共産党、「自共対決」から「全野党共闘」へ
「共闘に独自の立場は持ち込まない」は“解党”宣言と同じ
2017年1月20日
共産党は3年ぶりの党大会を開催し、彼らにとっての「地獄への道」つまり党の自壊への道をさらに確認し、堕落と裏切りの路線を加速させつつあります。
党大会には、民進の安住や自由の小沢といった、汚濁のコケさえこびりついたような政治家を招待して浮かれただけではない――大会の壇上で、4人の党首の、場違いで、醜悪で、破廉恥な姿を世間にさらけ出していました――、他の野党に、「共闘に共産党の独自の立場を持ち込まない(実践的に、それを放棄する)」と約束するなど、すでに自立した、独自の党の呈をなしていません。自ら〝解党〟の宣言をなしていると同然であって、民進党のブルジョア分子からは、そんなに一緒にやりたいなら、党名を変更してから来いと言われるような、情けない体たらくです。要するに民進党などと同様な政治的、階級的な立場に接近し、追随しようという、階級協調主義であり、資本の支配する社会への屈服、融合でしかありません。
共産党は誤解されている、そんな「反共主義」や誤解を解くためには、中国共産党に対して厳しい立場を明らかにしなくてはならない、「中国共産党には大国主義、覇権主義という誤りがあらわれている」などと、いかにも中国共産党のやり方に反対であるのを見せかけますが、それは社会主義でありながらの、単なる「間違い」だというのですから、中国共産党の労働者や弱小民族への野蛮な支配や搾取を正当化しているも同然であり、支離滅裂、自らの立場の愚昧さや混乱、矛盾を国民の全体にさらけ出し、ますます国民の中にある誤解の「反共主義」、実際の「反共産党主義」を助長し、強めているだけです。
「自共対決」から一転して、「野党連合対自公」の図式に転換したのですが、すでにそんな路線は、参院選において決定的に敗北し、共産党の停滞をもたらしたというのに(比例区で、800万票とって、議席も3名ふやす云々が、とらぬ狸の皮算用に終わった)、志位は単に共産主義者でも、いくらかでも賢い人間でも無いばかりか、全く愚鈍な政治家だと結論するしかありません。共産党の政治的、思想的な頽廃と堕落は加速しており、この党の最終的な破綻が暴露されるのも決して遠い先のことではないでしょう。
我々は断固たる労働者の階級政党として登場し、闘いを貫徹することによって、彼らの自滅を促進し、一掃するのみです。
トランプのファシスト的本性露わに
安倍はそんな彼を「信頼」し「同盟」強化を叫ぶ
2017年1月14日
トランプの当選後初の記者会見は、世界の労働者、勤労者に――と言うより、世界中の人々に――恐怖さえ抱かせました、つまりトランプにまさにファシズム的人間を見い出し、そんな人物が世界でも1,2を争うブルジョア大国の大統領にまで成り上がったことに、深い危機意識を与えずにはおきませんでした。
安倍はそんなトランプを「信頼する」とすでに断言しましたが、今や、そんなトランプとの「同盟」を強化するために狂奔し始めています、しかしそんなものが仮に生まれたとしても、それはかつてのファシズム国家、ごろつき国家だったドイツやイタリアのファシズム、そして天皇制軍国主義、ファシズムの日本との同盟のようなものにしかなり得ないのは一つの必然です。しかもかつての日独伊の同盟がドイツに従属するようなものであったように、新〝三国同盟〟はトランプのアメリカが牛耳るのですから、安倍はムッソリーニと同様に、トランプに従属し、意のままに繰られるような、屈辱的な地位に置かれるのもまた明らかです。
そんなろくでもない同盟に、反動的で、軍国主義的な国家との同盟に、日本の労働者、勤労者が与(くみ)し、賛成することは決してできません。それは労働者、勤労者にとって、民主主義体制の否定に止まらず、専制政治であり、新しい戦争以外何ものでもないからです。
トランプはロシアのプーチンがアメリカの大統領選挙に介入し、トランプの当選を助けたことも承認しました、つまりそんな謀略によって選出された大統領に、どんな正当性と権威があるというのでしょうか、持てるというのでしょうか。つまり、すでにトランプ政権は偽りの政権、正当性の証しのない政権、否定され、打倒されて当然の政権となったのです。
今後、アメリカにおける、労働者、勤労者の、否、国民的な反トランプの闘いは徐々に、あるいは急速に発展していくし、行かざるを得ないでしょうが、それが世界的な政治的、経済的な大激動の時代につながり、そんな時代の幕を開かないと誰もいうことはできません。アベノミクス自身の崩壊も、トランプ時代中に――つまり4年以内に――起こると〝予言〟する人も出てきています。
我々の闘いの準備を早め、体制を強化し、影響力を広げ、固める闘いのピッチを速めるべき時です。
事実は消せない
「慰安婦像」で「遺憾」叫ぶ安倍政権
2017年1月8日
安倍政権は、韓国の「慰安婦像」に対して、「遺憾」であるとわめき、駐韓大使を帰国させるなどという〝大人げない〟態度を取っています。日本のブルジョアやプチブルの国家主義的、民族主義的感情を刺激し、日本と韓国の労働者、勤労者の間に敵意や反感を煽り、また政権への求心力と強め、支持率でも上げようという、さもしい下心が見え見えです。
しかし韓国民の慰安婦像の設置つまりデモンストレーションは、かつて植民地時代、韓国国民が奴隷化され、15年戦争中に韓国の女性が性的奴隷の地位にまでおとしめられたことに対する怒りと〝怨恨〟の気持ちの表現であるとともに――むしろそれ以上に――、安倍一派や反動派が、そんな事実も認めず、まるで植民地支配つまり韓国民を奴隷化したことなどなかったかに言いはやすことに対する抗議の意思表示でもあって、安倍一派や反動派の「いつまでも過去にこだわる」(つまり過去の事実や真実を認めない)態度や姿勢にこそ原因があるのです。
日本の天皇制軍国主義国家、帝国主義国家による、三十数年にもわたる韓国の植民地化、つまり韓国国民の奴隷化は歴史的な事実であり、真実であって、事実を消すことはできないし、また真実を否定することも決してできないのです。
安倍政権は「遺憾」の意などを表明し、空疎な空騒ぎをすることによって世界に日本の恥をまきちらすようなことを直ちにやめるべきです。心ある日本国民にとって、労働者、勤労者は、安倍政権は世界に顔向けもできないような、つくづく破廉恥な政権だとあきれるしかありません。
全国の労働者、勤労者の皆さん、新年、おめでとうございます
今年こそ新しい労働者党を再建し、選挙・議会闘争に再挑戦しましょう
2017年1月1日
今年は輝かしい労働者、勤労者の革命、ロシア革命の100周年です。
ロシア革命は歴史的な限界の中で、スターリン主義の国家、国家資本主義の国家(一種のブルジョア国家)に帰着しましたが、労働者、勤労者の闘いはさらに新しい道を切り開いて、全世界の労働者、勤労者の解放を目ざして進んで行かなくてはなりません。
20世紀末からの〝グルーバリズム〟資本主義の危機が深化する中で、労働者、勤労者の生活の悪化や破壊、民主主義の形骸化や喪失が進み、世界的な規模での政治的反動化が深化し、強大国による新帝国主義が発展し、ブルジョア大国間の世界的規模の大戦争さえ現実味を帯びてきています。
こうした危機の時代の中で、今や労働者、勤労者の世界的な解放はまさに焦眉の課題となっています。
昨年は米国でトランプが勝利し、英国がEU離脱するなど、世界は大きな転換点を迎えています。今年もドイツやフランスの選挙で極右勢力が進出することが予想され、どこの国家も「国益第一主義」を掲げて対立と抗争を繰り広げる、新たな政治的激動の時代の到来を予感させます。
日本では、自公政権が衆参両院で議席の3分の2を占め、偽りの“政治的安定”が演出されていますが、安倍が掲げてきたアベノミクス(2年で物価を2%上昇させ、デフレ脱却を実現する)も4年以上経過するのに経済的困難は継続し、アベノミクスは破綻しつつあります。昨年の参議院選勝利は、消費増税を再延期し、大衆の目をくらました仮初めの“勝利”にすぎず、安倍と闘うべき野党の無力に助けられた結果にすぎません。そしてアベノミクスのもと、労働者、勤労者の生活と地位はますます追い詰められ、破綻しつつあります。
民進党は蓮舫体制になりましたが、党内にはエセ〝野党〟派に加えて自民と変わらない保守派を抱えて動揺するだけで、その安倍批判は口先だけにとどまっています。共産党は「唯一の革新」とかの看板も投げ捨て、いつ労働者、勤労者を裏切ってもおかしくない――事実上すでに半ば裏切っている――民進党との共闘や協調を叫び、第二の民進党への道を突き進むばかりです。労働者、勤労者の苦悩と怒りはバラバラに拡散され、一つの大きな力となり、闘いとなって爆発してきていません。
今こそ、搾取され、差別され、生活を破壊され、辱められ、苦しんでいる労働者、勤労者の力を総結集し、長時間労働、殺人労働に象徴される搾取労働と、低賃金や身分差別に苦しむ何百、何千万の非正規労働に代表される差別労働の「即時・無条件の」一掃と廃絶を合い言葉に、労働者、勤労者自身が立ち上がるべきときです。
私たちマルクス主義同志会は、サークル的な組織を止揚して、再び闘いに立ち上がるべく、昨年、今春に新たな労働者政党を再建し、国政選挙にも再挑戦することを決定しました。 私達の壮大な任務と課題に比して、私たちの力量の微力を自覚しますが、現在の政治状況はそんな“逡巡”を許してはくれません。現実の世界と時代は、既成野党に代わる新たな労働者党の闘いを必然とも必要ともしているのです。
