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“素材置換”の意味理解せず

空虚な伊藤武の「再生産論」
「貨幣資本還流」のドグマ振りまく
(林 紘義)


 伊藤武の理論が問題になっている。田口(騏)氏が、それをいわば“援用して”富塚良三の批判に乗り出したからである。田口氏が伊藤を持ち出したのは、その理論が二年前の労働者セミナーのときから田口氏が頑固に強調して来た“持論”と、根本的に同一だからである。田口氏は周囲の厳しい批判に直面して、自らの“持論”を廃棄し、自らの理論的立場をようやく修正し始めたかである(『海つばめ』前号の原稿参照、それはいわば田口氏の“修正され始めた”立場を反映しているかである)、しかしそれでもなお、氏は自らその立場を内在的に乗り越えることができないのである。かくして、我々は伊藤の理論的立場を明らかにし、それがマルクス主義とはどんな関係もない、くだらないドグマであるかを暴露しなくてはならないのである。それはまた、二、三年前から続いている、田口氏との論争に決着をつけることでもある。もちろん、伊藤の全面的批判は、こうした小論で行うことはできない。我々は二、三の中心問題に焦点を当てて論じることにしよう。

《1、『資本論』2巻3篇の「課題」》

◆伊藤の特徴的な理論

 問題になっているのは、『資本論』二巻三篇(エンゲルスの付けた表題によれば、『社会的総資本の再生産と流通』の個所)であり、その課題や内容をいかに理解するか、である。

 伊藤は、第三篇の「課題」について、次のように“簡潔に”語っている。

「単純再生産において明らかにされるべきことは、商品資本の現物補填と可変資本の貨幣形態への転化・貨幣還流の問題である。この転換において、商品資本の不変資本価値はW―G―Wの転態を遂げ、可変資本価値はW―Gという転態をおこなわねばならない。拡大再生産において明らかにされるべきことは、剰余価値の追加資本への転化、その一部分の追加不変資本への転化と、他の部分の追加可変資本への転化である。これらの転態を、諸個別資本の循環と収入の流通との絡み合いにおいて分析することが、再生産論の課題なのである」(伊藤武、『マルクス再生産論研究――均衡論批判』、大月書店、二一四頁。以下断わりなき場合は同書より引用)。

 伊藤の見解は、1、単純再生産と拡大再生産の理論的な課題は全く違っていて、それぞれ特別の別の課題を追求するものであること、2、単純再生産論の課題は、基本的に、「部門Uの現物補填の運動が部門Tの可変資本ならびに剰余価値の転態といかに絡み合うのか、可変資本の貨幣形態での補填がいかにおこなわれるかを明らかにすることであ」り(一七三頁)、そして3、拡大再生産の課題は、「蓄積基金はいかにして形成されるか」を示すことである、といったものである。彼の見解を特徴的に示す引用を、もう一つしておこう。

「第二部第三篇の分析課題は、個別諸資本の流通と労賃および剰余価値の収入としての流通との絡み合いとして現われる一般的流通のなかで、単純再生産の場合には、個別諸資本がいかにして生産過程で消費された不変資本を現物形態で補填しうるのか、また、いかにして可変資本が貨幣形態に復帰するとともに維持・再生産された労働力を見出すことができるのか、そしてこれらの資本の変態が労賃および剰余価値の収入としての流通と絡み合っているかということを分析することであり、拡大再生産においては一方での剰余価値の貨幣化による蓄積基金の形成と他方での現実の蓄積・拡大再生産を分析することにある。かくして、第一篇の資本循環論では解決されなかった点が解決されると共に、資本の再生産形態としての循環過程を完結させるのであり、この点に資本循環論といわゆる再生産論との関連があるのである。

 この分析では、したがって、資本の形態としての貨幣が重要な役割を演じるのであって、個別諸資本の総体は商品資本として商品を流通に投じるばかりでなく、流通に必要な貨幣も貨幣資本あるいは剰余価値の貨幣化に必要な貨幣として流通に投じるのである」(三八頁)。

 しかし、以上に書かれていることはすべてたわ言であって、科学的な内容は何もないといっていい。

 まず単純再生産の問題から始めよう。

「再生産論を市場理論あるいは実現理論と言い換える言い方は、一般に見受けられるのではあるが、商品資本の循環形態を基礎とする再生産分析は、社会的総生産物が流通に投じられる一般的流通を諸資本の循環の絡み合い、諸資本の循環と収入の流通の絡み合いとして分析するものであり、この絡み合いを通じて商品資本のその生産諸要素、再生産の再開始可能な生産資本への再転化を分析するものであり、したがって生産過程で消費された不変資本の現物形態での補填および可変資本部分の貨幣形態への転化を分析するものであって、そのための諸条件を分析するものである」(一四三頁)。

◆「可変資本の貨幣形態への転化」が問題なのか

 伊藤は、「この絡み合いを通じて商品資本のその生産諸要素、再生産の再開始可能な生産資本への再転化」であると言うのだが、その本質的な契機として、「可変資本部分の貨幣形態への転化を分析する」などと言って、少しも矛盾しているとも混乱しているとも思わないのである。ただこの一つだけ取っても、伊藤の理屈のナンセンスさ、ばからしさは明らかである。

 まさに空論と愚論と曲解のオンパレードだが、しかしその中でも最たるものは、再生産論の核心は、「貨幣資本」(決して「貨幣」ではない)としての「可変資本の還流」である、というたわ言であろう。

 伊藤は、資本家の可変資本は労賃として労働者に支払われ、今度は労働者がそれを生活手段の購買のために収入として支出し、かくして「可変資本は資本家のもとに還流する」と結論し、このような形で、可変資本の流通が労働力商品の流通と「絡み合う」ことを明らかにするのが、再生産論の課題だ、とおっしゃるのである、つまりこれは事実上、スミスと同様に、可変資本が労賃に、つまり労働者の収入に転化するということである(そのように言うしかない)。

