橋下は労働者階級の真の敵だ
国政進出狙い、公然と野望実現に走り始め
2015年8月30日
橋下がいよいよその野心をあからさまにし、新党を作って来年の参院選に打ってでると言い始めました。
つい先日、維新の会を離党するときには「党を割るつもりはない」といい、また5月、大阪都構想が住民投票で負けたときには、12月に大阪市長の任期が終わったら、「政界は引退する、政治家は永久に辞める」と言ったにもかかわらずです。余りに無節操、無原則です。
新しい政党は、「大阪維新の会」という名で、そんな名で全国に候補者を立て、大阪を強くし、もう一つの都にすることが日本のためになるという、ばかげた綱領をひっさげて全国で闘うと言うのですから、余りに愚劣で、ナンセンスです。
「大阪維新の会というブランドを国政政党化する」などとほざいていますが、そんな立場や主張で、全国で闘い得ると考えるのはまるで空想的であり、茶番であって、早晩そんな戦略や闘いの構想は破綻するか、さもなければ、修正し、変更するしかないでしょう。
この半ファッシヨの野心家は、今や大阪といった、“狭隘な”政治的舞台に満足することかできなくなり、大阪府民を踏み台にしつつ、公然と国政の場に登場し、安倍与党として権力の中枢に入り込み、そんなものをテコに権力に接近していこうというのです。
彼は安倍よりもはるかに危険な政治家です、というのは、抑圧された最下級の階層から出てきて、個人的に、自分のためだけに憤懣や恨みや鬱憤を晴らし、のし上がろうと野望に燃える橋下は、お坊ちゃん政治家の、まだまだ甘い安倍とは違って、いくらでも“えげつない”やり方や卑しい権謀術数や凶悪なデマゴギー政治や狂暴な暴力的政治に走るし、走ることができるからです。
労働者階級の真の敵が頭をもたげようとしています、そのことを確認し、断固として反撃に移り、労働者の立場に立って毅然として闘いぬいていくしかありません。
世界経済の動揺と危機の深まり
安倍の責任を追及し、政権を粉砕しよう!
2015年8月28日
世界経済が大荒れに荒れ始めました。
“中国発の”動揺とか危機が言われていますが、もちろん動揺と危機は世界的に成熟してきたものであって、中国のせいではありません、ただ中国はたまたま世界資本主義の不況や金融危機や株価の急落や過剰生産を代表し、集中的に表現しただけです。
中国に過剰生産が現れて世界に波及していくなら、それはただ過剰生産が世界的に蓄積され、爆発寸前にまでなっていたということでしかありません。だから中国に現れた過剰生産と危機はたちまちに世界中に伝播し、波及し、伝染して行くのです。
経済専門家たちは、アメリカは利上げを延期せよとか、日銀の追加金融緩和が今こそ実行されなくてはならないとか、中国は金融緩和だけでなく、財政出動をやれ、それがカギを握っているとか、あれこれやかましく言い立てていますが、金融緩和や財政膨張を繰り返してきた中での世界的な経済危機だというなら、金融緩和や財政膨張を持ちだしたとしても、それらにどんな期待を寄せ、信をおくことができるでしょうか。
安倍は不安を押し隠しながら、「日本経済のファンダメンタルはしっかりしている」、「原因は中国経済にある」とか言うのですが、安倍政権が「異次元の」金融緩和に走り、財政膨張を煽り、円安を策動して来たのですから、そんなものを「成長政策」と偽ってきたのですから、新しい世界的な規模での経済危機に、中国以上に責任を負っていることは明らかです。
安倍や黒田は、今まで自分たちが世界の先頭に立ってやってきた、場当たりで、内容空疎で、有害な政策の落とし前を突きつけられ、その責任を追及されざるを得ない立場に追い込まれるのです。
とするなら、安倍の抜け道は、延命の手段は、ただますます国家主義をわめき、帝国主義的政策に走り、深入りするしかなくなり、その危険な本性をますます露出してくるでしょう。
この政権を労働者、勤労者の実力闘争で粉砕する時が近づいています、またそのことなくしては、安倍政権は居座り、害毒を流し続け、日本を、日本の労働者、勤労者をまたまた途方もない方向に押しやり、導くだけでしょう。
揺るぎ始めた中国経済
国家資本主義の矛盾の露呈
2015年8月21日
習政権の誕生から2年半ほどが経過しましたが、中国の「経済」の矛盾が深化して、怪しげな様相を見せ始めています。
1年で株価(上海株式市場)が2・5倍にも騰貴したと思ったら、6月以降、崩落し、その勢いは止まりません。二けたの伸びを誇ったGDPは、15年度目標7%と言われましたが、実際にはとてもそんな高さには達しないと見られています。
市場での独占を一層強めた国有企業の過剰生産が目だち始め、自動車産業の過剰設備は50%と言われています。鉄鋼やセメント、アルミなどの素材産業も2,3割の過剰生産を抱えていると見られています。
経済の停滞が意識される中で、政府は金融緩和を実施し、また通貨安の政策に乗り出しました。李首相が唱えた「構造改革」や過剰債務の一掃はむしろ拡大に帰着し、経済の行き詰まりがはっきりしてしまいました。
政権は「景気循環による一時的なもの」と説明していますが、仮りにそうした契機があるとしても、しかし単にそれに留まらない“構造的な”要因――国営企業の比重はむしろ高まり、しかもそれが国のてこ入れにもかかわらず(あるいはむしろ、国家依存を強めるが故に)、寄生化し、頽廃しつつある――があるように見えます。
国営企業の「改革」とか「民営化」とかさんざんに言われてきましたが、今ではむしろそれに逆行するような政策――国有大企業を温存し、むしろ小規模の国有企業を民営化するといった――さえ実行され、その分、「改革・開放」つまり市場経済を徹底させるという方向が軽視されて来ているといえます。
こうした傾向と、中国経済に現れつつある停滞や衰退の気配や、過剰生産、バブル、あるいはその崩壊の兆し等々の現象が如何に結びつき、関係しているのか等々、我々は中国経済に注目し、その現実の姿を追求し、明らかにしていく必要性が大きくなっているようです。
国家資本主義(いわゆる「スターリン主義体制」)にとって普遍的なジレンマというか、固有の矛盾、つまりその発展のために市場経済を徹底させるのか、あるいは反対に、国家の介入やリード等々を重視し、それに依存していくのかという問題は、現在の中国にとっても基本的で、根本的な問題であるようです。
偽りの安倍70年談話粉砕!
全ての人に媚を売って全ての人に反発される代物(安倍の愚昧と反動性の記念碑だ)
2015年8月15日
安倍の戦後70年の「政府談話」が14日、発表されました。
河野談話や村山談話を否定し、その「上塗り」を狙った談話、自分の“信念”を明瞭に打ち出した「談話」を出すという決意も意地もなくして、ご都合主義的に、「右」(安倍を支持し、後援する国家主義勢力や反動やブルジョアたち)も「左」(労働者、勤労者の反資本主義派、あるいはリベラルやプチブルの平和主義、民主主義派)も満足させ、両方に媚を売るような談話にした結果、何を言いたいのか、訴えたいのかもはっきりしない、言葉や論旨のごまかしや矛盾ばかりが目立つ、本当にくだらない、愚劣な談話になるしかありませんでした。
日本の15年戦争を総括して、世界がブロック化したから、そして「進むべき進路を誤ったから」戦争への道を歩み、そして「敗戦した」と、まるで他人事のように言うだけです。では「誤った進路」ではない、「正しい進路」とは何だったというのか、日本もブロック体制を築くべきだったというなら、日本の天皇制軍部と大資本の勢力は朝鮮などの植民地化や満州国のでっち上げから、中国やアジアへの帝国主義的進出等々、自らも懸命に日本の勢力圏の獲得と拡大にこれ務めたのですから、それは「誤った進路」どころか、まさに世界の風潮に沿った、「正しい進路だった」と言わなければつじつまが合いません(事実、安倍一派は、かつての東条英機らと同様に、そのように言いはやしてきたのです)。
「敗戦した」などと表現するということは、まるで負けたことが悪いのであって、勝てば正しい戦争であり、正義の行為だったとでも言いたいのでしょうか。
侵略や戦争や、「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」と強調しますが、安保法案の成立を企みながら、よくも厚顔無恥にこんなことが言えるものです。尖閣諸島を巡って、日中の戦乱が起こった場合、安倍が「中国の侵略」を言いはやして、いとも簡単にこうした美辞麗句を投げ捨て、忘れて、国民を“祖国防衛”の戦争に駆り立てることほど確かなことはないのです。
我々の子孫に、いつまでも「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」などと言いますが、安倍や安倍一派や国家主義のごくつぶしたちが、15年戦争を正当化し、“祖国防衛”の正義の戦争、正しい戦争と言い張り、朝鮮や中国やアジアの諸国民への侵略や専制支配や数々の残虐非道な行為がなかったかに言いはやすからこそ――もちろん、その筆頭は従軍慰安婦問題、つまり韓国の女性の性的奴隷化の悪行ですが、それすらも氷山の一角にすぎないのです――、日本が今なお「謝罪」をしなくてはならないと言うことが、つまり我々の子孫が「謝罪」しなくてはならないのは安倍や安倍政権にこそ原因と責任があるということが反省されていないのですから、安倍の言うことは完全に逆立ちした、許し難い理屈でしかないのです。
安倍は盛んに「自由、民主主義、人権(個人主義的人権意識?)」などといった「基本的な価値」についておしゃべりしていますが、本心としては、天皇制国家主義をこそ持ち上げてきたのは自明であって、むしろこうした「基本的な」価値は“日本的な”ものではないとして否定し、そうした欧米的な「価値観」を実現した“戦後体制”は一掃され、清掃されなくてはならないと呼号してきたのですから、今さらそんなものを強調してみても自らの無節操とご都合主義を暴露するだけです。
「積極的平和主義」などといっても、現実的には、膨張する中国に対して、アメリカ等々と共に、自らの大資本の“国際的な”体制や「秩序」や「安定」を守ろうという限りでの「平和」のことであって(ありふれた“域内平和”といった、偏狭で独善的な帝国主義イデオロギーのたぐい)、むしろ中国(やロシア)等々との、ブルジョア帝国主義を否定しない――それを前提にしての――観念ですから、これらの国家との絶えざる暗々裏の、そして公然たる戦争を意味しているのです。
安倍の「積極的平和主義」は労働者、勤労者の本当の国際主義や平和主義――世界の労働者、勤労者の団結と闘いで、世界の、とりわけ自国のブルジョアたちの国家主義や帝国主義を一掃し、粉砕することで人類の恒久の平和を勝ち取っていくという立場――と無縁です。安倍の「積極的平和主義」とは、日本のブルジョアや反動等の、帝国主義的世界体制を維持し、深めるという意味での「平和」であって、その観念は世界戦争さえも“含んでいる”観念――というより、それとは不可分の観念――であることを我々は確認せざるを得ないのです。
いま中国の帝国主義、そして安倍政権のもとで日本の帝国主義が台頭し、勢いを増している時代にあって、本当の「平和主義」について語るなら、例えば、尖閣諸島のあり得る紛争や戦争の場合にさえ、その対立や戦闘行為に直面してさえも、安倍一派の――そして共産党等々の――「祖国防衛主義」や積極的平和主義等々に反して、どちらの側から見ても、ブルジョアたちの領土紛争であり、日中両ブルジョア大国の帝国主義、軍国主義の発動であって反動的であると告発して闘い抜けるかどうかということです。
そうした国際主義的信念も断固たる立場も決意もなくして、安倍一派も反安倍のプチブル派(共産党等々)も軽々しく「積極的平和主義」だとか、「戦争法案」だとか言って浮かれるべきではないのです。
言葉としては「侵略」とか、「植民地主義」とか、中国を初めとするアジアの諸国民に被害や災厄をもたらしたと言いながら、日本の天皇制軍国主義の責任や犯罪として明確に語り、告発し、反省する、誠実で真摯な姿勢は皆無で、むしろそうした犯罪をごまかし、あいまいにし、他人事のように語るしかしないのですから、世界中から日本が軽蔑され、呆れられるしかありません。つまり安倍政権は日本の恥以外の何ものでもないのです。
安倍談話について批判し、暴露すべきはまだまだ山ほどありますが、今こうした狭い欄で論じ尽くすことは出来ません。
ただ一つはっきりしていることは、安倍政権はこれで国内の批判も中国や朝鮮の反対派も納得させ、満足させ得るかに考えているようですが、まるで反対です。
むしろ安倍談話は、安倍一派とその政権の愚昧さ、不誠実、二枚舌、ご都合主義、権力欲、下劣な本性をゾッとするような形で暴露したものとして、時間がたてばたつほど、厳しい批判と弾劾と集中攻撃を受ける――受けざるを得ない――たぐいの「談話」であって、自民党の長老議員が「出さないのが最良の選択だった」と言わざるを得ないようなひどい代物、安倍一派と安倍政権の反動的で、下劣な本性を、国家主義者という人種の空っぽ、くだらなさ、卑しさをさらけ出した「談話」として、安倍政権の没落と自壊の始まりを告げ知らせた里程標として、歴史に残るようなものにすぎません。
安倍政権はもがけばもがくほど、その解体と没落に進まざるを得ない段階に達しつつあります。
この政権が議員の絶対多数に安住して、なおも政権の座に連綿してこだわり、汲々として延命していくことが仮に可能としても、それは自民党政権がかつての民主党政権と同様に、否、それ以上、決定的な敗北を迎えざるを得なくなるだけのことです。
とするなら、民主党政権がまたまた復活すると言うのでしょうか。しかし、3年間辛うじて続いたあげく、労働者、勤労者を裏切るしかなかった民主党が復活することは絶対にあり得ないでしょう、つまりそんな政権の再現はないし、あり得ないのです、許してはならないのです。
労働者、勤労者の政治的勢力が結集され、登場する以外ないような客観的な情勢が現れつつあります。必要なことは、ろくでもない諸政党、偽りの労働者、勤労者の政党(事実上のプチブル政党等々)の共産党でもなくて、また政党に団結することを毛嫌いする、個人主義者でしかない市民主義者のえせ政党ではなくて、真実の労働者、勤労者の政党、労働者の階級的立場を守って最後まで闘い抜く本当の労働者、勤労者の政党に団結して闘い抜くことです。
原発再稼働だという
しかし事故の本当の責任を明らかにし、電力資本の経営者や政府や政治家、官僚や学者等々の責任を明らかにし、彼らに責任を取らすことなしに、原発再稼働はないし、あってはならない
2015年8月12日
約2年間、原発が動いていなかった日本に、その原子炉に「火」が再びともりました。
福島事故の総轄も、本当の反省も、あの事故の責任も問われないままの、抽象的で、観念的な原発悪玉論と本心を隠した後ろめたい推進論の“不毛な”対立の中での原発再稼働です。
