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マル労同十年の闘い
――新党への移行を目前に

  マル労同第10回大会は、新党への移行、新綱領の採択等を決定したが、新党への移行をひかえ、全国社研=マル労同として続いて来た我々の闘いの総括と報告を連載することにします。
 マル労同前史と“正史”に分け、前史の執筆は林紘義同志です。


前史1.スターリニズム批判

 今でこそ共産党でさえスターリンを批判する時代であるが――勿論一面化し矮小化しつつだが――1920年代から50年代の末までほぼ30年にもわたって、「国際共産主義運動」の内部では、スターリンは神格化された存在であり誰一人として公然とそれに挑戦した者はいなかった。疑惑をほのめかし、批判らしき発言を一言口にするだけで、その党員は「トロツキスト」「帝国主義の手先」というレッテルのもとに党と運動から決定的に追放されたのである。

 ここに、新しい運動がスターリニズム批判をもって始まらなければならない必然性があった。だがスターリニズム批判は党と運動の内部ではタブーであった。かくして、絶対の存在であったスターリニズムに対する衝撃は運動の外部からやって来た。つまりソ連の権力争いをバックにフルシチョフがスターリンの権威を徹底的に破壊する暴露をやったことが契機ともなり出発点ともなったのである。これは勿論、ソ連の国家資本主義にとってもスターリニズムがすでに重荷になったことの表現でもあった。

 1958〜60年の“第一次”急進主義運動――そしてこれのみが唯一の真実の、内在的必然性をもつ運動であって、“第二次”等々は単なるその名残り、一定の歴史的意義をもちえた第一次の残照にすぎない――は、スターリニズム批判に影響をうけ、それを一つの契機として発展した。

 スターリニズムに対する幻想からの覚醒は、必然的に、スターリニズムが何よりも激しく否定していたその対立物への評価につながった。自由主義=人間主義、主体性論、トロツキズム等々がもてはやされたのは決して偶然ではない。学生たちはスターリニズムにかわるものをそれ以外に、手っとり早く見つけることができなかったのである。

 スターリニズムに対して何らかの一貫した理論と闘いの“体系”を対置しようとしたのは1958年12月に結成された「共産主義者同盟」である。彼らはスターリニズム(すなわち公認共産党)と最終的かつ決定的に手を切ることを望み、スターリニズム批判を最後までおしすすめ、徹底化しようとした。

 我々はこの“第一次ブント”の持つ大きな歴史的意義を確認しなければならない。彼らの闘いなくして、日本の(世界の)新しい共産主義運動は不可能であったろう。ブントは1956年にはじまる国際的な“スターリニズム批判”の時代を代表し、象徴し、集約して、それを一つの党派的結集にまで高めかくして世界史的な意義を獲得したのである。こうした党的結集は日本を除いてはどこの国でも行われなかった。

 ブントのもう一つの功績は、彼らが安易にトロツキズムに追随せず、批判的立場を保持したことである。実際、もし共産党をはなれた学生“共産主義者”たちがトロツキズムのとりこになっていたら、あの新しい運動も全く不毛なものとして終ったであろう。

 だがブントの“スターリニズム批判”は多くの根本的批判の端緒を含みつつも、結局不十分で中途半端であった。(これは、ブントを結成した指導者たちの階級約立場の反映でもあった)。

 例えば、彼らはスターリニズムを批判しつつも、それを明確に、ソ連、中国等の国家資本主義的発展と関連させ、それに帰着させて説明することができず、黒田寛一流の批判(スターリニズムには主体性と人間性がないとかの自由主義的、観念的批判)に流されていく余地を残していた。或いは、スターリニズムを批判しながら宇野経済学といった典型的な小ブルジョア俗流経済学に“ほれこんだ”等々(宇野経済学の信奉者連中は殆んど全員“ブル転”して、アメリカに留学し、ブルジョア大学の全く無内容で破廉恥な経済学の教授様として鎮座ましましている)。

 全国社研=マル労同の闘いもブントがその内在的、プチブル的欠陥故に挫折したまさにその時点から開始されたのである。我々の課題はかくしてブントの理論的、実践的なあいまいさや中途半端さ――決して偶然のものではない――を克服し、それをプロレタリア的なものとして深め、純化させること、ブントのプチブル急進主義を止揚して新しい運動を一貫したプロレタリア的なものに高めることであった。

