労働の解放をめざす 労働者党 |
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●同志会から労働の解放をめざす労働者党へ 我々は十一月二、三日の両日にわたって開催された大会において、社労党を解消して、新しい組織、そして新しい闘いに移っていくことを決定した。すなわち我 々はこの十年間の活動を総括し、政党として闘って来ることができなかったこと、そして我々の希望もしくは願望に反して、近い将来、政党として闘いうる主体 的な――そしてまた客観的な――条件がないことを確認し、革命的、マルクス主義的なサークル(「マルクス主義同志会」)としての闘いに移行することにしたのである。これは確かに、一九七〇年代、八〇年代、我々が労働者の階級的、革命的前衛として登場し、全労働者階級に公然と訴え、政府自民党とプチブル党派を暴露して、活発に選挙闘争などを闘ったことからすれば、「一歩前進、二歩後退」である、しかし我々はこの転換が必要であることで意思を一致させたのであ る。 出席した数十人の全代議員には、社労党が現在、政党として存在しておらず、また機能してもいないこと、我々は確かに 機関紙誌やビラなどを通して我々の政治的な立場を明らかにし、資本の政府や反動や日和見主義的党派を暴露して闘っているが、しかしそうした活動も、“政治 的発言”という限界の中にあること、そしてそれは政治的な闘いの一環であっても従属的な一部であって、実際的な意味での政治的闘いとは違うということ、等 が確認された。 したがって問題は、党を解消して別の形での闘いを継続するか、それとも、今は党といえず、実質的に党でなくても、近い将来、党に成長するのを前提し、それを目指し、期待して、現在のままで闘いを継続するか、という形で立てられたのである。 これは困難な問題で、簡単に回答が出ることではなかったとも言える。多くの同志が、党としての闘いの継続を望んだのも当然のことであった。社労党としてのこれまでの積み重ねた闘いがあり、伝統があり、その名称が一定程度浸透しているなら、なおさらのことであった。 しかし我々は、党の実態を欠き、党としての闘いを「構築」できない状態で、党を名乗るのは労働者階級に対する責任を果たすとは言えないという結論に達したのである。また、党でもないのに、党としての活動を考えたり、党として機能しようとすることは、我々の闘いに一定のゆがみというか、ある種の退廃を生んで いく可能性、あるいは必然性も指摘された(それはすでに、可能性の問題ではなく、現実の問題でもあった)。 大会の中で は、我々の方に結集してきた青年が、我々の実態が党ではないことに失望して去って行ったことも報告されたが、この報告を行った代議員は、多くの労働者、青 年に実態ではないものを見せ掛けることは正しくない、労働者に本当の責任を果たすゆえんではない、と主張したのであった。我々はいかなる場合も、労働者に とって真実を語らなくてはならず、またありのままの存在、真実の存在でなくてはならない、というのであった。 労働者階級に責任をもつ党派である以上、我々は、真実をもって労働者階級の前に現れるべきであるし、またそれこそが労働者階級に信頼され、労働者階級と結び付いていく道であろう。我々は、別に虚栄や見栄に走る必要はないのである。 もちろん、我々はいつの日か、労働者の革命的政党が再び組織され、果敢な闘いを展開することを信じており、また我々もその過程で、一定の重要な役割を演じ ることを期待する。しかしそれがいつかを今言うことができる段階にはない、というのが我々の現状に対する認識であった。 我々の新しい運動のイメージとして、「マルクス主義的“原理運動”」という観念が提出され、それをめぐって是非の議論がなされたのは特徴的であった。 