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――日本農業の現状と我々労働者の立場 宮本 博 昨年(2025年)2月1日に実施された農林業の国勢調査と言われる「2025年農林業センサス(全数調査)」の『結果の概要(概数値)』が昨年(2025年)11月末に公表された(ここでは、「農業」だけを検討するので「林業」は除く、以下「25年センサス」)。『確定値』は3月以降順次公表されるが、今回の『結果の概要(概数値)』を前回(5年前)、さらに前々回(10年前)と比較し、他の資料も踏まえながら現在の日本農業、特に昨年(令和7年)令和の米騒動≠起こした米作農業と米作農業経営体について、我々労働者の立場から考えてみたい。 1.変貌する日本農業(小規模零細農家の減少と進む農業経営体の大規模化) 農業経営体は、前回「20年センサス」から24.7万減少し82.8万経営体となり」、初めて100万を割った。それを詳しく見ると、家族だけで営む個人経営体〔注1〕の数は24.8万(23.9%)減の78.9万経営体だった一方、法人をはじめとした「団体経営体」は1千(2.9%)増え3.9万経営体。 このうち、法人化している経営体は3.3万経営体で、2千(7.9%)増加しており、団体経営体に占める法人経営体の割合は88.0%となり4.0ポイント上昇している。また法人経営体の内訳をみると、会社法人は2万3千経営体で5年前に比べ3千経営体(14.4%)増えており、数量的には微増だが株式会社形態の法人の増加傾向が続いている。 個人経営体のうち、主に自営農業で生計を立てて農業生産を実質的に担っている「基幹的農業従事者」は34.2万人減少して102.1万人となっている。この減少率25%は前回を上回り比較可能な1985年以降で過去最大の減少幅となった。 平均年齢は、前回から0.2歳下回った67.6歳、年齢構成で見ると、65歳以上が69.5%減少した一方、49歳以下の割合は12.6%で前回から1.8%増加している。これは、「基幹的農業従事者」の絶対数は減っている中で、相対的には80歳以上の高齢者を中心として農業から引退し離農が進んでいること、人手不足が叫ばれ定年延長や企業の再雇用により定年帰農が減っていることがその原因だと考えられる。 しかし、旧来のこうした個人経営体を大半とする零細小規模な家族農業が衰退している一方で、農業経営体の大規模化が21世紀に入ってから進む傾向にあったが、25年センサスはそれが一段と加速している状況を明らかにしている。 全農業経営体の4%の20ha以上の経営体が全経営耕作面積の51%を耕作し、耕地面積のうち20ha以上の経営体が担う面積が初めて過半を超え、日本農業が大規模経営に依存しているという実態が明らかになった。これを逆から見れば、全農業経営体81%の3ha未満の経営体が全経営耕地面積21%の面積しか耕作していないことを意味している。 15年センサスでは、2%の20ha以上層の経営体が担っていたのは全経営耕作面積の38%足らずだったが、この10年間ですっかり日本の農業構造は様変わりしているのだ。さらに農業をどの様に経営していくかという視点から青色申告をしている経営体は、36%だった20年から今回は45%(その内、複式簿記での申告が過半以上)にまで上昇している。 こうした日本農業における大規模依存傾向は経営耕地面積の集積度以外の農産物販売金額規模別にみた農業経営体の増減率を見てもわかる。10年前の15年センサスでは経営体数9%の1千万円以上に全農産物販売金額の73%、経営体数3%の3千万円以上に46%が集中していたが、25年センサスでは、経営体数15%の1千万円以上に全農産物販売金額の83%、経営体数4%の3千万円以上に53%が集中しているのだ。 また、農業経営体の増減分岐面積は、都府県においては15年センサスで5haだったが25年センサスでは10haにまで上昇している。減少幅が最も大きいのは1ha未満で、続いて1~5ha、5~10haとなっている。北海道では10年前から分岐点は一貫して100haである。1経営体当たりの経営面積は全国では3.7ha――北海道34.5ha、都府県2.6ha――で、前回調査20年センサスから0.6ha(19.4%)増加しており、比較可能な05年センサス以降最大の増加幅となっている。 他方で05年センサスと比べると、農業経営体が59%の減少、作付耕作面積が18%の減少、基幹的農業従事者も54%減っているにもかかわらず、生産量はそれほど減っていない。それは、この20年間に大規模化が進み一人当たりの生産量が大幅に上昇していること(生産性の向上)を示している。 また今回の概数値≠ナは公表されていないが、株式会社や農事組合法人などの「農地所有適格法人」〔注2〕によって農地の所有、あるいはリースで農業経営を行う事例が増えてきたことを指摘しなければならない。「24年農水省経営局調べ(農地所有適格法人の農業参入の動向)」によると、14年調査から24年までの10年間に法人数は1.5倍となり、1法人当たりの経営農地面積は平均31.7ha(23年比5%増の1.5ha増)、法人形態別では株式会社が最も多く全体の44%を占めている。 この農地所有適格法人が営農している農地面積69.3万haの国内農地面積に占めるシェアは16%に上っている。農地を所有している法人の営農類型では稲作が5割で最も多く、リースの営農類型では4割の野菜がトップ。ここ十数年の推移をみると、農地所有適格法人の数は右肩上がりで増えており、家族経営が法人化をする際に選ぶことが多く、その増加を牽引している。 このように現在の、日本の農業構造は、とりわけ土地利用型農業においては、従来の人力に依存した小さな農地で零細家族農業を行ってきた労働集約型から、スケールメリットを生かし、大型の農業機械を使い大規模な農業用地を集積した法人経営による資本集約型にシフトして来ていると言うことができる。最近、農業機械メーカーのクボタが発売した大豆・小麦・大麦を収穫する新型コンバインは最大収穫速度秒速1.38m、1,144万円の価格だというが、当たり前ながら零細農家が使いこなせるものではない。 しかし、こうした日本農業の大規模化がそのまま(所有と労働と経営の分離による)資本家的経営にまで何の障害もなく進展するのかということについては「分散錯圃」という日本の農地構造を踏まえたうえでの別の論考が必要になる(この問題については最終項で少し検討している)。 