●『火花』第615号、1983年11月20日


前史2.小ブル急進主義の止揚
革共同と再建ブントに抗して

 1958〜60年の急進主義運動と“第一次”共産主義者同盟こそ新しい闘いの出発点であり、ここにはじめて、数十年にわたって“共産主義運動”を歪曲し腐敗させて来たスターリニズムにかかわる新しい闘いののろしが上げられたのであった。

 しかしこの新しい運動は社共を直ちに圧倒し、それにとってかわって直線的に発展したのではない。

 むしろ表面的には、事態は全く逆の方向をたどった。すなわち、社共は、とりわけ共産党はその日和見主義をさらけ出した安保闘争のあとも量的に膨脹し“水ぶくれ”を続けて行った。他方、新しく生れた運動は分裂し、互に抗争し、動揺と混乱をくり返したのであった。ブント(共産同)は四分五裂、文字通り解体し、我々“下部党員”は「途方にくれた」のである。

 かくして、なぜブントは敗北し、解体したのか――これこそがまず問われなければならなかったのである。

 多くの見解が出された。ウルトラ急進派(革命の通達派に代表された)は、現代資本主義論=国家独占資本主義論がなかったからだ、この理論の獲得を宇野理論を媒介にしてやるべきだと叫びたてた。

 他方では、スターリニズムに対する批判が正しくなく、哲学的深みにまで達していなかったからである、「客観主義」を否定して「主体性論」に立脚することが必要だと強調する諸君、革共同(黒田一派)が大きな影響力を獲得した。

 ウルトラ急進派も黒田派も、ともに我々を満足させることはできなかった。革通派は、その見解の論理的帰結として、宇野理論の学習へと(そしてさらに進んでブルジョア経済学の習得へと)沈潜して行った。彼らの気分には、深い挫折感と実践への失望がにじみ出ていた。彼らは数年して急進運動を「再建」するが、それは第一次運動の“茶番”にしかならなかった。

 他方、黒田派の見解は、自らの実践を科学的理論に基礎づけようとしないインテリや学生活動家に恰好の避難所を提供し、急進主義の本当の止場の道を閉ざしてしまった。「客観主義」に対して「主体性」を対置するこの理論は、スターリニズムをマルクス主義と同一視し、その両者に対して人間主義=ヒューマニズムを対置する現代のブルジョア思想一般の、新しい運動内部への反映であり、新左翼運動の実践的・思想的堕落を深化する以外のどんな役割も果さなかった(このことは、革共同の――これはすぐに二派<中核と革マル>に分裂したが――実際の歴史によってすでに十二分に証明されている!)。

 こうしたまちがった(小プル的な)二つの傾向に対し、我々は共産主義者同盟の挫折と失敗の根本原因を、何らかの「理論」とか「立場」のうちにではなくまさにその運動の階級的、政治的性格に、つまり小ブルジョア急進主義そのもののうちに求め、そこにこそ“総括”の視点をおいたのであるが、この我々の立場はウルトラ急進主義者からも「人間主義者」からも余りに抽象的、とみなされたのであった。

 しかし我々は、我々の課題が、社共にかわって新しく開始された運動を、小ブルジョア・ラジカリズムの実践的、理論的影響から解放し、その影響から自由にすることであることを自覚し、この任務を果たすために1963年12月、簡単な規約だけをもつ革命的なサークル「全国社会科学研究会」を組織した(会員3〜40名)。我々はこの時にすでに、社共のみならず、急進派の無内容と反動性、彼らが解体し腐敗して」実践的な袋小路へと迷い込まぎるをえないことをはっきりと知っていた。

 我々の一つの決定的に大きな功績は、我々自身を単に社共のみならず小ブルジョア急進主義者ともはっきりと区別し、彼らとも一線を画し、彼らとは全くことなった理論的実践的基盤の上に我々の闘いを位置づけたことであろう。だがこのことは余り確認されていない。

 我々は「『左』右の日和見主義反対!」というスローガンをかかげたが、これこそ日和見主義に対してと共に、ブルジョア急進主義に対する我々の原則的批判的立場のあらわれであった。

 単に社共だけでなく、急進派も挫折し解体する以外ないという我々の洞察は、1960年代末から70年代はじめにかけての第二次急進主義運動の挫折とそれに伴って出て来た全般的な頽廃現象――テロルや爆弾闘争への熱中や京浜安保共闘グループのリンチ殺人事件や内ゲバの流行、「三里塚」を至上視する一面化その他――によって、その正しさが実践的に証明されたのであった。

