宇野学派はマルクス理論への攻撃を止めよ
青木孝平の所有論/田口騏一郎
マルクスの理論の無理解と歪曲――資本主義的生産関係から目をそらす
青木は宇野派の学者だが、その著『ポストマルクスの所有理論』(社会評論社刊)で、マルクスの所有論は生産手段を資本家が所有し、労働者を搾取していることを暴露していると理解されてきたが、それは「皮相な理解」でしかない、資本主義的所有の意味を徹底的に批判しえなかったがために、ソ連・東欧の“社会主義”政権崩壊後、「市民的権利」が未成熟であったとし、私的所有を弁護する市民主義が運動の主流になったのだと述べている。果たしてそうか。青木の「所有理論」を検討する(以下では第五章『マルクス所有論の地平』を取り上げる)。
◆「領有法則の転回」への青木の批判
青木は、マルクスは『資本論』で資本主義的所有を論じているが、そこには単純生産者の私的所有の正当化に道を開くような不徹底な部分が残されているとして、「商品生産所有の資本制的領有への転回」(第一巻、第七篇「資本の蓄積過程」の二二章「剰余価値の資本への転化」)について論じている。
まず、当該個所のマルクスの記述を見ておこう。マルクスは以下のように述べている。
「……労働力を現実の価値どおりに売買するかぎりでは、明らかに、商品生産と商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである」(大月普及版一巻、七六〇頁)
「最初の売買として現れた等価物どうしの交換は、一変して、ただ外観的に交換が行なわれるだけになる。なぜならば、第一に、労働力と交換される資本部分そのものが、等価なしで取得された他人の労働生産物の一部分にほかならないからであり、第二には、この資本部分は、その生産者である労働者によって、ただ補填されるだけでなく、新しい剰余を伴って補填されなければならないからである。こうして、資本家と労働者とのあいだの交換という関係は流通過程に属する外観でしかなくなり、内容そのものとは無関係でただ内容を不可解にするだけのたんなる形式になるのである。労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしで取得するすでに対象化されている他人の労働の一部分を、絶えず繰り返しそれよりも多量の生きている他人労働と取り替えるということである。最初は、所有権は、自分の労働にもとづくものとしてわれわれの前に現れた。少なくとも、このような仮定が認められねばならなかった。なぜならば、ただ同権の商品所持者が相対するだけであり、他人の商品を取得するための手段はただ自分の商品を手放すだけであり、そして自分の商品はただ労働によってつくりだされるだけだからである。所有は、今では、資本の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現れる。所有と労働との分離は、外見上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結となるのである」(同)。
これについて青木は、「不払い労働の領有」という問題を持ち込み、首尾一貫しない記述となっていると次のようにいう。
「この労働力と生産物の売買たる『交換の法則』による所有権の取得はけっしてたんなる仮象ではなく、あらゆる社会に共通な財貨の拡大再生産という関係の、特殊に商品システムにおける規範化の形式であるといわねばならないのである。『商品生産の所有法則と所有権』という法イデオロギーも、ここにおいて初めて合理的な根拠をもって成立するとしなければならない。
ところがマルクスは、……蓄積の出発点も『要綱』と同様に、『他人の商品を獲得する手段は自己の商品の譲渡のみであり、しかも商品は労働によってのみ生産される』という仮定から開始した。いいかえれば、所有権の本源的な取得を根拠として『自己の労働にもとづくもの』という規定を踏襲したのである。こうして過去の労働Tの成果による現在のより多量の生きた労働Uの形成を、『所有と労働の分離』とみなし、『蓄積化される剰余労働の通俗的な表現』にすぎないはずの、『不払い労働』なるタームを自らうけいれた。これを、なにか不当な、所有の形骸化であるかのようにえがいてしまったのである」(一〇〇頁)
青木は、資本の蓄積では、資本による資本の生産が問題となるのであって、資本家の原資が過去どんな形で形成されてきたか問題にならない。労働者は自己の労働の成果の一部しか取得できないが、それは資本家と労働者と不等価交換によるものではない。生産物の全体は労働力の購買にもとづいて生産を行なう資本家階級のものだからであり、労働者は賃金でもって生活手段を購入する関係にある。資本家的蓄積は、生産物と労働力の販売という繰り返しによって行われるのであって、資本主義的所有の規範も、こうした資本主義的生産によって形成される。つまり資本主義的所有は、資本家のみならず労働者も含めた共同の観念となるという。青木は、商品生産が一般化する資本主義的生産においては、資本主義的所有が社会的に正当化され、労働者もまた私的所有意識に取り込まれるのだということに止まっている。
こうした観点から、青木はマルクスが「領有法則の転回」で、資本家的所有が「自己の労働にもとづく所有」ではなく、労働者の労働の搾取の結果である、つまり他人の労働による他人の労働の無償の取得だということを問題にしていると批判しているのである。彼によれば、資本主義的所有を「自己の労働にもとづかない所有」と批判することは、単純商品生産者の私的所有の立場の擁護に道を開くものであり、間違っているというのである。
しかし、マルクスが単純生産者を仮定したのは、資本主義が商品生産の発展から生まれ、それは商品生産の交換法則を少しも侵害するものではなくて、その上に資本主義的取得が成立するのだということを明らかにしているのである。
そして、同時に資本主義的生産において等価交換の形式で正当化される資本主義的取得の実質的内容を暴露している。
資本主義的生産関係のもとで生み出される生産物は労働者の労働によって生産され、再生産されているのであるが、しかし、その労働によって生産された成果の取得ということからすれば、労働者自身によって生産された賃金に相当する一部分でしかなく、資本家は自ら労働することなく、労働者が生産した生産物を取得するのである。
商品として労働力が絶えず販売されている資本主義的生産のもとで資本家が労働者と取り結ぶ関係の実態は、先のマルクスの引用で述べているように「資本家が、絶えず等価なしで取得するすでに対象化されている他人の労働の一部分を、絶えず繰り返しそれよりも多量の生きている他人労働と取り替えるということ」であって、資本家と労働者との間の等価交換ということは、たんなる「外観」にすぎない。こうして「所有は、今では、資本の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現れる。所有と労働との分離は、外見上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結となるのである」という、一方的な収奪の関係として現れてくる。
ところが、青木は、こうした指摘の意識を全く認めずそれは不要なこと、資本主義的所有を明らかにする妨げというのである。彼においては、労働力の商品化こそが資本主義の基本的な社会関係を規定するものであって、資本家と労働者とが取り結ぶ基本的な関係は、商品としての労働力の売買において等価物どうしの交換関係であるとみなしているからである。
◆「労働にもとづく所有」の歪曲
次いで青木は、マルクスが所有の問題をスミス、リカード的な「自己労働にもとづく所有」という限界を乗り越えていなかったと批判している。それは、マルクスが資本主義を克服した将来の社会において「個人的所有がつくりだされる」と述べたことに関してである。
マルクスは二四章の「資本主義的蓄積の歴史的傾向」で、「個々独立の労働個体とその労働諸条件との融合にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由の労働の搾取にもとづく資本主義的私有によって駆逐される」(九九四頁)と書いた。そして。この章の締めくくりとして次のように結んでいる。
「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然的過程の必然をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである」(九九五頁)
これに対して、青木はこう述べている。
「こうした『自己の労働にもとづく私的所有』を起点とする本源的蓄積論こそが、最終的に『他人の労働にたいする資本家的な所有権』そのものから、資本主義的生産の内在的諸法則の作用、すなわち資本の集中と集積によって、収奪者の収奪をも展開する弁証法的な『否定の否定』論に帰結していったといえる。それはリカードウ派の社会主義者やプルードン主義者が、労働価値説を改鼠して全収益権を主張した誤りを繰り返すものである。ここでは、マルクスも、資本主義の矛盾を、所有の不平等とか労働の従属性とかいう経験的なイデオロギーのレヴェルに解消し、これにまったく同一の資本主義的生産関係のイデオロギー的裏面にすぎない『自己の労働にもとづく個人所有』を、未来に実現すべき理想として対置する発想におちいってしまったのである」(一〇九頁)
青木は、マルクスがスミス的な所有、つまり私的所有を正当化する「資本主義的な方イデオロギー」を弁護していたかに言うが、これはまったく不当な批判である。
マルクスは、人間が自然に働きかけて有用なものを取りだすことを「本源的所有」と述べている。これはいかなる生産様式にも共通することである。ここでマルクスが将来の社会で実現するとしている「自己の労働にもとづく個人的所有」とはこうした意味でいわれているのである。
これに対して「自己の労働にもとづく私的所有」とは、生産手段をもち有益な物を生産する単純商品生産者の立場を表わしている。私的所有とは、他人に対して自分のものであることの権利をあらわす概念である。所有権は、自然との関係ではなくて、社会的な、とりわけ法的な性格をもつ概念であり、他人を排除して物を全面的に支配しうる権利であって、自分の欲するままに使用、処分しうることを内容とする。
しかし、資本主義的生産の発展は、こうした「自己の労働にもとづく私的所有」を否定する。というのは、資本家は自ら労働しないからである。労働するのは資本家が雇った労働者であり、資本家は労働者から労働力を買い、労働させることによってその成果を自分のものとする。
マルクスが、将来の社会において「自己の労働にもとづく個人的所有」が実現されるといっているのは、他人の労働の搾取による私有が否定されて、労働者階級みずからが労働の成果を自分たちのものにするということである。それは、私的所有にもとづく単純生産者の立場への復帰ではない。
◆生産関係から目をそらす
ところが、青木はマルクスがあたかも私的所有に立つ単純生産者的な立場への復帰として述べたかのように言うのである。
彼は、ソ連崩壊が社会主義に向かわず、市民主義者的潮流が優勢となり。ブルジョア的所有への復帰となったのは、資本主義への批判を「生産手段の私有」とか「労働者の従属性」に求めた結果、「私的所有」への批判を貫徹することができなかったからだというのだ。
青木が強調するのは、資本主義によって「私的所有」のイデオロギーが労働者に間にも浸透し、一般化しているということである。たとえば、青木はこう述べている。
「資本の蓄積は、追加的な生産手段と生活手段の所有権を正当に資本家に帰属させるといってよい。だが資本家は追加労働力そのものを資本主義的に生産しえず、したがって所有しえない。このため労働力は、雇用契約を通じて労務給付債権によって確保するしかないが、問題は労働者の人数の絶対的な限界である。それは自然人口に依存するしかない。これを解決するものが、不況期における固定資本の変革による有機的構成の高度化にもとづく過剰労働力の排出、および好況期における既存の構成維持による蓄積の拡大による労働力の吸収である。資本家は、こうした景気循環の反復により蓄積を実現することによって、拡大再生産においてつねに一定の労働力の確保を基礎にした所有権の規範的正当性を保持しうる。また、労働者も、不況期における労賃の下落・労働日の延長・労働条件の改悪、および好況期における労賃の上昇・労働日の短縮・労働条件の改善というプロセスをくりかえすことによって、自らの意識を労働にもとづく賃金の所有者として訓化していく。