労働者党の政党が選挙闘争に加わり、労働者の本当の議員が何人も国会に出て行って闘うことなしには、労働者、勤労者の生活を破壊し、日本の経済や国家を破滅させ、結局は軍国主義や帝国主義に走るしかない安倍政権と闘い、現在の困難な労働者の階級的闘いの道を切り開いていくことはできません
私たちは、この春に労働者党を再建し、こうした戦いの先頭に立って闘い抜く覚悟です。 今こそ団結し、結集して、共に力強い、偉大な闘いに立ち上がりましょう。今年こそ、決定的な闘いの年です。
何のためのハワイ「慰霊」か
安倍・オバマの茶番劇を批判する
2016年12月22日
26,27日にハワイで安倍とオバマの「慰霊」と会談が予定されています。
20世紀の前半、15年間にもわたって日本が戦った野蛮な侵略戦争、帝国主義戦争の到達点でもあった太平洋戦争。その開始を告げた戦場のハワイを、安倍がオバマと共に訪れ、日本の〝闇討ち〟攻撃の犠牲者に「慰霊」を行うと言います。
一体何のために? かつて敵味方として戦った日米が、過去を水に流し、今〝恩讐を越えて〟真の同盟国として結束していることを世界に誇示するため、両国の冒した罪や異常な不正、不正義に対する、日米間にある「わだかまり」を一掃するためだそうです。
しかし日米の労働者、勤労者は今さらながら、「和解」といったことで大騒ぎする必要は何もないと言わざる得ません。 労働者、勤労者が太平洋戦争を戦ったのは、ブルジョア支配諧級や国家主義の反動らによって目つぶしを食わされ、自由を奪われ、反対の意思表示も闘いも弾圧され、他国民が悪党であり、「危険」であると扇動され、暴力でもって殺し合いに駆り立てられたからであるにすぎません。他国の支配階級を危険視し、憎み、〝好戦的〟だったのは、むしろ支配階級であって、両国民の大半はその根底で友好的であったのです。 安倍はハワイでの「慰霊」によって、「『戦後』が完全に終わったと示したい。次の首相から、『真珠湾』は歴史の一こまにした方がいい」と語っています。
つまり日米のブルジョア支配層は、今や自分たちが行った帝国主義戦争を、つまり弱小国家や民族への侵略や支配、抑圧や収奪や、野蛮な相互攻撃や無差別空爆や、核兵器や近代兵器による大量殺人等々はなかったことにし、忘れようと言うわけです。
そしてこれは、安倍にとって、オバマやトランプよりも一層切実な願望です、というのは、敗戦帝国主義国のブルジョアとして、彼らはこの70年間、屈辱と冷遇と傷つけられた自尊心に苦しんできたからです。
しかし日米のブルジョア帝国主義によってさんざんに痛めつけられ、蹂躙され、お互いに殺し合いを強要されてきた世界の労働者、勤労者は、そして抑圧されてきた世界の諸国民は、オバマと安倍の「和解」の茶番によって、彼らの行った戦争のことを忘れることはないでしょう。というのは、そうした戦争を行った社会勢力は今も強大な「軍産複合体」として、反動と国家主義の勢力として、他の国家、国民を敵対視し、戦争を挑発しつつ、多くのブルジョア大国の中に現存し、あるいは自ら再び再結集し、軍国主義、帝国主義的な政治にふけっているからです。
しかし彼らが、お互いの蛮行や悪行を「謝罪」しないことを宣言したからといって、彼らが世界の労働者、勤労者に「謝罪」しなくて済むということには決してなりません。
広島、長崎の原爆投下は、米国のブルジョア支配層の責任であり、彼らの野蛮性の象徴だというなら、それは同時に日本のブルジョア支配層の責任でもある、というより、彼らこそ先頭に立って、野蛮で、凶悪な帝国主義的侵略や戦争を世界に対して挑発したのであり、凶悪な核兵器の使用は、その一つの不可避的結果に過ぎないからです。日本のブルジョア的帝国主義者らは、どの国のブルジョア帝国主義者たちよりも、戦争の惨禍や犠牲や悲惨や苦難や絶望により大きな責任と罪を負っているのです。
だからこそ世界の――とりわけ日本の――労働者、勤労者は、世界のブルジョアたちが行った戦争を、彼らの恐ろしい犯罪を、彼らの代表がハワイに会して安直に、いい気になって「慰霊」の茶番を演出するくらいで、簡単に忘れることはできないのです。
カジノ法案、自民利した民進党
裏切り政党との「共闘」呼び掛けた共産党も同罪だ
2016年12月17日
カジノ法案が成立した。参議院で民進党は「徹底抗戦」を叫んでいたのに、榛葉参院国対委員長のヘゲモニーの下、口先だけの自民修正案を手放しで評価し、それを口実に、事実上、法案成立の手助けに転じた。商業マスコミからも「民進の対応が自民党を利した」といわれる始末である。
何しろ党内に数十人ものカジノ法賛成者がいるような党で、自民議員らと共に、促進グループを組織している。「榛葉を首にせよ、(裏切りを)不問に付してはならない」と民進が後から叫んでも、あるいは共産や公明・山口らが民進のでたらめさや動揺に憤激しても何の意味もない、民進党はそうした党だから民進なのだから。
そして共産は、民進のこんな連中を、参院選で「野党共闘」の名で国会に送り込んだのだから、民進の裏切りや変節を助けたも同然だ。 我々はすでに民進には公然と労働者、勤労者の利益を裏切って平気な議員はいくらでもいる、そんな連中を支持することは共産もまた裏切り者の中に自らを位置づけることになるが、それでもいいのかと問うて来た。
カジノ法案で起こったことは、国民連合政府か何か知らないが、そんな政府によって、共産党のいう「戦争法案」廃棄が将来国会で採択されるとき、それに反対する民進議員がいくらでもいるということだ。そんな野党共闘やその政府で、共産はどんな政治をやるというのか、やれるのか。(鵬)
「海つばめ」1291号「飛耳長目」から
(安倍・プーチン会談が終わりましたが、関連記事が「海つばめ」最新号に掲載されています。ご覧ください)。
共産党はオリンピックでなぜ語らぬか
腐敗や利権の温床、伏魔殿なのに
2016年12月10日
驚いたことに、共産党は東京オリンピックについてほとんど語らず、貝のように口を閉ざしています。腐敗、利権、メンツが絡み合い、小池の言う「頭の黒い」ネズミ――森や安倍や内田等の政治家たち――が権力や利権や地位のために策動し、共産党が批判し、暴露して闘うことがいっぱいあるというのに、です。
当初は、費用は8千億といわれ、「世界一金がかからない」と言われたのに、小池の言うところでは3兆円にも膨れあがり、政治家やオリンピック関係者やゼネコンなどが予算膨張のために策動し、仮に費用がかかっても何兆円もの「波及効果」があり、「経済成長」の切り札の一つにさえなる――その意味では、カジノと同じである――などと利益が絡んだ連中が言いはやし、無責任な話がばらまかれ、労働者、勤労者をたぶらかしながら、国家、国民をないがしろにした、不届きで破廉恥な企みが横行し、森喜朗や武藤俊郎(元大蔵・財務事務次官)などの悪党が策動しています。もちろん安倍政権が背後から彼等を支え、応援しているのは言わずもがなです。
小池の唱えた、経費削減の計画は組織委員会の森や利害関係の絡むゼネコン等のブルジョアや、政治家や、スポーツエリートや関係団体の攻撃の中で風前の灯火で、唯一残った、有明アリーナの建設を止めて、既存の横浜アリーナを利用するという、最後に残った“節約”案も崖っぷちです。何と既存の横浜アリーナを利用すれば、400億円近くかかるカネが、たったの7億円で済むというのですから、驚くべき、途方もない話です。安倍政権や森らの恐ろしい圧力にさらされながら、横浜の林市長も、辛うじて「市としては、都と組織委員会が決めたことに従う」と言っているのですから――どんどん後退し、態度を変えつつありますが――、数百億というカネを倹約することに国民のほぼ全体が賛成するでしょう。一握りのボスたちの意見で、途方もない無駄遣いがまかり通り、その背後でぼろ儲けに高笑いする悪党たちがいるのです。
まさに今やオリンピック事業は伏魔殿のような、魑魅魍魎の跳梁跋扈する世界になっていますが、共産党はまるで知らん顔で、百害あって一利さえもなく、腐敗しきったオリンピック廃止など決して訴えようとしません。カジノはどんな生産的な事業でもなく、何の富も生まないと叫ぶ共産党の志位や小池らは、オリンピックもまた同様であるということを知らないのでしょうか、それともオリンピックは膨大な「波及効果」があるというのでしょうか。それなら、カジノ事業にも「波及効果」があると、安倍と同様に、なぜ言えないのか、言わないのでしょうか。
共産党がオリンピックについて沈黙を守るのは、安倍や反動が振りまく民族主義や国民国家称揚に反対ではないからであり、また「国民」の多くがオリンピック賛成と見ているからです、つまりそれが労働者、勤労者にとって本当に利益あるものなのか、と問うより、“国民”の判断がどんなものであろうと、反動的であろうと、それに追随するしか能がないからです、信念も思想もない、最低最悪の迎合主義者だからです。共産党の腐敗堕落はまさにその「骨髄にまで達している」というしかありません。
▲目次
トランプ政権出現の暴く真実
破綻する「核の傘幻想」と「平和憲法」幻想
2016年1Ⅰ月26日
