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巻頭言



【2026.8.13】
小泉防衛相の「核武装議論」に抗議する!
 ──核武装で「強い帝国主義国家」を夢想

【2026.7.30】
国家、愛国心、人権とは何か?
 ──今国会で問題となった人権について


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小泉防衛相の「核武装議論」に抗議する!
核武装で「強い帝国主義国家」を夢想
2026年8月13日


核武装を議論せよと

        
 小泉進次郎防衛相が「核武装」や「核共有」を念頭に置いた発言を続けている。
        
 7月17 日には、右翼評論家・桜井よし子の「櫻LIVE(さくらライブ)」というインターネット番組に出演し、桜井とのやりとりで次の様に述べた。
        
 「日本にとっては議論するのが難しい課題だが、触れざるを得ない一つは核だ」「あらゆる政策をタブーなく議論し、進めなければならない」と。
        
 さらに同月22日には、訪問先のベルギーで、欧州が核戦力を増強する動きに賛意を示しながら、日本でも「タブーなく議論を」と再び述べ、さらに、8月4日の記者会見でも同様の発言を行い、今年末に閣議決定を予定する「安保3文書」(改定版)の中で、「非核三原則」の見直しに触れることを予感させた。
        
 昨年12月に防衛相を任ぜられた時、既に小泉は、民主党政権の岡田外相の発言を引用しながら、「『万が一、もしも核の一時寄港ということを認めなければ日本の安全が守れないというような事態が発生したら、それはその時の政権が政権の命運を懸けた決断をし、国民の皆さんに説明をする』との考えと同じで引き継いでいきたい」と強調していた。単純な小泉は、高市の指示に従いながら、昔からの核武装論者であるかに振る舞っているのだ。
        
 要するに小泉は、安保3文書の中で、何らかの形で現在の非核三原則の見直しについて触れることを端なくも語っている。

核には核で対抗

        
 このように非核三原則を見直そうという発言は、中国や北朝鮮が核武装を強化しているから、これに対抗するために、日本も核武装すべきだという論理によってである。つまり、核兵器を保有することで、相手国に攻撃を思いとどまらせる「核抑止」の機能が高まると、言いたいのである。
        
 しかし、中国や北朝鮮が核武装しているから、「思いとどまらせる」ために、日本も核武装すべきだという論理には、何の合理的な説得力もなく、現実的な抑止力にもならならず、むしろ、国家間の対立を激化させ、核軍拡への競争の狭間に押しやるだけだ。そして、「軍拡競争の終着点は、国家間の激烈な対立と帝国主義戦争であり、戦争抑止ではない」(『プロメテウス』第61号22年刊「資本輸出を急増させる日本資本主義」参照)。
        
 高市や小泉らは、中国がアジアや太平洋に展開している軍事的行動に神経を尖らせ、常に、これに対抗できる軍事力を保持したいと考えている。核保有や核共有もまた、軍事力の強化の一環なのだ。
        
 彼らは、高市政権が現在進めている「強い経済と強い軍事力を持った日本」への〝橋頭堡〟として核武装をも考えているのであり、帝国主義日本に相応しい軍事力を持つのが当然だという認識に立っている。決して、「米国の犬」とか「米国の従属国」になり、米国のいいなりになっているわけではない。
       


自民党・維新政権を打倒
  核の脅威から逃れる道は資本主義の克服によってのみ

        
 日中間の帝国主義的な対立は、中国の国家資本主義と日本の国家独占資本主義の経済的発展と共に、海外への対外直接投資(企業買収を含む)を強め、今や、双方が資本輸出大国として登場していることに根源がある。
        
 現代の日本は、貿易収支は赤字に転落したが、海外子会社などからの「営業外収益」(受取配当金など)が莫大な金額に上り、海外の労働者から剰余価値を取得(労働の搾取)している。
        
 中国もまた、世界の先端企業を買収し、東南アジアへの資本進出も活発に行い、日本同様に、帝国主義国家に成っている。この限りでは、経済的な意味であるが、そこに留まらず、経済的権益を軍事力で守る思考を強めてきた。
        
