はじめに
3月から5月にかけて開催された、マルクス主義同志会第12回大会は、13年間にわたる、サークルとしての活動に終始符をうち、「労働者党の再建」と「国政への復帰」のための闘いを開始することを決定しました。「労働者党の再建」には2年ほどの準備期間を置き、その後に「国政への復帰」(国政選挙等々への参加)を果たすという大まかな展望も明らかにしました。
「労働者党の再建」とはいうまでもなく、我々が再び、政党としての闘いを開始するということであり、また「国政への復帰」とは再び国政選挙(及び地方選挙、さらには議会闘争)に参加し、闘い抜くということです。
いかなる形で「労働者党の再建」を勝ち取るかという点では、志を同じくする党派やグループがあればそれも良し、なければそれも良しという立場です。「再建」の意味を狭く考え、かつて我々がその名のもとで闘った「社労党」(社会主義労働者党)にこだわるものではありません。「労働者党の再建」とは、どんな意味でも闘う労働者、社会主義者の党と呼べるものが消滅してしまったような現在の深刻な状況の中で、明治時代の「平民社」以来の伝統を汲みつつ、新しい労働者の党を再組織し、闘いを――とりわけ労働者の政治的な闘いを――貫徹して行かなくてはならない、さもなければ決して労働者の未来を切り開いて行くことはできないという我々の強い思いと意志の集約であり、また結晶でもあります。
1 我々の組織、その歴史、その闘い
我々は60年安保闘争の時代からすでに数十年、一貫してこうした課題を追求し、1970年代から90年代にかけて「社労党」等を組織し、議会闘争に参加していわば“極小の”労働者政党として、17年間ほどの期間闘い抜きましたが、「矢尽き刀折れて」無念の後退を強いられ、矛を収めて闘いの中断を余儀なくされました。それ以降、我々は基本的に、組織的結集としてはサークル的な形を取りつつ、「捲土重来」を期して活動を継続してきました。
我々が公然たる政治的な闘いを中断したのは、闘う意思や意欲が後退したからでも、まして消滅したからでも全くありません。その主要な原因はカネの問題であり、供託金制度等々の不公平、不正義の差別選挙制度の中で、財政的にも、実際的にもやっていけなくなったからです。供託金の負担は、最近厳密に計算してみましたら何と総額1億円にも達し、選挙を闘う、普通の経費の2倍、3倍にもなっていました。今に至るまで返済し得たとはいえないほどの借金は山と積み重なり、戦線を縮小せざるを得なかったのです。供託金や、90年代に細川政権によって、つまり当時の公明党や社会党(現在の民進党や社民党)等々によって導入された小選挙区制や政党助成金などを始めとする、不正、不公正で邪道の選挙制度がなければ、我々はさらに闘いを10年、20年と継続し、拡大していくこと――本当に信頼し得る労働者派の議員を何人も、何十人も生み出すまで――は十分に可能だったのです。
我々の挑戦の挫折には、我々の闘った時代が、「高度経済成長」の時代の末期から、80年代後半の超バブルの時代が重なったことや、社会党や共産党への幻想がまだ労働者、勤労者の中に根強く残っていて、我々の訴えが労働者、勤労者の中になかなか浸透しなかったことも影響しました。
我々が“公認された”政治闘争の舞台からの撤退を余儀なくされ、後退した直後から日本資本主義の長期的な停滞や衰退が始まり、また労働者の政党として、偽りの名をほしいままにしていた社会党が自民党と連合して政権につくなどして裏切りに走り、労働者、勤労者の支持を失って消滅してしまったのは皮肉なことでした。
我々は広い意味での“新左翼”系のミニ党派として出発しましたが、労働者、勤労者とその闘いにとって有害無益なテロや、陋劣愚昧な「内ゲバ」等々に、あるいは「成田闘争」とか「沖縄奪還闘争」とかいった、無意味で空疎な“闘い”に明瞭に反対し、そんなものとは全く無関係な、唯一の労働者派として活動してきました(しばしば“非実践的”であるとか、軽率なプチブル急進派や市民派や“素朴”実践派の諸君から罵られながらも)。
我々は一貫して、労働者の経済闘争、理論闘争、政治闘争の貫徹を謳い、組織し、学び、宣伝することを活動の根底に据えてきたのです。その意味では、我々は労働者、勤労者の前で、恥じるべきことは何一つありません(河上肇の漢詩の一節を借りれば、「俯して地に恥じず、仰いで天に愧ずるなし」です)。