例えば、農水省の生産費統計調査によると、15~20haの平均圃場枚数は71枚、30haの平均圃場枚数177枚、100ha以上層でも400枚、これを単純計算すると1枚当たり0.24~0.34haになる。これは水田に限らず、日本の農地の「分散錯圃」(1枚当たりの圃場の狭さと圃場の分散)によって、多くの場合大型機械も入りづらくさらに多くの農地を渡り歩くことになって時間的なロスが生じるようになり、生産コストも思うようには低減し難い。日本の土地利用型農業における生産性の限界はこの点に集約されていると言っても過言ではない。 〔注1〕 ここで言う「個人経営体」とは家族で家産を守りながら生業として家族労働を中心に家族がやれる範囲を耕す農業経営体で、いわゆる昔ながらの「農家」を意味している。世界の農業の大部分はこの「家族農業」が占めている。米国でもEUでも株式会社のほとんどが家族農業を法人化した「家族経営」(米国:15年98.7%・16年95.9%、EU:13年96.2%・17年95.2%)であり、法人の9割は家族や親族が株式の過半を所有している。こうした「家族経営」の特徴はビジネスの運営形態であって家族が利潤目当ての企業を経営し、法人化した会社組織で多くの従業員を常雇用して家族で農業経営を行っている。日本でも、個人経営体として出発しその後徐々に規模を拡大することによって、「1戸1法人」として法人化し、更なる大規模化を進めている事例が多く見られる。事実、25年センサスによると個人経営体から規模拡大後に株式会社組織に法人化して、農産物販売金額が1億円を超える経営体が8,960(5億円を超える経営体は1,565)もある。それらは日本の農業経営体全体の1.9%を占めており、前回の20年比で14%増加しているという(ただし「大規模経営体」といっても一般社会では零細企業ではあるが)。 国連は、2019年から2028年を「国連『家族農業の10年』」と位置づけ、家族農業の役割を再評価し、支援しようと呼びかけている。それは、民主化が十分に進んでいない国や地域において、立場の弱い農民の自立と所得向上を促すのが目的だった。これを金科玉条にして、この家族農業重視の文脈を日本に当てはめて論じる人たちが多くいる。いわく、「世界の潮流は変わった。SDGs(持続可能な開発目標)のため日本でも家族農業へのシフトを!」という物言いだ。しかし、ここで国連が支援の対象にしている「農民」とは、日本で言えば半封建的小作関係が残っていた戦前の状況に近いもので、現在とは明らかに異なっている。 社会状況がまるで違う現代日本に、世界で議論されている小農保護の文脈を当てはめるのはまったく誤りである。戦後の農地改革によって小作農から農地の私有を認められた家族農業が日本の農業生産力推進の原動力になったのは80年前のこと、すでに日本の農業生産力はそうした家族農業を次なる発展のための障害物に転化させているのであって、家族農業を神聖化する彼らは物事を歴史的に見ていないことを自ら暴露している。国連の家族農業保護政策を持ち出して農業の産業化に反対し、歴史に逆行し阻止しようとする人たちにはそうすることで何らかの既得権益があるのだろう。 〔注2〕 「農地所有適格法人」とは農地の所有権やリース権を持てる法人のこと。しかしこの株式会社は1株1議決権を持つ会社法に則っているが一般的な株式会社とは異なって株式の譲渡制限や役員要件などの極めて厳しい「縛り」がある。また農事組合法人は1人1議決権を持つ農業協同組合法に則った法人。両者とも2000年・09年・16年の農地法改正によって農地の所有権やリース権を持てるようになり、「農地集積に向けての事務手続きの簡素化」(19年)、「農地売買時の下限面積要件の廃止」(23年)という改正が続いている。つまりは、戦後農地解放後の1952年の「所有と労働と経営は三位一体でなければならない」という自作農主義≠フ理念に基づく「農地法」が、日本農業の生産力の進展に伴って対応できなくなり、旧来の法律的な諸制度(生産関係)を変更せざるを得なくなったのである。 2.日本の米作農業と米作農業経営体 毎回公表されるセンサスでもそうだが、今回の『25年センサス結果の概要(概数値)』にも、米作農業については「水稲作付面積規模別の農業経営体数」という資料があるだけで、畜産や野菜・果樹やその他の麦大豆などの耕種作物については「農産物販売金額1位の部門別経営体数」の記述以外に公表されていない。 このことから考えるに、「米」が農産物の中でとりわけ特別視≠ウれているように思えてならない。従って「令和の米騒動」の問題もあるので、この特別視≠ウれている「米」を生産している現在の米作農業と米作経営体の状況をみるためにも、20年センサスや標本調査である「23年農業構造動態調査」、その他の統計数値を使って検討してみる。 25年センサスでの農産物販売金額1位の部門別に経営体数の構成割合を見ると、果樹類と施設野菜が上昇し畜産はほぼ横ばいである一方、米作は5年前に比べ1.1ポイント低下した54.4%で、この低下傾向はここ数十年続いている。前回の20年センサスによると、農業経営体全体の約70%が米を作っているが日本の全農業生産額に占める米の割合は18%で、畜産の36%が第1位、野菜の25%が2位になっている。 また、「23年農業構造動態調査」は米作農業経営体のうち米作だけで生計を立てている主業経営体(農家所得のうち50%以上が農業所得で65歳未満の農業専従者60日以上の者がいる経営体)は9%に過ぎないという実態を明らかにしている。このように、農業経営体のうち、圧倒的に米作経営体の数が多く、しかもその規模は他の作型と比べて専従者のいない小規模零細家族農業なのである。 かつて「米」と書いて八十八の手間がかかると言われ、米作農家の平均作付面積が0.8haだった1950年代頃の米作りには年間251日の労働日が必要だった。しかし、平均作付けが面積1.8haになった5年前の2020年には1ha当たり年27日あれば余裕をもって稲苗を植栽し収穫できるという統計さえある。ということは、米作専業ではなくて別の仕事をしながら片手間にでも「米」は作れるということである。 販売目的で水稲を作付けした農業経営体数は53.3万経営体で、20年センサスに比べ18.1万経営体(25.3%)減少した。