都知事選、小池大勝の教えるもの
都民の根深い既成政党への不信と怒り
2016年8月1日
小池が都知事選挙に立候補を表明したとき、我々は重大なこととは考えず、ましてこの段階では――自民党の公認候補になるなら別ですが――、当選するとは思っていませんでした。しかし選挙戦に突入すると、小池と鳥越がトップを争い(そしてむしろ小池が優勢であって)、自公などブルジョア派、反動派の推す増田を遙かに引き離しているという状況だと報道されびっくりしました。
結果は小池の圧勝、増田が必死で巻き返しを図ってようやく2位(菅などは、街頭で先頭に立って、増田支持を絶叫していましたが、こうした姿は彼としては珍しかった?しかし菅の神通力も通じず、お気の毒なことでした)、鳥越は安倍一派に、菅らにスキャンダル暴露を仕掛けられたためか元気なく3位に沈みました。ある意味では、すべての既成政党に反対して現れようとしている我々にとって、ベストの結果になったといえなくもありません。
しかし安倍一派と安倍政権にとっては非常な打撃で、自分たちがどんなに支持されていないか、嫌われてさえいるかを思い知らされたということです。人気のないことを自覚してか、アベノミクスを「加速させる」ことで人気と支持の回復を図ろうとしても、頼みのアベノミクスの限界というか、邪道というか、下品さがますます暴露され、「加速」どころか、その「失速」ばかりが、反作用ばかりが目立ってくるとするなら、安倍政権の没落は遠くはないというしかありません。
小池を応援する都の自民党員や地方議員(党員?)がいたら、本人のみならずその係累もまた処分であり、除名?だといった、清盛的な安倍一派の驕慢さ、思い上がり(「安倍一派にあらずば、自民党員にあらず」)に都民は愛想を尽かしたということでしょうか。小泉元首相もさすがに「おれが小池を応援したら、進次郎も処分されるということか」とあきれていました(安倍がそんなばかで、傲慢な男であることも見抜けず、後継首相に推したのが誰であったかを忘れたかに、です)。
民共は、自民は分裂選挙なのに、こちらは野党統一候補であり、鳥越も野党共闘で担ぐには最善の「玉」、しかも参院選では民共で6議席のうちの3議席、野党共闘4党の得票数は保守4党と全く同じだ、負けるわけはない(楽勝、圧勝だ)と、例によって「空気を読めない」独りよがり、「取らぬ狸の皮算用」にふけっていましたが、小池の半分にも達しない得票で完敗し、民共など都民がほとんど信頼も支持もしていないことを思い知らされただけでした。民共とりわけ「野党共闘に賭けている」共産党への打撃もまた、安倍一派に勝ることはあっても劣るものではありません。
“保守”政党も“革新”政党もともに頽廃し、衰退しつつあり、労働者、勤労者からますます愛想を尽かされ、嫌われ、見捨てられています。日本でも、世界でも断固として、原則的に闘う労働者の政党の登場が客観的に必然であり、必要である時代、待ち望まれている時代となっています。労働者の政党の闘いを指し示し、果敢な闘いを組織、展開して行かないなら、労働者大衆は安倍一派の国家主義やファシズム勢力に刈り取られ、囲い込まれていくしかありません。階級的な闘いの正道を断固として進むべき時です。
破廉恥なマスコミ、卑しい赤旗
「生前退位」報道について
2016年7月17日
天皇が生前退位の意思表示をしたからといって、マスコミが大騒ぎしていますが、天皇と天皇制に対する批判的な記事は皆無で、むしろ天皇に対する同情や「敬慕」を煽るような記事が満載です。赤旗も批判するでもなく、同情もできないとあってか、短い、事実を知らせる報道を載せただけでした。
政府や自民党が策動するのか、宮内省の官僚の思惑か知りませんが、今では天皇の「慰霊の旅」とか、被災地への慰安訪問といったことが、当事者たちの意思とは関わりなく、あるいはムダに死んだ何百万の軍服を着た労働者、勤労者の思いや恨みや絶望や怒りとは無関係に、天皇は沖縄に、パラオに、フィリピン等々にと破廉恥に出かけています。まるで死んだ労働者、勤労者が、そんなことを喜ぶかに、です。
そしてこれらの全ては、憲法の謳っている、“象徴”でしかない天皇に許されている、「国事行為」をはみ出している、天皇の個人的な意思や感情からでたものです、そしてそれは立派に「政治行為」であり、そうした意味をいくらでも持っているのです。
マスコミはそんなことはよく知っているはずです、また過去の歴史には、天皇制を利用して国民を帝国主義戦争に導いた経験があるにもかかわらず、そしてマスコミ自身がそんな天皇制軍部のたいこもちとして働き、国民を裏切った過去を持ちながら、今また天皇や天皇制のたいこもちという卑しい仕事に従事するのです。マスコミの果たす役割は許しがたいものであり、先の大戦のときの恥ずべき裏切りについて何も反省していないと言うしかありません。
自公に3分の2与えた民共を糾弾する
心やましき“野党共闘”、自ら墓穴を掘る
2016年7月11日
参院選は自公の完勝と民共の完敗に終わりました。自公は憲法改定を発議する勢力を獲得し、民共は参院選の最大の課題を勝ちとることができず、今後の闘いの展望さえ見いだすことができなくなっています。民共共闘はおろか、民共の解体さえも予想されます。ある意味で、我々が見通した結果そのものであり、我々の任務は重大です。
民共が敗北したのは、一つにはその政治の観念性とプチブル的本性にあります。2世紀半も昔のブルジョア革命期の憲法と本質的に同じ性格や内容の憲法を、超歴史的な絶対物であるかに思いこみ、至上視し、美化して、あるいは“民主主義”の根底である“法治主義”を“立憲主義”といった骨董品的な観念にすり替えつつ、そして市民革命”などのアナクロニズムを振りまき、幼稚で頭でっかちのインテリらの“市民主義”に従属し、追随しながら、現実的な階級闘争、政治闘争を闘い抜くことは出来ません。
“市民派”とはフランス革命期の“革命家”のなれの果てであり、その頃には革命的な役割を果たしたとしても、この高度資本主義の社会では、無力で哀れなプチブルや個人主義者としてしか登場し得ないのです。
一貫した労働者の政治的闘いを発展させ、安倍政権を追い詰めるために、安倍政権に反対する、階級的な立場も闘いの目標も思想的な立場も皆それぞれに違う、そして闘い方も違う、それぞれの勢力が――民進党であれ、共産党であれ、市民派(立憲主義者、反原発派、環境主義派等々)であれ、急進派であれ、社会主義派や社会民主主義派であれ、労働者派であれ――、それぞれ最大限の力を発揮して闘うべきであって、立場も思想も全く違うあれこれの階級や階層、勢力や潮流が「統一」すれば勝てる、しなければ勝てないといったことでは全くありません。
闘う勢力が本気で闘う意志も力もない勢力と「共闘」し、そんな勢力によって手足を縛られるなら、その闘いは中途半端なものになり、必ずや失敗し、敗北するしかないのです。
一体、共産党は民進党や市民派に何を期待したのでしょうか。「唯一の革新」とか、「自共対決」とか叫んだのは何のためだったのでしょうか。
現実に野党共闘もまたまやかしものでしかなく、我々が強調したように、そんなものによって自公に勝てるはずもありませんでした。
一人区だけの野党共闘として持ち出された瞬間から、そのまやかしと中途半端な本質、野党共闘を謳いながら、その根底には自党優先、自党の利益優先というエゴイズムが透けて見えるような「心やましき」野党共闘でしかありませんでした。まるで狐と狸の化かし合いのようなものでした。
一人区の野党共闘からして、基本的に民進党の利益だけを優先させるもので、共産党には香川選挙区だけがお情けで与えられただけでしたが、香川はむしろ歴史的に、そして現実的に民進党こそが闘えば勝てたかもしれないような選挙区でした。他の一人区で共産党との票を期待したい岡田が、最後に残っていた香川を志位の懇願に屈して投げ与えたものでしたが、岡田はそのことによって他の選挙区で共産党の支持を獲得し得たかもしれませんが、民進党の1議席を失ったかもしれないのです。
