ツガンの再生産論批判
価値補填無視の恣意的表式論――労働価値説否定の立場を反映
(田口騏一郎)
去る2月、中央学習会で私のツガンの再生産論報告に関して、ツガンの恐慌の捉え方、表式の性格、マルクスの再生産表式論などについて疑問や、批判がだされた。以下、学習会での議論を踏まえて、ツガンの再生産論について検討しよう。
◆ツガンの『資本論』第二巻の位置付け
ツガンはマルクスの再生産表式を「社会的資本の輝ける分析」と称賛し、これを具体的な資本主義の分析に利用すべきだと主張する。しかし、マルクス自身によっては、表式のこうした利用のされ方は行なわれていない、それは、第二巻の再生産論が他のマルクスの見解と異なっていたからだと次のように主張している。
「『資本論』第二巻には、われわれの判断によれば、資本主義経済における社会的新陳代謝に関する、すべての科学的理論の基礎たるべき、社会的再生産の輝かしい分析が見られる。しかし、この分析がマルクスにおいては未完成に終わっている。著者自身がこの分析を、恐慌その他の、現代経済生活における諸現象の解明のために利用していない。さらに重要なことは、その分析が、他のマルクスの見解と一致していない。それどころか、われわれはこの分析が、資本主義経済秩序の発展法則に関するマルクスの見解と多くの点で矛盾している、と主張することができる」(ペリカン社『英国恐慌史論』、1901年フランス語版の翻訳、214頁)
すなわちツガンによれば、マルクスは『資本論』第三巻第七篇第十五章で剰余価値の生産条件とその実現の諸条件との矛盾を指摘し、ここでは「資本制的生産の真の制限は資本そのものである」として、社会的生産力の増大が、一方では資本の有機的構成を高め、一般的利潤率の傾向的低下をもたらす、また他方では大衆の社会的消費は、多かれ少なかれ狭い限界の中でのみ変動しうる最小限に制限されていることを指摘している。マルクスにおいては、恐慌の原因は第三巻によって与えられているのであって、ここでは社会的資本の再生産を分析した結論と異なっている。「マルクスは、二つの独立した原因として、比例性の欠如と社会の消費力不足とを対置することによって、みずからシスモンディの過少消費説の信奉者たることを告白している」(218頁)というのである。
ツガンは、『資本論』の第二巻と第三巻とは矛盾していると言う。彼は、マルクスは利潤の源泉は労働者が生み出した剰余価値であるというがそれは誤りで、利潤(剰余価値)は労働者の労働ばかりではなく機械も生み出すのだと言う。こうして、ツガンはマルクスが「資本制的生産の矛盾は資本そのものである」として、一般利潤利潤率の傾向的低下や大衆の消費の制限を指摘したことを間違った理論だと批判しているのである。
だが第三巻と第二巻の再生産論とは矛盾があるとするツガンは、マルクスの理論を理解していない。彼が第二巻と第三巻の矛盾を叫び立てるのは、ツガンが労働価値説を否定しているからである。
ツガンによれば、第二巻の再生産論こそが過剰生産(恐慌)を明らかにしているというのである。
ツガンは恐慌の原因について次のように言う。
「全般的過剰生産の基礎となるのは、部分的な過剰生産である。あれこれの商品が普通の需要こえて大量に生産される。その価格が下がる。貨幣収入の減少が、その商品の占有者の購買力を削減する。その結果、この購買力の支出によって購買される全商品の価格が下落する。かくして、一部の商品が過剰に生産されたために、全商品が過剰に存在することになる。
商品の総供給は、貨幣が何らかの理由で流通面から引き上げられる場合に限り、社会的生産の配分とは無関係に、総需要を上回り得るであろう。それ以外の場合は、社会的生産の不比例的配分によってのみ、商品の過剰生産が招来されうる」(30頁)
ツガンによれば、生産が比例的に行われるかぎり、過剰生産(=恐慌)は起こりえない。しかし、資本主義においては生産が不比例になるのは不可避であると次のように言う。
「資本主義経済は、単純商品経済のおける社会的消費のような統一的調節力をもたない。最大限の生産拡大をめざす努力が資本主義的生産様式の一特徴である。生産拡大の絶対的限界なるものは、社会が利用し得る生産諸力であり、資本はつねにこの限界まで到達しようと努める。
だが、それは無駄なことだ! 資本はこの限界まで到達することはできない。すでに見た通り、社会的生産の比例的配分が存在する場合には、商品の需要が供給自体によって創出される。しかし、完全な比例に到達することは、克服しがたい困難をそこに含んでいる。社会的資本が比例的に配分されなければ、それ以外のあらゆる配分は、一部の商品の過剰生産を生ぜしめる。しかも、すべての生産部門が互いに密接な関連をもっているから、一部の商品における部分的な過剰生産が、全般的な商品過剰生産に容易に転化する」(39頁)
