労働の解放をめざす労働者党トップヘージE-メール
労働の解放をめざす労働者党
代表委員会メッセージ

【2017.10.3】
自公、希望、野党共闘派の〝三極構造〟に――空虚でナンセンスな政治闘争
【2017.9.27】
次は共産党の番だ――民進解党して小池新党へ あくつ候補の勝利のために応援と支援を――新しい労働者党に結集し、共に闘おう
小池新党に「希望」なし――「保守・改革」など、労働者は何も期待しない
【2017.9.24】
悪臭フンプンの安倍政権――新しい労働者党の闘い今こそ
【2017.9.21】
悪臭芬々たる安倍政権を打倒しよう!――10月総選挙、この1カ月を全力で闘い抜く
【2017.9.9】>
朝日新聞に対する警告状――直ちに卑しい〝天皇制差別主義〟から決別すべきである
【2017.9.4】>
「危険」は〝金王朝〟にあるのであって北朝鮮の労働者、勤労者にあるのではない――他国民の「恐怖」とではなく、自国の支配者、権力者の軍国主義や悪しき策動との闘いを!
【2017.8.27】>
小手先細工で繕うことはできない――破綻する小泉の「こども保険」構想
【2017.8.13】
安倍内閣の4年半――改造して「経済第一」と言っても誰も信用しない
【2017.7.30】
日報問題と稲田辞任――安倍の最後の「トカゲのしっぽ切り」
【2017.7.23】
2%達成時期の再延期――黒田日銀の完全破綻を暴露
【2017.7.19】
安倍に「塩を送る」も同然の裏切りだ――連合執行部、「高プロ」(残業代ゼロ)法案を容認へ
【2017.7.15】
安倍政権の現在と近未来――行き詰りと政治的閉塞の時代の到来か
【2017.7.7】
「説明責任」の問題ではない――今こそ安倍打倒を勝ち取るべき時
【2017.7.1】
瀕死(ひんし)の安倍政権――安倍も「全国展開」なる致命的「失言」
【2017.6.25】
 自民と小池の空疎な対決――民進も共産も影の薄い都議会選挙
【2017.6.18】
 民進、共産の裏切りを糺弾せよ――安倍政権の開き直りと延命を許した者たち
【2017.6.16】
安倍は直ちに首相を辞めよ――〝関与〟していたら辞めると明言したのだ

前のメッセージへ      過去のメッセージへ

             

自公、希望、野党共闘派の〝三極構造〟に
空虚でナンセンスな政治闘争

         2017年10月3日
 
 枝野が「立憲民主党」を立ち上げ、ようやく今日(10月3日、公示の丁度1週間前)にして、17年衆院選の闘いの形(構図)が明らかになってきました。自公政権に対する勢力は、もう一つのブルジョア反動派勢力としての小池新党――保守ポピュリズム的、デマゴギー的勢力(維新派も含む)、そして新装の「野党共闘」派勢力の政治闘争という、三つどもえですが、一見してそれ自体は、空虚でナンセンスな政治闘争、反動と国家主義に向かっての流れを一層強める結果にしか行きつかない政治闘争――偽りの、隠蔽され、仮装された階級的政治闘争――というしかありません 。
 民進党を――その過半を――〝取り込む〟という小池の策動は半ばしか成功せず、小池の強引で、権力主義的やり方は反発を呼び、小池新党から切られる議員たちは新しい政党に結集するしかなく、かくして大急ぎの立憲民主党の誕生となったのですが、これは小池にとっても大きな打撃で、彼女の政権取りに大きな影響を及ぼすでしょう。
  立憲民主党は志位の野党共闘の〝深情け〟に対していかなる立場に立つのか、〝ずぶずぶの〟野党共闘にのめり込むのか、それとも共産党と〝一線を画しての〟共闘にするのか(それはどんな形のものになるのか)、民進党内の保守派がいなくなったとしても、この〝難題〟は依然として残ります。それくらいなら、3党は――市民派も含めて――党を一つにしたらどうかという問題さえ出てきてもおかしくありません(それも不可能でしょう、というのは、セクト主義とドグマに凝り固まった、しかも傲慢な官僚主義的〝体質〟の共産党と合同できる勢力は皆無だろうからです)。
  志位は立憲民主党が組織され、何とか野党共闘路線が継続され、自らの路線は破綻しなかったと安堵の吐息を漏らすかも知れませんが、しかし彼が目指したのは、小池新党に走ったような連中も含めての野党共闘路線だったのですから、そしてそうした形で安倍政権を倒して政権を奪取すると主張したのですから、そんな主張自体の許し難い、裏切り的な本性がむしろ暴露されたのであって、小池のもとにいそいそと走る連中――憲法(9条)の改悪を認めるかどうか、戦争法(安保法)を容認するかどうかという踏み絵に喜々として応じるような連中――を信頼し、その裏切りを許した罪は大きく、その責任は重大です。
 我々は簡単に崩壊していくような、ガラス細工のような、実現しても無力な野党共闘に、安倍政権との闘いを矮小化した志位と共産党の責任を徹底的に追及し、今こそこのスターリン主義の醜悪な党の民進党に次ぐ解散を、つまり共産党〝打倒〟の闘いを勝ち取っていく必要があります。
  そもそも野党共闘が崩れて、小池新党が登場し、保守勢力が全体として肥大化し、野党共闘政権などが夢のまた夢と化したのですから、志位路線が破綻したことは余りに明らかです。3つの野党共闘の茶番、そのミニチュア版など仮に出現しても、労働者の力強い政治的な闘いが登場していけば、たちまち吹き飛んでしまうようなものにすぎません。

次は共産党の番だ――民進解党して小池新党へ
あくつ候補の勝利のために応援と支援を――新しい労働者党に結集し、共に闘おう!

         2017年9月28日
 
 民進党の前原は、安倍政権打倒を錦の御旗に、民進党を小池に売り渡たそうとしています。小池はそれを受けて、17年総選挙で一気に首相の地位にのし上がろうと野心を露わにしてきました。
 まさに日本の政治闘争は、資本と労働の階級闘争を根底とし、それを背景としつつ、権力妄執者、マキャベリスト(権謀術数にふける悪党)たちの――それを象徴し、代表する人間は、歴史的にはヒトラーを始めいくらでもいそうですが、今の日本では安倍や小池等々、掃いて捨てるほどに繁殖しています――、熾烈な闘争場裡と化しています。
 しかし我々は安倍とか小i池とか、その他もろもろの権力妄執者たちの闘争に一喜一憂することなく、彼らのそんな闘いの間隙をつきつつ、労働者の原則的な闘いを、政治闘争を貫徹し、深化させ、発展させて行くのみです。
 我々はまさに今回の総選挙を契機に、このブルジョア社会における、公然たる、そして公認された政治闘争の場である、選挙・議会闘争に復帰し、神奈川11区に我らの同志、あくつ孝行を公認候補として押し立て、彼を先頭に安倍政権との熾烈な闘いを勝ち抜こうとしています。
 小選挙区の闘いのメリットは、それ自身、全国的な政治闘争のミニチュア版として存在し、政党と政党の真っ正面の闘いになるということで、神奈川11区の闘いも、我々と安倍政権との、自民党との――11区において安倍政権や自民党を代表する小泉進次郎との――まさに一騎打ちの苛烈な闘いとして闘い抜こうとしています。
 つまりこの闘いで我々が安倍を、小泉進次郎を圧倒するなら、我々は全国的な闘争でも安倍を圧倒したことになる、それと同等の意義を勝ち取り得るということです。
 あくつ候補は、神奈川で行われた立候補の記者会見で、10社を越えるマスコミを前に、「負けるとは思っていない。やるからには(小泉進次郎を破って)当選を目指す」と力強く宣言しました。前回の総選挙では、神奈川11区は小泉と共産党候補の二人だけの闘いになりました。もちろん小泉が8割以上の得票で――本人がほとんど選挙区で活動しなくても――易々と勝っています。
 今回、我々を含めて3者の闘いになるか、小池新党も大慌てで候補者を擁立して来て、4候補の激戦になるかは知りませんが、いずれにせよ、小泉の〝指定席〟の選挙区になる保障は全くありません、熾烈な諸階級を代表する政治闘争の場になるし、して行かなくてはなりません。
 保守や反動の自民党や小池新党はブルジョアやプチプルの票を争って仲間割れの権力闘争にふけるなら勝手にやっていればいいのです。
 我々は労働者、勤労者の政党として、労働者、勤労者の大きな支持を獲得すべく全力を尽くすのみです。
 共産党など問題にする価値さえありません。志位のお粗末で、矮小で、余りに愚劣な戦術――野党と市民派との〝共闘〟とか、国民連合政府等々で、安倍政権打倒を可能にする――が、民進党前原の小池新党への身売りによって破綻したのは余りに明らかです。
 共産党は総選挙にあたっても、頼みの綱として野党共闘に固執し、「民進党は共産党と一緒でなければ、共産党の助けがなければ、自民党に勝てない」などといって民進党に媚び、迎合したのですが――悪女の深情け?――、民進党の前原に愛想を尽かされ、袖にされたという、情けない話です。
  激怒していますが、「身から出た錆」で、激怒してもどうなる話ではありません。民進党や前原らを信用した志位が――我々は、民進党など信頼できない、信頼したらとんでもないことになると、どれだけ〝忠告〟したことでしょう――単に比類なく愚かだっただけです。
  志位に残された道は、単に委員長を辞めるに留まらず、かつての社会党や、今日の民進党のあとを追って、今では名ばかりを残す共産党を解体するしかないかに見えます。
  いっそのこと、原発廃止を謳う小池や小泉(もちろん、親父の方ですが――小泉純一郎こそ、かつて自分の後継として安倍を指名したのです、つまり安倍政権の悪行に誰よりも責任を負う、暗愚で洞察力を最も欠いていた人間なのです。今さら安倍政権打倒も何もありません)の政策に、「原発廃止」という、当面の最重要課題の〝一点〟で一致するのですから、他の「大事」をみな棚上げして、民進党のあとを追って、小池新党に合流したらいかがですか。
  そんなことになっても、20年前の社会党や今回の民進党(民主党)の場合と同様に、労働者、勤労者は何の痛痒も損失も感じないでしょうし、誰も民進党や共産党の退陣を、当然視こそすれ残念とも思わないでしょう。
 というのは、新しい、闘う労働者党がすでに力強く前進を開始しているからです。 小泉進次郎と安倍政権に断固として対決する、神奈川11区のあくつ孝行の闘いに大きなご支援を!
  新しい労働者の政党、「労働の解放を目指す労働者党」に結集して共に闘いましょう!