規模別の経営体数の増減率をみると、5年前は10haが分岐点であったが25年センサスでは15haが増減の分岐点になっている。減少率が特に高いのは1ha未満の家族農業による個人経営体であった(北海道では、この間100ha以上層の経営体が一貫して増加しておりそれ以下では減少している)。 「販売目的の水稲作付面積規模別経営体数」によると、水稲作付面積1ha未満の経営体の割合は59%で、5ha未満の経営体が91%に上る。10年前の15年センサスによると、5ha未満の経営体95%の作付けしている面積シェアが57%に対して5ha以上層の経営体5%のシェアは43%だった。それが20年センサスでは、5ha未満の経営体93%の面積シェアが37%に対して5ha以上層の約5万経営体(全経営体の7%)の水田面積は65万haでそのシェアは53%になっていた。 つまり、経営体数でわずか7%の担い手が、水田面積の過半を経営しており、規模別の単収に大きな差がないと仮定すれば、約350万トン(23年の米の生産量は670万トン)の米生産を担っているということになる。因みに、1ha未満の経営体数52%の面積シェアは8%しか占めていない。 今回の概数値≠ノは「水稲作付面積規模別経営体数」の資料はあったが「規模別面積」のそれは公表されていなかったので5ha以上層の全水稲作付面積に対する面積シェアは分からなかった。しかし傾向からは、5ha以上層の経営体数9%が作付けしている面積シェアはかなり上昇していると考えられる。 13年に100万米作経営体だった販売農家数は、上で述べたように25年には53.3万経営体まで減少している。このことは、個人経営体の減少にもかかわらず、彼らに代わって規模拡大を行い経営効率を上げた農事組合法人や株式会社が大規模経営による低コストの米生産を担っているということである。 こうしたことから考えるに、ごく小規模零細の0.5ha未満層から大規模経営の法人化された100ha以上層までの米作農業経営体が存在しているのであって、しかも階層分化が激しさを増している現状にあっては、一概に「米作農業経営体」と言うことはできないし、両者を同じような米作政策の対象にできないことは誰が考えても明らかであろう。 にも拘わらず今日に至るまで、それは「選別農政だ」といった批判によって産業としての農業確立を妨害する語句とされ、米作経営体の大多数を占める小規模零細な米作農民の反発と離反を恐れる与野党すべての政治家たちやJAグループ、農水官僚たち全員にとって語ってはならない禁句だったのである。 さらに生産費を見てみよう。「23年農業構造動態調査」によると60kg当たりの水稲生産費は経営体平均で約1.59万円となっており、3~5haの経営体の生産費は約1.5万円、当時の相対取引価格(JA全農や農協などの出荷者と卸売業者との間で売買取引する際の主食用米の銘柄ごとの契約価格)から考えると損益分岐点は1.4万円から1.5万円位となる。つまり水稲経営において取引価格は生産費用を下回るコスト割れであって、明らかに「赤字」経営なのである(コロナ禍で需要が落ち込んだ21年産米の相対取引価格は60kg当たり1.2万円)。 因みにこの調査では、64%の水稲作付面積1ha未満の経営体の60kg当たりの水稲生産費は2万円を超えている一方、15ha以上層では1.1万円前後、50haを超えると1万円を下回っている。 3.「令和の米騒動」 米価が高騰しつつあった一昨年(令和6年)の夏以降、24年産米の相対取引価格は平均2.7万円を超えるようになって、昨年(令和7年)の令和の米騒動℃桙ノは新聞報道によると25年産米60kg当たりのJA全農からの概算金(仮渡金)が3万円前後になったという。赤字経営を続けてきた零細な米作農業経営体(個人経営体)にとってはまさに天恵であった(我々労働者にとってはあらゆる商品の急激な物価高のなか、怒りの小売り価格:米5kg5千円)。 こうした状況が続けば、彼ら零細稲作農家は今後もゾンビのように生き延び、進みつつあった米作農業の近代化と農業経営体の規模拡大へと向かう構造変動はかなり遅延することになるだろう。昨年(2025年)末から今年(2026年)初めにかけて各県の農業再生機構とJAは、26年産主食用米の「生産の目安」が、農水省が示す需要予測の適正水準を上回り需給緩和(「米価が下落する」の別表現)の懸念から生産量を減らすという新聞報道があった。26年産の米価も相変わらず高いままなのだろうか。 JAグループの宣伝の役目を担っている『日本農業新聞』は、「米作農家が米作りで再生産可能な生産費を賄えるだけの適正米価が必要だ」という主張を声高に叫んでいる。しかしここで我々労働者が問題にすべきなのは、「再生産可能な生産費」とは、いったいどういう経営規模の米作農家なのかということである。 先に述べたように、作付面積0.5ha未満(米作経営体の36%)から100ha以上の経営体(米作経営体の3%)があり、一概に「再生産可能な生産費」を決めることはできない。20年センサスの確定値≠ノよると、12%の水稲作付経営体が販売金額の78%を占め、作付面積30ha以上の経営体2%の面積シェアは44%に上っているというのにだ。 しかし一方で、米作経営体の中では米作単一経営の農業体(首位部門の農産物販売金額の8割以上の経営体)が05年77.7%、10年78.4%、15年79.5%(20年・25年の割合は公表されていない)となっており、このことは米作農業において経営規模の大きい農業経営体が増加しているということを表わしている。 昨年の漢字の第1位は「熊」、第2は「米」。我々労働者にとって怒りの米価高騰≠ェ、「赤字経営」を続けてきていた小規模零細の米作農民にとっては天恵の米価高騰≠セった。『日本農業新聞』には読者の声として「やっと生産費が賄える価格になり作りがいが出てきた」という70代男性のほか、再生産費が見込めることに安堵する声が多く届いていた。この人たちはどれ位の規模の米作農家なのだろか、これこそが問題なのである。 農水省は需給緩和(米価下落)の懸念が強まったとして――収穫量が日照時間増の影響で24年比1割増になった、需給バランスの目安となる今年6月末時点の民間在庫量が10年ぶりの高水準となった――、25年産主食米を市場から隔離するために政府備蓄米の例年以上の買い増しを考えているようだ。 