●『火花』第617号、1983年12月4日


前史3 マル労同を直接に準備
全国社研8年半の闘い

 全国社研(全国社会科学研究会)は、1963年12月からマル労同が結成された72年7月まで、約8年半の間続いた全国で数十人の会員を持つ小サークルであった。

 このサークルの構成員は、基本的に、社共の日和見主義とプチブル的堕落に対して激しい反発と憎しみを持ちつつも、新左翼の腐敗した急進主義にもついていけなかった人々であり、従ってそのスローガンは自然に「『左』右の日和見主義反対!」となったし、ならざるをえなかったのである。

 数十人の会員を有するこのサークルの基本的な任務は大衆的な宣伝煽動を組織することでも公然たる政治闘争に進出することでもなく、マルクス主義の最も基礎的なものを学ぶと共に、それを現代の革命闘争に適用することであり、社共にかわる真のプロレタリア社会主義党を準備することであった。

 全国社研はわずか五ヵ条の簡単な規約をもつだけのサークルではあったが、1967年7月の第二回大会では準綱領的性格を有する決議を採択した。この決議は、来るべき日本革命の性格」民主連合政権や民主統一戦線、共産党の革命戦略や議会主義等々の広汎な諸問題について、原則的に正しい評価を与えたのであった。

 さらに69年5月の第三回大会では、「現代の世界体制と階級闘争」について全面的な総括を行うと共に、はじめて公式に、ソ連等を「国家資本主義」と規定して次のように述べた。

 「ソ連の革命後の国家は、ただ抽象的な意味でプロレタリア国家であったにすぎず、現実には小ブルジョアの利益を第一に考えなければならなかった(例えばネップ)。ネップの政策の小ブルジョア的性格は朗らかである。こうした小ブルジョア的国家資本主義的環境のなかで、1920年代を通じてプロレタリア国家は変質し、国家資本主義的官僚(スターリニスト)の専制権力に転化した。プロレタリア民主主義にかわって恐怖政治があらわれ、大衆は原始的な方法で生産にかりたてられ、搾取された。スターリニストは、当時の状況を社会主義とよんで矛盾を隠蔽し、社会主義では階級はなくならない、国家の役割はますます大きくなる、価値法則は残る等々のドグマをつくりだした。こうしたドグマに代表される『スターリニズム』とは、ソ連国家資本主義的官僚の体制イデオロギー以外の何ものでもない」(パンフレット「新たなプロレタリアートの革命的政治組織結成のために!」6頁)。

 「スターリニズム」に対する歴史的、マルクス主義的批判をなしとげ、それに科学的な規定を与えたことは全国社研の大きな功績であり、これは我々がサークルから政治党派へと成長する一つの決定的な契機ともなったのである。

 「スターリニズム」に対する科学的規定(従ってまた、ソ連や中国及び各国の共産党に対する科学的規定)がなければ、現代においてどんな一貫した革命闘争もありえないことば余りに明らかであろう。

 宮本らの昨今の「生成期社会主義論」のごまかしの俗論はいうまでもないが、新左翼もまた「スターリニズムとは“客観主義”である」とか主張してこの点でつまづいたのであった。

 我々は60年代に発展した“革新自治体”(社共的実践)に対しても、また60年代後半の大学紛争(新左翼的実践)に対しても、きっぱりとした明確な批判的立場を保持した、しかし我々の立場は決してセクト的なものでなく、革新自治体や大学紛争が現代資本主義の矛盾の一つのあらわれであることも承認したのである。例えば我々は大学紛争に対して次のように語った。

 「我々は小ブルジョア急進主義の運動(急進的学生運動としてあらわれている)に対して、それがブルジョア大学やブルジョア支配に反対し、それに敵対する限りで、これを支持しなければならない。しかし我々は全体としての小ブルジョア急進運動の指導をひきうけないし、ひきうけるべきではない。反対に我々は、その限界、その反動性、その無内容を暴露して、小ブルジョア急進主義を克服するために一貫して闘かわなければならない。我々の任務はプロレタリアートの革命闘争を指導することであって、このためには、労働者階級と結びついた強固な革命政党を建設しなければならない」(43〜4頁)。

 かくして71年5月に、全国社研は第四回大会を期して、何らかの政治阻織へ発展的に移行することを決定し、その決議をうけて73年7月、全国社研の第四回大会すなわちマル労同の結成大会(第一回大会)が開催されたのである。