アメリカ大統領にトランプが選ばれることによって、日本国家の“隠されてきた”秘密が暴露され、したがってまたそんな国家を前提にして偽善的で、空っぽの平和主義などに溺れてきた、日本のブルジョアやプチブルの立場の偽善が、その根拠の薄弱さやジレンマが明らかになりつつあります。自民党政権の、安倍政権の政治的破綻、実践的破綻であり、同時に“野党”なるものの、民・共の破綻です。
日本のブルジョアは敗戦後、アメリカの庇護のもとに自らの存在を位置づけ、その中でもっぱら資本家的繁栄を享受してきました。つまりパクス・アメリカーナを楽しんできたというわけですが、それはまたプチブルたちが、つまりかつての社・共、現在の民・共がそうであったのと同様でした。彼らはアメリカの「押しつけた」憲法――偽って「平和憲法」と呼ばれている――と、それが法的に規定する体制のもとで、平和主義を弄びながら、自国だけの――自分たちだけの――安寧秩序を守ることを、自らの実践課題と心得て来たのですが、そんな存在やあり方がどんなにもろいものであり、虚像でしかなかったかを、いまトランプの登場と彼の歯に衣着せず暴露する現実によって明らかにされ、愕然とするしかないのです。
トランプは公然と日本に対して、アメリカの「核の傘」という言葉に象徴される、日本の“防衛”のためのアメリカの軍事コストを負担するか、さもなければ、自分で防衛を考えろと傲然と言い放ちます。安倍のように、日本の防衛はアメリカのためでもあり、アメリカの防衛につながるなどと必死で言っても通用しません、というのは、トランプはそんな繰り言に聞く耳を持たないからです。トランプの意図は、アメリカのために、日本からより大きなカネを引き出すための詐術であり、取り引きだと言って見たところで、トランプの言葉にある“一抹の”実を、つまり日本がその国家的安全の根底をアメリカの軍事力に、つまりパクス・アメリカーナの体制に依存していること、アメリカの事実上の“従属国家”――共産党のいうように、「半植民地国家」であるかどうかはさておくとしても――であること、そしてそうした国際的な地位によって、もう一方の帝国主義的強国の中ロに対峙して、「平和と安全」を保障されているということを否定することはできません。
日本のブルジョアはいくらかでもトランプに抗し、対決する気概があるとするなら、断固として立ち、核武装も辞さず、北朝鮮の金王朝などに――あるいは最近のフィリピンのドゥテルィテに――学んで、「自主防衛」の道を歩むしかありませんが、安倍政権にそんな“勇気”も、また実力もないことは明らかです。安倍が最近、国際会議などで大きな顔をし、虚勢を張れるのも、ただアメリカの後ろ盾があるからこそ、その限界内でのことであるのは、トランプのすげない態度によってたちまち明らかにされたのです。頼みの――あるいは、自慢の――安倍の外交・防衛政策も、その独りよがりの本性を暴露してたちまち動揺し、行き詰まり始めました。
石原愼太郎のように、日本はアメリカの「妾」だと僻み、いらついてみても、また椎名悦三郎のようにアメリカこそが日本の「番犬様」だと虚勢を張って見ても、核兵器の一発さえ有しない日本が、国際政治の領域では金王朝以下の、無力な存在に留まる――留まらざるを得ないのは――のは明らかです。
トランプはアメリカの“目下の”同盟国、つまり従属国である日本の地位をよく知っており、オバマなどと違って、日本をまさにありのままの存在として扱い、日本の立場や思惑など全く考慮せず、TPPなど「アメリカの国益に反する」と、いとも簡単に廃棄するし、また日米同盟よりも中国との取り引きに走りかねないのですが、それは安倍の体面だけの外交・防衛政策の根底を脅かすのです。
そしてまた、トランプは日本に、アメリカの軍事力に依存するなら、高価な貢ぎ物を出せ、さもなければ、国家防衛を自らのこととしてなせ、と脅迫することによって、日本のプチブルたちの神聖なる憲法や9条の神話を粉砕し、彼らが絶対視し、安住する「平和」が、パクス・アメリカーナ、つまりアメリカの覇権の下での偽りの「平和」でしかないことを突き出すのです。
「アメリカ第一主義」を掲げるトランプの圧力によるにせよ、またアメリカが当てにならず、頼りないという、“内在的な”要求や衝動によるにせよ、安倍政権のもと、日本の軍拡主義に拍車がかけられることは一つの必然です。トランプがNATOに対すると同様に、国民(国内)総生産の2%を軍事費にまわせといった要求を日本に突きつけるなら、共産党が「人殺し予算」と呼んだ、日本の「国防費」は現在の5兆円程度からたちまち10兆円ほどに倍増することになります。
ブルジョアの日米安保体制べったりも、民・共の憲法9条の神聖視(無力な、いつわりの平和主義)も、まさにトランプの出現によって、すべて見せ掛けであり、「はだかの王様」と同じであることが暴露され、その欺瞞的虚偽とむなしい願望にすぎないという真実が明らかにされるのです。
労働者、勤労者の国際主義と世界革命こそが唯一の真実であり、矛盾し、混沌とするブルジョア世界からの唯一の脱出であり、困難の究極的な解決であることを確認しなくてはなりません。
▲目次
「妖怪」生み出す現代資本主義の危機
トランプは安倍であり、安倍はトランプだ
「まともな人が誰一人予想しいていなかった」トランプがアメリカ大統領に成り上がったと世界中が仰天、大騒ぎである。1933年、ヒトラーが政権を掌握したときも、世界はかくあったかと思うほどである。もちろん安倍やトランプはまだヒトラーではないだろうが、それに似たものであり、世界が、人類が再び三度、そんなものによって牛耳られ、その圧制下に苦しまなければならない危険性を、一種の歴史的、社会的な必然性――もし労働者、勤労者の、そんな危険な傾向を一掃する断固たる決意と闘いがないなら、彼らの跳梁跋扈を許すなら――を示唆していないだろうか。
安倍の出現が決して単なる偶然ではなかったと同様に、トランプの場合も同じである、否、今や世界中に、トランプや安倍のような政治的賭博師やデマゴーグや“大衆迎合者”、オポチュニストやポピュリストらがいくらでも登場し、幅を利かせ、野望に燃えてうごめいている。
ブルジョアやプチブルや寄生人種だけではなく、つまり本来、安倍やトランプを支持する“保守的な”階級、階層だけではなく、種々の貧困層が、そしてまた頽廃していく、あるいは自覚の乏しい、遅れた労働者の一部もまた、安倍やトランプといった典型的なブルジョアや金持ちのエリートたちを、まるで自分たちの味方、代表であるかに歓呼して迎え、歓迎するのは、トランプの主張に、彼らの心に訴える、深刻な、どうでもよくない真実があるからである。
例えばトランプは、日本がアメリカの牛肉に38%の関税を課すなら、日本の自動車に38%の関税を負担させよと主張するのだが、そんな扇動が世界的な競争によって追いつめられた、遅れた労働者の心をとらえるのである。
トランプは、安倍が日本の農業は大事だ、それを守り、農民の「雇用(仕事)」を守れ、というなら、なぜアメリカは保護貿易によって、アメリカの自動車労働者の雇用を守れと言わないのか、言って間違っているのかと叫ぶのだが、安倍は――もちろん、TPP交渉を進めたアメリカの政治家たちでも同じだが――、こうした問いに答えることは決してできないのである。
保護貿易によって、つまり農業の保護によって「国益を守る」と、安倍は“国内向けの”美辞麗句をさんざんに言いはやしつつ、他方では、TPP(それが仮に自由貿易を意味するとして)によってもまた、「国益を守る」というのだが、トランプはつまり安倍の、日本のブルジョアのこうした欺瞞や矛盾を突くのであり、自らの「アメリカ第一主義」を正当化するのだが、安倍批判には確かな真実があるとするなら、アメリカの自動車労働者がトランプに拍手喝采を送るのも一つの必然であろう。
そしてアメリカの自動車労働者がすでに帝国主義国家の労働者として、ますます特権的で、保守的な“ブルジョア的”労働運動――レーニンなら、激怒して“帝国主義的”労働運動とさえ、呼んだろうが――しか知らないとするなら、なおさらである(だから、安倍政権はその卑しい保護主義によって、トランプの勝利を助け、貢献したといえるのである。安倍政権の国家主義、民族主義がアメリカの国家主義を挑発し、跋扈させたのだが――この点では、共産党も同罪である――、反対に、労働者、勤労者の国際主義は、世界の労働者、勤労者の国際主義を助長し、強めるのである、だからこそ、労働者は揺るぎなく自らの国際主義的立場を固持するし、しなくてはならないのである)。
アメリカの“労働運動”は帝国主義的ブルジョアと協調し、そのおこぼれを要求するが――何という意地の汚さか、何という矮小さ、近視眼か――、その要求の中には、保護主義が最優先の課題として持ち出されてきた。しかしそれは日本の農業者たちが、ただブルジョア政府の保護貿易主義に頼り、それによって生き延びようとしてきたのと似たようなものであった。
だからトランプの勝利を助けたのは、堕落して労使協調に明け暮れてきた、ブルジョア労働組合運動の担い手たちでもある。