石破政権が「需要に応じた増産」(実質的に供給過剰による米価の暴落を防ぐために行われている生産調整の廃止)の方向を示したように、石破首相・小泉農相は元来、米の生産調整による減反政策に反対し、米の高価格維持を求める自民党の支持基盤である零細農民やJAグループ、自民党農水族、農水官僚と対決≠オてきた。しかし高市政権は26年産を再び減産の方向へと「朝令暮改」した。これによって過剰生産による米価下落を懸念していた米作農家から高い評価を得て、中小零細農民の高市政権支持率は70%以上で高止まりしている。 どうしてこういった他の産業では考えられない「赤字経営」の小規模零細の個人経営体(農家)が依然として、大量に存続・滞留しているのだろうか。 明らかに彼らが、農業生産を実質的に担っている専業農家ではなく、もっぱらJA(古い農業構造の利益を代表している)を唯一の窓口にした政府からの各種補助金・助成金(だから農家に対する支配力・強制力は強い)や、他の兼業収入に頼っているからである。 そしてここには、年々増額される各種補助・助成金をこうした農民たちにバラ撒く役目を担うJAグループ・自民党農水族・農水省の高級官僚、彼ら3者の「Win-Winの関係」があるようだ(零細農民を入れれば4者)。 26年度の農林予算は総額2兆2956億円で、前年度からの増額幅が100億円を超えるのは14年度以来12年ぶりだそうである(特に、脆弱だと言われている食料安保の立て直しに向けて積み増しが続いている)。 そして、こうしたいびつな関係のもとで、子や孫の世代のために「先祖伝来≠フ家産である農地」(これはまったくの嘘っぱちだ!)を守ろう」と家族農業を生業として行っているのが大多数の米作農業・農民の姿である(こうした姿は日本の農業・農民全般にもいえる)。 ここで強調しなければならないことが3点ほどある。「米」が特別視≠ウれていることについてである。これは近年、帝国主義国家である日本の独立自存の根幹である食料主権が脅かされないように食料安全保障政策を推し進めようとするブルジョア政府の宣伝文句にもよく使われており、世界的な食糧不足や戦火などの不測の事態に陥っても「米」だけは自給できる〔注3〕という点である。 次いで、「一面に広がる水田風景は日本の原風景、日本人の心の故郷だ」という我々がよく耳にし、ナショナリズムを呼び起こすために利用される謳い文句だ。しかしこれが、歴史的事実とはまったく異なった「創られた伝統」〔注4〕だという点である。そして3点目、「米」は日本人の主食だ、野菜や肉、麦や大豆などとは違った特別な食料だ≠ニいう言説は、天皇制と深く結びついている〔注5〕という点である。 最後に、近年、会社組織の大規模法人による米作農業の農法改革によって行われている省力化よるコスト削減の試みについて簡単に紹介してみよう。 米作農業の年間スケジュールは、@ 1月~3月は耕運機による土づくり、A 2月〜4月:種もみからの育苗、B 5月:田起こし・代掻き(水を張った水田の撹拌)・田植え、C 6月~8月:稲穂の育成(除草・水管理)、D 9月~10月:収穫・乾燥、となる。 これとは別に、田に水を張るだけでAとBを省く「湛水直播栽培」(23年の普及面積1.9万ha)、播種した後の田に水を張るAとBを完全に省く「乾田直播栽培」(23年の普及面積2.0万ha)、さらに簡略化した「節水型乾田直播栽培」(労働時間は以前より7割減り、10a当たり3~5割の生産コスト削減)などがある。 いずれも収穫量は管理さえしっかり行えば従来とほぼ変わらないという(10a当たり520kg強の収穫量、23年の10a当たりの全国平均520kg、経営規模15ha以上層では524kg)。さらに、稲の収穫後に伸びる二番穂を実らせて収穫する「稲の再生二期作」を行い10a当たり300kg増の収穫をしている法人もある。 このように極めて少数とはいえ、日本の米作農業とそれを支えている米作農業経営体にあっては、旧来の生業として細々と小地片を耕していた小規模零細の「家族農業」とはまったく様相を異にした栽培方法の試みがされているのである。 またこのグループには、「1次産業の農林水産業+2次産業の製造業+3次産業の流通・販売」の6次産業化を推進している農業経営体が数多く存在していることも付け加えたい(筆者の知り合いの法人化した柑橘農家や養鶏農家はフィリピン人やベトナム人を多数常雇用して6次産業化経営を行って企業的な経営を行っている〔注6〕)。 〔注3〕 これはまったくのまやかしである。日本の農業生産の動力は人力ではなくほとんどが小型であってもガソリンや軽油を燃料にする農業機械(農産物運搬用のトラックなどもある)である。また肥料や農薬、他の鉄製品の農業資材なども海外からの鉄鉱石輸入が途絶えれば「米」だけではなく他の農業生産物も列島に住む人々の食糧を賄うことはできない。こういった主張は日本人の主食が「米」であるが故のためにする議論≠ナあって、危機感を煽られて容易にブルジョア民族主義に絡み取られる易い。さらには、この主張の裏には、「輸入に依存したままでは我が国の食糧安全保障が揺らぐ。従って、規模拡大に進む農業だけではなく小規模な零細家族農業や片手間の兼業農業も必要なのであって、多様な農業者の確保が今以上に喫緊の課題になるのだ」という小農保護$ュ策を続けようとする隠された意図があるようだ。 〔注4〕 現在我々が目にしているような平地での米作りが広がったのは江戸前期で、それまでの米作は水を得やすい谷間や山麓を中心に栽培されていた。戦国期が終わり太平の時代入ると、侵略による領土拡大ができなくなった藩主たちは藩財政強化の手段として自国領の開発を行わざるをえなくなった。そうした背景の中で、土木技術の進展(当時、今に続く様々な用水路が造られた)で可能となった新田開発が大々的に進められた結果、平場での米作が一気に進んだのである。この時代競って米が作られたのは、食べるためというよりも、それを販売することで藩財政が成り立っていたからであり、山を削って棚田を造るような無理なことをしたのもひとえにそれが藩財政に寄与したからである。明治以降も海外から導入された河川工学や近代土木技術の発展と共に再び大規模な農地開発が進んだ(士族の失業対策や明治政府の財政基盤の強化という目的もあった)。現在の水田の8割が江戸時代以降、5割が明治以降に開発された新田なのである。 現在山間部にある多くの水田を含めた農地は江戸時代以降に農地開発の政治的文脈の中で開発されたものであって、そもそも今の日本の農地は長期計画に基づいて総合的に開発されたものではなく、歴史の折々に地域の様々な要請の中で造られたものだ。