 しかしマルクスのスミス批判の核心は、まさにこうした幻想にこそ向けられていたのではないのか。マルクスは、資本家の可変資本は決して労働者の収入(労賃)に転化するのではない、そうではなくて、労賃に転化するのは労働力商品の価値であって、資本家の手元には、依然として可変資本は存在し続ける、すなわち最初は食料、衣料等々の生活手段の形で、ついで労働力という形で、と主張している。そして、貨幣はこうした“素材転換”を媒介するにすぎない。ここでは、食料、衣料等々は労働力に転化したのである、そしてこれこそがまさに「素材転換」の一内容――不変資本の転換にもまして重要な――である。労働力もまた資本家にとっては、他の「素材」と区別され得ない、「素材」――活動する(し得る)労働者として――の一つである。それは資本にとって、まさに生産資本の一構成部分である。

 可変資本を「素材的」に転換し、再生産するということは、生活手段をそのままに「貨幣形態」に転化するということではない、そうではなくて、生活手段を労働力に置換することによって生産資本の一部としての労働力を確保するということであって、かくして生産過程においてその労働力を搾取することによって、資本は自己増殖する価値に転化することができるのであるが、素材的転換自体は、直接にはこうした搾取、つまり生産過程ではなく、ただその前提であるにすぎない。

 例えば、第T部門の可変資本部分について言えば、それが「素材的に」生活手段でなくてはならないというのは、直接に生活手段に転換するということではなく、ここで言われる生活手段とは実際上、労働力であり、またそうでなくてはならない。

 そもそも資本家が、生活手段を労働力に転換するのに、手元にある「貨幣資本」を何のために「還流」させなくてはならないのか、全く伊藤は奇妙な理屈を思いつくものである。この「還流」自身が、生活手段として存在した可変資本を、別の素材としての可変資本に、つまり労働力に置換することである(その過程を流通手段として、媒介したにすぎない)、ということが伊藤には何も分かっていないのである。資本家が「貨幣資本」(可変資本としての)を持っているなら(つまり再生産論を貨幣資本から出発させるなら)、それを「循環」させたり、「還流」させたりする前に、そのまま労働力の購買のために支出すれば済むのであって、可変資本としての「貨幣資本」を「貨幣資本」として「還流」させることが再生産論の核心だ云々は、全くのばか話であるとしか言いようがない。

 伊藤は、可変資本としての貨幣資本の「還流」は、資本の生産過程――これは労働力の搾取過程であるのだが――に入る前提だと言うが、しかしその前提は、生活手段として存在した可変資本が、労働力という「素材」に転換されることであって、貨幣資本のままでどうして生産過程が可能なのか。伊藤は、貨幣が――もちろん、貨幣資本でも同じことだが――生産の実際的な要素であるとでも思っているのであろか。

◆自らの理屈の不合理に気がつかず

 マルクスがここで問題にするのは、素材転換である、つまり「可変資本の貨幣形態への転化」ではなく、可変資本の労働力への、つまり労働する労働者への「転化」である。可変資本は当初――つまり、資本主義的生産の結果としての商品資本の形態では――、生産手段(第T部門)、生活手段(第U部門)の形態で資本家の手元にあるが、しかしそれは素材転換、補填の結果として、「労働力」に転化するのであり――もちろん、資本家の手にあった貨幣を媒介にして――、しなくてはならないのである。そうしてこそ、初めて「再生産の再開始可能な生産資本への再転化」と言えるのである。

 それを「可変資本部分の貨幣への転化」などと言っても、何も言わないに等しいであろう、というのは、伊藤の前提によれば、この貨幣は可変資本として資本家が流通に投じたものだからである。そして今、結果として還流してきた貨幣で、労働力を買うというなら、どうして資本家は最初の貨幣で、そうしなかったのか。先に保有していた貨幣と、還流してきた貨幣がどこか違っているとでも言うのだろうか。

 伊藤は、この貨幣還流によって、生活手段として存在していた可変資本が貨幣形態に転化した(それで労働力を購買できる)、と言いたいらしいのだが、しかし当初の貨幣を流通に投じるといっても、それは労働力の購買に当てられるのだから、言っていることが支離滅裂、チンプンカンプン以外ではない。

 そもそも生活手段として存在していた可変資本を、貨幣形態に転換するなどと言えば、いかにももっともらしく思われるが――俗流的な人間には――、しかし再生産論で問題にされているのは、商品を一般に貨幣に転換するといったことではなく(そんな平凡なことを、再生産論で仰々しく論じなければならないと思い込むところに、この男の卑小で、俗流的な本性が暴露されている)、総資本の再生産過程の本質的契機としての、価値の補填および素材補填、相互置換であって、この両側面において資本主義社会全体の再生産過程が明らかにされなくてはならないのであり、「可変資本」部分について言えば、「生活手段」(もちろん、第U部門の場合だが)が「労働力」に置換されなくてはならないのである。それが、「貨幣」に置換(伊藤の場合は、「還流」)されるというのでは、何のことか分からず、意味不明の不合理でしかないのである。

 伊藤の理屈でも、生活手段として存在した可変資本は、決して「貨幣」に置換されてはいない。まず第U部門の資本家は貨幣(彼は、これは貨幣資本であり、また貨幣資本として機能しなくてはならないと強調する)を流通に投じる、つまり労働力を購買する、そして労働者は労賃を手にすることができ、その収入で、第U部門の資本家の手にある生活手段を購買する、かくして「貨幣資本」は無事、資本家の手に「還流」する、と言うのである。

 そして労働者にとって問題は、資本のもとに包摂されたということでなく、労働力商品としての「循環」が明らかにされ、資本の循環と「絡み合った」ということだ、というのである。確かに「絡み合い」は事実であるが、しかし労働者の資本のもとへの包摂を抜きにして、「絡み合い」だと言ってみたところで、そんなものが空虚なおしゅべり以上に出ないことは明らかである。単なる「絡み合い」が問題なのではなく、資本のもとへの包摂が、その実際のメカニズムが、過程が問題であり、その枠内での「絡み合い」である。主体は社会的総資本の再生産であり、そのなかでの「絡み合い」であることが、つまりここでの根本課題が何であるかが、決して忘れられてはならないのである。

 さて、伊藤の場合、その主張の実際の内容は、資本家がもともと手元に保有していた貨幣を投じ(マルクスの言葉によれば労働者に「前貸しして」)、労働者はその貨幣と引き換えに、資本家の手元にある生活手段を購買し、かくして労働力を再生産する、しかしこの過程は、同時に労働者が資本のもとに包摂され(というのは、労働者は労働力と引き換えに、資本家から貨幣を、つまり労賃を受け取ったからである)、生産資本の一部として機能し、労働を搾取されるということである。

