(旧「イスクラ」)のはたした役割は大きかった。
 1903年には第二回党大会がひらかれ、単一のロシア社会民主労働党を生み出すはずであったが、現実には二つの分派、ボリシェヴィキとメンシェヴィキを生み出した。この分裂は、党員の資格を定める規約第一条についての、一見些細な問題から生じた。レーニンは、はっきりと党の組織に入って活動する人を党員とすべしと要求したのに対し、マルトフは、党の組織的な活動に参加しなくても、ただ党を支持し、物質的援助を行なうだけで、党員の資格を与えてもいいと主張した。レーニンは革命家だけの強固な組織を考えていたのに対し、マルトフはインテリむきのルーズな組織を予定していた。レーニンはロシアの党が、あのヨーロッパ諸国の党のように、革命的翼と日和見主義的翼が仲よく同居し、党内で日和見主義的、小ブルジョア的傾向がますますさかんになって行き、革命的翼はそれと徹底的に闘うことができない、というような状態を招来すべきではないと信じていた。レーニンは、労働者の意識的分子だけを結集すべきだと考えた。これに対してマルトフらは、党は広範な大衆の上に基礎をおくべきだという理由で、党の門戸を広く開放せよと要求した。こうしてマルトフの案は、動揺的な分子をも広く党内に導き入れ、党を純粋にプロレタリア的なものから、小ブルジョア的要素のまざった混合物に堕落させることを意味した。マルトフの案にそって進めば、党は無定形な、あいまいな、動揺的なものに変質するであろう(ヨーロッパの党がちょうどそうであったように)これがレーニンの確信であった。レーニンは、マルトフらと妥協することができなかった。レーニンは対立が原則的なちがいにもとづいていると信じたときには、この対立を徹底的に先鋭化した。彼は、妥協や政治的かけひきを信用しなかった。革命の利益を至上法則とすることから生まれてくるレーニンの非妥協性、頑固さ、強情、今までの「イスクラ」派の同志を批判する苛責のなさ。これが、自由主義的個人主義的性格の持ち主であったメンシェヴィキ派やトロツキーをひどく反発させたのであった。
 レーニンが第二インターの指導者のカウツキーらを正面きって批判しはじめるのは、1914年に第一次大戦が勃発して、彼らが直接間接にブルジョアジーの帝国主義戦争を支持するようになってからである。しかしすでにレーニンは、1903年のこのときから、“実質的”には第二インタナショナルの日和見主義者にたいする闘いを開始しているのである。レーニンは、どんなことがあっても、ロシアの党をヨーロッパの弟のようなあいまいで動揺的なものにしてはならないと考え、そのような小ブルジョア的党を形成することになるメンシェヴィキやトロツキーと非妥協的に闘った。レーニンがあまりに非妥協的であったため、マルトフやトロツキーは、レーニンが「党内に戒厳状態を」おしつけようとしているとか、個人独裁をめざしているとか、ジャコバンのロベスピエールであるとか非難した。レ−ニン派は「偏狭のヨロイ」を着ており、セクト主義であると攻撃された。問題はレーニンの「狂暴」や野心や悪い性格にある、というわけだ。トロツキーはここでは、メンシェヴィキ派のもっとも先鋭なイデオローグとして、レーニンの独裁主義や野心を口ぎたなくののしった。
 第二回大会で生まれた二つの派の対立は、単に党規約における対立だけではなくて、革命運動全体の問題における対立であることがますますはっきりし、二つの潮流は事実上二つの党として形成されていった。
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ロシアの
革命戦略についての
見とおしと現実

 1905年の革命は、「革命の総稽古」となり、1917年の革命の成功を保証した。1905年の革命では、ツァーリズムに反対してすべての階級――労働者階級はいわずもがな、農民、自由主義的ブルジョアジー(彼らはカデットという政党に結集していた)、あらゆる種類の知識人(社会事業家、大学教授、著述家、弁護士、科学者、学生など)、などのすべて社会主義的、民主主義的勢力――があらわれた。自由主義的ブルジョアジーが革命運動の同盟者としてあらわれた――特に労働者階級の革命的闘争が開始される1905年の秋以前には――ので、この勢力をどう評価するのか、また来るべきロシア革命の性格をどう考えるのかという問題が、社会民主主義者のあいだの大論争となった。
 メンシェヴィキは自由主義的ブルジョアジーと統一戦線を結ぶべしとした。彼らは、ブルジョアジーをあまり革命的な言葉でおびやかしたら、彼らが革命戦線から脱落して、革命戦線の統一がくずれ、弱体化すると、丁度現在の共産党の「統一戦線戦術」のような理論を展開した。これに対してポリシェヴィキは、ブルジョアジーが臆病で、半分ツァーリズムにくっついているのだから、労働運動が彼らに追随したら労働運動まで中途半端なものになる、ブルジョアジーが動揺的裏切り的性格を持つ以上、彼らとの「統一戦線」はありえても一時的なものである、労働者階級は自由主義派との統一戦線で手をしばられるべきではないと強調した。メンシェヴィキの政策は、結局、労働運動を自由主義的ブルジョアジーの“しっぽ”にし、その改良主義的政策の補助者の役割に堕落させるものであった。