小池新党に「希望」なし
「保守・改革」など、労働者は何も期待しない

         2017年9月27日

  総選挙を前に、小池新党・「希望の党」が立ち上がった。小池自ら、代表に就任し、首都圏で50人以上、全国に候補者を擁立するという。
 だが、労働者、勤労者はこの党に何も期待しない。
 もともと、小池は細川の日本新党を出発点に自民党に合流したブルジョア政治家であり、第一次安倍政権の時には防衛大臣も務めていた。7月の都議選直前までは、小池は自民党員でもあり、その政治の根底、安全保障政策などで安倍自民党と異なるところはない。  「日本のこころ」が「希望の党」に合流するというが、小池の狙いは「第二民進」ではなく、保守政党としての立場を明確に押し出したということであり、「憲法改正」の内実も安倍自民党と大差があるわけではない。原発ゼロも言い出しているが、彼女のポピュリズム政治の一つであろう。
 そして保守の「改革」を押し出すが、内容はほとんど何もない――「東京大改革」を持ち出したが、具体的な内容は何もないのと同様だ――、築地市場移転問題では、築地は生かす、豊洲へ配転すると両案を足して二で割るようなごまかしをしただけだ(アウフヘーベンという言葉で人を煙に巻きながら)。そこにあるのは、安部や維新の橋下と同じようなデマゴギー政治であり、権力欲(希望でなく政治的野望だ)だけが見え隠れしている。
 都議選で、小池率いる「都民ファースト」が勝利したのは、安倍政治に対する都民や国民の不信と怒りの高まりとともに、民進・共産などの野党の無力がはっきりしていたからである。その結果は、自民党は後退したが、自公と都民ファーストによる保守政治の圧倒的支配という現実である。「希望の党」とは、自民党政治の補完勢力であり、労働者、勤労者は何の期待も抱くことはできない。
 総選挙はいよいよ本番であるが、小池新党の登場で、状況は大きく変わる様相を見せている。ただ、現在の政治に欠けているのは「保守・改革」といったことではなく、労働者の本当の闘いであり、その政治的進出である。
 わが「労働の解放をめざす労働者党」も候補者を押し立てて参加することを決めている。この選挙戦を全力で闘い、労働者の闘いの新たな地平を切り開いていきたい。

悪臭フンプンの安倍政権
新しい労働者党の闘い今こそ

         2017年9月24日

   新しい労働者の政党として、我々が総選挙参加を決定し、その準備を始めたさなか、9月17日の日曜日早朝、安倍が10月、国会解散・総選挙を決めたとマスコミは一斉に報道し、来年12月まで任期が残っているにもかかわらず、総選挙が行われることになりました。

底抜けの政治腐敗糾弾

 安倍の権力私物化と悪用は、森友学園・加計学園のスキャンダルでも明らかですが、それにしても政権延命のために何をしても構わないかのやり口には呆れるばかりです。北朝鮮の危機が異常に深化していると自らいいながら、総選挙などしている場合でしょうか。 しかし安倍のどんな策動があろうとも、また供託金や選挙闘争参加への多くの不当な差別がますます激しくなろうとも、我々は決然として、我々の再び開始した闘いを最後まで貫徹する覚悟です。

「人づくり革命」の空っぽ

 安倍がまず総選挙で強調する政策は、「人づくり革命」といったものですが、それは仰々しい言葉のアヤとは裏腹に、極めて安直で、内容のないものです。
  安倍が「人づくり革命」の内容としてあげるものは、幼児教育の無償化や、すべての人に対する大学教育の機会確保や、社会人が再び学校に戻って教育を受けられるようにする、といったことにすぎません。
  そもそも少子高齢化や人口減少だから、もとの「高度経済成長」に戻さなくてはならない、教育への「投資」だ、高齢者向きにかたよっている社会保障を「全世代型の」社会保障に変えるというのですが、理屈の筋道がめちゃくちゃです。
  教育費の負担を軽減することがその手段だというのですが、なぜそれが少子高齢化社会の克服になるのか。教育費負担を減らすと、若い世代が子供を増やすだろうと言うのでしょうが、若い世代が希望と喜びを持って結婚し、子供を生み育てられるようにするというなら、まず彼らの労働条件や賃金をこそ、その生活条件をこそ抜本的に改善することから始められるべきです。

財政膨張を野放し、国家破産、生活破壊へ一直線

 しかもそんな政治のために、何兆円という余計なカネが必要ですが、それを借金(赤字国債の増発)でやろうというのですから、安倍の無節操、無原則には限度がありません。彼は2020年までにとにかく財政均衡を実現すると大言壮語してきたのです。
 「幼児教育」への「投資」といっても、カネを各家庭にバラまくというのですから、「幼児教育」――それがどんなものだかは知りませんが――の「投資」になるなどということは間違ってもあり得ません。せいぜい金持ち家庭の「お稽古ごと」に支出されるか、貧しい家庭では生活の足しにされるのがオチというものです。

社会保障政策もめちゃくちゃ

 安倍はまた9月12日、商業新聞のインタビューに答えて、教育無償化の財源として国債(「教育国債」)を増発することなどに加えて、社会保障を高齢者に「偏らず」やるなどと主張し始めています。
「高齢者向け給付が中心となっている社会保障制度を、全世代型社会保障制度に改革していく」
  安倍はすべての階層、階級の人々に訴え、全ての国民の支持を得ようとして、ありとあらゆる人に〝アベノミクス〟の恩恵が及ぶように苦心惨憺するのですが、結果として、とことん矛盾し、とりとめのない立場に落ち込み、今では――最初のうちはともかくだったのですが――すべての人の利益と感情を損ね、すべての人を怒らせ、すべての人から嫌われる、悪しき八方美人のように振る舞っています。
  安倍の言う「全世代型の社会保障」とは、「全世代」からうとまれ、拒絶されるトンチンカンの政治であり、ここにあるのは、〝全世代型の〟バラまき政治、底抜けのバラまき政治です。
  あげくの果てに、消費増税の強行を策し、そんなカネをバラまけば教育支出が増大するから、景気にプラスになるとおっしゃるに至っては、空いた口がふさがりません、というのは、安倍は過去2回、消費増税は国民の支出を鈍らせ、景気に悪影響を及ぼすといって延期して来たからです。こんどは反対に、消費増税をすれば景気が良くなるといって、誰が信用できるでしょうか。全くいい加減で、冗談にもほどがあります。
  そして安倍は5年近くも続けてきて、未だに実現していない消費者物価指数2%の引き上げをさらに追求するというのですが、毎年2%ずつ物価上昇が続くなどという社会を、働く者は少しも望んでいません。

行方も知らぬ「改憲の道」かな  

 そして経済優先とあれほど言ってきたのに、今や本性を現して、憲法改定の意図を露骨に出してきましたが、改憲論者として腰も据わっておらず、憲法9条を明瞭に変えるのでなく、もとの9条は残しつつ、「自衛隊」という〝言葉を入れること〟にこだわるというのですから、無責任で、いい加減なものです。
 安倍が政治生命を賭ける9条改定は、国家主義派にとって「目の上のたんこぶ」の1、2項を残して、自衛隊合法化の3項を加えるというのですから、安倍らにとっても矛盾した、大義のないもの、単なるご都合主義になっています。保守派の中からさえ「筋も通らず、論理もない」と批判されているようなものですから、労働者、勤労者派もちろん、保守派、反動派の支持さえ期待できそうにありません。
 そんな改革をしたら、9条はそれ自体矛盾し、憲法も混沌としたものになるしかありません。後々混乱と紛糾のもととなるだけです。
 安倍は「改憲した首相」という名前だけがほしいのですから、破廉恥です。

安倍に大言壮語の実行を迫ろう――新しい労働者党の闘い  

 我々は春の大会で総選挙参加を決定すると共に、「長時間労働に象徴される搾取労働、非正規労働者の急増に代表される搾取労働の即時無条件の一掃」をめざし、そのために闘い抜くことを明らかにしました。
 しかし我々のこれらの要求は、実際には、昨年の秋、安倍自身が「働き方改革」を謳い、同一労働同一賃金を断固実現すると大ぼらを吹いたとき、差別労働の廃止は「待ったなしの重要課題」と叫び、また、「この日本から非正規労働という言葉を一掃する」と豪語したのと同じです。
 またその頃、安倍は長時間労働の一掃も「躊躇(ちゅうちょ)なしに行う」と断言し、約束しました。
 だから我々の差別労働、搾取労働の一掃の要求は、安倍が空約束したものの実行を迫るものです。働く者にとっては当然で、全く正当な要求です。
 安倍は自らの責任で必ず実現すべきです。共に闘い、断固として実現していきましょう。

悪臭芬々たる安倍政権を打倒しよう!
10月総選挙、この1カ月を全力で闘い抜く

         2017年9月21日

  臨時国会の冒頭解散、10月下旬の総選挙が決まりました。アベノミクス、「異次元の金融緩和」、森友・加計疑惑など、悪臭芬々たる安倍政権打倒のチャンスが到来したということです。