●『火花』第619号、1983年12月18日


1.マル労同の綱領の意義
日本で初のマルクス主義的綱領

 84年を迎える新年号から、いよいよマル労同の“正史”に入る。何回かの連載の中で、マル労同の十年間の持った大きな意義と、また同時に、マル労同がなかなかサークル的存在から脱しえなかった原因を、つまり我々のいくつかの欠陥を明らかにしていきたい(執筆はひき続いて林委員長)。

 マル労同は1972年7月22、23の両日、東京で開催された全国社研第四回大会において結成され、この大会は同時にマル労同第一回大会となった。

 第一回大会の意義は、綱領及び規約を採択したこと、さらに2年のちの参院選に全国区から立候補し、全国の労働者に革命的なよびかけを行うことを確認したことである。

 マル労同の綱領は全部で7章に分かれ、広汎なものであり、それ自体、現代の日本及び世界の社会経済体制の正しい認識と革命運動と労働運動の最も本質的な問題に的確な回答を与えるマルクス主義的なものであり、この十年間の我々の闘いの共通の出発点、共通の理論的基礎となり、我々の団結と共同闘争を保障して来たのであった。7章を簡単に紹介すると、以下のようになる。

 「1.資本主義の歴史的性格と社会主義の必然性」では、資本主義の最も本質的な特徴づけと資本主義が社会主義に転化する必然性が示され、「2.帝国主義の時代とロシア革命」では独占資本と帝国主義の時代とその矛盾が明らかにされ、この体制の矛盾が世界戦争として爆発し、ロシア革命を必然化する過程が、そしてまたロシアの労農国家の発展の意味が明らかにされている。

 「3.現代の世界体制と世界社会主義への展望」では、米ソの対立を中心として現象する両体制の本質が(従って、米国や日本の国家独占資本主義と共に、ソ連等の「国家資本主義」の本質的規定が)与えられ、「世界社会主義」への困難ではあるが必然的な人類の移行が語られている。

 一転して「4.日本資本主義の発展と来たるべき日本革命の性格」では、明治維新以来の日本の歴史的発展の本質と意味――周知のように、この点では戦前から現在へいたるまで多くの論争があった――についての正しい回答が与えられ、「民主革命」でなく「社会主義革命」こそが日本の労働者階級の課題であることが強調されている。

 次いで、「5.労働者の階級闘争とマル労同の任務」では、世界と日本の膨大な階級闘争、労働運動、社会主義運動の総括をふまえながら、マル労同の任務が一般的に明らかにされ、「5.労働者階級の勝利と革命的労働者政権が直ちに実行すべき政策」が明示されている。そして最後に、「7.他党派の階級的性格とマル労同」で、社共や新左翼を含む一切の政党のプルジョア的、小ブルジョア的性格が暴露され、マル労同が労働者の階級政党として成長していくべきことが強調されている。

 日本における、はじめての一貫したマルクス主義的綱領として、72年綱領のもつ意義ははかりしれないものがあった。この意義の一端を「火花」200号は次のように述べた。

 「この綱領の特に重要な意義は、戦後世界資本主義の特質の解明に成功したこと、ソ連圏社会に歴史上初めて唯物論的マルクス主義的分析を加え、この社会の矛盾を明らかにしたこと、レーニン死後の国際共産主義運動の戦術であった『統一戦線』『連合政府』の戦術に全面的な革命的批判を加え、マルクス、レーニン主義の革命的戦術を再興したことである」。

 勿論、この綱領が綱領としては、「説明的部分」が多くあって「長すぎる」こと、またマルクスやレーニンが言ったように「絶対に確実なこと」に限られず、それ以外のものが若干まぎれこんでいること等々、いく多の欠陥を指摘することができるだろう。しかしこの綱領の意義はそうした欠陥を補って余りあり、新党へ移行して新綱領が採用されたのちも、第一級の推せん文献として、広く労働者に推奨される価値をもっていると、我々は確信している。

 また同時に採択された9章21条からなる規約も、サークル的段階をなかなか脱しえないマル労同の実態との間に実践的な混乱や矛盾を生みつつも、基本的にマル労同の組織的活動と団結を保障して来たことをつけ加えておきたい。