ある時代に役割を果たしたからと言って、これからも存在意義があるとは限らない。耕作放棄が問題と言うが、耕作が続けられないような条件の悪い圃場はそもそも農業に向いていない場所を、自然環境を壊して無理やり開発した土地だったということである。 〔注5〕 天皇家の「米」に関する行事としては、毎年5月14日に行われる天皇による稲苗の「御田植式」、そこから収穫された新米を、天照大御神を祭っている伊勢神宮に奉納する「神嘗祭」(10月17日)、さらに天皇が新穀を神々に供え、自らも食することで、収穫への感謝と国家安泰、国民の繁栄を祈る≠ニされる11月23日の「新嘗祭」(全国的には、「勤労感謝の日」)がある。これは、この国が「ヤマト」から「日本」に呼称を変えた天皇親政時に編纂された『古事記』・『日本書紀』に「豊葦原(とよあしはら)千五百秋(ちいおあき=「永遠に」の意)瑞穂国(みずほのくに)」・「水穂国」と記されていることから「米」がいかに天皇制と結びついていたかを示している。 歴史学者の網野善彦氏は「水穂の国・日本」はまったくの虚像であると喝破し(『「日本」とは何か』講談社学術文庫、第4章「水穂国日本の虚像」p.227以下)、「エジプトのファラオやインカ帝国のインカと同じく、天皇は太陽神を祖先とする神の子孫であり、弥生時代に列島に伝えられた水田稲作を基礎とする稲作人の国家の首長、いわば『稲の王』という、二つの顔を持っていたのだ」(同書、p.124)と述べている。 〔注6〕 外国人労働者の多くが日本の農水産業や製造業、さらに介護などの社会福祉分野にも従事し、雇用されている。もはや彼らの労働なくしては日本の産業は維持継続できないほどになっている。にも拘らず、この間多くの事例が示しているように、日本の労働者に比べて劣悪な労働環境の下、低賃金の状態に置かれたままである。さらに、「日本人ファースト」と言って嘘っぱち≠SNSで拡散させ、彼らに対するヘイトを扇動している参政党がいる。我々働く者にとっては国籍や肌の色、宗教などによって差別排除するような「ファースト」や「セカンド」などありはしないのだ。 4.零細農民・JAグループ・自民党農水族・農水省官僚の「Win-Win」の関係 1971年に始まった「減反政策」は2018年に廃止されたが、現在でもJAの強力な指導の下に「生産調整」という名のもとに継続している。農水省のキャリア官僚からめでたく農水大臣に成り上がった鈴木農相は、「政府の米政策は『減反政策』ではない。減反政策は18年に廃止して以降、各産地や生産者の自主的な判断で生産量を調整するようにしている。現在は、需要量に基づく全国の適正生産量を提示し、農業再生協議会などが道府県や市町村の生産量の『目安』を示している。こうした手法は従来のような強制による『減反政策』には当たらない」(『日本農業新聞』25年12月10日付け)と語った。 物は言いようである。家産を守りながら生業として米の作付けをしている圧倒的多数の小規模農民にとっては、生産量が多くなって米の市場価格の下落を避けることが最大の関心事だからである。ここに生産量の調整による米価の高価格維持政策は誰にとって必要不可欠なのかということが、言わず語らず述べられている。 主食用米の生産量は1967年のピーク時には1,400万トンを超えていたが、昨年12月農水省発表によると、25年産は747万トンとその半分近くになった。現在日本の米の潜在生産力は1,300万トン、本来であればできる限り生産して、国内で余った分を海外に輸出すればいい(日本のジャポニカ米は高品質で、近年海外での人気は高いという)。世界の米市場は供給量が不安定で需給バランスが悪いのでこれを補うことは、日本の国際貢献に資するはずである。 エジプトやナイジェリアなどのアフリカ諸国は日常的に米を食べる文化がある。世界的にはアフリカ諸国をはじめとして飢餓人口が増えており、各国では将来の食糧不足に備えて増産の方向にあり、中国やベトナム、インド、アメリカ、タイ、イタリアなどでは一貫して米を増産している。例えば中国では21世紀に入ってからこの間、米4倍、大豆3倍、小麦9倍、トウモロコシ14倍というように食料増産に励んでいる。このように1960年から世界の米生産量は3.5倍に増加している。 ところが、こうした世界的な増産の流れの中で、日本だけが人口減や米消費の減少に伴う「需要に応じた生産」を名分に米価下落を防ぎ小規模零細の米作農民を保護してきた。「減反政策(生産調整)のもと、税金を投じてひたすら水田を4割つぶして生産量を減らし、米価を政府が人為的に支えてきた。なんという不合理! 世界の常識から逸脱したなんという馬鹿げたことをやっているのか! この政策は我々労働者に高い米を食わせているばかりではない。主食用米から飼料用米や麦・大豆などに転作した農家にたいして、JAを窓口に補助金(毎年4千億円)を給付し、主食用米の生産量を減らすことで市場における米価を高く維持してきた。つまり、価格の安い世界の米取引から日本の米を切り離し〔注7〕、伝統的な小規模零細の米作農民を保護し、米価を下げないこと、これが農水省の米政策の大命題であったし、今後もまたそうである。 ではこうした、米余りにならないような「減反政策(生産調整)」による米の高価格維持政策は、誰によってまたどういった意図のもとで出されてきたのか。 第一に、小規模で生産性が低く生産コストの高い零細農家がいる。第二に、彼らを日常的に農業資材やJAバンク・JA共済連・JA厚生連・農林中央金庫〔注8〕などで世話をする代わりに、中小零細農家から独占的に玄米を集荷するJAグループの全国農業協同連合会(全農)、ならびにそのすべてを統括し当該政権に対する圧力団体としてロビー活動をするJA中央会(通称JA全中)がいる。 とはいえ規模の大きい経営体ではJAから農業資材などを購入せず、農産物を出荷しないで自ら販売する傾向が年々高まっている(筆者も、ごく小規模経営ではあるが経済合理性を考えて、肥料や農薬などは商系から購入している、その方が圧倒的に安価だからだ、しかし他の大多数の知人たちは日ごろ世話になっているからと相変わらずJA〔注9〕を頼っているようだ)。 そして第三に、農業予算確保の省益を確保し天下り先であるJAグループの既得権益を守ろうとする農水省高級官僚たちがいる。そして最後に、選挙の際に浮動票の多い都市部の票は当てにならないのでJAグループと小規模零細農民の票を掠め取ろうとする自民党農水族がいる。