我々は実践的、組織的に、プチブル的で、頽廃していく“新左翼”諸派とは明白な一線を画し、彼らに対する確固たる、首尾一貫した批判的立場を堅持してきたのですが、我々が実践活動と闘いの中において勝ち取ってきた、理論的な成果や前進についても、ついでに述べておかなければなりません。
我々は現代ブルジョアの、ケインズ主義に代表される頽廃した“寄生階級の”経済学の批判的克服――それはまた、事実上、ケインズ経済学に理論的にも、実践的にも屈従して行き、「過少消費説」を担ぎ回った、共産党の粗雑低俗な“経済学”への批判でもありました――はもちろんのこと、ブント諸派や“新左翼”諸派との理論的闘いの中で、マルクス主義へのブルジョア自由主義的影響の一つの現れの、黒田らの“主体性哲学”や、宇野学派のプチブル的な“無用饒舌経済学”をも拒否、決別して、労働者とその闘いの理論を掘り下げ、さらに前進させてきた、事実上、唯一の党派でした。
我々はすでに1960年代の早くから、ソ連や中国の体制は「社会主義」ではないのはもちろん、「社会主義への過渡期」社会等々ですらなく、むしろ一種の資本主義社会(我々は“国家資本主義”の社会と概念規定しました)であり、不可避的に“ブルジョア的に”進化することを明らかにし、半世紀前の文化大革命の時代にあってさえ、毛沢東の“農民的共産主義”は“実権派”、“走資派”の勝利に帰着し、中国が資本主義の中国に転化することを“洞察し得たほどでしたが、当時そんなことを信じた人はほとんどいなかったのです。そしてまた、当然の結果として、不破らが持ちだし、珍重した「市場経済的社会主義」といった観念を、我々は“スターリン主義”を代表し、その反動性を暴露する、愚劣そのものの観念として嘲笑し、否定したのでした。
その他にも、スターリン主義派が、彼らの「過少消費説」――これは共産党の日和見主義や改良主義の政治や実践と不可分の、それを支えた俗論であり、今ではケインズ主義や「アベノミクス」や、その実践としての“政労使”協調の賃上げ論(安倍政権主導の、労働者の賃上げという茶番)と、ほとんど区別できないものにまで堕しているのですが――や、それを正当化するために流布させていた偽りの「恐慌論」や「拡大再生産論」等々も完璧に理論的に粉砕しましたし、さらには「社会主義」における“分配”の理論においても、基本的な課題を検討し、明らかにしてきましたが、こうした成果は労働者の階級的闘いを貫徹し、本当の解放を勝ち取っていくときに、どうでもいい理論課題では決してありませんでした。
我々が批判して止まなかった、スターリン主義の「政治理論」についていえば、それらは、「民主的統一戦線」戦術――歴史的には、1930年代、スターリン主義派のブルジョア協調主義を象徴する「人民戦線戦術」として始まりました。もっともそれはすでに、スターリン派が権力を握った1920年代の半ば、中国革命へのスターリンのいわば “個人的な”指導方針として実際的に提出され、実行されて、20年代の中国革命の挫折と敗北を結果しています――とか、革命の「段階論」――現在はブルジョアへの支持を与える“段階”、次はプチブル改革派を表に立て、応援する“段階”、そして最後にはブルジョアやプチブルを振り捨てて本当の「革命」をする“段階”が来る、云々――といった、ドグマ的、形而上学的な“政治理論”などですが、語るに値しないほどの日和見主義的俗論であって、今もなお、志位共産党の、民進党や市民派との愚鈍にして最低、醜悪な“協調路線”(「国民連合政府」云々の政治)として“現実的”であり、労働者の原則的な階級的闘いに計り知れないほどの害悪と損害を与え続けています。
2 現代はまさに危機を深める“高度”(つまり行き詰まりと頽廃と寄生化そのものの)資本主義、「死滅しつつある資本主義」ではないのか
しかし現在、資本主義の矛盾の深化と危機と衰退は余りに明らかであり、ブルジョアたちはその前で呆然としてなすすべを知らず、ただ“非伝統的な”、あるいは“異次元の”金融緩和の名のもとで、さらには継続的な財政膨張政策によってカネをバラまくといった、場当たりのびぼう策(一時しのぎのやり方)に走り、そんなものに固執する以外、何もできない状況に追い込まれています。ただ空疎な強がりや「近い将来万事がよくなる」といった「期待感」つまり願望や幻想をふりまき、労働者、勤労者を惑わすことによってのみ政権にしがみついているような、なさけない、頽廃し切った有様で、まさに日々、ブルジョア階級の歴史的な没落と敗退を予感させています。