 さらに、来るべき革命の性格いかんについては、レーニンは、労働運動のブルジョア自由主義者からの自立をときながらも、“社会的”内容から革命はブルジョア民主主義革命であるとし、確立される権力はプロレタリアートの“社会主義的”独裁ではなくて、「労働者・農民の“民主主義的”独裁」であるとした。レーニンの綱領は、当時メンシェヴィキであったプレハーノフが言ったように、「ブルジョアジーの“いない”ブルジョア革命」であった。メンシェヴィキらは、このレーニンの戦略を自己矛盾としてしりぞけ、「ブルジョアジーのいる、もしくは指導する、ブルジョア革命を想定したわけである。
 トロツキーは、ポリシェヴィキにも、メンシェヴィキにも反対であった。彼はそもそも来るべきロシア革命をブルジョア民主主義革命と規定することからして気に入らなかった。彼は、来るべき革命は、プロレタリアートを権力におしあげるであろうという論拠から出発した。トロツキーの見解は、直接社会主義革命をといているかのようであり、古いナロードニキ思想や社会革命党の空想の再現であるかのようであった。しかしロシアには、社会主義の物質的条件は存在しない。トロツキーの「プロレタリア革命論」は重大なる自己矛盾に逢着せざるをえない。
共産主義インタナショナル第二回大会開催のための国際会議で演説するレーニン
共産主義インタナショナル第二回大会開催のための
国際会議で演説するレーニン
 社会主義の歴史的条件のないロシアでプロレタリアートが、権力についた場合どうなるのか。トロツキーは、この権力は結局、農民と「反目衝突」して崩壊せざるをえない、ヨーロッパの社会主義プロレタリアートが援助にかけつけなければ救いはない、とこたえている。こうした形で、トロツキーもまた、ロシアではプロレタリア社会主義革命の条件がまだないことを認めたのであった。それにもかかわらず、彼は、ヨーロッパのプロレタリアートの社会主義的援助を想定することにより、ロシアのプロレタリア社会主義的革命を空想したのであった。彼は、かくして、勝利したロシアのプロレタリアートが、ブルジョア的な任務から社会主義的な任務に「永続的に」進むことを訴えた。
 しかしレーニンからみれば、トロツキーの主張は社会革命党(エス・エル)――彼らはナロードニキの伝統をうけついで、“即時”社会主義革命を主張していた――と本質的に同じ「準無政府的」なものであった。マルクス主義の唯物史観に忠実であろうとすればするほど、ロシアの来るべき革命の社会的性格は、ブルジョア的課題を解決する革命であることは確実に思われた。レーニンはもちろん、この革命がブルジョア自由主義者によってではなく、労働者・農民によって達成されると信じており、従ってメンシェヴィキには反対であった。しかし他方では、エス・エル=トロツキーの「極左」的空論にも賛成することはできなかった。もちろん、このレーニンの立場は、俗物的な「中間の道」などというものではない。それは、マルクス主義とロシアの現実の条件に忠実であろうとして生み出された結論であった。レーニンの定式の中に矛盾があるとすれば――そしてその矛盾はメンシェヴィキやトロツキーが指摘していたようにはっきり存在していたが――それは単にレーニンの定式の矛盾というよりも、ロシアのプロレタリア革命運動のおかれていた立場の矛盾、現実の矛盾といった方がはるかに適切であったろう。社会主義革命の客観的条件を欠く国において、革命的労働運動の独立性を断固として保持しつつ、労働者の階級闘争を徹底的に最後までおしすすめるという立場は、それ自身矛盾を含んでいる。革命の高揚期の一時期をのぞけば、ブルジョアジーなきブルジョア革命も矛盾であろう。レーニンはこの矛盾の解決を、歴史の将来に託したかのようである。彼は「二つの戦術」の最後で、ヨーロッパの革命がロシア革命の地平線を“さらに”ひろげるかもしれないことを指摘している。しかし彼はトロツキーとはちがつて、その一つの可能性から、ある固定したドグマをくみ立てたりはしなかったが……。
 レーニンはロシア革命のブルジョア的性格に固執したが、この立場がある意味で全く正当だったことは、現実の歴史が証明した。1917年の革命のあと数年して、ロシアは戦時共産主義からネップ=国家資本主義へ移行せざるをえなかった。レーニンはネップの政策をとるにあたって、「左翼」共産主義者に反対し国家資本主義を擁護して、次のように言っている。「資本主義は、社会主義に対しては悪である。資本主義は中世に対しては、小生産にたいしては、小生産に結びついた官僚主義に対しては善である」「いまの政治・経済状態のもとでは、国家資本主義をば小ブルジョア的生産とこそ対照しなければならないのに、国家資本主義を社会主義とだけ対置させたり、あるいは対照するから、多くのまちがいをおかすのである。」