 この5年近く、アベノミクス、女性活躍社会、一億総活躍社会、人づくり革命など、安倍政権は次々の新たな政策を打ち出してきましたが、そのすべてがごまかしであり、労働者、勤労者にとっていいことは何もありませんでした。
 現実は、労働者の4割に増えた非正規労働者の差別労働、長時間労働に代表される搾取労働「が」広がり、労働者、勤労者の生活と労働の苦しみ、安倍政権への不信と怒りは広がる一方です。  選挙に向けて、安倍政権は新たな「争点づくり」を出しています。
 19年10月に予定される消費税引き上げについて、その増加分を借金返済ではなく幼児無償化など社会保障に振り当てるとか言い出していますが、全く不真面目な政治、ごまかし政治(ポピュリズム政治)と言うほかはありません。借金返済をやめれば、千兆円に上る財政赤字(国債)は一層拡大するということであり、そんな政治を誰も信用しません。憲法「改正」として9条など4点を公約に盛り込むとも伝えられます。
 もう安倍政治はたくさんだ、という声は全国に広がっています。私たち「労働の解放をめざす労働者党」(略称・労働者党)はその声を代表して闘う決意です。
 今回の総選挙で労働者党は、神奈川11区で公認候補を・あくつ孝行(67歳、党代表委員)を決定し、20日には横浜で記者会見も行いました。
 民進党の離党騒ぎなど、野党の無力は明らかです。それに代わる新たな労働者党の登場が求められています。
 神奈川11区は自民党の「若きホープ」、小泉新次郎の選挙区ですが、この闘いを安倍自民党政権打倒の突破口にすべく、その意味では安倍一派一掃の先頭に立つ決意です。  多くの皆さんのご支援を呼び掛けます。

朝日新聞に対する警告状
直ちに卑しい〝天皇制差別主義〟から決別すべきである

         2017年9月9日

 朝日新聞らは、もしアメリカにおける、トランプらの「人種差別」を激しく批判するのなら、そして白人反動派連中の卑しい「ヘイトスピーチ」などに嫌悪して、それを非難するなら、なぜ日本における、嫌悪すべき身分差別を、人間の「出自」における差別に反対しないのみならず、自ら先頭に立って、そんな差別主義を演出し、その先頭に立つのか。
 我々は〝天皇制差別〟について、天皇家に対する〝差別主義〟について言っているのだ。
 九月四日の朝日新聞を開いて、我々はリベラル新聞の堕落ぶりに呆れ、激しい嫌悪感を抱かざるを得なかった。何を考えてかしらないが、一面を先頭に、天皇一家の真子と小室某の婚約内定の記事で2,3面が埋め尽くされている。たかが幼稚で、未熟な青年男女の婚約記事を一体何のために、どんな意図からかくも大々的に報道するのか、しなくてはならないのか、そんなことにどんな意義があるというのか。
 天皇一家の出来事だからというのか。しかしそもそも天皇一家とは何なのか。憲法では確かに、日本国の「象徴」とか謳われているが、そんなことは憲法で書かれているだけで、どんな実際的で、合理的な内容も意味も持ってはいないのである、つまりは憲法が述べているだけの絵空言でしかない。
 朝日新聞ともあろうものが、正当であり、合理的であると無条件で認めていいことではない。
 問題は日本の〝良心的な〟世論を代表するとうぬぼれるリベラルマスコミの雄が、常日頃から人間差別に反対し、ありとあらゆる差別発言に鋭敏に反応し、ヘイトスピーチに対して断固として非難する朝日新聞が、平気で、人間を差別する、一種の〝ヘイトスピーチ〟を何百万人が目にする紙面を利用して行って恥じないことである、野蛮であり、ナンセンスであるとも思わないことである。
 天皇や天皇一家を特別扱いし、他の人間と違う人間であるかに言いはやし、持ち上げ、チヤホヤすることは、果たして人間を差別する、卑しい、非難され、糺弾されるべき言動ではないのか。朝日新聞などは、普段は人種差別に対するヘイトスピーチに対しては、断固としてそうしてきたのである。
 アメリカにおける不法入国者の子供に対する、トランプの仕打ちを〝差別主義〟であり、許しがたいと大騒ぎする朝日新聞は、なぜこの日本国内の天皇一家に対する〝差別主義〟の先頭に立つのか。なぜ自らに対して、自らの差別的言動を止めることから始めないのか。天皇一家と、他の人間や日本人と、一体人間として、あるいは日本国民とどんな違いがあるのか。何もありはしない。
 人種差別は他の人種や民族や国民に対する差別だから、自らに比べて、下等な、卑しい人々だと叫ぶから悪いが、天皇一家に対する差別は、自分たちとは違って、〝貴種〟か何かは知らないが、あるいは身分か、出生からかも分からないが、とにかく人間として上に立つ一家に属する人々、どんなに小さな子供でも「さま」を付けて呼ばなければならない人々――真子さまだ、佳子さまだ、悠人さまだ等々――とすることもまた、許し難い人間差別ではないのか。
 自分より下の人間として卑しめるのでなくて、生まれながらに上等な人間として持ち上げ、敬い、尊敬するのだから、何の差し支えない、「差別ではない」とでも、朝日新聞のリベラルたちは言うのか、強弁するのか。諸君の人権意識はその程度のものなのか。
 しかし天皇一家を特別な人間として持ち上げるのは、他の人々を卑しめることであるということを、戦前からずっと〝部落差別〟に反対した人々はよく知っていて、一方に神の血を引くという天皇一家がいるから、他方で、その対極として、生まれながらに卑しいという〝部落民〟がいなくてはならないのだと強調して来なかったか。
 別に部落民として差別された人々を持ち出すまでもない、天皇一家を他の全ての国民と区別し、差別して「象徴」か何か知らないが、神聖視し、持ち上げ、絶対化することは、それだけ国民の全体を天皇らより下の人間として低め、貶め、差別することになるという、簡単なことに気が付かないのか、知らない振りをしているのか。新聞人としての、社会の「木鐸(ぼくたく)」としての誇りはどこへ行ったのか。
 そもそも天皇が日本国や国民の「象徴」などとは、どういう意味なのか、日本の何を「象徴」しているというのか。 日本国が民主主義国だというなら、天皇の〝差別的な〟存在自体が、すでに日本国のあり方と矛盾してしまっている、とするなら、いかにして天皇は日本の国家や国民の「象徴」なのか。憲法は出生によって国民を差別してとはならないと明言している。天皇の存在自体が、国民を天皇からすでに「出生によって差別している」とするなら、憲法と矛盾している。また、明治維新後の現行天皇制ほどに古色蒼然として、男女差別や忌むべき〝男権主義〟によって貫かれているものはないが、それはまた憲法の男女同権の規定に真っ正面から背いている。そんな天皇らが国民の「象徴」であり得るはずもない(日本の現実が、男女差別や男権主義という恥ずべき原理に今なお基づいているから、それでもいいのだというなら、何をか言わんやである)。
 彼らが天皇制を擁護し、美化するのも当然である、というのは、戦争中にはそれに協力し、その先頭に立ちながら、敗戦後にはころっと立場を変え、実は内心では――〝内心〟のことを誰か知り得ようか――戦争に反対していたのだと多くの自由主義者は弁解し、自己正当化に走ったが、そんな偽善的な立場は昭和天皇一家と瓜二つだったからである。
 朝日新聞は直ちに天皇一家への差別を止めべきである、というのは、それは朝日新聞の編集方針の根底に触れるからである。一方で差別に強く反対しつつ、他方で余りに明白な国民差別を持ち上げ、美化し、推奨するからである。彼らはすでに1945年まで、天皇制を持ち上げ、天皇の名で国民を15年の無意味な反動戦争に駆り立てるという、許し難い、犯罪的な裏切りを行ったが、その反省が何もできていないのである、批判的な立場も失って堕落し、今や同じ過ちを犯しつつあるのである。 直ちに卑しい〝天皇制差別主義〟から決別すべきである、さもなければ、我々は朝日新聞等々のリベラルといったインテリ人種は、最低最悪の欺瞞者たちであると結論するしかない。

「危険」は〝金王朝〟にあるのであって北朝鮮の労働者、勤労者にあるのではない
他国民の「恐怖」とではなく、自国の支配者、権力者の軍国主義や悪しき策動との闘いを!