現代資本主義は、第二次世界大戦後、永続する繁栄と「高度経済成長」を享受するかに見えてきましたが、すでに70年代から80年代にかけて、その内包する矛盾と限界を暴露し、歴史的に危機の時代に突入してきました。「国際通貨」を公言したドルは「金」との関係を絶つことによって、「管理通貨制度」として自らを完成したかですが、それは「通貨」の継続的な、絶え間ない「減価」を避けられないものに、他方では、財政、金融に拘束されない膨張の可能性をもたらしましたが、そうした現実は現代資本主義の、したがってまたブルジョアジーの腐敗、頽廃、反動化を規定し、深化させてきました。今では彼らは、死すべき階級としての自らの本性をますます暴露しています。
彼らは現代資本主義の下で膨張する過剰生産や信用膨張をまともに管理し、規制することができなくなり、あるいはむしろそれを必要とするようになり、ますますその麻薬的効果に魅せられて、自らの歴史的死滅を加速させつつあるかに見えます。
彼らは深化する資本主義的矛盾と階級支配の危機――例えば00年代末のリーマンショック等々、あるいは日本なら80年代末のバブル等々やその破裂等々――に対して、ただ国家支出を膨張させ、“質、量共に”異様な金融緩和等々で立ち向かうしかなかったのですが、それはただ国家債務を一挙に膨れあがらせ、あるいは「通貨」を経済と流通にむりやりに押し込むことによってのみ可能になりました。
もちろん資本主義的生産様式の根底から生じてくる矛盾や困難に対して、財政膨張や信用膨張、通貨膨張によって対応し、それらを克服することはできません、あるいはできるように見えるとしても、一時的な対症療法でしかなく、しかもそんなやり方は矛盾や困難を温存するばかりではなく、さらに一層激化し、深化させる契機さえ持つのですから、危機と困難は慢性化するしかありません。
つまり、カネをバラまくことによっては、資本主義の根本的な矛盾の集中的な表現としての過剰生産や過剰信用(不況や恐慌)の困難(ブルジョアたちは「需要不足」などと一面的に、間違って呼び、理解するのですが)を解消することができないこと、そうした困難を一時的に隠蔽しつつ、より大きい、深刻な危機として再現し、表出するしかないことほどに確実で、明らかなことはないのです。ブルジョアたちが万能薬であるかに信じ込んで行う、財政の膨張や金融緩和等々の“政策”は、それ自体、一時的に「需要不足」つまり過剰生産を解消するかに見えて、実際には過剰生産をむしろさらに促し、深化させるのですから、彼らの解決策によって、彼らの呼ぶところの「デフレ」はむしろ慢性化、日常化し、泥沼化するだけ、労働者、勤労者の困難や苦悩もまた永遠化されるということになるしかありません。
2016年のG7(伊勢志摩サミット)は現代のブルジョアジーの陥っている袋小路を端的に暴露しました。安倍は自らのヘゲモニーによる「財政出動」を国際的な規模で共同して行うことによって、国際的な長引く経済的停滞と不振に、つまりデフレに苦しむ世界を救おうと独りよがりにふけったのですが、そんなやり方で衰退する世界資本主義を救うことができないことを明らかにしただけでした。
そもそもすでにこれまでの無原則な「財政出動」の結果による国家破産の危機に苦しむ日本が、今さらのように「財政出動」を謳い、そんな「戦略」を世界の大国に、自分ではほとんどそんな実力も余裕もすでにないのに、ドイツやアメリカに押しつけ――つまり典型的な、「他人のふんどしで相撲を取る」というやつです――、それによって世界経済のデフレを一掃しようなど提起すること自体、どんなに常識外れのばかげたことであるかに気が付かないのですから、安倍がブルジョア世界の鼻つまみ者になっていくのは避けられないのです。
資本主義的生産とその社会の全体を、予算の半ばを借金に依存するような不健全で、不道徳な「財政政策」や、カネを垂れ流すだけのようなだらしのなく、厚顔無恥の「金融政策」で思うがままに左右し、支配し、救済することができる――デフレも恐慌も信用パニックも、モラル・ハザードも人心荒廃も何も恐れることは何もない――という観念は、現代ブルジョアジーの破廉恥で、傲慢不遜の幻想ですが、資本主義の危機の中で溺れていき、「ワラをもつかみたい」彼らの最後の頼みの綱として必然でした。
