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富塚の「価値形態論」の根底
無意味な同義反復ではないのか
――購買者の価格づけを「価値形態論」に仮託

(林 紘義)


 富塚批判の一環として、富塚の価値形態論が批判の対象となったが、彼のこの理論――その根底――の評価をめぐって、我々の内部で議論が生じている。問題は、以下の富塚の理論をどう評価するか、それが正当か、そうでないかということである。富塚は次のように主張したのである。「A商品がその価値をB商品の使用価値によって表現する場合、『自分は価値としてB商品に等しく、いつでもB商品と交換できるのだ』ということによって、その価値を表現するのではなく、その反対に、『B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できるのだ』ということによって、かくしてB商品に自分すなわちA商品に対する直接的な交換可能性の形態を与えることによって、価値を表現する」。問題はこの文章をいかに理解するかであり、そこに何かまともで、合理的な内容があるか、である。

◆問題の根底

 そもそも、貨幣表現の問題とは、商品が貨幣(金)によって自らの価値を「表現する」――金のいくばくとして、つまり「円」「ポンド」「ドル」等々として――問題であり、商品の価値がなぜ、またいかにして金によって、その量によって、「価格」として「表現」されるのか、されなくてはならないのか、という問題である。

 我々は現実に商品の価値が「価格」として――つまり金により、そしてその量により――「表現」され、かくして商品交換が“つつがなく”行われていることを知っている、というより、その意味を反省することなく、当然のこと、何の不思議もないこととして日々経験している(もっとも“管理通貨制度”のもとにある現代は違っているが、このことは今は問題にしない)。

 しかし日常的に経験しているこのことは、反省して見るときわめて不可思議で、異常でさえあることがわかって来るのであって、この事実を理論的に説明するとなると、ブルジョア諸君の口からは、全くちんぷんかんぷんで不合理なものしか出てこないのである。

 そもそも、なぜ、商品の価値が、その大きさが一定の金量として示されるのか、され得るのか。この場合の金つまり貨幣とは何なのか。

 マルクスが提出しているものは、この問題への回答なのであるが、この回答は、“商品”の本質を、その歴史的な本性をよく知りえたマルクスのみが与えることができたのである。だから、価値表現の問題、つまり商品の価値形態(その最も現象的な形態が価格形態である)の問題を学ぶことは、商品とは何か、それを生産する社会的労働の性格は何なのかを学び、理解することでもある。

 そしてマルクスは貨幣による商品の価値を表現するという問題は、商品の価値関係から生じてくる、商品相互の関係の問題であり、その発展した形態であると説明し、商品相互の最も簡単な関係、つまり二商品の関係の中に、発展した商品の価値表現の根底を、その“秘密”を見出しているのである。

 二商品の関係はまず何よりも、それらが相互に等しいものとして交換されるということであり、マルクスはこの関係を分析して、価値の概念を提示している、つまり商品の価値とは、それに「対象化」されている抽象的人間労働であるということを明らかにしている。

 そしてマルクスはさらに、この商品の交換がいかになされるのかを問題にし、「価値表現」の課題を検討するのだが、それは、商品の価値関係が貨幣を生み出すことによってのみ、そしてその貨幣によって商品価値が「表現」されることによってのみ、“滞りなく”行われていることを明らかにするのである。

 問題になっているのは、貨幣とは何であり、なぜ、いかにして貨幣によって商品価値が表現され得るのか、そして貨幣を媒介にして商品交換が“滞りなく”行われ得るのか、ということであり、その理論的な説明なのである。

 マルクスはその“秘密”の根源を、二商品の価値関係の中に“発見”したのである。二商品が価値関係の中で演じる、それぞれ違った役割の中に、この問いの答えを探りだしたのである。

 二商品の等置関係はまた同時に二商品が違った役割を演じる、価値相互の関係でもある。つまり、ここでは一方の商品の価値が、他方の商品によって、その使用価値(自然体)によって「表現されている」という関係でもある。つまり亜麻布二〇エレの価値は上着一着に等しいという形で「表現」されているのである、あるいはこうした関係を含んでいるのである(これは、亜麻布二〇エレは金のいくばくに等しい、という関係と同等であり、またそのいわば“原形”である)。

 そしてマルクスは、こうしたことがいかにして可能なのかを、そのメカニズムを分析し、解明するのである。すでに獲得した(一節、二節で)商品価値の概念を前提にしながら、そこから一歩もはずれることなく、このメカニズムを説明しているのが、マルクスのいわゆる「価値形態論」である(『資本論』一巻一篇一章三節)。