比例に到達することができない「克服しがたい困難」とは以下のことである。ツガンはこう述べている。
「恐慌は、資本主義経済秩序の二つの矛盾によってひき起こされる。二つの矛盾とは、(1)、生産手段が、生産に参加しない人々に所有せられ、直接生産者が生産手段を所有しないという矛盾と、(2)、個別経営において生産が組織化されているのに対して、社会的総生産が非組織的な状態にあるという矛盾である。この二つの矛盾がともに、恐慌を発生せしめるために必要であると同時にまったく十分な条件である」(41頁)「人間の欲望を充たす手段としての生産と、資本の創出における技術的契機としての、すなわち自己目的としての生産との間の矛盾が、資本主義経済秩序の根本矛盾である」(35頁)
ツガンは資本主義においては、それぞれの資本が市場目当てに生産を行なうために生産の不均衡が生じ、恐慌は不可避だというのである。このように恐慌の原因を部門間の生産の不均衡に求める意味において、ツガンの理論は“不均衡説”である。
社会的生産が非組織的であり、それぞれの資本が利潤獲得のために生産を行なうことは資本主義的生産の矛盾である。だが、ツガンは恐慌の原因を生産が非組織的であることによる生産の不均衡(しかも、素材的側面に一面化して)に求め他の矛盾を無視するのである。全般的過剰生産として現れる恐慌は、生産と消費の不均衡を表してはいるが、なぜ資本主義的生産において、恐慌が不可避であるのかは資本主義的生産が非組織的であるということを指摘しただけでは解明したことにはならない。それは過剰生産の現象を述べたにすぎないといえよう。
ところが、ツガンは社会的総資本の再生産を論じた『資本論』第二巻こそ恐慌を解明しているというのである。それは、第二巻における再生産論のツガン的理解の結果である。
◆ツガンの再生産表式
では、ツガンのいう第二巻の再生産論とはどのようなものか。
ツガンは、マルクスの再生産表式を最初から市場・販路問題の解明という視点から取上げている。その理由についてツガンは次のように述べている。
「市場をめぐる闘争が、現代経済生活の特徴となっている」(10頁)からであり、「現在の経済事情では、商品を生産することに困難があるのではなくて、それのために市場を見つけることが困難だから」(11頁)である。「市場は、現代生活のいろいろな糸が集まる結節点である」がそこでは「市場が生産を支配するのであって、生産が市場を支配するのではない」といった「印象をうける」(12頁)。そこで「現代における市場のこうした強い威力は、どこにその基礎があるのだろうか」(13頁)と。
こうしてツガンは「国民経済における市場の役割を解明する」(同上)といった視点から再生産表式を取上げているのである。
ところで市場の役割を解明するうえで「最も困難な点は、需要機構の分析にある」(同上)とツガンは言う。なぜなら物々交換の段階では「事柄が極めて単純に現れる」のであり、「各人の需要がその人の供給によって直接に、媒介なしに定められる」のであり、「需要の規模、大きさは、客観的な契機によって、供給の規模によって確定されている」(同上)。ところが商品生産が一般化された資本主義経済では、市場における需要と供給のうち「供給の規模は、物の形で交換に現れてくる商品の数量で定まる」が、他方需要は「供給とはまったく別の法則にしたがう、それ自身のなかに精神的一契機を、われわれの精神に根をもつ願望、欲望を含んでいる」のであり、「何かつかみ難いもの、不確定なものとして現れる」からである、と。
以上の問題意識に基いて、ツガンは再生産表式を市場の役割解明のために取上げているのである。
ここに明らかなように、ツガンの問題意識は、『資本論』第二巻のマルクスのそれとは根本的に異なる。マルクスおいては、資本主義において社会的総資本の再生産が行なわれていることを前提として、いかに再生産がなされるのかその法則を明らかにすることであった。したがって、再生産を撹乱する諸要因ははじめから排除されていた(価値どおりの交換を前提として、価値革命、信用、価格変動、外国市場などは捨象されている)。ところが、ツガンの場合には、供給と需要との関連が問題とされるのである(彼の場合には、需要を決定する要因として、購買者の主観=願望、満足度といった「効用価値」説に基礎を置いている)。
ツガンは、資本主義的経済では、生産の目的は物々交換の場合とは異なって、個人的消費ではなく、利潤の生産におかれる。そこで市場が生産を支配するという問題は、生産と消費との関連で論じられることになる。