 ここでは確かに、資本家の貨幣は「還流」するが、しかしこの過程で本質的な内容をなすものは、この貨幣の「還流」ではなく、生活手段として存在した可変資本(第U部門の場合だが)が、労働力という形態の可変資本に転化され、置換されたということであり(だからこそ、素材的換であって、生活手段が貨幣に置換されたというのなら、どこに素材転換があるというのか、伊藤は、資本家は貨幣を生産資本の一部として生産過程で働かせて、剰余価値を生産できるとでも思っているのか)、かくして資本が生産資本として機能することができるようになった、その前提が獲得されたということである。労働を搾取して、資本が資本としての存在を明らかにする生産過程は、この置換なくしては不可能であり、だからこそその過程と意味を明らかにする“再生産論”が意義を持つのである。だが、伊藤は再生産論の意義を全く理解していないのである。

 見られるように、伊藤は「貨幣の還流」だけを見て、可変資本が生活手段(もしくは生産手段)から労働力に置換されるという事実――最も本質的で、核心をなす事実――を見ないのである。その過程を「生活手段が貨幣に置換した」といった形で理解するのである。しかし貨幣の「還流」はごく平凡な事実であって、それは実際には、当初資本家の元で生活手段として存在した可変資本部分が、労働力に置換されるのを「媒介」したにすぎない。だからこそ、「貨幣の媒介」が言われるのであり、再生産論における貨幣の役割と意義が――ある意味で従属的な、しかし決して軽視していいものではない――明らかにされるのである。

 もちろん、生活手段は貨幣に置き代わったのではないし、そんなことは不可能であろう。資本家の手元に、この貨幣はもともとあったのであり、したがってそれが生活手段に置き代わることなどできるはずもないではないか。それは結果からみれば、ただ単純に「還流」しただけであり、だから転換もしくは置換において、形式的な役割を果たしただけである、つまり流通を「媒介」しただけ、資本としてではなく、通貨として、流通手段として機能しただけである。もし生活手段が貨幣に置き代わったのだと言うなら、資本家は大損をすることになる、というのは、当初手元にあった貨幣を流通に投じ、さらに手元にあった生活手段がその貨幣と置換されたというからである。資本家の元には当初の資本価値の半分しか残らないことになるが、伊藤は、いかにしてこの辻褄を合わせてくれるのか。

 そうして伊藤の「貨幣資本」は奇妙な二つの役割を果たさなくてはならない、一つは、生活手段と置換される価値として存在し、他方では、貨幣資本として「還流」する価値として存在しなくてはならないが、一つの価値がいかにして二重に存在しえるのか、奇妙な「経済学」としか言いようがない。これは「経済学」ではなく、単なる一つの妄言であり、たわ言でしかない。

 伊藤にあっては、当初、資本家の手元には、可変資本は二重に存在することになる、つまり可変資本として、また生活手段として。再生産論から素材転換という本質的な契機を脱落させるなら、こうした不合理やばか話は必然となる。しかし資本家の手元に、可変資本は二重に存在するのではない(そんなばかげた前提から出発して、もちろん再生産をいくらかでも合理的に論じることはできない)、それは基本的に生活手段として存在するのみである、というのは、我々は再生産の結果としての総資本(総商品資本)、総生産物から出発しているからである。

 伊藤はマルクスが貨幣資本を論じていることから、貨幣資本がこの過程に内在的に入り込まなくてはならないと思うのだが、しかしここでは貨幣資本もしくは貨幣は、ただ価値と素材の置換の「媒介的」機能を果たすだけであり、ただそうした意味で問題にされているに過ぎないのである。だから、この貨幣資本は実際にはただ流通手段としてのみ機能するのであり、それ以外ではないのである。役割を終えて、ただ元の資本家のところに「還流」するだけである。したがってその価値量にも、存在形態にも、どんな本質的変化もないし、起こり得ようもないのである。マルクスは、この「貨幣資本」に目を奪われるなら、再生産過程で起こっている本質的な内容を見逃すことになると警告しているが、伊藤は自らの珍奇なドグマによって、マルクスの警告の正当性、重要性を証明して見せてくれたというわけである。

◆「絡み合い」についての妄言

 伊藤は、この「還流」は、労働力商品の循環と「絡み合う」という意義があるのであって、単なる「還流」ではない、と言うのであるが、しかし再生産論の課題は決して、「資本」と労働力商品の循環との「絡み合い」といったところにあるのではない。こうした意味での「絡み合い」が存在しないというのではない、ただそれはすでに例えば、三つの形の個別資本――貨幣資本、生産資本、そして商品資本――の循環においても、その内容や意味が明らかにされているのであって――あるいは、すでに第一巻の資本の概念そのものが、労働力の「包摂」を語っている、というのは、資本はこの包摂(つまり「絡み合い」だ)なくては、資本として存在することができないからである――、それは直接に再生産論の課題ではないのである。

 伊藤は、再生産論でも事実として資本の「循環」や「絡み合い」が論じられているということから、それが再生産論の課題だと思い違いをしているのである、つまり彼は一方で資本循環の三つの形(あるいは資本の概念そのもの)を明らかにする意味も理解せず、他方では再生産論の独自の課題も全く分かっていないのであって、ただ両者をごちゃまぜにし、混同しているのだが、それは彼がただ現実の諸関係を科学的に分析し、認識する能力を欠き、直接の現象に目を奪われ、そこにとらわれた俗流意識を大した認識だと思い込んでいる――思い込んでいるだけならまだしも、その独善を、空虚なドグマを、独創的で、唯一の真実だと大声で叫びたて、売り込もうとする――つまらない“ブルジョア”にすぎないことを教えているだけである。

