労働の解放をめざす労働者党
綱領・規約
労働の解放をめざす労働者党の新綱領について
その意義や内容の簡単な紹介と解説
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2017年4月、3日間にわたっておこなわれた「マルクス主義同志会」の第13回大会(「労働の解放をめざす労働者党」結成大会)は成功裡に終わり、新綱領と新規約を採択、当面の方針を確認しました。
そしてここに、我々は綱領と規約を一冊のパンフレットとして出版し、広く労働者、勤労者に、そして青年に検討し、理解し、共鳴されて、我々の戦線に加わって闘う意思を固めてほしいと思います。
我々はすでに1960年の“日米安全保障条約反対闘争”のあと、“右の”日和見主義政党である社会党や共産党や、さらには“左の”日和見主義的潮流の“新左翼”諸派に反対して形成された小グルーブに端を発し、社会主義労働者党などとして1970年代から90年代初頭にかけて、繰り返し、衆参の議員選挙に参加して闘ってきた歴史を有する、伝統ある労働者政党です。
一時、サークル的組織に後退しましたが、今や激動する内外情勢のなかで、そして長時間労働に象徴される搾取労働や、非正規労働者の大群――多くの女性労働者を含む――に代表される差別労働に見られるように、資本による労働者への支配や搾取が異常に強まり、生活の困難や貧困が広がりつつあり、また反動的で、国家主義的で、危険な安倍政権が登場し、権力を壟断し、悪行の限りを尽くしているのを確認するとき、我々は再び労働者の政党に結集し、断固たる闘いに復帰し、闘い抜く必要性と必然性を自覚し、確認するのです。
我々は結党大会で、次回の衆院選、参院選に参加した後、その次の参院選(2022年)には確認団体として参院選に参加、労働者党の議員を生み出し、我々の闘いの突破口を切り開く方針を採択しました。
我々の綱領は、そうした我々の闘いを支える、闘いのための綱領であり、また選挙の中でも原則的に、そして具体的に、断固として貫かれていく闘いの指針でもあります。
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我々の綱領は、かつての我々の党、「社会主義労働者党」(社労党)の綱領を根底とし、受け継ぎつつも、その一部を修正し、またいくつかの重要な追加を行う形で書かれており、大会で若干の保留はあったものの、多数の支持を得て採択されました。
我々は旧綱領においてさえ、すでに資本主義の一般的、歴史的な規定に止まらず、現代資本主義の根本的で、深い批判的な立場を明らかにしてきましたし、それに止まらず、「社会主義」の社会と呼ばれ、誤解されていたソ連や中国等に対しても、一種の資本主義の社会(「国家資本主義」)と評価し、確認しましたが、それはすでに我々がいくらかでも政治的な潮流として活動を始めた1960年代からのものでした。
もちろん新綱領でも、こうした観点は基本的に維持されたばかりではなく、さらに、中国のブルジョア的、帝国主義的大国として登場した歴史的な意味や意義などについてもきちんと位置づけ、語っています。
そして我々の新綱領は、旧綱領ではなかった、ソ連の解体以降の四半世紀(この25年間)の、新たな資本主義の段階についても新しく語り(2章8項等々)、現代資本主義の究極の頽廃や、その近づきつつある破綻、解体を確認し、「死滅しつつある」資本主義の段階にあると結論しています。
これはしかし、いくらかでも長期的に見れば、現代の資本主義が歴史的意義や進歩性を失って、その頽廃や寄生化や衰退の時代に差し掛かり、死すべき時に到達しつつある――さもなければ、人類の滅亡の可能性さえ存在する――ということであって、今日、明日にも、世界資本主義が瓦解し、一掃される、ということとは別の問題ですが。
さらに我々の新綱領は、3章において日本資本主義ついても、その歴史や現段階についても語り、安倍政権の登場に象徴されるように、その帝国主義国家、軍国主義国家への“進化”の必然性をも暴露し、それとの闘いと反撃を、その路線の粉砕を、労働者、勤労者の、現在における、もっとも重要で、緊急の任務であり、課題であると強調しています。
そしてまた、我々は労働者、勤労者の実際的な闘いやその意義や内容や、他の党派の階級的、政治的な位置づけを行い、そんな中で、労働者の階級政党の登場とその闘いの必然性、必要性を明らかにし、我が「労働の解放をめざす労働者党」の闘いについても多くを語っています。
そうしたことは、6章の「他党派の階級的な性格とそれらに対する労働の解放をめざす労働者党の立場」や、7章の、「社会主義の勝利とともに、あるいは社会主義をめざす闘いの過程で勝ち取るべき、労働の解放をめざす労働者党の具体的要求」に詳しく展開されています。
6章は、資本のもとでの民主主義に対する、その限界やインチキに対する批判的な評価や、その限界を突破していく要求や闘いといった性格が強いのですが、7章は、労働者、勤労者や、一そう抑圧され、差別されている女性労働者の切実な要求や、その改善や一掃を求め、闘うスローガンであり、闘いの方向を示す内容で、今後、我が党が政治闘争の中で、また選挙・議会闘争に参加する中で、掲げ、訴え、闘い取っていく内容が含まれています。
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とりわけ、新綱領で注目してほしいのは、労働者、勤労者がこれから勝ち取る社会主義の根底的な内容において、これまで語られることも、明らかにされることもなかった、一つの重要な問題を、明瞭で、具体的な“法則”として解明し、綱領に盛り込んだことです。
それはいわゆる「社会主義における分配法則」はいかなるものであるのかという問題です。社会主義においても、消費手段の分配は個人的な過程でもありますが、それがいかなる具体的な形でなされるかということは、これまで明確に語られてきませんでした。
これは生産手段(機械や工場など)を個人的ブルジョアや共同資本家の株式会社(企業)から、社会的共有に移すという社会主義の内容とは区別される、社会主義のもう一つの重要な側面です。
こうした課題は、共産党によっては全く問題にもされず、提出さえされていないのですが、それは、彼らがそもそも社会主義は市場経済と矛盾したり、対立したりしないと強調して、すでにブルジョアの立場にまで完全に転落してしまい、この問題でも、「賃労働」のままでも問題ない――彼らは、賃労働とは被搾取労働を意味するという、資本主義の根底を忘れたのです、それほどに堕落したのです――、“社会主義的な”(?)市場経済によって、自動的に、自然に解決されると考え、主張しているからです。
もちろんこうした課題は、従来でも語られて来ており、我々の旧綱領でも、一般的には、「各人は自己の労働に応じて――必要な社会的控除ののち――分配を受ける」という形で述べられていました。
しかしマルクス主義同志会は、その14年間の歴史のなかで、分配法則はいかなる具体的な“法則”としてなされるかという、困難な理論問題を解決するために多くの時間をついやして議論し、検討してきました。
そして今回、我々は新綱領に、その解答をあえて盛り込みましたが、それは、労働者、勤労者の将来の共同体社会の内容に、さらに深い理解や豊かなイメージや夢を付与すると確信したからです。
社会主義における分配法則の核心的内容とは――我々がいうところの「本来的な有機的構成」、つまり生産手段を生産する労働者と、消費手段を生産する労働者の比率が2対1であることを前提するなら――、労働者は、生産手段を生産する労働者も、消費手段を生産する労働者も等しく、自らの労働時間の3分の1の大きさの労働時間の結果である消費手段を手にするということです。
一見して、労働者の直接的な感覚に対立するかに思われる、こうした法則は、例えば2人の生産手段を生産する労働者と、1人の消費手段を生産する3人だけの“社会”を想定すれば、容易に理解されるでしょう。
消費手段は直接には一人の労働者の労働の結果として現れますが、実際には、3人の労働者の分業による共同労働の結果であり、したがってまた消費手段が3人の総労働に対応して分配されるのは自明です。
マルクスの「労働に応じた分配」もまた、この意味において理解されるべきなのです。
整理していえば、基本的に二つの観点があり、それはずっと我々の中でも並立してきて、結成大会でも、明白に二つの観点として鋭く対立し、結局は採択によって決着が付けられざるを得ませんでした。
それが単なる一つのどうでもいい理論問題としてでなく、綱領の問題として、すなわち単なる理論の問題を越える実践的課題――社会主義の現実的な組織と、そこにおける分配法則、とりわけ個々の労働者に対する分配の実際的な内容と形式――にかかわる問題として突き出されたからです。
二つの観点とは、一つは、分配の法則は、資本の運動過程に組み込まれ、その中で問題にされる労働者の労働は、「生きた労働」だけであり、従って、その労働時間に直接に対応する消費財を手にするべきであり、それこそが「労働時間に応じた分配」である、といったものでした。
こうした観点は、労働者が8時間働けば、その労働時間に匹敵する消費手段を手にするのであり、それ以外ないという、単純な主張に帰着しました。
したがってまた、こうした見地に立つ人々は、「使用価値による生産手段の価値移転」とか、「過去の労働」の観念の、分配法則における意義などを強調しましたが、そうした観念は、しばしばケインズ主義経済学や、現代ブルジョアたちの官許経済学――国民所得観念や産業連関表観念等々のドグマ――とも不可避的に結びついて行ったし、行かざるを得ませんでした。
他方、そうした観念に反対し、綱領草案の概念を支持する人々は、自分の労働時間の対価として手にできる消費手段は、単純に、いわゆる「生きた労働」の対価ではなく、我々の概念に即していえば、「生きた労働」の3分の1の対価であると主張しました。
というのは、手にし得る消費手段は「生きた労働」のほかに、生産手段を生産する労働時間もまた含まれるからである、という簡単な理由からでした。
こうした議論では、社会主義における分配法則に接近するには、個別資本の運動形態からではなく、総資本の運動を明らかにする、商品資本の運動形態から接近する以外ないというのが、もっとも重要な点です。
というのは、そこでは、一定の社会の、一定の時期における、労働者階級全体の生産と消費の関係が明らかにされているからです(マルクスの単純再生産の表式参照)。
