結局は同一の基盤で反発
伊藤武の富塚批判
再生産の課題を需給関係に還元
(田口騏一郎)
マルクスの再生産表式から直接恐慌を説明しようとする富塚の再生産論(均衡蓄積論)に関して、久留間と富塚間の論争が行なわれてきた。そして最近では、富塚派と久留間の流れを汲む大谷との論争がおこなわれている。ここでとりあげるのは、伊藤武(大阪経済大教授)の富塚の再生産論(均衡蓄積論)批判である。伊藤は、富塚の主張はマルクスの意図を正しく反映していないエンゲルス編集の現行『資本論』に引きづられた立場を反映しているという観点から批判を展開している。しかしその主張は的を射ていない。以下、伊藤の批判を紹介しよう。
◆富塚の単純再生産論への批判
伊藤はその著書『マルクス再生産論研究――均衡論批判』(大月書店刊)で、富塚をはじめ山田盛太郎、宇野弘蔵、鶴田満彦、平田清明らの再生産論を批判しているのであるが、以下でとりあげるのはこのうち第6章「均衡蓄積軌道論の虚構性」と題された富塚批判である。
伊藤は論文の冒頭で、再生産論についてのこれまでの論争を振り返って次のように述べている。
「戦後わが国における『資本論』第二部第三篇の再生産論の研究は恐慌との関連において行なわれてきたといってよいだろう。それは山田盛太郎の敷設した道であった。そこで山田を継承する人々と第二部第三篇の再生産論を恐慌から排除する宇野学派との間で、再生産論と恐慌との関連について論戦が行なわれてきたのである。しかし、そうした議論の前提となる第二部第三篇の再生産論自体の検討は、いわゆる正統派にあって山田の解説=解釈が自明のこととされ、宇野派において宇野の解釈が前提とされた結果、事実上行なわれてこなかったといってよい。
そうした恐慌論と第二部第三篇の再生産論との関連をめぐる議論の中で注目すべき現象は、山田の理解を受け継ぐ人々の中から『均衡蓄積軌道論』という議論が生み出されたことである。『均衡蓄積軌道論』とは、その名が示すように第二部第三篇の再生産論を均衡論として、換言すれば第二部第三篇の再生産論は資本主義の均衡的発展の条件を解明したものと理解し、恐慌は均衡破壊として発現するとする議論である。
こうした第二部第三篇の再生産論の均衡論的理解は、均衡破壊として恐慌を理解する伝統的理論をその端的において展開したものであって、それゆえ広く受け入れられてきたのであるが、それは第二部第三篇の再生産論の伝統的理解の上に立つものである」(142〜3頁)
伊藤はまず、富塚の単純再生産論を問題にしている。
伊藤が問題にしているのは富塚が『経済原論』で述べた次の文である。
「社会的総資本W'は、価値視点からは、不変資本C+(可変資本V+剰余価値M)の構成に、素材的視点からはそれと対応的に生産手段(ないし生産財)と消費手段との二分類ないしは『二部門分割』され、「総生産物W'の各構成部分の価値=ならびに素材における相互補填運動を明らかにし、もって『再生産の諸条件』を析出するのが、いわゆる再生産表式分析にほかならない」
「再生産表式分析の理論的意義を理解しようとする場合、まず、価値の構成C+(V+M)と部門分割との対応関係を明確にとらえておく必要がある。C+(V+M)のうちCは生産的消費を通じて生産物のうち移転・再現された不変資本価値をあらわし、これに対してV+Mは今年度ないし今期の労働によって新たに生み出された価値、すなわち『価値生産物』をあらわす。前者の価値部分は不変資本の補填に充てられるべき価値部分であるのに対して、後者の価値部分は所得として処分可能な価値部分――といっても、V部分は資本家の側からすれば可変資本として再投資されなければならないことはいうまでもないが――であり、両者は全くその性格を異にする」
これに対して、伊藤は、「(富塚)氏は生産手段の生産物は資本を補填し、消費資料生産部門の生産物は所得と交換されるとしているのであるが、この場合の資本とは生産過程で消費された不変資本であり、これに対する可変資本の転換は欠落している」、「富塚氏においては、V+Mは所得に分解するものであり、可変資本と労働者の所得、収入との関係が曖昧にされている」(143頁)とその誤りを指摘している。
続いて伊藤は、富塚の言う単純再生産の条件・法則を検討している。
富塚が、単純再生産の条件・法則として、「TC+(V+M)=TC+UC……(1)およびU(C+V+M)=(TV+UV)+(TM+UM)……(2)」という二つの等式をあげ、各々左辺は「供給額」、右辺は「需要額」として、(1)と(2)の二つの等式が成立する場合は、単純再生産は「均衡を保ちながら進行しうる」といっていることに対して、次のように批判している。