 したがって、問題は「絡み合い」の内容である。再生産論では、総資本の再生産が問題になるのだから、それは当然に、その必然的な契機としての労働力の再生産を含んでおり、したがってまた労働者の消費を――また同時に、資本家の単なる消費をも――含んでいる。ここでは確かに、総資本の再生産が、労働力の再生産といかに「絡み合う」か、ということが示される、しかしそれは伊藤が理解するように、資本の循環という視点からではないのである。もし単に貨幣資本の循環ということから労働力の「包摂」が問題になるとするなら、それはただ外的に労働力を想定し、ただ生産過程において、その価値の自己増殖が、つまり労働の搾取が行われることが論じられれば十分であるが、しかし総資本の再生産とその流通において問題になるのは、そのことではない。つまり総生産物として、可変資本部分、つまり生産手段および生活手段として存在しているものが、労働力に置き換えられるという「素材転換」の問題であり、この転換の過程が、同時に労働力の再生産でもある――労働者の方から見るなら――ということである。労働者にとっては、この過程は労働力商品を売って、自らの生活手段を購入するための収入を得る過程であり、資本家から「前貸された」貨幣――労賃として受け取った――を、資本家の手に戻す過程なのである。

 この場合、資本家も労働者も、価値として保有するものを「手放し」たり、他のものに「還元」したりするのではない(貨幣資本が労賃に、つまり労働者の収入源泉になるのではない)、というのは、資本家は可変資本として保有する生活手段(第U部門の資本家)もしくは生産手段(第T部門の資本家)を今度は労働力として確保するからであり、他方、労働者の方も、労働力(価値)として保有していたものを賃金に転化し、収入源泉として確保したにすぎないからである。生じたことは、単なる「素材的」転換であって、「価値(量)」としては当然ながら同一のままである。

 ここにあるのは、再生産過程を価値補填と素材補填の両面から、つまり資本の再生産を総体として考察し、分析することであり、その理論である。これは個別資本の「集合」(算術的合計)とか、個別資本の絡み合いを「総体として」検討するといったこととは別の問題である。総資本とは、概念として、単なる個別諸資本の数的な寄せ集め、「集合」ということとは違うのである。個別資本は個別資本として問題にされてないのである。第T部門、第U部門の資本家ということは、個別資本の範疇ではなく、総資本の二大部門として位置付けられているのであって、すでに個別資本の概念ではない。伊藤はこうしたことが全く分かっていないのであり、総資本の再生産という課題に、個別資本の“論理”をいくらでも持ち込むのであり、さらに、マルクスがそうしていないということで、マルクスに罵詈雑言を浴びせかけて恥じないのである。全くこうしたやからには「付ける薬がない」と言うべきであろう。

◆マルクスの第一稿の文章

 少しマルクスから引用しよう。これは伊藤が「マルクスは間違っている」とか、混乱しているとか断罪している、いわゆる「第一稿」の文章(そして、エンゲルスも『資本論』編集に際して無視した文章)であるが、実際には伊藤のつまらない空論を直接に粉砕していることが分かるだろう。

「可変資本について言えば、それは貨幣の形態で労働者に前貸しされるのであって、労働者はこれと引換えに、彼の労働〔力〕を引き渡すが、その受け取った貨幣で彼は自分の生活手段を買う。労賃は労働の価値に、いなもっと正確にいえば労働能力の価値に等しい、ということが同時に前提されているのだから、労働者は彼の全賃金を彼の労働能力の再生産のために、それゆえ必需品の購入に支出するということが同時に前提されている。それゆえ全可変資本が実際には収入として支出されるのであって、資本家にとってはそれは労働に転化するが、労働者にとってはそれは収入に転化する。つまり貨幣形態によって行われる媒介を度外視すれば、可変資本は実際には、生活手段の形態で存在し、この生活手段が労働者階級の収入をなすのである。それゆえ、現実的生産過程の考察では、剰余価値として資本家によって消費される部分と、労賃として労働者によって消費される生産物部分とはともに収入という共通の範疇に属するのである。したがってここでは、可変資本そのものは、すなわち、労賃・それ故に労働者にとっての収入・に転化するのではなく、資本家にとっての労働、つまりは労働=必要労働+剰余労働に転化する限りでの可変資本は、さしあたりわれわれの考慮の外に置かれるのである」(マルクス、『資本の流通過程』、大谷他訳、大月書店、二〇二頁)。

 マルクスの論理は余りに明らかで、どうしてこれを伊藤が「明らかに混乱しており、誤りを含んでいる」などと否定できるのか(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』四〇号、2003年9月)、驚くほかないが、特に、最後の「資本家にとっての労働、つまりは労働=必要労働+剰余労働に転化する限りでの可変資本は、さしあたりわれわれの考慮の外に置かれる」という言及は重要であって、伊藤のたわ言を完璧に粉砕していると言えよう。つまり、「貨幣資本としての」可変資本――こうした観念で、伊藤が何を言いたいかはさておくとして――が問題になっているのではないということ(媒介の機能を果たすのは、実際に、通貨もしくは流通手段としての機能における貨幣である)、そして、問題は価値および素材の補填、転換であるということ、したがって自己増殖する価値としての可変資本、つまり生産過程=労働の搾取過程――ここでのみ、可変資本は自己増殖する価値、つまり活動する労働力として現われるのだが――を前提とした、それに転化するという意味での可変資本は度外視されている、ということである。ここでは、資本にとっては、ただ生活手段として存在した可変資本が、労働力に転換することだけが重要なのである。

 もう一つマルクスの第一稿から引用しよう。以下で論じられているのは、A部門(『資本論』では第U部門)の労働者の場合であって、そこでは、可変資本は直接に生活手段の形態で存在している、しかし第T部門の場合も本質的に同じである、というのは第T部門でいわば「回り道」して、実際上、同じ転換がなされるからである。

「確かに彼ら〔第U部門の労働者〕は、商品の購買によって資本家に、彼らの労賃が前貸しされたさいの貨幣を返すのであり、したがって彼らは、自分たちの貨幣所得の支出によって、可変資本の貨幣形態を補填する。しかし彼らは、この資本そのものを補填するのではない。彼らは、いまは資本家〔第U部門の〕の手から移って最終的に彼らのものとなる100ポンド分の商品価値を消費するのである。つまり彼らが資本家に返すものは、生産物にたいする彼らの最終的な分け前として資本家が彼らに渡したものではなく、彼らが彼らの分け前を商品市場から引き出す、そのための単なる手段として資本家が彼らに渡したものでしかない。だから彼らは、彼らの収入の支出によって――素材的にみれば、じつは、彼らの収入が直接にそのかたちをとっている諸生産物を相互に交換することによって――、同時に資本の貨幣形態を補填するのであり、そのかぎりで、彼らによる収入の支出は同時に、彼らの貨幣所得の(すなわち彼らの所得の貨幣形態の)貨幣資本――労賃はこの形態で前貸される――への再転化として、言いかえれば、可変資本の貨幣形態の回復として現われるのである。しかし、このことは形態だけにかかわることである。同一の貨幣が、交互に、労賃の貨幣形態および可変資本の貨幣形態として存在する。現実の可変資本〔すなわち生活手段〕は消尽されてしまうのであり、それを補填するものは、資本家と労働者との間のこうした交換ではなく、それの新たな再生産なのである」(同二〇七〜八頁)。