表式を一見して明らかなように、第T部門(機械などの生産手段)の生産に従事する労働者は全体の3分の2の6000であり、他方第U部門 (穀物や冷蔵庫などの消費手段)の生産に従事する労働者は3000です。全体の9000の労働者が、3000の消費手段を手にするのだから、各労働者の手にする消費手段は、自ずから自らの労働の3分の1に対応する消費手段でしかないのは、単純で、明瞭な事実として現れます。
綱領を批判した人たちは、ここで、いわば“絶対的な”矛盾に陥るしかありませんでした。
批判者たちは、生産手段を生産する労働者への分配について論じることはできません、というのは、彼らはいかなる意味でも消費手段を生産しないからであり、したがってまた自分の生産する労働時間で、自分の消費手段を手にすることはないからです。
ただ媒介的には可能です、というのは、社会的に見るなら(価値という観点で見るなら)、第T部門労働者は、自分たちの「生きた労働」によって、自らの消費手段を生産したということもできるからである。
もちろん、それはあくまで価値の観点からであって、使用価値の観点からいえば、やはり依然として“絶対的な”矛盾の中に留まっています。
問題を簡単にするために、第T部門を去って、消費手段を生産する部門(第U部門)に移るしかありませんが、ここでも、批判者たちはより深刻な、“絶対的な”矛盾に逢着することになります。
というのは、第U部門の労働者たちが「生きた労働」で生産した消費手段を、彼らの労働時間によって分配したら、第T部門の労働者には、消費手段は全く残らないということになるからです。第T部門と第U部門間の交換(相互補填)があるから解決とするといった問題ではありません。
第T部門の生産手段と第U部門の消費手段の交換によって、この“絶対的な”矛盾は解消されるかにいいますが、しかしそんなことをしたら、今度は、第U部門の労働者は自らの「生きた労働」の全体に対する対価を、消費手段の全てを手にすることができず、ただその3分の1だけを手にするだけになるしかありません。
つまりこうした考察によっても、労働者が自己の直接的な労働時間に対応して受け取る消費手段は、批判者たちのいう、いわゆる「生きた労働」の3分の1であることが明らかにされています。
綱領の見解が正しいのは自明でした、というのは、消費手段は単に消費手段生産部分の「生きた労働」によってだけではなく、生産財部門の生産手段を生産する労働者との社会的な協同労働によってのみ、そうした分業関係の中でのみ、消費手段を生産することができるからです。
消費手段の生産は、穀物生産の場合にも明らかなように、「生きた労働」、つまり農業労働によってだけでなく、機械等々の生産手段を生産する労働者との共同(協同)労働によってのみ、社会的な分業関係の中でのみ、なされているのです。
このことは、マルクスが『資本論』の始めの辺りで、「ロビンソンの例」を引いて示したことと本質的に同じです。ロビンソンは一人の生産者として、そしてまた消費者として、生きるために消費手段を獲得するのですが、単に消費手段を獲得するための労働だけでなく、道具等々(発達した社会では、機械等々)の生産をも行うし、行わなくてはならないのです(それぞれをいかに生産するかには、前後関係はあるにしても)。
発達した産業社会の場合は、この関係が広汎で、複雑な分業関係、社会関係の中で行われるし、行われる以外ないという点で、ロビンソン個人の場合と区別されるにしても、消費手段を手にするためには、いわゆる単なる「生きた労働」――消費手段を直接に獲得するための農耕や漁撈等々の労働――だけでは如何ともし難いという点では、ロビンソンの場合と同様です。
この社会主義における分配法則については、我々はまた今後、詳しい解説を行っていくべきであると考えますが、さしあたり、マルクス主義同志会時代の、我々の論争などを扱った雑誌、新聞などを参考にし、検討してください(例えば、『プロメテウス』55、56合併号等々)。
こうした分配法則の明示は、これまでのどの国の、どんな労働者政党もなし得なかったことであり、我々をもって嚆矢とするものです、まさにそれ故に、大会でも、この部分の削除を要求する修正案――対案の提出はありませんでした――が出されました。
もちろん、こうした社会主義における具体的な分配法則の発見もしくは概念は、労働者の階級闘争に取って代わるものではありませんが、しかし労働者の階級闘争を励まし、それに確信や自信を与え、一そう深い、粘り強く、強力なものに変えることができるでしょう。
いずれにせよ、人類史的な社会的生産と分配についての真理はそれ自体、強力な一つの力であって、それに頑強に、永続的に逆らうことは困難なことであり、あるいは究極的には不可能です。結局は、現在ブルジョアやプチブルである諸君を含めて、全ての人々が、社会主義における消費手段の分配法則を承認せざるを得ないのは、人類が最終的には、天動説に代わって地動説を基本的に受け入れたのと同様です。
もちろん、資本主義の体制の中で生きることを決意し、市場経済までも肯定し、正当化して、事実上のブルジョアにまで堕落した共産党は、社会主義における分配法則の問題でもまた、市場経済の法則(賃労働と労働市場による調整等々)によって行われる以外あり得ないと開き直り、こともあろうに、ソ連“社会主義”の失敗は、ソ連社会において、スターリンのために、市場経済の法則が抑圧され、貫徹しなかったからだ、などと1917年以来の人類史の重大な経験を歪めて総括してきました。
だから、ブルジョア社会の中で“ぬくぬくと”安住して事足りると考える共産党の連中にとっては、そもそも労働の解放や、搾取労働や差別労働の廃止や、その上で問題になる、社会主義における分配法則の問題は存在しなかったし、今も存在しないのです。何とみじめで、つまらない連中であることでしょう。
我々は今や、共産党の諸君に問わざるを得ません、諸君は社会主義における分配法則は存在しない、ただ賃労働という形でのみ、労働者の分配法則はあり得ると主張したのですが、我々はそんなことはない、それはあり得ると、ここに社会主義の分配法則を明らかにし、それについて語り始めています。
とするなら、今度は諸君が、共産主義者として――どんな“共産主義者”であることやら――、我々の概念に反論し、否定する順番です、そしてもしそれができないなら、諸君は社会主義者、共産主義者の党でないばかりか、むしろ破廉恥で、つまらないブルジョア政党の一つでしかないことを自ら暴露することになるだけです。
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民進党や共産党という、“左派”政党、“革新”政党の綱領についていえば、民進党(民主党)は、結党20年にもなるというのに、いまだ綱領を持ち得ていません。
一つには、党の性格がブルジョア的であり、プチブル的であって、資本の支配に反対して闘うための政治的、思想的な、明確な根底がないからであり、また党内に露骨なブルジョア分子、反動分子をかかえ込んでいて、共通の綱領を持つことができないからです。
政権を獲得した2009年の総選挙では、彼らは「マニフェスト」なる政綱を掲げて闘いましたが、それは単なるその場限りの、雑多な「政策」や「要求」を並べただけのご都合主義であって、ほとんどが空約束に終わりました。
彼らは結局、「政策や政治の内容はどうでもいい、政権交代こそが課題であり、目的である」と叫ぶしかなかったのですが、そんな選挙で勝利した民主党政権のみじめな結末については、労働者、勤労者はすでに身に染みて経験したことであって、多くを語る必要もありません。
共産党の綱領についていえば、1920年代、30年代の“スターリン主義”の影響のもとに一つのドグマとして作られており、今もまたそうした性格を保持していますが、空虚な内容の作文集といったレベルを越えず、綱領といえるようなしろものではありません。
例えば、1945年の敗戦以降の時代の共産党の綱領は、日本の“民主的革命”や、アメリカからの“民族独立革命”を謳う、典型的な時代錯誤の独断でしかなく、実践的には、テロ戦術や「山村工作隊」等々に代表される“極左”戦術主義に堕し、労働者の闘いに多大な損失と損害を与えました。
共産党のそうした非現実的で、ドグマ的な綱領的立場は今に至っても変わらず――「革命」を「改良」に、「民族独立」を「自主性の回復」等々に変えたりしつつも――、とうてい、日本の労働者、勤労者に、その闘いに責任の持てるような、まともなものではありませんでした。
共産党がめざす社会は、資本主義を克服した社会主義、共産主義だというのですが、それは市場経済社会でもあると臆面もなく主張し、しかもそれを獲得し得るのは、いつとも分からぬ、遠い先の時代の話であって、今は資本主義のもとで、“理想的な”資本主義のために闘うというのですから、労働者、勤労者に、事実上、珍妙な、一種の宗教を説教しているのと同然です。
こうした綱領に象徴される、共産党の実践の全てが、政治や政策が、原則的な、階級的なものでなく、非実践的で、的外れで、空想的なもの、さらにはブルジョア的、プチブル的なもの、労働者、勤労者とって役に立たないものならまだしも、混沌としたもの、有害なものとして現れるのは一つの必然です。
共産党は100年の間、党名を変えなかったことが、何か自慢のタネらしいが、笑止千万です。
名前を変えなくても、党そのものが全体としてブルジョア的に変質し、堕落してきて、敵陣営の自民党や、共闘相手の民進党などからも、共産党は党名と実質が違っている、どうせなら党名も変えたらどうか、そうしたら信用してもいいといわれているのですが、そんな虚飾の党名に一文の価値もありません。
共産党は、共産主義の党を名乗りながら、今ではとことん堕落してしまい、最近の天皇の生前退位の問題――これはそもそも、天皇と天皇家の地位と特権の延命と永続化のための、天皇と天皇一家の心悪しき策動の一つ以外ではありません――では、安倍政権と積極的に共闘しており(野党共闘の盟友であるべき民進党を出し抜いてまでして、です。自共共闘にうつつを抜かしつつ、何が野党共闘か、それによる政権交代か。冗談もほどほどにすべきです)、天皇と天皇家に奉仕するまでに後退し、転落しているのです(まさに天皇制のために虐殺されたといえる、幸徳秋水や小林多喜二らは、草葉の陰でどんなに怒り、憤激していることか、大義を裏切る、不破や志位らをどんなに軽蔑していることか)。
他方、我々は55年余の歴史において、その時々の情勢や我々の任務や闘いの状況において、何回か組織の名前を変えたりはしましたが、その階級的、政治的立場や、思想や理論的観点では原則的に一貫しており、根底的な実践的、思想的な立場において、綱領的立場において、どんな動揺や変節とも無縁でした。