         2017年9月4日

 金正恩はミサイルの無警告発射とか水爆実験とか、まるで愉快なおもちゃを持った幼児が、それをもてあそび、悦に入ったかに振るっています。自らの権力を防衛し、永遠化するためですが、世界中のどんな国家もそれを止めさせることができないかです。
 トランプはアメリカの強大な軍事力――それに比べれば、金王朝の軍事力などこけおどしで、おもちゃのようなものにすぎません――を振りかざし、話し合いの場に引きずり出そうとするのですが、金正恩は知らぬ顔を決め込んでいます。トランプは中国やロシアの手を借りて北朝鮮に圧力を掛けることを望むのですが、両国は自らの利害が絡んで、簡単にトランプの手に乗ろうとしません。安倍は最大限の言葉で危機をわめき、断固許さないと強がりますが、所詮はトランプに頼るしかありません。北朝鮮王朝が安倍にふり向き、顔を立てるなどと言うことはあり得ないからです。金正恩にとっては安倍など雑魚であってどうでもいいのです。
 無力な共産党は経済力や武力で「圧力」をかけるのではなく、「平和的な」話し合いや「対話」で問題を解決せよといいますが、そんなことが可能か、また「解決」というが、いかなる「解決」なのかについては何も語りません、また語ることができません。「対話」で解決するなら、そもそも金正恩問題が存在するはずもないという、簡単な現実を志位や不破といった観念論者たちは忘れることができるのです。金正恩の専制権力を一掃することこそが、トランプや安倍や習近平やプーチンらの権力支配を一掃することと共に必要なだけです。
 金正恩に対しては「対話」がだめだというなら、経済的、軍事的「圧力」の強化や、最終的には「軍事的オプションの選択」しかない、敵基地攻撃だ、先制攻撃だというのが、日米の、世界の反動的ブルジョアや軍国主義者の立場で、彼らは着々とその準備も整え、実行の機会を狙っています。ブッシュがイラクに対して、イスラエルがアラブ諸国家に対して採用してきたようなやり方です。
 世界的な核兵器廃絶の動きに反対し、自ら膨大で狂暴な核兵器で武装しながら、他国家に対する核兵器保有禁止などあり得ません。もし米英や中ロが、他国の核武装に異議を唱え、それが「危険」であり、不届きだから許さないというなら、自らも非核化について語った上でなければナンセンスであって、相手が素直に受け入れるはずもありません。
 そんな連中は――例えば日本の安倍らは――、北朝鮮の核武装に反対して声を涸らせながら、実際には核保有国の立場から発言し、行動しています。そんな日本が、今後、核国家に容易に転向するほどに確かなことはありません。安倍は「唯一の被爆国」について語りますが、何の意味もない空文句であって、事実上アメリカの核に「依存している」のですから核国家も同然であり、さらに今後独自の核保有国家に機会があれば、そしてまた時至ればいくらでも移行して行こうと企んでいます。
 そんな虚偽に満ちた世界では、核保有国はこれからもいくらでも増え続けるでしょう。第二次世界大戦後の一時期、共産党ら(スターリン主義者たち)は、ソ連や中国は労働者、勤労者の国家であり、だからそれらの国家や、その保有する核兵器は「危険」でなく「安全」だと言いはやしました。そして中国やインドなどの新興国はみな核兵器に反対する勢力であり、そんな国家が世界の中で圧倒的な大多数なのだから、招来の世界は核兵器もない、平和で「安全な」な世界になるだろうと強調し、はやし立てたのですが、今では中国もインドの核保有国家に成り上がり、金正恩の北朝鮮もそんな国家の仲間入りを求めて争うような世界になりはてました。共産党は一体何を見、どんな将来を見たのでしょうか。彼らは世界についても、その動向についても、何も理解していなかったのです。
 トランプも安倍も金正恩も、みな自分ではなく、相手国家やその権力者が――労働者、勤労者もまた――極悪人であるとして最大限の呪詛と言葉で攻撃し、憎しみをあおり立てていますが、日本の、朝鮮の、世界の労働者、勤労者は、そんな争いの根源はブルジョア的生産様式や階級社会や、トランプとか安倍とか金正恩とかの支配者や専制的独裁たちの間の問題であり、彼らの利害にかかわることであって、自分たちには関係のないこと、自分たちは世界のありとあらゆる国家の労働者、勤労者と兄弟姉妹であって、悪口を言い合ったり、憎しみ合って攻撃したり、他国民が危害を及ぼし合うような〝危険な〟存在では決してないことを知っており、また理解しています。
 世界中の労働者、勤労者を憎しみ合わせようとして、軍事的膨張や挑発や脅迫に走ったり、他国の労働者、勤労者に対する憎しみや憎悪をあおり立てて、自分たちの崩れ落ちていく腐敗権力、反動権力を補強し、救おうとするトランプや安倍や習近平やプーチンらのやましい意図や、世界の労働者、勤労者を相互に対立させ、闘わせ、自らの権力を強化し、囲い込もうとする彼らの汚い策動に反対し、彼らこそが、彼らの政権こそが、恐怖と危険と諸悪の根源であることを暴露し、世界中の労働者、勤労者と心を通わせ、連帯して共に闘う必要があります。いたずらに「恐怖」や「危険」を扇動し、煽りたてる安倍らにだまされ、その手に乗ってはてはならないのです。
  国家主義ではなく国際主義こそが世界の労働者、勤労者の唯一の立場であり、世界にはびこり、発展する軍国主義や帝国主義に対する闘いの出発点です。他国民やその「恐怖」とではなく、今こそ自国の支配層や権力者の軍国主義や悪質な意図や策動との闘いが必要なのです。

小手先細工で繕うことはできない
破綻する小泉の「こども保険」構想

         2017年8月27日

 小泉進次郎の「こども保険」構想は一部のリベラル・マスコミや市民派の指示を得ただけで、労働者、勤労者はもちろんブルジョアたちからさえも支持されず、彼はやむを得ず、それをつまらない小手先細工で補修し、取り繕うと、今や金持ちがそれを応援すべきだと支配層の道徳心や良識に訴えています。彼の新しい主張は、「経営者は年金を返上せよ」といったもので、次のように得々と語っています。
 「全世代が支え合う社会保障のムーブメント(社会運動)を作りたい。そのために、年金を必要としない富裕層に年金返上を求めて子育て財源に充てる制度を考えている。┅┅┅返上者には厚労大臣表彰や叙勲などをすることも考えられる」。
 「すでに経団連と経済同友会の皆さんにはお願いした。話しをしたらきょとんとされたが、『年金をいくらもらっていますか』と聞くとみなさんは答えられない。年金額を見る必要がないくらい余裕があるからだ。その後『返上したよ』と連絡をくれた企業の会長もいる」(朝日新聞8月25日)。
 この幼稚なおぼっちゃんエリートは、経営者全員の年金の寄付が仮に可能になったとしても、彼の提案する「こども保険」金額1・7兆円のほんの一部にさえならないことを知らないかに振る舞っています。しかも彼はブルジョアたちの自発的な寄付でやるというのですから、そんなカネが全くのはした金にしかならないのは最初から明らかです。
 彼が金持ちたちの自発的な〝善意〟などに期待しないで、経営者たちや金持ちたちを国民年金制度の枠外に置くというならともかく、そんな〝制度的〟で、根底的な改革をやる意思も、また提起する信念も勇気もないままに、経営者たちの「返上」などで問題の根源がいくらかでも解決するかにいうのは欺瞞であり、余りに破廉恥というしかありません。
 彼は経営者たちに「年金をいくらもらっていますか」と聞いたと言うが、余りに常識がなさ過ぎます。ブルジョアたちが答えられなかったのは当然です、というのは、彼らは現役のブルジョアとして、軽く何千万の所得を得ているような連中だからです、年金階層に入るような人間ではないからです。
 そしてもし、彼らの中に年金をもらっているような人間がいるとするなら、日本の社会保障制度といったものが、その本質において、単なるカネのばらまき政策と同レベルの、いかに原則のない、いい加減なものであるかを暴露するのです、というのは、何千万もの所得がある経営者までが年金を手にする制度といったものがナンセンスであり、労働者、勤労者をバカにしたものであることは一見して明らかだからです。
 そもそも年金について語るなら、ブルジョアたちや元ブルジョアたちがもらっている、月何十万もの年金ではなく、せめて年金支給制度の大きな不平等や差別やその一掃について語るべきでしょう。
 小泉はまた、「僕らが社会保障に一つの答えを見出したのは、保険は共助だから。その支え合いの理念をしっかり生かすことが大事だ」とも語っています。
 このお坊ちゃんエリートは、「保険は共助」だというが、その意味を理解していないのです。「社会保険」制度はもともと労働者、勤労者自身の「共助」として生まれたのであって、それは「共助」であると共に、資本によって搾取され〝弱者〟であるしかない労働者、勤労者自身の自己防衛のための制度であり、そうした枠内での「共助」であり、相互扶助であって、単なる「共助」ではありません。労働者、勤労者の「相互扶助」は労働者の掛け金の範囲内のものであり、だからこそ彼らの「共助」であり、相互扶助なのです。小泉が持ち出すような、ブルジョアたちが支援したり、寄付したりして実現するようなもの――支配階級のお情け、お慈悲――とは本質的に別のものです。小泉はこうした根本的なことが分かっていません。
 しかも小泉の「こども保険」構想は、もともと厚生年金保険料に1%上乗せして財源を確保するといったものであったはずです。労働者の年金保険料を上積みしてそれをくすねたようなカネで、どんな「こども保険」か、子育て支援でしょうか。
 未来の子供たちのためだ、などと口先だけは格好いいが、その理由は、人口が減ると労働力も減り、自分たちの年金制度や社会保障が危うくなり、維持できないというのですから、何のことはない、ただ自分たちが年を取り、老いたときのことを心配しとているだけであって、将来の世代に負担を掛けないも何もあったものではありません。手前味噌のご都合主義を口にしているだけです。もっともらしく、未来の世代をダシにして、自分の利益を追求するということで、余計にたちが悪い利己主義者たちというしかありません。
 そもそも「子育て支援」とか色々いいますが、要するに子供のいる家庭にバラまきをするということでしかなく、そんな政策――政党や政府のための、そして選挙目当ての、心疚しきバラまき政策――は民主党政権が派手にやり、さらに安倍政権が受け継いできた政策で、「子育て支援」としてどんな〝効果〟や意義を持ったかさえも曖昧な政策でしかありません。むしろ働く女性労働者にとって実際に、そして緊急に必要な保育所の完備等々の政策の足を引っ張り、そのためのカネを減らしてきたと総括すべき、悪しき政治の一つでしかなかったのです。
 小泉が「こども保険」について唯一言えることは、現役世代の労働者、勤労者よ、子供のために給料の一部を割いて、カネを出しなさいよ、それは子供たちのためではなく自分たちの老後のためだからですよ――情けは人のためならず――、といった、つまらないことだけです。こんなものは、現役世代への、余計なお説教、いらぬお節介のたぐいでしかありません。
 なお悪いことに、子供たちのためというバラまきは、まさにバラまきであるが故に、バラまき政策の本性ゆえに、近未来の人口増をほとんど保障しないばかりか、「子育て支援」にも無力であって、単なる無駄金支出、浪費に終わるのです。
 そんな当てのない、散漫な政策を人気取りのために持ち出すような政治家は、最低の、幼稚なポピュリズム政治家であって、非難され、糺弾されこそすれ、チヤホヤと持ち上げられるべきではありません。

