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富塚の価値形態論批判/林 紘義
1.巧妙に隠された物神崇拝意識
  ――根底にケインズ主義的“需給論”
2.富塚の「回り道」とマルクスの「回り道」
  ――価値関係は「逆の関係を含まない」か
3.「第二形態」は逆転できない?
  ――『資本論』の初版こそ正しいと主張
4.「交換過程論」によるドグマの“完成”
  ――「一般的等価」は商品所有者の“意欲”
5.「回り道」も「共同作業」も別の意味
 ――俗流意識をマルクスの言葉で語る

1.巧妙に隠された物神崇拝意識
――根底にケインズ主義的“需給論”――

 富塚の「価値形態論」が議論されているが、しかしまだその評価が確定していないし、富塚のドグマが、したがってその論理のメカニズムと有害性が十分に暴露されているとは言えないだろう。それ故に、数回にわたって、いくらか詳しく富塚の「価値形態論」を論じてみる。何か形而上学的な「些事」に拘泥しているように見えるが、実際には、商品生産社会の、したがってまた資本主義生産の根底にかかわる問題でもある。つまり商品を生産する労働の歴史的な特性にかかわる、一つの重大な問題である。

◆始めに

 富塚「価値形態論」の本性――マルクス主義の“修正”をこととする――は、すでに以下のような最初の文章に明らかである。最初の“修正”は、少しも目立たない、ほんの些細な“修正”として現われる、しかしにもかかわらず、すでにそこには本質的なものがある。

 「『資本論』第一巻第一篇『商品及び貨幣』において展開されている価値形態論・物神性論・交換過程論によって、貨幣を、商品からの必然的に発生し、かつ商品に対立する価値の自立的形態として明確に理解していなければ、W―G―Wという商品の形態変換運動を商品(生産物の商品形態)に内在的な矛盾の運動形態として把握することはできず、したがってまた、『商品流通』のうちに含まれるものとしての《恐慌の原基形態》をも、その全き意味において理解することはできない。『商品流通』を、『形態運動』たるその本質においてみることなく、それによって媒介される結果たる『社会的な質料変換』という素材的な側面からのみとらえ、したがってまた貨幣を『流通の媒介物』として把握しえないとすれば、販売は購買であり購買は販売であるから、販売と購買・需要と供給とは当初から『形而上学的に均衡』しているというジェームズ・ミル及びJ・B・セーの命題を、どうして批判しえようか。いうところの『有効需要論』を本格的にそして体系的に展開するためには、先ずもって、『商品流通』を、商品に内在的な矛盾の運動形態として、明確に把握しておく必要があるのである。

 この観点に立って、小論は、『価値の自立的定在』としての貨幣成立の必然性を、諸商品の『全面的外化』の矛盾との関連において明らかにし、もって《恐慌の原基形態》を把握するための理論的基礎を明確にすることを課題とする。交換過程における諸商品の『全面的な持手変換』において生ずる矛盾を、価値形態論における第二形態(『開展される価値形態』)から第三形態(『一般的価値形態』)への移行の困難との関係において明らかにすることが、小論の中心論点である」(『恐慌論研究』、二三三頁。以下、断わりなき場合は同書より引用)。

 つまり富塚は「みそもくそも一緒くた」にするのであり、「価値形態論」においても、「恐慌の可能性」といったことを論じよ、あるいはその“視点”から「価値形態論」を、あるいは貨幣の理論を理解せよ、と言うのであるが、こんな主張は全くばかげたものである。例えば、富塚は、「貨幣を、商品からの必然的に発生し、かつ商品に対立する価値の自立的形態として明確に理解していなければ、W―G―Wという商品の形態変換運動を商品(生産物の商品形態)に内在的な矛盾の運動形態として把握することはできず、したがってまた、『商品流通』のうちに含まれるものとしての《恐慌の原基形態》をも、その全き意味において理解することはできない」と強調するのだが、もちろんこんなものは無意味なたわ言にすぎない、というのは、「貨幣を、商品からの必然的に発生し、かつ商品に対立する価値の自立的形態として明確に理解する」ことは、恐慌の可能性を理解することとは別の次元の問題だからである。この二つの問題が関連しているということは、理論的次元として別の課題であり、別個に論じられなくてはならない、ということを少しも否定しないのである。

 富塚は、「W―G―Wという商品の形態変換運動」は「商品(生産物の商品形態)に内在的な矛盾の運動形態」であると盛んに強調するのだが、単なる空文句にすぎない。商品の「形態変換運動」――何というまずい言い方だ――は、それ自体、「商品に内在する矛盾の運動形態」だなどと言うのは、「商品の転態(もしくは「変態」)」を神秘化するだけであって、「商品の内在する矛盾」について、何も語るものではない。そもそも、「商品の転態」によって、商品の「内在的な矛盾」について語ろうとするのは、根底から間違っているのであって、それを語るなら、もっと別のところでなすべきであろう。「商品の転態」には、商品と貨幣が前提されるなら、どんな「商品に内在する矛盾」といったものも現れないのであって、ただ可能性として、その背後に隠れているのである、だから、マルクスはここではただ「恐慌の可能性」について語っているだけなのである、つまりその「矛盾」といったものは、ただ純粋に形式的なものとしてしか現れないのである。

