破産した"革新"幻想
   ----美濃部都政8年の総括----

 八年間の美濃部都政−−−それは労働者にとって一体何であったろうか。
 自由主義的学者にすぎず、その政治的立場は民社党と大差ない美濃部(彼の「都民党」宣言をみよ!)を持ち上げ、美化してきたのは”革新”政党=社共であった。だが実際には、労働者の生活はこの間急速に悪化してきた。我々が既に美濃部知事誕生当時に鋭く予見してきたように、”革新”都政は、労働者大衆の生活の根本的改善という点で全く無力であった。この八年間、社共は美濃部の反労働者的言動をとりつくろい、美濃部を信頼するようにと説きまわり、独占資本=自民党の支配を根底から覆さなくても大衆の生活の根本的改善が可能であるかのような幻想をまきちらし、労働者の闘う意欲とエネルギーを麻痺させてきた。このような社共の政治、労働者を裏切る日和見主義の政治は、いまこそ徹底的に弾劾されなければならない。
 本書は”革新”幻想の氾濫のなかで、美濃部都政とこれに追従する社共の日和見主義政治を一貫して批判し、労働者の階級的闘いを発展させるために闘ってきた全国社研=マル労同のこの八年間の論文集であり、真の労働者党派の革命的闘いの軌跡でもある。

定  価 600円
編 著 マルクス主義労働者同盟政治局
発行所 全国社研社
発行元 ウニタ書舗
発 行 1975年3月20日

目 次

−−−序にかえて−−−
 美濃部”革新”都政の崩壊の意味するもの


1 美濃部”革新”都政と社共の政治
  −−−その階級的性格、役割−−−
 一、美濃部はいかにして登場したか、そして”社共”は美濃部をいかにもち上げたか?
二、美濃部都政の一年間
三、美濃部指示政策のもたらすもの
四、自由主義的改良主義の効能
五、社共の"与党主義"をほうむれ!
 六、自治体財政の危機と崩れゆく「革新」自治体の幻想
 七、日和見的罪過をさらけ出す”社共”の政治
    −−−美濃部退陣の意味するもの−−−

2 破綻した”革新”都政の諸政策
  −−−その無力さ、欺瞞性−−−
 <物価・公害・福祉・シビルミニマムの思想>
  1、シビルミニマムと社会改良主義
  2、美濃部「革新」都政による都営交通料金の値上げ
<労働者抑圧・合理化推進の美濃部都政>
  1、美濃部のスト干渉と共産党の階級協調政策
  2、労働運動を圧迫する美濃部「革新」都政
  3、労働者の闘いに対する美濃部の”恩恵”と弾圧
 <警察力の強化に手を貸す美濃部>
  1、機動隊増員と美濃部都政
 <血税でギャンブル業者を肥やす「革新」の旗手」
  1、落ちた「革新」都政の偶像
 <ゴミ処理問題−−−つまづいた「対話行政」>
  1、”ゴミ戦争”で破産した”市民主義”と美濃部対話都政
    −−−東京ゴミ戦争はいまや最終段階を迎えた
  2、共産党は自己の小ブルジョア的原則までなげすてて美濃部のゴミ政策に追従する!
 <「同和」問題と深まる社共のセクト主義>
  1、部落開放同盟の都施設からの締め出しを要求する共産党
  2、自民党と手を結び部落開放運動と敵対する共産党」
  3、美濃部三選問題と共産党
    −−−「同和」行政をめぐる『自共共闘』と『革新』勢力の内実−−

3 ”革新”自治体と労働者の階級闘争
  −−−全国社研=マル労同の決議・決定から−−−
 <全国社研第二回大会決議(一九六七・七・一六)
  ・「プロレタリア革命運動の現段階について」から
 <全国社研第三回大会決議(一九六九・五・五)>
  ・「全国社研の当面の任務」から
 <マル労同第一期第四回中央委員会決議(一九七三・七・二二)>
  ・「マル労同の基本的戦術について」から
 <マル労同七四参院選選挙綱領>から
  ・”革新”自治体は資本の階級支配を代位もしくは、補完している!
 <マル労同第三期第二回中央委員会決議(一九七五・一・一八〜一九)>か
  ら
  ・「窓口一本化」をめぐる”社共”のセクト的抗争
  ・統一地方選の政治闘争に介入せよ!

