いわゆる「貨幣資本」を“物神崇拝”
再生産表式の意義を曲解
貨幣資本の運動を明らかにする道具と
(林 紘義)
伊藤は、単純再生産の課題について、「生産過程で消費された不変資本の現物形態での補填および可変資本部分の貨幣形態への転化」を分析することだと、再生産論の意義を全く理解しない妄論を述べたが、拡大再生産については、「蓄積基金」の形成と、貨幣資本のヘゲモニーを強調してやまないのである。要するに、再生産論は一般に、貨幣資本(その「循環論」)を抜きにして分析することも、その意義を明らかにすることもできない、と言うのである。先に単純再生産について、伊藤の見解を取り上げたので(『海つばめ』一〇〇七号)、今回は、彼の拡大再生産論を検討する。引用は、基本的に『マルクス再生産論研究――均衡論批判』より。
◆1、伊藤の「拡大再生産」論
伊藤は、次のように主張する。
「拡大再生産論の課題は、単純再生産における不変資本の現物補填を超える余剰生産手段と追加労働力の存在という拡大再生産のための物質的前提の上にたって、蓄積基金は如何にして形成されるかということである。この問題での最大の困難は、第U部門が生産を拡大するためには生産手段を第T部門から一方的に買わなければならないが、そのための貨幣源泉はどこにあるのか、という問題である。換言すれば、部門間転換によって、蓄積基金の形成はどこまで可能かという問題がある。さらに付言すれば、蓄積された剰余価値の拡大再生産のための現実的投下は、G―W―P―W'―G'という循環軌道を描く新たな貨幣資本の運動開始である。それゆえに、資本循環においては、蓄積基金の形成として現われる貨幣蓄蔵が必然的契機として現われるのである。
こうした分析課題を果たすために、マルクスは分析用具として、再生産表を採用したのである。再生産表式においては正常な経過が前提される。ここに再生産表式の陥穽がある。資本循環論の視点が忘れられ、再生産論を市場理論あるいは実現理論と誤解し、再生産論とは再生産表式分析の理論であり、総生産物の過不足のない実現の諸条件を明らかにするという理解が生まれるのである。そうした表式分析においては、需給の均衡が前提され、貨幣は単なる流通手段とされて貨幣の出発点への回流のみが問題とされる」(『マルクス再生産論研究――均衡論批判』一七一〜二頁)。
こうした伊藤の拡大再生産論は、伊藤の全くの“個人的で”恣意的なドグマでしかないために、“正常な”人々にとって、それを理解するのは一つの“地獄の”責め苦として現われるのである。
まず、彼は拡大再生産論の課題は、「貨幣資本の蓄積」の問題であり、その「困難」を理解することである、蓄積は貨幣資本の蓄積(剰余価値の資本への転化)から始まるのであり、それしかないのだが――なぜ、そんな勝手なことをいうのか――、マルクスは第二巻の八稿において初めて、一、二稿などの欠陥や「間違い」を克服して、この問題を提起しえたのである、つまり拡大再生産は「貨幣(貨幣資本)の蓄積を抜きにしては決して語りえない」のであり、語ってはならないのである。
◆2、伊藤はマルクスに「頼る」ことができるか
伊藤が、自らのドグマを正当化するために持ち出すのは、『資本論』二巻三篇二十一章の冒頭の次のような文章である。そこでマルクスは、拡大再生産の場合の、資本蓄積にともなう貨幣(貨幣資本)の積立てについて語っているのである。
総資本の拡大再生産を、概念として、つまり素材的、使用価値的側面と、価値的な側面から、その両者の相互補填、相互依存として統一的、全体的に理解することは、単純再生産におけると同様に、特別に不可思議で、不合理なものは何もない。
そしてそのために、どんな「貨幣」も「貨幣資本」も必要しないことは、拡大再生産表式をみれば、一目瞭然である。
もちろん、相互補填が「貨幣の媒介」によってなされないというのではない、それは資本主義である以上、当然貨幣の媒介によってなされるのだが、しかし拡大再生産の概念にとっては、外的契機として捨象されるのである。
ではなぜマルクスは拡大再生産を論じ始める冒頭(二十一章)で、「貨幣の退蔵」、貨幣の蓄積について論じ始めたのであろうか。
それは単純に、拡大再生産の場合、貨幣の蓄積と現実資本の蓄積が、直接に適合しないからであり、そこに資本主義生産の矛盾の、つまり恐慌の可能性の拡大の一つの重要な契機を見たからである。「貨幣の媒介」によって、単純再生産においても、拡大再生産においても、恐慌の可能性は拡大し、深化しているである。