このイメージを擁護した代議員は、新しい転換とは、我々がマルクス主義と階級的立場の原点に戻って闘いを継続し、推し進めて行くということだから、このイ メージは正当である、と主張したが、この概念を退けた代議員は、これは宗教的な運動のイメージを与え、狭隘な活動の印象が強く、労働者を遠ざけると批判し たのであった。 しかし“原理運動”と言えば宗教的、反動的と一概に言えない(例えば、イギリスのピューリタン革命の時代 ――発言者は「名誉革命」と言ったが間違い――のクロムウェルの運動もそう呼ばれたし、市場原理主義というのもある等々)、原点に基づく運動ということ で、別に問題はない、むしろある意味で、我々の新しい闘いの特徴を表現している、という見解が大勢を占めた。 もちろん我 々がこうした立場に移行するのは、根本的に言えば、「二歩後退」であるということを、深く自覚した上でのことである。我々は労働者の革命政党の果敢で深刻 な闘い、労働者の支配を目指す政治的な闘いこそが第一義的であり、必要であるということを皆確認している、しかし現在、その客観的、主体的な条件を見出す ことができないということなのだ。我々はやむを得ず後退するのであって、それは我々が好きこのんでやることではないのである。 我々は一部の左翼のように、絶望してテロリズム路線に走ることはできないし――これもまた、確かに権力を目指す、一種の政治闘争ではあるが――、また闘争を止める意思もないのである。とするなら、「二歩後退し」、原点に戻って闘いを再構築する以外ないのである。 まさに再構築である。我々はより根源的な地点から闘いを再構築しようと意図するのであって、新左翼などのように、マルクス主義を捨てるなどといって、自らの裏切りと敵陣営への身売りを隠しつつ、浮かれている連中とは何の共通点もない(最近、ブントの荒岱介は、広松哲学を「媒介に」して、マルクス主義を“克服”したと公然と宣言し、鼻高々である。他のブント系の評者は、これに対し、“徹底した”マルクス主義者であった広松渉を媒介にしてマルクス主義を“乗り 越えた”というのは皮肉だとか、無意味な論評しているが、まさに何重かの意味での茶番であり、お笑いである。『SENKI』十一月五日号)。 我々の新しい組織の名称が「マルクス主義同志会」に決まったのは特徴的である。この名称は、他に提案された「マルクス主義者協会」などと争って決まったものだが、我々の今後の闘いとその性格を示唆している。 我々はこの名称において、我々が完全にマルクス主義の思想と理論に立脚すること、また革命的サークルであって、自由主義者好みのどうでもいいサークルでな いことを公然と明らかにし、ブルジョアやプチブルたちの「マルクス主義はふるくなった、その理論はすべて“間違い”が証明された、破産した、否定された」 等々の世迷言に抗して立つのであり、そうした諸君に対して挑発的に「手袋を投げつける」のである。 マルクス主義は決して古くもなっていないし、破綻もしていないのであって、反対に労働者階級の解放運動を導く、唯一の思想体系、理論体系――すなわち現在の資本主義社会の本性 についての真実の認識の契機であり、労働者の階級的運動を導く唯一の科学的な体系――であることをますます明らかにしているのである。我々はこの真実を公 言し、そのことをブルジョア世界の全体に知らしめようというのである。 プチブル的俗流党派は――共産党であれ、社民党で あれ、“新左翼”諸派であれ――ますます転落して、マルクス主義に対する攻撃でも否定でも何でもやればいいのだ、それは諸君をますます労働者階級とその運 動から遠ざけるだけだから、諸君の底知れない退廃と“転向”――ブルジョア陣営への移行と屈服――を暴露するだけだから。 しかし我々は労働者の階級的立場とマルクス主義の根本的な立場に留まるのであり、その原点から闘いを再構築し、発展させていくことを決意するのである。 我々は一種のサークルに移行し、組織的に、実践的に、多くの面でこれまでと違った闘いに移っていく。 