さらに、再生産表式における生産手段と生活手段の配分が特殊に所有権運動を通じて均衡的に実現されることは、同時に、これらへの社会的な資本投下と労働力の配分が、価格変動を介した市場における移動によって自己調整されることを意味する。このために、所有権は『生命身体・居住移転・職業選択の自由』などと一体の基本的人権として表象され、資本家と労働者双方の市民法的な規範意識に受容されていくことになる」(一一五〜六頁)
青木は、労働力を資本が生産しえないから雇用契約を結ぶなどとわけのわからないことを言っているが(資本主義は奴隷制と異なって“自由な”労働者を前提にするのではないか)、それはさておくとしても、結局、資本主義は不況(恐慌)におちいっても、労働者の首切りや労働強化など労働者に犠牲を転化することによって一時的にこれを乗り切っていく、それは資本主義的生産への労働者の反発や反抗を呼び覚ますのではなくて、反対に資本主義的生産の正当性を立証するものとし資本主義的所有が社会的規範として労働者を含めた社会全体によって認められていくというのだ。
青木は、「資本主義の根幹は、けっして、生産手段や資本の所有にあるのではない。けだし、それが、いかに非私人格化され匿名化されようと、直接生産がそこから分離し、両者が商品経済システムらよって再結合されていることに何の変化もない。労働者が獲得した賃労働へのインセンティブとその物象化による生産関係のオートミー(自律―引用者)を保障するものとしてこそ、あいかわらず社会の成員の日常意識と行動をことごとく覆いつづけている。市民的所有へのフェティティシズム(物神崇拝―同)は、いっそう強固になってきている。
今日、なおマルクスの理論に、いくばくかの実践的展望がのこされているとすれば、……生産過程を外から包んでいる所有自体の剥離によって、特殊に近代的理性の所産であったあの『労働=所有』という市民法的な統合のパラダイムそのものを相対化する、いわば近代的人間像のデコンストラクション(再構築―同)のかなたにあるといわねばならない。この意味において現代のプロブレマティク(課題―同)は、依然として所有のフェティティシズムに帰結する労働力の商品化、すなわち資本主義のシステムのうちにこそあるというべきである」(一二一頁)
結局、青木が言うのは、労働力の商品化こそが問題である、これこそが私的所有を物神化する根拠であることである。資本主義の矛盾を生産関係にもとめるのではなく、本来「商品たりえない」労働力が商品化するということにもとめるという宇野学派の図式である。彼にとって生産手段の私的所有への批判は、二義的な問題である。労働力が商品であるかぎり、「市民的所有」への物神崇拝はなくならないのである。しかし、それは一面である。商品生産がなくならない限り、ブルジョア的所有へ意識はなくならない。だが、他方ではでは、資本――賃労働という生産関係は、資本主義への労働者の反発、反抗を呼びさまさずにはおかない。
マルクスは生産が社会的に行なわれているにも関わらず、生産手段が資本家階級の所有になっていること、生産の担い手である労働者階級が資本に搾取され、抑圧されていることにこそ、資本主義の根本的矛盾であることを暴露したのである。ソ連崩壊後のことについて一言いえば、大衆的な規模で根本的批判、社会主義への展望が明らかにされえなかったということにあるのである。
青木は、「市民的所有を相対化」しなくてはならないなどと、口にしつつも、「市民的所有」への幻想を生み出している資本主義を批判することはできないのである。生産手段の資本家階級による所有、生産手段から切り離され生活のためには労働力を資本家階級に切り売りしなくてはならない労働者階級、こうした資本と賃労働の生産関係こそ、資本主義の根幹であり、矛盾である。青木が資本主義の矛盾について理解していないことは、資本主義的生産の矛盾の集中的爆発である恐慌について、資本主義的所有の正当性的を論証するものなどいって済ませていることにも特徴的にあらわれている。結局、青木の主張は資本主義の矛盾、資本主義的所有の矛盾から目をそむけることでしかないのである。
●『海つばめ』第972号(2005年1月9日)
《本紙一月九日号で田口騏一郎氏が『ポスト・マルクスの所有理論』(青木孝平著)を批判的に検討しましたが、著者である青木氏から反論が寄せられました。以下、掲載します。》
田口氏の批判に答える/青木孝平
「労働にもとづく所有」は将来社会の理念たりうるか?
本紙九七二号(二〇〇五年一月九号)において、田口騏一郎氏が私の著書『ポスト・マルクスの所有理論』(社会評論社)に対して詳細な批判を展開している。
私が十二年も前に書いた書物が今日でも検討の俎上に載せる価値があるのかどうか自信はないが、田口氏はこの書物になお現在的な意味があると判断されたのであろう。ありがたいことである。まずは田口氏の労に対し率直に謝意を表したい。
しかしながら謝意はあくまでもその労に対してであり、批判の内容が当を得たものであるかどうかは全く別の事柄である。しかも「ポスト・マルクス」という本書のタイトルが示すように、私は、マルクスの所有論を田口氏のようにドグマ的に擁護するのではなく、むしろその大胆な組み替えを提案しているのである。したがって、マルクス理論の「無理解」とか「歪曲」とかいう批判は到底受け入れるわけにはいかない。
田口氏は、主として私の著書の第五章「マルクス所有論の到達地平」を検討の対象としているので、以下では、彼の批判をトレースしつつ、手短に反論を述べることにしたい。
◆領有法則は反対物に転回するのか?
まず第一点は、いわゆる領有法則転回論の評価にかかわる問題である。
周知のようにマルクスは『資本論』の第一巻七篇「資本の蓄積過程」の二二章において、剰余価値の資本への転化を次のように説いている。最初、商品の所有権は自己の労働にもとづく等価物どうしの交換として現れた。しかし労働力と交換される資本部分は等価なしで領有された他人労働の一部分であり、蓄積の反復は、他人労働による他人労働の無償の領有に帰着する。それゆえ「自己の労働にもとづく所有はその形式のままで仮象となり、他人の不払い労働を領有する権利へと転回する。」
私はこの転回論を次のように批判した。
商品の所有はそれがどのように生産されたかにかかわりなく、流通すなわち貨幣による商品の購買の場面で成立するのであり、「自己の労働にもとづく」という想定は必要ない。資本主義は、商品経済が生産過程を包摂することで確立する社会であり、唯一、資本主義社会においてのみ商品生産は一つの社会関係として確立する。いいかえれば商品経済的な「所有」が生産過程の「労働」を基礎にもつことで、資本主義は等価物の交換という規範的正当性を獲得するのである。
したがって資本主義において、自己の労働にもとづく所有がその反対物に転回するのではない。全く逆である。資本主義における蓄積過程の反復が、流通(所有)と生産(労働)を常に接合させ、「労働にもとづく所有」という法イデオロギーを絶えず普遍化して正当視していく。その意味で資本主義だけが、文字どおり私的所有を保障する社会というべきなのである。
ところが田口氏は何を勘違いしたのか私の主張を次のように要約する。
「青木は、マルクスは『資本論』で資本主義的所有を論じているが、そこには単純商品生産者の私的所有の正当化に道を開くような不徹底な部分が残されていると……論じている。」「彼(青木)によれば、資本主義的所有を『自己の労働にもとづかない所有』と批判することは単純商品生産者の立場の擁護に道を開くものであり、間違っているというのである。」
私はこの著書の中で、大塚史学を相手にしているわけではないので、一度たりともマルクスが単純商品生産者の私的所有を「正当化」しているとか「擁護」しているなどと述べた覚えはない。全く反対に私は一貫して、「労働にもとづく所有」論は資本主義のイデオロギー的正当化でありその擁護に通じると批判したのである。
◆個人的所有は評価に値するか?
第二点として、田口氏は『資本論』第七篇二四章「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に対する私の批判についても完全に誤読している。
ここでマルクスは、歴史的にも「自己の労働にもとづく所有」を起点に置き、その「否定の否定」として将来の社会における「個人的所有の再建」を説いている。私はマルクスの将来社会への展望が論理的に混乱していることを指摘したのであるが、田口氏はこの指摘を、「青木はマルクスがあたかも私的所有に立つ単純商品生産者的な立場への復帰として述べたかのように言う」と決めてかかる。
田口氏によれば、マルクスが将来の社会で実現されると言っているのは、単純商品生産者的な私的所有ではなく、「他人労働の搾取による私有が否定されて、労働者みずからが労働の成果を自分たちのものにする」「自己の労働にもとづく個人的所有」なのだそうである。
ここには二重の誤解があろう。私はマルクスの将来社会論が単純商品生産者的な「私的所有」への復帰であると批判したのではない。そうではなく田口氏が肯定的に評価する「自己の労働にもとづく個人的所有」は、将来社会の理念たりえず、資本主義のイデオロギーそのものだと主張しているのである。田口氏によると、「マルクスは、人間が自然に働きかけて有用なものを取りだすことを『本源的所有』と述べている。これはいかなる生産様式にも共通することである。ここでマルクスが将来の社会で実現するとしている『自己の労働にもとづく個人的所有』とはこうした意味でいわれている」のだそうである。
たしかに中期マルクスの草稿である『経済学批判要綱』には、人間と自然の物質代謝である労働行為をそのまま生産物の「本源的所有」の根拠とみなす記述がないわけではない。
しかしそれはマルクス所有論の到達地平というよりも、いまだ、労働を本源的購買貨幣と呼んだアダム・スミスの認識を受け継ぐものであり、労働による生産物の形成を「人間と自然の商品交換関係」とみなした古典派経済学の残滓というべきであろう。こうした言説は、さらに遡れば、人間を本源的に自己の身体の個人的所有者とみなし、それを用いた自己の労働を所有し、それゆえ労働の成果とその交換に際しても絶対的な所有権を持つというジョン・ロックの自然法思想に淵源をもつものである。仮にマルクスの所有理論に今日なお評価できる価値があるとすれば、それは、こうした自然法思想や古典派経済学の延長においてではなく、いつに、それらのパラダイムをどこまで徹底的に批判し、どこまで遠く超克しているかに掛かってくるであろう。
なるほど、マルクスは『資本論』第一巻の三篇五章で「労働」を、「いかなる生産様式にも共通する」歴史貫通的な原則として考察している。だがこの労働・生産過程は、田口氏のように、そのまま「本源的所有」とみなされているわけではないし、あまつさえ『資本論』第一巻二四章の「個人的所有」に結びつけられているわけでもない。
マルクスによれば、人間の労働過程は、抽象的人間労働をさまざまな使用価値を生産する具体的有用労働として配分することであるが、それは同時に、生産された必要労働分の生活資料を消費することで労働力そのものを再生産する過程である。どんな社会でも必要部分を超える剰余労働部分は、拡大再生産のためのファンドや社会的に共同利用されるインフラ、さらに老人や病人そのほか非生産的人口の生存に充てられる。
したがって、労働者が自己労働を根拠にして労働の全生産物を「個人的所有」することなどありえない。マルクスが剰余労働の生産物が労働者自身の所有にならないことをもって「不払い労働の領有(搾取)」などと呼んだのは、リカード左派やプルードン派の労働全収益権論に足をすくわれた勇み足だったというべきであろう。
付言しておくと、マルクスの「個人的所有者」を田口氏のように自己の労働にもとづく直接生産者と理解して、社会主義をそのような個人的所有者の連合(アソシエーション)とみなす見解が、最近ささやかなブームとなりつつあるようである。こうした「個人的所有」の評価こそが、マルクスの思想をリベラル左派や市民主義の潮流に溶解させ際限なく合一化させていく理論的一里塚となっていることは、マルクス主義の正統派を自認する田口氏ならば知り尽くしておられるはずである。私には、田口氏の「自己労働にもとづく個人的所有」論は、田口氏らの同志会から袂を別ったといわれるワーカーズ・グループのアソシエーショニズムとさほど大きな隔たりはないように思われる。
◆階級関係から目をそらすのは誰か?