それはブルジョアたちに、資本主義的繁栄やかつてのような華やかな「成長」の未来があるかの幻影を与えたのですが、今やようやく、そんなものが「人類の知恵」――と、空っぽのケインズ主義者や、リフレ派のやくざ経済学者は言いはやすのですが――どころか、空虚なクズ理論、安直な思いつきにすぎないことが現実の中で明らかにされてしまっているのです。
日本における安倍政権の登場は、世界資本主義が矛盾を激化し、行き詰まったことの一つの表れであり、またブルジョアジーが反動化し、専制政治や国家主義や軍国主義にますます傾斜し行く必然性を暴露しましたが、それはまた同時に世界的な労働者階級の新しい闘いの時代の始まりであり、そこにつながっていくことを教えています。
3 頽廃する現代の“高度”資本主義とブルジョア階級
パナマ文書が明らかにしたことは、現代の「資本」の世界的な規模における頽廃であり、資本の勢力がすでに倫理観を失って腐り果てたということです。国内でも、東芝などの電機資本についで、自動車資本の燃費問題における不正も次々と暴露されています。いずれも「日本を代表する」(あるいはすでに、「代表した」と過去形でいうべきでしょうか)産業資本です。
産業資本がこのていたらくだとするなら、金融資本については、まして言うまでもありません。
現代のブルジョア階級が頽廃したのは、権力を悪用することで通貨の「価値」を好き勝手に変動させ(主として、引き下げ)、インフレを引き起こしたり、為替相場を低く誘導したりすることで「景気」を維持したり、儲けを増やしたりすることができるという、現代資本主義に特有の幻想が生まれ、支配的なブルジョアジーの観念となったことと関係しています。
彼らは経済関係をますます健全にし、また安定させ、労働の生産力を高め、まさにそのことによって、労働の搾取を強めるといった、よき時代における自分たちの“原則”はすでにどうでもいいことと考え、そんなものは二の次、三の次にしています。「構造改革」だ、「合理化」だ、「規制緩和」だといっても、労働者への困難のしわ寄せ(労働保護の一掃や撤廃等々)を考えているだけで、自らの責任で「合理化」すべき、大企業への特別の恩恵とか、零細企業や農業における小所有、小経営への保護等々はいつまでも温存し、あげくの果てには国家も水ぶくれさせて破産に追い込み、マイナス金利などと称して、信用関係もめちゃくちゃにして崩壊させ、さらには自らの支配と権力の危機や困難を、国家主義や排外主義にそらせ、諸国間の対立や戦争までも挑発するまでになっており、ますますそうなって行きつつあります。彼らはすでに進歩的な階級ではなくなり、腐りはて、悪臭を放つ、死すべき階級に転落したのです。
要するに現代の資本の勢力は、資本主義の矛盾の恐るべき発展や、労働者の膨れあがっていく怒りや不満や絶望に直面し、ただ困難を労働者、勤労者に転嫁し、搾取を異常に強化することによってのみ対応し、対抗することしかできず、またそうすることによって、ただ労働者、勤労者の社会的な地位の一層の低下や生活の急速な悪化や不安定をもたらしているだけであると言って少しも言いすぎではありません。
世界の資本主義国家における、ますますはびこり、拡散していく低賃金や、労働者間の差別的な諸関係――正規労働者と非正規労働者間の、男性労働者と女性労働者間の、大企業と中小零細企業間の労働者間の、若年層の労働者と高年齢の労働者間の、内国籍の労働者と外国籍や移民・移住の労働者間の、“差別”や“格差”の拡大等々――の導入や増大は、このことを端的に物語っています。
資本は矛盾と困難が深化するなかで、労働者の間にますます拡大する「差別」や「格差」や「分断」を持ち込んで、労働者への搾取と支配を強め、多くの労働者――とりわけ女性や青年層の労働者間の――生活を貧困化、破滅させ、団結や闘いを掘り崩して資本の支配体制を延命、恒久化しようと日々策動しているのです。目覚めつつある労働者、自覚した労働者は今や、そうした一切の「差別」や過度搾取の体制に反対し、それを粉砕、一掃する闘いに立ち上がり、さらに進んで搾取そのものの廃絶に向って、つまり労働者階級全体の解放に向って進んで行かなくてはなりません。
そして今、ブルジョア政治家たちはみな、安倍一派にも象徴されるように、労働者、勤労者をペテンにかけることだけに腐心し、デマゴギー政治によって支配し、さらには粗野な民族主義や野蛮な国家主義を扇動し、諸国家の労働者、勤労者を対立をあおり、争わせることによって、労働者、勤労者の怒りや闘いをそらせ、自らの延命を図るのですから、根底から腐敗・頽廃した、政治的賭博師やよた者やならず者のレベルに転落していると結論するしかありません。
