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エンゲルス批判からマルクス主義の否定へ

黒田寛一のエンゲルス批判
宇野理論に学べとわめきつつ
「マルクス歪曲」は黒田自身のことだ
(林 紘義)


 今年の労働者セミナーでは、いわゆる「冒頭の商品」とは何かということをめぐって厳しい議論が行われ、その中で、六〇年安保闘争とともに登場した“新左翼”のドグマチスト、黒田寛一の理論も、持ち出されたのであった。というのは、彼はまさにエンゲルスの“客観主義”を批判し、それがレーニンに受け継がれ、その結果としてスターリン主義が形成された、と主張し、「エンゲルスのマルクス歪曲に抗して」一家言を展開したからである。我々は黒田がまさにエンゲルス批判を目的として、“宇野理論”に依拠しながら書き上げた『資本論以降百年』を取り上げつつ、“黒田理論”なるものを検討してみよう。

◆はじめに

 彼は宇野理論を高く評価し、まさに宇野の理論に依拠しながら、エンゲルス批判を成し遂げようとする。彼は、スターリン主義“経済学”の克服は、スターリンが「直接に依拠しているエンゲルス経済学の欠陥や誤謬」を克服することが出発点であるが、そのためには、宇野経済学こそが必要であり、テコになる、と強調してやまないのである。彼はこともあろうに、宇野のマルクス批判の中に、「積極的な」ものを見出し、それから学ばなくてはならない、と絶叫するのだ。

 ただ、このことだけからも、黒田のエンゲルス批判のくだらなさと不毛性を、そして極反動性を(ブルジョア的屁理屈へのごますりと屈服を)確認することができるのだが、しかしこのことは具体的に暴露されなくてはならない。

 黒田が強調する、エンゲルス理論の欠陥は、資本主義の矛盾を「労働力の商品化」において――周知にように、これは宇野学派のたわ言の一つであるが――ではなく、「社会的生産と資本制的取得とのあいだの矛盾」に求めたことである。これがエンゲルスの“原罪”であって、すべての“悪”はここから流れでているのである。

 これはエンゲルスの“客観主義的”哲学――つまりこれは、黒田にとっては、“主体性哲学”ではないということだが――と直接に結びついており、「商品経済史観」を規定し、したがって「冒頭の商品」を単純商品だとする間違いに導き、また恐慌を過剰生産から説くことにつながっている、というのである。

 しかし我々は今は、こういた空ごとのすべてに付き合っている暇はなく、ただちに「冒頭の商品」についての議論に入っていくことにしよう、そしてただそのことだけでも、黒田理論といったものが(そして同じようなものだが、宇野理論といったものが)いかにくだらない駄弁であり、ばか話にすぎないかをたちまち了解することができるのである。

◆冒頭商品は労働力商品と断言

 さて、黒田の言うことは、『資本論』の「冒頭の商品」は労働力商品である(そして、いわば“派生的に”一般商品である)、ということに尽きるのである。
 一体『資本論』をどう読めばこんな途方もない理屈が出てくるかは、我々の理解を超えるのだが、しかし黒田本人はごくまじめに、こんな無意味なドグマをいくらでも並べるのだから、一種の認識不能患者――そんな病気があるかどうかは知らないが――であるとしか思われない。

 黒田は、『資本論』冒頭の「資本主義社会の富は膨大な商品集積として登場する……」というあの文章を引いて、だから「冒頭の商品」は「直接的には、物化されたプロレタリアの対象的形態、いいかえれば、労働力商品そのものでなければならない」(一七頁)と、勝手に断じるのだが、どうしてそんな理屈になるのかは永遠の謎である。

「始原的商品は、単なる商品ではなくして、直接的に労働力商品を、媒介的には同時に、かかる労働力商品としての賃労働者によってうみだされた生産物を、意味するものして主体的に把握されなければならない。それゆえに始原的商品は、いわゆる単純商品でもなければ、純粋な商品形態でもない、それはまさしく資本制商品である」(一八頁)