最後に第三点として、田口氏は、青木は労働力の商品化によって「私的所有」規範が資本家と同様に労働者の間にも浸透し一般化することを主張して、資本家による生産手段の所有と生産手段から切り離された労働者の階級関係すなわち生産関係から目をそらしていると、口を極めて非難される。そして資本―賃労働という生産関係こそが資本主義の根幹であるという古典的なマルクス主義のドグマを披瀝して、この生産関係の矛盾は、資本主義への労働者の反発、反抗を呼び覚まさずにはおかないという、いささかステレオタイプのアジテーションで本論文を閉じる。
私が学問で糊口をしのぐ小ブルジョア研究者の末席に位置し、それゆえ生産過程で苦闘する賃労働者の生産関係が理解できず、そこから目をそらしていると言われれば、たしかにそのとおりかもしれない。
しかしながら資本主義という社会関係は、それ以前の社会とまったく異なり、生産関係そのものが商品形態によって構成されている点に最大の特徴があるのもまた事実であろう。実際マルクスの『資本論』第一巻は、商品・貨幣・資本という流通形態から生産過程にいたる結節点に労働力の商品化を置く。そしてこの労働力の商品化が常に「労働賃金形態」というイデオロギーをとることを介して、生産過程は「資本の流通過程」(第二巻)という売買関係に解消されるのである。「自由・平等・所有そしてベンサム」は単なる商品交換のイデオロギーではなく、資本の流通過程全体の普遍的理念となるといってよいだろう。
それゆえ労賃形態は単純な仮象ではありえない。それは時間賃金や出来高賃金(さらに現代的にいえば能力給)という形式で、労働者にも「自己労働にもとづく所有」を肯定的に受容させるはずである。このことは同様に資本家についても妥当する。『資本論』第三巻において剰余価値は利潤という形態をとるが、信用による利子率の確定は利潤のうちの利子超過分を企業者利得として分割させる。そこでは資本家の企業活動が企業者利得を生むものと観念され、資本家においても「自己労働にもとづく所有」を肯定的に評価させることになる。
さらに付け加えれば、現代の株式会社における企業所有と経営の分離は、生産過程の経営者をサラリーマン化させ、その活動を賃労働者の労働と見分けがつかないものにしてしまう。また株式の持合をつうじた企業所有の法人化が、資本家による生産手段の私的所有の意味さえも限りなく曖昧にしているといえる。
逆説的ではあるが私には、資本主義の変革のためには、勇ましい階級闘争のアジテーションよりも、なぜ階級関係が不透明となり階級闘争が無力化するのかを「目をそらす」ことなく解明することの方が、はるかに重要であるように思われる。とりわけ現代の市場原理主義による新自由主義的グローバリゼーションは、労働者を容赦なく弱肉強食の競争ゲームに叩きこみ、人間を際限なくアトム化し孤立させていく。こうした現実をふまえるとき、いま真に求められているのは「自己労働にもとづく個人的所有」の称揚などではなく、人間の社会的協同性と有機的紐帯をいかに構築していくかという課題なのではないだろうか。はたして現実から目をそらしているのはどちらであろうか。
こうした観点から、私は『ポスト・マルクスの所有理論』以降一〇年の成果を『コミュニタリアニズムへ―家族・私的所有・国家の社会哲学』(社会評論社、二〇〇二年)という書物にまとめた。そこでは、マルクス自身にリベラルとコミュニタリアンというべき二面性があることを指摘し、将来社会の理念として、明確にアソシエーショニズムを批判してコミュニタリアニズム(共同体主義)を提唱している。今日の時点で田口氏が私のマルクス理解を批判しようとするのであれば、この著書を対象にすべきであった。
マルクス研究の名のもとにドグマの神学的解釈論争を行い、「マルクス主義の正統派」を争うのは冷戦時代の遺物にすぎない。もうそろそろマルクスの物神崇拝はやめにしたいものである。
●『海つばめ』第977号(2005年2月27日)
「本源的所有」について/田口騏一郎
本紙九七二号(一月九日)の私の小論「青木孝平の所有論」について京都の会員から、疑問が出されている。紙面をお借りしてお答えしたい。
疑問とは、マルクスの「否定の否定」に関して、青木論文を批判した個所に関するものである。ここで私は先の小論で次のように批判した。
青木は、マルクスが「自己の労働にもとづく私的私有」というスミス的な所有の立場にたっているかにいっているが、それは不当である。マルクスが、資本主義的所有(取得)が否定される――つまり「否定の否定」――結果として、将来の社会(=社会主義社会)において実現されるという「自己の労働にもとづく個人的所有」とは、「本源的所有」のことである。
これに対して、京都の会員からの疑問は、青木論文では「本源的蓄積」といっており、「本源的所有」と言っていない、さらに、「本源的所有」について田口は「いかなる生産様式にも共通というが、果たして正しいか」という二点である。
資本主義的所有の否定の結果として、将来の社会で実現される「自己の労働にもとづく所有」というのは、ジョン・ロックやアダム・スミスのような「自己の労働にもとづく私的所有」ではない、それは個々人の労働が直接社会的労働として現れ、社会の共同の生産物のから分配されるという意味であり、両者は根本的に異なっているということをいうために、先の小論では、「自己の労働にもとづく個人的所有」とは「本源的所有」のことであると書いた。
この「本源的所有」というのは、マルクスが『経済学批判要綱』のなかで「資本主義に先行する諸形態」ついて述べている個所で使っている言葉である。
そこではマルクスは「本源的所有」について、個々人は共同体の一員として、協働によって自然(土地)に働きかけ、有用なものを獲得する、そしてその生産物の分配を受けると、次のように述べている。
「所有とは本源的には、自分に属するものとしての、自分のものとしての、人間固有の定在とともに前提されたものとしての自然的生産諸条件にたいする人間の関係行為のことにほかならない。すなわち自己の肉体のいわば延長をなすにすぎない、自分自身の自然的前提としてのこれら生産諸条件にたいする関係行為である。彼は本来は、自己の生産諸条件と関係しているわけではなくて、主観的には彼自身として、同じく客観的に彼の生存のこの自然的無機的諸条件のなかに、二重に存在しているのである。これらの自然的生産諸条件の形態は二重である。すなわち、1)一共同体の成員としての定在。したがってこの共同体の定在。この共同体は、本源的形態においては、種族団体、多かれ少なかれ変形された種族団体である。2)共同体を媒介とする、彼自身のものとしての土地にたいする関係行為。共同的な土地所有であり、同時に個々人の個別的占有。あるいは、果実だけは分配されるが、しかし土地それ自身と耕作とは共同のままだということ」(大月版、『経済学批判要綱・V』、高木幸二郎監訳、四二五〜六頁)
「所有とは、ある種族(共同体)へ帰属すること(そのなかで主観的・客観的存在をもつこと)であり、そしてこの共同体の、土地、それの非有機的肉体である大地にたいする関係行為を媒介にしての、個人の土地に対する関係行為、彼の個性に属する前提条件、個性の定在様式としての生産の外的な原初条件――大地は、原料、用具、果実となっているから――に対する関係行為である。われわれは、この所有をば生産の諸条件にたいする関係行為に帰着させる」(同、四二六頁)
将来の社会における「個人の労働にもとづく所有」は、ある意味では以上のような「本源的所有」の復活(そのものではなく、より高次の)である。
したがって、「本源的所有」は、資本主義的生産とは区別される所有の形態である。また先の論文では「本源的所有」について、人間が自然にはたらきかけ、それをわがものにする生産一般と同じであるかに見なし、いかなる社会でも共通と書いたのは正しくなかった。
●『海つばめ』第977号(2005年2月27日)
青木孝平の宇野学派的空論/林紘義
マルクス主義批判を隠して――理解不能の“ジャーゴン”はやめよ
『海つばめ』に田口批判に反論するという形で、宇野学派のインテリの論文が掲載された。今、二人の議論を検討するつもりはないが、ただ一読して、宇野学派の内容のない、荒唐無稽なたわ言――根底に、マルクス主義に対するいやらしい敵意を秘めた――には怒りさえ覚える。彼らは何の意味もない空論によって、労働者の意識を混濁させ、資本に奉仕しようというのである。かくして、我々の任務の一つは、このいつわりの理論を暴露し、粉砕することである。
◆「貨幣による商品の購買」?