もし自由貿易で利益を得ようとするなら、それを本当に「国益」としようとするなら、それを徹底するしかない――もしそうでなかったら、自由貿易の利益などについて語るべきではない――、とするなら自由貿易の旗印に隠れて保護貿易主義に走ることほどの矛盾やインチキはないのだが、しかし安倍は日本には保護貿易(高関税)を、外国には自由貿易(ゼロ関税)を要求するのだから、トランプらデマゴーグたちは、安倍のやることをアメリカがして何が悪いのか、「国益」をいうなら当然のことではないのか、アメリカを日本や中国の搾取――TPPはそのためのものである――のままに放置してはならない、外国から保護主義でもってアメリカの産業と雇用を守れと騒ぐのであり、労働者、勤労者をデマゴギーで絡め取ろうと策動するのである、つまり産業の衰退や失業や労働者、勤労者の生活苦はブルジョアたちや資本主義の競争体制、搾取体制、差別体制にあるのではなく、外国の搾取や収奪や、さらには“移民”――その多くは貧しい中南米やアジアやアフリカ等々から来た労働者の同胞である――、つまり黒人や黄色人種にあるのだと排外主義や愛国主義を、“差別主義”を――ヒトラーに究極的な表現を見出した、人種的差別主義を、レイシズムを――叫び立てるのである。
移民(あるいは不法移民)についていえば、彼らの労働力無くして、アメリカ経済のいくばくかの「成長」も「繁栄」もなく、その大部分が失われるのだが、それは例えば中国やフィリピン等々からの急増する「研修生」なくして――日本の保守派は、この点で、不法入国の外国人について、口汚い、あることないことを並べた攻撃を行っているが、それはトランプの「不法移民」に対する中傷とそっくり同じである。もちろん彼らの重要性は、アメリカの「移民」の重要性とは比較にならないかもしれないが――、製造業や、農水産業でさえもたちまち深刻な危機を迎え、安倍のいう「経済成長」もまた危うくなりかねないのである。
そもそも保護主義を徹底させて、中国を始めとする、世界からの機械や部品などの安価な生産手段の輸入を「禁止」し、全てを国産でまかなうというなら、アメリカの有利を誇る最先端の産業や工業生産もまたたちまち麻痺し、あるいは何倍もの高コストとなり、IT産業や航空産業や武器産業等々があっという間に行き詰まり、それらの商品の価格は何倍にも跳ね上がり、アメリカの国民経済がたちまち破綻しかねないことに、つまりいくらかでも徹底した保護主義などまともにやり得ないことに、トランプは気が付かざるを得ないのである(あるいはそんなことが不可能なことをよく知っていて、大衆を扇動するとしたら、トランプらはさらに悪党である)。
トランプは、どんな原則的な思想も政治的立脚点もなく、したがってまたどんな一貫した政治も経済政策も持たないし、持ちえない政治的賭博師であり、いくらでも言動を変えていく――行かざるを得ない――デマゴーグにすぎないのだが、それは、安倍が権力欲、政権欲以外は何もない、穀潰しの反動家、“保守主義者”であり、空っぽの政治的オポチュニストでしかないのと同様である。
その意味では、トランプは偶然に大統領の権力を手にしたのであり、本人さえびっくり仰天であったかもしれないのである(もともと、彼は最初から「泡沫候補」ということで、やれるところまでやってやろうと気楽に考えていただけだったから、つまりクリントンのように、エリート意識や権力意識や野心がこれまではなかったから、「負けてもともと」と、どんな批判や毀誉褒貶〔きよほうへん〕にもひるまず、思うがままに突き進んだから、それが彼に幸いしたともいえるのだが)。
しかしだからといって、彼がたまたま手にした権力に執着しないという保障は何もなく、彼の八方美人的な、あるいはその場限りの政治や経済施策がたちまち行き詰まり、破綻に直面すればするほど自らの権力にこだわり、それを維持しようと狂乱しかねないことも十分にあり得る(安倍らと同様に)、つまり彼はたちまちレームダック状態になりながら、少なくともあと4年も権力の座にしがみつき得るのだが、それはアメリカの国民(とりわけ労働者、勤労者)にとって、そして世界の労働者、勤労者にとって、どんなに損失であり、不幸であり、悲劇でさえあり得るかは、日本の09年の民主党政権が1年といわず、たった数ヶ月でレームダック状態に陥りながら、3年間も醜態を演じ続けたことを思い出すだけで十分であろう。
トランプのような政治的詐欺師に限ってほとんど例外なく、権力をたまたま握ると、国民を自分の権力の下に従属させ、囲い込もうと専制的に振る舞い、ますます愛国主義や排外主義の扇動や鼓吹に走り、そこに活路を求めるのであり、そして最後には、ヒットラーや天皇制軍部がそうであったように、展望があろうがなかろうが反動戦争に賭けるのであり、勝利を夢想するのだが、もちろんそれは労働者、勤労者にとっては――若者や国民の全体にとってさえ――、かつてのドイツや日本の国民がそうであったのと同様に、どんな希望のないファシズムと反動戦争、帝国主義戦争の世界や時代、暗黒と死の世界や時代を意味することになりかねないのである。
トランプの勝利が何を意味するかについては、語られるべきことはいくらでもあるが、しかしそれが単にアメリカに留まらず、人類史の新しい激動と混沌と闘いの時代を、従って革命と反革命の時代を、そしてまた大規模の戦争の時代を切り開いたことは確かであるように思われる。
トランプの勝利によって、アメリカは――したがってまた世界も――資本主義の深刻な危機の時代を、世界的に階級闘争の激化していく時代を、したがってまた革命と反革命の時代をはらんだのである。
▲目次
押しつけ憲法と朝日新聞
自由主義派の意味不明の現行憲法弁護論
2016年1Ⅰ月4日
日本憲法は「押しつけ憲法」ではないといった、たわごとが共産党や市民派や自由主義的マスコミやインテリによって振りまかれている。彼等はものごとを本当の姿で見ることさえできないのである。彼等がこんな愚劣なことにこだわるのは、現行憲法を絶対化したいから、無条件で擁護したいからであって、そんな色眼鏡で見れば、現行憲法は、押しつけ憲法であっては困るのである。つまり事実の問題ではなくて、彼等の願望の問題であるにすぎない。
事実戦後憲法に付いて言えば、アメリカ占領軍が、つまりマッカーサーの総司令部が原案を提示し、それをもとに(大部分は原案のままに)、日本側の、つまり時の幣原内閣や松本大臣らの抵抗を許さず、いわば占領軍の“絶対的な”権力を背景に強要したのであって、その事実は、憲法の性格や内容とは別の問題である。
押しつけ憲法論に反対する連中は、米国側は、日本の“民間の”勢力が提起していた、“民主的な”憲法草案を「参考にした」とか、第9条の“絶対平和主義”は日本の幣原らの見解が反映されたとかいいはやすが、「参考」にされたとか、「反映された」と言ったことは、現行憲法が事実上、マッカーサーが作り、日本に「押しつけた」ことを否定するものでは少しもない。
例えば天皇制が残ったことや、“象徴”天皇制に「生まれ変わった」ということ一つとっても、それが日本の側の――どんな日本側の勢力か知らないが――見解であったなどと言うことは、決して証明されないであろう。
そもそも反動側は、そんなおかしな、中途半端な天皇制など全く望んでいなかったし、労働者、勤労者は天皇制の廃絶こそを要求していたのであって、天皇制を残すということ、しかもただ“象徴”天皇制という、中途半端で、わけの分からないものとして残す――イギリスの制度でも頭に置いたのであろうか――ということは占領軍の、マッカーサーの意思として憲法に盛り込まれたことは余りに明らかではないのか。
“象徴”天皇制を残したのは、何とか反動派――当時、軍部政府にとって代わった、エセ“自由主義派”の権力は、天皇制の問題でも、それまでの「国体」概念に合致したものとして残すことしか考えていなかった――までもたらし込み、妥協させてマッカーサーの占領政策を強行するために必要とされたのであって、憲法が押しつけ憲法であることを象徴し、明らかにしているのである。
もし現行憲法が、押しつけ憲法でないというなら、天皇制がなぜ、何のために残ったかを、市民派やリベラルや、そして憲法問題でも労働者、勤労者を裏切る共産党は明確に説明すべきである。
朝日は「押しつけ憲法論は現実逃避」と、分けの分からないことを書いているが(11月3日号)、自らを省みて、そんなことを言うべきであろう。「現実逃避」をし、歴史の明瞭な真実から目をそらせているのは、腰の据わらない自由主義的マスコミではないのか。「日本国民の意思も部分的に織り込んで制定された」などとも主張するが(11月4日号)、しかし現行憲法では、確かにブルジョアや反動派の天皇制への執着という「意思」は十分に尊重されているが、天皇制廃絶という労働者、勤労者の「意思」は捨てて省みられていないのである。こうした憲法は、まさにマッカーサーが、それを望み、意図したからでないとでも言うのか。
それなら、朝日はこうした問いに対する、自らの解答を示すべきであろう。天皇制廃絶をマッカーサーが「押しつけた」としても、当時の状況からして、「国民は歓迎して受け入れた」こともまた、確実であった。
国民は一層、新憲法に感激し、新時代の到来を信じたことは明らかであって、朝日は天皇制条項が新憲法になかったら、そして新憲法が「国民主権」から始まっていたら、そんな一貫した憲法を喜々として受け入れる代わりに、暴動でも起こしたとでも主張するのか、することができるのか。
要するに、押しつけ憲法論に向きになって反対するなら、朝日も市民派も共産党も自己矛盾の泥沼に足を取られる以外ないのである。
反動派は沖縄県民を「土人」と侮辱
警官を擁護する大阪知事松井を糾弾する!