そして我々のこうした原則的な立場は、かつての社労党時代に綱領においても明らかであって、我々は今回、労働の解放をめざす労働者党の綱領作成に当たっても、基本的な内容において、旧綱領の部分をほんのわずかでも修正する必要を感じなかったのであり、その基本的内容を引き継ぎ、維持しつつ、さらに新しい現実に対応した現綱領を作ることにどんな違和感もためらいもありませんでした。
政党にとっては、綱領はその党の政治や闘いの根底をなすものであり、その政党にとって本質的なものを代表しています。
全国の心ある、多くの労働者、勤労者や、青年諸君の多くが、我々の綱領を真剣に、また深く検討し、支持を寄せて、我々の戦線に結集されることを望み、期待して止みません。
我々は再び、労働者党を再建し、再度、政治的闘いに、選挙・議会闘争に復帰し、遅くとも5年後に労働者の国会議員を勝ち取り、それを突破口に、議会の中にも労働者派の勢力を10人、20人、そして数十人と拡大していく路線を決定しました。
日本と世界の労働者、勤労者の解放のために、人類が資本の鉄鎖を永遠に断ち切っていくために、共に闘いましょう。
2017年4月13日
労働の解放をめざす労働者党 代表委員会
労働の解放をめざす労働者党綱領
目 次
労働の解放をめざす労働者党(略称、「労働者党」)は、資本の支配・搾取及び一切の圧制から人類の解放をめざして闘う国際的な労働者階級の運動の一部であり、全世界の国々における労働者人民(とりわけその意識的要素である真の社会主義者、共産主義者たち)と連帯して、この目的を追求する。
我が党の究極の目標は、全世界における社会主義の勝利であり、一切の民族的・国家的なしきりをなくして、人類が真に人類として出現する世界の実現である。しかし我々は、労働者の闘いが内容として国際的であっても形式では国民的であることを知っており、従って日本における社会主義をかちとることが我々の直接の目的である。
我が党は、ブルジョア政党、反動政党はもちろん、労働者の味方や、社会主義者、共産主義者を装う、一切の日和見主義党派、急進主義党派に反対するとともに、以下の綱領を支持し、その理想を実現するために自由意思にもとづいて結集し団結した、闘う労働者の階級政党である。
我が党の綱領は、まず、資本主義の一般的特徴及び現代の資本主義のいくつかの基本的な特徴を示し、さらに進んで、労働者階級の闘いの課題、その性格、その道順、その方法を、そして同時に、我が労働の解放をめざす労働者党の闘いの意義や性格や任務や、さらには労働の解放後の未来の社会関係の根底的原則の一つ――これまで明示されてこなかった個々の成員への消費手段の分配法則――をも明らかにする。
我々は綱領で従来の「社会主義」という言葉に代わって「労働の解放」という言葉を押し出し、また党名にも用いているが、もちろん両者は基本的に同じ概念である。しかし社会主義という言葉が、歴史的に社会民主派、改良派やスターリン主義派(共産党)らによって卑しめられ、汚されており、またブルジョア的観念にさえ堕している現在、労働者階級の解放やその夢を託す言葉として余りに陳腐であると考え、より深い労働者解放の理念として、「労働の解放」の概念を高く掲げることにする。
もちろん、「労働の解放」の概念は搾取の廃絶や、賃労働の廃止(労働能力の“商品化”の廃止)と言い変えられるが、しかしそれよりも深いものである。それは労働者、勤労者の社会的な労働が直接にそうしたものとして現れないで、商品の「価値」、つまり“対象的な”形、“物化”という形で現れ、したがってまた貨幣、資本という形で(貨幣資本に止まらず、生産資本、商品資本等々としても)現れ、逆に労働者、勤労者に対立し、抑圧し、非人間化するモノに転化することと深く関連している。だから労働者、勤労者が本当に解放されるには、単に資本主義に止まらず、“市場経済”そのものが廃絶されなくてはならない。そもそもスターリン主義者たち(共産党など)が言いはやす、「市場経済的社会主義」など幻想であり、あり得ない。
一、資本主義の一般的特徴
一
資本主義は、労働生産物を単なる使用価値――人間の欲望を充足させる有用物――としてでなく、商品として生産するが、これは資本主義もまた、私的所有と分業に基礎を置き、人々が、私的利益の追求と全般的競争から出発するからであり、人類が社会的生産と生活を自らの自覚した統制のもとに置いておらず、いまだ“経済”の盲目的な運動に従属し、「人類前史」の段階にとどまっているからである。
二
だが、資本主義は単なる商品生産の社会ではなく、「最高に発展した商品生産」の社会である、つまり生産物を一般的に商品として生産するが、このことは必然的に、直接生産者が生産の客体的諸条件から分離されて“自由”である――生産者は同時に、封建的、身分的束縛からも“自由”である――ことを意味する。すなわち、資本主義社会では、生産及び流通の手段の最も重要な圧倒的部分は一握りの階級に属しているが、他方、住民の過半は“無産の”賃金労働者に転化している。「資本」とはこうした社会関係を表わしている、すなわち生産手段の所有者が“自由”な労働者を“市場”に見出し、商品を生産して剰余価値(利潤)を取得する目的でこれを搾取するとき生産手段は資本となる。
三
労働力の販売以外に生活の方法を持たない賃金労働者は、工場・職場において、資本の専制支配下で、資本の奴隷として、資本のために働き、剰余価値を提供する(搾取される)ことを余儀なくされるが、その結果は、ますます増大する利潤と急速に進む資本の蓄積である。労働者の実質賃金は増加するときもあるが、しかしその場合でさえ、巨大化する資本に比べて労働者の地位はますます悪化し、労働者は一層資本への従属を深めていく。
四
一般的競争の強制の下に、各資本は資本の蓄積と技術革新に狂奔し、その中で、他の資本をほろぼして大資本が生れ、成長する。小生産者は没落し、資本の集中・集積は進み、大資本は経済と国家の指導的勢力となる。
かくして、資本主義は、一方で生産と労働の社会化を急速におし進め、生産力の驚嘆すべき発展をもたらすが、他方ではこの巨大な生産力は一握りの大資本によって所有され、大資本の利益のためにのみ利用せられ、生産の無政府性を激化させ、多かれ少なかれ深刻な恐慌を避けられないものにする。労働者大衆のますます広汎な層の生活の不安定や失業や様々な種類の困窮や災厄は増大し、資本と賃労働のへだたりと対立は一層大きくなる。これらの事実は、資本主義のもとで形成され準備された高度な生産力を、生産者の社会的共有財産に移し、人類全体のために利用する必要性と必然性を決定的に明らかにしている。
五
資本主義の発展とその矛盾の展開は、同時に、資本に対する労働者大衆の怒りや不満を増大させ、労働者の団結――労働組合への、労働者政党への――を打ち固め、労働者の階級闘争とその意識的表現である社会主義運動を発展させ、社会主義の勝利の主体的条件を成熟させ準備していく。社会主義は単なる「選択の問題」ではなく、人類の歴史的必然であり、労働者の階級闘争はこの必然性の本質的契機である。
二、現代の資本主義――独占資本主義、国家資本主義(ソ連、中国の社会経済体制)、国家独占資本主義
一
資本主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて独占資本主義の段階に達し、さらに二つの世界大戦や大恐慌を契機にいわゆる国家独占資本主義の段階に到達した。他方、独占資本主義の世界に対抗しつつ、ソ連・中国等の後進的大国を中心に国家資本主義が発展した。
二
独占資本主義の時代は、資本の集中・集積が極端に進み、一握りの大独占が経済社会の全体を支配するようになったばかりでなく、資本家団体――カルテル、トラスト、シンジケート――が決定的意義を獲得して、資本主義に固有の矛盾が一層激化して来た時代、資本が“個別”資本、“私的”資本としてでなく、株式資本として、つまり結合資本、共同資本としてあらわれ、所有資本家にかわって機能資本家が優勢になって来た時代、そして同時に独占資本の支配が世界的にもおし広げられ、商品の輸出にかわって資本の輸出が「とくに重要な意義」をもつようになり、少数の富んだ国が他の国々を植民地、半植民地として支配、収奪してこえふとり、さらに世界の支配と搾取領域等々をめぐって世界的な戦争がひきおこされた帝国主義の時代、世界中のいたるところで反動と野蛮状態への逆もどりが見られ、労働者勤労大衆に耐えがたい災厄や惨禍や不幸が襲いかかった時代、従ってまた不可避的に、資本主義と帝国主義に反対し、その打倒をめざす世界の労働者勤労大衆の革命闘争と民族解放闘争が開始され発展した時代である。20世紀前半の二つの大戦をきっかけに、全世界で多くの王制が倒れ、ロシアでは人類史上はじめて労働者階級のヘゲモニーのもと、“労農”国家が生まれ、また中国をはじめ多くの植民地、半植民地国家でも“労農”革命が勝利し、あるいは民族解放がかちとられた。
三
しかし独占資本主義は、1930、40年代に一層高度な段階に、すなわち国家独占資本主義に移行した。
我々の生きているこの時代を特徴づけるものは、大独占の一層の発達及び独占と国家の結合・ゆ着であり、国家とその機能や、保持する政治経済的巨大な権力が、大独占の利益のために大規模に動員されるようになったこと、“管理通貨制度”に移って価値=価格関係が一層あいまいで不安定になり、財政と国家の経済政策が大きな意義を獲得して、“福祉”等の偽善的政策がもてはやされる一方で、独占が国家に寄生する軍需資本にますます転化し、軍国主義、帝国主義が発達し、反動と反革命が極端に野蛮で非人間的な形をとるようになったこと等々である。
四
帝国主義の時代は、後進諸民族を出口のない情況に追い込んだが、この矛盾は後進諸国における労働者・農民の革命(人民革命)を必然化し、後進諸国に先進資本主義国とは異なった形の国民経済的発展をもたらした。1917年のロシア革命、1949年の中国革命は、プロレタリアートの革命の刻印を強く押されていたとはいえ(とりわけロシア革命)、全体としては“労農”革命すなわち急進的ブルジョア革命であり、その限界を越えることができず、その結果、これらの国家は国家資本主義の道を歩むことになった。国家資本主義はソ連や中国のかつての半封建的・半植民地的社会に比べれば百倍も千倍も進歩的であり、これら大国の国民経済的発展を可能にしたが、しかし資本主義の一つの特殊な形態であり、何千万、何億の労働者人民に対する苛酷な抑圧と搾取、政治的無権利、粗野で原始的な専制政治をその必然的契機としたのである。“スターリニズム”とは、こうした国家資本主義の“上部構造”以外の何ものでもない。