さらに拡大再生産は新しい一つの「困難」を提出するのである。つまり拡大再生産を実現する貨幣はどうして形成されるのか、どこからくるのかという問題である。
マルクスの課題は、この「困難」を総資本の再生産と流通の中で「解決する」ことであるが、しかしこうした「困難」はすでに、例えば、単純再生産の場合において、固定資本について論じたところで、基本的に解決されているのである。マルクスは固定資本の補填における「一大困難」について語っているが、もちろん、それは伊藤や富塚らが言うようなこととは根本的に違った意味においてである。
固定資本は流動資本と違って、年々、その一部のみが価値として、生産物に移行し、貨幣として実現する。したがって固定資本の現物的補填と価値的補填は実際的、時期的に一致しない。マルクスはそれを「一大困難」と表現したが、しかしもちろん、この「困難」は実際には表面的なものである。マルクスは固定資本の補填の問題について、次のように語っている。
「しかし、この不合理〔固定資本の補填における〕は外観的なものにすぎない。第二部類は、それぞれの固定資本が、全くその再生産の期限を異にする資本家たちから成っている。ある資本家にとっては、その固定資本が全部現物で補填されるべき時期に達している。他の資本家にとっては、その固定資本は、多少ともこの時期までには間のある状態にある。後の方の部類の資本家に共通なことは、彼らの固定資本が現実には再生産されず、すなわち現物では更新されず、または同種の新品によって代置されないということであり、その固定資本の価値が逐次貨幣で積み立てられるということである。前の方の資本家は、彼がその事業の創設当時にある額の貨幣資本を携えて市場に現われ、一方ではこれを不変資本(固定及び流動)に転化し、他方では労働力、すなわち可変資本に転化したとき、全く(または、ここではどうでもいいことであるが、部分的に)同じ状態にある。当時と同じく、今や彼は再びこの貨幣資本を、したがって、不変流動資本及び可変資本の価値とともに、不変固定資本の価値をも、流通に前貸しせねばならない」(『資本論』二巻二〇章一一節二、岩波文庫第五分冊一七八頁)。
見られるように、ここにはどんな「困難」もないし、あり得ない。そして、このことは、拡大再生産の剰余価値の資本化における貨幣蓄積の場合でも、本質的にまったく同じである。
マルクスは第T部門の蓄積について、ほかならぬ二十一章で(伊藤が持ち上げてやまない第八稿から取られた文章で)、次のようにあまりに明瞭に語っているのであって、伊藤的なたわ言が入り込む隙間など全くないのである。
「〔剰余価値は、〕生産資本の現物要素への転換によって、追加的不変資本に、転化されている。そこでは次のことが想定されている。
(1)与えられた技術的諸条件のもとでは、機能しつつある不変資本の拡張のためにであれ、新たな産業的事業の創設のためであれ、この額で十分であること。しかし、この過程が始まりうるまでに、現実の蓄積、すなわち生産の拡張が現われうるまでに、剰余価値の貨幣への転化と、はるかに長期間にわたるこの貨幣の蓄積とが必要なこともありうる。
(2)拡大された規模における生産が、事実上はすでに行われている、ということが前提されている。なぜかといえば、貨幣(貨幣において蓄積された剰余価値)を生産資本の要素に転化しうるためには、これらの要素が、商品として、市場で買いうるものでなければならないからである。……
一方における貨幣が、他方における拡大再生産を呼び起こすのであるが、この場合はそれは、貨幣なしにも拡大再生産の可能性が存するがゆえである。なぜかというに、貨幣それ自体は、現実の再生産の何らの要素でもないからである」(同二二九〜三〇頁)。
このマルクスの最後の「貨幣それ自体は、現実の再生産の何らの要素でもない」という文章は、直接に伊藤のプチブル的妄説の根底を痛撃している。実に、伊藤に欠けているのは、こうした根底的な立場である。マルクスが貨幣やその蓄積について論じるといっても、こうした概念を前提にしてのことである、ということが伊藤には全くわかっていないのである。だからこそ、マルクスは「貨幣」の蓄積を論じている、これは、そのことなくしては拡大再生産(再生産論一般)を論じることができない証拠だ、などと大騒ぎを演じるのである。