再生産分析においては、資本主義的生産では生産部門の比例が保たれるのか、またどの程度までそれは可能であるかということが問題とされる。
◆恣意的な再生産表式
ツガンの表式を具体的みると以下のようである。
ツガンはマルクスの表式を「手本」として、以下の単純再生産表式、拡大再生産表式を作成した。但し、マルクスが社会的生産を生産手段生産部門と消費手段生産部門と二部門に分割したのに対して、ツガンは第U部門を労働者の消費手段生産に限定し、新たに第V部門として資本家の消費手段生産部門を設けている。以下の表式でpは不変資本、aは可変資本、rは剰余価値に該当する(正確に言えば、ツガンは後に触れるようにマルクスの剰余価値論を否定しているので、不変資本、可変資本、剰余価値という用語は用いていない。ツガンはそれぞれ、生産手段、労賃、利潤という言葉を使っている。しかし、ここではマルクスの表式との比較のために、一応不変資本、可変資本、剰余価値という言葉にしておく)。
第1表式 社会的資本の単純再生産
T 720p+360a+360r=1440
U 360p+180a+180r= 720
V 360p+180a+180r= 720
(資本の有機的構成は各部門とも2:1、剰余価値率100%)
第2表式 拡大再生産
(初年度)
T 840p+420a+420r=1680
U 420p+210a+210r= 840
V 180p+ 90a+ 90r= 360
(第2年度)
T 980p+490a+490r=1960
U 490p+245a+245r= 980
V 210p+105a+105r= 420
(第3年度)
T 1143・1/3p+571・2/3a+571・2/3r=2286・2/3
U 571・2/3p+285・5/6a+285・5/6r=1143・1/3
V 245p +122・1/2a+122・1/2r= 490
ツガンは上記の単純再生産および拡大再生産の表式から「次のきわめて重要な結論を引き出すことができる」としてこう述べている。
「それは、資本主義経済においては、商品の需要が社会的消費(個人的消費のこと――引用者)の総規模とは、ある意味では無関係であるという結論、すなわち、『常識』の見地からすれば、いかに不条理に見えようとも、社会的消費の総規模が縮小しながら、それと同時に、商品に対する社会的総需要が増大するということがあり得るということである」(33頁)
しかし、ツガンの表式が発表された当時、この表式では社会的生産の規模の拡大と個人的消費の縮小が同時に生ずるのは、単純再生産から拡大再生産への移行が行なわれる時だけであって、これ以降の拡大再生産では、生産の拡大と消費の拡大が共に生じるようになっていることをカウツキーに指摘された。
そこで、ツガンは、個人的消費の絶対的縮小のもとで、生産規模が増大する表式を作った(『国民経済学から見た資本主義制度の崩壊』1904年)。それが以下の表式である(有斐閣、『資本論体系4』、449頁より)。
第3表式
(初年度)
T 1632p+544a+544r=2720
U 408p+136a+136r= 680
V 360p+120a+120r= 600
(第2年度)
T 1987.4p+496.8a+828.1r=3312.3
U 372.6p+ 93.2a+155.2r= 621
V 360p + 90a +150r = 600
(第3年度)
T 2585.4p+484.6a+1239r =4309
U 366.9p+ 68.9a+175.5r= 611.3
V 360p + 67.5a+172.5r= 600
この表式は、次の前提の下に作成されている。
(1)同一年度においては、各部門とも資本の有機的構成と剰余価値率は同じとする。
(2)毎年第V部門の可変資本を25%減らす。
(3)第V部門のaとrの合計240と生産物価値の合計600は毎年変らない。
(4)今年度の第T部門と第U部門の総生産物価値の比率を次年度の資本構成比率に等しくする。
ツガンは表式をマルクスの表式を「手本にして」作ったといっているが、ツガンの再生産表式はマルクスのそれとは根本的に異なっている。
その第一は、資本家の消費手段生産部門を第V部門として独立させていることである。マルクスの再生産表式においては、労働者の剰余労働の搾取によって生活している資本家の個人的消費分は第U部門のなかに含まれている。消費手段の大部分を消費するのは生産を担っている労働者階級である。マルクスは資本家の消費手段としての奢侈品の生産に触れる場合でも、第U部門の付随的なものとして取り扱っている。