安倍政権や電力会社は低コストを言いはやしていますが、それは単純に現在休止中の原発を動かせば、電力会社の経営が好転すると言ったことで、事故処理のコストや廃炉のコストを電力会社が負担し、国の巨額な補助金や支援などを考慮に入れないでの話しに過ぎません。
それらを一切外して、電力会社が原発を動かして、しかも電気料金を大幅に引き下げ得るというなら原発再稼働もいくらか検討する余地もあり得ますが、国の支援がなければ直ちに破産するような電力会社の言うことなど誰も信用できるはずもないのです。
そんな議論は、費用はいくらふくれあがっても、電力料金がいくら高騰してもとにかく脱原発だという観念的なプチブルの議論と同様な空虚なものに過ぎません。
事故の原因の総轄さえなされず、従って本当に告発され、罰せられる連中もまた責任から逃げているという図式は、かつての15年戦争の時と同じで、その本当の原因や責任者も明らかにされず、ただ「戦争は悪いものだ、これからなくしましょう、みんなで反省し、過ちは二度と繰り返さないようにしましょう」といったきれい事の空文句に隠されて、実際に、同じような「過ち」をもたらしかねない諸条件がそのまま残り、今また「誤り」が繰り返されようとしている現在の状況によくマッチしています。
かつて15年戦争の本当の原因が明らかにされず、ブルジョアや天皇や軍部や政治家たちが生き延び、またまた悪事を繰り返そうとしているのと同様に、原発問題でも、電力会社の経営者や政治家達や役人達がみな大災害や事故の後も無罪放免されて――つまり「誤り」が犯された原因をそのままに――、再び「過ち」が繰り返されようとしているのです。
もちろん原発でなければいいのだと言うことはありません。原発の代わりに化石燃料を大量に燃やせば、地球温暖化は進み、下手をすれば人類の破滅に直結しかねないし、また自然エネルギーならいいというのも幻想です。というのは、高価な費用で生産される自然エネルギーが少しも“自然エネルギー”ではないし、あり得ないからです。だから原発を止めて他のエネルギー源にすれば日本や日本経済が順風満帆になるなどと言うのは、たわいもない幻想に過ぎません。
それは原発事故の原因が――1万何千人もの津波による死者の原因の多くも――決して「自然災害」ではなく、むしろ「人災」であると結論されていることからも明らかです。原発被害者も津波の死者の多くも、ブルジョアや電力会社の経営者や、彼らと結託し、共同の利益や利権や権力をむさぼった政治家や国家役人に全ての責任があるのです。
とするなら、彼らの多くが罰せられて後に原発の再稼働があるなら、それは考えられるかもしれません。というのは、そのことによって初めて原発事故の本当の原因が明らかにされ、それを克服していくことが可能になるからです。
事故の責任さえ明らかにされないで、むしろ事故に責任があるような連中が音頭を取って推進されようとしてといる再稼働といったものほどに“危険な”ものはないと言うしかありません。
我々はまず政府や自民党や経営者達、国や地方の役人達がこれまでの原発事故による核被害や津波による災害被害を「人災」として、つまり自らの責任として総轄し、徹底的に反省できないなら、今後の原発政策の可能性や方向性は決してあり得ないし、見えてこないのです。
夢想の物価上昇「期待感」
「デフレ脱却」に何ら資せず
2015年8月10日
黒田日銀が景気回復の切り札として持ち出し、また実現にこれ務めてきた、物価上昇2%の呪文は一体何だったのでしょうか。
黒田自身が最初から「景気回復は“デフレ意識”の一掃がカギを握っている、そしてそのためには物価上昇が必ずやって来るという『期待感』を“市場”なるものに抱かせることが肝要である」と叫んで開始された、日銀による金融の量的緩和という政策であったのですから、もともと経済政策というより、それを事実上、心理作戦にすり替えるような、得体の知れないものだったのです。だから結局得体の知れないものとして終わったとしても何の不思議もありません。
しかしそれにしてもひどすぎます。
「異次元の」金融緩和政策が始まって2年たっても、「期待された」消費者物価指数は2%上昇に遠く及ばない0%ほどだそうです。
しかし日銀は、0%なのは、昨年夏以来の原油価格の下落によるものだから、実際には1%は上がっている――あるいは原油価格下落の影響がなくなれば上がるはずだ――から、16年春頃までに1年延期した、2%達成までにはあと1%努力すればいいのだ、展望は明るい(もし2%が困難となれば、ためらわず一層の金融緩和策を強行する)と頼もしい(?)発言を繰り返しています。
現在のスッキリしない景気停滞が低い物価上昇率のためかどうかは知りませんが、とにかく安倍政権と日銀の頼みの綱の金融緩和政策は輝きを失い、黒田の口ぶりも歯切れが悪く、かつての勢いを失いました。
日銀は春闘の賃上げや4月以来の企業の価格引き上げの影響も出てくるだろうし、来春の賃上げが「とどめの一撃」となって2%の目標達成は大丈夫だと、相変わらず現在の経済情勢の“冷静な”評価よりも、自ら「期待感」や願望や思い込みの“予測”に憂き身をやつしていますが、しかし仮に1年遅れで消費者物価指数2%の上昇が達成されたからといって、どうだというのでしょうか。
今では、デフレ脱却のためには2年間で2%の物価指数上昇がカギを握っている、といったリフレ派学者や黒田のドグマを信じているような「市場」――金融市場、“資本”市場のこと――なるものはどこにも存在しません。むしろ「市場」は、そんな空虚なおしゃべりに飽き飽きしているだけで、ただ“追加の”、しかもどの程度の金融緩和があり得るのかといったことに関心を抱いているにすぎないのです。
そして安倍政権自身が、すでに「経済政策」や「デフレ脱却」に関心を失い、柄の悪いやくざ学者の理論の利用などどうでもよく、もっぱら政権の命運を安保法案に、つまり国家主義、帝国主義を扇動し、そんなものに労働者、勤労者を動員することに熱中しています。リフレ派経済学の役割は、つまりそれを便宜的に悪用する時期は終わったのです。
黒田日銀の「異次元の」金融緩和政策はまさに茶番であって、今やその弊害だけが目立ってきました。安倍政権の発行する国債を片端から買いあさって、安倍政権の借金拡大・財政膨張政策に「ファイナンス」する役割を、事実上の国債の日銀引き受けの役割を担い、財政崩壊と金融麻痺に、物価上昇――そんなものを労働者、勤労者は忌み嫌うことはあり得ても、少しも望まないし、また景気回復に資する良薬とも全く信じないで、ものの値段が下がり、いくらかでも生活が楽になることをこそ「期待」するのですが――に拍車をかけてきたのです。
安倍政権と黒田日銀は、自らまいたタネを今や刈り取り、無責任で、でたらめ極まりなかった経済政策の付けを払わなくてはならないのです、だからこそ安倍政権は今や懸命に安保法案にしゃにむに突進し、そこに政権への求心力回復や延命を賭けるのであり、賭けるしかないのです。ますます高まる労働者、勤労者の怒りや不満や反発をそらすために、ますます愛国主義や民族排外主義を必要とするのです。
安倍に「平和」を語る資格があるのか
反動派だけでなくリベラル派の歴史観も告発せよ
2015年7月31日
敗戦70周年目の夏がやってきました。広島では原爆投下の日、“平和祈念式典”が開かれ、安倍までも厚かましく出席しました(長崎はこれから開かれます)。
そして安倍は内閣の名で新しい「談話」を出す決心を固めたようですが、その内容はどうあれ(その詳細はまだ明らかではありません)、河野談話や村山談話のいわば“上塗り”をし、その意義を弱め、相対化すると共に、安倍談話こそが日本国の“公式”の過去の歴史に関する正しい総括であり、観点であるとして押し出そうとするものであることは明らかです。
しかし安倍の歴史観といったものが、どんなに「平和」だとか「民主主義」だとかについておしゃべりしようと、自らの本当の歴史観をあいまいにし、隠そうとしても、その根底に国家主義、帝国主義を秘めている以上、矛盾し、ごまかしをこととするものになるしかありません。
国内では、礒崎補佐官の安保法案は「法的安定性は関係ない」と言った発言や、武藤貴也議員の「彼ら彼女ら(安保法案に反対する学生たち)の主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自己中心、極端な利己的考えに基づく」といった発言が相次ぎ、国際的には、ロシアのナルイシキン下院議長(プーチンの“側近”といわれる)が、「広島、長崎への原爆投下はまだ国際法廷で裁かれていない。しかし人道に対する罪に時効はない」、「軍国主義日本に対する勝利は、ソ連軍が(旧満州で)関東軍を粉砕することによってもたらされた」などと発言し、「アメリカの原爆投下によって戦争が終わったのではない」などと、アメリカ流の歴史観を非難しはじめました。
安倍や武藤やナルイシキン等の発言は、強盗や人殺しが強盗や人殺しを非難し、告発するようなもので厚顔無恥そのものですが、我々は反動や国家主義の連中のこうした発言を執拗に暴露し、彼らの本当の姿を明らかにして行かなくてはなりません。
そしてそのためには、単に反動や国家主義者等の矛盾し、破綻を暴露する歴史観だけでなく、スターリン主義者やリベラルの混沌とした、限界ある歴史観――例えば、第二次世界大戦は、民主主義や社会主義の国家群と、ファシズムや軍国主義の国家群との戦争であったとか、あるいは「公共性」や「国家共同体」の利益を謳った、ファシズム国家やスターリン主義国家、天皇制軍国主義の国家があたかも「自分中心、極端な利己主義」の国家(民族主義、愛国主義、帝国主義の国家、つまり利己主義そのものの、卑しい国家)でなかったかのたわごと――を断固として暴露し、告発していく必要があります。
オリンピック開催は返上すればよい
安倍政権、延命のための無駄遣いはゴメンだ
2015年7月31日
新国立競技場が3000億円の巨額にもなって見直しというミソをつけ、何の面白味も斬新さもないエンブレムは、似たようなものがいくつもあって模倣を疑われ、オリンピックなどカネを派手に使うだけで、開催に浮かれた後に訪れる後遺症が心配されるばかりです。
安倍政権はかつて“国策”選手が派手に活躍した、旧ソ連や東ドイツやチェコなどのやり方を今ごろ採用したのか、20年の東京オリンピックのために、国家主導で金メダル選手を育成すると大わらわです。
金メダルを世界3位にすると大見得を切るのですが、3位と言えば、30個くらいが必要です。過去の最高が64年の東京と04年のアテネの16個ですからその2倍、前回のロンドンの7個の4倍ほどが必要だということになります。
今から若手の有望選手を育成しなくてはならないと金をかけてエリートアカデミーを創設し、今では金メダルを取れそうな5種目に数十人の中高生が「入校」しています。
安倍がオリンピックではしゃぎ、大騒ぎするのは、せいぜい国家主義、愛国主義をあおり、急速に失われていく安倍政権への求心力をつなぎとめ、さらには安倍政権を延命させ、安倍の手でオリンピックを実行しようという密かな野望もあってのことでしょうが、権力の維持と延命しか頭になく、余りに愚劣で、卑しいというしかありません。
今後財政危機が深化し、顕在化してくるしかないときだというのに、能天気にはしゃぎ、オリンピックにカネを使っているようなときでしょうか。
64年の東京オリンピックの後、オリンピック景気の反動で不況に見舞われ、それをきっかけに国債発行・借金財政が、つまり国家の経済的腐敗が始まり、深化してきたのです。ギリシャも04年のアテネオリンピックの後、経済の停滞や財政危機を深めていき、現在のような破産国家に転落していったのです。20年東京オリンピックが頽廃し、没落していく日本のブルジョア支配を象徴するものとならない保障は何もありません。
もともと安倍が原発事故の被害や危険性はもう完全に克服したなどと、世界を欺いて招致したようなものなのですから、最初から汚されたオリンピック招致だったのです。安倍はこの際、安倍政権のために――そしてオリンピック特需を期待する“政商的な”ブルジョアや一部政治家たちのために――だけしか存在しないようなオリンピック開催はすっきり返上すればよいのです。
無意味な空文句の政治闘争など何になる
搾取社会の「防衛」ではなく廃絶こそが必要
2015年7月25日
相変らず無意味な空文句が政治闘争の中で流行っています。安保法案は国会の中で十分に議論されないままに衆議院で採択された、といったのもその一つです。
安倍もまた、安保法案が国民に十分に理解されたとは思わないと、自ら語りました。自ら議論や説明が理解されていないと言いながら、「強行採決」に走るのは許し難いと、世論はいきり立っています。しかし安倍が安保法案が理解されなくても採択するのは、国民が納得しようがしまいが、国家防衛という観点からすればそれが絶対的に正しいことをやっているという信念が、あるいは自信があるからであって、それは1960年に祖父の岸が日米安保条約を改定して日米同盟を一層固めた結果が、それ以降60年間、日本の「平和」や「安全」を保障してきたことと同じだと考えるからです。
安倍は憲法9条を文字通り実行すれば、日本の防衛を確かなものにするのは不可能なのは余りに明瞭であって、野党や共産党などは単なる非現実の観念論に溺れているだけだ、すぐに破綻するだけだとばかにし、軽蔑しているのです。
リベラルや共産党やマスコミは、「十分に議論が尽くされていない」といいますが、今国会の110時間の審議で一体どんな内容のある議論があったというのでしょうか、そしてこれからの参議院の審議で、衆議院の議論と何か根本的に違った、内容のある議論が行われ、「議論が尽くされる」とでもいうのでしょうか。そんなことが全く期待できないこと、あり得ないことは自明です。
というのは、リベラルも市民派も共産党もみな、ブルジョアや安倍政権と同様に「祖国防衛」の立場や個別的自衛権を認めながら、ただ集団的自衛権にだけ反対と叫び、また「戦争」の具体的な内容も問わず、ただ抽象的に、言葉だけで「戦争反対」とか、「アメリカの戦争に巻き込まれるな」とか叫んでいるにすぎないからです。
彼らは仮に戦争があり得るとしても、それがどんな歴史的、実際的な性格と内容を持つ、いかなる階級の、いかなる利害から生まれ、発展してくる戦争であるかを知っていないか、知ろうとしていないからです。そんな「反戦」の闘いは基本的に空騒ぎであり、空騒ぎとして終わるしかなく、またそんな立場からする国会の議論が労働者、勤労者にとって何の意味もないもの、いくら時間を取って議論しても、空っぽのおしゃべりや繰り返しに終わるしかないのは明らかです。
必要なことはブルジョアの偽善的な議論やプチブルの独善的、観念的、利己的な議論ではなく、現実の搾取社会やその矛盾から必然的に生まれ、発展してくる戦争、帝国主義戦争等々との闘いであって、だからこそ労働者、勤労者はそうした戦争(と戦争準備)に反対して断固として、最後まで闘うのであり、闘わざるを得ないのです、さもないと労働者、勤労者自身がかつての15年戦争のときのように、再び三度、滅ぼされかねないのです。
安保法制、衆院での強行採決糾弾!