国家資本主義の本質的特徴は、資本の国家資本としての存在である。生産手段は国有化され形式的には共有化されているが、実際には資本として存在し機能しており、ますますその本性を明らかにしている。いわゆる“自由化”とは国家資本主義の資本の体制としての内的本性の発露であり、この体制の隠された内容を暴露するものである。“自由化”の意義は、公認の“社会主義”がいかなる意味でも社会主義でなく、労働者に敵対する一種の資本主義であることを明らかにすると共に、全世界の労働者に(とりわけ“社会主義”諸国の労働者に)、真の社会主義をめざす公然たる闘いの出発点を与えるところにこそ認められるのである。
しかし最も進んだ国家資本主義国では、“自由化”は公然たる“資本主義化”の段階に到達しているが、しかしそれがロシア、中国、北朝鮮等々における労働者階級の社会主義を目指す公然たる階級闘争に転化し、発展するためには、これらの国々において専制的体制が一掃され、政治的民主主義が勝ち取られなくてはならない。
五
二つの世界大戦は世界各国の不均等発展を激化させ、世界の支配構造は大きく変化した。ヨーロッパのいくつかの帝国主義国と日本帝国主義が敗北もしくは大きく後退した結果、国家独占資本主義諸国の中ではアメリカが、国家資本主義諸国の中ではソ連が台頭し、この二国を盟主にそれぞれ国家連合が形成され、人類の死滅さえもたらしかねない危険な大量破壊兵器を手中にして、世界が二分され対峙するという「高度」帝国主義の時代が訪れ、相互に軍拡を競い合ってきた。
しかし国家資本主義のブルジョア社会としての進化は、ソ連・東欧の解体と共産党(スターリン主義者すなわち専制的な国家資本主義官僚)の支配の終焉を準備し、ソ連・東欧は多くの民族国家に分解・分裂し、国家資本主義イデオロギーに代わって民族主義が台頭した。ソ連の没落は、アメリカを中心とする“自由”資本主義の世界的な勝利を実現し、資本主義的世界体制として、世界は再び統合されたかであるが、しかし欧州連合(EU)の発展、日本の経済的、政治的台頭、中国の独自の政治的、経済的大国としての出現やロシア(旧ソ連)の帝国主義国家としての再登場、そしてソ連没落後世界の唯一の帝国主義的大国として存在するアメリカの経済的な衰退は、この世界が決してアメリカ帝国主義の“一元的に”支配する、安定した世界ではなくて、現実には深い政治的、経済的危機を秘めた、覇権をめざす諸国家間の熾烈な闘いの場であること、新しい帝国主義とその再編成の時代が始まりつつあることを教えている。
とりわけ中国の新たな大国としての登場は、世界史的な意義を持っている。中国は表面は共産党専制の“社会主義”国を装っているが、本質的に資本主義国(国家資本主義の国)であり、ますますそのブルジョア的本性をあらわにしている。中国は近い将来、共産党専制の体制と自由な運動を求める資本との矛盾を爆発させ、その政治経済体制を激動させるだろうが、そうした中で、貫徹されて行くのは世界でも一、二を争う帝国主義的強国としての発展である。
六
現代の世界は依然として帝国主義の支配する体制であり、資本輸出、貿易その他を通して後進諸国家・諸民族の収奪が貫徹されているが、にもかかわらず、第二次世界大戦後、アジア等々を中心とした多くの国家では、政治的解放をテコに資本主義的発展が開始されつつある。これらの国家では、工業生産と労働者階級が成長し、先進諸国の労働者との共通な社会主義的闘いの意義が確認されるべきだが、他方、いまだ古い政治経済体制――多かれ少なかれ封建的もしくは部族的な――と経済的停滞のもとにあり、大きな困難に直面しているアラブ・中東、アフリカ等々の多くの国々では、なお労働者人民の革命闘争によって一切の古い政治経済関係を打倒し、また重い宗教的束縛を断ち切って、まずもって国民経済的発展をかちとるなかで社会主義への道を見出していくという課題に直面している。アラブの春(ジャスミン革命)の挫折は、これらの地域もしくは諸国の民主主義的変革と経済的発展への道の困難や障害を教えている。これらの国々と国民に対しては、先進諸国の労働者階級の援助が大きな意義を持ちうるが、しかしそれは、彼らが自国の利己的な大独占の支配を粉砕し自らを「国家として組織」した後であって前ではないだろう。
七
国家独占資本主義は、数社から数十社の超巨大企業でもって、世界のあれこれの財の生産と消費を充足し得るような、高度な独占体制――まさに世界的な社会主義を可能ならしめるに十分な――を生み出しつつ、とりわけ20世紀末から21世紀にかけて大きく動揺し、変動して、国家資本主義の国々(ロシア、中国等々)も巻き込みつつ、一層高度な段階、まさに資本主義の「最高の発展」段階に、つまり「資本主義制度からより高度の社会=経済制度への過渡」に、したがってまた「死滅しつつある資本主義」の段階に到達したかである。
現段階の資本主義は、従来の国家独占資本主義の体制――アメリカとその経済力を背景とも中心軸ともする体制――が、新しい、特徴的な生産力(IT技術等々)を推進力に、部分的には進化や「経済成長」を示し得るとしても、全体としては、国家の経済的、政治的なてこ入れや政策なくしてはまともに生き延びていくことのできない世界、その固有の矛盾を発展させ、経済の慢性的な停滞や衰退に陥り、寄生化、腐朽化を異常に深化させて来た世界である。
それは、まさに「死滅しつつある」資本主義として、資本主義の根幹であり、その安定や繁栄の根底ともいえる、貨幣を止揚する――貨幣と金との結び付きをたつ――ことによって、ありとあらゆる、まともな経済関係を動揺と不安定と混沌のまっただ中に投げ込み、財政の未曾有の肥大化や崩壊を必然化し、あるいは信用の人為的な膨張や解体や破綻を避けられないものとし、したがってまた、絶え間なく、そして時には急速に進む物価上昇や、為替相場の激しい変動や、貸借関係の急激な動揺や瓦解までも、不可避で、日常的なものとする資本主義である。
かくして現代の資本主義は、社会経済関係の一切の健全性や安定性を、その根拠を失って――資本主義の根源的な矛盾から生じてくる、恐慌とか不況とか、労働者、勤労者の低賃金や生活不安とか、地位の不安定とか大量失業とかいった矛盾は別にしても――、まさに無法と無秩序の中に落ち込んで行く資本主義、「永続性」はおろか、いくらかの「継続性」すら持ちえなくなっている、つまり「死すべき」姿をさらけ出しており、ますますそうしている資本主義である。
八
独占資本主義、国家資本主義、国家独占資本主義、――これらはいずれも、現代が、資本主義が高度に発達し、資本の生産力と組織性が非常に高い段階に達して、人類の社会主義への世界的移行が現実的課題となった時代、そしてまた、資本主義の矛盾がますます激化して、もし労働者階級が適当な時期に勝利しないなら、人類の野蛮状態への逆もどりもしくは破滅さえも予想される、人類史の危機の時代であることを教えている。労働者階級は自らの階級闘争を発展させ、ブルジョアジーを打倒し、生産手段を社会的所有にかえ、社会主義的生産に移っていかなくてはならない。社会主義だけが何億の賃金労働者を真に解放し――そしてそのことを通して他の抑圧されているすべての階級も解放し――社会の階級への分裂と国家を止揚して一切の抑圧と搾取の条件をなくし、人類の「必然の王国から自由の王国」への飛躍を可能とするのである。
三、日本資本主義の発展と労働者階級の任務
一
各国の経済発展の程度と形式のちがいにより、各国の労働者階級のかかげる目標は異ならざるをえないが、しかし日本の労働者階級の目標は、日本の資本主義が高度な発達をとげて独占資本の支配が確立されていることからしても、また基本的にブルジョア民主主義が実現されて公然たる社会主義的闘いが保障されていることからしても、直接に労働者の社会主義革命であるし、そうでなくてはならない。
二
日本の資本主義は1868年の明治維新を出発点に、専制的な“藩閥”国家の保護育成のもとで急速な発達をとげ、すでに第一次世界大戦の前後には“財閥”資本を中心に独占資本主義として確立して来たが、特有の“前近代性”と脆弱性とあいまって、そのますます大きくなる困難からの脱け道を海外への帝国主義的膨張に、すなわち他民族の搾取と抑圧に求めざるをえなかった。この段階では“天皇制”は、すでに日本のブルジョア軍国主義、帝国主義の道具に転化した。
三
しかし、日本の帝国主義が一敗地にまみれたために、日本の独占資本の野望は挫折し、日本の独占資本は米占領軍の指導と保護のもとに政治経済体制を“民主化”し、資本関係を“近代化”することで延命を策し、共産党やかつての社会党の裏切りに助けられて敗戦後の“混乱期”、激動期をのり切ったあと、国家独占資本主義の機構と政策を最大限利用しつつ、世界でも一、二を争う急成長をとげて来、その結果、日本資本主義は非常に大きな生産力を実現し、社会主義の物質的条件を十分そなえるにいたっている。
しかし、資本主義的発展すなわち資本の蓄積と生産力の上昇が急速であり、直接生産者(とりわけ小農民)の労働者化及び労働者階級の搾取が大規模に進行し、無政府的生産が加速されたために、過剰生産、インフレーション、財政危機、大都市と農村との矛盾の激化、多くの公害と生活環境の破壊などの災厄がもたらされ、独占資本の頽廃と寄生性も深化し、労働者人民の生活は相対的かつ絶対的に悪化し、階級矛盾は激化した。
いわゆる日本の労働者の“保守化”現象なるものも、日本資本主義の発展・繁栄の幻想と大独占による一部労働者の買収を客観的条件とし、共産党や旧社会党の日和見主義的、ブルジョア的堕落によって助長されたものであり、恒久的なものではない。
四
戦後の急速な資本主義的発展のなかで、本来の小ブルジョアすなわち“旧”中間層は解体し(とりわけ農民)、社会的な比重を低下させてきたが、しかしなお大きな社会的勢力をなしている。国家独占資本主義の頽廃した体制自体が彼らを温存し、再生産しさえしている。
彼らは大資本に抵抗し、それと闘いさえするが――ときには激しく――しかしうしろ向きに、自らの小所有と小経営を破滅から守るためにそうするにすぎず、労働者の資本に反対する階級的闘いとは本質的に区別される。
彼らはただ、小ブルジョアとしての自らの立場をすて労働者階級の立場に移る限りで革命的たりうるのであって、労働者は小ブルジョアとしての彼らの要求や立場を支持したり、また小ブルジョアとしての彼らとの“統一戦線”を追求することはできないし、すべきではない。
五
明治維新後の“原蓄期”のなかで生まれ成長を開始した日本の労働者階級は、今では「総労働力人口」の3分の2をこえる圧倒的比重を占めるまでになったが、女性の繊維労働者や鉱山労働者が主力であった時代から、重化学工業の労働者が中核となった時代へ、さらにコンピュータや自動機械や電子工業の諸技術が支配する高度に単純化・抽象化された労働に従事する労働者が大きな勢力をなす時代へと移って来ている。