仮に一人区だけの野党共闘であったとしても、両党でその内容についてきちんと両者が納得いくような形で検討され、仮に共産党は32の一つで我慢するとしても、共産党に一番有利で、ひょっとしたら共産党でも勝てるということで決まった香川の共産党候補ではありませんでした。まさに野党共闘はいい加減で、場当たりなやり方によって、1議席を犠牲にしたということです。
そして複数区に至っては、誠実で熟慮された野党共闘――そんなものが仮にあり得たとしてのことだが――を欠いていたため、野党は“乱立“し、競合し、議席のつぶし合いを演じて、千葉、横浜、大阪、兵庫、福岡等々で、もし妥当な野党共闘がなされれば確実に勝ち取れた議席を失い、自公に名をなさしめたのでした。つまり数人の議席をみすみす自公に献上したのですから、民共の果たした役割は、彼らの立場からしても犯罪的であり、裏切り的であったというしかありません。
野党共闘によって3分の2を阻止すると喚きながら、実際には、不誠実、不真面目なやり方、党派エゴイズムを優先させたやり方によって、議席のいくつかを失い、自公や反動派に3分の2以上の議席を可能にし、彼ら自身がめざした参院選の目標を自ら無に帰せしめたのは、まさに民共両党の責任であり、許されざる罪ですらあったと結論するしかありません。
もし本気で民進党と共産党とが「共闘」して自公の3分の2を許さないと考えたら、せめてそんなやり方でも阻止しようと決意したら、その“戦術”に忠実であるべきであり、自党のエゴイズムなど二の次とすべきではなかったでしょうか、しかし民進党も共産党も、相手を信じても、尊敬もしておらず、結局は参院選の中でも自党の利益を優先させたのであり、その結果、野党共闘は形骸化し、お互いに疑心暗鬼に陥り、一人区の違った候補の支援、応援においてさえいくらでも不真面目で、おざなりの場合さえあったのですから――民進党の勢力の中には、共産党に投票するくらいなら自民党に投票するという勢力さえいたのですから――、そんな共闘が実際的な成果を上げ得るはずもなかったのです。共産党は共闘に1+1は2ではなく、3にも4にもなると強調しましたが、共産党が候補者であった選挙区だけでなく、民進党が候補者であった選挙区では、共産党支持者の投票があった分、民進党の保守系の支持者が逃げた場合も多々あったのですから、1+1が3や4になるはずもなかったのです。
北海道や東北で野党共闘が善戦したかにみえたのは、この地域では共産党との叫んだTPP反対が、保守的な農民層に受けたからであって、野党共闘が積極的に評価されるべき例といったものではありません。
野党共闘の戦術の失敗と無力と、反動性さえも暴露した、貴重な参院選の教訓でした。
参院選の結果もまた、労働者、勤労者の階級的な闘いが、それを担い、代表する政党が登場し、断固して闘い抜く必然性と必要性を明らかにしています。
バングラデシュのテロ事件
「対岸の火事」ではなくなったイスラムテロ
2016年7月5日
イスラムテロは「対岸の火事」であって、中東やアフリカや欧米の社会では起こりえることではあっても、自分たちには無関係なことと思っていたアジアの多くの人々に、とりわけ日本人に大きな衝撃を与えました。ブルジョア世界が、「無神論と異教徒の」世界が、イスラム世界を敵視していると信じるバングラデシュ人のテロリストたちが、ダッカで20名の非イスラム人を殺害しましたが、その中の3分の1強が日本人だったからです。
イスラムのテロリストたちは、現実に「イスラム教徒の世界を破壊しようとしている者」、つまり「異教徒」に報復し、「殺しに来た」と発言したといいます。ISのバングラデシュの「司令官」は、すでに「無神論と異教徒たちは我々に対抗している。イスラム教徒が団結して闘うのは義務だ。戦士たちは無神論者や背教者を殺すためにナイフを研ぎ澄ましている」と脅迫的な宣言を発表していました。
また彼らは犯行声明で、「十字軍諸国の戦闘機がイスラム教徒を殺す限り、彼らはイスラム戦士からの攻撃を避けられないことを知らしめる」ためのテロであると強調し、イラクやシリアにおけるISへの軍事的攻撃に対する警告であり、反撃の一部であることも明らかにしています。
しかし犯人たちは全員バングラデシュ人であり、しかも「教育水準が高く、裕福な家庭の」出身であること、つまりどちらかというと支配階級に属する人間であるということです。このことも重要な意味を持っています、つまりこのテロはイスラム体制に利益を有する、イスラム世界の支配的な階級の意思を反映してもいるのです。アジアにはバングラデシュだけではなく、インドネシアやパキスタンなど人口の多いイスラム国家もあれば、中国を初め、国内にムスリムを抱える国家も少なくありません。
イスラム問題は、したがってイスラムテロの問題は、すでに「対岸の火事」ではなく、アジアの労働者、勤労者にとって一つの重大な、現実的な問題、思想的、現実的、実践的に対決し、解決して行く――行かなくてはならない――一つの重要な課題として現れています。
我々はすでにイラン革命=ホメイニ革命のときから、“イスラム革命”の時代錯誤と、それが歴史と労働者、勤労者にとって反動的な意味しか持たないことを明らかにしてきました。現代において、“宗教絶対主義”は余りに時代錯誤であって、社会の前進と進歩にとって、それ自体、利益になることはほとんどありません。それは資本主義の発展にとってさえマイナスです。
アジアのイスラム教は――世界のイスラム教の多くもまた――「穏健な」性格を有していると言われますが、しかしその教義自体は、宗教改革以前のキリスト教や、1945年まで日本を支配した神道と同様に、ブルジョア社会や“世俗社会”と対立し、専制体制と結びつきます。19世紀以来の西洋資本主義国家による植民地支配が、イスラム世界の後進性を、したがってまたいわば“中世的な”世界を温存し、そしてまたそんな世界が今度は逆にイスラム世界の停滞と後進性を規定するという悪循環を抜け出せないでいます。最近の「ジャスミン革命」もイスラム世界の“世俗化”革命を、言ってみれば遅ればせにやってきた“ブルジョア民主主義革命”を流産させてしまいました。
イスラム世界の現状は、イスラム世界もそれ以外の世界も、つまり人類の全体に歴史の負の遺産をいかに一掃するかという、重い課題を課しています。それは困難な過程かも知れませんが、歴史的に解決されなくてはならない課題の一つであることは明らかです。世界の労働者、勤労者にとっては、こうした課題もまた――それ自体は、“ブルジョア民主主義的な”課題の一つであるにしても――、労働者、勤労者にとっては、自らの世界的解放を勝ち取っていくという闘いや課題と結びつけてのみ解決されるし、されなくてはならないことは明らかでしょう。
野合で勝てるはずはない
原則も理念もなく品性欠く野党共闘
2016年7月2日
(これまでも『海つばめ』1276号などで明らかにしてきましたが、参院選最終盤を前に、野党共闘について整理してみました)。
我々は参院選の終盤を迎えて、野党共闘の現実の姿を、それがいかに実行されているかを、本当に自民党勢力を追い詰め、粉砕する闘いになっているかを点検してみなくてはならない。
いくつかの一人区の実際を見ると、すでに宮城については、『海つばめ』先号で明らかにした通りである。その「なりふり構わない」、無原則の「野党共闘」は仮に勝利につながったとしても、悔いを千歳に残すものにしかならないであろう。勝利につながらなかったら、それはそれで、いかに野党共闘といったものが不毛であるばかりではなく、反動的なものであったかの、生きた証拠になるだけである。
野党共闘が“順調”に見える宮城でさえこんな体たらくだから、まして他の一人区は問題山積の場合が多い。 新潟では、野党統一候補に森裕子が立候補したが、民進党にはかつて民主党を見捨てて小沢新党に加わった森への反発が強く、選挙にも半分知らぬ顔で、森個人の闘いだと白けている。森支援に熱心な共産党は、森が持論の原発反対で歯切れが悪いのが不満だが、それは連合新潟から、原発を止めよと森が言わないように固く言われているからである。つまり呉越同舟で、意思も歩調は全く揃っていない。
興石が民進党のボスとして君臨する山梨でも、野党の統一候補として興石が「後継者」として擁立した宮沢由佳に対し、民主党出身の米永晴信元参議院議員が興石から“後継者”に指示されないのに立候補し、野党共闘は累卵の危機に直面している。米永は前回の参院選では6万票を獲得している。