「減反政策(生産調整)」とは、これら4者の「Win-Win」の関係から出されてきた農業政策に他ならない。 だが、増産意欲のある大規模農業経営体にも価格支持を名目に減反を強要したのでは、日本の米作農業は衰退する以外にはなかった。国際価格の何倍もする米価に安住する中で、日本の米作農業は国際競争力を失ってしまったのだ(もっともこれは、米作だけに限ったことではないが)。 かつての自民党単独政権(自公政権や今の自維政権も)は、1961年の「農業基本法」制定、その抜本的な改正の1999年制定である「食料・農業・農村基本法」、2024年の「食料・農業・農村基本法」の大改正を行なってきた。これらすべての通奏低音は「農業の規模拡大による近代化」の一文字だったはずだ。 しかし、今日に至るまで実効力ある処方箋を提示することは出来なかった、いやむしろ、「しなかった」という表現が正しいほどに小農保護の政策を続けてきた。それはまさに、我々労働者に国際価格に比べて高い米しか食べさせられなくした「不作為の犯罪」なのである。 米作農業(土地移用型の他の畑作農業全般にも言えることだが)の規模拡大による生産コスト削減は歴代政権によってもこの65年間を通して成しえなかった。現在の高市政権もAI技術やスマート農業技術の効果を最大限引き出す圃場の大区画化への支援を農業政策の謳い文句にしているがまったく期待することはできない。 その事業を各道府県の農業再生機構とJAを通して行なうというのだから。まったく身内同士のなれ合いの中でどれ程の実効性ある事業が行われるのだろうか、注視したいものである。彼らにあるのは結局のところ、今ある「生産調整(需要に応じた生産)」を維持し、議員たちの関心は唯一各々選挙地盤である農民票を取り込んで議員の地位に留まることだけであるからだ。 〔注7〕 米の販売業者たちの悲喜劇が『日本農業新聞』に載っていた。昨年の米不足で米価が高騰していた折、多くの販売業者は高値で米を買い漁っていたが、1kg341円の関税を払った輸入米でも国産米米価に比べて安価だったので目敏い販売業者が多くの数量を輸入した。ところが安価な輸入米の需要が高まって国産米の取り引きが低迷した結果、高値で仕入れた国産米の在庫が積み上がってしまい一部の(金に目が眩んだ)販売業者たちが困っている、という報道である。 〔注8〕 1952年制定の農地法は、農地の所有者(所有)=農業従事者(労働)=経営主催者(経営)の三位一体を理念とした自作農主義を理念として、本来1筆ごとの小地片農地の権利移動とその転用とを厳格に取り締まる役割を持ってきた。JAを先頭にした農業団体は、株式会社は他の目的のために転用するからという理由で、「農地法」を根拠として株式会社の農業参入に絶対反対の論陣を張ってきた(09年の農地法改正までは)。しかし「農地法」の運用そのものは公職選挙法と同じくまったくのザル法だったのである。戦後の農地解放の際、小作人に高率のインフレの影響もあって極めて安値で買い与えられた農地(1961年に最大609万ha)を、3割減の424万ha(25年現在)に縮小させたのは他ならない農家自身であった。その半分は宅地への転用で、その莫大な転用利益が農協に預金され農協はその運用利益を挙げて発展してきた。それらはすべてJA信連と各種のJA共済を通して農林中央金庫に集められ、その資金で外債運用などを購入しマネーゲームをしてきたのだ(25年3月期には過去最大の1兆8千億円の赤字を計上したことは記憶に新しいが、昨年末農業関連の事業者への融資を増やすように農水省から指導を受けたようだ)。彼らの本音は転用利益という金の卵を産む農地という鶏を一般の銀行や共済事業者に渡したくないということだろう。 〔注9〕 JA農協組合員には、1a以上の土地を耕作し農業を営む個人、または1年のうち30日以上農業に従事していることを要件として幾らかの出資をしてJAの運営にかかわる議決権や選挙権がある「正組合員」と、全国の市町村津々浦々にある当該JAの地区内に住んでいてJAバンク・共済・購買などを1年以上利用している農業者以外のJAの運営にかかわる権利がない「准組合員」とがいる。正組合員の56%は70歳以上で、23年3月時点での比率は正組合員38%・准組合員62%となっており、10年を画期に初めて准組合員数が多くなったという(筆者の地区のJAは正組合員全員に対して「専属利用契約書」なるものに署名捺印させて農産物を他の業者に出荷すると「違約金」を徴収していたが、独占禁止法に抵触するというので数年前に止めになった)。さらに、営農事業の赤字を信用・共済事業で補填するために、スケールメリットを生かしたJAだけができる信用・共済事業拡大(一般的な銀行では信用事業と共済事業を同時に行うことはできない)をめざした広域合併が近年盛んになっている。1県1つのJAは奈良県・香川県・沖縄県・島根県・山口県があり、さらに福井県と岡山県ではそれぞれ1つのJAを除いて県内の残りすべてのJAが合併している。こうして日常的に営農指導を受けたい農業者にとって、信用・共済事業などに注力するJA農協は次第に身近なものではなくなり疎遠になりつつある。 5.我々労働者の立場 我々労働者は、農地所有などの権益が個人(家族)に与えられている小規模零細農業の保護と温存に反対する。小農が家産として排他的に私有する多くの土地を合理的に再編統合し、科学や技術を応用して少人数でも浪費を抑えて合理的に農業生産物を維持拡大できる基盤をつくるべきだと主張する。 そうした合理的再編成は当然にも製造業や教育、そして医療・福祉などの分野においても同じことがいえる。「共同の生産手段で労働を行い、自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して1つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」(マルクス『資本論』国民文庫版@ p.145 原p.92)である共同労働社会を目指して、全産業分野を合理的に再編成しなければならない。 つまり、「自由な人々の結合体」(労働が解放された社会)では、社会化された共同の生産手段によって、農業での耕作労働、あるいは製造業での労働、あるいは教育労働や社会的に必要とされる種々の労働、それぞれ異なる特殊具体的な労働に支出する個人的な労働力は社会的労働力の一部であり、意識的に社会的に合理的な生産がなされるのである。 