安倍内閣の4年半
改造して「経済第一」と言っても誰も信用しない

         2017年8月13日

  安倍改造内閣は発足しましたが、閣僚の発言や国会の閉会中審議における答弁を見ても、安倍内閣の言辞や言い回しやインチキは変わらず、たちまち幻想がはげ落ちてしまいました。
 安倍政権自体、再び「経済第一主義」だといって見ても、本人たちが自信も見通しも伴ってその内容を展開できないのですから、国民が今さらそんなものに感銘を受け、安倍政権に対する信頼を回復するなどあり得ないことです(戦争でも起こるとか、安倍が進んで戦争を始め、「国家防衛」を叫ぶことができるなら別ですが、残念なことに北朝鮮は威勢のいいはったりや空虚な強がりだけで、戦争を実践的課題として挑発する意思も度胸も展望もなく、安倍政権の「国家防衛」の合い言葉のもとに国民が総結集するような情況も訪れそうにありません)。
 日銀もすでに物価上昇2%のスローガンも事実上降ろしてしまい、そんな御符の効き目がないことを自ら認めてしまっているのが現状です。
 2%の物価上昇がどうでもいい空文句であったとするなら、それを可能にするためと称して、「異次元の」金融緩和をやり、湯水のように日銀券を増発し、日銀の資産を何百兆円にも膨らませ、国家金融を事実上機能不全に追い込み、金融破綻、財政崩壊、そしてインフレ社会の淵にまで日本経済を追い込んできただけであったと結論するしかありません。
 安倍政権の4年半は、政治においても、経済政策においても、国家の頽廃と破滅に道を開くような邪道と邪説と悪徳の支配した4年半と結論するしかないのです。
 民主党の3年間の政治が厳しく問われ、国民に全体として否定され、愛想を尽かされた――今もそうである――ように、今度は安倍政権が国民の全体によって、かつての民主党政権と同様に否定的に評価され、断罪され、告発され、悪しき政権のもう一つの例として、長く評価されることになるし、なるしかないのです。それは安倍政権が自ら撒いたタネであり、結果なのです。

日報問題と稲田辞任
安倍の最後の「トカゲのしっぽ切り」

         2017年7月30日

 28日、稲田防衛大臣は特別監察報告を提出するとともに、辞任を表明しました。
 稲田の辞任は、安倍の最後の「トカゲのしっぽ切り」であり、最も信頼する忠臣の首切りは「泣いて馬謖を斬る」の類です。日報問題で、3人の現場(新軍部)の最高幹部の首を切りながら稲田の首を切らないですませるはずもなく――せめて、「けんか両成敗」の形をとることなくしては、安倍は新軍部と正面から衝突し、けんかを売ることになりかねません――、安倍は自らを守るためにも稲田に引導を渡すしかなかったのです。
 安倍と稲田が、日報の隠蔽に関係なく、軍部の日報隠しに無関係であったなどと言うことはあるはずもありません、というのは、安倍と安倍政権は日報を隠すことに、軍部の幹部以上に、決定的な利害関係を持っていたからです。
 日報隠しは安倍政権にとって必要であり、重要なことでした、というのは、それは安倍政権の延命にとって欠くことのできないことだったからです。日報隠しが行われたのは、南スーダンPKО派遣の破産を隠すために、日報の報告する事実はあってはならないものだったからです。安倍はここでも、自分の政権の延命のために、事実を隠し、責任を自衛隊幹部や、稲田にさえ押し付けるのですが、問題は安倍の権力欲や虚栄やうぬぼれ、名誉欲でしかないのです。
 暴力装置の軍隊の中に、政治不信が広がり、しかも本来なら、彼らが信頼し、頼れるはずの安倍政権に対する、不信、怒り、反発が生まれ、深刻なものとなっているのは危険な兆候です。1930年代、政治の腐敗に対する軍部の反発や怒りは軍部ファシズムとして結実して行きましたが、今や新しい軍部の政治からの離反と自立化の気配さえ生じてきています。
 政治の無力や混乱や腐敗が深化していき、経済社会が混沌とし、解体していくなら、ブルジョア「秩序」の最後の支柱として、軍隊の政治化、ファッショ化が進まないという保証は何もありません。2・26事件では、軍部の決起は粉砕されましたが、その後、かえって軍部の権力が強大化していった歴史的経験から我々は学ぶ必要があります。
 安倍とその政権の政治的挫折や破綻は、経済的、財政的挫折や破綻であり、したがってまた訪れつつある政治的危機は同時に経済的、財政的危機であり、その顕在化や深化でしょう、つまり政治的であり、また同時に経済的でもある激動の時代の訪れであるのです。
 こうした時代と歴史的な瞬間に、我々が再び労働者、勤労者の政党として登場し、公然たる闘いを再開する意義と我々の責任に深く思いを馳せ、決意を新たにすべき時です。

2%達成時期の再延期
黒田日銀の完全破綻を暴露

         2017年7月23日

 黒田日銀はこの20日、金融政策決定会議で、物価上昇2%の日銀の政策目標の達成をさらに1年先延ばしすることを「決めた」。
 すでに4年半もの昔、2年で2%の物価上昇を勝ち取る、そして「デフレ脱却をして」日本の経済を見事に救うと豪語して、〝異次元の〟金融緩和――国債を買いあさってカネを垂れ流しする、最低の無責任政策――に乗り出したのはどこのどなただったのか。
 その物価上昇2%がいまなお実現しないというなら、デフレ脱却も果たされていないということか、そして日本経済は数年前と同様な最低、最悪の状態に今も沈滞しているということか。
 しかし黒田も安倍も、日本経済は安倍政権以前と比べて格段に好転していると多くの数字を引いて語っているし、また間違ってもまだデフレだとは言わない。
 彼らはこの4年半の間、日銀が政府の毎年発行する国債の過半を買い占め、それでも足りないと年々80兆円もの買い集め、既発行の国債の過半を占める400兆円も保有し、さらにマイナス金利によってのみ辛うじて経済が動くようないびつで、機能不全の金融体制を作り上げ、国家財政を破たん寸前にまで導いたのである。もちろん、日本経済の健全性は損なわれ、失われて、寄生化、頽廃、衰退は一挙に深化した。
 カネをバラまくことで人為的に景気を煽り、経済を過度に膨張させたとするなら、その反作用もまた収縮が収縮を呼ぶという、極端で、悲劇的な形で現れるのも一つ必然である。
 黒田はいまだにドグマにしがみつくしかなく、物価上昇が実現しないのは賃金が上昇しなかったからだと弁解するが、しかし物価が顕著に上昇しなかったから賃金が上がらなかったとも、同じ権利で主張できるのであって、彼の理屈は結局、空虚な同義反復、ナンセンスな循環論証でしかない。
 黒田はいずれ企業収益が改善し、そうすれば賃金が上がるから、物価上昇も可能になると期待するが、しかし物価上昇は賃金上昇と内在的に関係していないが故に、賃金上昇がなくてもいくらでも生じ得る、あるいはむしろ本来的な、インフレと呼ばれ得る物価上昇は賃金上昇と独立に、それにむしろ先んじて生じるからこそインフレである。
 そもそも企業収益が改善するなら、それこそ真実の意味で、景気回復、デフレ脱却といえるのだから、改めて賃上げを媒介にする物価上昇で、デフレ脱却を論じなくてはならない必要が全くない。黒田の持って回る〝理論〟は、簡単に矛盾と非論理性をさらけ出すような、皮相な形式論理やこじつけでしかない。
 彼らは事実上、物価上昇を目的だとして、それが達成されるなら、何の困難も矛盾もない資本の社会がやってくるというが、こんなものはどんな〝経済科学〟とも無関係な、単なるリフレ派〝宗教〟のご託宣、空虚な空文句でしかない。
 黒田は今に至っても、物価上昇が2%に達しないから〝異次元の〟規制緩和を継続する、量的緩和も継続し、マイナス金利も止めない――米国がどうしようと、世界中がどうあろうと――と繰り返している。
 今や労働者、勤労者は安倍や黒田の無政府的で、完璧に無責任で、愚かな経済政策や、その結果である経済崩壊や財政破綻による災厄や犠牲を一身に負わされるのである、というのは経済破綻の被害は弱い立場と地位にある労働者、勤労者に全面的に転嫁されるのは、経済と財政が破綻したギリシャの例が教えるように、この資本の支配する社会の常だからである。