これらのマルクスの文章は、資本主義的な総生産と流通における「正常的な進行」の諸条件、その独立化と相互的規制が、それ自体、無政府的な資本主義的生産のもとでは、不均衡の条件に、恐慌の条件に転化することを明らかにしている。マルクスにあっては、「正常な進行」の概念がある、だからこそ、それからそれていく「変則的な進行」について語ることができる。
◆3、マルクスが「貨幣資本」を論じる意味
伊藤は、マルクスのこうした説明を聞いた後も、「貨幣流通を度外視して再生産過程を分析するのは誤りだ、それでは単に、商品資本の各構成部分の素材的関連を示すことだけに終わり、資本主義的再生産過程の分析とはならない」とか、「貨幣流通を度外視して実現問題は解明できない」とか言いはやすのである。
実際、一つの珍奇なドグマをでっちあげてしまえば、後はそれを基準にどんな批判も可能である、というのはマルクスも他の誰も、このドグマからそれているからである。
「この分析は、間違って理解されているように、蓄積される剰余価値部分が不変資本と可変資本とに分割され、両部門の拡大再生産が進行することを物財的に表示するものでなはい。W'―G'―Wにおいては、一見すると、貨幣は単に流通手段としての機能だけのように見えるのであるが、蓄積される剰余価値が追加資本として運動を開始する形態は、G―W―P―W'―G'の形態における新資本の運動なのである。貨幣形態はつねに新たに資本として登場する価値の出発形態なのである。
それゆえに、マルクスは拡大再生産つまり剰余価値の資本への転化を、一方における蓄積される剰余価値の貨幣化と蓄積基金への転化、貨幣形態での積み立てと、他方における蓄積された貨幣資本の現実の投資として、それを第T部門、第U部門のそれぞれについて分析しようとしたのである」(伊藤、同一二頁)。
「資本主義的生産においては、拡大再生産の起動力としての貨幣資本の投下がなれさなくてはならない。したがって剰余価値の貨幣化による蓄積基金の形成が、拡大再生産における重要問題になるのである」(同二一一頁)。
もちろん、こんなものはすべて伊藤のつくりだした嘘であって、彼は自分のドグマのために、マルクスの理論を平気で、途方もなく歪曲し、曲解するのである。
もちろん、マルクスか「貨幣資本」を論じていないというのではない、しかし「貨幣資本の循環」といったことなら、すでにマルクスはそれ以前のところで(例えば、二巻の最初で)十分に検討しており、拡大再生産のところで、つまり「貨幣資本の循環」はどうでもいいところで、またまたそれについて、本格的に論じなくてはならないのか。伊藤の言うことはたわ言以外ではない。
要するに、伊藤には「貨幣資本」や、その「運動」しか見えていないのであって、マルクスが二十一章で課題とした、その固有な問題など最初からどうでもいいのである。どこでも、いつでも「貨幣資本」から出発しなくては安心できないのである、というのは、それこそがまさに資本主義というものではないか、というわけである。この男が、どんなにブルジョア意識に犯されているかがわかる、というのは、資本をただ貨幣資本としてのみ皮相的に理解するのは、ブルジョアたちだからである。
もう一つ、ぜひ取り上げておかなくてならない妄説は、「蓄積基金は如何にして形成されるかということである。この問題での最大の困難は、第U部門が生産を拡大するためには生産手段を第T部門から一方的に買わなければならないが、そのための貨幣源泉はどこにあるのか、という問題」だというのであるが、マルクスにはそもそもそんな“ローザ的な”珍奇な問題は存在していないのである。むしろ、マルクスは事態を表面的に観察するなら、伊藤の言うような「困難」があるように見えるが、実際には、そんなものは存在していないことを“論証”するために二十一章の冒頭の文章を書いているとさえ言えるのである。
◆4、「個別資本の蓄積」の問題は捨象されている
伊藤は、マルクスの第八稿を高く評価するのだが、それは、総資本の蓄積において、個別資本の蓄積の論理から出発し、そこに基礎を置いているからだそうである。