 黒田にあっては、願望が認識に取ってかわるのである、つまり「ねばならない」が、事実に置き変わるのであり、黒田が望んだものが事実になるのである。黒田が、『資本論』の冒頭商品は労働力商品で「なければならない」と宣言すれば、それはたちまち労働力商品になるというのだから、この“哲学”もしくは“経済学”のインチキ性は余りに明らかで、その“ネタ”は最初から見えている。

 黒田は、自分のこうした理屈――むしろたわ言――こそが、「学問的体系」の出発点であり、同時に「歴史存在論的」であり、また何よりも「認識論的」であると自慢している。もちろん彼は宇野らととともに、マルクスがこの点で必ずしも明確でなく、一貫していないと非難できると考えている。

 『資本論』の冒頭の文章から、冒頭の商品が「労働力」であると断じることは、それをどんな風に読んでもできないことであろう。

 マルクスはまず明瞭に「資本主義社会の富」について語っているのであって、それが人間労働の生産物であることは余りに明らかだからである。マルクスは、資本主義では、それが「膨大な諸商品の集積」として現われる、という事実をまず指摘しているのである。資本主義社会の富が一般的に商品として、つまり交換価値として出現することを確認し、まさにそれ故に、その「商品」というものを、つまり資本の出発点であり、基礎でもある「商品」を分析する、と問題を提起しているのである。

 これが労働力商品であるとしたら、すべてのマルクスの理論が空虚で、わけのわからないチンプンカンになるだろう。そもそも人間は、自分が生き、生活し、世代をつないで行くために、労働し、富を生み出すのであり、生み出さなくてはならないのであるが、問題は、その資本主義的形態である。商品という歴史社会的形態を取っている富(労働生産物)を分析をしようというのに、何で労働力商品といったものが出てくるのか。

 全くのピントはずれの無知蒙昧さ、としか言いようがない。人間もまた「富」だとでも言うのだろうか。しかし、人間は人間にとっての対象である富でなく(あるはずもない)、富の主体としての人間である。“主体性論者”の黒田は、“主体”も“対象”も混同して、何というわけのわからない妄言をはくことであろうか。

 彼は資本主義のもとでは、労働力もまた商品として現われるということから、それもまた“商品”に含まれる、「始原的商品」は労働力商品である、と結論するのだが、こうした転倒した認識もしくは屁理屈は、まさにブルジョア経済学者たちが、商品は一般商品だけに限らない、資本主義の現実に直接に現われる商品は、労働力商品もあれば、土地商品もあるとわめいたのと同様である。

 それは、ブルジョアたちが、マルクスは「商品」の名で一般商品だけを、つまり生産的労働の結果としての商品だけを取り上げ、分析している、等々と非難したのと、ほとんど違いのない、空っぽで、低次元の見地なのである。

 資本主義的生産を概念として(つまり理論的に)把握するためには、その根底にある「商品」を正しく分析し、理解しなくてはならないが、この「商品」は単に資本主義の直接的表面に与えられている“雑多な”商品ではなく、概念的把握のために抽象された商品であるし、そうでなくてはならない、つまり実際の社会的な「富」としての、その歴史的な形態としての商品でなくてはならないのである。そのことを理解せず、本来の商品として、労働力商品といった“派生的な”商品を――さらには、土地商品、資本商品といった形式だけの「商品」等々までも――持ち込むことは、すでに資本主義の真実の理解を、その第一歩からして過ち、断念するに等しいのである。

 黒田は宇野らとともに、資本主義的生産についても、「商品」についても、その正しい理解を全く欠いているのであり、だからこそ、彼らはエンゲルスのみならず、マルクスまでも批判し、攻撃する――あるいは、それを歪曲し、自分好みに変えてから、つまりマルクス主義ではないマルクス主義をほめ、持ち上げる――のである。
 かくして、『資本論』は「プロレタリアの自己内反省」の学問体系でもある。