安倍に「塩を送る」も同然の裏切りだ
連合執行部、「高プロ」(残業代ゼロ)法案を容認へ

         2017年7月19日

 連合執行部は、所得の高い一部の専門職に残業代なしの成果型賃金を適用する「高度プロフェッショナル制度」の導入容認に動き始めた。「残業代ゼロ法案」との批判を受けて2年以上も継続審議(たな晒し)になっていたが、これを秋の臨時国会に提出予定の労働基準法改正案に紛れこませようというわけだ。
  これまで、連合は残業代などの負担を企業に強いることが長時間労働にたいする一つの“歯止め”となってきた、残業代がなくなれば長時間労働を一層促進しかねない、省令で対象者が拡大される可能性があるなどとして、「高プロ」制度に断固反対を表明してきた。6月7日に発表された「政策・制度 要求と提言」でも「長時間労働につながる高度プロフェッショナル制度の導入や裁量労働制の対象業務の拡大は行わない」と明言してきた。
 ところが連合は、年間104日以上の休日確保を企業に義務づけたうえに、労働時間の上限規制や終業時間と始業時間の間を確保するインターバル制度に加えて新たに「オリジナルオプション」(2週間の連続休暇と臨時の健康診断)を追加し、そこからどれかを選択すれば、“歯止め”をかけたというのである。とんでもない議論だ!
 104日の休日と企業が比較的受け入れやすい臨時の健康診断を実施したとしても、それで長時間労働の“歯止め”がかかったとはおよそ言えない。週休2日で1年52週なので、それだけで休日は104日となり、それに臨時の健康診断を採用しても、政府提出の法案とほとんど変わることはない。「実を取る」などとは程遠く、長時間労働は現状のまま温存され、「高プロ」制度の導入で一層強まるとの懸念は何一つ払拭されないのだ。
 だから、連合傘下の組合から、「寝耳に水だ」「裏切り行為だ」(全国ユニオンなど)との批判の声が上がり、過労死家族会が「方針転換に憤っている」と怒りの声を上げるのも当然である。  連合は、3月の「働き方改革」の政労使合意に続き、「残業代ゼロ法案」でも、労働者の利益と立場を投げ捨て、安倍と財界に屈服、追随してしまったのである。
 3月に決まった安倍の「働き方改革」は、全くのまやかしとしかいいようのないものであった。安倍は、過労死をなくすために長時間労働の規制を「躊躇なしに行う」と豪語したが、出てきたものは繁忙期には月100時間(過労死ラインだ!)まで認めるとか、年間720時間(休日を含めると900時間)まで認めるといったとんでもない代物であった。実際には、企業が長時間労働を労働者に強要することを手助けするもの、それを巧妙に支援するものであった。
 今回の連合の「高プロ」制度の容認は、3月のそれに続くものであり、安倍の「働き方改革」の策動――口先で労働者の味方ずらをしつつ、資本の都合のいいように労働法制を改悪する――に全面的に取り込まれるものである。これは、労働組合として労働者に対する「裏切り行為」であり、“自殺行為”に等しいことだ。
 まして、安倍政権への支持率が急落し、国民的な怒りと批判の声が高まっているときに、「働き方改革」で安倍政権との協調(屈服)路線を打ち出すのは、「敵に塩を送る」も同然の「裏切り行為」である。
 安倍が、長時間労働の制限を「躊躇なしに行う」と叫んだのだから、労働者がその断固たる実施、実現を要求して悪いことはない。安倍のごまかしと空約束を徹底して暴露・告発し(連合のように惑わされ、安倍に助け船を出すのではなく)、長時間労働に代表される搾取労働や差別労働の即時廃止を要求して闘おう!

安倍政権の現在と近未来
行き詰りと政治的閉塞の時代の到来か

         2017年7月15日

 都議選で致命的な打撃を受けた安倍は、直近の国政選挙がないことに辛うじて救われ、自民党内にも安倍権力を掘り崩す反対勢力も現れず、何とか生き延びようとしています。民・共も労働者、勤労者の大衆的運動を組織する意思も力量もなく、安倍政権の延命を許しています。
 安倍政権が勢いを失い、死に体のママ政権を維持し続けるという、政治的頽廃と衰退の一時代が、民主党政権の後半の時代や、小泉政権後の福田、麻生政権の時代のような行き詰まりと閉塞の時期がやってくる可能性があります。安倍は、今は解散、総選挙に走ることもできず、現在の議会勢力のまま(憲法改定を発議できる3分の2の国会勢力を保持している今)、それを利用して憲法改定に急きょ乗り出そうという構えも見せていますが、しかし今からでは、スケジュール的に見てさえ困難でしょうし、安倍の権力と権威が後退し、弱化した今では、憲法改定に対する安倍の構想で自民党が一致するのは難しいでしょう。
 安倍は今回の支持率の低落が、単にあれこれの政策的なあやまり等々の問題ではなく、政権の〝体質〟に対する、その本性にかかわる深刻な不信であり、ちっとやそっとのことでぬぐい去られるような簡単なものでないことを自覚していないのです。彼は再び三度、経済政策推進により失われた支持を回復し、自らの野望の実現を狙おうとしていますが、問題は今回の政治危機がアベノミクスの延長のような経済政策により容易に克服され得るのかどうかということです。
 それに加えて、煽られた期待感に依存するような経済政策の化けの皮がはがれようとしており、その〝効果〟もまた怪しくなっています。統計は最近税収――消費税も所得税も法人税もみな揃って――が減少しつつあることを明らかにしていますが、そんな現実の前では、バラまきによって景気回復が実現する、そしてそうなれば税収も増えて財政再建も可能になるといった、安倍一派にとって好都合な夢物語は説得力を失い、金融緩和で挫折したアベノミクスは、今後、ただ財政危機を一層深化するだけであるという真実が暴露されています。金融緩和に続いて財政膨張に走ろうとしても、今や安倍政権は「経済政策」の持ち札をなくしたのです。異次元の経済政策等々が、そんなにいつまでも、無尽蔵にあるはずもありません。
 安倍政権は事実上すでに権力を保持する力を失いました、しかし自民党内には、安倍に代わる勢力も形成されず、また民・共は安倍失墜の受け皿になることはできず、維新も小池新党も全国的な党派でないとするなら、死に体の安倍政権がダラダラと続くだけと言うことになりかねません。今やブルジョアの政治支配は極端に弱体化し、解体し、深刻な危機の時代を迎えつつあるといって言い過ぎではありません。
 労働者、勤労者の経済闘争、政治闘争が激化し、発展する時代が訪れようとしています。それはまた同時に、新しい労働者党が労働者、勤労者とその闘いと結びつき、先頭に立って闘い、躍進していく時代でもあるのです。

    

「説明責任」の問題ではない
今こそ安倍打倒を勝ち取るべき時

         2017年7月7日

 安倍は都議選に惨敗し、しおらしく自民党に対する「厳しい叱咤と深刻に受け止め、深刻に反省したい」として、これまで拒否してきた国会閉鎖中の証人招致をやるという。リベラルや民・共は大喜びだが、今この時期、前川の国会招致をして、何が出てくるのか。
 民・共は、安倍政権や官僚らに「説明責任」を果たさせる、真実を明らかにすると騒ぎたてている。
 リベラルマスコミも、「首相の『反省』は本物か」と問い、「反省が言葉だけなら、民意はさらに離れるだろう」ともったいぶって安倍を諭し、また「調べない。説明しない。押し切る。政権はそうした体質を改めるべきだ」(朝日新聞7月3日、5日)とも主張する。
 安倍が実際に何一つ「反省」していないことは、虚偽発言を繰り返した、おなじみの財務官僚佐川を、国税局のトップに昇進させた事実からも明らかである。
 民・共もマスコミインテリらも、問題はすでに「反省」でも、「説明責任を果たす」ことでもないことを自覚しない。
 しかも安倍が体よく〝外遊〟しているときに、何のための参考人招致か。なぜ証人が前川であって、萩生田や松野文科相でないのか、安倍や菅でないのか。
 森友学園のときならまだしも、そもそも加計学園では基本的で、重要な「事実」や、それを明らかにした文書や「証拠」はすでに出揃っているのであって、前川の証言もいくらでもなされてきており、改めて聞くことはほとんどない。
 必要なことは、安倍と安倍政権の腐敗や虚偽や厚顔無恥や犯罪――単に道徳的な意味だけでなく、実際に法律に違反するような犯罪――を徹底的に明らかにし、安倍政権を退陣に追い込んでいくことだけである。
 そもそも民・共は最初から闘うやり方を間違えたのだ、チャンスがあれば、本気になって安倍政権の打倒を目指して闘う意思も決意も何もなかったのである。
 民・共はすでに文科相の隠されていた文書の存在を前川が証言したときから、そしてさらにないとされた文書が実際に出てきたときから、闘争がすでに客観的に、安倍政権を打倒する闘いに転化したことを決して理解しなかった。
 安倍らが、そんな文書は存在しないと強弁した時、民・共は「もしあったらどうする、責任を取って退陣するか」となぜ鋭く問い詰めなかったのか。
 あるいは文書の存在が明らかになって、菅がそれは「怪文書であって」、信用できないと断言したとき、もしその文書が本物であって「怪文書」でなかったら、菅は責任を取るのかと、どうして断固として対決しなかったのか、そして安倍一派の退路を断ち、決定的に追い詰めなかったのか。
 安倍らに「説明責任」を求めても無駄である、というのは真実を語るという「説明責任」を果たしたら、彼らは首相などやっていられないほどの悪事をいくらでもしているからである。そんな悪党たちに「説明責任」を要求するなど、リベラルや民・共は何というとんまな連中か。安倍らには権力の陰に隠れ、権力を悪用して事実と真実を隠す以外の選択肢はないのである。 安倍らにはすでに最後の最後まで、知らぬ存ぜぬで白を切り続けるしか道はないのである。
 安倍らに「説明責任を果たせ」など要求することは、ことここに至っては、ただ安倍政権の延命策動に手を貸す茶番であり、田舎芝居でしかない。
 すでに政治闘争の現段階は、安倍政権の腐敗と犯罪を告発し、安倍政権の打倒の旗を高く掲げ、妥協なき闘いを続けるときである。