2016年10月23日
沖縄県人を「土人」とか「シナ人」と呼ぶ、大阪府警の警察官が出た。維新党の支配下にある警察組織の本質を暴露して余りある。
沖縄県民は国民であって国民ではない、つまり半国民、差別された存在である。それは歴史的に、自らの国民的、国家的自主性(琉球王朝等々)を暴力的に否定され、薩摩藩の植民地的支配下に置かれ、明治維新と共に、つまり奇形児的ブルジョア革命と共に、日本の国家の中に編入された日本国民の一部、半国民であり、それ故に「土人」とか、「シナ人」などと呼ばれるのだが、それは例えば日本国家に編入され、取り込まれた台湾の高山族(「国民」の一部なら差別され得ないはずだが)の、反動化する日本の帝国主義国家への反乱(1930年の霧社事件)が、「土人」の反乱等々と称せられたりしたのと同様である。
しかもこともあろうに、維新党の松井大阪知事は、「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命、命令に従い任務を遂行していたのが分かりました」などと暴言を吐いた警官を擁護し、むしろほめたたえたのである。誰が日本国民の中に分断を持ち込み、国家的解体を持ち込み、促進しているかは火を見るよりも明らかである。
沖縄県民は「土人(国民以前の、あるいは国民に属しない「土人」)つまり野蛮人だとか、「シナ人」などと府警の警官が罵ったのに対し――「土人」とは一体、どんな人々のことか。いわれている「土人」なる者の方が、松井や粗野な警官たちよりもはるかに上等な人々でないとどうして言えるのか――、「不適切な表現」だというなら、どう呼べば「適切な表現」なのかを、松井は国民の全体に直ちに明らかにすべきである。
かくして差別された沖縄県民の、日本国家への反乱や闘いは、ただ賃金奴隷として抑圧され、搾取労働に苦しむ労働者階級との共通の闘いとして現れるのであり、現れざるを得ないのである。あるいはブルジョア国家によって差別され、抑圧される沖縄県民の闘いは、全体としての日本労働者階級の闘いと結びつくことによってのみ、その差別された地位と立場を一掃し、粉砕できるのである。
日本国家が、沖縄県民を侮辱し、蔑み、あたかも国家の奴隷であるかに差別的に扱うなら、沖縄県民の国家への反乱は不可避であり、労働者階級は差別され、抑圧された沖縄県身の立場とその闘いに全面的な連帯と共感を寄せ、それを擁護し、弁護するだろう。
天皇制廃絶のスローガンを断固掲げよ!
「特例法」も皇室典範改正も因循姑息だ
2016年10月15日
天皇が自分の意思を表明したので、「政治」はてんやわんやです。
天皇の「生前退位」の意思表明はただ天皇一家の天皇制維持の野心から出たものであって、それは、憲法が“象徴天皇”に唯一認めた「国事行為」を超えていく、半ばあるいは徹頭徹尾政治的な意味を持つ、天皇の「公的行為」――戦没者の慰霊のための行脚等々――を正当化、合法化を意味するもの、それをもってして、天皇制の存在意義と延命を確かなものにしようとするものすぎません。天皇一家もまた、自分たちの地位が決して安泰でもないし、安定しているとも思っていないのであり、今や反動的で、有害な役割しか担うことのない、天皇制廃絶という、労働者、勤労者の歴史的にも、現実的にも全く正当で、必然の要求を恐れ、それに絶えず怯えるし、怯えざるを得ないのです。
しかし憲法によって、国家と「国民統合」の象徴であると規定されたからには、すでに天皇は戦前と同様に人間ではないと規定されたのです、つまり意思を持たない国旗や国家と同様な存在であるということです。人間の場合も国の象徴と言われる場合もありますが、それは出自とか血筋としてではなく、その人の仕事や行為等々によってであるに過ぎません。天皇一家が、多くの諸民族や諸種属等々の混合、“雑種”として形成された日本人――そもそもいくらかでも大きな「国民」で、“雑種”でない国民はほとんど存在しないでしょうが――の「象徴」であるということは、科学的には全く証明され得ないのです。それに現実の日本人は階級的、思想的に分裂しており、“千差万別”であって、一人の人間が国家、国民の「象徴」になれるはずもないのです。そんな虚像は、資本の支配やファシズムのもとに国民を「統合」しよういう安倍一派や国家主義派のためのイデオロギーでしかありません。
天皇が国の象徴であるという虚像を強要するために、憲法は「天皇の地位は、主権の存在する日本国民の総意に基づく」といったことがもっともらしく謳われていますが、そもそも憲法の天皇制条項は、アメリカ占領軍が、つまりマッカーサーがその権力を背景に日本に「押しつけた」ものであって、最初からずっと「日本国民の総意」もクソもなかったのです。何をもって「国民の総意」というか知りませんが、敗戦直後の日本国民には天皇制についてのどんな「総意」もなかったことほどに明瞭なことはありません。
当時のブルジョア支配階級は、軍部専制のファシズム体制は否定していましたが、天皇の権力つまり「国体」の廃棄などまるで考えていなかったことは、あらゆる証拠からも明らかです。そして共産党や社会党の日和見主義やアメリカ占領軍への美化や追随のために、その意思は決して明確で、強力な政治的、組織的要求として現されていなかったにしろ、労働者、勤労者の中には、東条英機にも劣らないような「戦争犯罪」の当人そのものである天皇や天皇制に対する怒りや反発、その廃止の強い意思が広く存在していたのです。このことはマーク・ゲインの「ニッポン日記」の中にも明瞭に記されています。
そしてその後も、一度として、天皇制が「日本国民の総意」として確認されたことはないし、またそんなことはあり得ないのです。仮に国民投票で天皇制の存続が多数になったとしても、10%の反対があれば、「国民総意」と行ったことにならないのは余りに明らかです。
まして、安倍一派や反動派は、憲法はアメリカが押しつけたものであって、日本国民の意思によるものではない、と頑強に言い張っている――つまり憲法国会での承認も、意味も意義も有しないと、事実上叫んでいます――のですから、彼等にとって、象徴天皇制は“合法的に”存在すらしていないのです。
天皇が本質的に「象徴」と規定された時から――天皇制を絶対化する点では、旧憲法と同様だが、しかし「象徴」と第一義的に規定することによって――、天皇制の矛盾は解消するのではなく、一層複雑になり、拡大し、非概念つまり一種の妄想となったのです。
今や天皇は非人間的な抽象物に転化しましたが、他方では、生きた人間だというのです。天皇は憲法で定めた「国事行為」をすることのみが許されるが、それ以外は、人間としての自由な意思や行動は許されないというのです。かくして天皇が自由に意思表示を行い、自由な言動にふけることは、天皇をやめる以外不可能であると、憲法は事実上謳うのです。素朴な世論は、高齢の天皇に同情し、天皇の自由意思を尊重せよと言うのですが、天皇は本心から自由な意思を望むなら、自ら天皇制の廃絶を宣言すればいいのであって、なぜ天皇はそうしないのでしょうか。国事行為はともかく、「公的行為」などというものは、天皇として、やる必要もないもの、政治的行為と紛らわしいものであって、天皇制の趣旨にそわないもの、天皇の安易にやっていいものではありません、それは労働者、勤労者にとって有害で、“危険”でさえあるもの、憲法で許されていないものというべきなのです(憲法の趣旨にそうなら)。
そんなものを持ち出して、「生前退位」などを言い出すのは、それが天皇制と天皇一家の居心地のいい地位や、ちやほやされる虚飾の名誉や、数限りない特権や、優雅な寄生的生活等々のためでないとするなら、つまり天皇と天皇一家のエゴイズムのためでないとするなら、一体何のためなのでしょうか。
そもそも現行憲法の、国民は出生や血筋等々によって、決して差別されてはならないという規定は、どこへ行ったのか、何のためにあるのでしょうか。戦後「華族」――天皇一家の藩屏、取り残されてきたアナクロニズムの「貴族」階級――が一掃されたのに、頭だけを残したのは、二乗されたアナクロニズム以外の、何ものでもありません。象徴天皇制など、まるで非合理で、かたわもの、半端物で、ばかげている存在です。
昭和天皇や明仁天皇が憲法に規定された国事行為以外の、「公的行為」を盛んに行い、また拡大してきたのは、一方で、ブルジョア政府にとっての大きな利益と利用価値があったからであり――とりわけ、日本のブルジョア的国家、天皇制軍国主義の国家が歴史のなかで侵してきた、数々の帝国主義、軍国主義の犯罪行為を「国家のためであった」と正当化したい安倍政権のような反動政府、国家主義を扇動したい政府にとって――、また他方では、天皇一族もその地位と権力と特権を守り、延命させるために、国民のために日々思い、生きているという虚飾や幻想を広め、振りまく必要があったからです。
しかし今、天皇が生前退位を言い出すことによって、象徴天皇制の矛盾が明らかになり、それを巡る議論が沸騰し、天皇制をどう評価し、どうするのかといった政治的闘いが始まり、深化しようとしています。
今や労働者、勤労者は「特例法」という安倍政権の因循姑息なやり方や、皇室典範の修正や女帝の実現といった、矮小な改良に留まらず、天皇制の廃絶という、断固たるスローガンを掲げて進出すべき時です。
安倍政権、配偶者控除廃止をまたも「先送り」
「女性の活躍する社会」とか、「一億総活躍社会」はどこに?