まず言えることは、我々の新しい組織は、“普通の”、何か日常的な課題のために気楽に組織されるようなサークル、自由主義的な原理によって支配されるサー クルではなく、革命的、階級的なサークル、マルクス主義的なサークルであり、その意味では、どんな“サークル主義”とも無縁である、ということである。大 会は、退廃した、自由主義的なサークル主義と、断固として闘っていくことを確認した。 組織面でも大きな再編成が行われ た。中央執行委員会、中央委員会、都道府県委員会というこれまでの党諸機関はみななくなり、代わりに、中央に代表委員会(さしあたり、四名)が置かれ、ま た全国に三十ほどの支部が組織されるという簡素で単純なものになる。我々は、こうした形こそが現在の客観的、主体的な諸条件の中で闘っていく上で、実際的 であり、“効率的”である、と結論したのである。 こうした決定的な組織的再編や整理を見ただけでも、今回の「転換」の意義と重要性がただちに確認されるであろう。 日常的、具体的な実践面でも大きな修正が謳われ、思想的、理論的な活動を重視し、また労働者や青年を組織するために、活発で、内容のある研究会を組織して いくこと――マルクス主義の根底(“労働価値説”等々)を継続的、かつ根底的に検討し、修得していくような――が確認された。こうした研究会は、単なる 「勉強会」ではなく、基本的に、労働者・青年を結集し、組織し、本当の意味で目覚めさせていく重要な一手段である。 個々の労働運動、あるいは「政治闘争」――例えば、日の丸・君が代反対闘争など――に、我々がいかにかかわっていくか、ということも重大な問題であった。 我々は個々の会員がそれらに積極的にかかわり、参加する意義を認めたが、しかし会としては、実際的な闘争を組織しない――しえない――ことも確認したのである。 しかし、このことは新しいサークルに移行したからということよりも、これまでの社労党の現実であった、といえよう。 我々の職場の、地区の同志はあれこれの組合の闘争や大会に参加したし、また地区の同志は急進派や市民主義者がヘゲモニーをもつ政治的運動に参加したが、し かしそれは党員もしくは党員のグループによる、部分的な闘争に留まり、党の指導する組織的で広汎な闘争といったものとは縁遠いものであった。我々はむし ろ、こうした現実を追認したのである。 そして我々はこれまで通りに、機関紙誌を通じて、政治的な発言や主張を継続的に行 うだろうし、ある意味で、日本左翼の“オピニオン・リーダー”の役割を果たしていくだろうが、しかしそれは基本的な意味での「政治闘争」ではないこと、本 当の労働者の政治闘争は大規模なデモや集会等の大衆闘争、あるいは“国政”をめぐって全国的な基盤で闘われる選挙・議会闘争にあるということを、確認する のである。 また機関紙『海つばめ』は来年一月から、月四回の発行が、三回の発行(第一、二、四週)になるが、これもまたサークル移行に対応したものである。我々はこの面でも、いくらか“戦線縮小”を強いられたのである。 当然、機関紙誌の内容も、革命的サークルへの移行に対応して変わっていくが、しかし明確で断固とした政治的な主張や発言は継続することが確認されている。また活発な出版活動なども展開されるだろう。 我々は全国の読者の諸君に呼びかける、我々の階級的、原則的な闘いは不滅であり、これからもいくから違った形で継続され、さらに強力に展開されるだろう、共に闘おう、と。 マルクス主義同志会に断固として結集せよ! ●『海つばめ』第893号、2002年11月10日 輝かしい社労党18年の歴史 社労党十八年の歴史が終わるとき、さすがに一種の感慨を禁じえない。 社労党は新左翼の急進派と自らを厳しく区別し、彼らと明確に一線を画す実践の道を歩んだが、それは我々が公然と国政選挙に参加し、全国の労働者に強烈なアッピールを発したことに、特徴的に示されている。 