 ここでもマルクスの理論は、直接に伊藤のよた話を粉砕している、だからこそ、伊藤はこれらのマルクスの理論を否定し、それに食ってかかるのであろう。しかしこうしたマルクスの第一稿の概念は第八稿でも完全に「生きている」のであって、マルクスがそれを自己批判し、自ら否定した、などと言いはやすのは伊藤の勝手な憶測であって、どんな“証拠”もないのである(あれば、伊藤は挙げて見るべきだろう、しかし伊藤はマルクスが第一、二稿の後に、第八稿を残した、という以外のどんな“証拠”も見つけてくることはできないのである。この問題は次の二章で論じる予定だが)。

 伊藤は、このマルクスの文章も間違っているとして、次のように批判している。

「ここでは見事に、可変資本と労賃とが混同されている。可変資本とは商品資本のうちのV部分であり、それは労働者によって食い尽くされるというのである。したがって、ここでも可変資本の循環G―A…P…W―Gと、労働力価値の流通A―G―Wとの絡み合いが問題とされているのではない」(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』四〇号)。

 伊藤は、再生産論では、「可変資本の循環G―A…P…W―G」といったことが全く問題になっていないことを理解しないのである。再生産論でまず問題になるのは、生活手段としての可変資本であり、その置換であることを知らないのである、というのは、出発点は総生産の結果としての商品資本だからであって、それは貨幣としての可変資本では全くないからである。伊藤はマルクスの再生産論に勝手に自分のドグマを押しつけ、その“鋳型”にマルクスの理論をむりやり押し込め、合わせようしているにすぎない。経済理論に対する伊藤の無知蒙昧ぶりは驚くほどであるが、それはかつて宇野学派がそうであったのと同様である。

 マルクスのこうした概念と、伊藤の次のような文章を比べてみれば、伊藤の理論の“修正主義的な”本性が――つまりマルクス批判家、修正屋としてのいやしい本性が――たちまち明らかになるであろう。

「商品資本の価値部分としての1000v〔第T部門の可変資本部分〕は労働者によって個人的に消費されるべきものではない。それは、商品の価値部分としては可変資本を表しているのであって、商品形態から貨幣形態に転化されなければならない価値部分である。労働者が個人的に消費できるのは1000vではなく、彼の労働力の価値なのである。資本家が労働者に支払った貨幣は、資本家にとっては可変資本であるが、労働者にとっては労働力価値の転化した貨幣であって、それはもはや資本家のものではない。それ代わりに、資本家は可変資本を商品のなかの可変資本部分1000vとして持っているのである」(伊藤、同二三四頁)。

 ここで書かれていることは徹頭徹尾混乱とナンセンスであり、一言一言空語であって、どんな実際的な内容もない。労働者は資本家のもとにある生活手段ではなく、自分の「労働力の価値を消費する」などという観念は混沌そのものであって、批判を書くのも恥ずかしいほどである(ここには、余りに初歩的な、価値と使用価値の混同があるだけだ)。実際、労働者に手に渡った労賃としての貨幣は、すでに資本家のものではなく労働者のものである、といったつまらないスミス的空論を何か大層な真理であるかにしゃべりたてる、こうした珍奇な理屈はまさに呪いあれ! である。

《2、第三篇の第一、二稿と第八稿および「エンゲルスの編集」》

◆マルクスは自己批判した?

 伊藤の基本的な立場は、『資本論』第二巻第三篇の第一稿および第二稿は、マルクスの未熟で間違った見解を代表するものであり、晩年に書かれた第八稿こそ、その間違いを「自己批判」し、訂正した正しい草稿である、したがって第八稿によってこそ“再生産論”は完成の域により近づいた、といったものである。だから、彼はこの観点からエンゲルスの編集を批判するのである、つまりエンゲルスは第二稿と第八稿をつなぎ合わせることによって、マルクスの理論を台無しにした、というのである。

 しかし、彼はエンゲルスを評価するにやぶさかではない、というのは、エンゲルスもまた、マルクスにとって、この部分(つまり「社会的再生産と流通」の部分、簡単化のために一言で言えば“再生産論”)はどうしても書き直しが必要と思われた、すなわち、第二稿ではまず、再生産がそれを媒介とする貨幣流通を顧慮することなく取り扱われ、つぎにはこれを顧慮してもう一度取り扱われていたのだが、このようなやり方を改めて、「著者〔マルクス〕の拡大された視野に対応するように書き直すことが必要だった。こうして第八稿ができあがった」、と言っているからである(第二巻序文、岩波文庫四分冊一二頁)。

 伊藤は、このエンゲルスの序文はこれまで「十分に注意が払われてこなかった」が、それこそ、これまで『資本論』のこの部分の研究がどれ一つとして正しいものがなかった原因の一つをなしている、しかし心配することは何もないのである、というのは、エンゲルスの忠告を十分に考慮した自分が正しい見解をようやく確立したからである、というのである。この男はまた、何という恥知らずのうぬぼれ屋であることか。

 しかしこのようにエンゲルスの編集を高く評価する伊藤は、実際には、エンゲルスをも非難してやまないのである(彼がエンゲルスばかりか、どんなにマルクスをも激しく攻撃しているかは、紙面の余裕があれば、いくらでも暴露できるのだが)。