2016年10月11日
安倍政権は「配偶者控除」の廃止をまたまた実行しないことを、10月始めに決定しました。
この問題は、それ自体はある意味で矮小な改良に過ぎませんが――そのことは、代わりに「夫婦控除」を持ちだしていることからも明らかです――、安倍政権の言う「一億総活躍」や「女性の活躍し、輝く社会」や、“主婦”が職についたり、より長時間働いたりする「働き方改革」を行う必要がある等々の決まり文句が、真っ赤な偽りであり、女性や労働者、勤労者を欺く空文句であることを暴露したという意味で、決定的に重要です。
そもそもこうした改革の必要性、必然性は女性の「社会進出」が、つまり女性の賃金労働者化が進んできた資本主義の深化とともに課題となるとともに論じられ、実行が策されてきましたが、自民党や公明党などのブルジョア政党、プチブル政党の抵抗によって、この間ずっと、日の目をみないままになって来ました。
しかしそもそも配偶者控除廃止は、安倍政権が誕生し、安倍が調子に乗って、そしてまた女性労働者に媚を売ろうと、「一億総活躍社会」などを叫ぶ情勢の中で、自民党(党の税制調査会等)や財務省が音頭を取って、8月に持ち出したばかりの方針です。
当時、自民税調の宮沢会長は、配偶者控除も含めた所得税の“改革”について、「前回の改正から20年以上が過ぎ、女性の社会進出が強く望まれる時代になっている。配偶者控除の見直しは一つの柱になる」、「働きたい女性に社会進出を果たしていただくための後押しも考えて行かなくてはならない」と張り切り、また茂木政調会長も乗り気でさんせいし、経団連の柳原会長さえ、「女性の働く意欲を損ないかねない」配偶者控除の「年内改革」を政府に求めていたほでした。
しかし安倍政権は「主婦層」の反発を恐れる公明党の反対もあって、たちまち転向し、配偶者控除廃止をまたまた「先送り」することを決定しました。高所得者層や「主婦層」などの反発を恐れたということもありますが、それと同時に、「伝統的な家族観」にこだわる党内の反動派が反発したからでした。安倍政権を仕切る菅幹事長は、政府の「見送り」方針を説明する、6日の記者会見で次のように語りました。
「(配偶者控除は)労働意欲を抑制するとの指摘もある一方で、家族の助け合いや過程における子育てへの配偶者の貢献を積極的に評価すべきだとの声もあることも事実だ」、「家族の在り方や働き方に関する国民の価値観に深くかかることで、幅広く丁寧な国民的議論が必要だ」。
配偶者控除は600万円の所得の家庭に7万円ほどの減税をもたらし、総額6千億円ほどになっているということですが、安倍政権は高所得者層の利益には敏感で、彼等のわずかな増税にも大問題であるかに騒ぎ立てるのです(反対に、貧しい労働者、勤労者を消費増税等々で収奪するのは、「税負担を広げる、公平だ」と美化してやまないのです)。
かつて1980年には1114万世帯の専業主婦世帯は、昨年には687万にまで減少、共稼ぎ世帯は1114万世帯に拡大しました(数字の書き間違いではありません)。もちろんこの中には103万円や130万円以下で働く、何百万の共稼ぎ世帯も入っています。さらに加えて、数十万の?片親世帯もあります。
自民党は要するに、687万世帯や主婦に味方し、1200万になんなんとする世帯や女性労働者の敵になろうというのです。労働者、勤労者が、とりわけ女性労働者が、こんな政府を許しておくことができないのは当然です。思い知らせてやるのみです。
ついでに言っておけば、民主党は09年から12年まで、3年間も政権を握っていながら、そして口先では配偶者控除廃止についておしゃべりをしながら、まじめに、そして現実的なその廃止について、何ら真剣に取り組もうともしませんでした。彼等は半ブルジョア政党として、高所得者層に“ご配慮”したのですが、それは例えば子ども支援といったバラまきに精を出しながら、それには「所得制限はしない」と固執して、ブルジョア層に「ご配慮」したのと同様でした。
そんな民主党を労働者、勤労者や女性が見捨てたのは当然ですが、アホな共産党が、そんな民主党に媚を売り、迎合するのです。このままでは「世は末」と言うことになります。
「働き方改革」を通じてデフレ脱却?
経済財政諮問会議の空虚で有害なおしゃべり
2016年10月4日
安倍の主宰する経済財政諮問会議は、黒田日銀の新しい「金融政策の枠組み」――量的緩和を止めて、長短の金利を操作する金利政策重視の政策――を受けて、「働き方改革」を通じてのデフレ脱却を謳いましたが、黒田の日銀と同様に、なぜそんな“政策”がデフレ脱却――2%の物価上昇が継続的、安定的に続くような経済社会?――につながるのかを説得的に展開することができませんでした。
要するに「働き方改革」を実現して、労働生産性が上がれば、企業の収益率が改善し、そうすれば労働者の賃金もあがる、かくして消費も需要も拡大して企業がウハウハ状態になり、物価全体が上がる、つまりデフレ脱却だといった、幼稚で、空虚な循環論証ですから、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の占い同様な空文句のレベルです。そもそも「働き方改革」で生産性が上がるといっても、その主要な動機が資本のもとで労働の搾取を直接に強めるところにあるとするなら、それが単純に賃金上昇につながるなどと言えるはずもありません、賃金制度の改悪や厳しい賃金凍結や引き下げにさえ帰着することは、労働者なら誰でも知っていることです。
安倍は、「経済界全体に賃上げの動きが広がり、デフレ脱却につながることを期待すします」などと言いはやしますが、ブルジョアたちもそろそろうんざりといった感じです。そんなに賃上げがデフレ脱却の重要な契機だというなら、ブルジョアたちは5%でも、10%でも賃上げに狂奔してもいいのですが、経団連の榊原は、今年はもう安倍の賃上げ要求に安易に応じられる状況にない――というのは、アベノミクスの化けの皮もはがれ、そのつかのまの“効果”ももう消えてしまい、為替相場の上昇や経営の悪化、利潤の縮小などが目立ってきているから――、とにべもありません(賃金の3%引き上げは「経済界の目標ではない」云々)。安倍政権と癒着する“政商”――ここでは必ずしも古典的な意味で使ってはいません――の新浪などは「2%の物価上昇を達成するには、最低でも3%の賃上げは必要。日銀や政府の取り組みに対し、企業経営者が取り組みを明確にする必要がある」などとアジっていますが、ブルジョア全体としてはすでに覚めています。
賃上げで資本主義が繁栄するというなら、そんなすてきなことはありませんが、根本的に、そんなことはあり得ないからこそ、資本主義は何千万の労働者、勤労者の搾取を根底とする、敵対的な社会経済として、資本主義なのです。安倍や共産党の、賃上げによるデフレ脱却願望は破綻するしかありません、というのは、ブルジョアたちはインフレが進行する社会でもなかったら、賃上げに賛成することは決してできないからです。むしろ彼等は一般に賃上げには反対です。
仮に賃上げによって、それを契機にして一般的な物価上昇がやってきた、つまりデフレ脱却ができたといっても――もちろん、そんな見解も言い方も正しくないのですが――、賃上げは物価上昇でたちまちふっとぶか、あるいはかえって実質的な賃下げに行き着くのですから、労働者にとっては安倍の「官製賃上げ」など何の意味もメリットもありません。そんなものは労働者を名ばかりの賃上げによって誘惑し、堕落させようとするブルジョアたちの、安倍政権の“危険な”欺瞞的、詐欺的行為そのものです。
そしてたまたま、幾分でも資本主義の好景気や「経済成長」が戻って来たとしても、それは労働者の賃上げのためではありません、むしろ賃上げは資本主義の経済成長や好景気――それらは継続的、恒久的なものとしては存在し得ず、一時的、衝動的であり、また不可避的に恐慌や不況を伴い、それに転化するのですが――の結果でしかありません。
そもそもインフレ社会が労働者、勤労者にとって望ましいなどと誰が決めたのでしょうか、ブルジョア諸君の経済活動にとってさえ多くのデメリットや障害やゆがみをもたらすというのに、です。つい最近までは、いくらかでも健全なブルジョアたちはまだ商品の価格低下こそを追求し、その中に経済活動の発展、進化を、利潤の増大の契機を、社会的前進を見てきましたが、現在の頽廃したブルジョアたちは、寄生性の深化する社会経済に期待し、それを熱望することで、自らの頽廃した本性を暴露するというわけです。
破綻に向かう安倍政権と黒田日銀の政治経済政策
安倍政権と対決する闘いの準備を推し進めよう
2016年9月29日
黒田日銀の新政策は、一方で量的緩和から金利政策に重点を移すといいながら、量的緩和も継続するといい、また金利政策も一方で低金利政策、マイナス金利政策も行いながら、長期金利はマイナス金利政策誘導を止めるといった、矛盾したもの、八方美人的なものになったため、今のところブルジョアたち、とりわけ金融ブルジョアたちは様子見を決め込んでいます。しかし、日銀の苦し紛れの“政策”の破綻が顕在化すると共に、日銀に対する――したがってまた安倍政権に対する――強烈な批判と反発が不可避となっています。
量的緩和を続けると言っても、それが行き詰まったからこそ、マイナス金利政策が出てきたのですが、しかし量的緩和自体、ゼロ金利政策の行き詰まりと無力が明らかになる中でもてはやされたのであって、それは金融緩和政策がもてはやされたのが、借金財政膨張政策が行き詰まった結果であったのと同様です。