熊本の市民派の候補、弁護士の阿部広美は、市民派のいわばエースとして安保法の廃止を中心に訴えているが、その支持は伸びず、市民主義のプチブル的な観念性や独善の限界がたちまち暴露されている。
長野の元キャスターの杉尾秀哉は民進党から立候補しているが、民進党や連合系の集会などには共産党や社民党は参加せず、逆に、共産党系の集会などには民進党や連合系はそっぽを向いたままであり、民進党は共産党が応援するなら勝手にやってくれという構えで、野党共闘も心のこもらない、純粋に形式的なものであり、単なる数合わせである。仮に杉尾が当選しても、杉尾が民主党のブルジョア的、反動的な政治的立場からのみ行動することは明らかであって、共産党はそれにたいしてどんな影響力も持ちえないのである。一体何のための共闘か、どんな意義があるのか。
山形では、無所属で舟山康江が立っているが、TPP反対を派手に叫んでTPPに反対する農民層を――とりわけTPPで大きな影響を受ける、サクランボ生産者たちを――取り込もうとしているが、彼女はかつて民主党に所属し、TPP参加を主張した菅直人内閣で農林水産政務官を務めたような人間である。その後、TPP反対を唱えて民主党末期に民主党を離れたことからも明らかなように、政治的に全く信用できない、ポピュリズムに走るような人物だ。
要するに一人区の野党共闘は形式的に存在しているだけで、民共ともに、自党の利益を優先させるか、共産党の民進党への接近、従属、融合さえも明らかにしているだけである。民共が真剣に、原則的に資本の支配と安倍政権と闘うための共闘とは、お世辞にも言えないのである、というより、民共の共闘の本性からして、闘う共闘になるはずもないのである。
4つの2人区(茨城、静岡、京都、広島)は基本的に自民党と民進党の「指定席」だが、ここでは民共はお互いをけ落とそうとして死闘を演じる。もしおおさか維新などに議席を奪われ、保守独占を許すようなことになれば、もちろんその責任は野党共闘に忠実でなかった民共が負わなくてはならない。
5つの3人区(北海道、千葉、埼玉、兵庫、福岡)になると、民共は野党共闘などどこえやら、自公を利しても議席を確保しようとしのぎを削っている。
北海道でも千葉でも、自民の2人にたいし、民進2、共産1が立っているが――つまり自民が確実に2議席を狙うのに対し、民共は1議席でいい、自党だけが当選すればいいということである、共闘して2議席を得ようという意思は最初から皆無である。
民進党に言わせれば、共産党には当選の可能性はどうせないのだから、共産党が辞退して民進党2議席のために協力すべきと考え、他方、共産党はそれぞれ1人ずつの候補者でやるべきと後には引かないのだが、要するに民進党も共産党も自分の党の利益しか考えていないのである。共産党はすでに選挙区のことなど考慮の外で、北海道で比例区50万の獲得を叫んで、その意思がどこにあるかを暴露している。
兵庫は自民、公明、維新の3名に、民共が挑む構図だが、民共が共闘しないで議席を落とし、反動派に3議席独占を万が一でも許すなら、共闘を口にしてそれをまじめに取り組まなかった彼らの犯罪性は決して小さくない。福岡でも、自公に加えて維新も立候補するが、民共とともに社民までも立候補しているが、ここでも共闘の精神が全く無視されていることは明らかである。
3つの4人区(神奈川、愛知、大阪)においても、野党共闘は空文化しており、野党4党は自党の利益と都合を優先させており、かくしてブルジョア政党、反動政党を助けて、野党共闘の精神を裏切っている。
典型的なのが神奈川選挙区であって、ここでは自民、隠れ自民(中西)、そして公明の政権側の3名(大阪維新を入れれば4名だが、とりあえず維新は無視しよう)に対し、ここでも野党は民、民、共、社と4名が立候補している。3議席が反動派に渡る可能性があるのだが、その“危険性”につて民共には何の自覚もなく、自党のことだけを考えていて、野党共闘などどこにあるのかといった雰囲気である。
そして大阪府では、民共の内のどちらかが落選しそうだが、どちらが当選しようと落ちようと、野党勢力にとってどうでもいいことであって、ただ民進と共産の仲間内の争い、セクト争いの問題にすぎない。 最後に東京の6人区であるが、もちろんここでは野党共闘などどこにあるのかといった、“仲間同士”の間での無政府的な死闘が繰り広げられている。我々としては、どうか好き勝手にやって下さい、労働者、勤労者にとってはどうでもいい争いにすぎないからと“冷ややかに”言うしかない。
要するに野党共闘といっても、一人区だけの話で、当然の結果として、数あわせの問題であって、自公との安倍政権との原則的で、果敢な政治闘争を発展させ、自公を追い詰め、議席を勝ち取っていくということではないのだから、その「成果」といったものはほとんどないか、あるいはむしろ全体としての闘いを後退させ、弱めてマイナスの意義しか持たないのである。
そして複数区に至っては、民共のセクト争い、党派争いの場でしかなく、そのために野党共闘があれば得られた議席を得られなかったり、失わなくてよかった議席を失ったりする場合がいくつもありそうだとするなら、ますます野党共闘とは一体何なのか、どんな意義があるのか、そもそも不真面目ではないのかと問われても、民共はまともに答えることは決してできないのである。
イギリスのEU離脱
新しい世界危機に道を開くか
2016年6月25日
「経済統合」から「政治統合」に進むといいはやされ、また事実、その方向への具体的な道筋すらも語られていたEUが、イギリスの離脱によってまさに解体の危機さえもあり得る時代を迎えようとしています。
それが世界の、とりわけ先進国のブルジョアたちにとって、彼らの一つの「秩序」の解体であり、解体の危機であるが故に、深刻な動揺を呼び、株価の崩落や為替の激動など、現代世界の資本主義経済を揺さぶり、下手をすれば世界的な歴史的危機、G7で安倍が言いはやした“リーマンショック級の”経済危機や、不況や信用恐慌や国家破産の危機さえもの引き金になり――というのは、世界はすでに信用膨張や通貨膨張、さらには赤字財政の膨張によって破綻する多くの危機を、破裂して当然の様々なバブルを内在させ、成熟させているからです――、そんな事態を誘発し、あるいはそんな時代を呼び込みかねないからです。
EUの顕在化した危機は、ブルジョア的国家統合が一つの幻想であること、「ヨーロッパ合衆国」はもちろん「国際連盟」や「国際連合」(“世界政府”という自由主義的ブルジョアや観念的プチブルの願望、もしくはみじめなカリカチュア)といったものの限界と反動性さえも改めて暴露した、貴重な歴史的な経験ともいえます。
そしてEUの解体の兆しが、世界中で高まる諸国家の民族主義、国家主義、つまり先進的なブルジョア国家の自国の利益優先という、国家エゴイズムの新しい高揚の中で現れたのは偶然ではありません。
資本主義の危機が世界的に深化し、諸国家の共同の利益の分け前ではなく、損失や犠牲の“分け前”(負担)を争わなくてはならなくなると、ブルジョアたちは、したがってまたブルジョア国家はお互いに自らの利益のために我を忘れ、「国際協調」等々に代わって、民族主義や国家主義のための闘いを、戦争さえも叫び始めるのです。イギリスの“独立党”しかり、中国の習しかり、ロシアのプーチンしかり、アメリカのトランプしかり、そして日本の安倍しかり、というわけです。
ブルジョアの支配する世界で、国家統合とか、世界政府とかいったものは極度に困難で、なされたとしても例外的で、部分的なものとしてしか存在しないし、してきませんでした。世界政府の出発点などと喧伝された、はやし立てられ、美化されてきた第一次世界大戦後の国際連盟も、第二次世界大戦の国際連合も、いくらかでも世界政府といえるようなものとして存在し、あるいは機能してきませんでした。そればかりか、それらの機関は世界の大資本の、あるいは大資本の国家の利益のために、基本的に機能してきました。
