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巻頭言



【2026.7.30】
国家、愛国心、人権とは何か?
 ──今国会で問題となった人権について


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国家、愛国心、人権とは何か?
今国会で問題となった人権について
2026年7月27日


        
 今の国会で人権との関りで問題になったのは、「皇位継承」と「国旗損壊罪」だろう。この二つを考えると我われはどうしても天皇制を始め国家や象徴、愛国心、国旗、人権とは何かといった問題を考えざるを得なくなる。これらの問題は各々孤立したものではなく相互に関係しているが、天皇制について、天皇制についてはすでに『海つばめ』1526号1面で述べられており、ここではそれ以外の問題を考えてみたい。
 
「通常人」、「社会通念」とはなにか?
        
 国旗損壊罪の規定は、「人に著しく不快または嫌悪の情を模様させるような方法」で「公然と国旗を損壊」した場合、「2年以下の拘禁または20万円以下の罰金を課する」というものであるが、そこで問題になるのは、「不快」とか「嫌悪」といった、拡大解釈が可能となる主観的な観念で人を罰してもいいのか、ということであった。自民・維新の与党は、「一般的な通常人」の感情や「社会通念」を基準にして判断すると説明しているが、しかし問題は、この「通常人」とか「社会通念」とは何か、ということである。
        
 「通常」とか「通念」の観念は、時々の社会や時代によって変わるものであり、相対化して考えねばならない。マルクスは、「支配階級の思想は、支配的な思想である。」と述べているが、通念とか常識といったものは、支配階級の思想を土台にしているものだ。封建社会には封建社会の「通常人」や「社会通念」があり、古代社会にも古代社会の通念があった(階級による違いを前提にして)。ブルジョア社会においては国家とはブルジョア国家であり、資本主義的生産関係の中で人々はそれぞれの階級的立場で生活している。
        
 本来異なった階級の人々を一般的に「通常人」にまとめることは不可能なことなのに、階級的見方を無視しているブルジョアは、強引にブルジョアの立場から階級社会の人間を抽象的に「利益を追求する個人」とか「自由で平等な個人」などと規定するのである。また「社会通念」にしても、競争社会で生きる人々の思考を「通念」「常識」として描くのだ。
        
 ブルジョア国家は、封建制度の下で様々な拘束に苦しんだ市民(ブルジョアの前身)が、多くの革命を経て作り上げた国家である。だから、ブルジョアジーがブルジョア国家を愛するのは当然であるが、労働者人民は、この資本主義社会に生まれこの社会で生きていかねばならない以上、この社会を“愛さねばならない”のは自然である。ブルジョアジーはこの感情を利用して愛国心を強要するのである。ブルジョアジーの「愛国心」は一般化され、労働者人民にも当然なものとされ、「愛国心」を持たない者を、“非国民”と言って非難するのである。
        
 このブルジョア国家の象徴が国旗である。象徴(シンボル)とは、抽象的な観念を表す具体的な物である。ここでは、ブルジョア国家イコール国旗ということになり、国旗を損壊したり侮辱したりすることは、ブルジョア国家そのものに対する反抗、反逆と同じことになる。自・維政府は、衆院での圧倒的多数を得たことを千載一遇の機会とし、立法事実(国旗損壊という事実)もないままに、何が何でも国旗損壊罪を成立させようとしたのは、日本国家に対する反抗を抑圧したいがためである。
 
表現の自由や思想・内心の自由の歴史性
        
 国旗損壊罪では、マスコミにおいては表現の自由や思想・内心の自由などが問題になった。人権もまた、その成立を歴史的に考えてみれば、人権もまた中世の市民(ブルジョアの前身)が封建制度の束縛に反抗して、営業の自由や所有の自由を主張したことから始まる。人権の成長も議会制度の成長などと同様に、ブルジョア階級の発展とともに基本的人権のイデオロギーとして完成されていくが、人権や民主主義も、あくまでブルジョアジーにとっての権利であり、はじめから被抑圧階級である労働者人民のものではなかったのである。
        
 所有権も営業の自由も、表現、思想・内心の自由も、失うべきものを待たず、その日暮らしに明け暮れている労働者人民には無縁のものであった。とはいえブルジョア社会はその建前としては“人間はみな平等”であるから、労働者人民もまたブルジョアと同様に人権を享受することができる。ブルジョア革命によって形式的にではあるが獲得された基本的人権や民主主義を手段にして労働者人民は、革命闘争を発展させていくことができるのである。
        
 以上のように、人権の成立の経緯からして人権は本来ブルジョアジーのものであるから、被抑圧階級の人権は、ブルジョア階級が消極的に労働者人民に認めたものに過ぎない。したがってブルジョアジーは、いやいやながら認めた労働者人民の人権を、絶えず必要最低限に抑えようとするのは当然である。
        
 労働者階級はブルジョア階級と“平等に”与えられた人権の抑圧や剝奪に抗議し闘わなければならないが、人権を過大に評価したりする幻想をもってはならないのである。人権というイデオロギーだけではなく、議会や裁判所などの政治制度や法律制度などは、資本主義的経済の土台の上に成立した上部構造であり、ブルジョア階級が作り出したものである。
 
ブルジョア民主主義の幻想を一掃し、労働者民主主義を実現しよう!
        
 レーニンは『背教者カウツキー』で次のように述べている。「搾取者は、被搾取者と平等ではありえない。」(レーニン10巻選集9巻p40)、「近代国家の基本法を取り上げてみたまえ。集会または出版の自由を取り上げてみたまえ。―そうすれば、諸君は、誠実で自覚した労働者ならだれでもよく知っているブルジョア民主主義の偽善を、一歩ごとにどの国家にも見出すであろう。どんなに民主主義国家であろうと、『秩序が破壊された場合に』―実際には、被搾取階級が自分の奴隷的地位を『破壊し』、非奴隷的にふるまおうと企てた場合に、労働者に軍隊を差し向けたり、戒厳を宣告したり、等々する可能性をブルジョアジーに保障している抜け道または但し書きが憲法の中に設けられていないような国家は、一つもない」(同p33)。
        
 労働者人民は憲法に保障されているからといって表現の自由等の基本的人権や議会制度、裁判制度等の政治制度に幻想をもってはならない。これらは本来ブルジョアジーのための制度であり、労働者人民を抑圧しその地位に永遠に押し留めておくための手段である。労働者階級は、資本の支配を打倒し、労働者の権力を打ち立て、労働者階級独自の政治制度や民主主義を実現せねばならないのだ。(K)