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ブルジョア的俗論と折衷と
労働価値説排撃に執念――ベーム・バベルク「効用価値」説
(鈴木研一)


 ベーム・バベルク(一八五一〜一九一四年)はオーストリア学派と総称される「効用価値」学派の中心人物だが、『資本論』学習者にはマルクス批判家としての方が知られているのではなかろうか。何故、今バベルクを取り上げるかと言えば、最近地区の『資本論』学習会で新しく参加した若い人たちを主な対象として「労働価値説の意義」について検討した際、バベルクと宇野の“理論”(冒頭の商品=「流通形態」論)に関連して若干の議論があったからである。

◆今、何故バベルクか

 筆者は、レジュメでベーム・バベルクの著『カール・マルクスとその体系の終結』(一八九六年)から引用して、マルクスの労働価値説は“循環論証”に陥っているとの批判――商品は労働生産物に限らないのに、労働生産物だけを取り上げて二商品の共通物は労働だというのは循環論だ云々――に反論し、次のように論じた。

 「マルクスが冒頭の二商品の対置から価値の実体を労働であると説いたのがそもそも間違いで、“流通形態”として把握しておけば良かったといった宇野の主張が実はヴァベルクへの追随であり、迎合であることが分かるだろう。彼らに共通しているのは、マルクスが分析する商品があらゆる派生的な商品も含めた商品一般でないこと、そのように無前提に対象を広げなかったことの意味を理解していないということである」(筆者レジュメより)

 「……土地だの立木だの流水だのと労働生産物ではなく本来商品ではなかったものまで資本主義では商品化しているのだから、これらすべてに共通する属性を求めろ(そんなことを言えば、資本主義では例えば、政府高官の地位も女性の性も“少女”や子供自身も“商品”化しているのだから、それらに共通している属性も明らかにしなければならないことになる)、それは労働ではありえないと主張することは、みそもくそも一緒にする非合理的で非科学的な“方法”であり、そうした“分析”は無内容なおしゃべりに帰着するしかないのである」(同)

 これに対して、新参加者のK君は、宇野派はマルクスの不十分な点を「補足した」のでは? バベルクの説を「無内容なおしゃべり」と決めつけるのは行き過ぎではないか、と主張した。

 もちろん筆者は、宇野派の常套句を“真に受け”、バベルクの主張に追随するのは問題だとして反論したが、K君自身は何か根拠を挙げて自説を展開するわけではなかったので、それ以上議論は発展しなかった。しかし、筆者自身はバベルク批判をもっと深める必要を感じ、以前古本屋で見つけたバベルクの著作『経済的財価値の基礎理論――主観的価値と客観的交換価値』岩波文庫、昭和十二年発行)の批判を試みることにした次第である。

 前置きが長すぎた。本論へ入ろう。

◆使用価値への固執

 バベルクは、「価値」には「主観的価値」と「客観的価値」があるが、これまでの経済学は、「主観的な使用価値を科学的研究に不適当として斥け、徹頭徹尾客観的な、いわゆる交換価値のみを対象」としてきた(同書一三頁、以下同書からの引用は頁数のみとし、旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた)と批判し、本書の三分の二近くも費やして「主観的価値」、つまりは使用価値について延々とお喋りを繰り広げる(「客観的交換価値」についての叙述は、これは実は価格論で需給の諸要因や相互作用を論じているに過ぎない)。

 周知のように、マルクスは『資本論』冒頭で「商品の二つの要因」としてまず使用価値を挙げた後、「使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の」として、直ちに価値(交換価値)の研究に進んでいる(国民文庫版一、七三頁)。資本主義の「経済的運動法則」を解明することを課題としたマルクスにとって、重要なのは価値(交換価値)の研究であり、使用価値は商品が商品であるがための前提にすぎなかったのであるが、バベルクにとっては、使用価値を――人間とその欲望を――あれこれ詮索する方がはるかに重要なのだ。生産(関係)はどうでもいいのであり、消費が(欲望が)重要だ――これが彼の立場である。これがブルジョア的個人――生産するのではなく、専ら消費する寄生的個人――の立場であることは言うまでもない。

◆「主観的価値」のお喋り

 バベルクは「一切の財は例外なしに――財の概念から考えただけで既に――人間の幸福に対してある種の関係を持っている。……[そのうち]下位の段階を効用と呼び、上位の段階を価値と呼ぶ」(二三頁)として、「価値」と「効用」を区別しなければならないという。彼の例で言えば、井戸水は喉の渇きをいやすという「効用」を持っているが、それが人間の幸福にとって不可欠である場合――たとえば、砂漠を旅してきた人間がそれをのまなければ死んでしまうような場合――にのみ「価値」を持つというのだ。