 マルクスは価値表現の根底を、価値関係の中で演じる、二商品の異なった役割の中に見出している。つまりそこでは、A商品はB商品を価値の象徴、価値そのものとして規定(もしくは措定――この言葉の方が「規定」よりもすっきりしているように思われる)することによって、つまりB商品をそのままで(自然体のままで)価値を体現しているものとして(マルクスの言葉を借りれば「価値体」として)措定することによって、そしてそのB商品の“体”を借りて、自らの価値を表現する、というのである。

◆意味不明の富塚理論

 さて、富塚はマルクスの理論に似せて(少しも似ていないのだが)、A商品が「B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できるのだと言う」ことによって、B商品に「直接的交換可能性の形態」を与え、かくして価値を表現する、と主張するのだが、しかし「B商品は価値としてA商品に等しいと言う」とはどういうことか、またそれによって「いつでもA商品と交換できるのだと言う」とはどういうことか、我々にはさっぱり分からないのである。

 「B商品は価値としてA商品に等しい」ということは、すでに前提であって、そんなことをA商品がわざわざ「言う」必要など全くないのである。すでに両者は価値物として、つまり商品として規定されている、というのは、問題は二商品の価値関係だからである。だから、ここでA商品がB商品に対して、おまえは価値としておれに等しいなどと「言う」はずもないのであり、またそんなことを言っても何の意味もないのである。

 もしこうした文章がいくらかでも意義を持ち得るとするなら、「価値として等しい」ということが質的な意味でなく、量的な意味である場合だけであろうが、富塚ははたしてそうした意味でこのわけの分からない文章を書いているのであろうか。

 A商品は価値関係の中で、B商品を“価値体”として措定し、そのB商品の体を借りて、自らの価値を相対的に表現する、しかしこのことは、A商品がB商品に対して「価値としてA商品(自分)に等しい」と言うことではない。そんなものこそ、A商品のひとりよがりであり、勝手な放言ではあっても、価値表現の論理とは何の関係もないのである。

 まして、A商品がB商品に対して、「価値としてA商品(自分)に等しい」がゆえに、「いつでもA商品(自分)と交換できると言う」とはどういうことか。ここにあるのは、無意味な同義反復――B商品も価値であるなら、同じく価値であるA商品と「いつでも」交換できる云々――以外の何ものでもないだろう。これがB商品の等価形態としての措定であり、価値表現のメカニズムもしくは論理だと言われても、我々としては、一体どこに、どんな「価値表現」の論理があるというのか、そんなものは一切見出すことはできないと言うしかない。

 そしてまた富塚は、A商品が、「B商品は価値としてA商品(自分)に等しい」がゆえに、「いつでもA商品(自分)と交換できると言う」ことによって、B商品に「直接の交換可能性を与える」(かくして、価値表現が行われる)と主張するのだが、これは一体どうことであろうか。

 問題になっているのは、商品の価値関係の内部における、商品の取る価値形態であって、「交換可能性」自体ではない。二商品は商品であるかぎり、「交換可能性」(つまり価値存在)はその意味では前提されているのであって、もしある商品(B商品)がこんな形で「交換可能性」を獲得できるというのであれば、これは「交換可能性」を商品の価値関係を超越した、何か超歴史的なものに祭り上げることになり、貨幣はそのものとして「直接的な(つまり普遍的な)交換可能性」をもつようになるという、ブルジョア的な妄想に接近しかねないであろう。B商品がA商品に対して「直接的な交換可能性」をもつようになるのは、それがA商品によって等価形態の地位を押しつけられたからであり、ただその限りのことでしかないのである。

 だからこそ、商品生産社会の外では、金もまた「直接的な交換可能性」を失うのである。A商品がB商品を通して価値を表現するからこそ、その限りで、B商品はA商品に対する直接の交換可能の形態を得るのであって(つまり、これは等価形態に置かれた商品の特質である)、この関係の外では、つまりA商品の「措定」なくしては、B商品は直接の交換可能な形態を持たないのである。

 何か、それぞれ「使用価値」から出発するのだから、A商品はB商品を自らに対置することによって価値物にすると言える、といった富塚弁護論も出されたが、しかし商品の価値関係は、「使用価値」に商品の規定性を与えるということ、まだ商品ではないもの(使用価値)を商品として規定するということとは別である。