青木の基本的な観念の一つ――典型的に宇野学派的な――は、以下のようなものである。私は差し当たり、以下の諸観念の批判に自らの発言を制限する、というのは、青木の見解のすべてを批判することはこの短い論文の課題ではないし、また他の点については、他の会員の諸君が批判するだろうからである。
なお、〔 〕とその中の番号は、三点にわたって青木の見解を検討するために、便宜上、私がつけたものである。
「〔1〕商品の所有はそれぞれどのように生産されたかにかかわりなく、流通すなわち貨幣による商品の購買の場面で成立するのであり、『自己の労働にもとづく』という規定は必要ない。
〔2〕資本主義においては、商品経済が生産過程を包摂することで確立する社会であり、唯一、資本主義社会においてのみ商品生産は一つの社会関係として確立する。
〔3〕いいかえれば商品経済的な『所有』が生産過程の『労働』を基礎に持つことで、資本主義は等価物の交換という規範的正当性を獲得するのである」
こうした“宇野学派的な”観念は、我々はすでにいくどとなく批判を繰り返してきており、いまさらそれを述べるのはいささか気が引ける。
まず最初は、「貨幣による商品の購買」が商品所有を成立させる、という奇妙な観念である。
こうしたものは、ひどい俗流的な観念であり、混乱と混同、理論的すり替えとごまかし以外何ものでもないといっていいが、宇野学派の“学者”にとっては典型的な議論である。
そもそも「商品の所有が……流通すなわち貨幣による商品の購買の場面で成立」という文章自体、混沌そのものである。一体、なぜここで「商品の所有」が問題なのか。誰も、「商品の所有」といった卑俗なことを問題にしてはいないのである。「商品の所有」がいかにして成立するのかと言えば、それは商品生産の関係は何かということに帰着するのであって、その問題を抜きにして、「商品の所有」について語るのは、自らの卑俗な意識を暴露するものであろう。
青木がもし「商品を所有」しているとするなら、それはどうしてか。生産に決してたずさわらない、寄生的存在である青木は決して「商品を所有」することはないが、それはこの資本主義的生産関係によって、青木の――すべての人間の――社会的地位や立場が規定されているからである。
ブルジョア大学の教員である青木は、賃金として一定額の貨幣を国家から受け取り、その貨幣(所得)によって、「商品を所有」するだけであるが、しかしその場合、その「商品」はすでに「商品」ではなく、単なる生活資料であるにすぎない。
直接生産者が自らの生産物を持って、あるいはブルジョアが自らの「所有」の権利を主張する生産物を持って(すなわち生産物を商品として「所有」して)市場に登場するというのは「わけが違う」のである。
だから、「商品の所有」が、流通の場面で「貨幣による購買」の結果成立する、などというのは途方もないたわ言もしくは粗野な“暴言”であって、こんなことを平気で言える人間が単なるおしゃべり屋、空論家ではあっても、“学者”でないことだけは確かであろう(もっとも、このブルジョア社会における“経済学者”といったものは、おしなべてこの程度のものだが)。
まず第一に、青木が、自ら「貨幣でもって生産物を買う」ことで、生産物を商品にするのでもないし、自らが「商品を所有」するわけでもないのは明らかであろう。
青木は市場で、すでに貨幣で「買う」前に、商品に(あるいは、その商品を市場にもってきた「商品の所有者」に)直面しているのであって、そんなことも理解していないとは、青木は“学者”でないのはもちろん、普通の“常識人”でさえない。この俗人は、商品は「購買」される前に、すでに商品として存在していなくてはならない、ということさえ知らないのである。
そもそも、「商品の所有」が「流通(青木は、これを「貨幣による商品の購買」と同一視して、恥の上塗りをしているが)の場面で成立」する、などと言うこと自体がナンセンスである。「流通の場面」に入る前に「商品の所有」は成立していなくては、どんな議論も始まらないではないか。青木は自らの「貨幣」によって、いかにして「所有」主のいない商品を「購買」できるかを、我々に教えるべきであろう。
さらに、「どのように生産されたかにかかわりなく」生産物は商品になる、といった宇野学派的な主張も、たわ言でしかない、というのは、商品は決して共同体社会においては――原始共産主義の社会であれ、将来の社会主義社会であれ――登場しないからである。商品は共同体労働からではなくただ私的労働から出発する社会、そしてその私的労働が社会的労働として現われなくてはならない社会においてのみ、必然化する労働生産物の歴史的、特殊的形態であるにすぎず、「どのように(すなわち、どのような生産関係において)生産されたか」ということは一つの本質問題なのである。
宇野学派の愚者たちは、共同体社会や社会主義社会でも人間の社会的労働が商品形態を取ることを“発見”したとでも言うのであろうか。もしそうなら、それをぜひとも教えてもらいたいものである。
そしてもし共同体における社会的労働が決して商品の形態を取らないし、取る必要がないというなら、商品は「どのように生産されたかにかかわりななく商品だ」などと言うことは決してできないということ、そんなことを言うのは徹頭徹尾ナンセンスであり、反動的であるということは、自ずから明らかであろう。
宇野学派は商品形態そのものは、資本主義社会の生産物でなくても言える(例えば、小生産者が生産した商品や、資本主義以前の社会の商品を見よ)、と主張したいのである。
しかしそんなことは当然である、というのは、生産物の商品形態は、資本主義的生産を前提せず、ただ私的所有の社会、私的労働から出発する社会を前提にするにすぎないからである。私的所有自体が、資本主義的所有に先行するとするなら、資本主義的生産に先行して、商品経済がいくらでもあったとしても、少しも不思議ではない。
宇野学派とは、こんな初歩的な歴史的“常識”さえも理解できない、とんでもない無学の連中なのである。
宇野学派のたわ言が反動的だというのは、生産物の商品形態が、私的所有と私的労働から出発する社会の必然的な結果だということを塗りつぶすからであり、この資本の支配する社会の本質的な契機、その根底の矛盾を蔽い隠すからである。私的所有と資本の支配に対する、労働者階級の果敢な闘いに水をかけ、それを“あらぬ方向”にそらそうとするからである。
要するに、青木は私的所有と資本主義的生産について、したがってまた、それを克服した社会主義について、何も知らないのであり、また社会主義に向かって真剣に闘うことの意義も知らないか、それを事実上否定しているのである。
もちろん、「商品の所有」には「自己の労働にもとづく」という規定は必要ないと言うなら、それはある意味で正しい、というのはブルジョア的な「商品の所有」は「自己の労働に基づく所有」ではないからである。ブルジョア的所有は労働の搾取に基づく「所有」である、しかしまさにこのことこそ、マルクスが「領有法則の転回」という概念で主張していることではないのか。
しかし青木はマルクスの主張を理解しない、だから、彼はそれが「商品の所有は流通の場面で成立する」(労働とは一切無関係だ)といった空文句を正当化してくれると思い込むのである。
しかし青木と言えども、例えば、農民が自己の労働の成果を市場に持ってきたときには、それが、「自己の労働に基づく所有」であることを否定することはできないであろう。ブルジョア的所有はさておくとして、ここには(つまり、商品生産が“小生産者”によってなされいる限りでは)まだ「自己の労働に基づく所有」がある、と言えるからである。
◆商品生産と資本主義的生産の「関係」
次に、〔2〕に移るとしよう。
青木は資本主義を説明して、「商品経済が生産過程を包摂」することで成立する社会であると言い、また同時に、資本主義社会においてのみ商品生産は「一つの社会関係として確立する」と述べている。
こうした一面的な、そして“ちっぽけな”智恵で、資本主義を説明したと思い込んでいる人々はあわれなるかな、である。
一体、「商品生産が生産過程を包摂する」とはどういう意味か、彼らはこうした無意味な言葉で何を言おうとしているのか。
商品生産は確かに資本主義的生産に「成長転化する」、しかしこのことは、「商品生産が生産過程を包摂する」という空文句とは同じではない。商品生産は決して「生産過程を包摂する」ことはできない、というのは、商品とはそれ自体は、流通に属する範疇であって、生産には属しないからである。例えば、生産においては、資本はただ生産資本としてのみ存在するのであって、商品資本として存在しない等々。
“労働力商品”もまた同じであって、それは他の生産資本と同様に、生産過程においてはただ生産資本の一構成要素としてのみ存在するのであって、別に労働力だけが特別に「商品」として実存するわけではない。
そして、商品には確かに一つの歴史的な生産関係を表現しており、一つの生産関係の結果ではあるが、しかしこのことは、商品が「生産過程を包摂する」といった空文句とは本質的に別のことである。
宇野学派は、この言葉を「商品が商品を生産する」とも説明している。この意味は、労働力「商品」が一般「商品」を生産する、という意味である。彼らは、この意味で「生産が根底から商品経済化した」と言うのである。
つまらない空文句を「経済科学」といつわるこのインチキ学派は、生産過程で労働者が一般商品を生産すると言っていえないことはないが――それにしても、これはまた何という資本主義生産に対する卑俗な、そして珍奇な表現であろうか――、しかしその場合でも、労働者は生産過程では決して「商品」として存在しておらず、またするはずもないということ、だからこそ「商品が商品を生産する」といったものはどんな「理論」とも無関係なたわ言であることを、我々は確認するのである。
また彼らは、資本主義的生産においてのみ、商品生産は「一つの社会関係として確立する」とも強調する。
そしてこれはある意味では正しいが、しかし宇野学派は、この「一つの社会関係」とはどんな関係であるかを語らないし、語ることができない。というのは、労働生産物を商品に転化する「一つの社会関係」とは、個々人の社会的労働を私的労働として支出する社会関係、つまり私的所有の社会関係であるが、この関係を認めない宇野学派は、商品として現われる人間の特殊歴史的な社会関係を語ることができないからである。
資本主義は労働生産物を商品に転化する私的所有の関係を止揚するのではなく、それが新しい形態で運動し、発展する条件を提供するのであって、私的所有の関係は資本主義の根底に保持されているのであり、だからこそ資本主義なのである。
資本主義においてこそ商品生産は一般的になるというのは正しいが、しかしこのことは、商品生産と資本主義的生産を概念的に区別すること、あるいは商品生産が資本主義的生産に転化するということ(資本主義的生産の根底、その出発点は商品生産であるということ)、等々を否定するものでは決してないのである。
商品生産が一般化するとともに商品生産は資本主義的生産に転化するということ、あるいは資本主義的生産とは「最高に発展した商品生産」であるということは、宇野学派的な空文句、つまり「商品が商品を生産するような関係が資本主義である」とか、「商品が生産過程を包摂するのが資本主義である」といった、珍妙で“不合理な”空論とは全く別のことなのである。
◆「等価物の交換」を可能にする契機
〔3〕の「商品経済的な『所有』が生産過程の『労働』を基礎に持つことで、資本主義は等価物の交換という規範的正当性を獲得する」といった文章について言えば、こうしたたわ言を、合理的に理解できる人は一人もいないであろう、つまりこうした言葉は、宇野学派の内部でのみ通用する“業界用語”、一種の“ジャーゴン”(jargon)でしかないのである。
これもまた、「(労働力)商品が生産過程で(一般)商品を生産する」、それが資本主義的生産である、という例のばか話を、別の言い方で表現したものであろう。
商品が単純商品としてでなく、「労働力商品」によって生産されるようになると、その商品は「等価交換」の根拠を獲得する、というのである。
宇野学派は、商品を生産するのは労働者であっても「労働力商品」ではないということを決して理解しないのである。
そして労働者が生産した生産物を商品に転化する関係こそが、生産手段の私的所有という社会関係であって、だからこそ、商品生産を(そして、その上にそびえ立つ資本主義的生産を)一掃するには、私的所有を(つまり、私的所有の発展した形態である、大資本による生産手段の所有を)廃絶しなくてはならないのである。