「商品の自己運動の学問的体系が、『資本論』の体系である。……この商品の諸規定の自己展開は、同時に、労働力商品としての賃労働者の自己内反省としての意義をもつのである。かかるものとして『資本論』は、プロレタリアートの歴史的自覚の対象化形態としての意義をもっているのである」(一八頁)

 『資本論』は資本主義的生産様式のもとで、その運動や歴史的傾向とともに、基本的な生産関係を暴露し、労働者の置かれている地位を明らかにする、しかしだからといって、それは「労働者の自己内反省」といったものとは全く別のものである。それは資本主義社会の関係や運動の客観的な概念であって、労働者の「自己内反省」であるといったこととは別の次元の問題である。

 要するに黒田は、『資本論』の商品分析に、労働者は自らの本性――つまり“物化”された自己――を知るべきだとお説教をたれるのであるが、しかし労働者にとって重要なことは、単に自分の労働力が商品として売買されるということでなく――そんなことは、労働者なら日常の経験からよく知っている――、それを媒介にして――生産過程において――、労働が搾取される、という事実である。

 労働者の場合、商品(労働力商品)と商品(消費資料)の交換関係は、それ自体、“等価交換”という形式的な関係にすぎず、道徳的に「労働者が商品として、“モノ”として扱われている」とわめいてみても、せいぜい“人間主義的な”表面的で皮相な非難――宇野や黒田にふさわしい――に留まるのである。

 まったく“主体性論者”とか、“人間主義者”といった連中は、“科学としての経済学”が問題になるときには、一言として正しいことは言わないのであり、言えないのである。

 黒田が、『資本論』の展開は労働者の“認識論”としても意義をもつと強調するのは、冒頭の商品もまた労働力商品であり、したがって『資本論』の展開は、労働者の自己認識の深化の過程である(労働者が自分というものを知って行く一歩一歩である、というのは、商品とは自分だから)、と独断するからである。

 したがって黒田の言うことは、労働者の存在そのものの“追体験”(もちろん、理論的な)といったことであり、『資本論』が現実の“対象認識”とその深化であり、だからこそ、自分の客観的地位を明らかにする、ということとは別なのである。

 「商品が資本に転化する」ということを、この「運動」を、黒田は、労働者の「自己内反省」あるいは「自己認識の深化」ということからいかに説明するのか、できるのか。労働者が資本になる、とでも言うのか、労働者はその内的な本性からして、自らの「運動」の過程において資本家になり上がる、とでも言うのか。商品(労働力商品)概念の自己運動(したがって、労働者の自己内反省の発展的運動)という黒田の“理論”は完全に破綻しているのであり、つまらない観念論であり、空虚なおしゃべりにすぎないことを暴露するのである。

 この珍奇な男は、「商品の自己運動」について語るのだが、しかしそれなら、資本は「商品の自己運動」の結果だというのか。そうだとするなら、宇野などと一緒になってマルクスの「商品経済史観」を攻撃するのは一貫しておらず、おかしいではないか。

 彼はいわば結論的に、冒頭の商品が労働力商品であることを認めない者は、資本主義を変革するという「実践的な立場」が欠けているからだ、と大声で叫んでいる。つまり労働者が商品化(“物化”)されていることに鈍感だ、その根本矛盾を理解していない、というのである。まさにここには、単なる“人間主義者”でしかない黒田の浅薄で上っ面な本性がさらけ出されている。

◆「商品を対象化する労働」のチンプンカンプン

 さて、黒田の“理論”展開は、ますます荒唐無稽なものとなっていくのであるが、それは例えば、「労働の二重性」について語るときにも現われる。彼は“スターリン主義者”が「価値=交換関係ぬきに」、それを「商品の二要因を、その実体的基礎から説明しなければならない」と言うのは間違いだとして、次のようなわけのわからない理屈を持ち出すのである。