社労党はすでに、その前身のマルクス主義労働者同盟の頃の七四年、江波進一を候補者に初めて参院全国区を闘って以来、一九九〇年代の初めまで、衆参の多くの国政選挙を闘い抜いてきた。 最初の全国区の得票は一万票余りだったが、一九八六年と八九年の参議院比例区選挙(八九年は最後の全国的闘い)では、我々は十四万票余りもの、全国の労働者の熱い支持を獲得したのである。 我々が一九八四年、社労党を組織したのも、全国選挙にさらに積極的に参加し、労働者階級の政治的闘いを貫徹するためであった。 我々が選挙闘争に参加したのは、次のようなマルクス主義の実践的立場の正当性を完全に確認したからであった。レーニンは一九〇五年の革命の後、急進派をさとして、書いている。 「ロ
シアで議会制度が確立されていると仮定しよう。これは、議会が既に支配階級と支配勢力の主要な支配形態となり、すでに社会的=政治的利害の主要な闘争舞台
になったことを意味するであろう。革命運動は、直接の意味では現存しない。……このような状況のもとでは、議会闘争を放棄することは社会主義党にとって全
く許しがたいことであろう。労働者党は、最も真剣な態度で議会政治と取り組み、『国会』選挙と、『国会』そのものとに参加し、その全戦術を、議会的社会主
義党の結成と成功的な機能発揮の諸条件に従属させなくてはならない」 我々が選挙闘争に参加したのはこうした思想に基づいてであり、我々の党の議員が誕生することは、新しい社会主義的革命運動の飛躍の強力なテコになると信じたからであった。 もちろん、我々の革命的議会主義は、不破哲三らの「人民の議会主義」つまり、国会は「国権の最高機関」であり、従って議会で多数派を占めることによって、 資本の支配を転覆できるといった、ブルジョア議会主義とは何の共通点もなかった。我々は、議会制度が資本の支配の一つの形式であり、その下でこそ、資本の 支配がより完全に、より強固に貫徹されるという真実を、完全に承認し、自覚していたのである。 最初の選挙のときの「全国百か所集会」にもみられるように、我々は活発な活動を展開し、選挙闘争を利用して全国の労働者に公然と、徹底的に、資本の支配に反対して闘う必要性と、日和見主義の党派を決して信用してはならないことを訴えたのであった。 しかし、我々の果敢な挑戦は実らず、やがて我々の組織力、物質力は限界に達し、闘争の継続が困難になった。我々が期待した八九年の選挙が――土井社会党が消費税反対で票をかっさらったこともあって――、三年前とほとんど同じ票しか獲得できなかったことが決定的だった。 社労党は一九八六年の参院選比例区で十四万票余まで票を伸ばし、次回こそ当選もしくはそれに迫る票を期待していたため、我々の落胆は大きく、様々な犠牲や大きな負担増と相まって、“厭戦気分”が広がった。 そして選挙法の改悪が追い討ちをかけた。政党として比例区を闘うために、供託金だけで数千万円もかかるというのでは、社労党のような党は、それだけで選挙闘争から締め出されるのだ。小選挙区制もまた、徹底的に排除的である。 かくして我々は展望を見失い、大衆的な労働者党への道を閉ざされ、事実上、サークル的組織に後退した。再び国政選挙に挑戦し得る組織的、実際的な実力を取り戻そうとするこの十年の努力も、残念ながら実を結ばなかった。 いま我々はこうした主体的、客観的な条件を考慮し、社労党を解消し、「一歩前進、二歩後退」、捲土重来を期すことを決定したが、しかし我々は十八年間の社労党の歴史と闘いに十分な誇りを持っていいだろう。 この間、共産党はますますブルジョア的に転落しただけではない、長年にわたってスターリン主義の党として存在してきたこともあって、労働者の信頼を全く失 い、また一千万票、二千万票も選挙で獲得していた社会党も、日和見主義を深化させて自民党と連合し、資本の国家権力と融合し、あげくのはてに解党し、消滅 してしまった。 