そしてそれと同時に、独占資本とその組織性及び国家独占の発達は、ラジカルな技術革新の急速な進行とあいまって、その“管理”のために(多かれ少なかれ資本機能の担い手としての)膨大な“新”中間層を登場させ、生産的労働者――物質的生産に従事する労働者――と区別し、対立せしめたが、しかし今では、この“新”中間層の概念は、やはり資本主義の高度の発達の結果としての様々な層の不生産的労働者に対して広く用いられている。
彼らは直接に資本機能の担い手でない場合でも、きわめて“専門職”“技術職”意識が強く、また生産的労働に従事しておらず直接に資本に搾取されていないために非階級的であり、保守的もしくはおくれた労働者層を形成し、ブルジョア的小ブルジョア的労働運動の一つの有力な基盤であるが、しかし、その下層の地位は一般に生産的労働者に近く、また準生産的労働者と呼びうる広汎な層(教育・保育労働者、医療・介護労働者等々)を含んでおり、この層は労働者の社会主義運動の一方の担い手である。
最近の日本で不生産的労働者や純然たる寄生的“労働者”群の比重が上昇しつつある事実は、日本の資本主義が独占資本主義として爛熟、腐朽し、前進的・進歩的な側面をますます失って「死滅しつつある資本主義」に転化しつつあることの一つの顕著なメルクマール(指標)である。
資本主義のもとで肥大化した寄生的、不生産的労働を一切なくしもしくは最小限に縮小し、生産的労働を合理的、計画的に再組織する社会主義は、何千万の生産的労働者、準生産的労働者にとって真の利益であり、解放である。
社会主義は基本的に、ただこれらの労働者の自覚した階級的闘いとしてのみ可能であり、また必然であって、労働の解放をめざす労働者党はまさに彼らの独自の、独立した階級政党であり、この階級のすべてのすぐれた、積極的な分子を結集して資本に反対する階級闘争を貫徹する。
六
資本主義国日本は、戦後の一時期米軍の占領下に置かれたとはいえ、 すでに1950年代のはじめ“単独講和”によって“主権”を取り戻し、アメリカを盟主とする“自由主義”国家群の一員――すなわち国家独占資本主義の世界的体制の有機的一環――として自らを位置づけつつも、政治的には完全に独立国であり、従って日本の労働者の課題は基本的に“民族的”“国民的”でなく、資本家国家の打倒をめざす階級的闘いを発展させることである。
日米安保条約に法的表現を見出す日米の同盟関係も1950年以降大きく変化してきたが、その基本的内容をなすものは、「対米従属」の深化ではなく、反対に、この同盟関係のなかにおける日本独占資本とその国家の比重と地位の上昇であり、日本独占資本の帝国主義ブルジョアジーとしての登場である。
21世紀に入り、日本資本主義は、アメリカとの同盟をテコに、ますます反動的な軍国主義国家、帝国主義国家として出現して来、自らの、そして世界の帝国主義的体制を永続させ、防衛しようと策動を強めており、ますます強めようとしている。
七
日本資本主義にとって、重大な転機が1985年のプラザ合意にあったことは確かだが、しかしそれはもちろん単に「外圧」によって日本資本主義が変質し、頽廃したといった意味ではなく、変質、頽廃自体は、日本資本主義の「高度成長」つまり強蓄積の結果であり、その行き詰まりとして内在的であり、そんな時代の終了を告げ知らせたのである。
プラザ合意をきっかけとして、日本の円は急騰し、また内需拡大の「外圧」の中、日本経済は深刻な景気後退と危機が叫ばれ、派手な金融緩和が行われたが、それは80年代後半の止まるところを知らない、無政府的な資産バブルの時代を招き寄せ、その後の何十年にも及び、今にまで尾を引く長期的頽廃や衰退の経済につながって行った。
資産バブルのものすごさとその残した影響の深刻さは、バブルがはじけることによって、株資産で400兆円、土地資産で600兆円もの膨大な「価値」――もちろん、架空資本――が失われ、日本資本主義が壊滅的といえる衝撃と打撃を受けたことからも明らかである。産業資本もまた過剰資本を顕在化させ、金融資本は不良債権の山に押しつぶされそうになり、信用崩壊に怯え、国家と自民党政府は金融緩和政策――極端な低金利政策や量的緩和の政策――に走り、あるいは巨額な借金による財政膨張政策に没入することで――その担い手の一人であった小渕首相は、いささか自嘲的に、世界の「借金王」を自称したほどであった――、経済の救済と成長に期待したのだが、もちろんそんな邪道のやり方は幻想に終わってきたし、そうなるしかなった。
かつて一時「世界の工場」とさえ言われ、経済規模はアメリカについで世界2位といわれた面影はすでになく、ようやく電器産業と自動車産業によって栄えると見られた当今だが、今や電器産業の衰退も顕著である。
20世紀末から21世紀初頭にかけての日本資本主義は、過剰資本を世界に「輸出」して寄生化を深め、生産的労働の縮小や経済の「空洞化」に悩み、また財政膨張によって国家債務の返済を不可能にするような水準に高め、あるいは需要創造のためと称して赤字財政を恒常化させ、さらには為替相場を引き下げて輸出増を狙うなど、あらゆる「政策手段を動員」して悪戦苦闘したが、それらの努力のほとんどは逆効果であって、日本資本主義の寄生化や衰退にさらに拍車をかけただけであった。
かくして日本の労働者階級への抑圧、搾取はさらに深刻で過酷なものとなり――はびこる長時間労働、低賃金労働――、非正規の、つまり半失業ともいえる労働者――このうち7割が女性で占められている――の比率は、ここ30年ほどの間に1千万人から2千万人に、つまり賃労働者の2割から4割に倍増し、しかもアルバイトとか主婦層の補助的な労働から、家計を中心として支える労働の割合が上昇するなど質的にも変化し、労働者の差別労働、搾取労働からの解放という課題は切迫した、焦眉の課題に転化した。
我々は日本の労働者階級の解放のために全力を上げて闘うが、しかしもちろん、日本における資本の支配を一掃する闘いは孤立したものではなく、ただ世界の、とりわけアジア諸国の労働者の闘いと結びついてのみ、その一環としてのみ、その意義と役割が、そして展望が明らかにされ、また語られなくてはならないことを確認する。
四、労働の解放をめざす労働者党が目標とする社会主義の基本的内容
一
社会主義の概念が全く混乱させられている現在、労働の解放をめざす労働者党の目標である社会主義の基本的な特徴と内容を明らかにすることはきわめて重要な意義を持つ。これを語ることは、社会主義社会において、資本主義的生産の矛盾がいかに解決され、またいかなる形で生産・分配が行なわれるかを示すことである。
二
労働の解放をめざす労働者党の目標は、この社会の一切の生産手段――工場、機械、運輸手段、土地その他――の私有を廃止し、それらを社会的共有に移し、社会の全成員の福祉と全面的発展とを保障するために社会的生産過程の計画化・組織化を実施することである。
生産手段の社会的共有化とは、単なるその国有化ではない。国有化が真の社会的共有化の内実をかちとるためには、ブルジョアジーの階級支配が廃絶されなければならない。
小所有もまた廃止され、社会主義的共同生産のなかに止揚される。この過程は労働者政権及び大工業による支援のもとに小所有階級の自由意思と自発性に基づいてなされる。
社会主義とは階級の廃止であり、従って本来の意味での国家――人類の階級分裂の結果としての国家――もまた「死滅する」。
三
社会主義的生産の実現と共に、人々が自分たちの消費と欲望充足のために、共同して自然に働きかけ、自然を改造して富(欲望の対象)をつくり出すという関係――人間と自然との関係、人間と人間との相互関係――は全く透明で分かり切ったものになる。今や人々は、利潤のために一つの職業、一つの仕事に一生涯を通してしばりつけられ、狭い視野におしこめられる「部分人間」であることをやめ、すべての方向に社会的関心と能力を伸ばすことが可能となる。資本への人間の従属がなくなると共に、機械への人間の従属も消滅し、人間がオートメ化された機械やロボットやコンピュータを使うのであって、その逆ではないことが明らかとなる。
社会主義のもとでは、すべての労働可能な成人が労働に従事し、かつ各人は自己の労働(時間)に応じて――必要な社会的控除ののち――分配をうけることになる(これすなわち「働かざるもの食うべからず」の原則の実行であり、一切の寄生人口の廃止である)。これは「自分が一つの形で社会に与えたのと同じ労働量を別の形でかえしてもらう」という限りで、商品交換の法則と同じであるが、しかしこの場合、各人は社会と対立関係にある個人ではなく、社会的個人であり、社会と個人の分裂は止揚され、各人の個人的労働は事後的にでなく、始めから社会的総労働の一部分、その一分肢として存在するところが本質的にちがっている(どんな搾取も、すでにないことはいうまでもない)。
我々は、社会主義における分配法則を、以下のような極めて単純で、明確な形で提示する。
《社会的な生産における、本来的な“有機的構成”――生産手段の生産に支出される労働(量)と、消費手段の生産に支出される労働(量)の比率――が2対1であるとすれば、両者に支出される労働(量)の比率は、当然2対1である。
こうした前提のもとでは、個々の共同体の成人に対する分配法則は、以下のようなものとして現れる。
すなわち、10労働日の“生きた”もしくは“直接の”労働の結果である冷蔵庫は、30労働日の労働の対価として分配され、また1労働日の“生きた”もしくは“直接の”労働の結果である主食穀物(例えば、米とか麦とか)は、3労働日の労働に相応して分配される。》
つまり一言でいって、この冷蔵庫を手にするためには、社会の各成人は、10労働日ではなく、30日の労働を要するということである。
なぜ10労働日の冷蔵庫に対して10労働日でなく、また1労働日の主要穀物に対して1労働日の労働でなくて、その3倍の労働かといえば、冷蔵庫や主要穀物を生産する労働には、直接に冷蔵庫らを生産する労働者の労働時間だけでなく、冷蔵庫らを生産するための生産手段のための労働時間もまた含まれ、加えられるからである。
言うまでもなく、それらの労働も、全般的な社会的分業によって、生産手段生産部門の労働者によって担われ、支出されたものであって、またそう理解すべきである。