「(1)式においても(2)式においても左辺は供給額をあらわし右辺は需要額をあらわすというのは、富塚氏の牽強付会にすぎない。なぜならば、資本主義においては、貨幣的需要以外の需要は存在しないからである。(1)式も(2)式も単純な物量等式にすぎない」(145頁)
伊藤は、富塚の単純再生産の説明は、「単純な物量等式」にすぎず貨幣を商品流通を媒介する手段としてしか見なしていないと批判している。だが、それは的外れである。むしろ、需要と供給関係式として再生産の条件としていることを批判すべきだろう。富塚は再生産表式に需要供給の問題をもちこみ、第T部門と第U部門の生産物が全て販売されることが単純再生産の条件だというのである。このことは、(1)の等式と(2)の等式がなりたたないことを想定していることである。こうした場合には、各々の部門に過不足が生じ過剰生産が起こるという。伊藤の言うのとは反対に富塚は貨幣の役割を重視しているのだ。それは、過剰生産を解消するための需要喚起する政策としてのケインズ政策を高く評価していることからも明らかであろう。
続けて伊藤は、富塚が(1)、(2)式から導き出したというもう一つの部門間の「均衡条件」としてT(V+M)=UCについて、次のように批判する。
「富塚氏の再生産論展開の方法は、素材的視点からの二部門間の均衡条件を析出し、ついで諸転換を媒介とする貨幣流通を貨幣回流の運動として把握するという典型的な二分法によるものであり、貨幣が貨幣資本として登場するという規定性は見失われ、貨幣はたんなる流通手段としてとらえているにすぎない。これはマルクスの観点とはまったくことなる」(148頁)
伊藤が「マルクスの観点」だといっているのは、可変資本は労働者の収入に転化するとするスミスに対するマルクスの批判に関連している。
マルクスは、拡大再生産論を論じた第八稿でスミスの批判を行なっているが、その要点は、スミスが言うように可変資本は労働者の賃金に転化するのではなく、資本のもとに価値として保持されるということである。資本家は労働者を雇うために可変資本として貨幣を投じるが、労働者の収入に転化するのは労働力の価値であり、資本家の手元には労働者が生産した商品のうちに価値として保持されている。資本家は商品を販売することによって、労働者が生み出した剰余価値を得るとともに、不変資本部分(原材料や機械の摩損分)とともに可変資本部分も貨幣形態で回収する。資本家が投じた可変資本は、資本のもとで価値は維持されつつも、貨幣資本→可変資本→商品資本→貨幣資本という形態を変化させ再び貨幣の形態で資本のもとに復帰する。
マルクスは、拡大再生産論を論じた第八稿でスミスの批判を行なっているが、その要点は、スミスが言うように可変資本は労働者の賃金に転化するのではなく、資本のもとに価値として保持されるということである。資本家は労働者を雇うために可変資本として貨幣を投じるが、労働者の収入に転化するのは労働力の価値であり、資本家の手元には労働者が生産した商品のうちに価値として保持されている。資本家は商品を販売することによって、労働者が生み出した剰余価値を得るとともに、不変資本部分(原材料や機械の摩損分)とともに可変資本部分も貨幣形態で回収する。資本家が投じた可変資本は、資本のもとで価値は維持されつつも、貨幣資本→可変資本→商品資本→貨幣資本という形態を変化させ再び貨幣の形態で資本のもとに復帰する。
従って、資本主義的な再生産論は資本として投じられた貨幣が再び貨幣として資本の下に復帰する過程をも明らかにするものでなくてはならない、これがマルクスが再生産を論じるために獲得した新たな観点であったというのである。ところが富塚の再生産論には、こうした観点が貫かれていない、貨幣はたんなる流通手段として述べられているにすぎないし、生産をするにあたって資本が投じた貨幣は資本のもとに還流するということで済まされていると批判しているのである。
再生産の条件・法則を明らかにするということは、社会的総生産物が価値と素材の側面からどのように補填されるかという関係と、その補填関係が貨幣の流通によってどのよう媒介されかということを分析することである。再生産表式はそれを表わすための数式である。再生産表式は、再生産の過程を純粋に表すために、需要と供給の一致を前提として、価値どおりの交換、価値の変動などの要因を捨象しているのである。富塚が表式が何を表すものであるかということを理解せず、表式から不均衡、恐慌を論じることをこそ批判すべきことである。