瀕死(ひんし)の安倍政権
安倍も「全国展開」なる致命的「失言」

         2017年7月1日

 下村が加計学園から200万円を受け取りながら、政治資金報告書に記載しておらず、法律違反を追及されると、学園からではないとごまかし、あまつさえ「選挙妨害と受け取らざるを得ない」と開き直り、都議選の最中に、逆ギレを演出して見せてくれた。その直前には稲田が自衛隊失言問題での発言、取り消し、口先だけで謝罪したが、北朝鮮など国難のときに全力を上げて防衛大臣としての任務を果たすことが重要で、辞任している時ではないとふんぞり返った。安倍政権はまさに自壊の様相を呈してきたが、それは第一次安倍政権の時と同様に、逆境に弱い安倍政権の本性を再び明らかにしつつある。
  そして安倍にとって致命的な発言は、加計学園問題は「岩盤規制」にドリルで穴を開ける問題だと話をすり替え、加計学園だけを認めるという不十分なやり方でやったので誤解を招いた、これからは加計学園だけでなく、京都畜産大であろうと、どこであろうといくらでも獣医学部を許可することにする、まさにこれこそが徹底した「岩盤規制」の粉砕である、文句があるか、などと言い始めている。
 しかし後知恵でそんなことを言っても誰も信じないであろう。安倍が言うようなことなら、何も特区を設定し、そこで獣医学部を認めて「岩盤規制」の突破だなどと大騒ぎすることは最初から何もなかったと言うことであって、安倍の加計学園でやったことがますます安倍の国家と国政の私物化であることを教えるだけである。
 特区でやるということは、特区でやってみて、うまくいったら、それを「全国展開」するということであって、加計学園が成功するかどうかも分からないのに、「全国展開」もくそもないのだ。
 そもそもいくらでも獣医学部新設の「需要」があるというなら、まず「特区」で突破口を切り開き、全国展開するなどと言う、回りくどいやり方をする必要は安倍政権にはなかったはずである。加計学園に続いて、今、いくらでも獣医学科を認可するというなら、そんな力が安倍政権にあるというなら――安倍は、そんなことが安倍政権の力でいとも簡単にできるかに言い張るのだが――、何も特区でわざわざ加計学園を「一点突破」で認可し、それから「全国展開」するといった、大回りの、まどろっこしいやり方をしたのか。そんなことがまるきり必要なかったということになるだけである。
 安倍が加計学園にこだわったのは、ようやく1校だけ獣医学会や文科省が認めたから、そこに何が何でも加計学園を押し込まなくてはならなかったからである。問題は1校だけが公正なやり方で決まったのではなくて、政治の力が働いて、権力の圧力によって加計学園に決まり、他のすべての大学が排除されたということである。一点突破が行われたことが問題ではなくて、その1校が安倍政権の力で不正に決められたということである。
 だから他の大学にも、加計学園が認可されるなら、他の獣医学部も次々と認可されるといったこととは無関係であり、それは別のことである。そんなことは全く前提されていないのである。
 つまり結局この問題は、「岩盤規制」にドリルで穴を開けるとか、明けないかといったことでは全くない。今治が加計学園のための「特区」になったのだが、それはまた、「特区」という「成長政策」が全くのペテンでしかないこと、山師的政策であって実際的な内容が何もないことを暴露してしまったのである。
 国会が閉会なると、後はごまかし、事態が沈静化するのを待ち、時を稼げばいいとばかり、安倍はホッとしたのだが、しかし安倍は急落する支持率に恐慌を来たし、焦りに駆られて、つい余計なことを言い出してしまい、自分で加計学園問題で新しく追及されるようなばかげた発言をしてしまい、格好の攻撃材料を野党などに与えてしまったのである。
 安倍を先頭に、和泉や萩生田や稲田や下村や、さらには豊田ヒステリー女史まで次々と登場したのでは、さすがに安倍政権も持たないかである、あるいは仮に政権が続いたとしても、安倍政権は、否、自民党政権自体、レームダック(足の不自由なアヒルのこと。米国などの大統領が、任期末になるなどして力や影響力を失い、何もできないような状態になるたとえ)の状態に陥るしかないであろう。
 政府交替か、それとも次の総選挙で自民党が大敗し、しかも自民党に代わって政権を担う党派、担える党派がいないなら――民進党や共産党に、あるいはその連合勢力に、政権を担う力のないことは余りに明らかである。ゼロやマイナスの政党がいくつ集まっても、その力はプラスにはならないのだ――、無政府状態と混沌と激動の時代へと移っていくのか。いずれにせよ、安倍政権が存続できないことだけは確かであろう。

自民と小池の空疎な対決
民進も共産も影の薄い都議会選挙

         2017年6月25日

 都議選が始まりました。加計学園などで追い詰めれている自民党と、「都民ファースト」といった、ポピュリズム丸出しのスローガンを掲げる下品な小池新党の争いという、最低の選挙戦になっており、民・共はまるで影が薄く、反動たちだけがわが物顔で闊歩するだけです。
  小池は選挙直前、築地移転問題で行き詰まり、苦し紛れに、豊洲も築地もといった、まるで愚劣で、現実に実行しようとすれば収拾困難に陥り、あらゆる面で行き詰まり、破綻しかねないような方針を――というより、単なる思いつきを--打ち出して来ました。選挙を前にして、「何も決断できない小池」という自民党の厳しい批判に直面し、どうしていいのか途方に暮れて持ちだした〝政策〟とは、豊洲移転派(ブルジョア的勢力)と築地残留派(プチブル的勢力)の立場を足して二で割ったような折衷論で、そんな折衷論がうまく行くはずもないのであり、両方の膨れあがっていく不満と、白けた失敗に帰着するしかないようなものです。
  市場としての機能は豊洲に移すと言いながら、築地にも市場的機能を持たせると言うのですが、一体どんな市場機能を残すというのでしょうか。「築地ブランド力を強調する」と言うのですから、本来の卸し市場に隣接し、市場の生鮮食品を利用する商店街のことを言っているのでしょうか。
 しかしそれは卸し市場としての築地市場があっての話であって、まさかそんな隣接商店街を意識して、築地の意義を語るなら、小池のやり方の行く末は最初から見えています。 カネがいくら浪費されるかも、分かったものではありません。
 一言で言って、「食のテーマパーク」幻想といっても、具体的な内容は何もない。小池のやろうとしていることは、文字通り「都民ファーストで(すら)なくて選挙ファースト(小池ファースト)」であって、そんなレッテルに対して反撃できないような小池が、仮に一時的に議会で多数派を勝ち取ったとしても、勝った途端に負けに転化し、転落していくような勝ちにしかならないでしょう。 小池の権力のためだけの卑しいポピュリズムは破綻しつつあります。
 小池に追随する民進党や共産党――共産党は築地残留こそが最善といいますが、自分たちが正当化し、擁護する政策が、築地のプチブル的要素の立場や利益でしかないことを自覚しないのです――が、存在感がまるでないのも当然です。

民進、共産の裏切りを糺弾せよ
安倍政権の開き直りと延命を許した者たち

         2017年6月18日

 国会は「共謀罪」法の成立と、加計学園問題における安倍政権の開き直りの中で幕を閉じた、つまり民進や共産の完敗として終わったが、その責任と罪は、あげて民進と共産、市民派やリベラル派の〝大連合〟勢力にこそある。
 彼らは今ごろになって、「ひどい国会だ、こんなひどいことはない」とか、「こんなでたらめで卑劣なやり方はない」とか憤慨するふりを見せるが(その代表は共産の小池ら)、しかしそんな結果に行き着いたのは、彼らが、文科省の保有する文書が明るみに出た時から、そしてそんなものは「怪文書」だと菅が発言して、森友学園と同様に、知らぬ存ぜぬというやり方で乗り切る態度を明らかにした瞬間から、安倍政権の即時打倒を目指しての闘いを開始し、やり抜かなかった日和見主義のためであり、彼らの自業自得でしかない。
 安倍政権は、森友学園のとき、自分が「関与」し、行政をねじ曲げるような事実があれば、自分は首相を辞めると白々しくも開き直り、公言したのである。
 とするなら、まさに民・共やマスコミ・リベラルは、安倍に加計学園事件でも同じように、自分の関与が明らかになれば、辞めるかと迫るべきであり、徹底的に安倍とその政権を逃げ道のない形で追い詰めるべきだったのである、あるいは、ただ単純に、文科省に加計学園事件への「関与」は「総理のご意向」とか、「官邸の最高レベル(安倍でないとしても菅である)が言っている」という内閣府からの圧力を明示する文書が「怪文書」ではなく、本物であり、実在するとはっきり語り、明らかにすれば良かったのである。
 加計学園事件の段階では、森友学園の時とは違って、前川発言と共に、すでに「真相は明らか」になったのであって、問題は、単に「真相を明らかにする」ことではなく、安倍政権の「進退である」ことを、そうした情況になったことを、民進党も共産党も自覚しなかった、あるいは問題をそうした決定的な問題であると評価し、理解し、闘い抜こうという意思も決断も勇気も賢明さも何もなかったし、持とうとしなかったことである。
 民進党は09年から3年間政権を維持しながらも、ほとんど労働者、勤労者のためのまともな「改革」を――社会を前進させるようなよりよき「改革」も――なし得ず、「政権を獲得すること自体に意義かある」などと浮ついたことをいって政権を握ったに過ぎないのであり、当然の結果として、〝保守〟や自民党にすり寄った末に破綻したのである。
 彼らはそんな経験がトラウマになって、安倍政権が倒れたらどうしたらいいのかも分からずウロウロするだけの存在に堕しており、共産党は共産党で、そんな負け犬同然の民進と共に国民連合政府を組織すれば働く者の未来が開けるかの独断的なたわごとをふりまくだけであって、そんな頽廃した民・共に、本気で安倍政権を追い詰め、粉砕する力も展望も意思もすでに残っていなかったのである。
 「共謀罪」法案の粉砕が可能になるチャンスがあったとするなら、加計学園事件によって安倍政権を追い詰める闘い、天皇制を巡る〝憲法違反〟の天皇や安倍政権の策動を粉砕する闘い等々と結びつけて、断固として闘ってのみあり得たことは明らかである。  問題を単に加計学園の「真相を明らかにする」といった目標に切り縮め、限定した民・共や、自由主義派の日和見主義が、安倍政権の開き直りと延命を許したのであって、安倍政権に敗北した原因は、民進や共産やリベラルマスコミにこそあったと結論して、少しも間違いでも言い過ぎでもない。
 しかも彼らはそんな決定的な政治情勢の中で、天皇の生前退位問題で安倍政権といちゃつき、全面的に助け、安倍の〝憲法違反〟でさえあるやり方を「国民的合意」のオブラートをかぶせて実現させたのである、〝静謐な中での〟、まるで愚劣な協調主義や馴れ合いの「政治休戦」を演出したのである。
 必要だったことは、森友学園、加計学園の事件と結びつけて、天皇問題でも安倍政権と天皇一派の〝憲法違反〟の策動を暴露し――そしてもちろん、「共謀罪」法の野望に反対する闘いとも結びつけて――闘い抜き、安倍政権を一掃することではなかったのか。
 それを回避し、闘いから逃走した瞬間から、彼らの敗北は不可避となったのである。  腐敗堕落の極致、安倍政権を許すことはもはやできない。
 今こそ民・共やリベラルの裏切りを告発し、新しい労働者党の果敢な闘いが、働く者の怒りや闘いと結びつき、その先頭に立って、国政の場でも断固として登場する時、しなくてはならない時となったのである。
 全国の心ある男女の労働者、青年、活動家の諸君、結集し、共に闘おう。