しかし今や、安倍政権が金融緩和から借金政策、財政膨張へと“先祖返り”したのと同様に、黒田日銀もゼロ金利政策へと逆行するのです。
なお悪いことに、彼等は政策転換といいながら、量的緩和も財政膨張も依然として温存し、あるいは拡大さえするのですから、要するに、やれることは邪道であろうと、結局は有害な結果に帰着するものであろうと、目先だけ良ければ何でもやるという、無原則と無節操だけが一貫しているのです。「国民経済」が、労働者、勤労者の生活がどうなろうと知ったことではないのです、重要なのは彼等の権力であり、その延命でしかないのです。そしてそれは「生前退位」を言い始めた天皇も同じ穴のムジナで、みな一蓮托生の悪友仲間というわけです。
金利政策重視でやるといっても、その内容は一方でマイナス金利は「深掘り」するが、他方では長期金利は反対にマイナスにしない(ゼロ金利を維持する)と言うのですが、そんな“小難しい”人為的なやり方がうまく行くはずもありません。
長期金利は日銀が国債を片端から、しかもマイナス金利になるように高値で買うからマイナスにまで落ち込んでいるだけであって、国債の爆買いを止めた途端に一気に高金利に走りはじめない保障は何もないのであって、ゼロ金利の水準で固定しようというような、複雑怪奇で、頭で考えただけのような政策が成功するはずもなければ、仮に成功しても何の意味もありません(つまり「経済効果」ゼロの政策です)。
そもそもマイナス金利などは、預金金利にまで徹底させようとすれば、預金は銀行から雪崩のように引き出され、金融制度が音を立てて崩れて行きかねないことからも推測されるように、ブルジョア的信用制度の根幹にかかわるような、そんな政策がまともなものとして、またいくらかでも長期的なものとして行われるはずもないのです(現代の資本主義では、銀行などもう不要だというなら、話しは別ですが)。
安倍は盛んにアベノミクスや黒田日銀の「異次元金融緩和」によって、デフレを克服したとはまだ言えないにしても、「デフレではないといった状況を作りだした」、それこそ安倍政権の経済政策の成果だ、さらにアベノミクスを最大限ふかし、加速化させる(そうすれば、最終的にデフレ脱却が成し遂げられ、日本経済は万々歳だ)、等々アジりますが、しかし残念ながら、肝心のデフレとは何かがはっきりしていないので、アベノミクスも異次元緩和も迷走し、行き着く末も見えないのです。
その方が彼等にとって好ましいのかもしれません、こうした状況が続くなら、安倍も黒田も好き勝手に、金融緩和や財政膨張によってカネをばらまき、経済の混乱や衰退と引き替えに、自分たちの権力を固め、いくらでも国民の、労働者の幻想を、否、勤労者の幻想さえも長引かせ、権力支配を延命させ得るからです。
しかし彼等は今や行き詰まって、どうしていいのか分からず、ただ一時的には効果のあったばらまき政策にしがみつくしかなく、そんな破綻した政策を「最大限」がなりたて、4年もやってみて、そんな破綻を暴露しつつある政策を強行すれば成功すると空疎な幻想を振りまき、自らの破産に向かって突撃することしかできなくなっています。
今ではブルジョアたちでさえ、我々と同様に、「(政府も日銀も)金融政策だけで、経済成長力を高めることはできないことに気付いている。しかし構造改革の難しさや厳しい財政事情、当面の心地よさなどから、日銀に、『もう十分やった、撃ち方やめ』と覚悟をもって言う人がいない。要はみなが逃げているということだ。勝機がないのに撤退できず、戦い続けた先の大戦における日独の悲劇を想起するのは筆者だけか」(朝日新聞27日、『経済気象台』、山人氏)と言わざるを得ないほどです。
安倍一派や黒田やリフレ派学者、反動派とは、かつての天皇制軍部の東条一派と大差のない愚かで、野蛮な連中、「先の大戦」の時と同様に、虚偽とデマ情報と強権を駆使しつつ「勝機がないのに撤退できず、戦い続け」て、労働者、勤労者に計り知れない惨禍や悲劇や生活破壊や不幸をもたらした悪党たちと同類だということです。
6名の「有識者」を選んだが
天皇の生前退位問題と安倍の策動
2016年9月24日
安倍政権は生前退位問題で、6名の「有識者会議」をでっち上げました。
もちろん「有識者」といっても天皇退位問題についての「有識者」らしき者は一人もおらず、安倍政権が自分たちの政策を強行したり、世論喚起のために次々とでっち上げる「有識者会議」の常連ばかりなのですから、「有識者会議」の正体は明らかです。
つまり、安倍の意図を十分に踏まえて結論を出し、安倍政権が自分に思った通りの政治を強行するお手伝い役でしかないということです。
そして安倍政権の考えていることは、生前退位問題を臨時の特別法で波風立てず、“穏便に”乗り切ろうということだけですから、「有識者」たちの出す結論も、最初から決まっており、やかましい、融通の利かない憲法学者や、保守の“原理主義者”があれこれ騒ぎ立てて――従順な民進党や共産党の方は、余り心配ないでよいとしても――、議論が紛糾し、生前退位問題が大騒ぎになり、安倍政権の処理のやり方によっては、政権に大きな疵がつく恐れさえあるのです。
実際、生前退位問題をまじめに論じ始めたら、下手をすれば寝た子を起こし、あるいはパンドラの箱を開けたことになりかねないのです。
というのは、天皇制は戦後民主主義社会に突き刺さっているアキレス腱の一つであるともいえるからです。天皇制の問題は安倍政権の“安定”や長期化のために、安全運転のために、そっとしておこう、「触らぬ神に祟りなし」というわけです。
現体制における天皇制の地位が根本的な矛盾を含んでおり、彼等は一方で、天皇の意思も無視することもできず、また他方では、皇室典範の改正など、大きな問題――皇位継承権の問題、つまり女性天皇の問題等々という、厄介な問題(というのは、安倍は自らの強力な支えである、保守反動派の意思に逆らうことはできないのです、また彼自身も反動派の意思を共有しているのです)――になりそうなこと、しかもそうなっても、安倍政権にとって何のいいこともなさそうなことをよく知っていて、そんな“危険な”問題に深入りすることは避けるにしくはないと考えるのです。
藪をつついて蛇を出す、つまり天皇制廃止の問題さえ出てきたらそれこそ大変です。ここでも、安倍は自分の本音――反動派、国家主義者らと同じような天皇制について、労働者、勤労者の顰蹙を買うしかないような俗悪観念――をひっさげて断固として振る舞い、闘うよりも、政権の安定と長期化を策すのです。
安倍と安倍一派の卑劣でこせこせ策動する、矮小な本性はますます明らかです。
都もまた“伏魔殿”だ
石原、猪瀬、舛添、三代の膿(ウミ)
2016年9月17日
築地市場の豊洲への移転問題が“大騒ぎ”になっている。土壌汚染の対策としての「盛り土」が全体の3分の1に相当する建築物の地下で行われていなかったことが明らかになり、都がウソをついていたことが判明したからである。
ここには、石原、猪瀬、舛添と三代にわたる都知事の下で腐敗と膿が溜り、誰も手出しができないような都政の闇の世界が広がっていることを教えている。
都政の闇、これは久しく言われてきたことである。元首相の小泉は、小池が「都政の伏魔殿に内田茂都議(幹事長)というドンがいる」と批判したことについて、「だいたい、(全国の地方議会は)そうだよ。自民党のボスがいるんだ。彼らは国会議員以上の力を持っている。それであんな通達(知事選で現職議員の親せきを含めて小池を応援したら自民党を除名する)を出した」「今は小池知事への判官びいきがあるから、都政の闇、ブラックボックスを明らかにしようとする絶好のチャンスですよ」と述べていた。
今回、都の幹部が専門家会議の提言を無視して盛り土をしないで地下に空間を作ったかに言われているが、小役人=官僚が単独でそんなことをできるわけがない。それを後押しした政治家が(石原か、与党都議会議員などか)いたはずである。そこは国会議員も口出しできないような闇の世界、腐敗と利権にまみれた“伏魔殿”であり、その中心にいたのが、自民党の内田茂元幹事長を筆頭とする面々であった。
実際、内田幹事長の周辺は、豊洲移転問題でも20年の東京五輪問題でも、“黒いうわさ”が絶えなかった。移転問題では、当初予算の4200億円が5900億円と4割も増大し、中でも建設費は2752億円と当初予算の3倍に膨れ上がった。その坪単価は220万円、同様の建物物の60万円前後に比べて異常に高い。資材、建設費の値上がりではとても説明がつかない。 そしてその受注企業の中に、内田が懇意にしている東光電気工事が入っている。都は12年3月に豊洲新市場への移転に関する予算案を可決し、翌13年12月に新市場の入札を実施、管理施設棟の電気工事を37億9000万円で落札したのが東光電気工事を中心とするJV(ジョイントベンチャー)だった。
内田は90年代末から自民党都議団の幹事長をしてきたが、選挙で落選中の10年に地元・千代田区の東光電気工事の監査役になり、年数百万円の収入を得た。13年の選挙で復活したが、東光電気工事の売り上げは13年の700億円から14年には1000億円に拡大し、事業拡大に大いに貢献したのである。