 革命後のロシアといえども、“一種の”資本主義的生産にもとづく以外に、一つの歴史的社会としてなり立つことはできなかったのである。生産力の低さが決定的な要因であった。この状況は、現在のロシアでもまだ克服されていない。もっとも現在では、50年前とちがって、「国家資本主義を社会主義と対置」する必要性はますます増大しつつあるが。いずれにしろ、革命後のロシアの状況は、エス・エル的空想社会主義に対するマルクス主義的社会主義の勝利を示している。レーニンは、ネップの政策により、ロシアの社会経済的崩壊をさけえた。レーニンがネップの政策をとりえたのは、彼が空想論をしりぞけ、きびしくマルクス主義に忠実だったからである。革命の個々の展望でレーニンとトロツキーとどちらが正しかったかについておしゃべりが行なわれているが、それは本質的にナンセンスである。両者がいかなる思想的基盤に立っていたかということこそが問題なのだ。この見地からすればトロツキーの立場がロマンチックな空想的なものであったのに対し、レーニンの立場がマルクス主義的で現実的であったことは明らかであろう。これこそ、トロツキーの弱みとレーニンの強さの秘密を明らかにしている。
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帝国主義戦争と
「流れに抗して」

 1905年の革命のあとの反動期は、困難な時代であった。ポリシェヴィキ派の内部にも「極左」的な戦術をとなえて「合法的活動」を否定する者や宗教的観念論的傾向にとりつかれる動揺分子が生まれたが、レニーンは頑張りぬき、ポリシェヴィキ派を新しい革命党にきたえ、成長させて行った。レーニンは、メンシェヴィキとだけではなく、国際的な日和見主義の潮流とも闘った(例えば1907年の第二インタナショナルのシュトゥトガルト大会で)。レーニンは、他国の党を批判するのに「内政干渉」だとする今日はやりの「自主独立路線」を信奉してはいなかった(日本共産党が現在自己保身のために採用している「自主独立論」は、せまい、けちくさい民族主義のあらわれであって、どんなに寛大に理解しても、国際主義といえたものではない)。レーニンにとっては、“国際的な”日和見主義に対する断固たる闘いこそ、国際主義の重要な一側面であった。レーニンは、ほとんど“ただ一人”で、一切のブルジョア思想や日和見主義と論争し、組織し、新聞を出し、研究し、論文を書き、闘った。そしてこの苦しい時期に、ポリシェヴィキ派の内部からはインテリゲンチャや学生が脱落して、そのかわりに革命的プロレタリアがぞくぞくと結集してきた。1917年にはポリシェヴィキ派は“実体的にも”同質的なプロレタリアートの政党であったが、メンシェヴィキはインテリや組合主義者の小ブルジョア的政党に完全に変身していた(ちょうど、日本社会党が現在そうであるように)。1903年の党大会のころには、レーニンはメンシェヴィキやトロツキーから、労働者に不信をもち、インテリゲンチャの支配する陰謀家の党をつくろうとしている、とピントはずれの非難をうけたが、“実際”にはプロレタリア革命党をつくりあげたのはレーニンであって、メンシェヴィキやトロツキーや「純労働運動」の擁護者たちではなかった。歴史は、どちらの見解がプロレタリア的であり、あるいは小ブルジョア的であるかを、“事実でもって”証明したわけである。
第二回大会で国際情勢についてリポートするレーニン(1920年)
第二回大会で国際情勢についてリポートする
レーニン(1920年)
 1914年に第一次帝国主義戦争が勃発したとき、第二インタナショナルの指導者はのきなみにこの戦争を支持したが、この裏切りはレーニンを激怒させた。まさかこれほど「社会主義者」たちが堕落しているとは、レーニンにも考えられなかったのだ。カウツキーまでが(レーニンが尊敬を払ってあんなにもしばしば自分の論文の中で引用しているカウツキーまでが)、裏切りに加担し、あいまいな態度をとっているのである! レーニンは、同志への手紙に書いている。
 「……カウツキーはいまや“誰よりも有害”です。最もなめらかな、すべすべした、卑劣な美辞麗句によって日和見主義の卑劣さを覆いかくしている彼の詭弁はこのように危険です。日和見主義者は――明白な害毒です。カウツキーを先頭とするドイツ『中央派』は、外交的に粉飾された、労働者の眼や知性や良心をふさいでいる隠された害毒であり、もっとも危険なものです。われわれの課題はいまや――国際日和見主義者とその擁護者(カウツキーとの無条件の、公然たる闘争です。……インタナショナルの『単なる』復活のスローガンは正しくないのです(なぜならば、カウツキー・ヴァンデヴェルデの線に沿った腐敗した調停決議の危険性は、全く大きいからです)。『平和』のスローガンも正しくありません。民族戦争の国内戦への転化というスローガンでなければなりません(この転化は長くかかるかもしれないし、多くの予備的条件を要求するかもしれないし、現に要求もしています。しかしあらゆる活動は、その精神及び方向において、まさに“このような”転化の“線に沿って”おこなわれなければならないのです)。戦争のサボタージュでもなければ、このような精神における個々人の個人的行動でもなく、戦争を国内戦への転化に導く大衆的プロパガンダなのです。」