こうした透明な社会関係のもとにあっては、ますます急速に発展する生産力の利用と労働の効率的な組織化の結果、労働時間も直ちに2分の1、3分の1に短縮され得る。そして、さらに生産力が豊かに発展するにつれて、人々は階級社会による強制労働だけでなく生活の必要に縛られる労働からも徐々に解放され、自己の能力をあらゆる方向に、全面的に発達させることができるようになり、社会は、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という高い段階の共産主義へと接近していく。
四
階級の廃止とともに、一切の差別――人種、民族、身分、出生、性、心身障害、宗教等々による――も廃止される、というのは、もはや一部の人々を他の人々と対立させて差別するどんな根拠もなくなるからである。差別の克服の出発点は、差別されて来た人々が他の人々と同じ条件で――必要な配慮のもとに――社会的労働を担うことである。
社会主義はまた、労働者の搾取や生活不安をなくすという意味でも、全面的もしくは部分的な労働不能者への完全な社会的保障であるという意味でも、真の“福祉”社会である。こうした社会主義の展望からすれば、ブルジョア社会の“福祉”なるものは矮小なごまかし以外の何ものでもない。
五、社会主義の勝利と諸条件、闘いの手段及びその道順
一
労働の解放及び階級と搾取の廃止、一切の差別の克服や本当の“福祉”の実現というこれらの目標を達成する手段は、単なる宣伝や啓蒙ではなく、労働者の階級闘争であるが、しかし我々は新左翼などの急進主義者のように“暴力闘争”を自己目的とするものではなく、宣伝、啓蒙、組織化を階級闘争の発展の重要な契機として重視する。
二
賃金闘争、労働条件改善のための闘い、労働者の権利のための闘い――これらはみな労働者の階級闘争の出発点、その発展の諸契機であって、その根拠は資本の搾取と抑圧及び資本の不合理な体制にこそある。
労働の解放をめざす労働者党は、広汎な労働者を結集し、かつその先頭に立ってこうした闘いを闘いぬき、労働者の階級的力量を高め、党と労働者大衆との接近・結合をかちとると共に、これらの問題の本当の解決が社会主義の実現のなかにあることを明らかにし、日常的な階級闘争を、社会主義をめざす階級的闘い(党的闘い)と結合し、そこに高めて行かなければならない。
労働組合は労働者の自然発生的な階級組織であり、資本に対抗して労働者の経済的利益を守るところに本来的な役割があるが、しかし、労働者の政治闘争の発展とその解放のためにも労働組合の組織された力は活用されなければならない。
しかし、労働者党は、労働組合を階級的に高めるために一貫して努力しつつも、 労働組合の本性を考慮して、 その“囲い込み”や「一党支持のおしつけ」等の一切のセクト主義的、分裂主義的な組合政策に反対し、最も広汎な労働者の民主主義を要求し、かつ実現する。
三
“民主主義”のための闘いも、労働者階級の一つの重要な課題であるが、しかし労働者党にとってはそれは小ブルジョア党にとってのように絶対的なものではない。我々は“民主主義”もまた国家であり、資本の支配の一つの形態――資本にとって最も特徴的な――であり、それが何千万の労働者大衆に対する資本の大規模な搾取と何ら矛盾しないこと、すなわちその本質的な限界と欺瞞性を強調しつつも、それが労働者の公然たる社会主義的闘争を保障し、またこの政治体制のもとでのみ階級闘争が最後まで闘いぬかれるというその意義を確認する。
ブルジョア民主主義の限界と欺瞞性は、それが自ら謳った「法の前でのすべての人の平等」さえ実現しえなかった――この顕著なあらわれは、人類の半数を占める女性への差別である――ところに象徴的に示されている。差別撤廃の要求は一般民主主義の課題であり、それ故に我々は差別の即時撤廃の要求を資本につきつけて闘っていく。しかしその完全なもしくはいくらかでも徹底した実現は社会主義の勝利と共にある。従って、我々は差別撤廃の要求を社会主義的要求と結びつけて提起し、かつ差別撤廃を求める闘いを階級の廃絶を求める闘いと結合していく。
労働者階級は“民主主義的”要求を小ブルジョアとちがって抽象的にではなく、階級闘争の発展という見地から資本家国家につきつけ、政治闘争を発展させねばならない。
しかし労働者にとっては、“民主主義”のための闘いよりも“民主主義”を利用した闘い――公然たる社会主義の宣伝と組織化の闘い、集会や大衆闘争の組織、選挙闘争、議会闘争への積極的参加等々――の方が一層重要であり、一層本質的である。とりわけ、議会=選挙闘争は“民主主義”国家の“公認”の公然たる政治闘争の舞台であり、社会主義の勝利はその徹底した利用なくしてはありえない。
四
労働者階級の闘いは、経済闘争、政治闘争であるばかりでなく思想闘争であり、労働の解放をめざす労働者党は、一切の神秘主義的・観念論的イデオロギーや宗教的迷妄に対する断固たる、一貫した闘いを貫徹する。
しかし、現代においては、神秘主義や宗教の根源は、主として勤労大衆を圧迫する資本主義の諸力に対する勤労大衆の無力にこそあり、資本の諸力が勤労大衆に対して「暗黒の力」としてあらわれることにある。労働者党の任務は基本的に、労働者階級の闘いを組織し、そこに勤労大衆を引き入れることによって勤労大衆の無力を克服することであり、まさにこの闘いをとおして、また社会主義を闘いとることによって、広汎な勤労大衆をあらゆる観念的迷妄から解放することである。
従って観念論と宗教に対する闘いは、資本の支配と搾取に反対する労働者の階級闘争に従属させられなくてはならず、政治的任務そのものに“高め”られたり、自己目的化されてはならない。
五
労働者の闘いは、国家権力の奪取をめざす特定の労働者政党の闘いになるに比例して、真の階級闘争になる。労働の解放をめざす労働者党は、労働者が労働組合に団結して経済闘争を闘うだけでは自己の解放をかちとることができないこと、そのためには、自らを独立した労働者の階級政党にも組織し、資本の権力の打倒と労働者権力の樹立をめざす政治的闘いを発展させる必要があることを公然と明らかにする。
社会主義の勝利の条件をなすものは、労働者階級の権力である、すなわち、搾取者のあらゆる抵抗の鎮圧を可能とする政治権力を、労働者階級が闘いとることである。この労働者権力は、“民主的”(もしくは“国民的”)連合政権といったものとは本質的に別なものである。何らかの“民主的”連合政府もまた、社会の階級分裂を止揚するのではなくそこに基礎を置く政府、一つのブルジョア政府であり、資本と反動の勢力と権力を温存し、日和見主義的で矛盾した諸政策によって反動と反革命に道を開くのであり、従って労働者階級の任務はこの混乱した妥協政府を支持し擁護することでなく、階級闘争を最後まで貫徹してそれを克服することである。
六
労働者の支配は階級国家――官僚制、警察、軍隊、裁判機構、ブルジョア議会等々の支配機構と暴力装置――の否定として、労働者代表制にもとづく「半国家」であり、有産階級の抵抗がなくなり、社会主義が組織されるに比例して眠りこみ、死滅する。すでに本来の国家ではないこの過渡国家においては、すべての官吏や裁判官等の選挙制、リコール権、労働者なみの報酬という「コンミューンの原則」が厳格に実行される。階級の消滅と共に、政治的な意味での国家もなくなり――従って、どんな政治もなく、その結果「政治的自由」とか「権利」とかについておしゃべりする必要もなくなり――ただ、社会的生産及び分配の管理と統制の機関のみが残ることになる。労働者国家は搾取者の妨害を粉砕して社会主義を実現することで自らをも止揚するのである。
七
最後に現在、特殊的に重要な、一つの実践的な課題について述べておかなくてはならない。それは、世界中で急速に発展し始めている、世界のブルジョアたちの国家エゴイズム、自国第一主義との、国家主義や帝国主義との闘いである。
20世紀末から21世紀にかけて、ソ連邦が崩壊し、中国が急速な資本主義的発展を遂げた結果、アメリカを軸とするいわゆる“自由主義体制”と“社会主義体制”(国家資本主義の体制)との接近、融合が進み、世界は一つの資本主義世界へと曲がりなりにも統合され、“グローバリズム”の世界が出現したかであった。
しかし資本の支配は、現代の高度な資本主義のもとでも、人類の国民国家、民族国家への分裂を止揚することができないばかりか、今やまた新しい諸国家の対立と闘争の時代、新しい帝国主義の時代を招き入れようとしているかに見える。EUは国家的限界を突破する試みであるかに言いはやされてきたが、しかしそれ自体、諸国家の連合として、一つの帝国主義的勢力として、ロシア等々と対抗し、世界を搾取する存在であり、その先に世界的なEU版が出現する試み、世界国家への一里塚といったものでなかったし、今もそうである。
21世紀の世界もまた、いくつかのブルジョア大国、強国が世界の覇権と支配とその再編を求めて争い、「自国第一主義」や国家エゴイズムが幅を利かせ、民族主義、愛国主義や軍国主義、帝国主義の政治や政策がはびこり、発展し、反動政権や専制政府、ファシズム的国家までもがわが物顔で闊歩する時代、世界的な政治的経済的な危機や紛争や戦争の、したがってまた世界的に労働者、勤労者の階級闘争が発展する、新しいが、しかし典型的な帝国主義の時代として、その本当の姿を現しつつある。
現代は、すでに10にも届こうとする国家が核兵器で武装し、そして米露や中国などのブルジョア大国が何百、何千もの核兵器を保有しているような時代、そして三たび、世界的規模の大戦争でも起これば、人類とその文明が破滅するか、壊滅的な打撃を受けるような危機の時代である、まさにそれ故に、世界の労働者、勤労者は、とりわけ日本の労働者、勤労者は、すべての国家の、とりわけ日本の国家の、「自国第一主義」や国家エゴイズムの危険性と反動性を暴露し、民族主義、国家主義や、帝国主義の策動に反対し、国際主義の旗のもと、それらの打倒と一掃をめざして、最後まで、断固として闘いを貫徹しなくてはならない。
日本の労働者、勤労者は、中国を始めとする、世界の労働者、勤労者と、血を分けた兄弟姉妹であり、彼らを恐れ、敵意を抱き、戦わなくてはならない理由を持たないのである、だからこそ、国際主義的立場に揺るぎなく立脚しつつ、自国のブルジョア支配者たちの軍国主義、帝国主義に反対して妥協なく闘い抜き、それらを粉砕することによって、世界の労働者、勤労者もまた同じ道を進むように領導し、励まし、押しやることができるのである。まさにこれこそ、現在における、日本の自覚した労働者、勤労者の決定的に重要な実践課題の一つであり、ここにこそ日本の労働者の国際主義の核心がある。
今や他国の脅威が誇大に、誇張して扇動され、軍国主義の発展や核武装や軍事的強大化による「祖国防衛」が叫ばれ、「専守防衛」を誓ったことなど忘れたかに、すでに「敵基地」攻撃こそが「安全」や「平和」の一番の保障であるとまで声高に言われ始めているが、しかしそんな狂暴な軍事大国化の未来に、労働者、勤労者の「安全」や「平和」があるはずもないことは、20世紀半ば、15年にもわたった、日本の帝国主義戦争の経験が明らかにしていることである。
