エンゲルス再検討
果たして「第二バイオリン」であったか
世紀の大問題を考え、論じよう!
――労働者セミナーに結集を!――
世界の人々は、ほぼこの一世紀もの間、マルクスと言えばエンゲルスの名を連想し、マルクス主義と言えば、マルクスととともにエンゲルスの理論を思い浮かべてきました。
マルクスとエンゲルスは、それほど切っても切れない一対のコンビとしで理解されてきたのです。二人は協力して労働者解放の事業のために献身し、またその理論を作り上げてきた、と長い間、無条件に信じられて来ました。
ところが最近、この信念をゆるがす、一つの重大な問題が浮上してきたから大変です。エンゲルスによる、「資本論」の修正、書き替えという問題です。
みなさんもすでに知っておられると思いますが、「資本論」の全三巻と「剰余価値学説史」のうち、マルクスによって完成され、発行されたのは、第一巻のみで、他は生前には刊行することができず、マルクスの死後、エンゲルス(「資本論」の二、三巻)とカウツキー(「剰余価値学説史」)によって編集、公刊されました。
マルクスは第一巻しか自分では編集し、原稿をまとめ、出版することはでさませんでしたが、しかし続いて出す意思をもって、「資本論」二、三巻などの膨大な草稿を残していたので、マルクスの死後、「資本論」の続巻の刊行も可能になったのです。
もちろん、マルクスの遺稿を整理し、刊行するという仕事もまた、大変な労力と時間を必要とするもので、エンゲルスは「資本論」だけは何とか終えることがでさましたが、「剰余価値学説史」の出版はカウツキーに託さざるを得ませんでした。
そして今、大問題になっているのが、エンゲルスは果たして、マルクスの草稿を正しく編集して世に送りだしたのかどうか、ということなのです。
マルクスの草稿を手にして、詳しく検討することが可能になるにつれて、エンゲルスが編集して出版した「資本論」――現行の――「資本論」――と、マルクスの草稿の間に大きなくい違いがあること、エンゲルスはマルクスの草稿にかなり広汎に、そして徹底的に「手を入れて」いること、しかもその「手の入れ方」がかならずしも正当であり、適切であるとは言えないということ、というより、むしろひどいものであることが確認されてきたのです。
これは決定的に重大な問題であり、エンゲルスの根本的な評価を問うほどのものでした。果たして、マルクス主義をマルクスとともに、エンゲルスの名で呼ぶのは正当なことなのか、呼んでいいものなのか。これまで高く評価され、喧伝されてきた、社会主義の運動と理論に対する、エンゲルスのあの大きな“功績”はどうなのか、それらもすべて「無に帰す」ということなのか、またそんな風に結論していいのか。
エンゲルスが「資本論」の編集刊行にあたり、何かおかしな修正をしているということは、すでに一九二〇年代にソビエト・ロシアにおいても問題になったのですが、スターリンが握りつぶし、エンゲルス絶対化を全世界の共産主義連動と労働者階級に押しつけることによって、長い間、タブーになってきて、ようやく一九八〇年代ころから、自由に検討できる雰囲気になってきたのです。
我々の中でも、昨年の「労働者セミナー」でも、エンゲルスの修正とその評価をめぐって大論争になりました。“左翼の”学者の中でも、あれこれの議論があるのは言うまでもありません。
かくして、我々の前には、この一世紀もの間、いわば絶対的とも言えた、エンゲルスの権威をどうするのか、エンゲルスの全体としての、あるいはその根本的な評価をいかに確定するのか、という決定的な問題が、客観的に提出されているのです。
全世界で闘われている労働者の解放運動、社会主義運動はこの重大問題に正しく答えることなしには、新しい一歩を踏み出すことができない状況にある、と言って決して言い過ぎではありません。
エンゲルスの「資本論」修正問題をいわば“悪用”して、マルクス主義を攻撃したり、あるいはそこまで行かなくても、マルクス主義を歪曲したり、おかしな解釈を押しつけようどする意識的、あるいは無意識的な試みもますます活発であり、こんごさらに活発になって行きかねません。“流行”に乗って、何でもエンゲルスは悪いと言えばいい、といった風潮さえなくはないのです。
かくして、我々が今秋の「労働者セミナー」で課題として取り上げるのは、「エンゲルスの評価」という決定的に重大な歴史的、理論的な問題なのです。
エンゲルスの「資本論」修正問題をいかに評価するのか、エンゲルスの修正、訂正は正当であったのかどうか、もしそれが正当でなかったというなら、なぜ、そんなことが行われたのか、それは全体としてのエンゲルスの評価をくつがえすものなのか、どうか。
「資本論」修正問題は“間違った”とするなら、エンゲルスの他の理論や実践はどうなのか、再検討する必要はないのか。哲学とか、経済理論とか、家族の理論とか、他の多くの理論や実践の分野でも、エンゲルスは自らの欠陥を暴露していないのか、あるいは他の分野では正当であり、健全であったのか。
そして、もしエンゲルスがひろい分野で欠陥を暴露しているとするなら、それは決してどうでもいいことではなく、我々自身がきちんと再点検しなくてはならない課題であるわけです。
今回の我々の労働者セミナーは、まさにこうした大きな課題に答え、その問題を追求するために開催されるのであって、昨年の労働者セミナーの問題意識をさらに深めるためのものとして計画されたのです。
全国の多くの労働者、青年が、この“世紀の”大問題を真剣に検討し、考え、議論するために結集することを期待してやみません。それは必ずや諸君をマルクス主義に向けて啓発し、大きな視野を切り開く、“啓示的・黙示録的”なセミナーとなるでしょう.この腐敗堕落した、荒涼たるブルジョア社会で、いかにたくましく生きていくのかの回答も隠されているかもしれません。
全国の心ある労働者、若者は、今秋の「労働者セミナー」に断固結集せよ!
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