 レーニンは、帝国主義世界戦争が勃発するやいなや、この世界史上かつてなかった残虐な殺戮の嵐の中から、プロレタリア革命の大波がおこってくることを予見し、ただちにその指導の準備にとりかかった。「現実的な」社会主義者たちは、大衆が、一時的にブルジョアジーのふりまく愛国主義的熱狂のとりこになっているのを見て、それに追随し、愛国主義に感染して社会主義の大義をなげすてたが、レーニンは「逆流に抗して」、愛国主義、排外主義と闘いはじめた。レーニンはそのために、現在闘われている帝国主義戦争の“経済的基礎”を明らかにする研究にとりかかり、これは1916年に「帝国主義論」としてまとめられた。レーニンはこの書物で、現代の帝国主義戦争の根本原因が、資本主義的独占の成立にあること、従って戦争に反対する闘いは、とりもなおさず、資本主義に反対する闘いであること、資本主義を倒すことなくしては戦争を永久に止揚することはできないことを強調した。
ロシア社会民主党第十回大会の代表とレーニン、K.Y.ヴォロシモフ(モスクワ1921年)
ロシア社会民主労働党第十回大会の代表とレーニン
K.Y.ヴォロシモフ(モスクワ1921年)
 レーニンは、第二インタナショナルの恥ずべき裏切りに直面して、我々はもう「社会民主主義者」であるのをやめよう、「よごれたシャツは脱ぎすてて」共産主義者を名のろうとよびかけ、第三インタナショナルの創立の計画を心にはぐくみはじめた。第三インタナショナルは、ロシア革命ののち、1919年3月上旬に創立され、その後の数年間、世界のプロレタリア解放運動にはかりしれない大きな影響を及ぼした。そしてその新しい共産主義運動の先頭にはレーニンが立っていた。
 しかしレーニンは、この時代には、国際的な革命的マルクス主義派の中心的存在ではなかつた。1917年の革命の勝利の時までは、彼は国際社会主義運動内で殆んど支持者のいない少数派であり、西欧の社会主義着たちからは無視されるか、社会主義運動の“単なるロシア的変種と”みなされていた(今でもそう見なす軽率な人間がいる)。1917年まで、ポリシェヴィキ派は、ロシア社会民主労働党内の革命的な一翼以上ではなかった。レーニンの日和見主義に対する非妥協的な闘いも、実践的にほ、殆んどロシアの国境をこえなかったのである。1914年に第一次大戦が勃発して、殆んどすべての社会主義者――レーニンが少なからず信頼していたカウツキーまでも含めて――が、この戦争にはっきり反対せず、帝国主義戦争として告発せず、国際的に彼らの一般的破産が明らかになるまで、レーニンは革命的マルクス主義者の国際的な団結と結集の問題を、具体的には、何も提起していない。
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ロシア革命の勝利と
レー二ン

 レーニンは二月革命のほんの数日前に、スイスの青年たちに演説を行ない、「われわれ老人は、きたるべき革命の決戦の日までおそらく生き長らえないだろう」とひそかな悲しみをもって語つた。しかし革命は、不意にやってきた。
 1917年2月、労働者大衆の自然発生的なエネルギーは、ツァーリズムの支配を転覆した。ツァーりズムの支配にかわって、ブルジョアジーと「社会主義者」(メンシェヴィキと社会革命党(エス。エル))の「民主連合政権」=臨時政府が生れた。この政府は、本質的にブルジョア的なものであり、フランス・イギリスとの同盟のために、またロシアブルジョアジーの帝国主義的野心のために、帝国主義戦争を継続し、土地問題の解決をおくらせ、大衆の生活の安定のためにはどんな政策もとらなかったし、とることができなかった。
 そしてポリシェヴィキ党も、レーニンがスイスから帰る以前は、スターリン等に指導されてしメンシェヴィキとの「統一戦線」を追求する日和見主義的、小ブルジョア的政策をとり、臨時政府を条件つきであれ支持していた。レーニンは「遠方からの手紙」でもってこの半メンシェヴィキ戦術をはげしく非難した。彼は、スイスからロシアに帰りつくや否や、オールド・ポリシェヴィキの「統一戦線」戦術を粉砕し、ブルジョア的臨時政府を絶対支持しないという革命的方向に、党の政策をひきもどした。レーニンが、ポリシェヴィキ党の政策を、ブルジョア追随政策から、プロレタリア的原則へとひきもどしてはじめて、十月のあれほど完全な勝利がありえた、といえる。さもなければ、ロシア革命は、いくつかの散発的な暴動や、一揆的な半ば絶望的な蜂起として終り、革命は失敗したであろう。レーニンが歴史のなかではたした役割は、ある意味で決定的なものであった、といえるだろう。
第三回大会のレーニン(1921年)
第三回大会のレーニン
(1921年)