 商品の価値存在はすでに前提されているのであって、マルクスが語っているのは、その上での二商品の価値関係であり、二つの使用価値の関係ではない。単純な商品、歴史的にも端緒の商品の分析ではなく、現実の商品の分析だ(そうでなくてはならない)と息巻く人々が、「使用価値」相互の関係つまり全くの物々交換の関係にまで理論的に“遡行”してしまうなら、それは“行き過ぎ”であり、自己矛盾というものであろう。

 問題になっていることは、商品(価値存在)への、使用価値の転化自体ではなく、商品の(A商品の)価値表現の問題である。いわゆる「周り道」の論理も、この中で言われているにすぎない。「主体」はA商品(亜麻布)であって、B商品(上着、つまり貨幣の端緒形態)ではない、しかるに人々は反対に、ここでも(ブルジョア現実社会と同様に)「主体」は、つまり主人公はB商品であると考えるのであり、考えたいのであるが、そんな人々は自分がどんなに貨幣の“物神崇拝”にとらわれているかを、その「キラキラ輝く」表面性に幻惑されているかを反省すべきなのである。

 貨幣が意義をもちえるのは、それが価値をもっている(付与された?)からではなく、その形態ゆえにすぎないということ、そして貨幣はその形態さえも諸商品の共同の働きよって与えられたものにすぎないということ、そのことを反省しないときには、貨幣に対する物神崇拝が、つまり根拠のない幻影が現れ、増幅されるのである。

 しかしそもそも、「A商品はB商品に、自分に対する直接的な交換可能性を与えることによって、価値を表現する」とは、どういうことであろうか。

 むしろ反対に、A商品はB商品を価値そのもの(“価値体”、価値の実現体)として措定することによって、初めて自分の価値を表現することができるのであって、これはB商品に「直接的な交換可能性」もしくはその形態を与えるということとは別であろう。B商品が直接的な交換可能性を得るのは、結果であって、B商品が等価形態に置かれたからであり、ただその限りでのことにすぎない。

 B商品を等価形態として措定するという媒介もしくは契機なくして、こんなことを主張することは途方もないことに思われるが、富塚はこの媒介を実際には、無視して荒唐無稽なことを言い始めるのであるが、まさにそこに富塚の価値形態論のぺてんがあるように思われる。

 「直接的な交換可能性を与えることによって、価値を表現する」といった観念も理解不能である。商品の価値関係は「直接的な交換可能性を与える」のではない、そしてそれによってA商品の価値が表現されるということではない。A商品がB商品を「価値体」として措定するということが、A商品の価値表現の契機であるが、同時に、このことはB商品を等価形態に、つまり「直接的な交換可能の形態」に置くのである。B商品を等価形態に置くということは、確かにそれで価値表現を可能にするということであるが、しかしむしろB商品そのものが、その自然形態が価値の“実現形態”として、価値の“かたまり”として措定されるということが重要なのである。

 A商品がB商品によって価値が表現されるとするなら、それはA商品とB商品の価値関係の中で、B商品が“価値体”として措定されることによって、である。“価値体”として措定さるということは、確かにB商品にA商品に対する「直接的な交換可能の形態」を付与するが、しかしそれはA商品が、B商品でその価値を表現するからこそ、B商品は等価形態に、したがって貨幣になるのである。しかしそれはA商品がそうならないからであり、ならない限りにおいてである。それらは相互に排除しつつ、相互に規定し合う関係である。

 B商品の「直接的交換可能性」は、貨幣においてはまさに決定的な属性として目に映って来るのであり(おカネなら、何でも買える等々)、だからこそ人々の貨幣物神崇拝を生み出すのであるが、しかし我々にとって重要なのはむしろ、貨幣のこの属性に対する反省的思考なのである。

 B商品が「直通的な交換可能性」の形態を与えられるということばかりを見て、それが何か商品相互の関係から自立した金(貨幣)そのものの属性と理解し、金をもてはやし、そうした幻想を「価値形態論」の課題に押し込めようとすることは、貨幣の“神秘的な”力――カネで買えないものはないと豪語したホリエモンの言葉を想起せよ――に溺れる、一種の貨幣物神崇拝論でしかない。

 そもそもA商品が現実に貨幣に転態し得るとするなら、それはすでにA商品が貨幣形態をもっているからであり、自らの価値を観念的に貨幣で表現しているからであって、貨幣の何か超越的な力(普遍的な?「直接的交換可能性」?の力、能力)によるものではない(宇野学派なら、“アプリオリの”貨幣の「購買力」といったものを、ブルジョア学者とともに持ち出すだろうが)。そんな風に理解するとしたら、価値形態論の、つまり商品の価値表現の理論はだいなしであり、何の意味もないということである。

◆富塚理論の“秘密”?