●『火花』第620・621号、1984年1月1日


2.選挙闘争への参加
一そうの自覚した位置づけが必要

 マル労同は1974年の参院選にはじめて参加して以来、合計参院選3回、衆院選3回を闘い、多くの貴重な体験を自分のものにして来た。

 すなわち我々は74年には参院選全国区に1人、76年の衆院選に神奈川一区、愛知八区、大阪二区から3人、77参院選には東京、神奈川、愛知、大阪から4人、79年の衆院選に神奈川二区から1人、80年の同時選挙には参院選をはじめて「確認団体」として闘い、全国区から1人、地方区からは北海道、埼玉、千葉、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫、福岡から9人の合計10人、衆院選でも愛知六区と千葉一区から二人の候補者をたてたのであった。

 合計して立侯補した同志は14名、回数は21回である。得票率が1%を越えたときは2回のみ(80年参院地方区の千葉、埼玉)であったが、この同時選挙のときの一人平均の得票数は約2万票、我々の弱小な組織力に比べれば“大衆的”ともいえるものであり、労働者人民大衆がどんなに魅力ある本当の労働者党の出現を待ち望んでいるかの一端を明らかにしたのであった。

 勿論、マル労同が選挙闘争に参加したのは、共産党のようなブルジョア的議会主義(“人民的”議会主義)の立場からではない。共産党は、国会内で“民主的”多数派を形成し、国会を真の「国権の最高機関」に転化することで社会主義への道を切り開く――切り開きうる――というばかげた幻想をふりまき、また自らもこの幻想におぼれ、資本の階級支配の道具の一つとしての議会を美化したが、マル労同は議会=選挙闘争を、ブルジョア政党、小ブルジョア政党を暴露し、「労働者階級を啓蒙し、教育して自主的な階級政党に組織する一手段、労働者の解放をめぎす政治闘争の一手段」(レーニン)と基本的にみなして来たし、今もそうである。

 マル労同の十年の闘いのなかで、選挙闘争への参加は大きな比重を占めている、だからこそ、83年の参院選を前にして、この選挙闘争に参加するか否かが大きな問題となり、同盟全体をまきこんだ大論争へと発展して行ったのである。

 この中で、「マル労同の闘いは選挙への参加が中心であり、その“つなぎ”として別の活動や闘いがある。選挙への参加は金銭的な負担が余りに大きいのに比べてその成果は小さい、もしくは不明瞭である。もっと職革体制とか機関紙の充実とかに力を注ぐべきである」といった批判も当然出され、82年の大会で83参院選パスと、職革体制の確立、「火花」の拡充といった方針――83年の第十回大会でその一面性が総括されたのだが――が決ったのである。

 マル労同が大きな負担にもかかわらず物質力を集中し、同志たちのエネルギーを傾注して何回かの選挙闘争を闘いぬいたことは全く正しく、必要であった。

 むしろ問題は、ブルジョア民主主義の諸条件の中で公然たる社会主義的闘いを貫徹し、労働者階級を啓蒙して組織していく上で選挙闘争の持つ決定的な意義を我々が深刻に自覚しておらず――直感的には知っていたが――十分に選挙闘争を社会主義的革命闘争の発展のために活用できなかったことではないだろうか。

 例えば、我々の六回の選挙闘争は、一つ一つ、個々バラバラに切りはなされておりそれぞれの同盟の地方組織の組織的、日常的な闘いとしっかり結合されておらず、従ってまた次の選挙への展望や継続性のなかで選挙を利用するといった視点は殆んどなかった等々。

 こうしたことは、また、候補者がその地方で闘っている同志であるよりも、“外部から”移入された同志の場合が多かったところにもあらわれている。実に“地元”の同志である場合は、参院選の13地方区(77年4、80年9)のうちで8つ、衆院選6(76年3、79年1、80年2)のうち三つを占めている(しかし80年に近づくにつれて“移入”候補は減り、地方委の同志が立侯補する比率は高くなっている)。

 我々は選挙闘争への、さらには国会闘争への労働者党の参加の意義を確認する。このブルジョア民主主義の本質的契機をなす“公けの”政治闘争にある程度“順応”することが必要であり、その舞台で労働者党が徹底的に闘い、労働者の階級的結集をかちとり――意思の結集と組織的結集の両面において――労働者の過半の支持を得ることなしに、実際的に労働者階級の革命について語ることはできないであろう。

 我々のような若い党にとって選挙闘争への参加は確かに大きな負担である、しかし全国的な宣伝という一つの契機――参加の意義はこれにつきるものではない――をとってみても、それが十分に“ペイされている”ことは明らかであろう。