 中国はフィリピンやベトナムとの海洋支配を巡って軍事的衝突を繰り返してきたが、それは、南沙諸島海域には豊富な地下資源があり、また豊かな漁場があり、これらを狙った国境線の再構築(再分割)なのだ。中国の軍事的行動と岩礁の基地化は帝国主義的軍事行動そのものである。
        
 日本はこのような中国の帝国主義化に対抗するために、軍事費をGDP比2%から3%以上へと増やし、さらに強力な自衛隊に仕立て上げようと策動している。〝経済と軍拡による好循環〟を夢想する高市政権の「成長戦略」の中にも、その狙いがはっきりと表われている。
        
 従って、日中間の対立激化の真の原因を把握することなくして、「戦争」や「核武装」を解決することはできない。資本主義をそのままに「戦争反対」や「核保有反対」の平和運動では限界があるのだ。
        
 まして、共産党のように「自衛隊活用」を認めた上で「戦争反対」を叫ぶことは欺まんである。中国を国家資本主義と理解できず、未だに「スターリン主義」(堕落した社会主義)と規定する新左翼諸派の運動もまた、明らかに矛盾し限界を持つ。
        
 各国の軍拡を進める政府を打倒し、さらには資本主義を克服した「共同労働社会」の実現に向かって闘うことが帝国主義を一層する唯一の道、平和を勝ち取る唯一の道なのである。共に闘うことを呼びかける。 (W)

国家、愛国心、人権とは何か?
今国会で問題となった人権について
2026年7月27日


        
 今の国会で人権との関りで問題になったのは、「皇位継承」と「国旗損壊罪」だろう。この二つを考えると我われはどうしても天皇制を始め国家や象徴、愛国心、国旗、人権とは何かといった問題を考えざるを得なくなる。これらの問題は各々孤立したものではなく相互に関係しているが、天皇制について、天皇制についてはすでに『海つばめ』1526号1面で述べられており、ここではそれ以外の問題を考えてみたい。
 
「通常人」、「社会通念」とはなにか?
        
 国旗損壊罪の規定は、「人に著しく不快または嫌悪の情を模様させるような方法」で「公然と国旗を損壊」した場合、「2年以下の拘禁または20万円以下の罰金を課する」というものであるが、そこで問題になるのは、「不快」とか「嫌悪」といった、拡大解釈が可能となる主観的な観念で人を罰してもいいのか、ということであった。自民・維新の与党は、「一般的な通常人」の感情や「社会通念」を基準にして判断すると説明しているが、しかし問題は、この「通常人」とか「社会通念」とは何か、ということである。
        
 「通常」とか「通念」の観念は、時々の社会や時代によって変わるものであり、相対化して考えねばならない。マルクスは、「支配階級の思想は、支配的な思想である。」と述べているが、通念とか常識といったものは、支配階級の思想を土台にしているものだ。封建社会には封建社会の「通常人」や「社会通念」があり、古代社会にも古代社会の通念があった(階級による違いを前提にして)。ブルジョア社会においては国家とはブルジョア国家であり、資本主義的生産関係の中で人々はそれぞれの階級的立場で生活している。
        
 本来異なった階級の人々を一般的に「通常人」にまとめることは不可能なことなのに、階級的見方を無視しているブルジョアは、強引にブルジョアの立場から階級社会の人間を抽象的に「利益を追求する個人」とか「自由で平等な個人」などと規定するのである。また「社会通念」にしても、競争社会で生きる人々の思考を「通念」「常識」として描くのだ。
        
 ブルジョア国家は、封建制度の下で様々な拘束に苦しんだ市民(ブルジョアの前身)が、多くの革命を経て作り上げた国家である。だから、ブルジョアジーがブルジョア国家を愛するのは当然であるが、労働者人民は、この資本主義社会に生まれこの社会で生きていかねばならない以上、この社会を“愛さねばならない”のは自然である。ブルジョアジーはこの感情を利用して愛国心を強要するのである。ブルジョアジーの「愛国心」は一般化され、労働者人民にも当然なものとされ、「愛国心」を持たない者を、“非国民”と言って非難するのである。
        