だからこそ、EU分離がかならずしも労働者、勤労者の利益とは言えないにもかかわらず、EU機関、EU体制もまたイギリスにおいて国民的な――労働者、勤労者の一部さえもの――支持を失ったのです(それはすでにEUの多くの国に置いても同様です。ギリシャにおいては踏みとどまりましたが、今やEUの大国であり、しにせでさえあるイギリスにおいては、EU忌避は現実のものとなりました)。
世界の労働者はブルジョア的な国家統合――それが全く存在しないというのではないにしても――が困難であるばかりか、ブルジョア諸国家のエゴイズムが支配する世界においては不可能であること、世界社会主義はただ労働者階級の世界的な行動と闘いによってのみ可能であり、歴史的に実現され得ると宣言しなくてはなりません。
香川選挙区の共産党候補擁立
>間違った“利敵行為”を糺弾せよ
2016年6月14日
5月中旬、民進党が共産党に32の一人区の一つ、香川を共産党に譲ることを了承し、あたかもそれと引き替えであるかに、共産党が最後の佐賀や三重の候補者を降ろして、めでたく全ての一人区で「野党共闘」が成立しました。
めでたいかどうかは知りませんが、民進党と共産党の一人区での「共闘」は、まともな基本的政綱等々があるわけでもなく、それぞれの選挙区において、それぞれの思惑などに従って勝手気ままにやるといった形をとった、無原則で、場当たりのものになっています。
二党の“公平、対等な”立場や形での「共闘」でも、あるいは何らかの“原則”や、共通の政治的立場や根本的政策に基づき、また勝つための候補者の調整等々があっての「共闘」でも何でもありません。
香川の候補者が共産党になったのは、香川では民進党なら負けで、共産党なら勝てるということではなくて、ただ共産党に1議席も配分しないなら、いくらかでも「ギブ・アンド・テイク」の形を――せめて形だけでも――取らないなら、共産党のメンツをつぶし、志位の立場も危うくするなら、共産党も民進党候補の応援や協力も本気でやる気にならないといった、志位のいわば“脅し”もしくは懇願の結果にすぎません。岡田も渋々共産党にあめ玉一個をしゃぶらせ、志位のむずかしい党内での立場にもご配慮したのです。
香川での民進党と共産党の参院選のこれまでの結果からすれば、いくらかでも自公に勝つ可能性があるのは民進党の候補であって、共産党の候補ではないのは余りに明らかです。事実07年の参院選では、民進党の植松恵美子が地方区で26万票(53・6%)を獲得して当選しています。民進党が不人気の絶頂にあった前回の13年の参院選でも、植松は無所属でたって、なおも34%(次点)を得ているのです。
これに対して、共産党はせいぜいここ3回の参院選地方区で数%の得票率でしかなく、本当に野党の議席数を1つでも増やそうというのなら、香川で共産党候補者擁立は、最初から愚劣で、間違った選択でしかありません。
前回の衆院選の小選挙区の結果で見ても、1区では自民党、2区では民進党(当時は民主党)、3区では自民党が勝利し、また1区の民進党、2区の自民党のそれぞれ次点だった候補者は共に健闘し、比例区で復活当選しています。この結果、香川県の衆議院議員は自民3名、民進2名で、むしろ民進党が自民に対して比較的強いといえる県なのです。衆院3選挙区の得票数を合計すると、自民党は20・7万、民進党は17・1万、これに共産党の2・5万を加えると19・6万になり、自民党に肉薄します。
これらの数字は、共産党が最後に自党の候補者にこだわって、香川で強引に候補者を押し込んだのは、まさに“党利党略”のためであって、安倍自民党を追い詰めるためでないことを教えているのです。野党が勝てるかもしれない香川での敗北を不可避なものとするような「共闘」路線とは一体何でしょうか、両党の共謀しての“裏切り”であり、“利敵行為”というしかありません。
もし野党の議員を一人でも増やしたいというなら、共産党は一人区で(あるいは当選の可能性がないなら、複数の選挙区でも)候補者を降ろしてこそ首尾一貫しており、共産党の利益よりも野党全体の利益のために闘ったと言えるのです。
それをなし得ないなら、そしてせめてメンツのために1選挙区くらい、共産党に譲れというなら、そんな根性なら、共産党は一体何のために「野党共闘」にこだわり、半ブルジョア政党の民進党――必ず労働者、勤労者を裏切るような民進党に――に奴隷的に屈従していくのでしょうか。
これまでは、ただ比例区の票を増やすためだけに、当選の可能性が全くないのに全ての選挙区(参院選)や小選挙区(衆院選)で候補者を立て、“野党分断”の利敵行為に散々ふけってきて、今回からは突然に「野党共闘」の効能や利得に目覚めたというのですが、しかしそれも実際には、野党全体のために(実は民進党のために)“誠実に”努力したという“美談”によって、比例区の票を少しばかり増やすためだというのですから、舛添都知事にも劣らない“セコイ”話にすぎません。
真剣な労働者、勤労者の政治闘争とは無縁の、矮小で、けちくさい党の、矮小で、けちくさい小手先“戦術”というわけです。
参院選で野党が勝てるはずはない
安倍と同じ消費増税の再延期といった政策で
2016年6月10日
参院選を前にして、安倍は1年半前と同様に、自らの公約や決定に反して、消費増税を延期するから、延期したいから、その承認を得るための参院選であるかに言いはやし、そのために安倍自民党に投票せよと労働者、勤労者の意識を誘導し、誘惑しています。 全く筋違いな話ではないでしょうか。
そもそも、労働者、勤労者の過半が2012年の自公民による5%の消費増税そのものに、そしてその最初の3%の消費増税にも反対しており、安倍政権こそが労働者、勤労者の意思に反して3%の消費増税を実行したのです。いまさら労働者、勤労者にお伺いを立てて、第二弾の2%の消費増税を再延期するもしないもありません。
安倍は最初の3%の消費増税の後、デフレ脱却が少しも進まなかったのは3%の増税のためだと思い込み――いうのは、アベノミクスが本来ならデフレを一掃しているはずなのに、依然としてデフレが続くなら、消費増税が悪いと考え、そう信じざるを得なかったから――、消費増税のトラウマに取りつかれたのです。
今頃になってもっともらしく第二弾の消費増税は再延期だとして、そのために国民にお伺いをたてるなどとい言うのは欺瞞であって、それくらいなら自公と民進による5%の消費増税をやらなければよかったのであり、前回の3%の増税もまた止めればよかったのです、あるいはそれほどにデフレが恐ろしく、消費税がデフレをもたらすと信じるなら、今からでも遅くないから、消費税を5%にまで(いや、いっそのこと0%にまで)戻せばいいのです。
そんな徹底さも一貫性も根性もなく、ただ第二弾の2%の消費増税によって「景気回復の足折れ」するかもしれないことに怯え、労働者、勤労者のためではなく、自分たちの消費増税の延期をやろうとしながら、何か労働者、勤労者のためにやるのだから、2回も延期するのを認めて欲しい、その承認のために参院選では安倍政権を支持して投票してほしいと言うのであり、そんな下劣なアッピールによって参院選の勝利をかすめ取ろうとするのです。
そもそも安倍がこんなにも厚かましい屁理屈でもってして、参院選に勝利できるのも、共産党を先頭とするえせ野党たちが、みな基本的に安倍政権と認識を共有し、人為的、政策的に消費や需要を膨張させれば、つまりカネをばらまいたり、減税すればたちまち景気が回復するといった、インチキな観念にたって政治をやっているからであって、そんな愚劣で日和見主義的な政治によって、安倍一派が、消費増税を延期して労働者、勤労者のための政治をしており、加えてデフレ克服や「経済成長」のために必死で努力しているといった幻想を広げ、労働者、勤労者をだますのを助けているからです。
偽りの安倍の経済政策を、つまりアベノミクスを根本的に批判もせず、またできないで、かえってアベノミクスと根底で同じような政策を持ちだして、安倍政権を追い詰めるどころか、美化したり、事実上応援したりしていて、安倍政権と闘い、圧倒し、打倒していくことができないのは当然です。
かくして参院選における“野党”統一戦線(醜悪な野合戦線)はみじめに敗北するのであり、するしかないのです。
第12回大会宣言
全国の心ある労働者、勤労者に訴える
「労働者党の再建」と「国政への復帰」のために結集しよう!