昔から耳触りが良く、人口に膾炙(かいしゃ)している主張がある。いわく、「農業経営体の規模拡大は進んでいるが、小規模零細であっても例えば“半農半X”(半分趣味的に農業を行い、後の半分を自分の好きな他の職業に従事する)のような人たちあるいは日曜農業に参加する市民たちであっても、こうした農業を行う多様な人々がいなければ特に中山間地〔注10〕に数多く散在している農村地域は存続できなくなる。だから、規模が小さくとも農業ができる人を少しでも増やすための政策こそが必要なのであって、それは結局、我が国の国土保全と環境保護にも繋がるのだ」、と。 こうした考えは、自立した産業としての農業の育成を目的に食糧・農業政策を行うことと、過疎が進み疲弊していく農村対策をどうするのかということ、さらには国土保全や環境保護(そもそも、未開の土地を開墾して農業を営むこと自体、自然環境破壊≠フ最たるものである)などの政策を混同している。この3つのことは、関連しているとはいえ、まったく別分野の問題なのである。 都市部(そこでは交通や買い物、娯楽など利便性はあるが生活費も高く超過密になって生き辛くなっていく)と、農村部(ここでは「買い物難民」など不便でますます過疎になって限界集落が増えていく)との矛盾・対立の解消は上で述べた共同労働社会(共同体)において初めて実現可能となるのである。 マルクスとエンゲルスは180年前すでに、この「都市と農村との対立」問題について次のように述べている。 「都市は、すでに人口、生産諸用具、資本、諸享受、諸欲求の集中という事実であるのにたいして、農村は、ちょうど反対の事実、すなわち孤立と分散をしめす。都市と農村との対立は私的所有の内部でのみ存在しうる。それは、個人の、分業への、すなわち彼におしつけられた特定の活動への従属のもっとも顕著な表現であって、その従属は、一方の者を偏狭な都市動物に、他方の者を偏狭な農村動物にし、両者の利害の対立を日々あらたに生みだす」(『ドイツ・イデオロギー』新日本出版社p.67・廣松版合同出版p.108)。 そして、「その解消」について言う、 「分業による人格的な諸力(諸関係)の物的なそれへの転化が、ふたたび廃止されることができるには、それについての普遍的観念を頭の中からたたきだすことによるのではなく、諸個人がこの物的な諸力をふたたび自分のもとへ従属させ、分業を廃止することによるしかない。このことは、共同社会なしには不可能である」(同書p.85・廣松版p.137、下線部強調は引用者)。 現在の日本農業にとって、社会全体の利益として考えられなくてはならないこと、それは、小規模経営を大規模経営に置き換え、小規模生産を大規模生産に置き換えることであり、それによる農業生産物の低コスト化(合理的生産の実現)である。 この分散し孤立した労働やバラバラに寸断された小規模農地などの生産手段を集約し社会的に結合することが何より必要である。それはより少ない労働でより多くの労働生産物を産出し(投入労働量1単位当たりの労働生産物を増加させ)、言い換えれば、労働生産物1単位当たりに投入され対象化される労働量を減少させて生産性の高い農業を生み出すであろう。こうしてより少ない農業資源(農地・農業機械・農業労働力)でより多くの人々の食べ物を賄っていくこと、これこそが社会の進歩発展のために農業がはたす歴史的な使命であろう。それは現在の日本農業のように労働力や農地などの生産資源をいたずらに浪費し、生産コストも一向に低下させず、その上衰弱し崩壊しつつある家族零細農業にいつまでも執着してそれを保護する政策を採ることでは断じてあるまい。 今回公表された「25年農業センサス結果の概要」は、日本の農業生産力に応じた農業構造の変化が、世襲的生業である小規模零細家族農業に固執する人々――小規模農民に寄生するJA農協グループ、選挙の票欲しさに農業予算増額を約束する自民農水族、将来のJAグループへの天下りや議員への出世を目論む農水省高級官僚たち――の既得権益に縛られた思惑を置き去りにして、資本の発展によって確かな歩みで(資本の支配による歪み≠孕みながらも)、かつ急速に大規模化に進んでいることを示したのである。 しかしこうした大型機械による資本集約型の農業経営の大規模化も、日本の農業構造の一つをなす農地の「分散錯圃」状態によって限界を迎えつつあるのも事実であろう。14年始動の農地中間管理機構(農地バンク)による集積面積がここ8年間続けて増加率が1%にも届かず伸び悩んでいるのだ。 農地バンクは当時の安倍政権の成長戦略の1つとして担い手への農地集積を加速させる施策を担うもので、バンク自身が離農者の農地や耕作放棄地などの利用権を取得し、農地の整備を行った上で大規模農家や法人企業に貸し出す仲介機関である。 しかし23年度までに集積率8割が目標だったが実際には60.4%にとどまり未遂に終わってしまい、改めて30年度までに7割の集積率という目標を掲げ直すことになったのである(因みに、北海道は92.5%の集積率だ)。何故に目標通りに担い手への農地集積が進まなかったのか。明らかにその根本的な原因は、資本主義の根幹である土地などの生産手段の私的所有制度に関わるからである。 しかし、進みつつある法人化による組織化された企業的農業がそうした限界内であるにしても、またたとえ資本主義の枠内での社会化であるにしても、それはこの分散し孤立した労働を社会的に結合させる道に向かって進む一つの契機を与えるであろう。 そしてそれは旧来の家族農業の属性である、農地を含めた個人的で分散的な生産手段を社会的に集積された生産手段に転化するであろうし、畑作を含めた米作を中心とする土地利用型農業に対して、客観的・歴史的には大規模な私的所有権の廃棄を促すであろう。 こうしてそれは中山間地を含めた農村の分散化≠解消して、真に農業を社会的な生産力として解放するための条件をつくりだす可能性を持っているということができる。そうした理由において、またその限りにおいてのみ、我々労働者は現在加速している日本農業の大規模化、そして株式会社経営による農業の資本主義化を歓迎するのである。そして改めて思う。日本農業が衰退し危機に陥っているというが、そうした農業とはどういった農業なのか、と。 中山間地を中心に耕作放棄地が増加し農地面積も減少している、さらには年々農業従事者の高齢化と若年の担い手(労働力)不足が深刻だ、これからの日本農業はまったく展望が見いだせない、等々と人は言う。