真実の階級的立場、国際主義の立場の闘いを
2015年7月17日
安保法案が衆院を通過しました。
10もの法案(修正案等々)も「束ねて」一括して審議することにも現れていますように、おおざっぱで、概念も複雑、曖昧な法案を成立させて、それで「日本の安保保障」なるものが確保された等々は笑止千万で、仮にこんな法律が整理されたところで、ブルジョアたちの「祖国防衛」が確保され得るとか、完全なものに近づいたといったことは決してありません。
リベラルや共産党らは、プチブルやインテリらに迎合して、内容のない「戦争反対」を絶叫し、アジるだけで、空疎な“闘い”に終始しています。社会主義から絶対平和主義――兵役絶対拒否主義――への堕落以外の何ものでもありません。
しかも彼らは皆、個別的自衛権つまり「国には――従って、日本の国家にも――固有の自衛権がある」といった立場に立っているのですから、そのナンセンスはさらに徹底しています。
個別的自衛権があるなら、当然集団的自衛権も容認されるのは明らかです。「祖国防衛」は擁護して、集団的自衛権は否定し、日本の国さえ、自分たちさえ「安全」で「平和」なら他のこと――外国のこと、世界のこと――はどうでもいいといった観点はまさにプチブル的利己主義の偏狭さそのものです。
尖閣諸島で日中の武力衝突でも起これば、たちまち排外主義、ショーヴィニズムの熱狂にとりつかれていくことは必至です。
真実の階級的な立場、国際主義の立場に立って断固として闘い抜くことはますます重要な我々の課題になっています。
賭博師チプラスの破産
完全な破綻か革命的変革かに直面するギリシャ
2015年7月14日
ギリシャは今やどこへ行こうとしているのでしょうか。
崖っぷちに立たされていることは確かですが、その行く末は混沌としていて、明らかではありません。1月の総選挙では、「緊縮」路線に反対する勢力――“左派”といわれる「急進左派進歩連合」――が勝利し、チプラスが首相になりましたが、チプラス自身、EUの迫る「緊縮」に反対し、反発して「国民投票」の賭けに出て、せっかく勝利したというのに、自分の路線に自信も信念もないのかたちまち変身し、自ら否定した「緊縮路線」そのものの先頭に立つといった醜態を演じています。
チプラスは事実上破綻したのです。彼が選挙や国民投票でたまたま勝利したのは、デマゴギー政治によってであって、ギリシャの危機をいかに克服するかで、真剣で、まじめなプログラムなど何一つ持っていなかったことが暴露されましたが、それは日本で安倍政権がそうであるのと同様です。チプラスは今では、EUからも国内の支持勢力さえからも不信感を持たれ、ますます追い詰められているようにしか見えません。
「緊縮」路線の継続なのか、それを廃棄して5年前までと同様に、財政放漫路線、「膨張路線」に逆戻りし、そこに救済と展望を見出すというのでしょうか――そんなことが可能とは思われません――、それともどちらの道でもない、本当の根本的な変革の展望――労働者の究極的解放と結びついた道、そして生産的労働を根底に社会と経済を再組織、再編成すること、そして各人の労働(時間)に基づく分配という公正な体制に移っていくこと――を見出していくことができるのでしょうか。
しかしデマゴギー政治しか知らないブルジョアの(あるいはプチブルの)賭博師チプラスに、そんなことができることは百%ないし、あり得ないでしょう。完全に行き詰まり、お先真っ暗の状況に追い込まれ、自ら政権を投げ出すしかないでしょう。
そしてギリシャの現状はまさに近い将来の日本の状況でしかありません、というのは、安倍政権はバブルの崩壊以降、20年もそれ以上も続いてきた、財政や金融によるバラまき放漫政治の延長線上に、日本経済の再生や「成長」や財政再建を見出そうといったデマゴギー政治に終始しているからです。そんなものは、ギリシャで破綻し、行き詰まっているやり方の二番煎じでしかないからです、チプラスがやろうとしてもやることができない政治であることが明らかにされたのです。
そもそも経済の原則からして、放漫財政やバラまき政策を続けることによって、本当の「経済成長」や繁栄や財政再建をもたらすことはできないこと、そんなアベノミクス流の幻想に基づく空っぽの政治が続いていくなら、日本もまたギリシャにもまさるとも劣らない、財政の破綻や経済の崩壊や衰退がやってくることほどに確かなことがあるでしょうか。まさにそうした真実をギリシャの経験は教えているのです。
もしギリシャがチプラス政権のもとで滅びていくしかないとするなら、それこそ日本が、安倍政権が学び、教訓としなければならない「他山の石」です。
安倍が何一つ真実を知ろうとしないのなら、日本もまた近い将来、ギリシャと同様な破綻と破滅の道に足を踏み入れていくことになるし、ならざるを得ないでしょう。
財政再建「方法」をめぐる“対立”
カネのばら撒きによるカラ景気では解決せず
2015年7月11日
安倍政権の中で、財政再建の「方法」について意見が割れています。
安倍政権の財政再建の方法もしくは展望について、財務省を始め強い反発や異議があり、それらは公然と表現されてさえいます。要するに、「経済成長さえあれば財政再建は容易に可能であり、達成される、要はいかにして成長を可能にするか、どんな成長政策を実行するか(アベノミクスの実行こそ緊要である)」といった“楽観論”に対し、財務省などは、10%への消費増税の確実な実行(さらには引き続き十数%、20%等々への引き上げ等々)や、歳出削減目標値の設定など、しっかりした計画を明らかにして取り組むべきと批判的な立場を主張するのです。
安倍は自分の考えが正当である理由として、今年の10月に予定されていた、10%の消費増税を1年半先送りしたが、それによって財政危機が顕在化するといったパニックが起こり、国債価格が低落する(国債利子率が上昇する)という事態は生じなかったではないか、と得々として語っています。むしろ消費増税などしたら、また需要減退等々で、デフレ脱却の試みが後退もしくは停滞し、「経済成長」の苦労も水の泡となり、財政再建も台無しになり、大変なことになるところだったと言いたいのです。もちろん財務省はさしあたり、苦虫をかみ砕いたような顔付きで、黙り込むしかありません。
しかし「経済成長」率を3%と想定し(現実には0%とか、せいぜい1%とかの経済成長率だというのに、です)、そんな手前味噌な成長率――しかも「名目の」――を前提にして、税収はいくらでも増える、20年度のPB(基礎的財政収支)の均衡のためには、計算上、まだ9・4兆円たりないなどと言うのは、「ためにする」ものであって、経済成長路線がちゃんと実行されれば、そんなものはないも同然であると浮かれるのです。
むしろ17年の消費増税をやり、さらに歳出削減まで強行すべきという財務省のような発想こそ、景気を悪化させて、20年のPB均衡達成を不可能にすると、安倍一派の政治家やインテリらの鼻息は荒いのです。
そして安倍一派は、安保法案の強行突破と共に、こんな「アベノミクス」の観念を振りかざして、9月の自民党総裁選も悠々と乗り切り、一層の“長期政権”を夢想するのです。
しかしアベノミクスによる経済成長政策といったものは、カネのバラまきによる空景気であり、インフレ景気やバブル景気だとするなら、そんなものによる税収の増加もまたあぶくのようなものでしかありません。
1980年代後半の株価や地価のバブルの時代には、確かに財政も劇的に改善されましたが、しかしそんなバブルの時代は、その後に続くデフレや停滞の長い時代にとって替わられ、財政危機も一気に悪化し、破綻の段階にまで来てしまったのです。もちろん、バブルの悪影響は、バブルの一時的で、表面的な、まさに“あぶくのような”利益などたちまち吹っ飛ばし、今にまで及んでいるのです。
安倍もまた、そんなバブルの再現を夢想し、つかのまの政権の寿命を引き延ばそうと策動するのですが、本当の「経済成長」とは何かを知らず、カネをバラまけば全てがバラ色といった、幼稚な幻想に溺れているだけですから、そんな安倍一派のやり方で、「経済成長」や「財政再建」が可能になることは決してないのです。
ギリシャ危機の示すもの
“復興”するナショナリズム、蔓延する財政破綻、等々
2015年7月3日
ギリシャ情勢が再び、三度緊迫しています。ギリシャ危機は現代資本主義について、実に多くの問題を提起しているように思われます。
すでに1世紀も前から提起されていた、一つのヨーロッパ、欧州共同体(連合)という“理想”とその現状をどう評価するのか、さらにはギリシャ危機の本質は何か、それは果たして小国ギリシャの特殊的な問題なのか、それとも現代資本主義の根底的な矛盾や頽廃と関係する、現代の資本主義とって、従って日本やそのほかの先進国、否、全ての国家に関係する、何か普遍的な矛盾や宿痾や困難の特徴的な現れなのか、そしてそれらの問題は資本主義の枠内で解決し得るのか、なされ得るのか等々は、我々の理論的、実践的な関心を呼んで止みません。
ギリシャが破綻し、EUから離脱するようなことになれば、EUの理念は地に落ちます。しかしEU自身、すでにその理念、つまり政治的統合を成し遂げ、“一つの”国家として現れ得る展望をますます後退させてさえいます。
EUを構成する多くの国家の中でも、反EUの“ナショナリズム”の動きや勢力が強まり、その統一性はむしろ弱まってさえいます。EUはかつての、“古い”ナショナリズムを克服することができなかったばかりか、そんなものの強固な“復興”さえ許しているのです。その傾向を象徴するものこそ、近く行われようとしている、イギリスのEU離脱を問う国民投票だといえます。
そしてEUの中核である、ドイツとフランスが政治的な統合に向けて前進する展望は、今の段階では皆無に等しいでしょう。統合ヨーロッパでさえ、さらに進んでいくためには労働者の革命、社会主義革命による以外はあり得ないかに見えますが、他方、欧州の革命はまた広汎な“世界革命”の一環としてのみ可能に思われます。
そしてギリシャの国家的解体は、借金によってのみ辛うじて生活し、生き延びるような国民と国家の運命を示唆し、日本等々に対してもまた強い警告を発しているともいえます。
日本のブルジョアや安倍政権は、ギリシャ問題は自分と関係ない、遠くの国の話だと思い込んでいますが、しかし日本の国家債務のGDP比が経済的に崩壊しつつあるギリシャよりはるかに高く、財政の空洞化がギリシャにまさるとも劣らないこと一つとっても、ギリシャの困難が決した他人事でも、「対岸の火事」でもないことは明らかです。
安倍政権はアメリカでもすでに金融緩和の「出口」を模索し始め、考えているのに――考えてはいても、それをやり遂げることができるかはまた別の問題です――、なお安閑として権力の維持のみにあくせくし、カネをばらまくだけの経済運営に安住しています。
安倍政権のもとで、日本がギリシャの後を追わない保証は何もありません。誇りを持って自立し、自ら生産し、労働することを忘れ、努力と闘いを回避するなら、借金や観光などに寄生していくだけなら、そんな国民(労働者、勤労者階級)は決して健全な国民、歴史の中で有益で、大きな役割を果す国民、果たせる国民とはなり得ないでしょう。
財政再建の空騒ぎ
近づくインフレ、財政破綻の足音
2015年6月28日
財政再建の議論がヒートアップしています。政府が20年までに基礎的財政収支(PB)を均衡させると公約してきたからです。PBについて一言でいうなら、収入から借金を差し引き、支出から借金の元利支払いを控除して、収支を均衡させるということです。
税金などの実質収入と「政策費用」などの支出だけで財政を運営することですが、しかし1000兆円を超える国の借金は棚上げされて残ることには変わりなく、つまり利子率が今のように実質ゼロならさしあたり問題がないが、それが高騰していくなら、財政がたちまち破綻し、ギリシャのような国家に転落するのは必至で、国民は財政崩壊というダモレスクの剣の下で生きていく状況が続くのです。
そんな偽りの財政再建の指標としてPBが持ち出されたのですが、しかしそれを20年までに達成するには、5年間で16・4兆円もの赤字を解消しなくてはなりません。
安倍政権はその内の7兆円は政府が進める「成長政策」で実現できるといとも簡単に請け合い、今後名目3%(実質2%)の「高度成長」があると主張しています(しかし日本は最近、それほど高い成長率を経験したことはありません)。
かくして残りは9・4兆円ということになりますが、甘利や経済財政諮問会議の「民間議員」たち安倍支持派は、5・6兆円は歳出の抑制、4・5兆円は経済成長によるさらなる税収で埋めていくことが可能だと主張し、8兆円は歳出の削減で達成すべきという財務省と対立しています。
また経団連も出しゃばって発言し、社会保障支出3兆円の削減とか、10%への消費増税を滞りなくやるとか――もちろん、消費税はさらに欧州諸国家のように、20%、30%と引き上げるべきだと――、大資本のエゴイズムをむき出しにしています。他方では、法人減税を安倍にせっつくのですから、帝国主義にますます傾斜していくブルジョアの頽廃と浅ましさには限度がありません。