2016年5月29日
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空疎な政治闘争の場に転落
政策も増税延期も与野党仲良く?
2016年5月21日
参院選を前に、与野党の政治的対決の形が明らかになりつつあります。
憲法については、護憲と改憲の闘いであり、経済政策では2%の消費増税か、その再延期かの対立です。
安倍政権は「一億総活躍社会」について大風呂敷を広げますが、空約束と空手形だけのものであり、それらをいくらかでも真剣に実行し、実現しようという強い意思も、また実際的な展望も保障もありません。
民進党もここにきて、突如というか、ようやくというか、消費増税についての立場を明らかにしましたが、それは岡田らの“信念”に反したもの、つまり消費増税延期に賛成といったものです。
岡田らはこれまで、安倍政権が消費増税の再延期をするなら、一昨年暮、消費増税を延期したときの「再延期はあり得ない」という約束に背き、また自公民3党の「消費増税によって税と社会保障の一体的改革」を図り、社会保障を「安定的に維持する」という展望さえ投げ捨てることになる、(偽りの)財政再建さえも絶望的になる、裏切りでさえあると強調して来たのです。
しかし今や、安倍政権が消費増税の延期を先に言ったら、参院選を有利に闘うことはできないといった“政局的な”判断から軽率に方針の大転換を図るのですが、余りに愚昧であり、労働者、勤労者からますます見放されるだけです。自らの信念を捨て去り、転向するなら、安倍政権をいかにして追い詰め、圧倒することができるというのでしょうか。
しかもご丁寧に、軽減税率込みの消費増税はダメだとか、社会保障の「充実」のために赤字国債の発行まで認めるとわざわざ強調するなど、この政党の愚昧ぶりは限りありません。
民進党が安倍政権と闘うことはもはや絶望的に困難であり、こんな政党が「野党第一党」だというなら――そして第二党が、民進党と似たり寄ったりの共産党だというなら――安倍自民党はいくらでも「枕を高くして」寝られるというものです。
共産党は民進党と違って、終始消費増税の延期どころか、撤廃を謳って一貫しているというのでしょうか。
しかしこの党もまた、民進党と同様に、借金まみれの財政に無頓着であり、そんな無責任な立場から、「社会保障の充実」等々についておしゃべりしているだけであって、政権についた途端、09年の民主党政権と同様、まともなことは何一つやらないし、やれないでしょう。その政治的根底が観念的、空論的であり、独善的、ドグマ的だからです。
例えば、賃上げをどんどんやれば(そんなことが、資本の支配の下でも可能だとすれば)、「消費需要」が膨張し、従って資本も活気づき、デフレも経済停滞も容易に克服できる、そうしてみんなが笑える、“まともで”、幸せな資本主義が訪れるといった、たわいもない、能天気な幻想を説くだけです。
それにしても、安倍に、民進党は自民党に倣って改憲草案を出せばいい、そうすれば対立もはっきりすると挑発されて、そんなものはない、「9条を変える必要はないから」と答える岡田の情けないこと。天皇制一つとっても、憲法の限界やブルジョア的本性は余りに明らかなのであり、岡田はそんな憲法を絶対化することで、何千万の労働者、勤労者の支配と搾取の上に成り立っています、資本の支配する日本の体制を支持し、美化し、闘うことを放棄するのです。
安倍は半デマや空約束を振りまき(ついでに、露骨、破廉恥なバラまきで、現ナマも振りまき)、「同一労働同一賃金」や「格差解消」、保育・介護労働者の賃上げと労働条件の改善等々の民進党の政策を盗み取って野党を無力化し――簡単に、そして口先だけで簡単に剽窃され得るような、安直な政策を出す方も問題です――、そんなやくざな政治で政権の維持を図るのですが、民進党や共産党や市民派は、そんな政治を追い詰め、一掃することが決してできないのです。
社民党の消滅と“革新統一戦線”の崩壊
2016年5月14日
社民党が民進党との「合流」に踏み切ろうとしています。
社会党のお鉢を受け継ぎ“細々と”その伝統とやらを守ってきた社民党も、その存在意義を失っていよいよ消滅の時を迎えようとしています。社会民主主義と日和見主義と、プチブル的な平和主義幻想や憲法神話主義の挫折であり、「次に消えるのは共産党」という事態さえ現実味を帯びてきます。
社民党が民進党の袖にすがりつくのは、共産党や市民派と共に目ざした、野党統一戦線の策動が失敗しつつあるから、それが事実上、民進党のためのものでしかないことが明らかになりつつあるからです。
社民党の挫折感は同時に共産党のものであり、さらには市民派のもので、市民派は「政党」や「専門家」(既存の野党や“革新”政党のこと)への不信と反発を強め、「業を煮やした」市民派は“憲法学者”の小林節らを中心に、独自の政党を組織して参院選を闘う方向に舵を切り替えました。
個人主義に凝り固まる市民派の「政党」とは自己矛盾そのもので、彼らは独自の“政治勢力”として登場することによって、自らの無力を悟るハメになるだけでしょう。
そして社民党と同じ立場に立ち、民進党に追随しつつも、民進党に不満たらたらで、吉田らと不遇を託(かこ)っていた志位らもまた、野党統一戦線にますます熱意を失うしかありません。といって、いまさら志位は野党統一戦線の路線を変えることもできず、志位もその権威を失うしかなく、共産党もまた社民党や市民派とともに激動するしかありません。
しかも社民党の民進党への合流は、吉田や福島らの個人的な動機さえも見え隠れしています。安倍自民党だけでなく、既成の“革新”政党や市民派もまたとことん腐り、破産しつつあるのです。
2020オリンピックは返上せよ
そしてまた、オリンピックに関して、2億円余もの買収費が日本からオリンピック組織委員会に流れたことが暴露されました。安倍が、原発事故は収束したと、虚偽の報告をして勝ち取ったような汚れたオリンピック、そしてエンブレム問題や国家育成のアスリートらの腐敗、頽廃に見られるように、実行者たちの余りにひどい現実が次々と明らかになっています。
安倍政権は「オリンピックの経済効果は3兆円」などと何の確かなこともないような、無責任で、愚劣なことをいいはやしていますが、1964年の東京オリンピックの後、まさに“オリンピック不況”が訪れ、財政法で禁止されていたはずの国債発行(国家の無原則な借金の慣行)が始まり、日本の国家破産の出発点にさえなったことを反省するなら、そしていま、東日本大震災や原発事故や熊本地震のためだけでも(“社会保障”のカネ不足については言わずもがなです)巨額のカネを必要としているとき、猪瀬都政(今では、たちまち腐敗を暴露しつつある舛添都政ですが)や安倍政権のために、あるいは“国威発揚”といった国家主義者らの時代錯誤の願望のために、巨額の無駄金をバラ撒くような2020年オリンピックは即時、断固止め、辞退すべきです。
強行してもろくなことはなく、現在のブラジルの二の舞になるだけです。オリンピックをやって、経済的に危機を招いた国はギリシャを始め幾多もありますが、オリンピックの“経済効果”が大いにあり、繁栄したという話は寡聞にして知りません。
オバマは何のために広島に行くのか
2016年5月12日
我々はすでに『海つばめ』1275号主張欄(16年4月24日付け)で、「何のためのオバマの広島訪問か」と問いただしました。
いままた、オバマの広島訪問が本決まりになった時、我々は再びこの問いを発せざるをえません。