《参考》関連論文目録

 あとがき

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−−−序にかえて−−−
美濃部”革新”都政崩壊の意味するもの

   一
 二月十六日、みのべは様々なゴタゴタの末、突然に不出馬を宣言した。”国政革新の灯台”とよばれ、”革新”自治体による中枢権力包囲のかなめと評価されてきたみのべが「倒されたのではなく倒れた」(本文二二頁)ことは、とりもなおさずみのべ都政と”革新”社共の破産を示すものでなくて何であろうか。
 現在の都知事選をめぐる政治情勢は、日本の政治情勢の典型的な一断面であり、労働者はその分析から多くの教訓を引き出すことができるであろう。
 この八年間”革新”都政を支えてきた”社共”は同和問題をめぐって「統一戦線」をガタつかせ、亀裂を拡大した。みのべは、同和問題をめぐる”社共”の際限のないセクト争いや深まる都財政の危機に、半ば自身を失い、半ばいや気がさして、都政をほおり出そうとしているのだ。みのべ不出馬という事態に直面して”社共”は仰天し、お互いに責任のなすりあいをしながらも、みのべ以外頼る人物はいないと、いまだにみのべに連綿とした恋情をすて切れないで
いる。
 他方自民党は、自民党でも有数な反動派である石原をかつぎ出した。石原はいまや自信満々であり、自治体労働者への敵対意識をあらわにし、ありとあらゆる反動派の期待を集めて登場してきている。われわれは、自民党の候補者として、都留重人や宇都宮徳馬ではなく、石原が出てきた意義を決して軽視してはならない、と考える。これは”社共”の前進という形であらわれた労働者の階級的な闘いに対するブルジョア反動派の反撃が開始されつつあること、そして石原がその結集の軸となりつつあることを教えている。
 なぜ反動派の石原が出てきたのか?彼は四年前の選挙でも、自民党の候補の一人にあげられた。しかし彼は動こうともしなかった。そして警察上がりの秦野がみのべと争い、みのべに二・四倍もの表をかき集められて破れた。石原は賢明であったのだ。野心家の彼は、負けると分かっている闘いはやらないのだ。
 その野心家の石原が、今や自身満々とみのべ打倒の情熱をたぎらせて立候補しようとしている。彼は、この四年間、みのべが”革新”としての魅力をつかいはたし、頽廃してしまったことを知っている。彼は、現在ならみのべと対
等、否それ以上に闘い、対抗しうると感じている。
 われわれは八年前、みのが登場したときに、みのべ都政を分析して、みのべ的政権は結局その中途半端と頽廃によってブルジョア的な反動派に道をひらくだろうと予想した(本文六三頁を見よ)。石原の登場は、われわれの予想の正しさを確認している。みのべのいいかげんな妥協主義や偽善的なやり方こそ、自民党をして石原をおし出させる状態を準備してきたのだ。その意味で、石原の登場は、将来の、全国的な階級闘争への一つの警告である。進歩的な装いをこらし、「反独占、反自民」をわめきながらも、それを空文句にかえ、真剣な闘いを組織せず、ブルジョアジーの階級支配や反動派を粉砕するために何事もなそうとしない”革新”の政府は、まさにその言動によってブルジョア反動派を準備し、それへの道をはき清めるのである。みのべ都政の頽廃と偽善こそ、ブルジョア反動派を勇気づけ、彼らの反撃を促進している。
 独占資本=自民党は、一方では三木を表面におし出して労働者をペテンにかける欺瞞的な自由主義的策動にふけり、他方では”革新”の頽廃を利用してブルジョア反動派による反撃を開始している。独占資本=自民党のこうした”二面作戦”は決して相互に矛盾するものでなく、相助けあい、補いあって、全体としての独占資本の支配の維持貫徹をはかっているのである。