●『火花』624号、1984年1月29日


3.経済闘争の位置づけ
階級闘争の重要な一部と評価

 マル労同は一貫して政治闘争と党建設闘争にとりくみ、それを我々の中心課題としてきた。

 そのために、何かマル労同は経済闘争、労働組合運動に消極的で、それを軽んじているとかのまちがった偏見が漫然と存在しており、急進派は敬意に活動家の中のこうした偏見を増幅させて来た。

 しかしマル労同はマルクス・レーニン主義の党派として、また労働者の階級政党として、経済闘争、労働組合運動の意義や役割を軽視したり否定したりしたことは一度としてない。

 事実は反対であって、我々は、経済闘争、労働組合の闘いが労働者の階級闘争の重要な一部でありそれを一そう階級的に深め、発展させ、大衆闘争で闘うことをよびかけ、また職場・組合で活動するマル労同の同盟員はこうした闘いを常に担い、その先頭に立ってきた。

 例えば、77年の第五回大会の決議は労働運動と社会主義の結合をよびかけて次のようにいっている。

 「労働組合運動の様々な面に積極的に参加し、そのなかで同盟(革命的社会主義)の影響力を拡大する必要がある」(火花360・61合併号)。

 もし我々が「労働組合の闘いを軽視している」ように見えたとすれば、それは次の二つの事情による。

 一つは、我々は、社共の(総評や統一労組懇のダラ幹どもの)経済主義、組合主義に断固として反対し、それを徹底して暴露し労働運動をそれ自体自足的、自己完結的にみるのでなく、社会主義運動を発展させ、労働運動と社会主義運動を不可分に結びつけるように強調したことである。組合主義を批判するに当たって、我々は経済闘争、労働組合運動の意義ではなしにその狭さや限界を強調せざるをえなかった。そしてこのことば必要であったが、急進主義者たちの偏狭な理解力には「現実の闘いを無視している」ようにうつったのである。

 だが我々が言ったことは、レーニンが「何をなすべきか?」で強調したこと一社会主義と結びつかない自然発生的§J働運動は不可避的にブルジョア化する――であった。急進主義者(新左糞)が我々の見解を理解できなかったということは、口先きだけの“左翼性”にもかかわらず、彼らもまた経済主義者であり、社共や組合主義者のレベルを一歩も越えるものではなかったことを教えるだけである。

 今一つの事情は、この間、労働者の経済闘争、労働組合運動もまた後退して来て殆んど闘いとよペるような闘いがなくなってしまったという事情、そしてまたマル労同が弱小であって労働者大衆のなかにまだ深く浸透しておらず、彼らと固く結合していないという事情であった。(例えば「産別委員会」の試みが“時期尚早”であることを暴露した等々)。

 我々は労働者に対する宣伝活動、組織活動等に重点をおかぎるをえなかったのであり、このことが表面的にマル労同の非実践性を印象づけたにすぎない。しかし他方我々が、宣伝闘争や政治闘争では他のどんな党派にも劣らない積極性と実践性を発揮して闘って来たことも忘れるべきではない。

 我々はみな確信している――我々がもっともっと労働運動と労働者大衆の中に浸透し、また労働者のなかのすべての先進的分子を結集したあかつきには、我々はもっとも実践的な、真の闘う労働者党として登場するであろうことを。レーニンもいっているように、共産主義的労働者は「人民の護民官」であって資本のすべての非人間的な抑圧や搾取を時を失せず暴露し、それに反対して闘うのであって、「社会主義になればすべて解決する」というだけの傍観者的態度をとるはずもないことは余りに明らかであろう。一切の矛盾と災厄の解決として社会主義をよびかけることは絶対に必要であるが、しかし社会主義は労働者の階級闘争の勝利の結果であって資本に対する階級闘争をよびかけそれを組織することこそ、我々の第一の任務である 経済闘争、労働組合とその闘いに対する我々の基本的立場は、新党綱領草案の中でも(例えば第五章二節)正確に述べられている。同章三筋ではまた、それらが労働者の階級闘争全体のなかで占める位置も明らかにされている。

 単なる労働組合主義の、あるいは急進主義の活動家ではなく、真の“革命的な”活動家に自己を高めること、単なる「労働組合の書記」ではなく「人民(労働者階級全体)の護民宮」として登場すること−このことをこそマル労同は全国の労働運動の活動家の諸君に要求するものである!