しかし経済成長があれば大丈夫だ、大船に乗った気持ちで安倍に任せよと言おうと、歳出削減でやれと言おうと、共に確かな展望がないということでは同じです。経済成長による税収7兆円を期待し、さらにまた経済成長による消費増税が膨れあがるのを期待する安倍戦略がたちまち行き詰まるか、あるいは派手なインフレ経済や、1980年代末のバブル最高潮の時代が再現するような場合にのみ可能になる幻想にすぎません。
また安倍政権が5・6兆円といい、財務省が8兆円という、歳出削減が決定的な「改革」でもない限り不可能なのは――今後急増する「団塊の世代」のための「社会保障」の費用は別としても――、安倍政権のもとで財政が膨張し続けて、そのピッチが速まっていることや、安倍陣営のインテリらが、最近、金融政策は限界に来ている、今度は余裕があり、可能でもある財政政策の出番だなどと言い始めていることからも、見果てぬ夢でしかないことを教えています。
確かにバブル末期には財政は劇的に好転しました、というのは、バブル景気で株価や地価が高騰し、あぶくのような利得や所得が急膨張したからであったのですが、しかしそんなものは一夜の夢と化し、長い冬の夜に転化したのであり、財政の悪化が止めどなく進む出発点になっただけでした。安倍一派はそんな経験をまた追い求めているだけではないのでしょうか。 安倍一派はアベノミクスによってデフレが一掃され、「経済成長」が達成されれば、財政危機などがありもしない蜃気楼であったことが明らかになると鼻息は荒いです。
しかし彼らの言う「経済成長」が内実のない空っぽであり、カネのバラまきや、赤字財政の膨張によるインフレ景気やバブルだというなら、そんな麻薬やアヘンによる一時的な見せかけであるとするなら、日本はまた「失われた」泥沼の20年、30年の続きを経験するだけでしょう。
合憲か否かの論争は問題のすり替え
安倍が求めているのは帝国主義国家としての相互関係
2015年6月19日
国会では相変わらず安保法案や集団的自衛権(の行使)は合憲か違憲かといった空っぽの“神学論争”が続いています。
プチブル党(共産や社民)やリベラルや“左派”マスコミや“憲法学者”らは声をそろえて、集団的自衛権の行使は許されない、憲法違反だと言いはやしますが、しかし一般的に国家の――とりわけ弱小国家の――「集団的自衛権」が、つまり相互に同盟し、連携して強大国や帝国主義国家に対応し、対抗して自国の「防衛」のために闘うことが、つまりこうした意味での「集団的自衛権」が許されないと言っていいのか、言うことにどんな意味があるのかということになるなら、彼らはひと言も反論できないのです。
というのは、彼らはみなブルジョアやプチブルであって、現存の階級国家の(帝国主義国家さえもの)「固有の自衛権」や「個別自衛権」といったブルジョア概念を擁護し、固守しているからです。
国家の「個別的自衛権」を認めて「集団的自衛権」を認めないなら、自分たちだけでは、つまり個別的自衛権だけでは、強大な帝国主義国家に対抗できない弱小国家は、強大なブルジョア国家、帝国主義国家の奴隷になるしかありませんが、彼らはそれも仕方ない、運命として受け入れよ、忍従せよとでもいうのでしょうか。
集団的自衛権なるものを国連まで謳い、もったいぶって「承認」していますが、それはいくつかの国が――弱小の国ということになるのですが――同盟し、協同して強大国に対抗し、「自衛」する“権利”があるといったごく平凡な観念にすぎませんが、そんなことは本質的に、“権利”といったことではありません。国を守ることは「国の固有の自然権」といった、17,8世紀頃のブルジョア観念であり、その延長であって、大騒ぎするようなことは何もありません。本質的に、古くからある――古代からさえある――諸国間の同盟や連携といった、ありきたりのことにすぎないのです。
敗戦後、日本は日米安保同盟で国を「守る」ということにしましたが、それもまたすでに集団的自衛権の一つの形態――変形、一バージョン?――であって、この点で、今さら集団的自衛権に賛成だとか反対だとか、日本にその「権利」があるとかないとか大騒ぎする連中は、ただそれだけでも決定的に愚昧さを暴露し、実践的に破綻しているのです。
そしていま安倍が安保法案や集団的自衛権の「行使」容認ということで追求するのは、日米安保同盟という、一方的で“パターナルな”(アメリカからしての)関係を、相互的な同盟に変えることですが、その場合、弱小国家同士の集団的自衛権つまり同盟の関係でなく、強大国の同盟として、中国などの新興の帝国主義に対抗しつつ、世界に覇を唱えようと言うことなのです。
弱小国相互の同盟としての集団的自衛権というなら、いくらか意義があるかもしれませんが――あっても、せいぜい道徳的な意味くらいでしょうが――、日米のブルジョア大国の集団的自衛権云々は帝国主義的同盟として、「権利」といったものでは全く無いし、あるはずもありません。こんなところで「権利がある」、「いや無い」などと議論している与野党の連中は愚劣で、ピント外れの“神学論争”に耽っているだけです。
問題は、今安倍の持ち出している集団的自衛権が、つまり他国との同盟が、ブルジョア大国同士、帝国主義国家同士の同盟であることにあるのであって、安倍は集団的自衛権云々の空文句によってプチブル党やリベラルを幻惑しつつ、そんな“神学論争”の陰に隠れて、この目的を追求しているのです。
国会で、ちまたで論じられていること、すべての政党がもったいぶって論争していることは、彼らが協力して“ことの本質”を、決定的に重要な課題をぼかし、覆い隠しつつ空騒ぎを演じ、労働者を煙に巻き、
“神学論争”の氾濫の中に溺れさせようという策動にすぎません。
今こそ真実の言葉こそが労働者、勤労者の中に広く持ち込まれて行かなくてはならないゆえんです。
社会的労働への参加こそが基準
選挙権18歳以上に引き下げ、を考える
2015年6月17日
18歳から選挙権が与えられる法律が今日にも参議院本会議で採択され、全会一致で可決、成立しようとしています。
70年代頃までなら、自民など反動政党の反対で議論にもならなかった課題です。自民も若者の「保守化」に十分自信を持てるようになったというわけです。
船田は「民主主義の発展の大きな一歩だ」と浮かれていましたが、ここに、どんな「民主主義の発展」があるというのでしょうか、15才からにしたら、民主主義のすごい発展だとでもいうのでしょうか。
問題は人間が社会の構成員となるのはどんな契機によってか、ということです。乳幼児に、小中学生にさえ、選挙権を与えよという人はいないでしょう。
人間を社会の一員として評価する基本的な基準なり、契機は、彼らが社会的な労働によって、自らと社会の生活と生命を維持することです。
資本の社会に当てはめれば、中卒でも高卒でも、この条件に当てはまる者は合格であり、18才を越えていても大学生ら寄生的階級や階層は不適合となります。
投票者が18才からになって、高齢者偏重の民主主義が幾らかでも緩和されるとか言われていますが、自ら労働しない高齢者は当然に選挙権はなくなり、この点では実質的な民主主義は前進するのです。
愚昧なブルジョアやその世論は、高校生にも「政治教育」をほどこす必要があるとか、高校生にも政治活動の自由を保障するのかどうかとか、どうでもいいことで騒ぎ立てています。ブルジョアや国家が、一体どんな「政治教育」を高校生に与えるのか、与えられるというのでしょうか。余りに愚劣です。
“法治国家”の装いを捨て専制的国家へ
安倍政権はブルジョア支配の腐朽性の現われ
2015年6月13日
自公の推した学者が国会で「安保法案は違憲」と“証言”したため、安倍政権はたちまち危機に陥り、弁解と事態の打開のためにてんやわんやの状態に陥っています。
平沢や高村は今さらながらのように、学者批判を声高にやっていますが、自公の推した長谷川が政府の期待するような“証言”をしていたら学者排斥もなかったのですからご都合主義丸出しです。
安倍一派は憲法違反かどうかは――あるいはもっと一般的に言って、ことの正否は――、学者でなく、政治家が判断するというのですが、与党と野党の政治家――政治家として同種です――が正反対の判断をし、結論を出して対立しているのですから、学者はダメで政治家はいいのだなどといっても世の中に通用する理屈ではありません。
事実と真実は事実と真実であって、学者ならおかしく政治家なら正しい――あるいはその逆である――といったことではありません(“認識論的に”言うなら、つまりその限界内で抽象的に言うなら、正しい認識が正しいだけです。もっとも資本主義社会における社会認識について言えば、根底的な問題では、大勢的、趨勢的に労働者が正しくブルジョアが間違っていることは明白ですが)。
権力を壟断し、詐取したことをいいことに、強引に、憲法の解釈でも何でも思うがままにできるのだと突っ走ってきた安倍政治のもろさが、欠陥がたちまち表面化したのです。
マスコミは「違憲の疑いが深まった」などとピント外れの評価をしていますが、問題はそんなところにありません。
ブルジョア支配が安倍政権という形を取って、まさにすでに“法治国家”、民主主義国家という装いをかなぐり捨てて、専制的、ファシズム的体制にむけて動き出しているということ、階級闘争、政治闘争がそうした決定的な段階に向かって成熟しつつあること、そしてそうした展開に対して労働者階級の反撃が始まるし、始まらざるを得ないと言うことです。
ブルジョア国家のエゴイズムに断固反対!
南沙諸島をめぐる米中の争い
――尖閣での日中の争いも同じ
2015年6月6日
日本の国会で、集団自衛権や安保法制について、半ば非現実的で、抽象的な議論が続いている時、「南シナ海」できわめて実際的かつ“即物的な”争いが勃発し、発展し、軍事衝突の可能性まで公然と語られるまでになっています。日本の労働者階級にとっても軽視できない状況です。
南沙諸島において中国が続けている、岩礁の埋め立てや領土化、軍事基地化、拠点化の策動に対して、アメリカが強硬に抗議、「即時、永続的な中止」を求め、また偵察飛行機を飛ばしたり、南沙諸島は中国の支配下にないことを示すために、艦船を中国が築いている「人工島」の近くに派遣することを検討していると述べたりして反撃に出ています。
他方中国も強硬姿勢を装って、もしアメリカが挑発行動を止めないなら、中米の軍事的な衝突も避けられない、「中国は自国の尊厳のために断固闘う」と一歩も引かない構えを見せ、また南沙諸島の埋め立ては「軍事目的」のためのものであり、「防衛上の必要」からのものであると公然と開きなおってさえいます。
米中ともに全面戦争はもちろん望んでいるとは思われませんが、しかしこうした強がりが、米中の軍国主義者たちを引くに引けない所にまで引きずっていくことはきわめてあり得ることで、彼らの権力やメンツのために大きな戦争さえ引き起きおこしてきたのが、これまでの帝国主義の実際の歴史であったとさえいえます。
1941年、日本の天皇制軍部のファシストたちも、米国からアジアから撤兵することを突きつけられ、戦争を始めないで引き下がるなら自らの権力が崩壊するしかない土壇場に追い込まれ、かくして彼らは勝つ見通しも自信も何もないままに、太平洋戦争に突入して行ったのであり、行くしかなかったのです(こうしたときに、天皇制軍部の打倒なしに、労働者、勤労者にとってどんな“解決”が、困難からの抜け道があったでしょうか)。
中国が南沙諸島を「中国の固有の領土」だなどというのは、日本が尖閣諸島についてそういうのと同様であって、何の歴史的、現実的根拠もありません、というのは、国民国家による「固有の領土」といった観念自体が曖昧で、決して“証明”できないような怪しげな概念だからです。
地図を一瞥して分かるように、台湾、ベトナムやフィリピンやマレーシアやインドネシアなどの諸国にすっぽり囲まれたような、南沙諸島周辺の海域を中国の「固有の」領土だ、領海だと言い張るのは、余りに厚かましい“大国主義”でしかありません。
中国が、丁度尖閣諸島付近の海域が「東シナ海」と呼ばれること自体が、西沙諸島や南沙諸島が中国の「固有の領土」である証拠だと言って見ても、それはせいぜい17,8世紀頃にはその領域が中国の(清帝国の)覇権下、支配下にあったといった?、単なる歴史的な事実でしかなく、「固有」も何もありません。
世界の労働者は、南沙諸島をめぐる米中の対立や武力行使は、帝国主義者同士の領土争い、勢力争い、覇権争いの一環であって、そのどちらの立場を支持するものではなく、一貫した労働者国際主義の立場に立って、米中のブルジョア階級の帝国主義に、そして日本も含めた、世界のいかなる国の帝国主義にも――それはまさに単なるブルジョア国家のエゴイズムであり、“国民”の利益を詐称するブルジョアの(すなわち“国家”として組織され、統括されたブルジョアの)エゴイズムでしかありません――反対であり、断固として闘うことを宣言するし、しなくてはなりません。
帝国主義国家の自衛とは何か、が問題
本質問題が議論されない国会
2015年5月30日
マスコミが、安保法案反対が50%を超えるなどと世論調査の結果を報道する中、安倍や閣僚は、必死になってあれこれの場当たりの発言を繰り返し、自衛隊員の「リスクは増大することはない」とか、外国領域での集団的自衛権の行使はホルムズ海峡の地雷除去だけだとか、「専守防衛は不変、これまでの基本方針は一切変更していない」だとか言いはやしています。