「マルクスの最後の遺稿である第八稿の主題は、個別資本の蓄積において現われること、つまり個々の資本家は商品資本を貨幣化するさいに剰余生産物をも貨幣に転化するが、その一部分を将来の拡大再生産のために蓄積し、蓄積資金が資本化のために十分な大きさに到達したら、追加資本として生産資本の現物諸要素に転化させるということを、資本の流通と収入の流通の絡み合いとして現われる年間総生産物の流通においてどのように現われるのかという点を分析するのである。ここでは、流通に投じられる生産物が商品資本として現われるように、剰余生産物を貨幣化して将来の拡大再生産のために蓄積される貨幣は潜勢的貨幣資本であり、投下される貨幣資本は新たに運動を開始する貨幣資本なのである。拡大再生産のためには、もちろん追加不変資本と労働力の存在が前提条件をなすが、マルクスはこの前提を明らかにしつつも、第八稿においては剰余生産物の貨幣化による新たな貨幣資本の形成の分析に主張をおいたのである」(伊藤、同書二五頁)。
個別資本の蓄積において現われたことが、総資本の蓄積において現われるといっても、それは全く同じように、ではない。個別資本の蓄積としては特別に問題のないことが、総資本の蓄積においては、一つの困難として現われる。マルクスが論じるのは、両者の蓄積の質的な違いである。個別資本では特に矛盾があるものとして論じられなかった資本蓄積は、総資本の蓄積として考察されるときに、個別資本の場合と違って論じられなくてはならない契機をもつのであり、だからこそ、マルクスは個別資本の蓄積の“おさらい”をしながら、総資本の蓄積の問題点を明らかにするのである。その問題点とは、個別資本にあっては何ら問題にならなかった、剰余価値の貨幣化であり、その蓄積であり、それが生産的資本、現物的資本と直接に対応しないことである。これは個別資本にとっては、どんな困難も引き起こさない、というのは、蓄積された貨幣によって、生産諸要素を買うことが可能であるということは前提されているからである。
だが総資本の循環、その再生産について検討するときには、個別資本の場合のようには行かない、ここでは、個々の資本が市場で見つけてくる生産諸要素もまた、総資本の循環の中から見出されなくてはならない。個別資本のときとちがって、それはすでに無前提ではなく、総資本の蓄積の一部である。
そして、マルクスは個別資本の論理を離れて、総資本の分析によって、この問題を“解決”するのである。個別資本の蓄積の枠内では解決が出て来ないからこそ、総資本の分析によって、それを明らかにするのである。
◆5、“貨幣主義的”偏向
そして伊藤は、この蓄積された貨幣を「投下する」ことこそが拡大再生産の中心問題であり、拡大再生産を拡大再生産たらしめるものだ、とおっしゃるのである。貨幣資本が新たに蓄積され、そのヘゲモニーによって拡大再生産が可能になるのだというのである。この男にとっては、拡大再生産とは現実的生産の拡大ではなく、ただ蓄積された貨幣の増大であり、それが根本なのである。「貨幣自体は現実的生産の要素ではない」と言った、あのマルクスの観点など、とっくに投げ捨てられて、混沌たる俗流経済学、宇野学派にしか類例を見ないような皮相浅薄な“経済学”が持ち出されているのである。伊藤が再生産論の課題を理解できなかったのも決して偶然ではない。
驚くべきことだが、伊藤は二巻三篇は個別資本(もしくはその「集合」)について論じていると思っているらしいことである。彼は富塚を批判して言う。
「富塚氏は『資本蓄積の過程を媒介するところの、社会総体としてみた流通過程を考察し、それを規定する諸条件を明らかにする』ことが、拡大再生産論の課題であるというのだが、マルクスは個別資本の蓄積から出発して、個別資本の場合に現われることは年々の社会的再生産でも現われざるをえないとしているのである。ということは、マルクスは年々の社会的再生産、つまり社会的総資本の再生産を個別諸資本の循環の集合としてとらえているということを意味している。富塚氏に欠けているのは、この個別諸資本の循環の絡み合いの総体として社会的総資本の再生産を分析する視点なのである」(同一〇七頁)。
「社会的総資本の総生産物W'の流通は一般的流通として現われるが、この一般的流通を個別諸資本の循環の絡み合い、それに結び付いた収入の流通との絡み合いの総体として分析することが、『資本論』第二部第三篇の課題なのである」(同一〇八頁)。
一体、マルクスが、どこで、どんな形で、第三篇を「一般的流通を個別諸資本との絡み合い」として分析しているのかは知らないが、しかしそんなことが完全に不合理であることは明らかであろう。そもそも、個別諸資本の集合と、総資本の概念は別なのであって、それを同一のレベルで議論しようという伊藤の見地は途方もないものである。