 富塚の理論が意味不明の、ばかげたものであるのは一見して明らかだが、問題は、この空論によって、富塚が何を言おうとしているか、である。

 冒頭に見た富塚の文章自体は、全く空虚な意味不明のおしゃべりであって、「価値形態」つまり「価値の表現」の問題については何ごとも語らないと同様なのだが、しかし我々の関心を呼ぶのは、富塚は一体どんな現実を頭において、こんなたわ言をつらねているのか、ということである。

 おそらく、富塚の意識に浮かんでいるのは、商品を市場にもってきた生産者たちや販売者たちが、自分の商品に「価格をつける」といった、実際の行為そのものではないだろうか。彼が、こうした市場における現実を頭において、A商品の持ち手が、つまり販売者が、貨幣の持ち手、つまり購買者に「B商品(貨幣)は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できる」と宣言するのだ、と解釈しているのではないだろうか(他方では、これは買い手の方からも言える、というのは、市場では買い手の方から「価格をつける」場合も、いくらでもあるからである)。

 このように解釈しなくては、富塚の文章は全く意味不明の空辞として現れるのであって、我々は、それを合理的に理解することは決してできないのである。

 だから、富塚にあっては、B商品の「直接的な交換可能性」とは、A商品が価格を付けられることに対応して言われるのであり、また「価値表現」とは販売者が自分の商品(A商品)に「価格を付ける」という行為そのものである。確かにこれもまた「価値表現」と言えなくもないではないか。

 かくして“経済科学”は、このブルジョア社会の最も表面的な現象の、最も卑俗な“叙述”にすり替えられ、おとしめられるのであるが、そんなものは、このブルジョア社会について、その根底の諸関係について、何ごとも明らかにしないのである。

 しかし、そうだとするなら、富塚はなぜ、A商品は「自分は価値としてB商品に等しく、いつでもB商品と交換できるのだと言うことによって、その価値を表現しない」などと叫ぶのか。販売者が自分の商品に「価格をつける」という行為は、果たして自分の商品は「価値として貨幣に等しい」と言うことではないのか。そのように書いた方が、富塚としても、よほど一貫しており、すっきりしているのではないのか、富塚がそう書かない理由は何なのか。いくらかでも“マルクス主義理論”を装うことによって、読者を混乱させ、また同時に自己のあまりに卑俗で、あまりに俗流的な理論を――おっと違った、たわ言を――ごまかそうという悪しき意図からでないとするなら、富塚の動機は何なのか。

 富塚は、買い手の側から言ったのでは、一方的な宣言になる、それでは「周り道」にならない、といったことを言いたいのであろうか。商品を売るのは販売者の方であって、購買者ではないのだから、価格を「付ける」という行為は販売者のものであって、購買者がそんなことをしたら直接的であって媒介的ではない(「周り道」ではない)、と主張したいのであろうか。

 しかしここではどんな「周り道」が問題になるというのか。富塚の論理においては、どんな「周り道」も必要ないのであって、マルクスが「価値表現」の一つの契機として「周り道」の論理が必要だと言ったからといって、富塚の理屈にそれが必要だということには少しもならないのである。

 富塚の理解によれば、販売者が自分の商品に「価格を付ける」ことは、B商品(貨幣)に自分に対する「直接的な交換可能性」もしくはその形態を与えることである、というのは、価格とは貨幣による価値表現であり、したがって「B商品(貨幣)との交換可能性」だからである。

 商品の価格表現(商人らが自分の商品に「価格をつける」こと)が、貨幣に「直接的な交換可能性」を与えるというのだから、この“理論”はまさにおそるべきもの、転倒そのものである。富塚にはそのように見えるのだが、それは彼がブルジョア的現象に目を奪われ、それにとことんとらわれているからであるにすぎない。

 確かに、商品に価格が付けられることなくしては、貨幣とは交換され得ない、そしてその意味では、「価格を付ける」ということは貨幣との交換を意味するのであり、かくして貨幣にその商品との「直接的な交換可能性」を与えることだ、というのが富塚の理解する商品交換の、その「価値表現」の“秘密”である。