彼らはまた、自分の権力の永続化を求め、公的な形を装って自分たちのために金をかき集め、後先も考えず借りまくり、それをただバラまくことで生き延びようとするだけです。当然、国家も財政も金融もむやみに弛緩、膨張し、紊乱、寄生化して、国民経済は衰退し、破綻し、解体し、労働者、勤労者の生活と日常は根底から破壊されていくしかありません。
資本主義の客観的な状況は、戦後の「高度経済成長」の時代や、バブルの時代と比べてはるかに矛盾と頽廃を深め、行き詰まり、瓦解しつつあります。そしてまた、そんな資本主義の状況に対し、ブルジョア政府のありとあらゆる救済策は、一時的で、絆創膏を貼るといった効果しか上げることができず、そんな場当たりの、不健全な救済策は、危機と困難を瞬時だけ緩和するかに見えても、結局先送りするだけ、かえって矛盾や困難を一層悪化して、再び招き寄せるだけであることをますます暴露しつつありますし、今後も同様でしょう。
4 労働者の究極的な解放目ざし、真実の労働者党を再建しよう
そしてまた労働者、勤労者にとっての大問題は、資本の搾取や抑圧に反対して、労働者の階級的な立場や利益のために、労働者の未来のために、搾取の廃絶と究極的な解放を目ざして闘う政党が破綻して消滅してしまい、あるいは腐敗堕落して解体しつつあることです。
これはまさに“世界的な”現象ですが、日本もまた例外ではありません。戦後、曲がりなりにも労働者、勤労者の党と呼ばれ、またそれを自認してきた――厚かましくも――政党も、魂を悪魔に売ったのか、露骨にブルジョア的な変質・堕落を遂げ、すでに消滅してしまったか(1996年の社会党)、あるいは“スターリン主義的”ドグマと、プチブル的、ブルジョア的な堕落と、頽廃と無気力のなかで解体しつつあります(2016年の共産党)。
社会党は「反(非)自民」の政権としての細川政権に参加して挫折したあと、何と1994年から6年まで自民党などと連立し、形ばかりの社会党首班の村山政権まで組織しましたが、社会党“左派”を代表した村山のヘゲモニーのもと、それまでの党の基本的な立場を180度転換させて、日米安保条約や自衛隊の「合憲」の立場に転向し、その結果、労働者、勤労者の支持を完全に失って、ついに党として消滅してしまいました。その衣鉢を継いだとされる社民党の有様は、社会党の幽霊であるとともに、社会党がどんな党であり、そしてそれ故に、実践的に堕落せざるを得なかったかの必然性を語っています。
共産党もまた、最近では民進党(民主党)や市民主義派の尻尾にくっつくだけの、極端な日和見主義の党であって、「自共対決」とか、「唯一の革新」云々は労働者、勤労者を欺くための虚偽の看板でしかないことを暴露し、かつての社会党と同様に、その後を追って、日米安保条約や自衛隊の合憲を主張し、さらにご丁寧にも天皇制の支持まで公言し、誇示するなど、ブルジョア的、反動的な堕落と解体への道を急いでいます。
今やこの珍奇なセクト主義の党は、09年に政権を握ることで、その政治的な無力と反動性と裏切りさえ暴露して、簡単に破産してしまった民進党(民主党)と一緒になって、「国民連合政府」などといった、あやふやでわけのわからない――したがって、生まれたかと思う途端に解体してしまうしかないような――政府を組織するといった、観念的で、独善的で、ピント外れのことしか提起できないのです。こんな愚劣で、おかしな“共産主義”の党といったものは存在しないし、するはずもありません。今では、“スターリン主義”の行き着いた果ての、醜悪な残骸というしかありません。
今こそ、労働者の手によって組織され、労働者のために闘う、労働者の党は必然であり、「再建」され、また公然と登場し、労働者の多くを結集して闘いを開始し、発展させて行かなくてはならないし、またそうすべき時です。
「労働者党の再建」と「国政への復帰」の合い言葉のもと、労働者の未来を切り開くため、心ある労働者の皆さん、結集し、団結してともに闘いに立ち上がりましょう。労働者階級の解放のための闘い、そして労働者党のための闘いは、資本主義が存続する限り、歴史的な必然であり、永遠の挑戦です。
闘いを開始しましょう。Le Temps viendra!(「時は至らん!」)。 (註・「時は至らん!」――この呼びかけは、フランス革命からテーマを取った、ロマン・ロランの一連の革命劇の一つのタイトルからの借用です。)