確かに、マルクスは二十一章の冒頭で、「個々の資本家について、いかに蓄積が行われるかは、第一巻で示された。……個別資本に現われたことは、年々の総生産においても現われねばならない」と書いているが、それがどうして「一般的流通を個別諸資本の循環の絡み合い、それに結び付いた収入の流通との絡み合いの総体として分析する」ということになるのであろうか。マルクスがここで述べているのは、個別資本の蓄積が、総資本でも同じように現われるということでしかない。個別資本は剰余価値を資本(貨幣資本)に転化し、それを今度は、「生産資本の追加的現物要素に再転化」し、かくして拡大再生産を可能にする。そこでマルクスは「実際には、現実の蓄積とは、拡大された規模での再生産」であると書いている(この部分はエンゲルスが「次の循環では、増大された資本が増大された生産物を提供する」と書き替えている)。蓄積は資本を個別資本として見ても、あるいは総資本として見ても当然同じように現われるが、総資本として見る時には、すでに個別資本においてそれを見たときとは本質的に違った視点、違った契機の考察が必要なのである。だからこそ、第二巻は個別資本の分析ではなく、総資本の分析なのである。個別資本をどんなにたくさん集合しても、総資本の概念は得られないのであって、この両者を混同し、マルクスが総資本をではなく、個別資本の集合を扱っているなどと主張する伊藤は、『資本論』も第二巻の性格も何もわかっていないのである。
伊藤によれば、総資本の概念も個別資本の集合の概念も同じである、つまり総資本を分析するといっても、個別資本を分析することと変わりない、ということになる。かくして、伊藤の拡大再生産論は『資本論』一巻の個別資本の拡大再生産論、その蓄積論と区別がつかないものになる、というより、たえず両者が混同され、総資本の循環を分析していると言いながら、個別資本の蓄積を論じているような、珍奇な混沌として現われるのであり、事実そうなっている。
「一般的流通として現われる社会的総生産に流通において、個別諸資本がいかに独自の循環軌道を描くのかが問題とされているのである」(同二七頁)、「個別の商品資本の流通が他の個別商品資本の流通と絡み合いつつ生産資本へとどのようにして転化することができるのかを分析することが可能なのであり、それが再生産論の課題なのである」(同二六六頁)。
◆6、再生産論を知らない、だから「恐慌論」もめちゃくちゃ
何というたわ言であろうか。改めて批判する必要もないであろう。さて、伊藤は当然のこととして、「均衡論」を否定する、つまり再生産表式など何の意味もないというのであり、こうした立場がマルクスと同じである、というのである。だが、マルクスが再生産表式を問題にし、分析しているのは周知のことではないのか。マルクスに忠実であるという伊藤は、少しも忠実でないばかりか、マルクスとは正反対の主張をいくらでもやり、それこそが本当のマルクス主義だというのである。伊藤がマルクス以上のマルクス主義者である、などと言うのはまさに茶番以外ではない。
「このマルクスの意図の中には、富塚氏が期待しているような、拡大再生産表式の逐年的展開、過不足のない均衡的展開などは含まれていないのである。均衡蓄積軌道論といった思いつきは、マルクスに対する無理解の上にたった空中楼閣にすぎない。そもそも、個別資本の集合としての資本主義的生産のもとでの無政府的な再生産過程を、表式によって展開することなど不可能なのであり、マルクスには考えつくこともできなかったであろう。そうした観念は、セイ流の新古典派経済学のものなのである」(同一四〇頁)。
富塚の「均衡蓄積軌道論といった思いつきは、マルクスに対する無理解の上にたった空中楼閣にすぎない」としても、だからといって、マルクスが「均衡論」を分析しているという事実は変わらないのであり、富塚がくだらないからといって、伊藤がそうでない、ということにも決してならないのである。両者は似たようなものである。
最後に、伊藤は自らの「蓄積論」を、直接に恐慌に結び付けて次のように叫んでいる。彼は確かに再生産表式から恐慌を導きださないが、しかし剰余価値の蓄積から、恐慌の「必然性」を説明するのである。