 歴史家たちは、「歴史における個人の役割」をあれほどはっきりと否定したレーニンが、歴史の中であまりに大きな役割をはたしたのに、いささか当惑気味である。しかし偉大な共産主義者たちの党派が、歴史において主体的な大きな役割をはたしたことは、マルクス主義的歴史観と何ら矛盾しないのだ。マルクス主義は、歴史の必然的発展と階級闘争を明瞭に洞察し、見通す力を与える。そしてまさにこの力によって、マルクス主義的党派は(彼らはしばしば「客観主義者」「待機主義者」とよばれるにもかかわらず)、歴史上のどの党派よりも、大きな“主体的な”役割をはたすことができるのである。レーニンとポリシェヴィキ派が、1917年にあのようなおどろくべき力――わずか数万人の党が、一億数千万の人口をもつロシアで勝利したのだ! ――を発揮しえたのは、彼らがマルクス主義的原則に忠実だったからであり、ロシアの歴史的発展の必然的傾向や階級闘争の“客観的”弁証法を最後まで考えぬいていたからであり、大衆の中で、大衆と共に、大衆と固く結びついて革命のために長い間、首尾一貫して闘って来たからである。彼らの勝利は、決して単なる偶然の産物ではない。それは、例えば、ドイツのスパルタクス団(ローザ・ルクセンブルグやカール・リープクネヒトの党)の敗北が単なる偶然ではないのと同じぐらいに、単なる偶然ではないのだ。ロシア革命があれほど見事に勝利したのは、ポリシェヴィキ党が、ロシアの大衆のすべての革命的エネルギーを、支配階級に反対して一つのカとして結集しえたからである。これにたいし、1918年12月からのドイツの階級闘争では、労働者階級の間に自然発生的な革命的エネルギーが存在したが、それは一つに結集され、集中され、それによって何十倍もの強力な爆発力に転化させられる、ということがおこらなかった。労働者の自然発生的エネルギーを、プロレタリアートにとつて最も有利な地点で一つに集中しうる、プロレタリアートと結びついた強力な意識的な党がない場合には、プロレタリアートの闘いは散発的で分散的なものになり、各個撃破されて行かざるをえなかったのである。
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革命勝利後の
レーニン的政策の意義

 レーニンの偉大なマルクス主義的政治家としての本質は、革命の準備期間においてだけではなくて、革命の勝利のあとに、さらにはっきりとあらわれた。レーニンが、単なる破壊だけを目ざすアナキスト的な(ある意味では無責任な)革命家ではなくて、たぐいまれな建設的能力を持つ、きわめて現実的な革命家であることが証明された。このレーニンの能力は、ブレスト・リトヴスクの条約締結のときにも、労働組合論争のときにも、内乱の時期にも、またネップを採用してロシアの経済建設にのり出したときにも、比類ない形で発揮されたのであった。革命家の多くはロマンチストである、まさにそれゆえに、彼らは長い複雑な停滞と高揚を含む革命運動の全期間を一貫して闘いぬくことができないで、動揺や混乱にしばしばおちいるのである。レーニンの力は、自分の中のこのロマンチシズムをおさえ、現実を直視することのできる能力にあった。プレスト・リトヴスク条約締結や労働組合論争やネップにおいて、「左翼」共産主義者は、現実の諸条件を考慮することができず、抽象的な理想におぼれ、具体的な生きた革命権力を崩壊に導きかねなかった。彼らは、ロシアのプロレタリア権力が、ドイツ帝国主義と戦う力を全く持っていないことを見ようともせず、帝国主義国と条約を結ぶという「妥協」や、ロシアの広大な領土をドイツ帝国に割譲するという「反ロシア的」政策に我慢ができず、ポリシェヴィキ政権を不可避的に破滅に導く「革命戦争」を呼号した。また、労働組合論争では、彼らは、国家のすべての生産、統制の機能を労働組合に移せ、前衛党を解消せよという要求をかかげ、ロシアの現実がまだその条件を欠いているということを、どうしても理解しなかったし、理解しようとしなかった。ロシアがもし“名実ともに”プロレタリア国家であったなら、そしてもし“直接に”社会主義へと移行しつつあったなら、「左翼」共産主義者のこうした要求は正当であったろう。国家や前衛党は不要のものとして、徐々に死滅の過程に入りこむべきであったろう。しかしロシアの「プロレタリア国家」は、もっばらプロレタリアートの利益を考える国家ではなかった。レーニンは、1917年の二月革命のあとでさえ、来るべき革命によって「労働者、農民の革命的民主主義的国家をつくるべきだ」と主張し、トロツキーの「プロレタリアートの国家」のスローガンを、「農民をとびこえている」と非難した。これは単なるレーニンの「戦略論のあやまり」などではなくて、深い現実的根拠があったのだ。このプロレタリア国家は、ネップ(レーニンは「独得の国家資本主義」とよんだ)の政策を採用せざるをえなかったが、これは何よりも、農民に対する妥協であり、農民の利益を考慮した政策であって、決してプロレタリア的政策ではなかった。社会主義の物質的条件をつくり出すために、資本主義に「一役員わせる」政策は最後には、プロレタリアートの利益となるはずであった。しかし、それは、直接には農民の利益を第一に考慮した政策であって、プロレタリアートのための政策ではなかった。