原爆投下の「謝罪」のためでもなく、また「間違い」を認めるためでもないとするなら、単なるオバマの虚栄と名誉心のためではないのか、とするなら、オバマが広島に行き、安倍がエスコートするのは、ただ日米のブルジョア権力者たちの利益や“レガシーづくり”のためであって、第二次帝国主義世界大戦の犠牲者のためでないのはもちろんのこと、世界の労働者、勤労者の期待し、望むところではなく、また与り知らないことです。
日本のブルジョアや天皇制軍国主義者たちが、第二次大戦時の核兵器の使用に責任があるのは、彼らが核兵器使用を不可避にした戦争を開始し、国民が破滅寸前に行くまでそんな反動戦争を継続したことからも、また安倍らがそんな戦争を今もまた正当化し、擁護していることからも明らかですが、しかし帝国主義戦争のもう一方の旗頭であったアメリカにもまた責任があるのは当然のことです。彼らが戦争を始めたのではない、天皇制軍国主義の日本や極端な民族主義、国家主義のナチスドイツが始めたのだといっても、戦争の客観的な内容が変わるわけではありません。
アメリカもまた、中国やアジアの市場のために、あるいは太平洋の覇権をかけて日本と戦ったのです。
だから核兵器の使用は帝国主義戦争の不可避の帰結であって、単に核兵器だけが特別に野蛮だとか、広島、長崎の犠牲だけが問題だといったことではありません。
武器について言えば、全ての武器が、銃一丁でさえ核兵器と同じであり、犠牲者についていえば、広島、長崎の20万、30万だけでなく、日本の数百万ばかりでなく、帝国主義戦争によって死んだ中国を始めとするアジアやヨーロッパやロシアやアメリカの何千万の、何億の労働者、勤労者もまた問題なのです。
もし広島、長崎の死者が問題だとするなら、1944年から45年にかけてのフィリピンでの死者は日本人10万、フィリピン人も同じくらいであり、1945年春の沖縄戦では日本の軍人は10万、そして沖縄県民もそれくらいが死んでいるのです。無差別空爆により、45年3月10日には、一晩で東京都民が10万も焼け死んでいるのです。それらの数字は広島や長崎の死者の数と比べても同程度か、それ以上です。「悲惨さ」において、広島、長崎に比べて遜色があるというのでしょうか、どうしてそんなことが言えるのでしょうか。
もし広島、長崎の死者の20万、30万が問われるなら、日本の天皇制軍国主義者が始めた戦争によって死んでいった日本人や中国を始めとするアジアの、世界の数千万、数億人もまた問われなくてはならないのです。
広島にオバマと安倍が行くなら、彼らはともに「謝罪」すべきであり、ともに「間違い」を認めるべきなのです、そしてその点では、とりわけ安倍は真摯でなくてはなりません。
というのは、安倍は、15年戦争を始め、継続した天皇制軍国主義の国家の延長線にある国家のトップであり、さらにはこれまで執拗に、日本の過去の天皇制軍国主義の汚れた歴史を正当化するために策動してきた悪党政治家であり、しかもその上に、その血のつながりによっても(戦犯岸信介の孫であるという)、大きな責任を免れ得ない人間だからです(血のつながりという点では、事実上、最悪の戦犯の一人であった昭和天皇の息子や孫らも同様です、もっとも“天皇家”の一族でないというなら、“天皇家”といったものが、うっとうしいものが無くなっているなら、話は全く別ですが)。
ところが安倍はまるでオバマに対して優越感にふけり、今さらのように恩着せがましく、「謝罪」を要求するのではない、ただアメリカの原爆投下がどんなに悲惨で、非人間的であったかをみてもらうだけだ、などというのです。まるで日本が中国で、フィリピンを始めとする広大なアジアの領域で、どんなに野蛮で、“非人道的な”ことを繰り返してきたかを知らないかに、南京虐殺や朝鮮女性の軍事的性的奴隷化――いわゆる“従軍慰安婦”――などなかったかに振る舞い、開き直ってきたし、今も根本的にはそうしているのです。
オバマは核兵器使用の「謝罪」のためではなく、核兵器廃絶の“理想”を一歩進めるために広島に行くといいますが、そんな目的のためにオバマは広島に行く必要はありません、というのは、世界の最強国との大統領として、現実的に核兵器廃絶を力強く領導することが彼の役割であって、わざわざ広島に出かけて、観念的な願望について語ることではないからです。彼の任期中、「核兵器廃絶」はいうまでもなく、彼のうたい文句であった、「核軍縮」さえ具体的な成果はないも同然ですが、それこそが問題だからです。
むしろ「核拡散」は一層進み、核保有大国は陳腐化した核兵器を廃棄することで表面をごまかしつつ、核兵器の“近代化”を推し進めてきたにすぎません。アメリカ自身、核兵器の実験さえ継続しているのですから、どんな弁解もできません。オバマが核兵器の一掃のために真剣に努力してきたとはとうてい言えないのです、世界の帝国主義勢力の頭目国家のトップとして、そんなことはできなかったし、またしようともしなかったのです。
そして観念的な平和主義によって、いま広島で、反動的で国家主義に走る安倍政権を助けるのですが、それは日本の平和主義者たちが、自分たちの口先だけの“平和主義”や無反省の“人道主義”のきれいごとによって、事実上、安倍や軍国主義者を助けるのと同様です(オバマの広島訪問の「意義」についてのあられもない大騒ぎや、それを褒め称える彼らの破廉恥ぶりを見てください)。
安倍はさっそくオバマの広島訪問を、参院選挙前の恰好の票稼ぎの一つとして最大限利用することにし、大喜びでオバマとともに広島を訪れ、平和と核兵器反対のために闘う勇敢な戦士としての虚名をほしいままにしようと策動するのです。
安倍は事実上、反動的な戦争を始める寸前までは、立派に“平和主義者”として振る舞うし、振る舞うことができるのですが、それはヒトラーや東条らが――昭和天皇や自由主義者でさえ――そうだったのと同様です。
なぜ広島や長崎だけが、そして核兵器によって死んでいった人々だけが(そしてまた生き残った人々だけが)問題になるのか、されるのでしょうか。その意味は何なのかを、我々は考えなくてはならないのです。
そんな空騒ぎによって、本質的なものが、最も重要なことがぼかされ、ごまかされ、棚上げされて、忘却の淵に追いやられるのです。
自由主義者(リベラル・マスコミです)や個人主義者・市民主義者やえせ“共産主義者”(志位や不破らです)よろしく、核兵器で死んでいったのは特別であるとか、悲惨であるとか、日本は唯一の核兵器の被害者であるとか、「核兵器の非人道性を今に伝える被爆地には、人の心を揺さぶる何かがある」、「71年前、広島、長崎で市民を無慈悲に殺害した核兵器」(朝日新聞)等々について、もったいぶり、知ったかぶりをしておしゃべりするのは止めるべき時です、世界の、そして日本のブルジョア国家主義、軍国主義に対する、断固たる闘いを開始すべき時なのです。
というのは、今や安倍政権自身が、核兵器も国家防衛の“最小限の”兵器であり、日本憲法もそれを容認している――日本もまた核兵器で武装すべきだ――と叫ぶ時代になっているからです。
米国が君臨する時代の終焉
資本主義の危機の深化と共に、“自国本位”に
2016年5月10日
トランプが共和党の大統領候補者になり、民主党では“社会民主主義者”のサンダースが、本命のクリントンを脅かす健闘ぶりで、米国の“エスタブリッシュメント”は傷つき、動揺しています。
米国が世界に冠するブルジョア超大国、帝国主義国家として君臨し始めてほぼ百年、そんな時代が終わりつつあります。米国の地位の低下と共に、米国資本主義の本当の内容が、“普通の”資本の国家と同じ内容が、つまり資本と賃労働の、あるいは他の諸階級や諸階層との対立、矛盾が、従ってまた、鋭い政治的闘争が現れたのは偶然ではありません。