なぜ、ツガンは第V部門として資本家の消費手段生産部門を独立させたのだろうか。ツガン自身は、これについて、マルクスの再生産表式の「若干の変更」で自分の「独創」とよべるほどのものではないといっている。しかし、ツガンが第V部門として資本家の消費手段生産部門を独立化させたのは、労働価値論を否定していることの結果であるといえる。
資本主義的生産に関してツガンは、「私はマルクスの剰余価値説を基礎としていない。私の考えでは、剰余生産物――したがって賃料――の創出については人間の労働力と死んだ労働手段とにまったく違いはない。われわれは、機械にも可変資本としての人間労働力と同じ権利を与えるべきである。どちらも剰余生産物を生産するからである」(26頁)と言っているように、労働価値説(したがって剰余価値)を否定して、労働者も機械も同じ役割を果たすのだと主張する。
◆労働価値説の否定
さらにツガンの価値説を詳しく見ると以下のようである(翻訳されている01年のフランス語版『英国恐慌史論』では、価値論の詳しい展開がなされていないので、以下は、小林賢齎『再生産論の基本問題』による。カギ括弧内はツガンの言葉)。
まず、ツガンは、労働を価値実体とする価値説を「絶対的労働価値説」とよび、そこには「価値」と「費用」との混同があるとする。ツガンによれば、経済の「歴史的範疇」としての「価値」とは、「効用価値」説を唱えたカール・メンガーの言うように、ある物を人間の欲望充足の手段として評価するときにおいて生じるものであり、従ってそれは財の主観的に評価された効用であり、従ってその大きさは「限界効用に等しく」、そして「価格」とは消費者の主観的に評価に基いて評価された場合の財の交換比率であり、貨幣経済のもとではそれは財の購入に必要な貨幣額である。ツガンにおいて「価値が価格に客観化される」というのはこうした意味においてである。
他方人間労働力の支出としての労働は「論理的範疇」である「絶対的費用の唯一の実体」ではあるが、「価値」の実体とはならず、従ってまた価格としては客観化されないという。こうしてツガンは「効用価値」説にたち、労働が価値を形成することを否定している。
ツガンにあっては、ロードベルタスにならって、「絶対的費用」を「相対的費用」(資本家の支出して考察した経営費)から区別する。彼によると「相対的費用」とは、「価値の属性」から派生したものであり、「あらゆる財が、目的ではなく手段として考察される場合」に現れ、この手段とされた財は「経済犠牲の一要素」としてその手段とされた財はその目的達成の「費用」を形成する。ところでツガンは、労働を労働力の支出として捉えるのではなくて、「労働支出」としてのみ捉えるために、「絶対的費用」としての「労働」は「労働費用」すなわち労賃と同一視され、「労働費用は、ただ資本支出としてのみ、資本主義的経営の費用要素の一つとしてのみ現れ……、資本家的観点からは、労働者は他のすべての生産手段と同様に、一つの生産手段であり、資本の一形態である」として、剰余価値を形成する労働の性格を否定する。ここからツガンは利潤を「生産過程における財数量の増大として捉え、この「財貨増大の窮極の原因」を「生きた労働と全く同じく自然及び資本の賜物」だとする。こうして彼は、「相対的費用」においては「労働」と生産手段とが同列となり、また剰余価値形成については、「二種の資本が……同じ役割を演じる」のであるから、可変資本及び不変資本への資本の分割は放棄すべきである」と結論する。他方、剰余生産物が生産手段の所有者に「もっぱら所有に基く所得」として帰属する場合に、ツガンはロードベルタスにならって、レント(Rent=賃料)と名づけ、この剰余生産物が貨幣化された場合には「剰余価値が生ずる」と言う。
労働者も生産手段(機械の消耗分と原材料)も共に一つの生産手段であり区別されないといするこうしたツガンの立場によれば、労働者の替わりに機械が導入されるようになれば、労働者の消費手段を生産する第U部門は重要性を持たなくなる。資本の有機的構成が高まり、労働者階級の数が相対的にも絶対的にも減少し、総生産における第U部門の生産の比率ますます縮小していき、資本家の消費手段の生産だけが残ったとしてもよいことになる。他方、資本主義である以上、資本家のための消費手段は確保されなくてはならない。こうしてツガンは、資本家の消費手段生産部門を第T、第U部門と並んで第V部門として独自に設定しているのである。
つまり、ツガンが第V部門を設けたのは、利潤の源泉としての剰余労働を否定して、労働ばかりではなく機械も利潤を生みだすとして、労働者と機械を同一視する彼の立場を表しているのである。
第二は、拡大再生産表式をつくるためにツガンが設定した前提についての問題である。