他方では、曖昧さをはっきり答えられなくなると、「首相が決める」など開き直り、色々限界をもうけるかに装いながら、勝手なことをいくらでもできるように策動しています。口先だけで当面を切り抜ければいい、法案さえ成立すれは後は何とでもなると言うことです。
まるで内閣の中で任務分担でもしているかに、ニュアンスや内容が違った発言も相次いでおり(例えば、ホルムズ海峡だけだと言いながら、他方ではマラッカ海峡も、領土紛争が激化している南シナ海も「生命線だ」とうそぶく等々)、要するに、色々言って国民を煙に巻き、愚弄しつつ、法案を成立させればこっちのものという汚い思惑が見え見えです。
そもそも集団的自衛権があるという議論自体が神学論争のたぐいで、国家には「固有の」自衛権があり、それは当然他国と同盟する「権利」も含まれるということであって、そんな当たり前のことに大騒ぎするのは愚の骨頂です。
労働者は問題を、階級国家は「固有の」自衛権を持つのか、帝国主義の国家の自衛ということは何を意味するのか、という本質問題に帰着させて議論をしていく必要があります。
しかし「野党」なるものは、的確に、根本的に安倍政権の策動とその本性を暴露して闘うことができず、集団的自衛権はダメだ(個別的自衛権ならいい)、「憲法を守れ」といったプチブル的な立場から安倍政権とその帝国主義的策動と“闘って”いますが、ますます無力さ、空虚さを暴露するだけです。
時代と情勢が危機に向かって成熟しつつあることを確認し、労働者階級の原則的、革命的な闘いを前進させていかなければなりません。
安倍一派に原爆投下を問う資格などない
従軍慰安婦や南京大虐殺を否定して、しかも核の傘も求めているのに
2015年5月22日
国連で開催中の核拡散防止会議の中で、被曝地の広島、長崎に、世界の指導者たち(大統領や首相等々?)の訪問を促す文言が、中国側の要請により削除される“事件”が起こり、安倍政権はこの時とばかり杉山外務審議官を急遽国連に送り込み、中国に激しく抗議させ、その文言の復活を強く訴えさせました。
しかし中国に同調する国も十数カ国あり、韓国も消極的で、その文言の復活はありそうもありません。 当然のことです。中国の言う理屈は、「日本は第二次世界大戦で被害国であるかに歴史をゆがめようとしている」というものですが、それはある意味で正当であり、まさに安倍政権の意図することだからです。
安倍政権は今や米国との同盟を最優先させ、「価値観の一致」を叫んでいる手前、「米国による原爆投下」について、米国を非難できないでいますが、しかし安倍一派や国家主義の反動たちは繰り返して、日本が慰安婦問題(植民地下にあった朝鮮人女性に対する日本軍部による性奴隷化)や南京大虐殺など野蛮だったというが、米国もまた無差別爆撃や原爆投下など野蛮の限りを尽くしてきたではないか、同じことをしても、戦勝国なら無罪であり、敗戦国なら罪があるというのはおかしい、と言い返し、そんな立場から東京裁判や東京裁判史観を批判し、“反米”感情や排外主義を煽りさえしてきたのです。
労働者は広島、長崎の原爆投下という犯罪は、米国の罪というよりブルジョア帝国主義の犯罪、つまり米国のブルジョア帝国主義者と日本の天皇制軍部の共同の犯罪であり、両者が共に断罪され、非難されなくてはならない――すなわち日本の国家も、犯罪国家であった――と主張します、そしてそんな犯罪を犯した日本のブルジョアたちが、厚かましくも、外国の指導者たちに、広島や長崎に来てみよといえる、どんな資格も権利もないと結論するのです。
そんな風に言うことは、中国や米国等々の指導者こそが、もっぱら原爆投下に責任を負うべきだと暗々裏に言い、自らの無関係や無責任を誇示し、示唆することと同じであり、自らの罪を棚上げすることだからであり、広島、長崎の原爆投下に責任を負うべき天皇制軍部や東条内閣等を無罪放免することと同じだからです。
菅も、「被曝地訪問の提案は、歴史問題と関係が無い。理解に苦しむ」と白っぱくれています。 そして安倍政権のそんな策動を市民派や共産党は事実上支持し、後押ししていますが、こうしたプチブルたちは安倍政権のそんな政治に安倍一派の国家主義や排外主義が隠されていることも知らず、自らもそのプチブル民族主義的体質からして、たちまち同調し、屈伏して行くのです。まさに安倍政権と市民派や共産党の醜悪な連帯というしかありません。 安倍一派は、日本は未だ核兵器を持っていないから、平和主義や反核兵器の立場を装えると勘違いするのですが、彼らが米国の「核兵器の傘」のもとに完全に入っていること――そして自らも虎視眈々と核武装の機会を狙っていること――は明らかなのですから、安倍政権の反核兵器のゼスチャーほどに欺瞞的なものはありません。
産経新聞は、一方で、「外国指導者の被曝地訪問」という茶番的提案に賛成しつつも、「隣国の中国は、日本に対して核兵器を発射できる態勢をとっている。被爆国として核廃絶や核軍縮を求めるのは当然だが、日本の安全は米国の核抑止力で保たれている現実も忘れてはならない」(20日)などと書いているからお笑いです。産経新聞のおばかさんたちは、核兵器の「抑止力」によってのみ「安全」を保っているような国が、「被爆国」として、核廃絶を求めるような国として登場するのは根底から矛盾しており、偽善的であって、決して「当然の」話ではないことを知るべきなのです。
安倍政権のこの提案は、アメリカからさえも不快感をもって迎えられればたちまち尻すぼみに終わりかねない、単なるゼスチャーのようなものに過ぎません。
だがそれに幻想を持ち、浮かれていることはできない
橋下の「失脚」は気分のいい快事ではあったが
2015年5月19日
安倍と連携していた、デマゴーグ政治家の橋下が「失脚」したことは一つの快事でしたが、しかしそれ以上ではありません。
橋下の「都構想」が根底的には“制度いじり”であり、ごまかしであって、労働者を本当の改革や革命から目をそらさせるぺテンではあったとしても、大都市のブルジョア行政も行き詰まり、頽廃しており、根本的な改革が必要であることもまた現実でした。都構想反対派は勝ちましたが、しかし橋本反対という一点で結集しただけの寄せ集めであり、新たな展望も、労働者の闘いの発展につながる契機も何もありません。
「一人あたりの税収入と賛否の関係では、中央区や北区など企業が集まり、税収が豊かな区では賛成が上回る一方、西成区や住吉区、旭区など税収の少ない区は反対が多かった。65歳以上の住民の割合が高い、大正区なども反対が賛成を大きく上回った」とマスコミ(日本経済新聞18日)が報告しているように、むしろ現状維持的、保守的な反対が優勢であって、闘いの性格からしてそうなるしかありませんでした。
労働者の反対がリードした勝利ではなかったのです、つまり共産党や公明党が張り切り、出しゃばるような闘いでした。大阪の古い諸関係や“体制”が維持されたということでしかありません。
橋下の都構想が「制度いじり」のレベルの問題であったか、それを超える何かであったかについて言えば、それはより根本的な「改革」の問題から労働者の目をそらし、はぐらかす眼つぶしの一つでしかなかったことは明らかでしたが、しかし反対派は(自民党は勿論のこと、共産党なども)、大阪の――日本中の大都市の――基本的な矛盾や困難、その寄生性の問題を解決する展望や、さらに進んで、大都市の存在を規定する、より根本的な経済体制、生産関係を革命的に変革していく本質問題について何一つ語ることができませんでした。
橋下の国政への「影響」について言えば、過大に評価することはできません。安倍政権が今後行き詰まり、崩壊し、あるいは打倒されて行くとするなら、それは労働者の反発や反感が高まり、その大衆的な闘いが発展するかどうかにかかっているのであって、橋下の失脚などは、その一つの(必ずしも重要ではない)契機であり、出発点にすぎません。
橋下は「引退」を表明しましたが、彼がまたまたいくらか違った装いをこらして、反動とファシズムの先兵として再登場しないという保証は何もありません、こうした連中にとって「公約」とか口約束といったことは、ただそれをホゴにするためにのみ存在しているにすぎないからです。
「安保法制」は実質改憲だ!
「世界の警察官」が安倍の野望
2015年5月15日
安倍政権は昨年夏、集団的自衛権行使が可能だという憲法解釈を「閣議決定」し、そんな“超法規的な”政治を具体化しようと、日米ガイドラインを再改定し、また“安保法制”実現の諸法案を今国会で早期に成立させようとしています。
そもそも憲法解釈を「閣議決定」することができるなら、憲法改正などしなくても、軍国主義にとって、憲法9条の制約も「縛り」も事実上なくなるのだから、世界中で、どんな種類の軍事的行動も可能になるのであり、また可能になると安倍政権は主張しているのです。
安倍が意図すること、好きなことを可能にするために、憲法がどうあろうと、それに反する、あるいは事実上棚上げし得る下位の法律を5つも6つも、いくらでも成立させたり、修正したりしようということです。
こうした政治の意味することは、結局、安倍政権の思うがままに、憲法も法律も意に介することなく、いくらでも、好き勝手に国内外の反動政治、軍国主義的“武断”政治を強行しようということであり、日本もまた、アメリカと手を組んで、中国等々の台頭する、世界の再分割を要求し、闘い取ろうとする“新興の”ブルジョア帝国主義国家に対峙し、対抗する一個のブルジョア帝国主義の国家として名乗りを上げ、登場しようということです。
日本の経済的な帝国主義国家――すなわち資本を「輸出」し、世界の労働者、勤労者を搾取する国家――への移行とともに、日本の帝国主義的な外交・防衛の政策は必然であり、今や安倍政権による、集団的自衛権の行使可能という憲法解釈、ガイドラインの再改定、安保法制、世界中における軍事行動等々としてすでに現実のものとなっているのです。
『改憲なき改憲後の世界』が現実のものとなってきている時に、共産党や市民主義者のように「憲法を守れ」と主張しても無意味なことは明らかです。労働者は安倍政権打倒の闘い、そして資本の支配を一掃させる闘いを発展させて行かなければならないのです。
天皇制まで擁護する堕落ぶり
「憲法全条項を守る」共産党
2015年5月8日
共産党の小池晃が、憲法改正をどう思うかと問われて、「党綱領で現行憲法全条項を守り、とりわけ平和的・民主的条項は完全実施を目指すと謳っており、憲法を変えることにはきっぱり反対する。これは揺るがない党の根本方針だ。」、「憲法が障害になっていて、変えないとできないというものではないので、現実の政治では〔将来も、憲法改正を容認する〕可能性はない。憲法通りの政治がすべて実現されたら、新たな課題が生まれるかもしれないが、今の日本政治は憲法が定める政治の実現に全力を注ぐべきだ」などと述べています(毎日新聞5月6日)。
「憲法の全条項を守る」などと平気で公言するこの党のブルジョア的堕落は、すべての労働者に明らかなほどにまで進化しています。
この党は、労働者の階級的な闘いが発展し、深化していけば行くほど、露骨な反革命勢力として登場するのは不可避です。
憲法を「変えないとできないというものではない」などと断言していますが、天皇制はどうだと言うのでしょうか、憲法の枠内で廃絶するのだというなら、その方法を明示すべきですが、そんなことは決してやりません。それとも天皇制は労働者にとって好ましいものだから、廃絶する必要がないとでもみなしているのでしょうか。
「憲法通りの政治」とは何か、それが「すべて実現する」とは何か。小池がまともな回答ができないことは明らかでしょう。
そもそもブルジョア帝国主義が世界中でのさばり、ますます発展している時代に――中国しかり、日本しかり――、「戦力」を持たない国家を夢想するとは、本当にこの党は頭でっかちの、観念的なプチブルに堕落しています。
こうしたプチブル党を圧倒し、実践的に粉砕する、労働者の強大な組織を作り上げて行くことは、我々の最も重要な任務であり、課題です。
空々しい「痛切な反省」
名実ともに帝国主義国家へ踏み出す
2015年5月1日
安倍はアメリカ議会で、天皇制軍部や大資本や天皇らの行った15年にわたる帝国主義戦争(アジア・太平洋戦争)について、空々しく「痛切な反省」を口にし、「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない」と語りました。しかし、安倍一派や反動は今にいたっても、日常的に、意識的に、その正反対の言動にふけっているのですから厚顔無恥の二枚舌と言うしかありません。
アメリカとの戦争についても、「熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になった」などと何百万人の日本人やフィリッピン人などアジア諸国民や数十万人のアメリカ人等々が無意味に死んだ反動戦争を美化するのですから、「反省」など全くないと同然です。
安倍は、ただ権力のためにのみ、無節操とご都合主義とごまかしとうぬぼれだけに生きている、卑しい政治家の1人に過ぎません。