そしてまた民主、共和の候補者たちがみな口を揃えてTPP反対をアジったのに象徴されるように、米国の国家的利益を声高に叫ぶ傾向が一気に高まっています。資本主義の危機の深化と共に、米国もまた、他の国々と同様に“自国本位”に走るのであり、走らざるを得ないのです。
余裕をなくした世界中の資本の国家は、今や自国の困難や矛盾を他国に転嫁、しわ寄せし、1930年代の世界と同様に、“近隣窮乏化”の政策を採用し、他国と対立し、他国の利己主義を攻撃し、毒づくのですが、しかし自分もまた利己主義に走る以外のやり方を知らないのです。それはたちまち表面化した、資本の国家間の為替戦争にもはっきり現れています。
そして金貨幣を“止揚した”現代の資本の世界は、経済的利己主義のための格好な条件を提供し、それを挑発し、加速させるのですから、世界はますます混乱と対立、争乱や戦争さえはびこる時代へと移り変わっていくのです。
今になって泣き言をいう共産党
エセ労働者政党の解体・敗北、転向・消滅は必然
2016年5月7日
日経新聞が伝えるところでは、共産党の小池書記局長は、参院選1人区で、32の選挙区のうち、共産党の候補割り当てが一つもないことに対して、「(民進党は)欲張りすぎではないか」と不満を述べ、共産党の公認候補も、「(せめて一人くらい?)統一候補として検討するように、民進党に働きかける考えを示した」(日経5月3日)ということです。
共産党の候補者ばかりが皆降りて、民進党の方は多くが残り、どこに――せめて平等、対等とは言えないまでも――、いくらかでも誠意や信義のある「共闘」の姿があるのか、という泣き言ですが、もともと志位は、どんな犠牲を共産党が払っても野党共闘に賭けると言ったのですから、それを売り物にして、比例区で得票を伸ばそうと皮算用をしたのですから、今さら「一人くらいこちらに譲れ」と言っても、未練がましく、みっともないだけです。
早くに野党統一の候補者が決まった、高知・徳島の合併区の候補者にさえ共産党に譲らなかったのですから――もし譲るなら、この選挙区しかなかったほどです、というのは、高知は得票数が共産党が民主党に負けないような、そしてかつて衆議院でも議席を確保してきたような、全国でも数少ない県だったのですから――、その時点で共産党の候補者はないと悟るべきだったのです――、いまさら、共産党にも一つくらいといっても、証文の出し遅れです。
ほとんどの野党統一の候補者が決まった今頃になって、小池がこんなことを言い始めたのは、志位のずぶずぶの民進党追随路線に対する、党内の不満や批判が高まっている背景があるかもしれません。今頃になって、共産党の「現実路線への歴史的転換」が行われているのではないかと悟った?、毎日新聞の田所柳子記者は、「(志位路線に対する)一部のベテラン党員からは不満も出ているという」と報道しているから(毎日4月20日)、共産党の中でいくらかの動揺や亀裂の気配くらい生まれているのかもしれません。小池の発言も、党内のそんな不満を反映しているのでしょう。
ブルジョア新聞の記者さえも、決定的な日和見主義への共産党の転換が行われていると言わざるを得ないようなこの党の現実は、まさに共産党も社会党のあとを追って、党としての最終的な破綻と解体と消滅の段階に行き着きつつあることを暴露しているのかもしれません。名ばかりの労働者政党の敗北・解体、転向・消滅は必然です。労働者は今こそ、真の労働者政党(かつての社労党のような)を「再建」するために結集する時です。
突発した為替戦争
通貨安誘導競う日米の激突
2016年5月5日
円高が急速に進んでいます。
4月27日には1ドル111円台だったものが、5月2日には106円台と、わずか5日間で6円もの円高になりました。年の初めには1ドル120円台だったのですから、110円台でも円高だとして大騒ぎしていた安倍政権にとっては脅威です。
今回の急速な円高の直接の原因は、日銀が追加の金融緩和を見送ったこと、そしてもうひとつは米財務省が日本を為替政策「監視リスト」国に入れたことだと言われています。
黒田日銀はありとあらゆる金融緩和を実施し、ついにはマイナス金利まで導入したのですが、金融業界から強い批判を浴びたために、4月末の金融政策決定会合では追加の金融緩和を実施することができませんでした。そのため、追加緩和を見込んでいた市場が“失望” したというわけです。
黒田は「必要があればちゅうちょなく追加的な措置を取る」といつものセリフを繰り返していますが、「最近の円ドル相場は秩序的だ」(4月29日発表の財務相報告書)とする米国が、その同じ報告書の中で日本を為替政策の「監視リスト」国に入れたため、追加的な措置は取りづらくなると市場が判断し、円高が急速に進んだのです。
これに対し麻生は30日深夜、円高には「必要に応じ対応する」とし、米国が監視対象としたことについては「(為替介入など)我々の対応を制限することは全くない」と反発して見せました。なぜなら、円高が安倍政権の命取りになる可能性が十分あるからです。
安倍は、今月の伊勢志摩サミットで円安誘導の国際的な“協調”を演出し、米国からも円安誘導のお墨付きを期待していたのですが、それどころか、逆に一層の円高が進み、当初の思惑が吹っ飛びかねない状況になってきたのです。
安倍は自らがこの3年余、さんざん円安策動にふけってきたことを忘れて、米国もドル安誘導に乗り出したのだから、進みだした円高と闘うための日本の円安策動も問題にならないと安易に考えたのです。しかし、米国の強い反発は、安倍一派に、ブルジョア国家間の利害関係や対立がそんな安易なものではないことを認識させたのです。
ブルジョア大国同士が露骨に為替相場引き下げの戦争に突入し、緊密に見えた「日米同盟」の間にさえ、たちまち鋭い亀裂が走り、冷たい隙間風が吹き始めました。今や世界資本主義の危機の時代は、各国をして、自国の困難を他国に転嫁することを強いるのであり、またそうすることなくしてはやっていけないと、各国のブルジョアたちは感じるのです。世界中の国が、いわゆる“近隣窮乏化政策”にふけった、1930年代が再びやってきつつあるのです。
日本と米国の対立は、同時に、ブルジョア諸国間の対立であり、今やそんな対立が世界の大きな流れになろうとしているのです。というのは、資本主義世界の矛盾の深化の中で、各国はますます自国本位に、つまり利己的に振る舞うしかなく、したがってまた、米国も中国もEUも、日本と同様に、為替ダンピングを狙って低為替誘導に走り、世界中の他の国家と対立するのであり、かくして現代資本主義の「管理通貨制度」がブルジョア諸国を救うのではなく、反対に、彼らの対立を一層深化させ、激化させて、ブルジョア世界全体の解体を招き寄せる契機でさえあることを暴露するのです。
えせ「統一戦線」路線は破綻した
北海道5区補選の敗北
2016年4月25日
北海道衆院5区補選は、自民の和田13・6万票、無所属(民進、共産、市民派の連合候補)の池田は12・4万票で自公の勝利に終わりました。
野党は「善戦した」とか手前味噌で、無反省の総括をしていますが、09年には民主党が単独で闘い、町村を18万対15万で破っている選挙区です。
共産党はこのときも候補者を立てず、パスしていますから条件は今回とほぼ同じ(共産党の「固定票」は当時、1、2万程度)。そのときは3万の票差で勝っていて、今回は1万2千ほどの票差で敗北、差し引き4万余も圧倒されていて、頑張ったも何もありません、完全な敗北と言うべきです。