「しかるに、編集者エンゲルスの第二一章の編集は恣意的なもので、マルクスの区分を無視し、マルクスの原文を寸断したうえで、恣意的な表題を付したもので、エンゲルス版によってはマルクスの論理展開を把握することはほとんど不可能である。エンゲルスは第八稿の理論的展開を正確に把握していなかったものと断定せざるをえない。それゆえに、エンゲルス版によった従来の研究は、マルクスの拡大再生産の理解において誤りを犯してきたのである。誤りとは、第二一章の中心的内容は第三節『蓄積の表式的叙述』にあると見て、拡大再生産論とは資本蓄積・拡大再生産過程を表式的・均衡的に展開することだと理解されてきた点にある。このような誤りの上にたって、資本蓄積・拡大再生産の帰結としての恐慌を表式展開によって検出しようとする均衡論的恐慌論が生み出され、他方では、マルクス拡大再生産論は、資本蓄積と拡大再生産過程を均衡論的に展開したものだという均衡蓄積軌道論とその亜流が生み出され、新古典派と何の変わりもない均衡論と貨幣数量説を柱とする経済成長論が展開されているのだという理解が蔓延するにいたっているのである。こうした点にもレーニンの影響が看取されるのである」(伊藤、同序文二頁)。

 伊藤は、二巻三篇の「分析課題」は、単純再生産の場合には、「個別諸資本がいかにして生産過程で消費された不変資本を現物形態で補填しうるのか、また、いかにして可変資本が貨幣形態に復帰するとともに、維持・再生産された労働力を見出すことができるのか、そしてこれらの資本の変態が労賃および剰余価値の収入としての流通と絡み合っているのかを分析すること」であり、さらには、拡大再生産にあっては、「一方での剰余価値の貨幣化による蓄積基金の形成と、他方での現実の蓄積・拡大再生産を分析する」ことであり、かくして「資本の再生産形態としての循環過程分析を完成された」と独断したあと、第二稿の「誤り」について、次のように語るのである。

◆「誤り」は伊藤か、マルクスか

「この〔第三篇での〕分析では、したがって、資本の形態としての貨幣が重要な役割を演じるのであって、個別諸資本の総体は商品資本として商品を流通に投じるばかりでなく、流通に必要な貨幣も貨幣資本あるいは剰余価値の貨幣化に必要な貨幣として流通に投じるのである。

 しかるに、第二稿までのマルクスは、不変資本の現物補填の分析を課題としたがゆえに、可変資本と剰余価値とを労働者と資本家との収入に分解するものとして、したがって商品価値(c+v+m)を資本+収入として、社会的総生産物の転換を資本と資本の交換、資本と収入の交換、収入と収入の交換として、部門Tおよび部門Uの不変資本の現物補填を論じ、その際流通から独立し、それとはかかわりのない部門Tの不変資本の現物補填に力点がおかれていたのである。それゆえに、貨幣流通はこうした不変資本の現物補填の理解を困難にするものとして、『貨幣流通なしの叙述』と『媒介する貨幣流通の叙述』との二重の叙述様式が採られたのである。こうした叙述では、貨幣は、事実上、社会的総生産物の各部分の転換を媒介する単なる流通手段として把握されていたのである。このような分析では、再生産過程の分析はあらゆる社会に共通な再生産の質料的・実物的分析とならざるをえず、労働力が商品として現われる資本主義的生産関係の種差を示しえず、生産手段生産部門の生産物は消費された不変資本を現物で補填し、消費手段部門の生産物はすべて収入に転換されるものとして把握されていたのであり、それゆえ可変資本の転換は問題にならない。労賃として支払われる貨幣は総生産物のうちの労働者の分け前に対する『労働切符』として把えられていたのである。

 第八稿は、こうした第二稿までの分析に対するマルクス自身の自己批判として成立したのである」(三八〜九頁)。

 まあ、よくもこんなにも多くのでたらめを次から次へと書くことができるのかと、ただただその“異様な”才能にあきれるだけである(我々はこのようなとんでもない“才能”の持ち主としては、かの悪名高い宇野学派を知るのみである)。

 再生産論の課題がまず、「生産過程で消費された不変資本をいかにして現物形態で補填しうるのか」を明らかにするものだ、などと言うのはナンセンスの極地である、というのは、「生産過程で消費された不変資本」はすでに現物形態で再生産され、商品資本の形で存在しているからである。それを改めて「現物形態で補填する」などということはありえないのである。問題は、再生産過程が再出発できるようになるための、その相互補填、置換であって、それは「生産過程で消費された不変資本をいかにして現物形態で補填しうるのか」といったことでは全くない。価値と使用価値をたえず混同する俗学者の伊藤は、自分の書いている文章の意味さえも分かっていないのであり、それが混乱そのものであることも知らないのである。

 まして、「また、いかにして可変資本が貨幣形態に復帰するとともに、維持・再生産された労働力を見出すことができのか」といったことが課題だなどと言うことは、とんまの上にとんまを重ねるようなものであろう。生活手段として存在する可変資本は労働力に“素材”転換されなくてはならないのであって、それなくしては、資本の再生産は不可能であり、また労働の搾取もありえないのである、つまり資本は資本として存続することはできないのである。そして貨幣は、この素材転換を媒介するかぎりで、再生産論では問題になり、ある意味で従属的な役割を演じるのであるが、それは再生産論の課題そのものから必然的に出て来ることなのである。したがってまた、この貨幣は「可変資本」として機能するのではなく、単なる貨幣、流通手段として機能するにすぎない。伊藤は、貨幣資本が「還流」することで、いかにして「維持・再生産された労働力を見出すことができのか」などと言うが、しかしもし貨幣(貨幣資本)で労働力が買えるなら、資本家は直接にそれを買うのであって、貨幣を投じ、さらにその「還流」を待って、また労働力を買うために貨幣を投じるなどという、回りくどいことをなぜやらなくてはならないのか、全く伊藤の言うことは途方もないばか話である。そもそも、「いかにして可変資本が貨幣形態に復帰する」とはどういうことか。伊藤は最初、貨幣形態の可変資本を論じ、その復帰を主張したのに、いまでは「可変資本が貨幣形態に復帰する」と言うのである、つまり最初の可変資本は生活手段という意味だったというのか。しかし彼はまず貨幣資本を投じ、それが復帰すると言ったのだ。とするなら、当初貨幣資本として貨幣が出動し、後では貨幣として復帰したということだけが問題だというのか。こうした「復帰」は一体何を意味するのか。かくして、彼のいうことは最初から最後まで、理解不能の、混沌たるでたらめばかりである。