そもそも、商品が「価値通りに」交換されるためには、商品が「労働力商品」によって生産されなくてはならない(つまり、単純商品ではなく、資本主義的商品でなくてはならない)、といった観念がばかげたドグマでしかないのは、経済学の初歩を学んだ者なら、誰にでも容易に理解できるであろう。
というのは、単純商品もまた、資本主義的商品と同様に、「価値通り」に交換されると言い得るからである。なぜ単純商品なら「価値通り」ではないのか、なぜ資本主義的商品なら「価値通り」なのか。
単純商品はそれが一般的に生産されないかぎり、その価格は価値に収斂しないから「価値通り」ではないというなら、資本主義的商品の価値もまた生産価格(費用価格プラス平均利潤)に転化するから、その意味では「価値通り」ではない、と言えるではないか。
そして宇野学派は決して語らないが、重要なことは、商品が「価値通り」で売られるか売られないかといったことではなく、なぜ社会的な労働の成果(つまり生産物)が商品という形態で現われるのか、その歴史的な意味であり、また生産物を商品に転化する現実の歴史的な生産関係は何かということである。
そして、資本主義的商品から価値概念――その一契機は、もちろん「等価交換」と言えるのだが――を抽象しえるのは、この社会では一般的な競争が行われているからであって、別に「(労働力)商品によって、商品が生産されている」からではない。
資本主義的生産では労働力“商品”によって商品生産が行われるから、その商品は「価値通り」に交換されるなどというのは、ご託宣あるいは神託であって、合理的な説明ではない。我々は宇野学派の「神のお告げ」といったものは一切必要としないのである。
見られるように、青木理論はすべての宇野学派の理論がそうであるように、その根底においては単なるドグマであって、青木は、そのドグマに我々の理論が合致していない、といって我々を非難するのである。むしろ一致したら大変であろう。我々はこんな連中に、マルクス主義について語って欲しくないのである。
●『海つばめ』第978号(2005年3月6日)
「労働にもとづく個人的所有」論
/田口騏一郎
果たして資本主義の“理念”か――青木氏の反論に答える
本紙九七七号で、私の「青木孝平の所有論」批判に対して、著者である青木氏から反論が寄せられた。しかし、「自己の労働にもとづく所有」をブルジョアイデオロギーであるとする氏の見解は納得できるものではない。そして氏は資本主義の「変革」に向けて、ブルジョア的所有のイデオロギーが生まれる必然性を明らかにする意義を強調しているが、批判というよりも、むしろこれに追随している。ここに氏の理論の本質が示されているといえよう。
◆「個人的所有」の再建について
「青木所有論批判」の私の論文に対して、青木氏は次のように反論している。
「私はマルクスの将来社会論が単純商品生産者的な『私的所有』への復帰であると批判したのではない。そうではなく、田口氏が肯定的に評価する『自己労働にもとづく個人的所有』は、将来社会の理念たりえず、資本主義のイデオロギーそのものだと主張しているのである」
私が、資本主義的所有を否定した将来の社会において、「自己の労働にもとづく個人的所有」が再建されると述べたのは、実際に労働する者の所有が実現されるという意味で言ったのである。もちろん「自己の労働にもとづく個人的所有」は、生産手段を持ち自ら生産を行なう単純生産者の「自己の労働にもとづく私的所有」とは全く異なる。
マルクスは『資本論』のなかで、将来の社会では「個人的所有」を再建すると次のように述べている。「この否定(資本主義的所有のこと――引用者)は、私有を再建はしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち協業と土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎にする個人的所有をつくりだす」(『資本論』、第一巻、大月普及版、九九五頁)と述べている。
これは『ゴータ綱領批判』で述べられていていることと同じである。そこでマルクスは将来の社会における分配の仕方について次のように述べている。総生産物から労働不能者や社会全体のための部分を控除した後、各人への分配の仕方は、商品交換が等価交換であるかぎりで、それと同じ法則が支配する、しかし、その内容と形式とは異なっている、というのは、「変化した事情のもとではだれも自分の労働のほかにはなにものも与えることができないし、また他方、個人的消費手段のほかにはなにも個人の所有に移りえないからである」(全集一九巻、二〇頁)と。つまり生産手段が社会的なものとなる社会主義的生産においては、労働に応じた生活手段の分配が行なわれるということである。
私の立場は、以上のようなマルクスの言っていることと同じである。ところが、青木氏は、田口の立場は、「個人的所有者の連合(アソシエーション)」論者と「さほど大きな隔たりはないように思われる」と言う。
アソシエーション論者は、将来の社会における協働労働の意味を理解していない。将来の社会は分散した生産者の連合ではなくて、資本主義のもとで発展した生産力を基礎として、意識的、計画的な生産を行なう社会である。生産手段は社会のものであり、いかなる生産物をどのくらい生産するかは、社会の必要に応じて意識的、計画的に決められる。そして、このために各自は自らの労働力を自覚的に社会的労働力として支出するのである。こうした社会的生産(労働)の意味を理解せず、「個人的所有者」の連合した社会だというのがアソシエーション論者である。私の立場がいわゆるアソシエーション論者の立場と根本的に異なっていることは明らかであろう。
◆ブルジョアイデオロギーに追随
青木氏によれば、資本主義のもとでは「自己の労働にもとづく所有」というイデオロギーが普遍化されていくのだとされている。その理由について、氏は次のように述べている。
商品生産が一般化する資本主義においては、互いに商品の所有者として関係し、商品流通では交換価値(労働量)によって交換が行なわれる。したがって「資本主義において、自己の労働にもとづく所有がその反対物に転回するのではない。まったく逆である。資本主義における蓄積過程の反復が、流通(所有)と生産(労働)を常に接合させ、『労働にもとづく所有』という法イデオロギーを絶えず普遍化して正当視していく。その意味で資本主義だけが、文字通り私的所有を保障する社会というべきなのである」。
商品交換が行なわれる流通過程においては交換する当事者たちは商品の所有者として関係しあうが、資本家と労働者との関係においても同様である。労働市場においては、資本家は貨幣の持ち手として、労働者は労働力商品の所有者として現れ、貨幣と労働力商品との交換が行なわれる。
確かに、個別的な商品所有者の流通過程だけを見れば、資本家と労働者の関係は、商品所有者同士の関係である。しかし、生産過程では異なる。
そこでは、労働者は所有者ではない。資本主義的生産においては、人間の社会的活動としての労働が、実際に生産を行なう労働者の意思にしたがって、労働者たちのために行なわれるのではなくて、非生産者である資本家の意思にしたがって、その統制と管理のもとで、資本家のために行なわれる。したがってそこでの資本と賃労働の関係は、統制と従属、支配と被支配の関係である。そして、労働の成果としての生産物は、労働者とは無縁のものであり、実際に労働を行なう労働者の所有物ではなく、非生産者としての資本家の所有物となるのである。
ところが、青木氏は、生産手段の所有、非所有を基礎とする生産過程における資本・賃労働の関係を、労働力の売買における商品交換という商品交換に解消してしまう。こうした立場からは、剰余労働=剰余価値、搾取・被搾取という資本主義における経済関係の基本的な性格は明らかにならない。
商品所有者間の商品交換という流通過程に目を奪われている青木氏は、労働者は自分の労働力を商品として資本家に売るから、資本家も労働者もお互いに商品所有者として「対等・平等」であるといって済ませているのである。しかし、生産物あるいは商品価値を生み出す労働は誰によって行なわれた結果であるのか、そしてその労働の成果としての生産物あるいは価値は誰によって領有されるのかということから見るなら、資本主義的生産における直接生的生産者であり、物質的富の生産者である労働者階級が社会的総生産物の全体を生産しながらその一部分しか自分のものにすることができず、他方、資本家階級は労働者階級の労働によって生産された生産物の一部分を自ら労働することなしに取得することは明らかである。
資本家と労働者との間での等価交換が行なわれるというのは「仮象」にすぎない。というのは、資本家階級と労働者階級との関係の実態は、資本家階級が労働者階級から労働力を買って、労働させ、より多くの価値を取得することだからである。資本家階級は生産手段を所有している。他方、生産手段から切り離された労働者階級は自らの労働力を資本家階級に切り売りする以外に生きるすべを持たない。こうした資本主義のもとでの所有関係は、資本家の側では労働者の不払い労働またはその生産物を領有する権利として、他方労働者の側では自分自身の生産物を領有することはできないという、収奪、被収奪の関係を意味している。
つまり、相互に等量の価値を交換するという私的所有者の相互関係としての「自由・平等・対等」という市民的な社会関係は、資本家と労働者との関係においては「仮象」でしかないのである。資本主義的生産過程を基礎とした資本・賃労働関係における資本主義的領有の実際的内容は、資本家による労働者の労働の一部分の無償の領有である。
ところが青木氏は、「自己の労働にもとづく所有」というイデオロギーは、資本主義の普遍的なものとして定着し、「それは時間賃金や出来高賃金(さらに現代的にいえば能力給)という形式で、労働者にも『自己労働にもとづく所有』を肯定的に受容させているはずである」と言う。
労賃が直接労働力の対価としてではなく、労働の対価としての形態をとることは、資本による労働の搾取を覆い隠し、あたかも労働に応じた労賃が支払われるかの外観を呈する。例えば、時間給の場合、時間あたりの賃率が決められ、労働時間に応じて賃金が支払われる。また出来高では、労働者が作り出した数量によって賃金が支払われる等々。したがって労賃はあたかも労働の対価であるように見える。しかし、賃金の支払い形態が労働に応じたものとしての外観をとるということと、実際に賃金が労働の対価であるということは別のことである。労賃の形態がどのようなものであろうとも、その実質的内容は、労働力の価値に対する支払いであって、労働に対する対価ではない。
したがって、「自己労働にもとづく所有」など幻想である。ところが、青木氏は労賃形態は労働者に「自己労働にもとづく所有」を肯定的に受容させていると強調するのである。現状では労働者の多くがまだ賃金を労働に応じた支払いと思っていたとしても、それは賃金の本質について認識していず、外観にとらわれている結果にすぎないのである。
そもそも、労賃は労働力の対価であって、資本家は労働者から時間決め、あるいは月ぎめで労働力を買い、資本の一部として労働させる。したがって労働者の生産した生産物はすべて資本家のものである。一方、労働者は賃金で生活手段を資本家から買うのであって、「自己の労働にもとづく所有」などではないのである。
◆「資本主義変革」の空文句
労働者階級に求められていることは、労働に応じた賃金などは幻想にすぎないこと、資本による労働の搾取を暴露し、資本と賃労働の真実の関係を労働者大衆のものとすることである。ところが、青木氏は「自己の労働による所有」は、ブルジョア的イデオロギーであると言い、労働者もまたこれに染められていると強調してやまない。氏が述べているのは、資本主義においては、「自己の労働にもとづく所有」は否定されるのではなく、反対に正当化され、普遍化されるのだということである。他人の労働の搾取を基礎とする資本主義をこのように評価することは、資本主義の弁護に行き着かざるを得ない。資本主義においては、私的所有は侵すべからざる神聖な権利としている。実際、青木氏が述べているのは、資本家も労働者も商品の所有者として「対等・平等」の立場にあるということにつきるのである。相互に商品所有者として、交換し合うという流通過程にのみ目を奪われているが故に、生産過程における資本家による労働者の搾取を資本主義的生産の基本をなすものであると評価することができないのだ。そうでないとしたら、資本主義では「自己の労働にもとづく所有」イデオロギーを正当化するなどと馬鹿げた議論などでてこないだろう。労働者が「自己の労働にもとづく所有」のイデオロギーにとらわれているといって済ましている青木氏の議論からは、労働者の資本に対する闘いの必然性、必要性は導かれようがないのは明らかである。