 このブルジョア国家の象徴が国旗である。象徴(シンボル)とは、抽象的な観念を表す具体的な物である。ここでは、ブルジョア国家イコール国旗ということになり、国旗を損壊したり侮辱したりすることは、ブルジョア国家そのものに対する反抗、反逆と同じことになる。自・維政府は、衆院での圧倒的多数を得たことを千載一遇の機会とし、立法事実(国旗損壊という事実)もないままに、何が何でも国旗損壊罪を成立させようとしたのは、日本国家に対する反抗を抑圧したいがためである。
 
表現の自由や思想・内心の自由の歴史性
        
 国旗損壊罪では、マスコミにおいては表現の自由や思想・内心の自由などが問題になった。人権もまた、その成立を歴史的に考えてみれば、人権もまた中世の市民(ブルジョアの前身)が封建制度の束縛に反抗して、営業の自由や所有の自由を主張したことから始まる。人権の成長も議会制度の成長などと同様に、ブルジョア階級の発展とともに基本的人権のイデオロギーとして完成されていくが、人権や民主主義も、あくまでブルジョアジーにとっての権利であり、はじめから被抑圧階級である労働者人民のものではなかったのである。
        
 所有権も営業の自由も、表現、思想・内心の自由も、失うべきものを待たず、その日暮らしに明け暮れている労働者人民には無縁のものであった。とはいえブルジョア社会はその建前としては“人間はみな平等”であるから、労働者人民もまたブルジョアと同様に人権を享受することができる。ブルジョア革命によって形式的にではあるが獲得された基本的人権や民主主義を手段にして労働者人民は、革命闘争を発展させていくことができるのである。
        
 以上のように、人権の成立の経緯からして人権は本来ブルジョアジーのものであるから、被抑圧階級の人権は、ブルジョア階級が消極的に労働者人民に認めたものに過ぎない。したがってブルジョアジーは、いやいやながら認めた労働者人民の人権を、絶えず必要最低限に抑えようとするのは当然である。
        
 労働者階級はブルジョア階級と“平等に”与えられた人権の抑圧や剝奪に抗議し闘わなければならないが、人権を過大に評価したりする幻想をもってはならないのである。人権というイデオロギーだけではなく、議会や裁判所などの政治制度や法律制度などは、資本主義的経済の土台の上に成立した上部構造であり、ブルジョア階級が作り出したものである。
 
ブルジョア民主主義の幻想を一掃し、労働者民主主義を実現しよう!
        
 レーニンは『背教者カウツキー』で次のように述べている。「搾取者は、被搾取者と平等ではありえない。」(レーニン10巻選集9巻p40)、「近代国家の基本法を取り上げてみたまえ。集会または出版の自由を取り上げてみたまえ。―そうすれば、諸君は、誠実で自覚した労働者ならだれでもよく知っているブルジョア民主主義の偽善を、一歩ごとにどの国家にも見出すであろう。どんなに民主主義国家であろうと、『秩序が破壊された場合に』―実際には、被搾取階級が自分の奴隷的地位を『破壊し』、非奴隷的にふるまおうと企てた場合に、労働者に軍隊を差し向けたり、戒厳を宣告したり、等々する可能性をブルジョアジーに保障している抜け道または但し書きが憲法の中に設けられていないような国家は、一つもない」(同p33)。
        
 労働者人民は憲法に保障されているからといって表現の自由等の基本的人権や議会制度、裁判制度等の政治制度に幻想をもってはならない。これらは本来ブルジョアジーのための制度であり、労働者人民を抑圧しその地位に永遠に押し留めておくための手段である。労働者階級は、資本の支配を打倒し、労働者の権力を打ち立て、労働者階級独自の政治制度や民主主義を実現せねばならないのだ。(K)