「高木氏は、単純な商品流通において現われた恐慌の可能性、すなわち購買と販売の分離が資本主義的生産において、すなわち商品資本の総流通において必然的に現われるということを度外視しているのである。単純な商品流通においては恐慌の可能性は形式的なものにどとまっていた。しかし、資本の循環過程の考察によって、貨幣蓄蔵は固定資本の減価償却基金の形成、蓄積基金の形成として必然的なものとして現われる。かくして、購買と販売との分離は必然的なものとして現われる。このことは社会的総生産物の流通おいても再現するのであって、恐慌の形式的可能性は資本流通において一つの内容をうるのである。商品資本の流通はこの契機を含んでいるのである。再生産論と恐慌論との関連はこの点にあるのである」(二七三頁)。
マルクスは、拡大再生産を論じるに当たって(もちろん、単純再生産でも同じことだが)、なぜ「貨幣の媒介」を入れたかについても、次のように(二十一章の中で!)明瞭に語っているのである。
「買い手が後に等しい価値額の売り手として現われることと、その逆のことによって、均衡がもたらされる限りでは、貨幣の還流は、購買に際してこれらを前貸した側に向かって、再び買う前にまず売った方の側に向かって、行われる。しかし、現実の均衡は、商品交換そのものに関しては、年生産物の種々の部分の取引に関しては、相互に取引される価値額の、等しいことを条件とする。
しかし、単に一方的な諸取引が、すなわち、一方におけるいくつかの単なる購買、他方におけるいくつかの単なる販売が行われるかぎり――そしてわれわれの見たように、資本主義的基礎の上での年生産物の正常な取引は、この一方的な諸変態を規制する――均衡は、一方的諸購買の価値額と一方的諸販売の価値額が一致するという仮定のもとにのみ、存立する。商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が単に流通手段としてのみでなく、貨幣資本としてそこで演ずる役割を、すでに含んでおり、そして、正常な取引の、したがって、単純な規模なり拡大された規模なりにおける再生産の正常な進行の、この生産様式に固有な特定の諸条件を産み出すのであるが、この諸条件はまた、それと同じく多数の、変則的な進行の諸条件に、恐慌の可能性に、一変する。というのは、均衡そのものが――この生産の自然発生的態容にあっては――一つの偶然だからである」(『資本論』同二三八頁)。
「一部類の労働者階級の側からの労働力の不断の供給、第一部類の商品資本の一部分の、可変資本の貨幣形態への再転化、第二部類の不変資本の現物要素による、第二部類の商品資本の一部分の代置――すべてこれらの必然的前提は、相互に制約し合うのであるが、しかしまた、相互に独立的に進行しながらも相互に絡み合い三つの流通過程を含むきわめて複雑な一過程によって、媒介される。この過程の複雑さ自体が、変則的進行への誘因を、それだけ多く与えるのである」(同二三九頁)。
これらのマルクスの文章は、資本主義的な総生産と流通における「正常的な進行」の諸条件、その独立化と相互的規制が、それ自体、無政府的な資本主義的生産のもとではその反対物に、不均衡の条件に、恐慌の条件に転化することを明らかにしている。マルクスにあっては、「正常な進行」の概念がある、だからこそ、それからそれていく「変則的な進行」について語ることができる。
マルクスにあっては、個別資本の蓄積における限界(個別資本としては、ただ剰余価値を蓄積し、資本に転化するだけで足りており、なぜ、いかにして、そのことが可能かは全く視野の外に置かれていた等々)は、総資本の再生産と流通の分析において止揚されている。個々の資本の剰余価値の資本への転化、貨幣の蓄積等々は、その不均衡は、全体としての資本の再生産と流通の中では、まさに“解決”されており、どんな「困難」でもないことが示されている。マルクスがまず説明していることは、このことである。そしてマルクスは、均衡をもたらすために、こうした多くの媒介、あるいは諸契機が存在していることを指摘し、恐慌の可能性の拡大を論じている、しかしマルクスは決してその「必然性」など語っていないし、語るはずもないのである。
『海つばめ』第1009号(2006年1月29日)
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