●『火花』626号、1984年2月12日


4.なぜ政治闘争の重視か
政治は階級闘争の集中的表現

 マル労同はその十年余りの歴史のなかで政治闘争を重視し、多くの政治闘争にとりくんで来た。

 我々の政治闘争の手段は、ビラ配布、街頭宣伝、集会闘争、さらにはデモンストレーションであり、我々の力量では現実の政治に影響を及ぼすことはできなかったが、しかし全国の何百万、何千万の労働者に諸階級の政治の真実を教え、闘う方向をさし示したのであった。

 マル労同がまず最初にとりくんだ闘いは、田中政権に反対する闘い、とりわけ、田中角栄が幻想をふりまき、労働者人民にその本質をかくしつつおしすすめた「日中国交回復」の本質を暴露し、田中の政治に対する階級的反撃をよびかけた72年秋の闘いであった。我々はこの闘いで、日中復交が日中両国の支配階級の“国交国復”であり握手であって、労働者階級はこうした支配階級の連合に、日中の労働者の階級的連帯を対置するように訴えたのである。

 我々は“世論”か“田中ブーム”にうかれる情勢の中でさえ、田中政治の反動性と腐敗を、さらにはインフレを激化して結局は労働者人民にとって一そう耐えがたい経済的破局を準備するにすぎない“膨脹政策”(「列島改造論」等々)を暴露したが、我々の批判の正しさはロッキード事件や74年の大インフレや70年代後半から恒常化した財政危機等々によって完全に明らかにされたのであった。

 73年9月の、チリ人民連合政権(社共政権)の敗北のときのマル労同の大規模な宣伝戦や集会闘争もとりわけ意義深いものがあった。

 というのは、まさにこの歴史的な経験から、社共はともに、一そう日和見主義を深め、ブルジョア支配と妥協することが必要だという最も俗悪で卑劣な教訓と結論を引き出し、これをきっかけにますますその堕落を完成させて来たからである。

 我々は反対に、チリの社共政権の挫折が、社共の日和見主義と裏切り的政策の必然的帰結であることを示すことによって、一貫したプロレタリア的、革命的政策の必要性を強調したのであった。

 また我々は、74年には田中金脈の暴露戦を全国的に展開し、さらにそのあと、“自由主義的ごまかし”によって自民党の金権腐敗政治を温存した三木政権の本質――社共は多かれ少なかれ三木政権を美化しそれに迎合した!――をあばき出した。

 また我々は、6回の国政選参加を、自民党の反動、腐敗、軍拡の政策を徹底的に暴露し、その打倒をよびかける“場”として利用したことはいうまでもない。

 そして同時選挙のあとには、自民党政権の軍拡主義に反対する闘いを強め、集会・デモを何回も行い、防衛庁等へ抗議行動をくりかえした。

 さらにまた、一昨年の自社両党による選挙法改悪の策動に対しては長期にわたる執拗な反対闘争を展開したのであった。

 とりわけ重要な点は、我々の政治的闘いが決して政府自民党に対してだけではなく、すべての野党に対しても断固として行われたことである。我々は「政府自民党に反対する闘いを、日和見主義者に反対する闘いと結合した」のである。

 例えば我々はすべての選挙闘争のなかで社共の裏切り的本性を公然と、真実の言葉でもって暴露したし、中道政党への期待がふくれあがった77参院選ではことさらに「中道幻想を打ち破れ!」という旗印をかかげて闘うことさえしたのであった。

 勿論、マル労同の政治闘争は単にこうした個々の政治闘争に限られるものではなかった。労働者党の政治闘争とは、より深い意味では社会主義をめざして闘う労働者政党の党的闘いであるという自覚の上に立って、我々は、党のための闘い、党を通しての闘いを重視し、「全国機関紙を中軸とした」党的闘いを貫徹し、それを我々の日常的な闘いの根底におくことを強調したのであった。

 レーニンは、階級間の闘いは、特定の目標をかかげた特定の政党相互の闘いとして現象する、と言っている。我々はまさに、小ブルジョアの政党(中道、革新等々)と区別された、労働者の階級政党を組織することによって、資本の政党(自民党)に挑戦し、この政党の支配を打ち倒さなくてはならないのである。

 新党綱領草案もまた、「労働者の闘いは、国家権力の奪取を目ざす特定の労働者政党の闘いになるに比例して、真の階級闘争になる」と述べ、労働者の政治闘争の正しい概念を与えている。労働者はまさに「自らを独立した政党にも組織し、資本の権力の打倒をめざす……政治的闘いを発展させる必要がある」のだ。