 拡大再生産について言われていることについては、また別に論じるとして、再生産論では「資本としての貨幣が重要な役割を演じる」という主張について論じるなら、まず、その「役割」が何であるかということであり(すなわち、ここで“主役”を演じるのか、それとも「媒介的」な役割、つまり従属的な役割を果たすのかということ)、さらに、仮に資本家が流通させる貨幣が「貨幣資本」であるにしても、ここで問題になるのは、資本としての貨幣ではなく、通貨としての、流通手段としての貨幣である、ということである。そんなことはマルクスも何十回となく明らかにしている自明のことなのだが、伊藤には理解できないのである、あるいはマルクスの「間違い」として済ますのである。自分に都合が悪くなると、何でも「マルクスの間違い」だと宣言するような理論とは、また何というご立派な理論であることか。

 またマルクスが「貨幣流通が理解を困難にする」と言っているのは、別に「不変資本の現物補填」についてではない――むしろ反対に、可変資本の「現物補填」について言っているように見える――のに、伊藤はどんな根拠もなく、不変資本の現物補填が「貨幣の媒介」によって、理解が困難になるというのである。そもそも「貨幣の媒介」など問題にしない伊藤が、それによって実際の関係の理解が、つまり素材転換の理解が困難になる、などとどうして言えるのか。

 また、マルクスが「貨幣流通はこうした不変資本の現物補填の理解を困難にするものとして、『貨幣流通なしの叙述』と『媒介する貨幣流通の叙述』との二重の叙述様式が採られた」などと言うのも独断であって、それを証明するどんな論証も何もないのである。マルクスが、「二重の叙述様式」を採用したというなら、それはマルクスの再生産論の性格と内容から不可避的に生まれてきたのであって、単なる技術的な意味での“方法論”といったものからではない。彼は、再生産論の本質は、価値的と素材的な両面からする転換、置換であると理解したからこそ、そして貨幣はそれを「媒介する」かぎりで問題にするのだからこそ、当然、第一、二稿のようなやり方になるのであって、その見地が第八稿にも貫かれていないと考えることこそ、「独断のそしりを免れない」であろう。

 ケネーの「経済表」と違って、マルクスの「経済表」つまり再生産表式には、我々がよく知っているように、「貨幣の媒介」は描き込まれていない。それは貨幣は流通手段として、再生産表式の諸契機、諸要素の相互的な関係と置換を単に「媒介する」ものとして理解されているからである。ただ現実のこの置換の過程を論じ、分析する場合に、当然、貨幣の「媒介」が問題になるのであり、また「貨幣の媒介」はそうした限界の内部で一定の重要性を持ち、個々の契機もしくは部分の置換で、それぞれ異なった性格や役割を示すのは当然であろう。伊藤は、マルクスの再生産表式よりもケネーの経済表の方が優れていると言うのであろうか、そしてマルクスにケネーの経済表のレベルにまで後退せよと要求するのであろうか、経済学を進歩させるのではなく、百年も二百年も退歩させようというのであろうか。

◆対立関係か、補完関係か

 マルクスの第八稿が、第二稿などと本質的に違ったことを論じている(理論的に間違っている、マルクスはそれらの観念を廃棄した等々)と理解すること自体がおかしいのである、あるいはそこに何か質的なちがいが、変化があると理解すること自体、間違っているのであって、第一稿や第二稿を読んでみれば、すでにそこに、再生産理論の本質的なものがすべて含まれているのが分かるだろう。伊藤は、そこで何か「可変資本」と「労働力」の置換の問題――そしてこれは、労働者の側から言えば、労働力を再生産する過程、つまり労働力を売って得た賃金を収入として支出する過程、生活手段を資本家から購入する過程でもある――が論じられていないかに言いはやすのだが、デマもいいところであって、むしろマルクスはそれを重視して論じているとさえ言えるのである。

 エンゲルスは第八稿が、第二稿に欠陥があったから「書き換えた」と評価しているが、この観点こそ問いなおされなくてはならない、というのは、エンゲルス自身が、第八稿は「新たに獲得された諸観点を確立し、展開することであって、新たに語るべきことのなかった点は、顧慮されていない」と証言しているからである。つまり、これは第八稿が第二稿の延長として、あるいはそれを補完するものとして書かれたと言えるということであって、第二稿の観点を「間違い」だと否定して、第八稿を書き直したといったものでないことを教えているように思われる。だからこそ、エンゲルスは第二稿と第八稿を継ぎ剥ぎ細工して、『資本論』の二巻三篇を「でっち上げる」こともできたのである。両者が相互に補完的な性格を持っているなら、両者のあれこれの部分を利用して、つなぎ合わせることはできるのであって、もし伊藤の言うように両者が対立的であったとするなら、エンゲルスの方法はとんでもないものであって、現行『資本論』は一見して破綻していることが明白な、支離滅裂なものとして登場したはずである。

 まがりなりにも、マルクスの第二稿と第八稿を「つなぎ合わせた」ものとして現行『資本論』(第二巻第三篇)が現われたということは、両者が補完的であって、マルクスが第八稿を書いたのは、問題意識が深まって、それまでに論じて来なかった課題を主として論じた――論じておかなくてはならないと感じた――ということを教えていないのか。マルクスが第二稿で、最初に貨幣の媒介抜きで再生産論を論じ、その後で改めて貨幣の媒介による再生産を問題したということは、エンゲルスが『資本論』編集において、まず貨幣抜きの再生産の部分を第二稿から取り、それから、貨幣を入れた叙述を第二稿と第八稿から取る、ということも可能であったろう。そしてエンゲルスは自然発生的に、ある程度、そのようにしているように思われる。

 参考までに、『資本論』第二巻第三篇がどんな具合に、第二稿と第八稿の「継ぎはぎ細工」によって作られているかを素描すると、まず一八章の一、二節は第三稿から、一九章の一、二節が第八稿、三節のみが第二稿、二〇章の「単純再生産」では、「問題の提起」と「社会的生産の二部面」が第二稿、三、四、五節が第八稿、六〜九節が第二稿、一〇、一一節が第八稿、一二、一三節が第二稿、そして二一章「蓄積と拡大再生産」以下がすべて第八稿から採られているのである。もちろん、こうしたエンゲルスによる採用は特徴的であり、それを見ただけでも、ある程度、第二稿と第八稿の性格を知ることができるだろう。