そして急進派(新左翼)の退廃は、ブントの“市民主義”への堕落を見ても、赤軍派の破綻を見ても、その醜い“内ゲバ”等々を見ても余りに明らかであった。 したがって、我が社労党のみがこの間、一貫して労働者の解放と社会主義・国際主義の旗を高く掲げて闘ったきたと言えるのだ。 そしてまた、この闘いと歴史は、新しく組織されたマルクス主義同志会の闘いの中に完全に受け継がれ、止揚されていくであろう。我々は社労党の輝かしい伝統 を受け継ぎつつ、いくらか違った形で闘いを継続するのである。我々の闘いは決して止まないのだ、世界中の労働者階級が資本の鎖から解放されるまでは。 ●『海つばめ』第893号、2002年11月10日【主張】 一年間の党内闘争に決着 十一月二十一日から二十三日まで、三日間に渡って開催された社労党第九回大会は、批判派が社労党とは何の関係もないプチブル的、日和見主義的動揺にすぎな いことを確認し、一年余の党内の混乱と闘争に決着をつけた。また大会はやむをえず阿部、酒井氏を党から除名したが、それはこの一年の彼らの無政府主義的言 動からではなくて、直接には、党に対抗する党大会を何の権限もないのに“招集”して、党の分裂を策し始めたからである。以下、社労党第九回大会の報告であ る。 ◎「批判派が“分裂大会”」大会は緊張した雰囲気の中で開催された、というのは、批判派が大会二日目に総退場して、別個の大会を開くといううわさが飛び交っていたのに加えて、当日、彼らが社労党「改革協議会」という組織をデッチ上げて、その事務局名 で社労党の別の大会を呼びかける招請状を、全国のいくつかの組織や党員に送っていることが明らかになったからである。 大会には数人の批判派のシンパの党員が出席していたが、批判派の中心的なメンバーである四人の代議員――阿部氏、酒井氏ら――が欠席していることも確認された。 我々は彼らが社労党を離党して、勝手に組織をつくるならそれはやむをえない、しかしとにかく今回の党大会では、批判派と徹底的に、お互いが納得行くまで議 論をし、それで一致に到達することができず、しかも彼らが党大会の意志と決定に従うことができないで党を出ていくなら、それもしかたないと考え、彼らが党大会をボイコットし、その上社労党の“分裂大会”を開催するなどという汚いことをやってくるとは想像することもできなかった。 というのは、彼らこそが大会開催を要求し、大会によって党内の諸問題を解決せよと主張し、我々を「議論を恐れている」と激しく攻撃していたからである。 だからこそ、彼らが大会をボイコットし、社労党を名乗るもう一つの組織をでっちあげ、汚い策動にふけっていることが明らかになるに及んで、大会に参加した代議員の怒りは爆発し、その態度はすっかり硬化してしまった。 社労党の第九回大会はすでに批判派の阿部氏らも加わった中央委貴会において、正式に招請されているのであって、その正式の大会をボイコットするだけではな くて、さらにそれに並行して、彼らの“社労党大会”なるものを呼びかけるといったことは途方もないことであった。大会を招請できるのは中央委員会だけであ る。 ◎大会の議論を「恐れる」 我々はこの党大会において、この一年間対立してきたすべての問題を徹底的に検討し、その正否を明らかにし、党としての結論を出そうと大会に向けて討論を組織し、「大会文書」(大会に向けて支部や個々の党員に自分の意見の発表と全党配布を認めたもの)も承認し、その結果、実に批判派の構成メンバーのほとんどがその権利を行使して、自らの文書を全党に配布したので ある。それなのに、彼らは大会を恐れ、その議論を恐れたのである。これこそ彼らの臆病さと日和見主義でなくて何であろうか! 彼らが大会の開催を呼びかけ、徹底的な議論で問題を解決せよと呼びかけたのは、単なるマヌーヴァー、いくらかでも動揺している党員を自らの戦列に引き込むための策略の一つにすぎなかったということか。 