こうした現実にあるからこそ、この「プロレタリア」国家は、死滅の過程に入りこむことはできないし、前衛党はその意識的な指導の役割を放棄することができない、というのがレーニンの主張であった。ただちに国家と党を解体してその機能を労働組合に移せという「左翼」共産主義者の要求は、レーニンの目には、単なる無政府主義的、サンジカリズム的要求としかうつらなかったのである。 ロシア革命が、人類史上はじめてのプロレタリア革命として、人々の心にロマンチックに印象づけられ、またスターリニスト共産党もトロツキー主義者も、このロマンチックな印象をそれぞれ拡大して来たために、レーニンがロシアのプロレタリア権力を救うために、ネップ(“資本主義の公認”)の政策をとらざるをえなかったという冷厳な現実は、ほとんど忘れられるか、単なる一つのエピソードと考えられている。現在、ソ連社会のブルジョア的性格を指摘すると、社会主義ソ連という幻想にいまだにひたっている多くの人々はそれだけで反発し、アレルギーを起すが、しかしソ連に資本主義的生産関係を「導入」したのは、ほかならぬレーニン自身であった。そして資本主義の「導入」は単なる「政策」ではなくて、ロシアの生産力の水準ではさけられない現実であり、ある意味では歴史的必然であった。こと志とちがい、ネップのロシアから社会主義のロシアが生まれないで、「スターリニズムのロシア」が生まれたとしても、それはレーニン主義とポリシェヴィキ的政権の責任ではないし、また1917年10月のポリシェヴィキ革命の偉大な意義をいささかも損うものではない。
<FONT size="-1">1918年11月7日モスクワにて</FONT>
1918年11月7日モスクワにて

 すでに1905年の革命のころから、レーニンは、ロシアにおける資本主義の発展の「二つの道」について論じ、古い封建的な関係が徐々に資本主義的内容に移って行くプロシャ型の道と、古い関係を一掃したうえに急速に資本主義が成長するアメリカ型の道をあげ、ロシアはアメリカ型の道を進まなければならないとした。レーニンの予想は、そのままではあたらなかった。しかしロシア型の国家資本主義こそ、客観的には、生産力の発展のために大きな役割をはたしうる資本主義的発展の“今一つの道であった”とみられないであろうか。この意味では、レーニンの、もっとも進歩的な資本主義の型による生産力の急速な発展という展望は、まさに“唯一の現実的な展望”であったということにならないであろうか。すでに現在、かつての農業国ロシアは、アメリカに次ぐ工業国ロシアに生れかわりつつある。国家資本主義はその歴史的役割をはたしたのである。
 レーニンは、またネップのころに、ロシアにおいて文化革命が必要であると強調している。この文化革命は、社会主義的文化を与えることではなくて、ブルジョア的水準の文化、いわゆる国民教育を与えて、ロシア大衆の文盲と無知をなくすというものであった。
 ロシアの国家資本主義は、生産力の発展と文化革命という任務をゆがめられた形ではあれ、はたして来た。ゆがめられたというのは、それがスターリニズムによって、ある程度そこなわれ、だいなしにされたからである。十月革命によって、古い生産関係が徹底して破壊され、反動的な支配階級とそのイデオロギーが完全に粉砕されることなくして、この事業があれほど急速に進められえたかどうかは疑問である。ロシア革命の意義は、単にロシアの国境内にかぎっても、このように大きい。まして、それが世界のプロレタリア革命運動に及ぼした衝撃と影響力は、はかりしれないものがあるであろう。
 しかし十月革命がロシアに社会主義をもたらしたのでないことも明らかである。ネップの時代には、ロシアのさけられない現実であったネップに社会主義を「対置」することは、純然たる空想であり、何らかの反動的結論をもたらしたであろう。しかし現代においては、現在のロシアの現実である国家資本主義に社会主義を「対置」することは、全く正当であるばかりでなく、必要である。そしてそれこそが、真にレーニンの事業を受けつぎ、発展させる道である。
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レーニンの人間像

ゴルキーでくつろぐレーニン(1922年)
ゴルキーでくつろぐ
レーニン(1922年)


ゴルキーで休暇を過ごすレーニン(1922年8〜9月)
ゴルキーで休暇を過ごす
レーニン(1922年8〜9月)
 最後に、レーニンの人間像を、彼の同時代人がどうえがいているかをみておこう。
 レーニンは、深い洞察力、鋭い知性、素朴さ、単純、強い革命的意思、行動力、柔軟性、現実主義、情熱、あたたかい同情心をもった複雑な人間であった。彼のかざり気のない率直さについては、あらゆる人が証言している。クルジジャノフスキイは書いている。
 「この肖像は、一見しただけでは、人を驚嘆させるようなものはない。だが、ブルジョア革命に比較してプロレタリア革命の特質を述べたマルクスの言葉を想い出してもらいたい。プロレタリア運動の本質が、プロレタリア革命の主人公である人民大衆の行動において、表面的な神秘性や、視聴を集める劇的要素を排除するものだとすれば、大きな歴史的役割をになう運命に遭遇したプロレタリアートの真実の指導者に、特に目立たない素朴さがあることを求めるのが当然ではなかろうか? いずれにせよ、外面的な人目に立つ華麗さを欠如していることが、イリイチ・レーニンの特色であった。