安倍は直ちに首相を辞めよ
〝関与〟していたら辞めると明言したのだ

         2017年6月16日

 同時に、二つの大きな政治的出来事が相次いだ、というより、安倍政権がそうした情況を演出した。 一方では「共謀罪」法が成立したこと、他方では、安倍政権の犯罪を明らかにする決定的な文書が「怪文書」ではなく、実際に存在したものであることを、そしてそんな文書に内閣府が、つまり安倍や菅が深く〝関係〟していることを、文科省や内閣府が自ら認めたし、認めざるを得なかったことである。
 「共謀罪」法の成立は労働者というより、自由主義派のインテリ、マスコミや民・共(民進党や共産党)にとっての敗北であるが、他方、安倍政権の権力犯罪が事実であることが確定されたことは、安倍政権にとって致命的であって、この政権は今や持ちこたえられるかどうかという危機に追い込まれている。累卵の危機にあるといっていい。
  一見して両方の痛み分けかに見えるが、それはただ安倍政権(自民党)も民・共も、とうに破綻していたことを改めて確認することになったに過ぎない。
  我々が確認すべきは、民・共や自由主義派の闘いが間違った、日和見主義的なものであったからこそ、安倍政権は「共謀罪」法まで成立させ得たのである。安倍政権が近く解体し、退陣を余儀なくされるなら、〝厄介な〟置きみやげを、イタチの最後っぺを残していったことになるが、その責任はあげて日和見主義に溺れた――天皇生前退位問題で、安倍政権となれ合っていちゃつき、「政治休戦」にまで応じた――民・共にあると結論するしかない。
  加計学園に関する「怪文書」がでてきて、その問題が大問題になってきているとき、民・共は、それを安倍政権打倒の決定的な機会としてとらえることなく、何か文書が本物かどうか、事実はどうかといった矮小な闘いに押しとどめてしまった。
  安倍や菅が事実を否定しようとしているとき、もし事実だったら責任を取るのかどうなのかという決定的な闘いに転化していかなかったのは、まさに日和見主義そのものであり、安倍が策動し、「共謀罪」法に狂奔することを許したのである。
 森友学園のとき、安倍は「私が関与していたら、首相を辞める」と公言したのである。加計学園では言っていないといっても、通用するはずもない、というのは、安倍も菅も、そんな文書はない、「怪文書」だ、虚偽だと頑強に、断固として言い張ってきたからである。内閣府の萩生田は今も、同様な発言を繰り返すが、それは責任が安倍や菅に及ばないためであるに過ぎない。今や安倍や菅は、責任を官僚に押し付け、転嫁するほか何もなしえないのである。卑しいげすというしかない。
  森友学園でも同じやり方をして通用したから、今回も大丈夫だと思ったかどうかは知らないが、森友学園と同じ〝強気な〟やり方を、つまり知らぬ存ぜぬという厚顔無恥を押し通そうとしたことは明らかである。
  しかし文科省は財務省ではなく、内閣府の、安倍の不当な特別扱いをするようにという指示が存在したこと、その証拠を明らかにしたのである、つまり安倍政権はもはや退陣するしかない状況に事実上追いつめられたのである。
  それを勝ち取ることができなかったとするなら、民・共の責任以外ではない、彼等が日和見主義に陥り、追及の仕方を、闘い方を誤ったからでしかない。そればかりか、決定的な闘いのさ中、天皇問題で安倍政権や自民党と共闘し、国民的合意を演出し、安倍政権との闘いを止め、もしくは妥協してしまったのである。敵に〝内通〟にする裏切りでないとするなら、天皇制問題での安倍政権への屈服や妥協は何であったのか。
  民・共は安倍政権との闘いのカギが、安倍政権を追い詰め、打倒していく闘いの中心が、その主戦場が、この間、森友学園・加計学園問題であり、また天皇生前退位の問題であることを理解せず、いたずらに「共謀罪」法に固執したが、彼等は現実的な政治闘争とは何かを理解せず、全く自覚していないのである。
  共産党の小池晃は16日の最後の国会審議で、安倍に「あなたは国民に迷惑をかけたと謝らないのか」といきり立ったが、問題は口先だけの「謝罪」でないことを最後まで理解しないのである。「謝罪するだけならサル(安倍)でもできる」ということを知らないのである。小池は「安倍は本当にひどいと思う」「卑劣」だと叫んだが、そんなにも「ひどい」政権をいまだ打倒できないことをこそ反省すべきであろう。
 「共謀罪」法も安保法も、一般的には日本ブルジョアジーの帝国主義化、専制主義化に対応し、それを反映する反動法であったが、しかしそれらは直接に労働者階級や労働者党に対する弾圧法ではないし、また日本の労働者、勤労者を〝戦争〟――今はいかなる〝戦争〟か、あるいはむしろ単なる〝戦闘〟か等々は問わないが――に動員する、そうした意味での〝戦争法〟でもなかった。
  将来において、それらの法律がどんな役割を果たすかは、どんな政権ができ、どんな風に利用する――悪用する――かにかかっているのであって、反動勢力、ファシズム勢力が勝利するなら〝何でも〟するのだが、それはどんな〝平和〟憲法があっても、自民党政権が強大な軍隊を持つことを妨げないことや、安倍政権が出て来て安保法でも何でも成立させ、〝好き勝手〟をすることと似たようなものである。
  「共謀罪」法について批判されたことは、基本的に、「内心の自由を侵しかねない危うさがある」とか、「恐れがある」、「不安や懸念がある」、「民主社会の萎縮を招くとかの指摘も多い」とか、「監視されたくなければ政権にとって都合のいい市民であれ、といわんばかりだ」とか、「知らないうちに息苦しい社会に行きかねない」とかいった、事実や現実とは無関係な、推測や恐れや危惧や、流行の〝忖度〟ばかりのような話ばかりであった。
  現実はといえば、国家権力や警察権力による「監視」といったことは、今後のことではなく、すでに今でもいくらでも〝良き〟国民、普通の労組や政党のメンバーに対しても(もちろん、体制にとって大して〝危険〟とは思われないような市民派の諸君も、ここに加えてもいいが)、日常茶飯事に行われているといって言い過ぎはないのであって、むしろそれを糺弾し、追及し、やめさせるべきではないのか。
 森友学園事件であれほどに〝忖度〟を批判した民・共が、「共謀罪」法という現実的な課題で、将来の「可能性」とか、「忖度」でしか安倍政権を告発し、闘ええなかったことほどに、民・共の愚劣さを暴露するものはない。
  天皇の生前退位問題で、「憲法や皇室典範に反して」、特別法による、将来に禍根を残し、天皇の神聖化、絶対化に努め、「国民的合意」の見せ掛けのもとで安倍政権に協力し、「民主社会の萎縮を招く」も何もないではないか。
 天皇の神聖化が進むなら、「民主社会の萎縮を招く」しかないことも明らかではないのか。この点での、民・共の立場ほどにナンセンスで、矛盾しているものはない。 安保法も同様であったが、「共謀罪」法に対する闘いもまた、プチブル的であり、ブルジョア的でさえある民・共やリベラルの闘いであって、安倍政権と対決し、それを打倒していく労働者、勤労者の政治闘争として闘われなかったのであり、だからこそ安倍政権を追い詰めることも、文書の正当性が明らかになっても、それが安倍政権の粉砕と結びつかず、したがってまた「共謀罪」法の粉砕にもつながらなかったのである。
 「共謀罪」法の成立も、森友学園や加計学園などの問題も、安倍政権の打倒につながらなかったとするなら、それはある意味で、民・共の日和見主義と裏切りによるものであって、そんな野党がいくら国会の中に存在していても、労働者、勤労者にとって何の意味もないことを、さらに明らかにしている。
  民・共はすでに労働者、勤労者の党として腐りきっており、存在していないも同然である。
  我々はこの4月、新しい働く者の党を再建し、まさに腐敗議員、腐敗政党ばかりがはびこる伏魔殿のような様相を呈している国会に風穴を開け、本当の労働者、勤労者の闘いを国会の中でも貫徹するために、100万票を勝ち取って、真実の働く者の代表を国会に送り込むことを決定した。
  我々は全国の心ある労働者、勤労者に共に闘うよう呼びかける。