そしてまた、軍国主義、帝国主義の発展する時代に、ブルジョア支配階級に期待したり、また彼らの国家間の協定や良好な関係によって、世界平和を守る云々の共産党やリベラルの主張は、幼稚な幻想であり、労働者、勤労者の闘いを武装解除し、ブルジョアたち、帝国主義者たちの策動に手を貸すにも等しい愚行であり、許しがたい日和見主義である。
六、他党派の階級的性格とそれらに対する労働の解放をめざす労働者党の立場
一
自民党は、“国民的”政党としてあらわれようとも本質的に大独占の政党であり、この独占資本の支配と体制の護持を自らの課題とも任務ともしている。党内には反動派と自由主義派があるが、すでにその境界線さえあいまいであり、自由主義派といえどもそれにどんな幻想を抱くことも許されない。
この党は、資本主義的矛盾の拡大・深化に対して財政膨張の弥縫策をとることしかできず、農業ではその場かぎりの保護主義に走り、労働者人民には一切の困難のしわよせをして経済的圧迫を強め、また軍事力増強には狂奔するが自らの金権腐敗政治の一掃のためには小指一本動かさない等々、すでにその反動性、腐敗、無能力をさらけ出している。
この党に結集した反動派の政治家は、15年にもわたったアジア・太平洋戦争に対して、何ら主体的で、深刻な総括も反省もない、むしろそれを正当化するようなろくでなしの連中であり、すでに敗戦後いくらもたたない1950年代の後半、岸政権として一時権力まで握ったが、しかし「高度経済成長」の時代、日本資本主義の相対的な安定期と共に、その勢力と影響力を後退させた。
しかし1990年代以降、再び反動派、国家主義派として結集し、21世紀に入ると共に政権を掌握したが、それはもちろん日本独占資本勢力の頽廃や帝国主義的ブルジョアジーへの転化を象徴し、代表した。
労働者、勤労者の当面の課題は、反動化し、軍国主義、帝国主義政策にますます傾斜していく自民党政権の打倒であり、それを突破口として、階級的、原則的な闘いの一層の深化と前進を勝ち取っていくことである。
二
労働者は“中道”政党――それがどんな形態やニュアンスをとってあらわれようとも――にどんな期待も幻想も持つことはできない。
典型的な小ブルジョア反動政党としての公明党は、小所有階級の立場を体現する政党であり、大資本への批判と反対はこの立場からのものであって保守的であり、うしろ向きである。小所有が大資本に絶望的に依存しているように、公明党の政治は本質的に自民党の政治への追随である。この党もまた資本主義の維持と繁栄に決定的な利害関係をもっており、労働者の革命的階級闘争とそのイデオロギーには深い敵意と偏見を抱いている。公明党は自民党と連合することによって、その醜悪で、ブルジョア的な本性を完璧に暴露した。
三
2016年3月、民主党から名を変えた民進党は、実質的に民主党と同じであり、その政治の破産は、09年から12年までの政権政党としての経験によって、余りに決定的に暴露された。
民進党の前身である民主党は、市民派の政党として出発したかであるが、党を構成した諸要素の素性を見ても分かるように、れっきとした「ブルジョア第二党」であり、ブルジョア的労働運動(連合の右翼的一部)とさえ結びついており、改名した後も、その頽廃と反動化と裏切りは避けられない。
民主党政権は、空虚な市民主義的政治、矮小な改良主義的政治に始まり、やがて消費増税の実行に代表されるように自民党政治の代行に走るなど堕落と変節を重ね、労働者、勤労者の期待を裏切って政権から滑り落ちた。民主党政権は、そのインチキ政治、無節操政治によって、自民党反動派、国家主義派の安倍政権の再登場に道を開き、その長期的な政権壟断にも責任を負っている。
政権から滑り落ちたのちも、共産党と共同した安保法反対闘争に代表されるように、改良主義に加えて、観念的な平和主義に堕すなど、混乱と頽廃を深めている。
民進党に衣替えした後も、カジノ法案反対闘争では、党内右派の造反にあって腰砕けになり、また天皇の生前退位という、天皇と安倍政権の延命のための策動では、皇室典範による解決という自らの“原則”も投げ捨てるなど、動揺と日和見主義を繰り返している。
この党が労働者、勤労者の支持を得て政権に復帰することはあり得ない。
四
社会党は90年代半ば、自民党と連合に走ったあげく、自民党に徹底的に利用され、その“復権”を許した後、弊履のごとく捨てられ、解体した。敗戦後長い間、労働者、勤労者の政党として存在してきた社会党の破綻は、この党の実際上のプチブル性や浅薄な改良主義の結果であり、その日和見主義的本性がますます深化した結果であった。分解した社会党の右派は民主党に走り、“左派”は市民派らと共に社民党に結集したが、しかしこの党は、かつての社会党にあった、労働組合運動との結びつきさえ後退させ、むしろ小ブルジョア的、平和主義的で無力なプチブル党として、社会党の空しい残骸をさらしているだけである。
五
20世紀末から21世紀初めにかけて、多くのブルジョア政党、反動政党が現れては消えたが、辛うじて残ったのは、橋下の日本維新の会くらいである。この党は、最初の時から一貫して、ファシズム的体質さえ有する、無節操で反動的な扇動党派、ポピュリズム党派であり、労働者、勤労者にとって自民党にも劣らない、不倶戴天の敵である。この党は反動化する自民党と連合し、事実上第二の自民党に転落するか――あるいは自民党に吸収されるか――、それともますますファッショ化するか、どちらかである。
六
戦前においてさえ小ブルジョア民主派に転落し、帝国主義戦争を資本家階級打倒のために利用できなかった共産党は、敗戦後10年ほどの反動的で、有害な混乱期のあと、“宮本体制”のもと、卑俗矮小な小ブルジョア民族派・民主派・改良派として自らを純化して来たが、今では資本の支配を支える一つの支柱にまで転落、堕落している。
この党は、“スターリニズム”――ソ連、中国の共産党――の影響下に発展した党であり、“自主路線”を謳うようになった現在でもこの本性を変えるに至っておらず、ソ連、中国等の共産党(その国家)を批判するにも偽善的で中途半端である。
この党は、小ブルジョア民族派・民主派・改良派として、また“スターリニズム”の党として、独特のセクト性、反動性をもっており、一定の段階で、反革命に転化する可能性を秘めている。
共産党は「民主連合政府」などの幻想を振りまいて来たが、しかし今では、自衛隊を容認し(国家には「固有の自衛権がある」などと主張して)、日米安保条約にも妥協的になり、さらには天皇制まで容認し、あるいは国旗・国歌法を自ら求めるなど、際限のないブルジョア的堕落の道を歩んでおり、大資本の勢力との公然たる協調路線に移りつつある。
今ではとっくの昔に破綻し、労働者、勤労者の支持を失った民進党(旧民主党)との統一戦線や連合を最優先の「戦術」――野党共闘だ、国民連合政府だ、そしてこれらは「自共対決」からの政治闘争の偉大な進化だ等々――として美化し、それに「賭ける」などしてきた。
労働者、勤労者の階級闘争の原則や、労働者党の自主的で、独自の闘いという、世界の労働者、勤労者の闘いの、そしてまた革命的な社会主義派の闘いの伝統を投げ捨てるのだが、そんな“超”日和見主義的な「戦術」は共産党をブルジョア改良政治と何ら変わらないものに堕落させるか、みじめな解体にまで追い詰めるだけであろう。
七
“左翼”政党の頽廃のなかで、多くの“市民”運動が組織されているが、“市民主義”とは、資本主義社会の階級的個人を抽象化されたブルジョア個人に解消するものであり、“無党派主義”を標榜するなど、労働者の階級闘争の立場とは本質的に異なっている。
自民党政権の反動化、軍国主義化と共に、学生を中心に、市民主義の新しい高揚が見られたが、リベラルや共産党などの“立憲主義”幻想や平和主義と結びつき、追随する、プチブル的で、幼稚かつ無内容なものであった。
“市民”運動に対しては、その階級的限界を確認しつつ、ケース・バイ・ケースで臨み、進歩的、反資本主義的立場に接近するものとは個々の具体的闘いにおいて提携する。
八
新左翼運動=急進主義運動が「社共の日和見主義に対する罰」としていくらかでも積極的な意義を持ちえたのは1960年の安保闘争の頃までであって、そのあとはこの運動は小ブルジョア的反動性をさらけ出し、頽廃した。思想的混乱(もしくは極端な無思想)はいうに及ばず、“連合赤軍”の愚行、内ゲバ、無意味な個人(もしくは集団)テロル等々はみなこの腐敗の表現である。労働者は新左翼運動にどんな幻想も持てないし、持つべきではない。
九
以上の日本の諸政党、諸政治潮流の特徴づけから結論されることはただ一つ、労働者階級は自らの独自の階級政党を組織し、その闘いを断固として拡大、発展させていかなくてはならない、ということである。このことこそ、日本の(世界の)労働者の階級闘争の飛躍の中心環であり、また将来の労働者階級の自己解放の本質的契機である。労働の解放をめざす労働者党は、わが党の何ものをもおそれない公然たる党派闘争の中からのみ、輝かしい日本と世界の未来が生まれると高らかに宣言する。
七、社会主義の勝利と共に、あるいは社会主義をめざす闘いの過程で勝ち取るべき、労働の解放をめざす労働者党の具体的な要求
我が労働者党は、最後に党の「具体的要求」をかかげるが、これはあくまで社会主義的綱領の一部としての、その有機的構成部分としての「具体的要求」であって、第二インター流の「最小限綱領」(単なる改良のための要求)やトロツキーの「過渡的綱領」(単なる便宜的要求)とは別である。それはまさに、社会主義をめざす闘いの中で提出され、この闘いを発展させるなかで、さらには社会主義の実現とともにかちとられていくべき目標であり、「要求」である。全体としては、これらの「要求」の実現は社会主義の勝利に依存し、従属しているが、しかし独自の階級的・社会的・政治的課題であり、労働の解放をめざす労働者党はこれらの「要求」をかかげ、その実現をめざして先頭に立って闘いぬく。
1、長時間労働、殺人労働、非人間的労働に象徴される搾取労働と、大量の非正規労働者の存在に代表される差別労働の即時、無条件の廃止と一掃。劣悪な労働条件・労働環境の改善。深夜労働の原則的禁止。労働者の雇用の保障と解雇規制の実行。定年制の廃止。
2、労働運動、組合運動への資本の抑圧・介入の排除。労働者の団結権、争議権の無条件保障。一切の弾圧法の廃止、すべての労働者政治犯の釈放。
3、不正で、不公正な現行選挙制度と議会運営の根本的で、徹底的な民主主義的改革の実行。