党大会に代議員を送るべく、批判派が多数を占めた組織は全国にほとんどなかったが、だからといって、批判派が大会代議員を送れなかったというわけではない。というのは、これまでと同様な慣例的な選出方法に従って代議員を選出すべきである――セクト主義的な選出方法を取るな、すなわち都道府県会議で一票で も多かったからといって、反対派を一切締め出す等々はすべきではない――という中央委員会の指示に基づき、彼らは少数派であった東京でも神奈川でも埼玉で も代議員に、選出されていたからである。また大阪でも、党の活動と党費の支払いを意識的にポイコッ卜するという卑劣な行為に訴えなければ、彼らは代議員を 送ることができたであろう。静岡では、わざわざ彼らのために代議員の“指定席”を設けたのに、彼らは代議員に選ばれることを自ら拒否した。この意味を我々 は当初理解できなかったが、今にして思えば、彼らはすでに“分裂大会”の決意を固めていたのだ。 いずれにせよ、彼らは少 なくとも数名の大会代議員を擁することができ、大会で自分たちの主張を全面的に訴えることができたのだ、というのは、我々の大会が十分に民主的であり、す べての代議員が自由に発言する権利を持つ――時間が許す限りではあるが――ことは、党員なら誰でも知っていることだからである。 だが彼らは大会に参加し、徹底的に議論するよりも、自らの殻に引きこもることを好んだのであるが、これは彼らがどんなに日和見主義者であり、公然と議論をするだけの信念も思想もないことを暴露したのである。 ◎なぜ処分は行われたか 大会代議員は彼らが「社労党第九回大会」を呼びかけ、本当の大会に対抗して、分裂大会を“ぶっつけて”来たことにすっかり腹を立ててしまった。何の権限もないのに党大会を詐称し、それを呼びかけることは、党が許すことができないのは当然であった。 阿部氏、酒井氏はその陰謀主義的な本性と策動を最後まで発揮して過去一年の無政府主義的言動をこうしたやり方でしめくくったのである。これは阿部氏、酒井 氏に本当にふさわしいやり方であった。大会は阿部氏、酒井氏が社労党の名で策動することを認めるわけには行かず、第一日目の冒頭に批判派の“社労党大会” が全くの「非合法」であり、なんの正当性も権利もないことをはっきりと宣言する決議を賛成四八、反対○、保留五という圧倒的な多数で採択し、またそればか りか、この策動の中心的な人物である阿部氏、酒井氏をただちに除名すべきであるという代議員の意見が相次いで表明された。 彼らが大会に参加し、議論と採択で敗れ、自分たちの信念に忠実たろうとして党を離れるというのであれば、それをとめる人は誰一人いなかったであろう。我々はむしろそれを歓迎したであろう、というのは、我々はすでに批判派とのごたごたにうんざりしていたからである。しかし阿部氏、酒井氏があくまでこうした陰謀遊びにふけるというのであれば、社労党としても対抗策、防衛策に出ざるをえず、大会は阿部氏、酒井氏の処分を考えざるをえないところに追い込まれたのである。そして二人の処分は大会最終日に大会に提案され、賛成四七、反対○、保留三で圧倒的に可決されたのであった。 ◎彼らはなぜ一定の影響力を持ちえたのか この一年を通して、阿部、酒井氏は党に対する中傷的な攻撃にふけり、ありとあらゆる混乱と日和見主義を振りまいてきたが、こうした混乱した攻撃が党内でいくらかでも反響を見出すことができたのはなぜであろうか。我々はこの点をはっきり総括しておかなければならない。 阿部氏、酒井氏の反乱だけなら、それは単なる個人的な反乱として終わったであろう。そして本質的に両氏の反乱はそんなもの――個人的な動機による不満等々 ――であった。しかし、両氏が自分の個人的反乱を正当化しようとして、党に対する不満をやみくもにあおったとき、それに対して党内に一定の反響が生まれ、 批判派として結晶したのは、それなりの根拠があったのである。