 彼は「価値」概念の“深化”を次のように跡付ける。「ある人によれば、価値とは認められた、人間の判断によって評価された効用であり、他の人によれば、効用の程度であると言われていた。しかし、遂に価値は人間に対する財の重要性と定義されるようになった」(二七頁)、「価値とはある主体の幸福目的に対する一財、叉は複合財の重要性である」(二九頁)。

 バベルクは、さらに「主観的価値」の“考察”を進める。まあ、聞いてみよう。

 「幸福の関係の下位の段階、即ち単なる効用は一切の財に例外なしに具わるものであるが、上位の段階たる価値は財の一部にしか与えられない。したがって価値が生ずるには、効用の外に希少性が加わらねばならない。もっともそれは、絶対的希少性ではなくて、当該の種類の財の需要に比較した相対的希少性である。一層精密に定義すれば、財が価値を有するのは次の場合である。即ち同種の財の処分し得べき総量が乏しく、それによって満足さるべきはずの欲望充足が不十分であるか、辛うじて充足される程度にしか存在せず、したがってもし評価の対象とされている部分の財がなくなれば、最早不足を来すがごとき場合である。これに反して財が価値を持っていないのは次の場合である。即ち現存する財が過剰である結果、それによって満足さるべきはずの一切の欲望はことごとく完全に充足されるのみならず、なおそれ以上に財が余っているが、しかしその過剰部分には最早何らの用途が見出されざると共に、評価の対象たる当該の財、又はその複合財がなくなっていても、そのために欲望の一部の満足が妨げられるがごときことのない場合である」(三〇〜三一頁)

 こうして彼は「主観的価値」の規定に「希少性」を持ち込むことにより、その大小を論じることへと“移行”する。

◆「限界効用」と価値の大小

 彼は次に「限界効用」なる“概念”を持ち出す。

 「かくして我々の研究の主要な目的に到達した。財の価値の大小は同一種類の財の、処分し得る総量によって充足された欲望の中で、最も重要でない具体的欲望、もしくは部分的欲望の重要度に応じて測定される。それ故に財価値の尺度となるのは、その財によって与えられる最大の効用ではなく、又その種の財によって与えられる平均効用でもなくて、その財、もしくは同種の財が具体的な経済状態において合理的に使用される時に与えられる最小の効用である。爾後冗漫な叙述を省略するために……、最後にこの経済的であり得る最小の欲望の限界に立つ効用を、簡単に財の経済的限界効用と呼ぶならば、財価値の大小の法則は次の極めて簡単な公式をもって表される。財の価値はその財の限界効用の大小によって決定される」(五四〜五五頁)

 特徴的なのは、彼が「限界効用」の大小を説明するときに、“需給の法則”を持ち出すことである。バベルクは、商品の価格が「需要供給」の法則によって規定されるという「経験法則」を認めるのであるが、これを「限界効用」の大小あるいは価値の大小を決める要因として“導入”するのだ。

 「……真珠やダイヤモンドは実際には量が乏しいために、それらに対する欲望は極めて小部分しか満足されないが、その満足される範囲内では、その限界効用は比較的高いに反して、幸いにもパンや鉄、水や空気は一般にはなはだ多量に手に入れることができるために、それらに対する比較的重要な欲望はすべて確実に満たされ、且つその一つ、もしくは具体的な一定量の処分に対しては具体的欲望はわずかの関係しかないか、又は全然無関係である。もちろん包囲された都市や、砂漠の旅行の際におけるがごとく、異常な事情のもとで水やパンが乏しくなった時には、そのわずかの貯えでは飲食に対する最も重要な具体的欲望が不足がちにしか充足されなくなり、したがって限界効用は急騰すると共に上の原則によって、普通には軽視されるこれらの財の価値も急騰する――この結果は明らかにかかる場合にありふれた日用品に通例支払われる法外な値段によって完全な具体的証明を与えられる。価値の大小を制約された効用の大小に基づかしめる理論に最初は矛盾するかに見えるこれらの事実は、子細に観察すれば、その事実の立派な証明であるが、これに反して種類価値やヒルデブランドの平均価値等の理論はこの事実の説明にいかに無能であるかは改めて指摘するまでもない」(六〇頁)

 こうしたもったいぶった“論理”のうちに、彼の本性が暴露されている。彼はここでは、需給関係の逼迫から価格上昇を説明し、そこから「限界効用」あるいは「価値」の上昇を説明しているのだ。彼の言っていることは、客観的には、「価値」は価格によって規定され、その大小あるいは変動は需給関係によって規定されるという価値論なき価格論、典型的なブルジョア経済学的俗説にすぎない。彼は「価値」の大小を「価格」変動――需給関係から導き出しつつ、「価格」の急騰は「価値」上昇の現われだと逆に論じる。まさにこうした詐欺師的手口こそ、彼の常套手段なのだ。

◆「生産財」の価値は生産物価値によって規定される?