 さてもう一つ我々の関心を呼ぶのは、第一稿などは、まず第U部門を取り上げて分析を開始し、その後で第T部門に移っていることである、つまり現行『資本論』もしくは第八稿と反対のやり方を採用していることである。この事実は、拡大再生産において問題になった、第T部門“優先”の見地を支持する論者(スターリン主義学者たち? 田口(騏)氏ら?)たちにとって、きわめて具合の悪いことであろう。しかしこのことは、マルクスの見地に立てば、それほど奇妙なことでも、ありえないことでもないのである。再生産論を、それは本質的に第T部門優先の理論だなどと無反省に独断することこそ問題である。「生産のための生産」といったことが言われるのは個別資本の場合であって(つまり、『資本論』でいえば第一巻の資本一般もしくは個別資本の“論理”――それぞれの市場での行動が競争という外的な強制のもとにある――においてであって)、総資本の再生産を検討する場合には(第二巻、とりわけその三篇では)、この種の個別資本の“論理”はより高いレベルへと止揚されなくてはならないのである。

 またエンゲルスは(そして伊藤は)、まず再生産を論じ、それから「貨幣の媒介」を論じるという「二段構えの」方法は第八稿では廃棄された、と言うが、どうしてそんな風に断言できるのか。そもそも、第八稿では、貨幣の媒介のない再生産論は前提されているとするなら、マルクスの関心が、それを踏まえて、「貨幣の媒介」を論じる方に行っていた――とくに可変資本の転換の場合には――と言うこともできるのである。実際、マルクスが第八稿で特に力を入れて論じているのは「貨幣の媒介」を入れた分析であり、さらには第二稿ではほとんど論じられていなかった、固定資本の問題や金の再生産の問題であり、さらには拡大再生産の問題である。

 とするなら、第八稿は第二稿に対立して書かれたものではなく、主として、マルクスの問題意識の深化拡大に応じて、あるいは第二稿ではまだ不十分なところがあるという反省に基づいて、第二稿をいわば補完するものとして書かれたと言っても少しもおかしくないように思われる。それに、マルクスは『資本論』二巻は「第二稿を基礎にせよ」と遺言したと、エンゲルスも証言しているのである。とするなら、両者は対立関係にではなく、むしろ補完関係にあると言えるという洞察――伊藤のような勝手な憶測でない――は、それほど見当はずれではないだろう。

 いずれにせよ、マルクスが第二稿の見地を第八稿で否定したとか、「間違っていた」として自己批判したとかいう“事実”はどこにもないのであって、伊藤が自分のドグマと偏見に基づいて、憶測によって、こんなデマゴギー的なことを言いはやしているにすぎない。全く許しがたいことであろう。そもそも自らさんざんにばか話をつらねておいて、「マルクスが間違っていた」も何もないのである。こういうプチブル学者連中というものは、天まで思い上がっていて、全く恥というものを知らないのであり、とことん厚かましいのである。

◆田口氏は転向したのか、しないのか

 我々は『海つばめ』前号の田口(騏)氏の理論について、簡単に触れておかなくてはならない。

 田口氏はそこで、二年前の労働者セミナーの頃から“頑固に”固執してきた、伊藤武や宮川らと同じ見解とは、いくらか違った折衷的な理論を展開し始めている。田口氏は答えるべきである、それはこれまでの田口氏の見解の延長なのか、それともこれまでの見解を廃棄した新しい見解なのか、を。田口氏は主張する。

「再生産の条件・法則を明らかにするということは、社会的総生産が価値と素材の側面からどのように補填されるかという関係と、その補填関係が貨幣の流通によってどのように媒介されるかということを分析することである。再生産表式は、それを表わすための数式である」。

 見られるように、田口氏はマルクスの再生産の理論と、これまで自分が擁護してきた伊藤的・宮川的な見解を折衷させるが、しかしここでは、田口氏のこれまでの見解は廃棄されているのか、それともこれまでの氏の見解は保持されているのか。つまり、それは一体、これまで田口氏が言ってきたような理論――例えば、「再生産は貨幣としての資本を投資するという性質を持つ、それから始まる」等々の、伊藤等と全く同じ理屈――と違うのか、同じなのか、ということである。それが問題なのであって、ご都合主義的に折衷論を持ち出せばいいといったことではない。そもそも、マルクスの再生産表式(田口氏は「数式」と明白に言うのだが)のどこに、「その補填関係が貨幣の流通によってどのように媒介されるかということ」が繰り込まれ、示されているのか。その点で、マルクスの再生産表式は、ケネーの『経済表』とは違うのだが、それは決して偶然ではないのである。

 田口氏は、十月下旬の中央学習会のレジュメにおいても、「〔再生産論において〕マルクスは、資本として投下された貨幣が再び貨幣資本として資本家の手元に戻ってくるという資本の循環も含んでいることを明らかにした」、「マルクスが表式でまず蓄積率を五〇%としたことによって、部門Uの貨幣源泉の問題を導き出した。ここでは、このことが明らかにされればよいのであって、『過不足のない式』を作ることが課題ではない……これ〔富塚のやり方〕は、拡大再生産を単なる表式の問題としてとらえ、マルクスのように諸資本の絡み合い、資本と収入の絡み合いとしてとらえようとしていないことを示している」と主張し、「均衡式」の概念を否定しながら、まさに“伊藤武的な”問題意識と理論的立場を明らかにしたのではなかったか。

 しかしマルクスの再生産表式を「均衡式ではない」といった形で規定するのは間違っている、というのは、それは資本主義的再生産の総体を一つの簡潔な関連式で表現したものであり、まさにその意味で、現実の資本主義的再生産が(単純再生産も拡大再生産も)「均衡」において示されているからである。

 氏は、前号の『海つばめ』で、この二年来の観点――宮川や伊藤と本質的に同一の――を“修正する”かの新しい見解を提出したのだが、それは果たして、それまでの氏の古い見解、例えば、『プロメテウス』四六・七号合併号一〇頁、八五頁などでも表現されている見解と明確に決別したものなのか、あるいは依然としてその延長線上にあるのかを明確にすべきであろう。

『海つばめ』第1007号(2005年12月25日)


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