資本と賃労働が非和解的に対立しあう関係にあること、資本主義的生産は労働者の労働の搾取を基礎としていることを暴露することを、青木氏は「勇ましい階級闘争のアジテーション」などと揶揄し、それよりも「なぜ階級関係が無力化するのかを解明することの方が重要」などと言う。資本による賃労働の搾取と抑圧を暴露するためには、それを覆い隠している諸関係を具体的に明らかにすることが必要である。労働者への階級闘争の呼びかけと、資本主義のもとで資本による労働者の搾取を正当化するさまざまなイデオロギーの生まれてくる根拠を具体的に暴露することとは、いささかも対立する問題ではない。
ところが、両者を切り離し、それらが対立するものであるかに言っているのが青木氏である。氏にとっての関心は、労働者階級の資本主義に対する階級的闘いが不可避であり、必要であるかではなく、反対にいかに労働者が資本主義のイデオロギーにとらわれ、「無力化するか」の解明でしかない。氏は「資本主義の変革」のためにと言うが、それは空文句でしかなく、本当は労働者の階級的闘いなどどうでもいいことなのである。これこそ、青木氏の基本的立場である。
●『海つばめ』第979号(2005年3月13日)
田口(騏)氏がたまたま宇野派の青木孝平氏を批判したが、それに対して青木氏の反論があった。もちろん、反論自体は「自由」であり青木氏の「権利」であるが、しかし彼の荒唐無稽の理屈や思い上ったマルクス主義攻撃や、自らの立場への無反省は、我々の内部にきびしい批判を――むしろ大きな怒りを――呼びさました。今回も、宇野学派のたわ言を、そしてマルクス主義攻撃を糾弾する――まさに“糾弾する”だ!――三つの小論が送られて来たので紹介する。――編集部
根底はマルクス主義の否定/鈴木半一
――青木氏のコミュニタリアニズム
この間、本紙上において、青木孝平氏(以下敬称略、青木)の『ポスト・マルクスの所有論』をめぐり、「所有論」という独特の切り口からマルクス批判を展開している青木本人も含んで議論が始まっている。初めての人には、何を主張しているのかさえ判然としないであろう彼の理論の真意を明らかにし、議論を貫徹することは我々全体にとっても、一定の意義があるだろう。
ここでは、これまでの議論における青木の見解をもう一度確認することから始めよう。
◆「商品の所有」という奇妙な出発点
青木は本紙九七七号において、マルクスの「転回論」に関して次のように批判し、主張している。
【1】商品の所有はそれがどのように生産されたかにかかわりなく成立するのであり、「自己の労働にもとづく」という規定は必要ない。
【2】資本主義において、自己の労働にもとづく所有がその反対物に転回するのではない。全く逆である。
なぜなら、資本主義の下においてこそ、「労働にもとづく所有」というものがイデオロギー的にその体制を「正当化」し、支えるものとなっているからだ。
【3】マルクスの「労働にもとづく所有」論は、資本主義のイデオロギー的正当化であり、その擁護に通じるものである。
この有名な「転回論」において、青木はマルクスが《論理転倒》を犯し、実に「資本主義の擁護者」である、とまで断罪し、告発している。
一見するとその主張は「明快」であり、「大胆」ではあるが、ここで、真っ先に言われている「商品の所有」という、いかにもおかしな、分かりにくいコトバに、我々はまず注目しなければならない。
ここで彼は「所有」を、主に「物の排他的支配権」、つまり「所有権」という〈法〉の立場から問題にしており、また「商品」とは、流通市場で交換が成立する限り、「自己の労働にもとづく」かどうか、などはもちろん、生産関係にも一切係わりのない、“出所・正体不明”で怪しげなものでもありうる物だ、という観点から一切の議論を出発させている、ということに注意することがまず肝要である。
それにしても、商品の《生産》に先立ってすでに存在する「商品」の「所有」から出発するとは、いかにもマルクス主義の立場からすれば奇妙だが、「商品はまず第一に種々なる人々の手に種々なる物としてありながら質的に一様な、単に量的に異なるという性質を持っている」(宇野『経済原論』)と言う現代日本における『マルクス批判家』の太宗である宇野派の始祖のご託宣を信奉する立場に彼は立っている、ということを理解すれば、彼の言い分が見えてこよう。
要するに、〈商品〉とは、まず何よりも流通市場で、〈カネによって買われる、質的に同一な――しかもその質が何によって規定されているかは不問の――ある物〉以外の何ものでもない、これが“科学的なア・プリオリの真理”であることを承認する青木は、しかし同時に、《生産諸関係》とも、《自己の労働》とも全く無縁で、宙に浮いた出所不明の「商品」の「所有権」が事実上その〈社会的基礎付け〉を欠いていることに一抹の不安を抱かざるを得ないのである。だが、心配無用。その「占有」によってはいまだ『正当化』され得ていない「商品の所有〈権〉」は、「流通すなわち貨幣による商品の購買」によって、〈流通それ自身によって〉、「成立」するのを見て、初めて一安心してこう断言することが出来る。「商品の所有に、『自己の労働にもとづく』という規定は必要ない」と。
以上で、簡単に青木の「理論」を概観した我々は、彼から一旦別れて、単純流通を営む現実の商品生産者の下に行ってみよう。
現実的な商品交換の現場においては、私人達が互いに独立して、《商品を生産し、所有する諸関係》がまず、前提されざるを得ない。つまり、各人、各家族等は、それぞれ単独に、自分たち自身で糊口をしのいでいかねばならない私的所有者の関係において、商品を交換する。ここで生活を営む人々の関係は《対等》の関係で、各人は《自らの労働》で得た余剰生産物を互いに交換し合うのである。ただ彼はその交換で得たものを、さらに別のものと交換することは妨げられていないので、彼が他者と交換するために《所有》している《商品》が「自分自身の労働生産物でない」ことも往々にしてあるだろう。しかし、それでもその《商品の所有》は《自己の労働にもとづく》物としてあるに違いない。
こうした『現場検証』後、われわれはマルクス自身の見解を確認してみよう。
◆『転回論』を歪曲する者は誰か?
マルクスは『資本論』の第一巻第二二章のいわゆる《転回論》において、「商品生産と流通とにもとづく取得の法則は、この法則自身の内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物〔資本主義的取得法則〕に一変する」ことを論じている。ここで直接問題となっている「商品生産と流通」とは《資本家と労働者との間での労働力商品の交換》だが、「ただ同権の商品所持者が相対するだけであり、他人の商品を取得するための手段はただ自分の商品を手放すことだけであり、そして自分の商品はただ労働によって作り出されうる」だけだ、という、先に見た《私的生産者同士の単純流通》と同じ条件と関係が前提されている。そこでは、「最初は、所有権は自分の労働にもとづくものとして我々の前に現れた」、少なくともそう「仮定しなければならなかった」(『資本論』第一巻二二章)ということを、我々はマルクスと共に承認せざるを得ないし、我々は単純な商品生産者の私有というものが、《自己の労働にもとづく》ということを否定する青木の主張こそが根拠を欠いているものだ、ということを確認せざるを得ない。
が、青木は頑なに「商品の所有は『自己の労働にもとづく』必要はない」と断言しつつ、「資本主義」とは、「商品経済が生産過程を包摂することによって確立する社会」である、という宇野御大の教条にしがみついて、大声で主張するのだ。
〈自己の労働にもとづく〉ことなく流通そのものを通して自ら「私的所有権」を「成立」させた「商品所有」は「商品経済的な『所有』が生産過程の『労働』を基礎にもつ」ことによって、「『労働にもとづく所有』という法イデオロギーを絶えず普遍化して正当化し」、「資本主義」は「文字通り私的所有を保障する社会」に転化したのだ、と。
見よ!〈労働にもとづかない所有〉が、今や、資本主義の下で、正に〈労働にもとづく所有〉に転化したではないか!マルクスは転倒している!という訳だ。
だが、ちょっと待て!彼はいまここで、『資本主義とは、〈自己の労働にもとづく所有〉の社会だ』と言いたいのか?もし、彼がそのようにハッキリと主張するのなら、彼は『資本家の所有は神聖な正当性をもったもので、自分自身の高度な労働にもとづくものだ』という資本主義を公然と美化するブルジョア経済学の古証文に自ら恭しく信任状を出そうというわけである。
それとも、単に、彼は宇野先生に追随する、その多少左翼面したい門下生として、「資本主義的所有はあたかも〈自己労働にもとづく〉かのようなイデオロギー的幻想によって絶大なる『規範的正当性』が与えられている」ということを曖昧に申し立てているに過ぎないのか?つまり「資本主義」とは「私的所有を『保障』する社会だ」だ、というくだらない俗説に、毛の生えた様な〈自己労働〉の愚説をくっ付けただけの薄弱な根拠だけで、マルクスを「資本主義のイデオロギー的正当化であり、その擁護に通じる」と断罪して告発しようとするのか。
青木先生よ。さあ!
どっちなのか、ハッキリしてもらいたいものだ!
こんな下らない馬鹿話を得意そうにひけらかして、「肉一ポンドだ!」と、言わんばかりに〈論理転倒罪〉及び〈資本主義擁護罪〉によってマルクス断罪を要求する青木自身こそが〈転倒〉しており、〈断罪〉さるべきではないのだろうか!
◆『個人的所有の再建論』について
次に、彼が批判の矛先を向けているマルクスの「個人的所有の再建論」を検討してみよう。
【4】マルクスはここでやはり、「自己の労働にもとづく所有」を起点に置き、その「否定の否定」から将来社会の展望を説いている。しかしそこで再建される「個人的所有」は将来社会の理念たりえない。
【5】なぜなら、「自己の労働にもとづく所有」論はもともとロック以来の自然法思想に根ざすブルジョアイデロギーそのものであって、その批判の上にこそ未来を展望すべきである。
【6】ブルジョア古典経済学の残滓である労働そのものを所有の根拠とする中期マルクスの叙述や、「不払い労働(搾取)」論の勇み足などマルクスには実に多くの欠陥がある。……
ここでも青木は、〈自己の労働にもとづく所有〉を〈起点〉とし、その「否定の否定」として将来の共同社会を展望した、という廉でマルクスを論難している。が、マルクスは、決して「〈自己の労働にもとづく所有〉を将来社会の〈理念〉として」など《いない》のだ。
「つくり出されるべきひとつの状態、現実が基準としなければならない一つの理想」ではなく、「現状を廃絶する現実的な運動」を推進する条件を《いま現存する諸前提》のうちに求める共産主義者のマルクスが何らかの〈理念〉に依拠して将来社会を展望する必要などあるはずもないのだ。
共産主義者は眼前の資本主義社会の現実そのものの中に、将来社会形成の諸条件を見出すのだ。
《労働力商品を含む》商品生産と流通の下での《自己の労働にもとづく私有》がひとつの出発点だった。そして、それは、その内在的な法則の侵害によってではなく、その適用によって《正反対物》に転化した。すなわち、「資本家の側では他人の不払い労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現れる」。この資本主義的私有こそ個人的私有の《第一の否定》である。このマルクスの説明には青木の馬鹿話とは全く異なって何のごまかしもない。
その資本主義的生産は、「一つの自然過程の必然性」をもって、その「否定の否定」、「協業と土地の共有と労働そのものによって生産される生産手段の共有とを基礎とする個人的所有をつくりだす」のだ。マルクスはこの過程がまた「既に社会的生産経営にもとづく資本主義的所有から社会的所有への転化」でもあることを指摘している。
〈自己の労働にもとづく所有〉というものは歴史的生産諸関係の一側面を上昇期のブルジョアイデオローグが所有、私有の根源として捉え、マルクスがさらに抽象して摘出した一カテゴリーである。それをもし絶対化して、〈永久普遍化〉するなら、それは確かに〈ブルジョアイデオロギー〉としての性格を持たざるを得ないのはもちろんである。が、マルクスはその歴史的諸関係が一旦没落し、むしろ反対物に転化した後に、「資本主義の成果を基礎」とし、「生産手段の共有を基礎とした個人的所有」として、内容と性格を一新して再生するといっているのだ。しかもその再生も、その当初にあっては、《各人の労働》とその〈平等〉な分配という「ブルジョア的権利」の欠陥を免れられぬと、明確に指摘しているのである。
このどこに、〈自己労働〉というブルジョアイデオロギーの賛美・擁護があるというのか。馬鹿も休み休み言いたまえ!