 ……鳥打ち帽をかぶった小柄な彼の姿は、そこらの工場街にでも行けば、全然人目を引かずに見過ごされるものであった。そして好感の持てる浅黒い顔は、若干、東洋人的な影を持っていた。これが、かれの外貌について語りうるほとんどすべてである。厚ラシャの農民外套を無雑作に引っかけたイリイチは、ボルガ辺りの農民の群に入ると、どこに彼がいるのか見当がつかない有様で、これらの下層民衆の中から直接出て来たような、かれらと血を分けた血縁者であるようなところがあった」、「イリイチは、本質問題では、絶対に信念を曲げなかったが、稀に見る素朴で謙虚な人物であった。」
 カ・デ・ズベルドロフも、1906年に初めてレーニンに会った時の印象を書いている。「特にどんなことが、印象に残っているかというと、まず第一に、イリイチの振舞が極めて庶民的であり、謙虚であったということである。私たち、大会の平代議員たちは、著述や演説で、レーニンを知っていたし、愛していた。かれは当時既に、わが党の指導者として認められ、私たちの一人一人にとって、争う余地のない権威者であった。そしてこの指導者が、この偉大な人物が、第一に、その行動において、最も庶民的な、最も平凡な人間であり、しかもこの庶民性が、かれの素質そのものであったということである。」
 レーニンの情熱については、クルプスカヤが「彼は情熱的に人を愛した」と書いている。ゴーリキーは、言う。「熱中することは彼の本性であつたが、しかし賭事師の熱中ではなく、自己の使命を厳然として信じこんでいる人間、世界と自分の結びつきを全面的に且つ深く感得して、混沌たる世界における自己の役割、混沌の敵たる役割を徹底的に理解している人間にのみ属する際立った旺盛な精神として、レーニンに体現されたのである。彼はそれと同じぐらいチェスに熱中しえたし、『衣裳の歴史』を眺め、数時間も同志たちと口論し、魚を釣り、南国の太陽に赤熱したカプリの石ころの道を歩き、ドウローク(赤の一種)の金色の花やうす汚ない漁夫の子供たちに興味をもつことができたのである。」
 と同時に、レーニンは、克己心と強い意思をもっていた。彼は、革命運動の利益のためには、自分の感情やロマンチシズムをおさえることもできた。クルブスカヤは証言している。「(流刑から)ロシアに帰ってからは、イリイチは、将棋をやめてしまった。『将棋は時間をつぶしすぎて、仕事の邪魔になる』と言っていた。イリイチは、どんなことでも中途でやめることができなかったし、あらゆる情熱をかたむけて一つの事に没頭しないではおれなかったので、休息のときでも、亡命中でも、もう将棋は指したがらなかった。イリイチは、小さいときから、じゃまになることは、思い切って棄ててしまうことができた。『中学生の頃には、スケートに夢中になったが、スケートをやった後は、疲れてとても眠くなり、勉強の邪魔になった。だからスケートはやめてしまった』と彼は語った。」
ゴルキーで散歩するレーニン(1922年)
ゴルキーで散歩するレーニン(1922年)

 レーニンは、強い意思をもつ一方、あたたかい配慮と同情心を、特に同志たちに対して持っていた。レーニンは、内戦のころ、ゴーリキーに、ロシアから出発して病気の療養をするように何回も書いて来た。
 「彼は一年以上も驚くべき頑固さで、私をロシアから出発させようとした。私はすっかり驚いた。仕事で一杯ふさがっている彼が、誰が何処かで病気になり、休む必要があるというのを記憶しているということだ。
 私はすでに、同志たちに対する彼の全く特別な態度、彼らに対する注意、生活上のどんなに小さな不愉快な出来事も推察し、見とおすことについて話した。しかし彼のこの感情の中には、利口な主人が自分の忠実で能力のある使用人に対する態度に見られる、あの利己的な配慮は、決して発見しえなかった。
 いやこれは正に真実の同志の心のこもった注意であり、対等の者が対等の者に示す愛情であった。レーニンと党の最大の大物たちとの間にさえ、平等のしるしをつけることは不可能であることを私は知っていたが、しかし彼自身はそれを知らなかったし、多分知ろうとしなかった。彼は人に対しては鋭かった。彼らと喧嘩し、遠慮なしに嘲笑し、時には毒々しく嘲弄もした――それは全くその通りだ。
 しかし彼が昨日叩きのめし、『叱りつけた』人々について、彼の見解を何回かきいたが……、彼が心から感嘆している調子を聞きとった。」
 本質的な問題では絶対に妥協しなかったレーニンは、それにもかかわらず(いや、それだからいっそう、というべきか)、きわめて現実的な、柔軟性のある人間であった。クループスカヤは、対人関係におけるレーニンの一般的特性を次のように書いている。