   二

 さて、みのべはその不出馬の理由として、”社共”の統一戦線が不可能な情勢になったことをあげている。彼はファシズムの脅威をもち出して、”社共”統一戦線を正当化しようとしている。
 みのべの政治的な立場は、どんなに”社共”と共通のものがあろうと、直接に”社共”の立場と同じものではなく、もっとブルジョア的で、もっと自由主義的である。彼の政治の基本的性格が、階級政党を否定して”国民政党”を主張する民社党や社会党右派と同じものであることは、彼の「都民党」のスローガンがなによりもはっきり示している。「都民党」とは、全国的な政治闘争の言葉に翻訳してみれば、「国民政党」である。彼はブルジョア自由主義的知識人であって、社会改良派、小ブルジョア民主派でさえないのである。
 みのべがどんな階級的立場にあるか、またいかなる政治潮流にもっとも近いかを明瞭に示す一つの例を引こう。今から二年ほど前、どの政党がみのべ与党であるかが問題となり、社会党が「共産党はみのべ提案の案件に一番多く反対している『反対第一党』であり、みのべ与党とはいえない」と批判したことがあった。そのとき共産党は次のようにこたえている。
 「ところで議案に対する反対が多いか少ないかが革新都政の与党としての資格の問題につながるかどうか。知事提案について五党のあいだに意見の対立のあった三十一件ついてみればおのずから明らかになります。共産党が反対したのは二十件で、知事提案全体の一・七%です。他党の反対をみると、自民二十一件(審議拒否十九件を含む)、社会一、公明、民社はゼロです。反対の数が少ないほど『安定した与党』だというなら、公明、民社両党こそ、もっとも『安定した与党』という奇妙なことにならざるをえません。反対、賛成の数を問題とする『安定した与党』という議論は破産してしまいます」(赤旗七三・七・二)。
 共産党が反対したのは、警察官増員とか公安委員、教育委員人選案件といった”対決法案”である。彼らは労働者人民からの支持を失いたくないなら、これらの反動法案に反対せざるをえなかったのだが、その場合でも、みのべがこうした法案を出すのは、みのべの本性からでなく、自民党の圧力におされてやむをえずやっているのだと、みのべを美化したのであった。
 共産党の引用する数字は、誰がみのべ都政の真の”与党”であったか、みのべの政治の本質がどこにあったかを疑いの余地なく示している。”社共”も公民もみのべも、このことをかくしたいと思っている、というのは、真実をおお
いかくし、大衆に幻想をもたせることが彼らの利益であるからだ。しかしわれわれは、みのべの政治こそまさに”社公民”路線そのものであり、半ブルジョア的な反動的なものであることを容赦なく暴露し、この政治を”革新”自治体とかの空文句によって美化する”社共”の階級的裏切りを断罪する。
 階級的には民社党などにもっとも近いみのべが”社共”統一戦線を神聖視していることは一見奇妙にみえるかもしれない。しかしここには、階級的政治闘争の深い論理がかくされている。みのべは、そのブルジョア的自由主義を実践にうつすためには、”社共”のおすみつきを必要としたのであり、”社共”の後光によって、その反動性をぬりつぶしてもらう必要があったのである。さもなければ、みのべのような自由主義的インテリを労働者が支持したり、信用したりすることはまずありえないのだ。そしてみのべが、”社共”統一戦線を必要とするのは、”社共”をまとめてブルジョア自由主義にひきとめておくためであって、それ以外ではない。だから、彼は”社共”統一戦線論者としてあらわれる。
 他方、”社共”はその小ブルジョア的改良主義を実践にうつすために、リベラリストを必要としたのである。そして、それは”社共”統一戦線という形でのみ、一番効果的になしえたのだ。そして”社共”の改良主義の実演舞台こそ地方自治体であった。
 われわれは一貫して”社共”のリベラルとの”統一戦線”戦術に反対してきた。”社共”統一戦線の本当の内容は、”社共”のリベラル(つまりブルジョアジーの一部、一分派)との統一戦線である、ということ地方政治でほどはっきりあらわれているところはない。
 問題は、労働者の階級闘争の観点からたてられなければならない。この観点からみて、ブルジョア自由主義的知識人との同盟の政策はプラスであったのかどうかである。もちろん、われわれはごく一時的な戦術として、この同盟政策を問題にするのではない。この点では共産党も異議はないだろう、というのは彼らは、統一戦線戦術が一時的な便法であるという批判にむきになって反論しているからである。
 労働者の徹底した階級闘争の立場、すなわち資本の支配を打倒して社会主義を闘いとるという立場からみれば、「統一戦線」は労働者の偉大な事業を破滅に導くだろう。それは、他ならぬ、この自由主義的知識人たち−−−みのべ、黒田、長洲、にな川等々−−−の本質こそ、階級闘争を最後まで発展させるのではなく、”進歩的な”空文句のかげで、労働者の闘いを資本の支配と妥協させ、なんとかおりあいをつけさせるところにあるからである。彼らは結局、自民党となれあい、取引するであろうし、現にそうしている。かれらの貧弱な改良主義こそ、口先はともかく実践的に彼らが独占資本=自民党となれあい、取引契約を結んでいることでなくてなんであろうか?この連中を先頭にたてた運動(統一戦線)が、社会主義革命に行きつくのではなくて、資本の支配とのみじめな妥協に終わることは、絶対的に確実である。彼らはただ改良、漸進的前進、資本とのかけひきや取引によってのみ、資本と闘おうとしているが、しかしこうした立場は、客観的には資本の打倒でなくせいぜい資本の権力のわずかばかりの修正、制限、規制等々に行きつくにすぎず、しかもこうした成果さえ、一時的で、限定つきである。ブルジョア的リベラルとのブロックは、労働者の社会主義的な階級闘争の否定であり、労働者の自主的な政策を犠牲にして資本に奉仕することである。われわれは、この命題がみのべ都政の八年間の経験によっても、十二分に確証されて来たと信じる。