 しかし、富塚は貨幣や価格を前提するが、問題は一体、それらが何であるか、その概念は何かではないのか。貨幣や価格の概念を明らかにすることが課題であるのに、それを前提して議論を展開するのは混乱そのもの、矛盾そのものであろう。富塚は資本主義的生産の、商品生産の概念の獲得を、その表面的で現象的な「記述」にすり替え、かくして自分は経済科学を前進させているとうぬぼれることができるのだが、こうした俗流主義者特有の珍奇な思い上がりについては、我々はすでに宇野学派などにおいて散々に見てきたことである。

 そもそも、A商品が「B商品(貨幣)は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できる」と宣言するといったことは、二つの商品の交換関係、価値関係について言うかぎり、不合理そのものである。

 というのは、二商品は「価値として」相互に等しいということは前提からすでに規定されていることであって、したがってまた相互に「交換できる」――「いつでも」であろうとなかろうと――ということも前提のうちに含まれているからである。

 こうしたたわ言がいくらかでも通用するとするなら、この価値関係を二商品の関係としてでなく、市場における直接的な商品と貨幣との関係として、しかも卑俗にとらえる場合にのみ、可能であるにすぎない(もちろんここでは、概念的な意味において論じているのではない)。

 二商品の価値関係において、なぜ、A商品がB商品に「価値として等しい」と言えば、それでもって「いつでもA商品と交換できる」と言うことになるのか。そもそもA商品とB商品が「価値として等しい」ものでない、つまり「価値」でないとするなら、A商品がB商品に「価値として等しい」と言ったからといって、B商品が「価値」になるなどということがあるはずもないではないか。富塚はA商品、B商品などとAとBを商品として前提しながら、A商品はB商品を「価値として等しい」などとあらためて宣言するというのであるから、言っていることは荒唐無稽のたわ言以外ではあり得ないのである。

 また二つの商品を商品であると前提しながら、改めて「交換可能性」を与えるとか、与えられるとか言うのだから、富塚が自分の言っていることを理解しているとは到底思われないのである。商品が商品であり、価値であるとするなら、それが「交換可能性」を持っているは当然のことであって、富塚は「交換可能性」(つまり「価値」)を持たないような商品をどこから見つけてくるというのだろうか。まさか、まだ「価格を持たない」ような商品を想定し、その商品にどんな「交換可能性」があるのか、と開き直るつもりではあるまい。

 富塚は、単なる「交換可能性」ではない、「直接的な交換可能性」、あるいは一般的な交換可能性が問題なのだ、と反撃するのであろうか。すなわち、一般的等価形態の商品の、あるいは貨幣の交換可能性のことを言っているのだと頑張るかもしれない、しかし富塚は貨幣の“普遍的な”交換可能性といったものも、商品のそれが顕在化し、“実体化”されたものにすぎないのであって、だからこそマルクスが、「貨幣もまた商品であること(貨幣とは商品の本性が目に見える形で現象したものであるということ)を理解する」重要性を強調したのである。富塚に“付きまとって”いるのは、最初から最後まで、貨幣に対する「物神崇拝意識」である。

 さて、富塚の理屈の“合理的な”根底としてただ一つ考えられることは、富塚の言う「価値として等しい」ということを、単に量的な問題として理解する場合であろう。つまり、富塚は二商品は相互に商品つまり価値物であるが、しかし量的に「価値として等しくない」と言う場合である。ということは、富塚は、二商品の価値関係において量的に「価値として等しい」ということが問題にされ、解明される、それが「価値形態論」の、つまり「価値表現」の理論の課題であり、根本問題だと考えているということである。

 そしてこの“推測”が的を射ているとするなら、それは富塚のおそるべき俗流意識を教えるだけである、というのは、「価値形態論」の問題は何よりもまず「質」の問題、内容の問題であって――商品の価値がいかにして「表現」されるのか等々――、「量」の問題ではないからである。

 いずれにせよ、こんな空文句によって、マルクスの「価値形態論」を語っているなどと言うことはできないのであり、結局は富塚はマルクスの理論にも満足できず、マルクス批判に乗り出すのであり、自分の俗流意識をマルクスの言葉で蔽い隠す擬態をも止めるのであり、公然たる“修正主義者”としての、マルクス批判屋としての本性をさらけ出してくるのである。

『海つばめ』第1021号(2006年7月16日)


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