東京五輪でも都が建設する三つの恒久施設のうちバレーボール会場となる「有明アリーナ」と競泳会場となる「オリンピック・アクアテクスセンター」の二つを東光電気工事が参加する大手JVが落札している。
当初7300億円と言われた予算が2兆、3兆にも跳ね上がったが(知事選で小池は「豆腐でもあるまいし」、1丁(兆)、2丁(兆)と上がっていくと批判していた)、こうした都政の闇の中心で内田はうごめいていたのである。
石原、猪瀬、舛添と続いた東京都政の下で、腐敗や膿が蔓延し、都政は“伏魔殿”と化してきたのだ。資本の体制が行き詰まり、その腐敗と頽廃が進み、中央権力も地方権力もとことん腐ってきた。それを切開し粉砕できるのは、労働者、働く者の断固たる闘いだけである。
触らぬ神に祟りなしし
生前退位に特措法で逃げる
2016年9月11日
明仁の生前退位発言によって、日本の君主制、つまり“天皇制”は新しい動揺を開始するかである。
というのは、明仁の発言は天皇制の最も脆弱なところを、つまりブルジョア民主主義体制の中における、典型的に非民主主義的な契機である天皇制の問題を鋭く暴露し、民主主義体制に内在する矛盾の急所に触れるからである。
天皇制がブルジョア民主主義の本性を、その“民主”がペテンであり、偽りであって、根底では本質的に“差別制度”――階級的に分裂した社会――の「象徴」であることを図らずも暴き出すからである。
安倍政権は、天皇の意思が示されたからには、その意思を尊重しなくてはならないかに装うのだが、もちろんそれは本当のことではない。
安倍政権は天皇の意思を誠心誠意尊重するというなら、皇室典範の改定に踏み込まなくてはならないはずだが、しかし安倍は、明仁天皇だけに適用する特別措置法によって、明仁の生前退位を認めることで、ことを済まそうとしている。
しかし天皇は単に自分個人のことだけではなく、天皇制の一般的な問題として生前退位を考え、また問題提起をしており、また摂政を置くのもよくないと明白に語っているのである。
摂政を置いたのでは、天皇の憲法に規定された職務や「公務」を責任を持って遂行することはできない――だからこそ、生前退位が必要である――と明言するのだから、まさに皇室典範に留まらず、憲法の規定とは異なった意見を述べているのであって、ことは特別措置法で済む問題ではない。
つまり天皇は事実上、皇室典範に留まらず、憲法の改定まで主張し、要求して“自由に”政治的発言しているとさえ言えるのである。 まさに天皇は憲法をも軽々と超える存在であり、あるいは露骨な政治的発言をしていると同様である。
それが許されるはずもないのであって、老衰する天皇に同情して、天皇の発言を感情的に擁護し、扱っていいはずもないのである。
そしてまた、安倍政権も問題の重要性と“危険性”に恐れをなし、触らぬ神に祟りなしとばかりに、困難な問題の根源を回避しつつ、特別措置法といった、その場限りの安直な解決でお茶を濁すのである。
安倍政権の安定や支持率を下げるようなことは決してやってはならないのであり、賢い安倍はそんなことは決してやらないのである。 憲法は明白に、天皇制の問題は具体的には皇室典範によって処理し、解決せよと謳っており、皇室典範は事実上、生前退位を否定している。
もし天皇に生前退位を認めるなら、当然、国会で皇室典範を改正、天皇の意に沿って、その問題を原則的に解決すべきだが、しかしそうした議論は、皇室典範の他の内容の修正という議論に火をつけかねないのであり、女性天皇の問題や、天皇と自由意思の問題といった、“厄介で”、解決不能な問題が蒸し返され、あるいは公然と議論され、あげくの果てには、天皇制の是非という根本問題までが、まさに不可避的に出て来かねないのである。
安倍にとって生前退位問題は、天皇の意思をあくまで尊重すれば、皇室典範改定という虎の尾を踏まなくてはならず、他方、ご都合主義的で、便宜的な解決で済まそうとするなら、天皇の“自由意思”を疎かにし、こともあろうに天皇の意思を軽視したという。国民批判と不信を招き寄せかねないのである。 かくして天皇制はお気の毒にも、安倍にとって、手に余る鬼門でもある。
黒田日銀の“強気”見通し
株も買い占め、株高を演出
2016年8月31日
日銀の黒田は、27日、なおも金利の引き下げや、量的緩和の政策も、質、量共に余地があると、改めて強調しました。マイナス金利に限界がないかに語る神経はまともではなく、また年々80兆円もの国債を買いだめしていく政策が行き詰まる--安倍政権が80兆円もの赤字借金財政に突進しないなら--のが見え見えなのがはっきりしているというのに、です。 まるで走り出したら止まらないかに、超スピートで泳ぐことを止めたら、死んでしまう鮪のように、です。おそらく金融や財政や経済が破綻するまで、黒田はそんな政策を止めることができないのです。というのは、止めたら株価は崩落し、安倍政権は根底から動揺し、日本の政治経済の激動の時代が訪れるしかないからです。
日銀はさらに、株式の買い占め政策に走りはじめており、そんな形で“人為的に”株高を演じざるを得なくなっています。日銀の昨年の株の買越額は公的年金の2兆円と企業の自社株買いの3兆円を上回ったと言うから異常です(年々6兆円も買い上げていればそうなります)。
そして日銀と年金の「公的マネー」が、「東証一部企業の4社に1社で」筆頭株主となったというのですから、日本は国家資本主義の体制に移行しつつあるのか、と言わざるを得ません。何と日銀と公的年金の株保有額は、3月、39兆円、シェアは7%を超えました。
黒田日銀は、安倍政権を支えるために、まさに手段を選ばない“政策”にますますのめり込んでいます。その行く末を、つまり破滅を我々は容易に予想することができるほどです。株価崩落、金融破綻、財政崩壊は必然であり、近づいているのです。
労働者、勤労者の皆さん、闘いに備えるときです。
共産党は安倍といちゃつく
自衛隊との〝怪しげな〟関係
2016年8月24日
参院選で、共産党の自衛隊に対する立場が、安倍の格好の批判の的になった。
安倍は選挙中、「共産党は自衛隊は違憲だが、解散するまでは仕事をしてもらうという。こんな失礼な話があるか」と攻撃し続けた。
また若い幹部の藤野が、NHKの政党討論会で、「防衛予算は人を殺すための予算」と“失言”し、与党側から総攻撃を受けたこともあって、志位は8月5日の共産党創立94周年記念講演で、この問題に言及し、釈明を試みている。
志位は、自衛隊と憲法の問題についての共産党の立場が矛盾しているのは、共産党の罪ではなく、憲法違反して自衛隊を育ててきた、自民党の罪だと強調する。
彼は、自衛隊は憲法違反であり、この「矛盾」は解決されるべきだが、このことは簡単ではなく、「かなりの期間」を要するのであって、その間に自衛隊が必要になるなら、祖国防衛のため戦闘行為に従事し、災害時にも出動するのは当然で、そう主張したからといって非難される謂れは何もないと反論している。
志位は、「この立場こそ、憲法を守ることと、国民の命を守る事の、両方を真剣に追求する、最も責任ある立場」であると叫んでいる。
しかし資本の支配のもとで、自衛隊(軍隊)の存在やその意義を否定するなら、どんな「期間」であろうと、それは肯定され得ないのであって、それは憲法がどうあろうと――平和主義的であろうと、なかろうと――関係のないことである。労働者は、憲法がどうあろうと、ブルジョアの軍備増強や、軍国主義、帝国主義の発展に対して最後まで闘うし、闘い抜かれなくてはならないのである。
自衛隊は違憲で認められないとしながら、そんな自衛隊や、その活動を、どんな「期間」中かは知らないが、認め、肯定することは根底から「矛盾」している。
事実、志位はここでは隠しているが、共産党は戦後一貫して国家たるものはすべて、「固有の自衛権」を持っているのであって、その意味では憲法9条は正しくないと言い続け、敗戦後の憲法国会ではそれを理由に憲法に反対したのであり、その後も、日米安保条約がある限り、自衛隊は米国のための軍隊であって、日本のための軍隊ではない(だからよくない)、もし日本が「真の」独立を勝ち取ったときには――この意味は日米安保条約を破棄することだが、もちろんそれは、日本の“完全”独立といったこととは全く別問題である――、憲法を変えてでも軍隊を持てるようにすべきだと主張してきたのである。
そして志位は、今ブルジョア民族主義者としての、こうした卑しい本性を隠しつつ、労働者、勤労者に媚び、あるいはブチブルや市民派に迎合して、平和主義者として、自衛隊や軍備増強に反対して現れなくてはならず、かくして現行憲法の誰よりも熱心な擁護者、支持者であるという、偽りの見せ掛けを作らなくてはならないのである。
かくして志位の観念からは、資本による労働者の搾取体制や、資本主義世界において発展する軍国主義、帝国主義との闘いや、憲法の外で展開され、先鋭化する階級闘争、政治闘争などは完全に脱落し、消去されているのである。
そしていとも安易に、労働者を取り囲む世界が「もし自衛隊がなくても安心だ」という世界になれば、労働者、勤労者の平和も生活も保障されるパラダイスがやってくるというのだが、ばかげたドグマであり、妄想であって、志位は、資本の搾取体制やブルジョア帝国主義の発展の前で、労働者を階級として解体し、武装解除するのである。
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