 「イリイチの特性は、彼が原則的な論争をいがみ合いや個人的な誹誘から分離することができ、仕事の利益を最も高いところに置くことができた点にあった。プレハーノフが彼をくそみそにののしっても、もし仕事の見地からプレハーノフと手を握ることが重要であれば、イリイチはそうした。アレクシンスキーがグループの会議にたいしてどんなに乱暴を働いても、彼が全力をつくして『プラウダ』編集局で働き、解党派に反対して党の側に立つことが必要であることを理解すると、イリイチは心からこれをよろこんだ。こうした例は何十となく挙げることができる。敵がイリイチを非難したときには、イリイチは、自己の見解を主張して、激昂したり、全力をあげて食ってかかったりしたが、新しい問題がおきて、敵と協同して働くことができるということが明らかになると、イリイチは昨日の敵にたいして同志にたいするように接することができた。そして、このためには、彼は自分にたいしていかなる努力も要さなかった。この点にイリイチの巨大な力があったのである。自分ではあらゆることに原則的な用心深さをもっていたが、他人にたいしては非常な楽天主義者だった。時には彼は失敗もしたが、概してこの楽天主義は、事業のために非常に役に立った。しかし原則的な一致点がないことが分ると、妥協というものがなかった。」
 最後にレーニンのもっとも身近な同志であり、友であり、妻であったクルブスカヤの一般的な評価を引用しよう。
レーニンとクルプスカヤ ゴルキーで(1922年)
レーニンとクルプスカヤ ゴルキーで(1922年)

 「レーニンの人間像は青年には非常に興味がある。私は今日はこの問題をとりあげたいと思う。……レーニンは心の底から革命的マルクス主義者であり、集団主義者だった。彼の生涯、行動の全部が、社会主義の勝利のための闘争という、唯一の偉大な目的に従属していた。そしてこれは彼の感情、思想全部に刻印されていたのである。つまらない羨望、意地悪、復讐、虚栄の如きプチブル的個人主義者につきものの一切の卑劣さは、彼には無縁のものであつた。
 レーニンは戦ったし、問題を鋭く提起はしたが、しかし個人的なものを争いの中に持ちこむことは一切なかったし、仕事の見地から問題に接したので、同志たちは普通、彼の鋭さに腹を立てることはなかった。彼は人々の中を注意深くのぞきこみ、彼らの言うことに耳をかたむけ、最も本質的なものをつかもうと努めたので、沢山の些細なことから人間の全貌をつかみ、気持ちよく人々に接近することができたし、全般の仕事に役立つであろうすぐれたもの、貴重なものを彼らの中から引きずり出しえたのである。
 イリイチのところに来ると全く別の人間になるのがいつも見られたが、そのために同志たちは彼を愛したし、彼としては、他の者であったら非常に稀でしかないほどの多くのものを彼らとの接触から汲みとっていた。人生から、人々から学ぶということは全部の人がなしうることではない。イリイチはそれができた。彼は誰に対しても狡猾ではなかったし、外交辞令も使わなかったし、誤魔化しもしなかった。だから人々は彼の真面目さ、率直さを感じとった。
 同志たちに対する心配りは彼の特性であった。彼は監房に座っていても、娑婆に出ても、流刑、亡命中でも、又人民委員会議議長になってからも彼らに気を配っていた。同志に対してばかりでなく、遠くで彼らの援助を必要としている人々に対しても心を配った。
 事業の成功はイリイチを深く喜ばせた。彼は仕事に生き、愛し、そして魂をうばわれた。レーニンはできるだけ大衆に近づこうとし、そしてそれをなした。労働者との接触は彼自身に非常に多くのものを与えた。各段階でのプロレタリアートの闘争課題を本当に理解した。もしわれわれが、レーニンは科学者、宣伝家、文筆家、編集者、組織者として如何に働いたかを注意深く研究すれば、人間としての彼をつかみうるだろう。彼の論文及び演説の中の数千の指摘、或は個々の表現や言い廻しでさえ、集団主義者、労働者のための闘士である彼の個性をのぞかせてくれる。集団主義者、労働者のための闘士であることは大きな幸せである。彼は彼の視界がますます広くなり、生活の理解が深まり、行動の範囲が広がり、働く能力が伸びることを常に感じる。だからこそイリイチはあのようにカラカラと笑い、愉快に冗談をとばし、『生活の緑の木』をあれほど愛し、それだけに又生活は彼に喜びを与えたのである。レーニンが別の時代、プロレタリア革命、社会主義建設の時代でない時に生きていたら、彼はこんな人間にはならなかったろう。マルクス主義理論は彼に、プロレタリア事業の勝利に対する深い確信を与え、遠くを見るに必要な眼力を与え、プロレタリアの事業のためにプロレタリアと全く一緒になっての闘争と仕事は、イリイチに、群衆や大衆から遠く離れた宮庭の主人公像、ブルジョア及び小ブルジョア像から全く別の人間像を育てたのであった。
 人間としてのイリイチを理解することは、社会主義建設とは何であるか、を深く、よりよく理解することであり、社会主義体制の人間像を感じることなのである。」

<English version>
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