労働者、勤労者の意思が正確に表現される選挙制度の実現。一切の選挙参加及び選挙運動の規制の原則的撤廃と、労働者の自由な政治闘争の保障。小選挙区制の廃止と全国単一比例代表制の実施。衆参共に、自由で無制約の政党及び個人の選挙参加制の実現。腐敗大政党にのみ有利で、民主主義の精神に根底からもとる、不当不正の供託金制度、政党助成金制度の即時廃止。
国会の内閣からの自立の確保。国会を、国民を代表する諸政党による議論と立法の府として確立し、“帝国議会”以降の悪しき慣行である「代表質問」等々の議会運営の廃止。政府の法案提出権の廃止と、政府の発言、説明等々は議会側の許可の場合のみに制限。最高裁の権力からの自立と、違憲審査権の明確で、断固たる実行。
4、女性差別をはじめとする一切の差別の即時廃止。行政当局、企業、 マスコミの女性差別への法的規制。 女性の社会的生産活動への参加及びそれを保障する諸政策、諸措置の実行(例えば、女性の参加のために、工場・職場に密着して保育所を完備する等々)。一切の民族差別の廃止。旧植民地出身者とその子孫および希望する外国人労働者に、自由で、無条件の国籍選択権を与える。
5、一般民主主義の原則に反する“身分制”の残滓の廃止、時代錯誤であるばかりか、アジア・太平洋戦争では軍部とゆ着し、軍部と共に歩んだことに象徴されるように、すでに支配階級に利用され、そして労働者、勤労者にとって有害で、危険な存在に堕した天皇制の無条件即時の廃絶。
6、憲法のブルジョア民主主義の歴史的な意義と限界の確認。自由主義派や共産党などのプチブル派による現行憲法の至上視や絶対視、観念インテリや、市民派、共産党らの“立憲主義”的妄想――憲法は「権力を縛るために存在する」云々――の克服。
天皇制を始めとする、一切の反動的で、偽善的な条項や観念の一掃と、第一条で国民もしくは労働者、勤労者の主権の明示、そしてまた、観念的なエセ“国際主義”の呼びかけや、偽りで、空想的な平和主義の止揚、及び人権条項などの労働者、勤労者への平等で公正な適用。
7、労働可能な成人の社会的労働への従事と、年金制度の廃止。就労前児童や疾病者等労働不能者の生存と生活の、社会による全面的保障。医療、介護の無償化と社会化。成員全体による、医療・介護活動の義務化と日常化、自然な社会的生活過程との融合や結合。
8、すべての乳幼児の公的保育の実施。すべての児童・生徒に対するつめこみ教育、選別教育の廃止と一貫した科学・技術教育の実施。一切の国家主義的教育(日の丸・君が代の強制、事実と真実に反する“歴史教育”その他)の排除。教育と生産的労働との結合。私学の廃止。
9、頽廃したブルジョア文化の抑制と規制。健全で、創造的な労働者的社会主義的文化の推奨と創出。
10、独占資本の規制。大企業の資産及び経理の公開、その一切の不正とありとあらゆる経済犯罪に対する断固たる処罰。
11、軍事費や階級支配の維持及び寄生階級のための財政支出の削減もしくは全廃。労働者の税負担の軽減。
12、農業等における小生産、小経営の保護政策の廃棄。財政支出を大規模生産の組織化と生産力の発展のためにふりむける。
13、ブルジョア社会の無政府的生産と利潤追求から派生する一切の害悪――この最も顕著な例がいわゆる“公害”である――の完全な除去。加害企業の規制と処罰。
14、慢心と責任観念の欠如により、さらには利潤最優先によって重大な事故を引き起こし、またコスト的にも引き合わなくなった日本の原発事業の即時廃絶。原発事故に直接の責任を負う東電の経営者、及び原発事故に直接、間接に重い責任のある政官財学等の「原発村」関係者の告発と刑事罰の適用。
15、土地の国有化。工場の合理的再配置及び都市と農村の対立の除去。こうした諸条件のもとでの住宅問題の解決。
16、ブルジョア党、小ブルジョア党の政治家及び高級官僚の権力犯罪の摘発と彼らの処罰及び追放。
17、独占資本の支配のための軍隊、警察、裁判所、官僚制の規制の強化と解体、一切の反革命的策動やクーデタの陰謀の粉砕。労働者階級の警戒心の高揚と労働者の組織及び運動の断固たる自衛。
18、外国との秘密の協定や約束の公開と、一切の軍事同盟の廃棄。万国の労働者、勤労者の国際的交流や接近、団結や共同のための闘いと、労働者の国際主義の鼓吹と発展のための具体的活動。
【労働の解放をめざす労働者党 規約】
前文
労働の解放をめざす労働者党は、自由意思にもとづいて結集し、労働者階級の立場とその現実的な利益を擁護し、一切の搾取と差別の廃止、そして“労働の解放”のために資本の支配に反対して実践的、組織的に闘う労働者階級の政党である。
労働の解放をめざす労働者党は、労働者の闘いの原則を歪めるあらゆる形の階級協調主義や日和見主義と闘う。
労働の解放をめざす労働者党は、労働者の国際主義にもとづき、全世界の労働者階級と日本の労働者階級の連帯と団結を堅持しつつ、自国の資本の支配との闘いを自らの直接の任務とする。
労働の解放をめざす労働者党の政治的、思想的な全国的統一は、綱領によって保証されている。そして党の規律は、政治方針の正しさを基礎として各党員が革命への献身と情熱なくしてはあり得ない、しかし政治的統一と各自の自覚に加えて、組織的統一が必要であり、規約こそまさにそれを保証するのである。党が生き生きとした全国的に統一された、共同の闘い――これなくしては資本の支配に打ち勝つことが出来ない――を行うためには、単一の組織の諸形式、諸形態が不可欠である。
第一章 党員
第一条 党の綱領と規約を認め、規定の党費を納入し、党の組織に加わって実践的、組織的に活動する者は党員となることができる。
第二条 入党は党員の推せんを必要とし、原則として支部の決定ののち一級上の機関の承認を受ける。
第三条 党員は離党することができる。離党を望むときには、自らの所属する組織にその理由を述べ、承認を受ける。党組織はその事情を検討し、説得しても意思のかわらないときは離党を認め、一級上の機関に報告する。
第四条 三カ月以上特別の事情なくして規定の党費を納めないか、または党の組織的活動に加わらなかった党員は、その所属する組織が一級上の機関の承認をへて除籍することができる。
第二章 党の組織及び組織原則
第五条 党は大会、代表委員会、支部に組織される。ただし、党の発展と共に中央委員会をおき、また状況に応じて、都道府県委員会を組織してそのもとに支部をおく。
第六条 党の組織原則は、民主主義的中央集権制である。その内容は次の通りである。@ 党の指導機関は選挙によってつくられる。
A 党の指導機関は、それを選んだ党組織に対して定期的にその活動を報告しなければ ならない。
B 党の機関及び党員は上級の機関に対して、その活動を定期的に報告しなければならない。党員は大会及び支部の決定に従わなくてはならないが、それに同意できない場合には、任務を遂行しつつ自らの見地を保留し、党(支部及び上級機関)に対し自らの意見を提出し、回答を求めることができる。また自らの見地を全党に周知徹底させるよう要求することができる。
第三章 大会
第七条 大会は党の最高機関であり、党の基本方針を決定し、代表委員の選出、綱領・規約の改定を行い、党代表・党副代表及び財政報告を承認する。綱領・規約の改正は、出席代議員の3分の2以上の賛成で行う。
第八条 大会は少なくとも二年に一回、代表委員会によって招集されるが、党員の三分 の一以上あるいは支部組織の三分の一以上の要求がある場合には三カ月以内に大会を招集 しなければならない。大会代議員は支部から選ばれた代議員、代表委員によって構成される。代表委員会は大会の招集日時を、遅くとも二ヵ月以前に全党に知らせなければならない。
第九条 大会は大会代議員の過半数の出席によって成立し、出席代議員の過半数の賛成によって議決する。支部代議員の選出方法は代表委員会が決定する。
第四章 代表委員会
第十条 代表委員会は党を代表する機関であり、大会から大会までのあいだ、大会の決定に責任を負い、全党の活動を指導する。代表委員会は党代表を選出し、必要であれば代表委員会の中から党副代表を互選する。
第十一条 代表委員会は中央機関紙・誌、書籍を発行し、また党の財政、ウェブサイトを管理・運営する。
第五章 支部
第十二条 支部は党の基礎組織であり、二名以上の党員によって組織され、一級上の機関によって承認される。党員が二名に満たないときには、支部準備会とする。
第十三条 支部は支部長を選出し、一級上の機関によって承認される。必要な場合は副支部長を置く。支部は原則として週に一回定期的に支部会議を開いて党の方針、決定を具体化し、これを日常的に遂行する。
第六章 党の財政
第十四条 党の財政は党費、党の事業収入、寄付などによってまかなう。
第十五条 党費は、原則として党員の収入の三%とする。ただし、無収入の党員を含め党費は月額最低千円とする。
第十六条 会計監査委員をおき、大会で選出する。会計監査委員は、党の中央財政を監査し、その結果を大会に報告する。
第七章 党の規律
第十七章 党の目的に背き、規約に違反した党員は、規律違反として処分される。
第十八条 処分は、十分な審査により、注意、機関からの罷免、権利停止、除名にわける。
第十九条 党員の処分は、その党員の所属する組織が行い、一級上の機関の承認をえて確定される。
第二十条 処分をうけた党員は、不服の場合、処分を決定した党組織に再審を求め、また大会にいたるまでの各級機関に異議を申し立て、再審を求めることができる。
付則
第二十一条 代表委員会は、この規約に定められていない問題については、規約の精神にもとづいて処理することができる。この規約は、二〇一七年四月十日から効力をもつ。
綱領・規約の改正履歴
綱領
(2019/1/20 臨時大会にて改正)
七、社会主義の勝利と共に、あるいは社会主義をめざす闘いの過程で勝ち取るべき、労働の解放をめざす労働者党の具体的な要求
6、「憲法のブルジョア民主主義の歴史的限界の確認」→ 「憲法のブルジョア民主主義の歴史的な意義と限界の確認」
規約
(2019/1/20 臨時大会にて改正)
第三章 大会
第七条「大会は党の最高機関であり、党の基本方針を決定し、代表委員の選出、綱領・規約の改定を行い、代表委員会議長及び財政報告を承認する。」→ 「大会は党の最高機関であり、党の基本方針を決定し、代表委員の選出、綱領・規約の改定を行い、党代表・党副代表及び財政報告を承認する。」
第四章 代表委員会
第十条「代表委員会は代表委員会議長を選出する。」→ 「代表委員会は党代表を選出し、必要であれば代表委員会の中から党副代表を互選する。」
旧【社会主義労働者党】の綱領はこちら
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