ツガンの四つの前提は、労働者の個人的消費が減少しても、社会的総生産の規模を増加させることは可能であるという彼の主張を証明するために設けられている。ツガンの再生産表式は、一応、それぞれの年度の各生産部門では有機的構成、剰余価値率は同一になるように作られている。しかし、ある年度の第T部門と第U部門の生産物量の比率をその次の年度の資本の有機的構成比率によって決めるという(4)の前提条件は、まったく恣意的なものである。ある年度の蓄積結果、その翌年度の有機的構成及び生産量が決まるのであって、翌年の有機的構成比率から第T、第U部門の生産量が決まるということはありえないからである。
ツガンの再生産表式が恣意的なものであることは、さらに生産物の部門間の交換関係を無視した式であることにも現れている。すなわち、初年度の労働者にとって収入となる可変資本は、T(544a)+U(136a)+V(120a)=800であるが、労働者の消費財生産部門であるUの生産額は680にすぎない。労働者が生活していくためには800の消費手段の生産が必要であるが、実際に生産されるのは680だけであり、120不足している(同様に第2年度は59、第3年度は9・7不足)。
すなわち、ツガンの表式では労働者の消費手段は不足しているのであって、その年度の社会的生産そのものが成り立たないのである。
マルクスの再生産論は、社会的資本の再生産の法則を明らかにすることを課題としている。現実の資本主義は、絶えざる動揺の中にあり、生産手段の過剰(あるいは過少)、消費手段の過少(あるいは過剰)が生じるであろう。しかし、資本主義が存続している以上、再生産が行なわれているのであって、再生産論は、絶えざる動揺と不均衡の中で貫徹されている社会的資本の再生産がどのような法則をもって行われているかを明らかにすることを解明することを課題としているのである。
すなわち、諸資本の再生産・流通が、年々の生産物が価値の側面において(不変資本価値、可変資本価値、剰余価値)、そしてまた素材の側面において(生産手段、消費手段)いかに行なわれるかを明らかにすることが主要な課題である。マルクスはこれついてこう述べている。「すでに目の前にあるのは次のような問題である。すなわち、生産中に消費される資本はどのようにしてその価値を年間生産物によって補填されるのか、また、この補填の運動は資本家による剰余価値の消費および労働者による労賃の消費とどのように絡みあっているか、である」(全集二巻、483〜4頁)。再生産表式はそれを数式で表したものである。
したがって、部門間の交換関係を無視して、労働者の消費手段が生産されないようなツガンの再生産表式は、資本主義における社会的再生産をあらわすものではないのである。
にもかかわらず、ツガンは、この表式をもとに後にその主張を一層極端な形で次のように述べた。
「すべての労働者がたった一人になるまで消滅し機械によって置き換えられたとしても、このただ一人の労働者が巨大な量の機械を運転し、それでもって新たな機械を――また資本家の消費手段を――生産するであろう。労働者階級が消滅してもこのことは少なくとも資本の価値増殖過程を撹乱することにはならない。資本家は消費手段の量を少しも減らすことなく取得し、生産された年間の総生産物は、次年度の、資本家の生産と消費によって実現される」。すなわち「社会的生産の比率的配分があれば、社会的消費の減退とそれ自体が過剰生産物を生み出すことにはならない」(『英国恐慌史論』フランス語版、1913年)
ツガンは先にみたように、過剰生産(=恐慌)の原因を部門間の不均衡に求めていた。部門間への生産物の配分が過不足なくなされ、均衡が維持されるなら、生産は拡大しつづけることは可能であるが、利潤を追求する無政府的生産である資本主義においては不均衡は不可避である、従って資本主義では全般的過剰生産(=恐慌)は避けられないというのが、ツガンの主張であった。しかし、労働者階級が消滅しても、資本は資本家の消費を減少させることなく生産を拡大することが可能であると言うことによって、事実上、資本主義の永遠の発展を主張していることになる。
「合法的マルクス主義」者として出発したツガンは、階級闘争の激化の中で、資本の弁護人としての側面をより強く打ち出すようになっていっていった(1905年の革命当時カデット党員であった彼は、17年のロシア革命後は、ウクライナ民族主義者の反革命運動に参加、18年にはキエフに樹立された反革命政府の蔵相に就任、19年死去)。資本主義の円滑な進行、永遠の発展が可能的あるかのような主張は、労働者の革命運動に敵対し、資本の勢力に加担していった当時のツガンの立場を反映しているといえよう。
『海つばめ』第1013号(2006年3月26日)
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