ところが伊藤は、社会的総資本を生産手段の生産部門と消費手段の生産部門とに区分し、単純再生産の条件をT(V+M)=UCという条件は、「生産生産手段と生活手段に分割することによって、生産手段は生産過程で消費された生産手段を補填し、生活手段は収入として個人的に消費に入るといった程度の分析」でしかなく、それは「商品はその使用価値にしたがって生産的消費に入るか個人的消費に入るかといった一般的流通の分析を超えるものではな」い(149頁)と言う。伊藤は再生産表式の意義を分かっていない。
◆伊藤の均衡蓄積論批判
伊藤が富塚の「均衡論蓄積論の虚構」として批判するのは、富塚が再生産表式を過不足なく再生産を進行させる条件を示しているとし、そこから均衡的発展のための「蓄積率」(「均衡軌蓄積軌道」)を持ち出してくるからである。
伊藤は富塚の「均衡蓄積率」について次のように批判している。
「要するに、氏の主張は、社会的総生産物の部門間構成と価値構成が与えられていれば、《均衡蓄積率》は自動的に決まってくるのだ。したがって、拡大再生産の場合に問題となる一方での蓄積基金の積立と他方での積み立てられてきた蓄積基金の投下は、それが一致ししかも部門間比率と価値構成によってあらかじめ定まっている蓄積総額と一致ししかも部門間比率が価値構成とあらかじめ定まっている蓄積総額と一致した場合にのみ均衡は維持されるのだというのであり、この蓄積基金の積立=投下があらかじめ定まっている均衡蓄積基金額を超過するならば、それは過剰蓄積であり過剰生産が惹起されるというのである。こここでは、蓄積基金の積立=投下がさらに部門間構成と価値構成によって事前に定まっている均衡蓄積額との一致という二段構えによって過剰蓄積=過剰生産が主張されているわけである。言い換えれば蓄積基金の積立=供給と投下=需要の一致があれば過剰蓄積=過剰生産はないということである。ある意味ではこれは自明のことであるが、それは同義反復に等しい。そして、第二段の一致は不要であろう。何故なら、蓄積基金の積立とは一方的な販売W―Gによる蓄蔵貨幣の形成にほかならないのであり、ここでは他方の一方的な購買G―Wとの一致が前提されていからである。簡単にいえば、需要と供給が一致していれば過剰生産はないということに過ぎない。もしも、こうした富塚氏の主張になんらかの意味があるとすれば、蓄積率の増大=資本家の個人消費の減少ということであろう。これが富塚氏の言う過剰蓄積=過剰生産の実体である。こうして、氏の過剰蓄積=過剰生産は蓄積率の増大、資本家階級の個人的消費の減少から生じることになる」(165〜6頁)
◆再生産論の誤った理解
そして伊藤は、富塚の「均衡蓄積軌道論」が生まれたのは、「再生産論の誤った解釈」によるものだと次のように述べている。
「再生産表式においては正常な経過が前提とされる。ここに再生産表式の陥穽がある。資本循環の視点が忘れ去られ、再生産論を市場論あるいは実現論と誤解し、再生産論は再生産表式分析の理論であり、総生産物の過不足ない実現の諸条件を明らかにするものだという理解が生まれるのである。こうした表式分析においては需給の均衡が前提され、貨幣は単なる流通手段として流通に前貸しされる貨幣の出発点への回流のみが問題とされる。
そのうえで、エンゲルスの編集版『資本論』では、『表式による蓄積の叙述』という表題を与えられた部分の第一回では五年間にわたる表式展開が行なわれており、第二例では二年間にわたる表式展開が行なわれているところから、マルクスは蓄積過程を表式的に展開しているのだという誤解が生じ、それが拡大再生産論の主要な内容だという誤解が生まれたのである。しかし、エンゲルスが付した表題と区分を無視してマルクスの文章を読めば、マルクスの論理の展開ができるのである。『均衡蓄積軌道論』とは、そうした誤れる再生産論解釈の上に構築された観念的フィクションにすぎない」(172頁)
伊藤によれば、マルクスが八稿で拡大再生産を論じたのは、再生産のための資本への貨幣への還流を追求することであったというのである。資本は貨幣を資本として投じて商品生産を行い、商品を販売して剰余価値を取得する。資本が生産を継続して行なうためには資本の手元に再び貨幣が還流してこなくてはならない。そこには、商品資本と資本家及び労働者の収入との複雑な絡み合いが生じるが、いかにして資本の手元に貨幣が還流してくるかを解明することが再生産論の課題であると。拡大再生産に関しての課題を伊藤はこう述べている。