日米安保同盟は、日米の帝国主義的「攻守同盟」に転化しましたが、これは日本が名実とともに、ブルジョア帝国主義国家として登場すると言うことです。当面は、アメリカの「格下の」或いは「目下の」帝国主義国家として“丁稚奉公”よろしく修行し、経験を積んで、やがては中国やアメリカやロシア等々に匹敵する、「自立した」、強大な国家を夢見ているのかも知れませんが、展望のない、挫折に終わるしかない夢想でしかありません。
日本のブルジョアの帝国主義的進化と発展は、その死の始まりであり、また帝国主義の死は資本主義の死であろうし、今度こそ――1945年には失敗しましたが――そうして行かなくてはなりません。帝国主義化し、腐り、退廃していく日本のブルジョア勢力との決死の階級的戦争が開始されつつあるということを、我々は自覚すべきです。
まさにファシズム国家さながら
言論統制つよめる安倍政権
2015年4月27日
安倍政権はいまや盛んにマスコミ統制に乗り出しています。この政権の専制的、反動的で、下劣な本性丸出しです。
権力を握ったことをいいことに、安倍一派は自らの“ファシスト的”根性に駆られて、自分たちにとって都合の悪い言論の規制と抑圧に動くし、動かざるを得ないのです。
自民党は17日、NHKとテレビ朝日の報道番組で、やらせや政治的圧力があったかどうかという問題でマスコミ幹部を呼び出し、事情を「聴取」しました。自民党の川崎二郎(自民党の情報通信戦略調査会)は、「二つの案件とも、事実が曲げられた放送がなされた疑いがある」と言って、露骨な政治的圧力を掛けました。
テレビ朝日の案件とは、コメンテーターの古賀の発言が安倍らの逆鱗にふれ、古賀が菅らの圧力によって古舘の番組から降板させられたと放映中に発言した件ですが、そんなことについてマスコミの幹部を呼び出して、菅ら安倍政権の幹部は「圧力を掛けていない」というのがどんなに筋違いで、途方もないことであるのに気がついていないのです。
要するに、安倍政権に批判的な発言をする古賀をコメンテーターにしたことが悪いということですが、政権がそんな圧力を掛けるなど、考えられないような政治介入であり、横暴でしかありません。テレビ朝日であろうとどこであろうと、またそのコメンテーターであろうと、安倍政権に批判的な発言は許さないと言っているのと同様です。
東条やヒトラーさえ驚くような、マスコミ統制が始まっていると言って言い過ぎてはありません(もちろんこれはいくらか大げさに言っているのですが、その精神構造において、安倍は東条やヒトラーと同じたぐいの人間であることを暴露しています)。
安倍の権力主義的本性や厚顔無恥は、すでに2001年、NHKの「番組改編事件」――安倍が番組内容に政治的介入し、その内容を変えさせた事件――ではっきり示されましたが、安倍のマスコミ統制の意識は変わらず、権力を握ったのをいいことに、ますます露骨で、破廉恥なものになってきています。
安倍政権は「放送法」などを持ち出して――つまり、そんなものを都合のいいように「解釈」し、その精神に反して悪用して――、昨年の衆院選の時も、街頭インタビューのやり方も「偏っている」――つまり安倍政権と自民党に批判的なものが多すぎる――とかいちゃもんを付け、また「報道ステーション」のアベノミクスを取り扱った報道にも文句を言い、公平にやれと「要望書」をつきつけました。一体どんな報道なら、「公平」と言えるというのでしょうか。アベノミクスをほめるなら「公平」であり、インタビューで辛辣で、「批判的な」声が増えるなら「公平」ではないとでもいうのでしょうか。
安倍政権が自分たちの政治と政策にどんな信念も自信も持っておらず、個々のマスコミ報道に戦々恐々とし、極端に神経質になり、おびえていることを暴露しています。
さらに、福島瑞穂の国会発言を――安全保障法案を「戦争法案」と呼んだり、安倍政権を「鉄面皮」と攻撃したことまでも――取り上げて「修正」を要求し、議事録を修正するように圧力をかけたりしています。こうなるともうマスコミ統制にとどまらず、言論一般の統制、規制であり、1945年までの天皇制軍国主義の専制国家そのもの、ファシズム国家さながらです。権威も威信も品位も何もない、最低最悪の政権でしかありません。
「お詫び」も言わない安倍談話
誠意なく彼の厚顔無恥をさらけ出すだけ
2015年4月22日
安倍が20日、安倍談話では「心からのお詫び」や「植民地支配と侵略」などの表現を用いないと、初めてはっきり語りました。自分はすでに村山、小泉談話は「基本的に受け継ぐ」と語っているから必要ないと言うのです。
しかし世界中は、「お詫び」とか「侵略」という言葉を使いたくないのは、安倍が本心から「侵略」や「植民地支配」を反省していないばかりではない、そうした事実さえもなかったかに言いはやしたいからであると疑っている、あるいは確信しているのです。
とするなら、安倍は疑惑を晴らすためにも、あえてそれらの言葉で明確に語るべきです。しかし安倍は語ることができないのです。彼は「侵略」については、その概念は「まだ国際的に明確なものとなっていない」などと、今も言いはやしています。事実上、「侵略」を否定しているのですから、それを語ることができないのも当然です。
安倍が「村山、小泉談話の基本的な考えを継いでいく」と言っても、こんな状態ですから――他のところでは、村山談話にたいする批判や攻撃をいくらでもしているし、またしてきたのですから――、いまさら「それらを継承する」といっても口先三寸であり、担保の出し遅れであって、誰一人信じる人はいないでしょう。安倍の談話は最初から自己矛盾であり、意味のないものであるばかりではなく、反動的であり、有害な影響を内外で引き起こすだけです。
しかも安倍は河野談話については引き継ぐと語っていませんが、それは彼の本心を暴露しています。本心からアジア諸国への「侵略」や、数々の蛮行を悪いことをしたとは思っていないのであり、また反省し、謝罪する必要も少しも感じていないのです。
今や、それらの言葉は安倍の本心をためすリトマス試験紙になっているのです。つまりそれを使わないというのは、安倍の本心は真っ黒であって、中国やアジア諸国への侵略も侵略ではなく、朝鮮や中国の植民地支配も、朝鮮の女性の性奴隷化も事実ではない、15年戦争自体、正義の戦争、正当な戦争であって「反省する」必要など全くないと考えている、安倍の醜い、お粗末な心を明らかにするのです。
そしてそんな真っ黒い本心とは別の、口先だけのごまかしですまそうというのですから、あるいは新談話によって、村山談話や小泉談話や河野談話を棚上げし、事実上一掃し、自分の談話こそ国家としての“正式の”立場であると強弁しようというのですから、そんな厚かましく、まさに日本の恥をさらけ出すような談話を認めることはできません。
安倍は自らの談話をあえて発表するというのですから、勝手にやればいいでしょうが、我々は、それは安倍の私事であって、日本の労働者、勤労者の立場や意思とはもちろん、日本の国家の立場や意思とさえ全く別であり、むしろ正反対のものであることを明らかにし、その真実を全世界に向かって、全世界の労働者、勤労者の仲間たちに向かって公然と宣言するし、しなくてはなりません。
すでに「憲法改定なき改憲後」の世界は現実だ
労働者、勤労者の壮大な実力闘争で反撃を
2015年4月20日
立憲主義派やインテリや共産党などは、例えば、自民党の憲法草案(2012年4月発表)の改正条文に、国民は「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と謳われていることをもって、この改正に反対であると叫んでいます。
自民党のこうした憲法改正案は、彼らが常に言いはやして来たこと――現行憲法は、権利ばかり書いてあって、それに伴う義務や責任が書かれていないといったこと――を受けてのことです。
しかしこんな改定をなぜそれほどに恐れ、大騒ぎしなくてはならないのでしょうか。 憲法が憲法である以上、こうした規定は労働者、勤労者にだけでなく、ブルジョアや権力者たちにも適用されるのであり、しかも「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」ていないのは、労働者、勤労者よりも彼ら自身であることは自明です。
実際、労働者、勤労者はブルジョアや権力者たちよりもはるかに善良であり、謙虚であり、また弱者であるからこそ、自らの「責任や義務を自覚し」、常にそのことを配慮しつつ、つましく生活し、生きているのですが、ブルジョアや権力者たちは反対に、「自由及び権利」は我が物顔で享受しながら、「義務や責任」については何一つ自覚していないのは、労働者をひどく搾取し、その生活や人生を破壊している悪徳企業家たちや、憲法など愚弄し、歯牙にもかけていないような安倍政権を見れば一目瞭然です。
安倍政権自身がどんなに自らの「義務や責任」を自覚していないかは、安倍一派が政権の維持や長期政権のために、つまり自分たちの利益のためだけに、アベノミクスといった、「期待」だけに賭けたような、まさに「無責任」そのものの、見かけ倒しの、偽りの経済政策を、金融、財政のバラまき政策を持ち出し、日本の経済も財政も金融もめちゃくちゃにし、また貧しい労働者、勤労者の生活を円安やインフレなどで破壊しようとしている――すでにしている――ところにも、決定的に暴露されています。「公益」も何もあったものではありません。
とするなら、こんな改定に驚くようなことは何もありません。こうした改定が盛り込まれたら、労働者、勤労者は闘っていけないとか、手も足も出なくなるといったことに全くならないからです。
もちろん安倍一派が、自民党や反動派がこうした改憲で企む卑しい意図や策動は徹底的に明らかにされなくてはなりません、しかしこの程度の改憲にビクビクしていたら、安倍が目指す憲法9条やもっとえげつない攻撃のときになったらどうするというのでしょうか。
そして我々が今問題にしなくてはならないのは、憲法9条については、すでに実際に改定が現実のものとなっている、「改憲なき改憲後の世界」という状況の中で、いかに闘っていくかという、決定的に重要な課題です。
すでに「改憲なき改憲後の世界」となっているのです、そしてそれを確認するなら、「憲法擁護」では闘えないことは明らかです。
安倍政権はリベラルや共産党の観念的な批判――実際的な意味はほとんど持ちえないような――を聞き流しつつ、まさに「改憲なき改憲後の世界」をすでにつくり出しています。労働者、勤労者の壮大な実力闘争を作り出し、発展させて断固たる反撃に移り、単に改憲策動を粉砕するに留まらず、まさに天皇制軍国主義国家、反動的専制国家の再現を策す安倍政権を一掃するために闘って行くべきときです。
今度は国立大学で「日の丸・君が代」
「強要でない」など誰も信じない
2015年4月12日
安倍や下村によって、今度は国立大学の入学式や卒業式での「日の丸・君が代」の掲揚、斉唱の強要が行なわれようとしています。
9日の国会で、次世代の党の松沢が国立大学での国旗掲揚や国歌斉唱は「正しく実施されるべきだ」と述べたことに対し、安倍は「税金でまかなわれていることに鑑みれば、教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきだ」と応じ、それを受けた下村は、さっそく「国会での議論や国旗国歌の意義を踏まえ、適切な対応が取られるように学長が参加する会議で要請することを検討している」と動き出したのです。
彼らはこれまで、小中学校に対して学習指導要領を改悪し、それを法的根拠だとして国旗掲揚、国歌斉唱を強行してきました。そしてこれに反対する教育労働者に対しては処分という強権行使によって、入学式や卒業式において「日の丸・君が代」を強要してきたのです。
大学に対しては、小中学校のように学習指導要領を根拠とすることができないために、下村は「お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない」と述べていますが、こんなことは誰も信じていません。国立大学の予算は交付金や助成金などといった形で文部科学省が握っていますし、人事においても学長の権限を強化し、トップダウン式の運営を進めようとしているのが文科省なのです。下村は、強制などしていない、各大学の判断で実施されるのだということで、安倍政権のあくどい企みを少しでもカモフラージュしようとしているにすぎないのです。本当に嫌らしい連中です。
国旗国歌法の制定時、当時の小渕首相は「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております」としていたのですが、法制化すればしめたとばかりに、その後は次々と強制力を強めてきているのです。
政府は口先では強制しないなどといくらでも言うのですが、そんなものはごまかし以外の何ものでもないことは、これまでの事実が示しているとおりです。
安倍らは「日の丸・君が代」を押しつけ、国家主義や天皇制軍国主義の政治を推し進めようとしています。しかし民主党はもちろん、愛国主義を謳う共産党も、こうした安倍の企みに対して全く無力でしかありません。
労働者は既成政党に幻想など持たず、自分たちの手で新しい運動をつくりだし、安倍政権打倒の闘いに立ち上がらなければならないのです。
戦犯の子や孫がのさばる時代
天皇のパラオ訪問、断固反対!