◆青木の資本主義「理論」の虚妄
宇野大先生の受け売りをしながら、彼が説明する〈資本主義社会〉とは、〈他の一切の商品とは異質な労働力の商品化〉によってすべての生産物が商品化され、「商品経済的な『所有』が生産過程の『労働』を基礎にもつ」、「流通〈所有〉と生産〈労働〉」が〈接合〉あるいは〈結合〉〈融合〉した社会、つまり、〈労働を基礎〉とし、《所有》が《労働》を〈包摂〉した不可思議な社会だ、そうだが、それはマルクスが解明した、我々の眼前にある資本主義の社会とは《似て非なる》社会らしい。
そこで今度は、マルクスと共に、《労働》および《所有》の《資本》との関係を見るため資本関係の歴史的前提および資本制生産の現実過程を確認してみよう。
「自由な労働〔力〕と貨幣との交換は…賃労働の前提であり、資本の歴史的条件であるが、自由な労働をそれが実現される客観的条件から分離することが、もうひとつの前提である」とマルクスは『先行する諸形態』で述べている。この資本制生産に歴史的に先立つ時代においては、《労働と物質的諸前提との自然的統一》が、生産の結果ではなく、《生産の本源的条件と生きた人間との自然的統一》が実在していた。従って、《所有》とは、共同体的、本源的には、「所有〈権〉」とかなどではなく、《生産》によってはじめて実現される《能動的な領有》、《自分自身の自然的前提としての生産諸条件に対する関係行為》だったのだ。この本源的所有〔青木が繰り返し問題にしている《自己の労働にもとづく所有》は歴史的にはその派生物であった〕の《解体》、《労働と所有の分離》こそが資本制生産の前提をなす。
◆資本家的「所有」の免罪と《搾取》の隠蔽
資本主義的生産の下にあっては、一方には、自由な労働力、労働者の生命力、価値創造の源泉の担い手たる労働者が、他方には、貨幣、生活手段、生産手段を持つ資本家がそれぞれの商品を持って立つ階級関係が確立し、〔その際、確かに資本家の「所有する商品」の出自の方は――たとえ当初は《労働にもとづくもの》と仮定出来たとしても、必然的にその正反対物《無償で他人から搾取したもの》に転化する、もしくは転化したものとなっている〕資本家は、自分の生産手段と労働力を消費することによって実際には労働者自身がつくり出したその全生産物を自分の所有物とし、労働者は資本家のために無償で労働をし、《剰余価値》すなわち《不払い労働》を《搾取》される限りで、生存を許されるという関係として、《労働と所有の分離》(〈結合〉や〈融合)ではない!〉が不断に維持され、拡大して再生産されて行くのだ。
この資本制生産の過程は、労働過程と価値増殖過程の統一(前者は後者の手段である)であり、《資本の下への労働の包摂・従属》の過程でもあるが、その究極的な動因となっているものは、労働を資本の一要素として自分の死んだ生産物形成要素に合体し、《剰余労働の生産、不払い労働の取得、剰余価値》を生産することである。
ところが、青木はまたも商品、貨幣、資本の〈流通形態〉が生産・労働を〈包摂する〉とする宇野理論にすがり付き、大混乱しながら、その流通形態を〈所有〉に置き換え、〈所有〉が〈労働〉を〈包摂する〉と言い直して得意になっている。つまり〈人間生活の永久な自然条件としての労働〉に〈所有〉が取り付いたのが〈資本主義〉だというのだが、確かにそこでは〈所有〉が〈労働〉という社会的基礎を得て、〈資本〉が〈自己の労働にもとづく〉《外観・仮象》が認められるかもしれない。この仮象を真実とすり替え、資本の《搾取にもとづく所有》に神聖な免罪符を与え、マルクスを公然と攻撃し、資本を「永久化」し、擁護することーこれが、いま青木が買って出ている役割である!
まさに徹頭徹尾《転倒》した自己の理論の大いなる欠陥を棚上げにしながら、マルクスのアラを探し回り、資本に忠勤を励みつつ、青木がマルクスを「全収益論者」に仕立て上げているのは、彼が資本主義の核心である《剰余価値・不払い労働・搾取》の概念を抹殺し、歪曲するための悪質な与太話にすぎない。
◆階級闘争への敵対と青木理論の正体
最後に、彼の近著『コミュニタリアニズムへ』を含む「階級」、「階級闘争」論に移ろう。
【7】賃労働―資本のドグマを捨てよ。
【8】資本家を「資本の所有者」、労働者を「無産者」とする「生産手段の所有」を基準としたルサンチマンの図式は通用しない。
【9】現代は「経営と所有の分離」により〈支配階級不在の社会〉になった。
【10】労働者も小所有者として体制の一翼となり、階級関係が不透明化し、階級闘争も無力化したことを直視せよ。
【11】ソ連崩壊、社会主義終焉後の今、マルクスのドグマ的崇拝を止めよ。
【12】、マルクス理論、共産主義思想をコミュニタリアニズムとして「組み換え」よ。……
《賃労働―資本の関係》を《ドグマ》だ、と頭の中で切り捨てる青木は、どうやら「資本主義などは存在しない」と言いたいのかも知れない。なぜなら、その関係こそ資本主義社会の基本骨格を成すものだからである。つまり、資本主義の一切の矛盾を無視し、それを是認して、拝跪せよ、とでも言いたいに違いない。
身分制とは違い、階級関係においては最初から特定の人格と生産諸関係とが固着し、一体化しているわけではなく、多かれ少なかれ絶えず変化を免れない。しかし、《生産手段の独占》が一部の者に限られ、他の大多数者が労働者として無償で資本家のために働く生産諸関係も、階級的支配従属の諸関係も、階級対立の諸関係も厳然として実在し、その内在的な矛盾の激化も避けられない。それに階級闘争は現実の多数者がその生産・生活諸関係の矛盾と日々格闘する現実の過程の中から生まれ、推し進められるのであり、人為的に階級闘争を安直に推し進めることなど出来るはずもなく、ルサンチマンの図式など最初から問題ではないのだ。
彼は個々の「資本の所有者」が一時的に持っている絶大な支配さえ、資本の運動法則が絶えず排除し、同時にその支配をめぐって資本同士の激烈な戦いが日々繰り広げられている事さえ、知らないらしい。この間のすさまじいリストラでどれほどの労働者が耐え難い犠牲を強いられてきたかにも、無関心なのだ。階級対立とその矛盾はたとえ『経営と所有が分離』しようと、プチブル先生の目には、いかに不透明で、無力化しているように見えようとも、より深刻化したものとして現在直下で深まり、進行している。『国家資本主義』としてのソ連が崩壊したことを契機として社会主義運動が一定の後退を強いられてきたことは確かに否めないが、ブルジョア社会の深部での労働者の《隠された内乱》が公然たる階級闘争として顕在化する日は決して遠くはないだろう。
マルクス主義と、共産主義からの訣別を求める青木の立場は、既に見たようにもともとマルクス主義を曲解し、捻じ曲げ、実際上敵対する立場に他ならなかったのである。
資本主義との闘いを回避し、その支配の土台と基柱に全く手をつけることなく、むしろその支配の足元に擦り寄り、その周辺でブルジョア社会の沼地の隙間に漂うみすぼらしい〈資本との協同と連帯〉とか〈有機的紐帯〉とやらを探し求める〈コミュニタリアニズム〉は、まさに彼にふさわしい道だろうが、我々の道ではない。
我々は、幾多の困難をも乗り越え、日本と全世界の労働者階級と共に、階級闘争を革命的に組織し、推進し、マルクス主義の道を理論的にも実践的にもさらに推し広め、共産主義革命の勝利を目指し前進するのみである。
混乱した「個人的所有」の概念/佐々木
――階級関係もあいまい化
◆はじめに
本紙一月九日号で田口騏一郎氏が青木孝平氏の「マルクス所有論の地平」(『ポストマルクスの所有論』第五章)を批判した。田口氏論文の副題にあるように、青木氏の論文は「マルクスの理論の無理解と歪曲」を示すものであり、「資本主義的生産関係から目をそらす」ものであると云うのが田口氏の批判の要点である。これに対して本紙二月二七日号に青木氏の反論が掲載された。私は一読して、これがかの宇野学派かと、その理論をまざまざと見せられた思いがした。さっそくまずかの論文「マルクス所有論の地平」を読んだ。青木氏は確かに彼の主要な理論のエッセンスを宇野弘蔵から得ていることが、その丁寧に付けられている参考文献で示されている。まさに宇野学派である。青木氏は、反論のはじめに「マルクス理論の『無理解』とか『歪曲』とかという批判は到底受け入れるわけにはいかない」と云うが、青木氏は「マルクスの所有論の大胆な組み替えを提案している」とは認めている。しかし、それはやはり、青木氏のマルクス理論の「無理解」にもとづく「歪曲」であることは間違いない。青木氏の反論は、田口論文の章立てに沿ってなされており、青木氏の理論が要約されていると云える。以下各章に沿って、青木氏のマルクス理論の無理解と歪曲を検討したい。
◆領有法則は反対物に転回しないのか?
青木氏は、「商品の所有はそれがどのように生産されたかにかかわりなく、流通すなわち貨幣による商品の購買の場面で成立するのであり、『自己の労働にもとづく』という想定は必要ない」とし、「資本主義において、自己の労働にもとづく所有がその反対物に転回するのではない」と云う。
@商品の所有が貨幣による商品の購買の場面で成立するとは?
青木氏が、商品の所有を購買の場面で成立するとし、生産過程から分離するのは、資本主義社会の現実を分析した結果ではない。流通過程では、商品Wと商品Wは貨幣Gを介してW―G―Wの等しい価値量の交換がなされる。この場合、商品Wは、資本家の所有物である。これが資本家の所有物であるのは、資本家の資本によって商品が生産されたからである。しかし青木氏にとっては、購買によって所有が成立するという原則が大事なのである。青木氏は、ここで「流通すなわち貨幣による商品の購買」とするのは、商品流通のG―Wの局面を取り出し、貨幣によって購入することで自分の所有になる現実を云いたいのである。青木氏の所有論は、まず、購買ありきとしたいのである。
A資本主義において、自己の労働にもとづく所有がその反対物に転回するのではないとは?