野党や市民派が大同団結するのだから、その力は何倍にもなるとか言いはやしていたのですが、民進党や共産党や社民や小沢派や市民派等々の大勢力?で負けたのですから、どんな言い訳も通用しません。少なくも、彼らの「大異を捨てて大同につく」といった、ペテンの統一戦線はほとんど“効力”を発揮できず、破綻したと結論すべきです。
しかも市民主義なら勝てるといった愚昧な幻想に溺れ、市民派や無党派に媚び、民主や共産などの政党は表面に出ない路線でやって負けたのですから、民進も共産も自らを否定して負けたと言うことであって、政党の体をなしていません、解党して出直すべきです。
一昨年12月の衆院選では、自民町村は13・1万、民主候補は9・5万で町村の圧勝でした。このとき共産党は3・2万でした。民主、共産の合計は12・7万で、町村との差は0・4万ほど。つまり前回0・4万の差が、今回、相手が百戦錬磨の町村ではない、ただの新人だったというのに、差が3倍の1・2万ほどに拡大したのです。
一体どこに、「野党・市民連合」の成果とか“効果”と言ったものがあったといえるのでしょうか。労働者、勤労者がそんなものに、いかがわしさと不真面目と真剣さの欠如と無力さを肌で感じたからこその敗北です。
野党や市民派の野合戦線では安倍政権に勝つことはもちろん、それをいくらかでも圧倒し、追い詰めることさえ危うい、できないということがたちまち明らかになったと総括すべきです。
えせ「統一戦線戦術」など廃棄し、安倍政権打倒のためにすべての党派が、それぞれ自主的に、自らの主張を切り縮めることなく高く、堂々と掲げて、それぞれ全力を尽くして闘い、安倍政権の打倒を勝ち取るべきです。「別個に進んで、共に撃て」、これこそが正しい闘いの道です。
お互いに相手に遠慮して、あるいは迎合し、追随して、自らにとって基本的で、重要な主張や政策を切り縮め、引っ込めて闘って、諸政党の本当の力が出るはずもなく、また安倍政権を追い詰める本当の闘いになるはずもありません。
鉄工業の過剰生産と世界社会主義
2016年4月23日
今巷では、世界の鉄工業の「崩壊の危機」(マクロン仏経済相)が言われている。世界的に鉄鋼の過剰生産がひどく、中国の鉄鋼資本だけでなく、欧州のミタルもアメリカのUSスチールもアジアのタタやポスコも南米のウジミナスも日本の新日鐵も、要するに世界の鉄鋼資本は軒並みに深刻な危機に陥り、破産に怯えながら大量の労働者の首切りに乗り出している。
世界の鉄鋼生産能力23億トンほどのうち、7億トン超が過剰であり、うち8億トンの能力を持つ中国が4億トン以上の過剰生産能力を抱えているという。中国の安価な鉄鋼輸出は1億トンを超え、世界の鉄鋼資本を恐怖のどん底に追いやっている。
すでに高度な生産力を達成し、巨大企業によって生産が行われている現代にあっては、世界的に鉄鋼生産を合理的に再組織するのはいとも簡単に思える、というのは、その物質的必要量は世界でいかほどであり、そのためにいかほどの労働が必要かは容易に確定し、計算され得るからである。世界社会主義の実現である。
しかしこのブルジョア世界では、鉄鋼の生産や分配や消費は、膨大な過剰生産や企業破綻や大量失業や、国家的な摩擦や対立の原因として現れ、混沌とてんやわんやの競争の中で何とか行われていくのだ。
鉄鋼に限らず、多くの主要な生産物が多かれ少なかれそんな状態を繰り返すだけとするなら、なぜ人類が、すでにわずらわしくも無意味な生産や分配のブルジョア的形態に固執し続けるのか、続けなくてはならないのかということに、当然なる。
被害者意識と独善を止めよ
何のためのオバマ広島訪問か
2016年4月22日
広島でG7の外相会議が開かれ、その際、米国のケリーを先頭に7名の外相が平和公園を訪れて原爆慰霊碑に献花し、また、「広島および長崎の人々は極めて甚大な壊滅と非人間的な苦難(human
suffering)という結末を経験した」と明記した「広島宣言」を発表しました。
そしてこれに勢いづいてか、安倍一派や平和主義者たちは、オバマの広島訪問について騒ぎたて、米国が原爆という「非人間的」兵器を投下したことで「謝罪」を期待し、あるいはオバマの訪問そのものが、そうした意味を持つと考えています。
彼らはオバマに広島に来てほしいのは、米国や米国人を非難するためではないと言いますが、こうした言い方自身が思い上がりであり、原爆投下そのものの原因が、その“責任”が日本の天皇制軍部や天皇一家にあったという事実を覆い隠すものです。
米国の責任を日本の反動や安倍一派が口にするのは笑止千万です、というのは、ヒトラーのドイツも、天皇制ファシズムの日本も、核兵器を米国に先んじて手にしたら、間違いなく、負け戦を勝ち戦に一転させるために、それを大急ぎで使用したことほどに確かなことはないからです。
ケリー自身、広島の惨劇を実感して口にしたのは、核兵器の「非人間性」とか、特別の残虐性といったことでなく、「戦争がいかなる惨禍をもたらすか」といった、理性的な言葉でした。もちろん、この場合、正しくは単なる戦争でなく、帝国主義戦争であり、またそうでなくてはならないのですが。
安倍一派も平和主義者も、原爆は米国が落としたと言いますが、そんな発言自体根本から間違っています。ある平和主義の被爆者は、「もう今は米国を恨んではいない」などと言うのですが、そんな発言自身が、帝国主義戦争を引き起こした日本の天皇制軍部らの責任を忘れた独善であることに気が付いていません。もし「恨む」人がいるなら、東条や天皇をこそ「恨む」べきであり、さらに、そんな連中の専制支配体制を許した自らをも「恨む」(むしろ、反省)べきです。
実際には、帝国主義戦争を戦った、世界のブルジョア的、ファシズム的大国こそが核兵器使用に――核兵器に留まらず、あらゆる武器の使用に、つまり反動的戦争そのものに――責任を持つべきであり、とりわけ15年戦争と太平洋戦争を開始、挑発した日本の天皇制軍部のファシストたちに最大の責任があります。
彼らはしかも、日本の敗戦が必至であることが明らかになってからも、自分たちの権力崩壊を恐れて、1年も2年もいたずらに日本の労働者、勤労者の死のみを増やす消耗戦を継続するという、恐るべき犯罪を犯したのです。
彼らが1週間と言わず、たった2週間早くポツダム宣言を受諾していたなら、原爆投下はなかったのですから、つまりは原爆で20万、30万の日本人を殺したのは、米国ではなく、天皇制軍部であり、天皇一家であったといって過言ではありません。天皇一家は、ただ「国体」つまり天皇一家を守るためにのみ、ポツダム宣言の受諾を遅らせたのですから、原爆投下に対する彼らの罪は第一等であって、米国が「謝罪」すべきというなら、その前に東条や天皇こそ「謝罪」すべきであったのです。
つまり核兵器の使用に罪があるとするなら、日本の15年にわたる帝国主義戦争に、とりわけ米英との太平洋戦争にあり、そんな戦争に国民全体を駆り立てた軍部やブルジョアや政府や天皇らにあったのです。
日本の労働者、勤労者は「唯一の被爆国」といった類の、被害者意識やプチブル平和主義丸出しの発言をいい加減にやめるべきです、というのは、そんなものは世界の労働者、勤労者に顔向けできない、恥ずべき独善的な発言だからです。
外務省は、米国の残虐性を誇示しようとしてか、human sufferingを、ことさら「非人間的な苦難」と訳して小手先細工にふけるのですが、根性のさもしさと卑しさはあきれるばかりです。
そして今や安倍政権は、憲法9条は核兵器保持を否定していない、核兵器もまた「自衛のための最小限の」兵器だと強弁し始めています。まさに自ら、広島、長崎への核兵器使用に責任があるのは誰かを、どの階級かを、語るに等しいと言えます。
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