2015年4月4日
天皇は、8日から9日にかけて、恥知らずにもパラオのペリリュー島に「慰霊」のために出かけるといいます。明仁らは10年前の戦後60年にも同じ理由でサイパンを訪問しましたが、戦後70年の今年はパラオというわけです。
フィリッピンなどを中心に、サイパンや硫黄島、そしてパラオ等々、多くの太平洋の島々でも激戦や「玉砕」が相次ぎ、まさに何十万の日本の、そしてまたアメリカの労働者、勤労者が――民間人さえもが――無意味に死んでいきました。そんな死に責任があり、自らが引き起こして全国民を巻き込むような犯罪的な戦争をやった天皇一家が、のうのうと「慰霊」に出かけると言うのですから、こんな馬鹿げた話はありません。
先の戦争に対して“反省すべきだ”とか“責任を感じる”というのなら、真っ先に天皇といった地位を放棄してしかるべきですが、そうしたことをせず、寄生的で反動的な天皇の地位にしがみついたままで「慰霊」や「平和を祈念する」など聞いてあきれます。
安倍はパラオ訪問に関しての内閣総理大臣談話の中で、「両陛下には,戦後六十年に当たる十年前,戦争により亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念されるため,サイパン島を御訪問いただきました。戦後七十年の節目の年に当たる本年は,政府として,天皇皇后両陛下に,同じ趣旨から,先の大戦の激戦地であり,海外における主要な戦跡の一つとして政府により『西太平洋戦没者の碑』が建立されているパラオ共和国への御訪問をお願いすることとした次第です」と述べています。
安倍が天皇を利用して、また天皇も安倍と一緒になって、つまり戦争犯罪人であった昭和天皇や岸の子供や孫たちがのさばって、あの反動的戦争は正義の戦争、日本のための戦争であったかに開き直ろうというのです。「慰霊」だなどと言って、天皇や岸のために無意味に死んでいった労働者を愚弄することは許されざることです。
反動派の連中はこうした動きを利用して、愛国主義や国家主義を広めようと策動を深めています。産経新聞は「戦前に日本が統治していた経緯もあり、パラオは親日国として知られる。先の大戦では日本軍1万6千人が戦死した。このうちペリリュー島では、日本軍1万1千人が昭和19年9月に上陸してきた米軍4万8千人と2カ月以上にわたり死闘を繰り広げ、玉砕した。日本軍将兵の戦いぶりは敵将にも感銘を与え、米太平洋艦隊司令官のニミッツ元帥は、その愛国心をたたえる詩を作った」(2014.9.19『主張』)などと、戦前の日本のパラオ統治を正当化したり、軍国主義、愛国主義を美化しています。
労働者は天皇のパラオ訪問に明白な抗議の声を上げ、同時に安倍の軍国主義政治と断固闘っていかなければなりません。
「一票の格差」はカラ騒ぎ
問題の本質は別にある
2015年3月28日
インテリや市民派らは昨年の衆院選挙の無効裁判を仕掛け、またマスコミも「一票の格差」について大騒ぎしています。
宮城5区と東京1区の1票の「価値」が2・13倍になっていて、2倍を超えたから違憲だというのですが、本質問題では全くありません。「国民」をブルジョア的「個」に解消、還元し、その上ですべての日本人は平等の一票を有するなどと言うのですが、欺瞞も良いところです。
労働者は生産的な、そしてまた現実的に有用であり、社会的に必要な労働に従事し、自らと社会のために実践的に生きる人々の平等を知るだけです。自ら労働せずに搾取したり寄生したりする階級の一掃無くして真の平等など存在しないのです。
それに現在の議会制について言うなら、本当の不公正、不平等は「一票の格差」といった、矮小なところにあるのではなくて、例えば安倍政権が有権者の絶対得票率17%ほどで政権を壟断し、また憲法やその規範内容などどこ吹く風で、一片の「閣議決定」を黄門の印籠よろしく振りかざして好き勝手なことをやっているところにあるのであって、強制力も何もない「違憲」判決などまるで茶番で、むしろ根本問題をそらせ、ごまかす役割を果たしているだけです。
選挙制度だけに限定したとしても、立候補するのに何百万円も(確認団体になるにはさらにその十倍も)必要とするような供託金制度を設け、労働者派が候補者を立てるのを締め出しながら、一票の平等も何もあったものではありません。
インテリや市民派の連中が、選挙制度において「法の下での平等」といった民主主義をより徹底させるというのなら、供託金制度など直ちに廃止し、選挙区も全国一区の完全比例制とし、投票率に応じて議席を配分するということを要求すべきはないでしょうか。彼らはこうしたことにさえ口をつぐみ、選挙区間の「一票の格差」といった問題だけを取り上げ大騒ぎしているにすぎないのです。
労働者は、こうしたインテリや市民派のカラ騒ぎなど問題の本質を誤らせるものだと断言します。そして彼らとは違い、不公正、不平等な選挙制度で権力を握り、「法の支配」など無視して好き放題に振舞う安倍政権に対し、徹底した闘いを組織していくだけです。
日本軍隊の世界への派遣の企み
護憲派(共産党や九条の会ら)の破綻
2015年3月20日
「安保法制」にかんする自公合意が成り、集団自衛権行使容認の合言葉とともに、日本の軍隊による公然たる、武力行使が世界的な規模で、広汎に行われ得ることになりました。
今までは、日本が武力攻撃を受けたとき、反撃のために、「自衛」のためにのみ、武力行使が許されていたのですが、今や世界中で大っぴらに、どこかで「日本の安全」や国民の生活を脅かすような出来事が起こったり、状況がやってくるなら、ほとんど無制約に武力行使も可能だと言うのですから、まさに安倍の“武力”フェチシズムやニヒリズムの現実化であり、発動以外の何ものでもありません。
天皇制軍国主義がはびこり、勝利する危険性は、かつてなく大きくなっています。 そしてこうした事態がやってきたということは、共産党などが言いはやす、「憲法を守れば、平和も民主主義も守れる」といったたわ言を現実の中で暴露し、粉砕してしまいました。
憲法など一行も、一字さえも変えられていないにもかかわらず、憲法などどうでもいいような事態が、憲法が根底からひっくり返されたような状況がやってきたのですから、共産党や九条の会やリベラルたちの破綻は明白です。
今こそ、ブルジョア憲法を物神崇拝し、それに拝跪する、だらしのない、日和見主義の泥沼にはまりこんでいく、プチブル党派や市民主義のインテリたちやリベラル派の破綻を確認し、「安倍政権打倒」のスローガンのもと、断固たる、“攻勢的な”闘いに立ち上がって行くべき時です。
敵は外国ではなく国内にいる
安倍政権こそが「国民の生命や自由」を侵害
2015年3月13日
安倍政権は今や、集団自衛権の「行使」という閣議決定を錦の御旗に押し立て、憲法では存在するはずもない軍隊を世界中の紛争などに無制約に派遣し、また無制限に武力行使に走れるようにする策動に、つまり“法整備”に走っています。
「周辺法」から「周辺」という限定を取り払うというのですから、それはもはや「周辺法」ではありません。しかし、それだけでは不十分と、法的にダブったり、混同されるような法律や法律改正に躍起になっています。
常人からみれば、常軌を逸しているとしか見えません。この際に、できることは何でもやっておこうという、軍国主義者まる出しのさもしい根性です。
そして最後には、またまた新しく「新事態」という観念を持ち出し、それに基づいて、これまでの「武力攻撃事態法」(03年成立、06年に最終的に確定)――「外部からの武力攻撃に対処する」ことを目的とも課題ともするということで成立した――や自衛隊法等を改訂したり、必要だという法律をでっち上げたりする策動に夢中になっています。
安倍の観念やあれこれの策動は、これまでは日本国が正真正銘、外国(北朝鮮や中国)や外国のテロ集団などの「武力攻撃」を受けた場合にのみ対処すると限定されて来たのを、その限定を取り払い、簡単に言えば、日本の安全や利益に関係する――と、政府が判断する――事態(存立危機事態)なら、容易に、ほとんど制約もなく世界中で武力行使に走ることができるようにしようということです。
彼らは言います、日本が直接に攻撃を受けていなくても、「密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由等の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」があれば、「自衛の措置」として、集団自衛権の行使が可能だというのです。
また安倍政権は、国会で「我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な、深刻・重大な被害が及ぶことが明らかになった状態」と答弁しています。
「生命、自由等の権利が根底から覆される明白な危険」など、国外から来るという前に、安倍政権のもとで、何万、何十万の貧しい労働者などには日常茶飯事だと言っていいのですから、外国からの「危険」を言う前に、国内の「生命や自由の権利の根底が覆される明白な危険」を一掃するために、安倍政権は断固たる措置を(武力行使まで含めて?)取るべきでしょう。
シーレーンの地雷除去だとか、北朝鮮の米国向けのミサイル撃墜とか、退避する日本人が乗船している米国船の護衛だとかいった、その多くが全くの非現実的な想定よりも、安倍政権による国民の「生命や自由」への侵害の「危険」の方がよほど問題です。
悪党の佐藤正久は、「人権のうち一番大事な生存権を守るため、色々な権利や自由を押さえて、義務や責任を上にする発想がない。日本の戦後のゆがみだ」などとたわ言を口にしていますが、そもそもアジア・太平洋戦争で、「色々な権利や自由を押さえ」、ファシズム体制を固めることだけには熱心だったが、「人権のうち一番大事な生存権を守るため、義務や責任を上にする発想」を欠いていたのは誰だったか――東条や天皇らでなかったか――をとくと反省すべきなのです。
菅官房長官の“政治教育”の奨め
教育も自分たちの意のままにしようと企む
2015年3月9日
菅官房長官は5日の記者会見で、「有権者が政治に関心を持つことは極めて大事だ。(学校では)政治的中立性の確保に留意しながら、子どもたちが積極的に政治参加することができるような教育を進めていくことが大事だ」と言いました。これは選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げることに関しての発言です。
菅や安倍らは、これまでさんざん、教育への左翼的政治介入だとか、偏向だとか、「教育の政治的中立」とかについて言いはやしながら、自分たちが教育を簡単に左右できると思いこんだ途端、“政治教育”を進めて行けと言い始めるのです。
安倍は第一次政権時代から一貫して教育の反動化を推し進めてきました。教育現場での「日の丸・君が代」の強要、教育基本法・学習指導要領の改悪、教科書への国家主義的介入、道徳教育の教科化等々、戦前の天皇制軍国主義、国家主義の教育を再現させようとしてきたのです。そんな彼らが言う「積極的に政治参加することができるような教育」がどういったものになるかは、推して知るべしです。
「我が大和民族の誇りは、日本の歴史なり。この歴史の中には、必ずしも悉く正しき事善き事のみにあらず、必ずしも悉く敬すべく仰ぐべき事のみあるにあらず。人は神にあらず。人の所為には種々の過失あり、罪悪あり。されど総括していえば、日本の歴史は、大和民族の恥辱史にあらずして栄光史なり。如何に我が皇室が世界に比類なきものなるかは、国史最も雄弁に之を語る。如何に我が国民が、一旦緩急あるに際して護国の精神を発揮せしかは、国史其の証人なり。」
これは戦前(昭和12年)に発行された高等小学校向けの副読本の一節(徳富蘇峰「国民小訓」)ですが、安倍らが日本の歴史教育は自虐的なものであってはならない、もっと誇るべきものであるというのは、この本が言う「日本の歴史は、大和民族の恥辱史にあらずして栄光史なり」と同じ考えによるものです。
戦前のような国家主義教育を推し進めることで国家に従順な“仔羊”を養成し、そしてその“仔羊”達が積極的に政治参加するように仕向ける、これが安倍政権の狙いです。
子供たちが政治に参加すると言っても、それぞれの置かれている階級的立場からおのずとその政治の中身も違ってきます。安倍らは、労働者の子弟が労働者階級の立場から政治に参加するのを恐れ、戦前のように労働者の子弟にも国家主義教育によって“洗脳”しようというわけです。
「偏向教育」批判の急先鋒だった安倍らは、今度は“政治教育”を進めよと、我がもの顔にふるまうのです。彼らの策動を許すわけには行きません。
中国「高度経済成長」時代の終焉
巨大な隣国の変動を注視し、労働者階級の連帯を
2015年3月7日
中国の全人代が終了し、経済成長率を7%ほどにする、いわゆる「新常態」への移行を謳っています。中国は自らの「高度経済成長」の時代が終わりつつあることを自ら確認したのです。
今後、膨張しきった生産や信用の矛盾が一挙に吹き出し、共産党独裁の政治体制が大きく動揺し、ある場合には解体していく可能性さえあり得るでしょう。政権トップが必死で音頭を取って、権力や党の腐敗を摘発しなくてはならないほどに、権力は腐っているのです。
政権はこれまでのような「成長」をあおり立てる政治を続けることもできず、そうかといって、鉄工業などに典型的な過剰生産や、あるいは膨れあがった公共投資などと結びついた過剰信用を爆発させかねない「緊縮政策」や「引き締め政策」を採用することもできず、なすすべもなく立ちつくすか、一方で引き締め、他方で緩和に走るといった、矛盾した立場に追い込まれています。
経済的な困難と共に、国内諸民族(ウィグル族、チベット族等々)との矛盾対立も深化する一方で、ただ力でもって押さえつけているだけです。
日本と違って国家財政の赤字はまだ目だってはいませんが、しかし物価上昇は日本より急激で、労働者、勤労者の生活は賃金水準の上昇ほどには改善されておらず、さらに失業が広がるような状況になっていけば、中国労働者階級の偉大な闘いの時代が訪れてくるかもしれません。
もちろん中国の労働者階級の広大で果敢な闘いは、日本の死んだような労働運動とは“質量共に”違った、比較にならないほどの深刻な影響をアジアの、世界の労働者階級とその運動に及ぼし、世界的な新しい労働者階級の闘いのきっかけにもなり得るかもしれません。 世界一の大国として登場してきた隣国中国の歴史もまた、道の大きな角を曲がるような歴史的瞬間が近づいてきているのかもしれません。
我々もまた、この巨大な隣国の大きな変動に注目し、重大な関心を抱き、中国の変動と日本の、世界の労働者の階級闘争との関係や、その日本への影響や意味を深く考えて行くべきときです。
形式的な「反省」で過去を棚上げし、国家主義的野望を企む
安倍の「戦後70年談話」策動に反撃を
2015年2月26日
安倍は戦後70年の首相談話を出すと大張り切りですが、この問題を検討するための“私的な”諮問機関の初会合が25日に開かれました。もちろん、安倍一派を中心にしたもので、彼らが諮問機関を牛耳っているのは明らかです。
安倍の思惑は、彼の「歴史認識」と齟齬(そご)し、ことあるごとに抵触して、安倍の防衛・外交政策の障害とも悩みの種ともなっている、「村山談話」や「河野談話」を――正面から否定するのは無理だとしても――骨抜きにし、実際上棚上げすることです。
「敬して疎んじよ」というわけでしょうか、今後は村山談話など持ち出すことなく、「歴史認識」の問題でも、新しい安倍談話で、それを「基準」に議論し、また外交・防衛政策も、その原則を錦の御旗にやっていこうというわけです。
「未来志向」だと言いますが、「過去」はきれい事ですませ、形式的に「反省」を口にするだけで洗い流し、「植民地支配」とか「侵略」とか「性奴隷」とか、大げさに言いはやすことは止めようというのですから、結局は安倍の国家主義的本性を暴露する談話に帰着し、安倍政権を超えて普遍的な意義を獲得することはあり得ません。