「拡大再生産の場合問題となるのは、追加不変として機能しうる追加生産手段と追加労働力が存在するならば――それはあらゆる社会に共通な拡張再生産の物質的前提であるが――、資本主義社会において追加資本として機能しうる貨幣資本の形成である。つまり、剰余価値の貨幣化による蓄積基金の形成の問題である。それは一方的な販売によってのみ可能である。この問題を解決するために、マルクスは一方的な販売によって貨幣化された剰余価値を蓄蔵するA群の資本家と蓄蔵された貨幣資本を現実に投下して生産を拡張するB群の資本家を想定したのである。第T部門内ではB群の資本家はA群の資本家から生産手段を買い、追加生産手段として資本に合体する。さらに、第T部門のB群の資本家は追加可変資本としての貨幣をすでに持っており、拡張再生産が可能である。しかし、第T部門のA群の資本家はさらに第U部門のB群の資本家に生産手段を売って剰余価値を貨幣化し蓄蔵する。そこで、第T部門のB群の資本家の一方的な購買のための貨幣資本が問題となる。つまり、いかにして部門Uはこの一方的な購買のための貨幣を蓄積することができるのか、という問題である」(153〜4頁)
「拡大再生産論の課題は、単純再生産における不変資本の現物補填を超える余剰生産手段と追加的な労働力の存在という前提の上にたって、蓄積基金は如何にして形成されるかということである。この問題の最大の困難は、第U部門が生産を拡大するために生産手段を第T部門から一方的に買わなければならないが、そのための貨幣源泉はどこにあるのか、という問題である。換言すれば、蓄積された、部門間転換によって蓄積基金はどこまで可能かという問題である。さらに付言すれば、蓄積された剰余価値の拡大再生産のための現実的投下は、G―W…P…W'―G'という循環軌道を画く新たな貨幣資本の運動開始である。それゆえに、資本においては、蓄積基金の形成として現れる貨幣蓄蔵が必然的契機として現れるのである。
こうした分析課題を果たすために、マルクスは分析用具として再生産表式を採用したのである」(171〜2頁)
伊藤によれば、二一章の前半の部分は第T部門における蓄積基金の形成の問題を、続いて後半の部分では部門Uにおける蓄積基金の形成の問題を論じているのだと言う。そして拡大再生産表式「第1例」も「第2例」も共に蓄積基金解明するためにつくられた表式であるというのである。
マルクスは拡大再生産において蓄積基金の形成を論じ、ここから恐慌に関して重要な指摘を行なっていると伊藤は強調している。
「資本主義的再生産過程においては、なによりも追加貨幣資本として機能すべき貨幣資本の積立が前もって行なわれていなければならない。この蓄積基金の積立は、一方的な剰余価値生産物の販売によって貨幣化された剰余価値の蓄蔵である。拡大再生産の分析においては、したがって、この一方的な剰余価値の販売が如何にして可能か、という分析が第一の問題なのである。マルクスは、一方での剰余価値の貨幣化によって蓄積基金の積立を行なう資本家群と他方において蓄積基金を投下し一方的な購買を行なう資本家群を想定して、この問題を解決したのである。この場合、一方的な販売と一方的な購買とか一致する必然性はない」(188頁)として、「資本の流通・循環においては、恐慌の可能性は実体的基礎をえることになる。なぜならば、貨幣が流通手段としてだけでなく貨幣資本としても演ずる資本の再生産過程においては、蓄蔵貨幣が必然的契機として現れるからである」(191頁)と述べている。
ここで伊藤が言いたいのは、蓄積基金の形成を問題にすることによって資本の再生産過程を矛盾に満ちたものとして暴露しているということである。再生産表式は正常な経過を前提としているが、それにとらわれると資本主義的再生産の矛盾が見えなくなるというのである。伊藤が「再生産表式の陥穽」という所以である。
だが、正常な蓄積の過程を前提にしてこそ、その矛盾(資本による社会的再生産の条件を論じるという限定の中でではあるが)も明らかになる。それゆえにこそ、再生産表式では価格変動などの要因を捨象し、貨幣は商品流通を媒介するものとして述べられているのである。単純再生産であろうが拡再生産であろうが、再生産表式は、社会的再生産がどのように行われるか、ということ、つまりこれが素材的、価値的補填関係、生産手段と消費手段の交換関係を表しているのである。これがマルクスが拡大再生産の課題としたことである。そしてこうした上に立って、蓄積基金の問題も論じられているのである。
伊藤が資本の循環として再生産論を見なくてはならないとして蓄積基金の形成を一面的に強調し、その販売と購買との不一致を云々していることは、均衡蓄積を問題にしている富塚と同一の立場に立っているといえよう。
《田口会員のこの論文については、編集会議で批判が出されています――編集委員会》
『海つばめ』第1006号(2005年12月11日)
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