「商品に対象化されている労働が、あるいは商品の実体たるプロレタリアの疎外された労働が価値=交換関係を媒介として、一方では価値の実体としては抽象的人間労働という規定を受け取り、他方商品の使用価値にかんしては有用労働という規定を受け取る、というように解すべきなのである。
 ところが、一般に、商品に対象化されている労働の問題と、商品を対象化するプロレタリアの生きた労働との区別がつけられていない」(六三頁)

 こうした珍妙な理屈を合理的に理解できる人間がいるとするなら、それは大したものだ。

 「商品に対象化されている労働が、一方では価値の実体としては抽象的人間労働という規定を受け取り、他方商品の使用価値にかんしては有用労働という規定を受け取る」というだけなら、マルクスが言っている通りのことであり、どんな“スターリン主義者”といえども、それにことさら異議を唱えることはないであろう(いやしくもマルクス主義に忠実であるとするなら)。

 問題は、ここで黒田が「プロレタリアの疎外された労働」を持ち出し、また「価値=交換関係による媒介」といったことを言い出していることである。

 「価値=交換関係による媒介」といったことは、ここではどうでもいいことである、というのは、それはすでに前提されていることであって、この「論証」には無関係だからである。交換関係は前提され、二商品はすでに交換関係に置かれたものとして商品である。そのすでに交換関係に置かれた商品を分析し、考察しようとするとき、「交換関係」を媒介にせよ、ということは無意味であり、単なる空文句でしかない。

 また労働の二重性を語るのに、「プロレタリアの疎外された労働」など持ち出しても、何の意味もないこと、余計なこと、否、単なる混乱でしかないのである。

 というのは、商品に「対象化」されている労働は、単純に私的な労働であって、必ずしも「プロレタリアの疎外された労働(搾取される労働ということ?)」ではないからである。

 それは現実には、「プロレタリアの労働」であるかもしれない、しかし、その場合でさえも、「価値の実体」としては、「プロレタリアの労働」は労働者の労働としてでなく(そうした属性は捨象され)、一つの“私的労働”として評価されるのである。労働者の労働、つまり有用労働、剰余労働の合計としての労働としてでなく、それ自体が単に一つの抽象的人間的労働として評価されるのである。

 黒田は一体「疎外された」という言葉を、いかなる意味で用いているのか。

 それは、単に資本によって搾取される労働という意味か、それとも、マルクスが例えば、『経済学哲学手稿』で展開しているような、「対象化」される労働、そうした意味での「疎外された労働」という意味か。

 もし後者なら、それは別に「プロレタリアの労働」といったことを、あえて持ち出す必要はない、というのは、「疎外された労働」という概念は、価値として「対象化」される労働という意味と、実際上違わないからである。

 そしてもし、前者の意味なら、つまり搾取される労働という意味なら、冒頭の商品のおいて、そんなものを持ち出すのは見当はずれもいいところで、単なる一つのばか話にすぎない。

 しかし、「商品に対象化される労働」と、「商品を対象化するプロレタリアの生きた労働」を区別せよ、とはどういうことであろうか。対象化された労働と、生きた労働が別のものである、ということは自明だが、しかし「商品を対象化する労働」といったものは、チンプンカンプンで、何のことを言っているのかさっぱり分からないのである。また、この両者を区別せよというのは、何のために言われているのか。「価値=交換関係」といったものを媒介させるなら、両者の同一性を説ける、とでも言いたいのか。無媒介的に、スターリン主義者は同一性を説いている、だからおかしいというのか。スターリン主義者なるものが、そうしているかどうかはさておくとして、黒田こそ、両者の同一性を説くのではないのか、「価値=交換関係」といったものを媒介させることによって。