敗戦後、平和国家、民主国家として立派にやってきたと言いますが、他方では、そんな結構な戦後体制を総決算する、一掃する、止揚するとわめいてきたのですから、一貫しないことはなはだしく、骨の髄からのペテン師、詐欺師というしかありません。
過去の悪事は棚に上げて、「未来志向」でやりましょうと言っても、安倍らが過去の天皇制軍国主義の国家とその蛮行を正しく総括できず、従ってまた本心から反省できないばかりか――誠意のない口先だけのことなら、猿ならぬ、安倍でも言えます――、基本的に美化し、擁護している以上、中国や朝鮮の国家は――米英や多くのアジア諸国さえも――反発を強めるだけで、“正常な”関係を築くことなど夢物語に終わるだけでしょう。
とするなら一体何のために、そんな無意味な談話が必要だというのでしょう。新談話が出たところで、中国や韓国が安倍政権への態度を和らげる可能性は小さくなるばかりで、むしろ安倍政権の汚い偽善や表裏ある立場に不信や怒りを強めかねないのです。
そんなものは意味がないばかりではなく、日本の品位――安倍一派は当然としても、ブルジョア諸君自身の――を疑われ、出したら有害な役割を果たすだけです。そんな偽善的な談話は出すべきではなく、断固として反対し、粉砕して行かなくてはなりません。
“憲法秩序”破壊、「閣議決定」も無視
安倍の「安全保障法制」策動
2015年2月19日
15日の国会で、安倍は、集団的自衛権行使の判断基準となる「武力行使の3要件」を満たすケースとして「他国に対する武力攻撃が発生し、武力で対処しなければ、日本が攻撃を受けた場合と同様の深刻、重大な被害が国民に及ぶことが明らかな状況だ。具体的には邦人を輸送中の米軍船舶の防護や、中東・ホルムズ海峡に機雷が敷設された場合だ」と答えました。
昨年、集団的自衛権行使の閣議決定を強行した際には、日本近海で日本人を輸送している米軍の船舶への攻撃の場合だとしていたものを、今回はさらに推し進めて、中東・ホルムズ海峡の機雷除去への武力行使も、集団的自衛権だというのです。
石油の輸送は日本にとって死活問題であり、それを守るのは集団的自衛権の一部だというのですが、この理屈でいけば、世界中のどこでも、日本の権益を脅かすものについては武力行使をすることが出来るということになります。
17日の国会では、「戦後レジーム(体制)からの脱却」について問われ、「時代の変化に伴い、そぐわなくなった部分は自分たちの力で21世紀の現在に相応しい新たな仕組みに変えて行くべきだ」と安倍は答えました。この「新たな仕組み」とは、世界中に権益を持つ日本が、その権益を守るために、どこにでも軍隊(自衛隊)を派遣できるようにすること、つまり戦前の天皇制軍事国家がやっていたのと同じようなことができるような仕組みに変えて行こうということに他なりません。
安倍はこれまでも、憲法の条文や精神など、まるでどうでもいいかに振舞ってきたのですが、公明党をまんまと丸めこんで決めた昨年の閣議決定さえも無視し、あるいは拡大解釈し、ますます思うがままに振る舞おうとしています。安倍政権打倒の闘いは労働者、働く者の喫緊の課題です。
「聖域」突破が聞いてあきれる
大山鳴動してネズミ一匹、安倍の農協改革
2015年2月11日
安倍自民党は全国農業協同組合中央会(JA全中)に農協改革案を受諾させ、「『改革断行国会』の良い象徴」(稲田政調会長)と自慢げに語っています。しかし一体何が改革されたというのでしょう。
農協がこれまでやってきたことは、農業を発展させるどころか、自民党の「集票マシン」として活躍する傍ら、その見返りに保護農政を求め、中小零細農業を温存させ、日本農業を衰退させてきたのです。そしてその一方で、農協組織は農業生産に関する活動よりも金融や共済(保険事業)といった業務を肥大化させてきました。
昨年3月末の貯金残高は91兆5079億円にも上り、全国銀行協会加盟の116行の合計668兆140億円と比較してもその巨大さがうかがい知れます。しかもこの預金残高は、毎年1兆円以上も増加しているというのです。
農協の金融部門がこれほど肥大化していったのは、農地の宅地化などに伴い、農地を手放した土地成金農家(更には農業を廃業した人たちも含まれている)の資金を集めたことや、その資金を農家(つまり組合員)だけでなく準組合員向けの住宅ローンとして運用して利益を得てきことなどによります。
今回の農協改革では、JA全中の単位農協への監査権限を廃止するということと、その監査権限を分離して別法人にするということが、決められただけです。
政府は、監査権限の廃止を飲まないと、準組合員の利用を制限すると、農協に迫り、これを飲ませたわけですが、逆に言えば、金融業化する農協にとって死活問題と言われている準組合員の農協利用は、これまでどおり容認することで、農協の権益を守り、今後とも自民党の「集票マシン」として、そのつながりを温存したのです。
安倍は農業、医療、エネルギー、労働といった分野での改革が、成長戦略の成果を結実させるものだと言いますが、JA全中の単位農協監査を廃止しただけで、日本農業が成長するわけもありません。
「聖域」突破、岩盤を崩す等々、安倍は勇ましい言葉だけを空回りさせ、根本的な改革など何も出来ないことをまたぞろ曝け出しました。
安倍の言う農業改革といったものは、小土地所有や自作農といったこれまでの農業の根幹には手を触れず(手を触れることが出来ず)、それを前提にしている以上、小手先のものに終るしかないのです。
人質殺害の、安倍の責任を追及せよ
後藤健二の遺志を受け継ぐべきで、軍国主義、帝国主義を煽るべきではない
2015年2月2日
フリージャーナリストの後藤健二がイスラム国を自称する“イスラム急進派”に殺害されたのを受け、安倍は日本の首相としてヒステリーじみた声明を発表しました。
曰く、「非道、卑劣極まりない」、「強い怒りを覚える」、「許しがたい暴挙」等々、そして最後は「テロリストたちを絶対に許さない」と感情丸出しの、もう一つのテロリズム宣言までさけんでいます。
安倍が口を極めてイスラム国を攻撃し、罵詈雑言を浴びせるのは、安倍政権の政治外交が日本人殺害の一つの――決して重要でなくはない――原因であることを知っているから、そんな自分たちの責任を棚上げし、隠し、殺害を招いた、自分の国際政治・外交政治を正当化しなくてはならないからに過ぎません。
そもそも安倍は、中東の動乱の地を訪れ、イスラム国攻撃に積極的に参加している諸国に対して、「イスラム国と闘うために」2億ドルのカネを拠出するとはっきり語ったのです。後から大急ぎで「2億ドルは『人道的援助』のためのものだ」と見え透いたことを言っても通用するはずもなく、またイスラム国を納得させることなど出来るはずもなかったのです。
イスラム国は、まさに現在のブルジョア社会が、頽廃してゆく諸国家が、帝国主義的な世界が、不可避的に生み出した自らの奇形児であって、安倍のように感情的な悪罵を浴びせて済む問題では全くないのです。
イスラム国に駆け付けた連中は、まずブッシュのイラク攻撃で破壊されたイラク国家のあぶれ者たちであり、住むところさえも失った世界のルンペンたちであり、しかもアメリカなどの支援によって、シリア内戦中に巨大化した武力集団です。生産的な基盤、労働者、勤労者の基盤など何もないのであって、そんな“不健全で”空っぽの専制的“国家”がいくらかでも長期にわたって存在しえないのは余りに明らかです。
そんな連中が“前近代的”で、野蛮な宗教国家の建設を大義名分として――ほかに、自らの目標や理想を掲げることができないから――徹頭徹尾、アナクロニズムの、反動以外の何ものも意味しない“国家”以外を建設できるはずもないのです。
しかし、世界のブルジョア国家や安倍政権は、自分たちが生み出したおぞましい妖怪に、鬼子に驚愕し、怖気づくのですが、それがなぜ、いかにして発生し、出現してきたかを理解できないし、説明もできないので、ただ力でもって、軍事力でもって粉砕するしかないのです。
安倍は「罪を償わせる」といった、まるで封建時代にしか通用しないような野蛮な言葉で、テロリストと闘っていると自分でも思い込み、国民にも思い込ませたいのです。しかしこんな空疎な言葉は、日本の労働者、勤労者とアラブ世界の労働者、勤労者の間に反感と対立の種をまくだけであり、民族主義や国家主義を煽って、諸国の労働者、勤労者を相互に対立させ、争わせようと策動しているのです。
安倍政権は人質殺害に対する自分たちの「責任」を棚上げして、テロリズムに対して国民が一致しなくてはならない、国民が意見をたがえたり、分裂していたらテロリストを助け、彼らが付け入る隙を見せることになる、といったキャンペーンを張り巡らせています。安倍一派や反動たちが国民全体を軍国主義のコースに誘導しようとするときに、いつも使うお決まりのやり方です。
しかし安倍政権の軍国主義国家と帝国主義的外交政策が、イスラム国のテロリストたちの攻撃を招いている一つの最も明白な原因だとするなら、安倍政権とその天皇制軍国主義の政治を告発し、それに断固として反対する闘いを展開し、発展させて行くことこそ、テロリズムと闘うほとんど唯一の、まともで、正当な道なのです。我々が本当に恐れなくてはならないのは、イスラム国である以上に、安倍政権の帝国主義への傾斜であり、“前進”なのです。
後藤は、イスラム国に入る前、これは自らの責任と覚悟と判断でやることであって、仮に自分が死ぬとしても、自分以外の誰の責任でもない――イスラム国の責任でさえない、ということです――と明白に語っていました。つまり、安倍らが今しているように、自分の死を口実に、ヒステリーじみた扇動に走り、帝国主義的策動にふけってくれるなと、安倍らの策動までもあらかじめ見透して、事実上、安倍一派や反動どもにくぎを刺していたのです。
安倍の言う「民主主義」とは
安倍の専制でしかない
すでにマスコミ界は“戦時色”
2015年1月29日
安倍は25日、NHKの番組で、敗戦後70年の「首相談話」についての考えを発表し、村山談話は「全体として受け継ぐ」が、具体的には安倍内閣の観点で書く、「植民地支配」とか、「痛切な反省と心からのお詫び」とかいった言葉は使わない、そんな「こまごました」議論はしないと語りました。
これまでの観点を有名無実化し、安倍の天皇制軍国主義の戦争を美化し、正当化する観点から、それを“巧妙に”隠し、ぼかしながら「首相談話」を発表し、今後の政治外交をそれで“しばり”、左右しようという陰険な意図を明らかにしたと言うことでしょう。教育基本法とかで繰り返してきたやり方です。
敗戦後の体制(レジーム)を「脱却する」、「総決算する」と言いながら、敗戦後の「民主主義」についておしゃべりをしていますが、言行不一致で、誠実さは爪の垢ほどもなく、全く欺瞞的で、品性低劣な悪党です。
最近のサザン騒動と爆笑問題の小渕優子への嘲笑(ボケ)などをきっかけに、はびこる放送統制も次々と暴露されていますが、こうした現実は安倍の言う「民主主義」とは安倍の専制でしかないという真実を教えています。
日本のマスコミ界はすでに物言えば唇寒しで、まさにマスコミが“戦時色”に塗りつぶされているといって決して言いすぎではありません。
サザンの桑田の意思を語るかのような最近――とりわけ、天皇や安倍政治を揶揄し、批判する――のあれこれのパフォーマンスは、ネット右翼の集中攻撃、バッシングを受けて、早々に「おわび」をしてしまいました。桑田の限界のためか、所属事務所の経営防衛優先のためか、その両方のためかははっきりしませんが、桑田は「おわび」によって、せっかくの名誉と尊敬を勝ち取る機会を自ら失ったと言うしかありません。
他方、爆笑問題の太田のボケは、小渕優子をちゃかしたものでした。「小渕優子さんなんて当選した瞬間“小渕ワイン”で乾杯。ルネッサンス!その後、だるまの目にドリルで穴を開けて……」といったものでした。小渕陣営が、地元でワインを配ったこと、また選挙法違反の嫌疑で家宅捜査を受けたとき、その妨害を策して、パソコンをドリルで破壊したことを材料に、悠々?当選した小渕を笑い飛ばしたのですが、そんな太田らの立派な“芸”にも籾井らが腹を立てたのか、正月のNHKの「初笑い」の番組では、NHK側が政治家ネタにNGを出したのです。
籾井は、その後の記者会見で、「自分はこの件には全く関与していないが、(政治家の?)個人名を挙げてネタにするのは品がない」と言ったということです。こうした発言自体が、NHKにはびこる言論統制――やたらと皇室関係の報道が多くなった等々も含めて――を語って余りあります。
そのほかにも、宝田明も、昨年12月のNHKの番組で、自分の幼少年期の経験を披露して、「戦争は人間の大罪」と発言し、「総選挙で間違った選択をしないように」と発言した途端に、男性アナウンサーに発言を遮られた経験を語っています。
宝田の発言は以下のようなものでした。「無辜(むこ)の民が無惨に殺されるようなことがあってはいけませんね。国家の運命というのは、たかが一握りの人間の手によってもてあそばれている運命にあるんですよ。だから間違った選択をしないよう、国民は選挙を通じて、そうではない方向の人を選ぶのか、あるいはどうなのか……」といったもので、ここまでしゃべったとき、アナウンサーが事実上発言を切り上げるように介入したというのです。宝田はしかしアナウンサーが終わらせようとしたのをかわしつつ言葉を継いで、「声を大にして、戦争を絶対起こしてはいけないと言うことをメッセージし続けていきたいと思います」と、言い切ったということです。
宝田の発言は自由主義的、平和主義的な決まり文句であって、今さら禁止するといったほどの内容は何もないのですが、こんな発言さえも神経質に弾圧し、排除するムードがはびこってきているのです。まさに「忍び寄る」ファシズム、といったところです。 きれい事を“雄弁に”(つまり空疎で偽善的な美辞麗句を)ペラペラしゃべって、労働者を煙に巻き、無力化しつつ、ブルジョアやプチブルたちをうっとりさせ、国家主義で日本を染め上げようとする安倍政権に対する闘いを強化していくしかありません。
天皇制軍国主義には無反省なくせに
安倍にナチスを批判する資格などない
2015年1月23日
安倍や天皇らは本当に厚顔無恥の悪党たちです。
戦犯昭和天皇の息子は昨年秋無神経にも、多くの日本人兵士が激戦の中で無意味に死んだサイパンに「慰霊」のために出かけましが、戦犯岸の子孫の安倍もまた、19日にイスラエルのホロコースト記念館を訪れ、「特定の民族を差別し、憎悪の対象とすることが、人間をどれほど残酷にするかを学んだ」としおらしく語りました。
こうした安倍のパフォーマンスの裏は、30年代、40年代の「人道に対する罪」はドイツにのみ関係したことで、ドイツの同盟国であったとしても日本とは全く無関係で、東京裁判で告発された悪事も全て言われなき詐術で、戦勝国の報復措置にすぎなかったと思いこんでいるのです。だから安倍は、天皇制軍国主義の日本が何万人もの朝鮮人の若い女性を戦地に性奴隷としてかり出し、動員したことも「人道に対する罪」とは少しも思わないのであり、そんな現実を、たまたま朝鮮の若い女性達が売春と金儲けのために自由意思で出かけたことだとして済ますのです、朝鮮人女性の性奴隷化の根底に、ナチスと同様の卑しい他民族蔑視がなかったと思い込むことができるのです。
しかしナチスのユダヤ人差別や蔑視は、天皇や東条らの朝鮮人蔑視と本質的に同じであり、ナチスの諸民族、諸国民の奴隷化のための戦争は、天皇制軍部の中国を初めとするアジア諸国民の奴隷化の戦争と、その本質と性格において、本質的にどんな違いもありません。
安倍がドイツのナチスのしたことはひどいというなら、天皇制国家が15年戦争でやったこともまた同じでしかありません。
だが彼等は厚かましくパラオでもハワイの真珠湾でも、ホロコースト記念館でも訪問し、そうした悲劇や惨禍には自分たちは無関係だという顔や態度を誇示するのです。日本人の恥をさらけ出すこうした茶番を、労働者は一日といえども許しておくことはできません。
|