マルクスは資本制生産過程を分析して、労働力の購入は、たとえ価値どおりに行われたとしても、それは形式的な等価交換であり、内容は資本家が労働者を賃金の対価である必要労働時時間以上に働かせ(労働者の能力一杯に)、その不払労働時間に相当する剰余価値部分が資本家の利潤となるという、資本主義的生産の秘密を解き明かした。たとえ資本家の本源的資本が彼の本源的労働のおかげで彼に属する価値額であっても、追加資本は労働者の搾取による剰余価値(不払労働)が資本化されたものであるのだ。本来、労働者の労働にもとづく所有である剰余労働生産物が、搾取によって資本家のものに転回するのである。しかし、青木氏にとっては、労働力は資本家が購入した資本家の所有物であるので、自己の労働にもとづく所有がその反対物に転回するのではないのだ。
◆資本主義的搾取を無視していいのか?
青木氏は、「『自己の労働にもとづく個人的所有』は、将来社会の理念たりえず、資本主義のイデオロギーそのもの」であり、「マルクスが剰余労働の生産物が労働者の所有にならないことをもって『不払い労働の領有(搾取)』などと呼んだのは、リカード左派やプルードン派の労働全収益権論に足をすくわれた勇み足だった」と云う。
@労働者は労働の全生産物を「個人的所有」とすることはありえないとは?
青木氏は「可変資本の回転である賃金の前貸し・回収の関係は、貨幣所有権を賃金の支払いにより消滅させるが、これを雇用契約による労務請求権としての債権に転化し、その履行を通じて、新たな価値をもつ商品所有権として再生される」(『ポストマルクスの所有論』P一〇二)と云う。この場合の「回収」は生産された商品の販売によるものでない。「賃金の前貸し・回収の関係」は、資本家が労働者に賃金を支払うことで、賃金を労働者を働かす権利に「転化」し、その権利の履行、すなわち、労働者による新たな生産物である商品は、資本家の所有物となり、「商品所有権として再生される」と云うのである。青木氏は、労働力商品を購入したのだから生産物は資本家の所有物であるといっているだけである。
また青木氏は「資本家は、雇用契約にもとづく可変資本Vへの賃金支出によって喪失した価値を、販売契約による新生産物V+Mの貨幣化を通してのみ回収するのであり、このくりかえされる資本価値更新のプロセスは『蓄積を隠蔽する仮構』であるどころか、生産過程の価値増殖と継続の正当性を担う合理的な根拠であるといわなければならない」(同上)と云う。すなわち、資本家の価値増殖すなわち利潤は、資本家が作り出したものであり、それを資本家の所有とする正当性を云うもので、現代社会の資本家の日常的な観念をそのまま引き写している。
商品が労働生産物であり、商品に含まれる労働時間が価値となることは、リカード等の古典経済学が解明したが、どのように価値増殖が実現するかはわからなかった。マルクスは、労働力の価値が労働者の生存維持に要する生産物を生産する労働時間によって規定されること、商品の生産に要する労働時間と労働者の生存維持に要する消費物質を生産するに要する労働時間との差が剰余労働であり、価値増殖となることを解明したのである。青木氏の説では、この価値増殖が科学的に明らかにされないのである。
このように青木氏は、生産過程で行われている資本家による労働者の搾取をみることなく生産過程の価値増殖を資本家の成果であるとし、「労働者が自己労働を根拠にして労働の全生産物を『個人的所有』することなどありえない」と云うのである。
◆階級関係から目をそらすのは誰か?
青木氏は、「田口氏は、……資本―賃労働という生産関係こそが資本主義の根幹であるという古典的なドグマを披瀝して、この生産関係の矛盾は、資本主義への労働者の反発、反抗を呼びさまさずにはおかないという」が、「資本主義という社会関係は、……生産関係そのものが商品形態によって構成されている点に最大の特徴がある」「資本主義の変革のためには、勇ましいアジテーションよりも、なぜ階級関係が不透明となり階級闘争が無力化するのかを『目をそらす』ことなく解明することの方が、はるかに重要である」「もうそろそろマルクスの物神崇拝はやめにしたいものである」と云う。
@階級関係は不透明となり階級闘争が無力化しているのか?
青木氏は、階級関係が不透明となっているのは、労働者にも資本家においても「自己労働にもとづく所有」を肯定的に受容・評価させるからだと云う。労働者は賃金によって、資本家はその企業活動よって、それぞれ「労働にもとづく所有」を得ていることになると云う。労賃の支払いによって労働者が労働力を売り渡す契約となると云う現実をその根拠として、「労賃形態は単純な仮象ではありえない」と云う。
青木氏は、労働者が資本家の支配の下に置かれ、剰余価値を搾取され、あまっさえ資本家の思うように労働条件を切り縮められ、場合によっては首を切られるという現実の非人間的な階級関係を無視し、階級関係が不透明になっていると云っているだけである。階級闘争が無力化していると云うが、無力化しているのではない。階級闘争が現れてこない、もしくは、組織されていないだけである。
A資本―賃労働という生産関係こそが資本主義の根幹であるというのは古典的なドグマ?
青木氏が、資本主義社会の特徴を、「生産関係そのものが商品形態によって構成されている点」にあると云うのは、流通では平等な人格どうしの等価交換が行われ、この等価交換にもとづく購買によって所有が成立するが、これが生産関係を含む資本主義社会の普遍的関係になっていることを云うためである。しかし、資本主義の特徴は、法的には自由な人格どうしが平等に契約し合う関係を通して、資本家が労賃の対価によって労働者を支配し、生産現場で労働者が創造する剰余価値を搾取し、これを利潤とするという資本―賃労働の生産関係である。
青木氏は、この生産過程を流通関係に解消し、階級関係をあいまいにし、マルクス主義の根幹をドグマであると言い放つ。田口氏のマルクス理解が間違っていれば問題であるが、青木氏はマルクスが間違っていると云い、正しいマルクス理解を「ドグマ」と云うのである。青木氏こそ、自らをマルクス経済学者と呼ぶことをやめたらどうか。マルクス経済学という名だけを「ドグマ」のようにしがみつくのはやめたらよい。マルクス経済学という名の物神崇拝は青木氏である。
以上みるように青木氏は、「マルクス所有論の地平」と云う名で、マルクスが資本主義社会を分析して得た根本的概念を否定し、マルクス経済学の名のブルジョア経済学を披瀝している。青木氏は、大学の教官をされているようであるが、こんなでたらめな経済学を若者に教えてもらいたくない。
階級闘争と無縁な経済学/杉原信夫
――反面教師の青木理論
私は経済学については奥手であって、これまで『資本論』を三巻までその流れに沿って読んだことはあるが、今ひとつ理解できないなと思うところも一つや二つではない。『資本論』によって社会主義に科学的な根拠が与えられたと云うことは知っていたが、その意味するところも今ひとつ分からなかった。
ところが、最近『資本論』の読書会を呼びかけるビラを作成するために、マルクスの手紙などを読んでいるうちに教えられるところがあった。それはエンゲルスに宛てた、一八六七年八月二四日の手紙と、一八六八年一月八日のものである。
両方とも同じようなことをいっているが、要するに、『資本論』の「最良な点は」何かである。マルクスに云わせれば、それは「@第一章で強調されているような、使用価値で表されるか交換価値で表されるかにしたがっての労働の二重性(これに事実のいっさいの理解が基づいているが)」を指摘したことであり、また「A剰余価値を利潤や利子や地代などというその特殊な諸形態から独立に取り扱っていること」が、『資本論』のこれまでにない、「根本的に新しい要素」であるそうだ。さらにマルクスは「初めて労賃が、その背後に隠れている関係の非合理的な現象形態として示され、このことが労賃に二つの形態である時間賃金と出来高賃金とによって精確に示される」という点も挙げている。
いずれにしても、私はこれによって、いままで『資本論』の筋を追って読むだけでは気付かなかった資本主義経済の仕組み、その生産の有様をまざまざと見せつけられた。すなわち、商品の使用価値から区別される価値に注目すれば、それはすべて労働者によって作られたものであることが明らかになり、価値は労働によって作られているにもかかわらず、普通の商品のみならず、労働力も商品になることによって、剰余労働が労働者のものにはならない仕組みが出来上がり、そしてその剰余労働が価値として資本家や地主に色々な形で分配される、こうした資本主義経済のありようが目の前に浮かんできた。
今では、こうしたものが、社会主義を科学的に裏付けたマルクスの功績と言われる内容であろうと考えている。
ところが、青木論文は「労働に基づく所有」は将来社会の理念足りうるか?と問いかける。率直に言って、これは、共産主義そのものに疑問を投げかける問いかけである。もし仮に、マルクスが「リカード左派」に「足をすくわれ勇み足」をしたと云うのが正しいなら、その問いかけにも意味があろう。何故なら、資本主義社会では、労働者の作ったものは労働者のものにはならず、それは基本的に資本家のものになって、労働者はその生活を維持するのに必要なだけしか手に出来ないからである。それを以て、労働者が俺が作ったのだから俺によこせ、不当なことはするなと言っても、それは受け付けられないからである。しかし、こうした搾取の仕組みを労働価値説に基づいて説明した人こそマルクスであって、『資本論』ではないのか。とすれば、やはり青木論文のマルクスの「無理解」と「歪曲」が問題になるだろう。
どこがどう無理解であり、歪曲であるのかと言われるなら、その一例として最後の文をあげよう。物神崇拝の意味を理解していない一例として、「もうそろそろマルクスの物神崇拝はやめにしたいものである。」という文をあげよう。
まず、これはどういう意味か?
これはマルクスを神のように崇め丸暗記して語ることは止めようと云う意味にとれる。しかし、マルクスが明らかにした「物神崇拝」は単に偶像崇拝の批判ではない。それは商品生産に付き物の転倒した現実の暴露であって、社会的なものが自然物の性質であるかに現象する、商品生産そのものの批判である。もちろん、物神崇拝は貨幣においても、資本においても見られるし、宗教もまたこうした現実、すなわち人間が生産を支配するのではなく、反対に生産が人間を支配している現実の反映であると言えるかも知れない。しかし、それにしても、物神崇拝を単に偶像視することであるかに云うのは、やはりマルクスの「歪曲」(一面化)であろう。それに、もし、マルクスの偶像視が良くない(確かに良くないが)と云うのなら、マルクスの言葉の意味を自分自身で考えよ、と云えばいいのであって、その「大胆な組み替え」など要らない。
或いは、ひょっとして青木氏はマルクスが暴露した物神崇拝そのものを批判されているのか。確かにそう思われる記述も多々見受けられるだけに、『資本論』第一巻第一章第四節は要らない、という意味かも知れない。しかし、それはせっかく『資本論』を読んでおきながら、逆に資本主義に対する批判的な意識を眠り込ますものであって、何でわざわざそんな変なことをしなければならないのか、という疑問を生み出すものである。
青木氏は自ら「学問で糊口をしのぐ小ブルジョア研究者」であるからかも知れないと云われている。そこまで自覚されているなら、それ以上申し上げることはないが、それにしても、個人的には惜しいというか、もったいないという気がするのは私だけであろうか。
とにかく私は、青木論文から、いくら階級闘争が困難でも階級闘争と無縁な経済学を作ってはならないということを、「反面教師」としては教えられた。差し当たりは、それを以て良しとするよりしようがないというのが、青木論文であろう。
●『海つばめ』第980号2005年3月27日
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