◆「商品経済史観」への空っぽな攻撃

 そして最後は、お決まりの「商品経済史観」への攻撃である。彼は、それを宇野学派から学んだのである。彼は宇野の『社会科学の根本問題』(一九一頁)を引用する。

「労働は、たしかに人間生活の基礎をなす物質的資料の生産をなすものではあるが、それだけではそれを私有せしめるものではない。資本の原始的蓄積は、農民からの土地の収奪によって無産労働者を大量的に造り出すことにその歴史的意義を有しているといってよいが、それはまた同時に中世的封建的な土地所有を解消して土地の近代的私有を確保し、資本主義社会として私有制を全面的に確立せしめるものにほかならなかった。『資本主義的私有』こそ私有制の本質を示すものである。……したがって『資本主義的私有』なるものは、本来『自分の労働にもとづく』ものとしての『個人的私有』の『否定』をなすというよりは、私有制自身の完成をなすものである。かくしてマルクスのいわゆる否定の否定も、共有制の否定としての私有を否定するものとしてこそ、否定の否定をなすものといってよい。もっとも、第一の否定の過程は、私有の浸透、発展として、種々なる社会を通して展開されたのであって、中世封建社会を否定する資本主義社会において、その完成を見たのである」

 さて、黒田はこの宇野のつまらないたわ言を“高く”評価し、むしろマルクスの『いわゆる根源的蓄積』(『資本論』第一巻第二四章)の部分を「所有形態の歴史的な転換の構造解明が不正確になっている」と批判しつつ、またエンゲルスがマルクスの「一面的をさらに一面的に拡大」したと、つぎのような世迷い言を並べている。

「(マルクスの「限界」を拡大することによって)『社会的生産と取得の資本制的形態との矛盾』が資本制的生産の本質的矛盾であるとするエンゲルスの命題が導きだされていること、あるいはまたスターリン主義者に共通な『商品経済史観』や『本来的私的所有から特殊な資本制的私的所有への発展』観の基礎づけのようなものがそれによってなされていること、これらを考察するとき、宇野による問題提起は意義あるものといわねばならない」(九二頁)

 そして、エンゲルスの例の「マルクスの価値法則は、生産物が商品に転化する交換の端緒から紀元十五世紀までの期間にわたり、経済的、一般的妥当性を有する。……だから価値法則は五千年ないし六千年の期間にわたって支配的に行われてきた」という文章を引いて、スターリン主義の責任はエンゲルスにあると告発するのである。

「右のような叙述を批判的に考察することなく、むしろ絶対化し、『前近代社会においても、また社会主義社会においても、価値法則は存在する』というように定式化したのがスターリンであった。スターリンとスターリン主義者たちによる価値法則の理解はエンゲルスにもとづいている――この事実について、われわれは痛苦をもって反省しなければならない」(九三頁)

 しかし、黒田の告発は全くいんちきである。スターリン主義者が、前近代社会つまり資本主義社会以前にも価値法則は存在すると言ったことを、エンゲルスの文章から基礎づけることはできるにしても、社会主義社会にもまた商品生産や価値法則が一般的に存在すると主張したことを、どうしてエンゲルスのせいだと言えるのか。黒田はエンゲルスを中傷する汚い人間ではないのか。

 というのは、エンゲルスが言っていることは、資本主義の前までのこと、つまり西洋で言えば十五世紀頃までのことにすぎないからである。黒田は、エンゲルスが社会主義社会でも商品生産が支配的に行われる、とどこで言っているというか。

 そして“スターリン主義”の理論を最も簡単に特徴づけるとするなら、それは「社会主義もまた一般的に商品生産社会である」といったものであって、資本主義以前にも商品生産があり、価値法則が行われたといったことではない(というのは、こうした見解は我々もみな主張するからであり、いわば一つの“常識”だからである)、そしてこうした途方もないブルジョア意識(まさに「国家資本主義」の上部構造としてのスターリン主義官僚にふさわしい観念)が、エンゲルスから来たものだ、などと言うことは決してできないのである。

 以上、簡単に黒田の商品理論や、彼のエンゲルス批判を見てきたのであるが、一言で言って、それは無内容で、無責任な駄弁、否、むしろ“売名的な”放言といったものを超えることは決してないのである。

『海つばめ』第969号(2004年12月5日)


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