●『火花』第627号、1984年2月19日


5.何百万の大衆と結合するために
 新党への移行、新綱領・規約の意義

 80年の同時選挙にマル労同は12名(参院は10名で確認団体、衆院は急きょ2名)の候補者をたてて参加し22万票余りを得て大きな成果をあげたが、同時に、またこの選挙はマル労同の力量が労働者大衆と結びついた労働者政党というにはまだほど遠い現実であることをも改めて明らかにしたのであった。

 まさにそれ故に、同時選挙のあと、我々は二期にわたって、党建説を中心にすえた闘い、一年間で同盟を倍増する闘いを決定し、党建設を“運動として”とりくむ必要性を強調したのであった。同盟倍増はまた、次の(83年の)参院選に確認団体として参加する前提、と位置づけられた。

 だが一期目はともかく、二期日の倍増闘争は敗北し(ほぼ現状維持)、83選挙闘争は重要な政治的闘いであったにもかかわらずパスせざるをえなくなり、我々の闘いは大きな反省を迫られることになった。

 我々の前には基本的に二つの方向があった――一つは、個々の経済闘争(組合運動)、政治闘争を一そう活発化し強化することによって党建設の道を切り開くという方向、もう一つは、革命的、社会主義的政治闘争を一そう深めることで解決を見出そうという方向が。勿論、この二つの方向はいろいろ錯綜した論争や議論やある程度の実践的試行錯誤のなかで、傾向として存在したのであって、実際にはこのように単純化されていたわけではない。

 我々は結論的にいって、革命的社会主義的闘い、党的闘いを強化し、拡大し、深める方向こそが、そしてそれを個々の経済闘争や政治闘争と結合していく方向こそが我々の正しい闘いの道であることを改めて確認した。

 そして我々は82年大会で、同盟の幹部を職業革命家に転化し、機関紙・誌を充実させ(4頁の「火花」から8頁の「火花」へ等々)機関紙を中心とした党的な闘いを強め、貫徹すること、それを我々の日常的な活動の基礎にすえることを決定し、そしてまた同時に、83選挙の“パス”(不参加)を、党的、社会主義的闘いの発展という見地からみてきわめて遺憾であったと総括したのであった。さらに我々が昨年の同盟第十回大会で、新党への移行(党名変更)、単なる綱領・規約の改正ではなく、その枠を超えた新綱領・規約の採択、機関紙名の変更等々、きわめてラジカルな変革を決定したのも、我々のこうした方向性に合致し、それを一そう現実化具体化したものにほかならない。

 ある意味で、これはマル労同の“オーバーホール”である。我々は我々の様々な欠陥や限界をすべて洗い流し、真に大衆的な(労働者大衆と結合しうる)新しい労働者党を生み出すことを望み、また決意したのである。

 我々は勿論、「マルクス主義労働者同盟」、「火花」といった党名や機関紙名や現綱領がまずいものであるとかまちがっているとかは全然考えない――むしろ反対であり、党名、機関紙名にしろ綱領にしろ立派なものであると信じ、大きな愛着を抱いている――しかし、例えば「マル労同」という党名をとっても「マル青同」とか「マル学同」としばしば混同されるようなある種の“新左翼的な”ニュアンスを残しており、それはまたマル労同の一定の“体質”として労働者に意識される面もある。また、「火花」の意味をただちに理解しうる労働者は殆んどいないであろう等々。

 我々は闘う労働者の前衛政党として何十万、何百万の労働者大衆と結びつくことこそが我々の現在の最大の、しかも緊急の課題であると考え、この目的に沿って我々のすべてを再点検し、組織と実践力を徹底的に再編し、改正し、変革することを望むのである!

 我々は労働者大衆に接近するすべを知り、彼らの状況や意識に適応しなければならない――決して追随的な意味ではなしに!――し、一人よがりや自己満足を徹底的に一掃して労働者大衆のなかに入って行き、彼らと結合しなければならない。あえていえば(一面的に誇張して言えば)、現在、この目的に合致するものはすべて正しく善であり、合致しないものはすべて正しくなく悪である。

 全国の先進労働者の諸君!新生するマル労同に期待せよ、そして我々は諸君とともに闘うことを熱望する!

●『火花』第629号、1984年3月4日