本当にそうなのだろうか。衰退し危機に陥っているのは、小農地を私的所有している小規模零細の個人経営体(家族農業)であって、法人化されている組織経営体ではない。 そして、今後ますます「所有と労働の分離」が進み、自作農ではない会社組織の農業経営体に雇用されている農業労働者が増えてくることだろう。そして彼らはいずれ、製造業や教育・医療・介護などに従事している多くの仲間たちと、同じ労働者としての階級的な連帯を結ぶようになるのだ。 最後に、この小論を終えるにあたって強調したいことがある。 以前から、山間地や中山間地が多くて平場が少なくしかも国土も狭隘であるという理由で、日本の農業はいくら規模を拡大しても広大な平原のある米国やオーストラリアそしてEUなどの農業にはとうてい太刀打ちできない、といった主張がなされてきた。こうした主張は保護主義を正当化するために、そして、小規模農業を擁護するために大手を振って通説としてまかり通ってきたし、現在でもかなりの説得力を持ってまかり通っている。 たとえば一部の農業経済学者たちのなかには、世界の農業を規模別に3類型に区別する者がいる。1農業経営体当たりの平均経営規模別に、まず日本の25年3.7 ha(稲作では20年1.8ha)・中国:0.59ha・韓国:1.46haなどを挙げて、この規模が1類型の東アジア型だとされる。2類型としては、イギリス:81 ha(20年)・フランス:69ha・ドイツ:59haなどの旧大陸のヨーロッパ型が、そして3類型では未開の大地を開拓したと言われる―――勿論、実際には先住民(ネイティブアメリカンやアボリジニ)から土地を奪い彼らを追い出してからの開拓だったが―――米国:442ha(稲作では16年160ha)・オーストラリア:412ha(19年)などの新大陸型が挙げられる。 彼らは、こうした現にあるがままの状態を不変なものとして捉えたうえで、水田耕作中心の日本農業の規模の零細性は夏季に高温多雨の特性をもつアジアモンスーン気候に絶対的に制約されている、この事情は太古の昔から変えることのできない自然的歴史的必然からする運命的な宿痾だ、零細分散錯圃下にある小規模な家族農業という日本農業の脆弱性は我々の努力では如何ともし難い人知を越えた日本列島特有の地理的自然的条件によるものだ、等々と言う。 要するに、だからこそ″痩ニの自存自衛の食料安全保障上からも小規模な家族農業を生産者と消費者が手を携えて国民全体で手厚く保護していく必要がある、といった馬鹿話をまき散らしたいのである。 如何にも尤もらしいこうした話しは、はたして本当のことなのであろうか。 上で述べたように、農地中間管理機構(農地バンク)による集積面積がここ数年伸び悩んでおり、農地の利用集積(面的集積)が計画通りに進まず、さらなる規模拡大の障害になっている。しかしその理由は米国やオーストラリアのような広大な平野が存在しないからではなくて、土地所有が個々人の私的所有によって細分されているからである。一般的に広大な土地が農業に必要であるかどうかの問題では決してない。 この狭い日本においても大規模で生産性の高い方法で農業生産を行うことのできる広大な平野や土地は数多くある。〔注11〕問題は地理的自然的条件にあるのではなくて、それらが地権者の小規模土地によって細分されて所有されていること、つまりこれらの土地が戦後の農地解放や農地法――それらの真の狙いは彼ら小土地所有者になった農民たちが当時高揚していた労働者の運動に加わって日本が「赤化(共産主義化)」されることを防ぐための防塁にすることにあった――によって、細かい小土地所有へとバラバラに裁断されているという社会的な要因にこそ問題があるのである。 そしてこの問題の核心は、現在のブルジョア的な生産関係の法的表現でしかない「私的所有権」という権利、地球表面の1地片を家産として排他的に私的に所有できるという権利であって、この権利がもはや日本農業の発展にとって桎梏になってしまったということなのである。 この「私的所有権」は長い人類歴史において永遠に変わらない神聖不可侵なものではない。それが個々人の基本的権利(「基本的人権」と同義だ)として確立されたのは、たかだか18~19世紀来の近代市民社会(資本主義社会)の始動を待ってのことであった。その意味からも、「私的所有権」とはまさに歴史的なカテゴリーなのだということ、このことをこの拙文を終えるに当たって強調しておきたい。 〔注10〕 20年センサスによると、中山間地域には国土面積の63.8%の上に全人口の10.6%の人が住み、全農業経営体の42.7%、全農地面積の38.1%、全農業産出額(畜産を除く)の33.1%を占めている。しかし、1ha未満の経営体数の割合でみると、平地農業地域が38.3%に対して、中間農業地域55.7%、山間農業地域63.8%であるという(かろうじて、07年に法制化された中山間地農業経営体の互助組織である集落営農組織によって10.0ha以上層がそれぞれ4.4%、4.0%になっている)。さらに、1経営体当たりの農業所得がみると、平地農業地域151万円に対して、中間農業地域109万円、山間農業地域52万円となっている(それはあくまでも平均であって、その中央値はそれ以下であろう)。00~20年までの経営耕地面積の減少率は、平地農業地域で13.6%、中間農業地域20.9%、山間農業地域19.6%となっており(経営体数の推移は都府県別にされてはいるが全国的な統計はない)、特に中山間地域の減少幅が大きい。また、この1月に公表された都府県における農地中間管理機構(農地バンク)による担い手への農地の集積率は、平地60.6%、中間地49.0%、山間地42.0%となっており、中山間地では著しく低い。 〔注11〕 例えば、5年前の20年センサスによると、100ha以上の農業経営体は1,933で全経営体数に占める割合は0.2%だが、経営耕地面積では日本の全耕地面積の11%を担っており、この間ますます存在感を増しているという。15年センサスと比べて22%増加、内訳をみると北海道が17%増、都府県が33%増となっており、都府県での伸びが目立ち、農業経営の大規模化が進んでいる実態が分かる(因みに、沖縄県でも経営耕地面積100ha以上の経営体が1つだけだがある)。ただし、この統計数値公表には「農地が分散して効率化が進まず、これ以上受けられないとの声もある。面的集積が課題」というコメントがついている。 以上 |