   三

 みのべ都政の崩壊の直接のきっかけは同和問題であり、同和行政をめぐる”社共”のセクト争いであった。この問題は、”革新”自治体とそれを支える小ブルジョア政党の卑小さと党派的利己主義を典型的に示しており、その意味で分析してみる価値がある。
 同和問題における”社共”対立の本質はどこにあったのか?社会党は「窓口一本化」に固執する部落解放同盟を支持し、他方共産党は「公正、民主的な行政」を要求し、みのべ都政の同和行政を拒否した。この両者の主張は、労働者や部落民の本当の利益とは関係のないもので、それぞれの党派の利己主義からのものであった。部落解放同盟の「窓口一本化」の要求は、部落民の利益の上に党派の利益をおく要求、すなわちセクト的利己主義の要求である。部落民の本当の利益のために闘う党派は、行政の独占に執着するどんな理由も持っていない、というのは部落の解放は単なる行政によって、いやむしろ、単なる行政のやり方によってかちとられるものではないことを知っているからである。解放同盟がどんなに急進的な言辞を弄しようと、自民党政権や"革新"自治体の同和行政に追従し、癒着している以上、日和見主義であるし、今後も日和見主義者として頽廃を深めて行かざるをえないであろう。
 他方共産党は、「公正で民主的な同和行政」を要求し、この問題は決して都政の一部の問題ではなく決定的に重要なのだ、とわめいてきた。民主的な行政とは、すべての住民を一様に法の前で平等な個人として扱うということ、部落民に対しては一様に、部落民として扱い、差別しないということであり、ブルジョア的行政の普通のあり方であるにすぎない。もし社会党やみのべが”革新”自治体のもとで、このような”民主主義”さえ実行できないとすれば、それは
彼らの立場の破産を教えるものである。
 部落民の利益のために「公平な行政」ではなく特別の行政を要求することは正しいし、必要であるにしても、「窓口一本化」といったやり方はまちがったセクト主義である。共産党は「公正、民主的な行政」を無批判的にわめきたてることによって、ブルジョア民主主義の際限のない美化に行きつき、ブルジョア支配の本質をぬりつぶし、独占資本=自民党に奉仕している。石原が同和行政で共産党をほめたたえ、また自民党が共産党の部落問題での政策一般に大きな期待を抱いているのは決して偶然ではない。ブルジョア民主主義の本質こそ、「法の前での民主主義、公正」である。そしてこれこそ、資本と労働者の実質的な差別、経済的な不平等、不公正を前提としているのである。
 共産党は「自分たちは単に同和行政の公正のために闘っているだけだ」というかもしれない。しかしもしそうなら、なぜ、「行政の公正、民主主義」を一般的に要求し、わめきたてるのか?彼らは例えば、関西のいくつかの自治体で
は、部落民の人口比に比べて、同和予算の割合がはるかに大きくなっており、それこそ「逆差別」の証拠であるとわめきたてた。これは、部落民に対する行政の公正とは別のことであり、ブルジョア民主主義の主張そのものである。彼らは、差別されている部落民と、他の「国民」とのあいだの平等を要求したのであるが、これは実際には差別の事実を隠蔽しつつ、差別されている人々の要求に耳を閉ざすことでなくて何であろうか?これはブルジョアのいう「民主主義」の欺瞞と、どこがちがうのか?共産党は、口先では部落差別に反対するかにいっている、しかし彼らのブルジョア的民主主義の立場が、実際には差別されている人々の利益を守る立場ではないことが理解できず、反動に転落している。
 部落問題における”社共”の対立は”社共”の底知れないくだらなさと卑小さを明らかにしたという以外どんな積極的な意味も持ちえなかった。セクトや日和見主義者は、口先では「統一戦線」についてわめきながらも、実際には、
セクト主義や日和見主義のために、本質的でない問題でさえ−−−いな、こうした問題では、いっそう−−−おれあうことができないのである。それは”革新”というものの空虚さと頽廃の一つの側面である。