それは一言でいえば、これまでの我々の党活動の弱さとあいまいさから、党内に経済主義的、組 合主義的傾向が、さらには自由主義的傾向が残ってきたからである。 かつてドイツ社会民主党が堕落して行ったのは、党内で 組合主義者――経済主義、急進主義をふりかざす――が大きな比重と力を持つようになり、党の政策を左右し、支配力を握るようになったからであるが、反対に、ロシア社会民主党では経済主義者、組合主義者(メンシェヴィキら)は影響力を保持することはできなかった。我々もまた、ある意味で、この岐路に立った といえるのである。我々は経済主義、組合主義ときっばりと手を切ることによって、ドイツ社会民主党の道ではなくて、ロシア社会民主党すなわちポリシェヴィ キ党の道を断固として歩む決意を明らかにしたのだ。 社労党のいくつかの組織だけでなく、労働者党員も分裂し、党を支持す る者と、批判派を支持する者が対立した(同じ職場の労働者党員さえも)。郵政でも自治体でも民間でも、労働者党員の間に分裂の赤い線が鋭く走ったが、批判 派を支持した労働者が組合主義的な諸君であったのは偶然ではない。また市民主義的な傾向を残していた党員もみな批判派に走った。 批判派のまったく卑俗で ばかげた理論が一部の党員、経験の浅い党員の間で何ら問題とされず、安易に擁護されたのは当然であった。経済主義、組合主義の本質的特徴は無思想、無理論 にあるからである。彼らは民族概念の論争における酒井理論のブルジョア的内容も、また「労働者党の概念」における徹底的な自由主義、個人主義も、在日朝鮮 人問題における明白な民族主義的弁護論も、一切どうでもよかったのである! 彼らが引きつけられたのは「路線問題」における、批判派の経済主義的、改良主義的主張であって、「他のことはどうでもよかった」のである。彼らは阿部氏、酒井氏らが党内の不満を組織しようとしてマ ヌーヴァー的にわめく「経済闘争や改良闘争を重視せよ、社労党はそれを“軽視”している!」というかん高い声に不可避的に引き寄せられ、それを支持したの であった。これが阿部氏、酒井氏といった最も卑俗で、反マルクス主義的な諸君が、いくらかでも党内で支持をかき集め、策動することができた“秘密”であ る。 現在のような時代において、経済主義、組合主義、そして改良主義が優勢になり、影響力を拡大するのは避けられない、というのは、それは資本主義の日常的な生活の反映であり、この社会の圧倒的な支配的イデオロギーだからである。 また、阿部氏、酒井氏はそのひどいデマゴギー的言動と無政府主義的やり方で、党内の多くの党員の怒りを買ったのである。党内闘争が開始されて三ヵ月ほど経過したときに持たれた昨年の第八回大会は、酒井氏の無政府主義的行動(自己の文書を党に断わりなく配布したこと)に対する処分を検討し、中央委員会は「注意処分」というもっとも軽い処分を大会に提案したが、まだ党内闘争の探刻さと酒井氏の異常さを目覚していなかった多くの代議員は“慎重な”姿勢をとり、こ の軽微な処分さえわずかの差で否決されたのであった。 本来なら、この処分は酒井氏に対する、その無政府主義的言動に対する警告の意味を持つものであった、ところがこれが大会で承認されたなかったことは自分の言動が正当化されたことだと酒井氏は誤解し、さらに一層乱暴な行動 を繰り返し、党の破壊を策したのであった。我々が全力をあげて党を防衛しなかったら、間違いなく党は解体していたであろう。 以上が社労党第九回大会の簡単な報告である。 我々は今や、批判派ときっぱり手を切ることによって、弱体化したのではなくて、一層同質的になり、一層固く団結し、一層強固に闘いの意志に燃えている。我々はこの一年間党を防衛するための困難な闘いを余儀なくされてきた。しかし今や我々はこのわずらわしい鎖から解き放たれたのである。今こそ、我々は前進に向けて、飛躍に向けて「ゴー」のサインを出すべきときである! ●『週刊労働者新聞』第415号1992年11月29日 |