 バベルクは「主観的価値」を説く時、もっぱら消費財について論じてきた。まさにそこに、生産ではなく消費、社会における生産とそこにおける人間の社会的関係(生産関係)ではなくブルジョア的個人の消費に関心が集中している彼の立場が現われているのだが、その彼も生産財の価値規定を避けて通るわけにはいかない。だがそこで、彼はひとつの困難に直面する。何故なら、生産手段、彼の言う生産財は直接には個人の消費対象とはなり得ないからだ。彼はこれまでは、例としてはパンや小麦、ダイヤモンドなどを挙げてきたが、彼の言う「主体」(ブルジョア的個人)もさすがに鉄や石炭は食えないし、飲むこともできない。また鉄や石炭なくして消費財を作ることはできない。「さあ、ここがロドス島だ、ここで跳べ」だ。

 バベルクは、ある「享楽財」(A)が生産財(G2)から生じ、この生産財が他の生産財(G3)から生じ、以下同様にG4、G5と連なっていると想定して、次のように述べる――「連続的に次の財に転化して行く一切の高順位の生産手段群の存在によって左右されるものは、同一の幸福の獲得、即ちその最後の生産物の限界効用である」(一〇九頁)から、「生産手段の価値がその生産物によって決定される」ことになる(一一一頁)、例えば「生産手段たる『葡萄園』の価値は、その生産物たる『葡萄酒』の価値によって支配される」(一一二頁)。

 かくして、彼は“見事に”生産手段の価値を(最終生産物たる)生産物の価値から説明することに“成功”したと主張するのだが(この場合には「価値」は「主観的価値」つまり使用価値の意味で使われていることに注意)、他方では彼は「費用の法則」、つまり生産費が生産手段、したがってまた生産物の“価値”を決定するという法則をまるっきり否定することもできない。というのは、彼自身が「価値」を――「効用価値」の大小を価格変動から説明したように――しばしば「交換価値」(価格)から説明するという使い分けをしている(あるいは「価値」に「交換価値」を忍ばせる)からである。

 そこで、彼はいつもの流儀、折衷という“手法”を使う――「費用の法則は存在し、必要は現実に財価値の上に多大の影響を及ぼす。しかしながら費用の法則の支配は、より一般的な限界効用効用の法則の内部で、偶然の場合に関するものである」(一二三頁)。

◆労働価値説=「社会主義一派」への敵意

 バベルクは、従来の「経済学上の文献には大凡三つの価格法則が採用されている」として、「第一は財の価格の状態、もしくはその『交換価値』を需要供給の関係に帰し、第二は生産費に帰し、第三は、もっと特殊な方法で、生産『又は再生産』に向けられた労働量に帰せしめる」(一三五頁)とそれらを要約する。

 バベルクは、「これらの『諸法則』の中、最後のものは従来もしばしば完全に克服されたから、理論的根拠以外のものを根拠とする社会主義者一派以外には、最早ほとんど支持者がない」と切って捨てる。「費用の法則」も「第一に極めて重要な財の多くに明らかに妥当しない、特殊な価格法則たるに過ぎず、第二にそれの妥当性さえも、まず需要供給の法則に頼らねばならないから、決して独立の法則ではない」(同)。

 彼の結論はこうだ、「価格は実際――価格を現実に支配するところの――需要供給の関係によって常に費用に一致せしめられるが故に、且つその限りにおいて、費用の水準に置かれる傾向を持っている。それ故に費用の法則は右の需要供給の法則に帰するものであって、且つこの需要供給の法則こそはかくして本来我々の価格法則における認識の根底を構成するものなのである」(同)。

 かくして、バベルクのもったいぶった「主観的価値」論は、商品の価格は「需要供給の法則」によって決定されるという、最も陳腐で卑俗な現象記述に帰着するのだ。これは「労働価値」説を否定した価値論、あるいは価格論がどこに帰着するかのひとつの見本であろう。

 そしてまた、労働価値説に対する彼の敵意は、「効用価値」学説の階級的本性を暴露している。労働価値説を貫けば、それは当然にも剰余価値の源泉を、即ち搾取の秘密を暴露することになるのであり、だからこそ「効用価値」学派は――一般にブルジョア経済学の勢力は――労働価値説を「社会主義」と同一視し、躍起となって否定し、敵意を燃やすのである。

 もっとも、労働価値説=「社会主義者一派」の理論という彼の主張は、現代では「社会主義者一派」以外に一貫して労働価値説に立脚し、それを貫くことはできないという意味においては正しいと言えなくもない。それがバベルク理論の唯一の真実と言うべきであろうか。

『海つばめ』第1019号(2006年6月18日)


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