   四

 最後に、いかに、反動石原と闘うべきかについて言及しておこう。”社共”は、石原が出て来てファシズムの危険が大きくなってきたのだから、みのべ(あるいは”革新”候補)をおしたてて石原の勝利を阻止しなければならない、みのべを批判したりするのは、このような情勢のもとでは敵を利するものである、と言いはじめている。
 しかし先進労働者は”社共”のこうした日和見主義的きまり文句にたぶらかされてはならない。われわれは今までの”革新”首長への批判を一言も”とり消し”も”清算”もしないし、また批判の”一時中止”もしない。われわれはやはり断固として彼らに反対する立場を保持し、貫徹する。しかし同時にわれわれは、”革新”首長の打倒を直接よびかけるといった形で彼らと闘うのではなく、”革新”の「民主主義的」立場の無力さをあばき出し、彼らがブルジョア反動派と全然闘うことができない(できないだけではない、彼らの日和見主義的な欺瞞こそブルジョア反動派の抬頭を促し、その一条件となっている)ことを暴露することによって、彼らと闘わなければならない。そして全体としてわれわれの批判の重点をブルジョア反動派に移し、労働者の先頭にたってブルジョア反動派と断固として闘うことによって、日和見主義者の無力をうきぼりにし、労働者の独占資本=自民党と一切の日和見主義に反対する闘いを発展させなければならない。

   五

 この小冊子は、全国社研=マル労同が、みのべの登場以来一貫しておこなって来たこの八年間のみのべに反対する論文を集めたものである。このなかには、「科学的共産主義研究」二○号の論文のように、今では全く入手不能となってしまったものも含まれている。もちろん、みのべの批判的な暴露は、とりもなおさず、”革新”統一戦線云々と、”政治の革新”云々の美辞れい句のもとで、労働者に無力で偽善的な自由主義的知識人をおしつけてきた”社共”に対する非難であり、弾劾でもある。この小冊子を読むことによって、先進的労働者は、マル労同のリベラルおよび”社共”に反対する真にプロレタリア的な立場を理解することができるだろう。
 われわれの批判の意義は明らかである。われわれは、すでにみのべが登場した八年も前に、「みのべ都政は倒してはならないと、共産党・新左翼もさけんでいる。しかし、みのべ都政はその中間的性格のゆえに挫折せざるをえないし、倒されなくても倒れざるをえないだろう」と書いた。また、「みのべの本質を共産党のとりつくろいや無力な願望でおおい切れなくなるとき、みのべに対する(共産党の)プチブル的反発の時期がくるだろう」と書いた。そして「みのべ支持政策は、結局、共産主義運動と革命的労働運動の自主性と独立性をしばり、麻痺させる以外、何の利益もないだろう。彼らは統一を自己目的化し、革命運動を解体し、無力化して、ブルジョア反革命に道をひらくだろう」と書いた。これらの見とおしはすべて、現実となっている。これこそ、われわれの批判の正当性の何よりものあかしである。
 その他われわれの批判はすべて今なおその正当性を保持している。小ブルジョア的”革新”への幻想が崩壊するというよろこばしい兆しはますます顕著である。われわれはこの幻想の崩壊をブルジョア反動派=石原の方向にではなく、革命的社会主義の運動の発展の方向へと止揚するために全力をあげなければならない。この小冊子の目的もまた、この止揚の一助となるところにある。
 みのべの八年間は、労働者の生活の改善や権利の拡大にほとんど寄与しなかったばかりではない。資本主義の矛盾の深化とともにやって来た労働者の生活の悪化、崩壊に対して全く無力であることを明らかにした。労働者はこの小冊子から、労働者にとってみのべ都政とそれを支持した”社共”の政治が何であったかを学ばれるよう期待する。