 商品の転態は、それが実際になされるものとして、その意味と内容が明らかにされるのであって、それを、転態がなされないものとしてしまっては、その独自の意義も内容も語ることができないのである。

 富塚は自らの理論の無内容さをごまかすために、「商品流通」は「商品に内在する矛盾の運動形態」だというが、具体的には、何を言っているのであろうか。商品が一般的に実現されないこと、つまり「売れない」ことを、すなわち恐慌について語っているのであろうか。しかし、もし恐慌について語るなら、つまりそうした意味での「矛盾の運動形態」について語るなら、単なる商品の転態において、それを語ることができないのは、マルクスがあんなにも明確に、あんなにも繰り返して明言していることである。富塚はマルクスの言うことを何一つまともに聞こうとしないのである。

 富塚は、貨幣を「流通形態」としてしか理解していないとか、ミルやセーの「均衡論」と同じだとか、誰か知らないが攻撃している(マルクスでも批判したいのであろうか)。しかし、流通手段としての貨幣について語る場合には、あるいは商品の転態について語る場合には、貨幣は流通手段として(つまり「流通形態」として)述べる以外ないのであって、それを述べたからといって、「均衡論」だとか、貨幣が何であるかを理解していないとか、貨幣の概念がないとか攻撃しても、そんなものは甚だしい的外れ、もしくはおかど違いであって、どんな積極的な意味も有しないのである。

 富塚は、「いうところの『有効需要論』を本格的に、そして体系的に展開するためには」と書いて、自らの問題意識、動機を、俗流主義的な本性を暴露している。彼が関心を持ち、引きつけられるのはケインズの「有効需要」論なのであり、ブルジョア的“需給論”なのである。彼は、この俗流意識を、こともあろうに、マルクスの「価値形態論」を借りて、その枠内で展開しようというのであるが、もちろんそんなことはマルクスの理論を曲解し、とことん捩じ曲げる以外、できるはずもないのである。かくして我々は、富塚がこの卑しい手品をいかになすのかを暴露しなくてはならない。

 富塚の俗論が、マルクスへの批判を不可避的に伴うことを理解するのは容易である、というのは、富塚はマルクスの理論を便宜主義的に利用しようというだけであって、その理解はどうでもいいからであり、また彼の問題意識も、理論の内容もマルクスのそれとは全く別のものであり、違っているからである。だから、富塚はマルクスの理論を利用しようとするが、常にそれに矛盾・対立し、食い違ってくるのであり、かくして、それをいたるところで“修正”し、否定し、捨て去らなくてはならないのである。

◆富塚の「廻り道」とは何か

 さて、富塚は、価値形態論において重要なのは「廻り道」の論理である、という。しかし一体、どんな「廻り道」であろうか、「廻り道」にも色々あろうというものだ。

 彼は、マルクスにならって、x商品A=y商品Bという等式において、AはBと「本質的に異なった役割を演じる」と言う。そして、富塚は商品Aは積極的な役割を、商品Bは消極的な役割を演じるとして、次のように主張している。

 「だが、それにもかかわらず、A商品がその価値をB商品の使用価値によって表現する場合、『自分は価値としてB商品に等しく、いつでもB商品と交換できるのだ』ということによって、その価値を表現するのではなく、その反対に、『B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できるのだ』ということによって、かくしてB商品に自分すなわちA商品に対する直接的な交換可能性の形態を与えることによって、価値を表現する。……そうした『廻り道』を通じてはじめて、A商品の価値は『一つの自立的な表現』を受け取るのである。A商品が、自分で、自分自身に対して、『価値物』としての形態規定を与えることはできない。他の商品に価値物としての形態規定を与え、それとの関連において価値を表現しうるにすぎない」(二三六〜七頁)。

 この珍奇な学者は、A商品(相対的価値形態にある商品、具体的にはリンネル=亜麻布)がB商品(等価形態におかれた商品、具体的には上衣)に「価値物」として措定し、それによって、自らの価値を相対的に表現することが「価値表現の廻り道」だと言うのであるが、一体どこに「廻り道」があるというのであろうか。ここには、どんな「廻り道」もないし、あり得ない、というのは、A商品はもともと自分で自分の価値を表現するなどということはあり得ないのであり、そんなことを考えることもできないからである。A商品が等価形態にあるB商品によって、その自然形態によって、自らの価値を表現するのは「廻り道」どころか、唯一のやり方であり、商品にとって必然的であるにすぎない。

 B商品を「価値物」として措定し、それによって、A商品は自らの価値を表現するから、やはり「廻り道」ではないか、自らの価値を自ら表現していないから「廻り道」だ、と言うのか。

 実際、A商品は、「『自分は価値としてB商品に等しく、いつでもB商品と交換できるのだ』ということによって、その価値を表現するのではな」いとは、どういうことか。全く意味不明の文章である。

 富塚は、A商品が「『自分は価値としてB商品に等しく、いつでもB商品と交換できるのだ』ということによって、その価値を表現する」といったことが、どこかにあるとでも考えるのだろうか。ひょっとすると、そういう場合があると考えており、その前提のもとで、ただそのことを無媒介的に(どうしたやり方が無媒介的かは分からないが)やるのはよくない、「廻り道」してやればいい、とでも言うのだろうか。

 富塚は俗流意識にこり固まっているので、A商品が自らの価値を自ら表現することもありうる、つまりそれこそA商品の行う価格表現だ、とでも言うのであろう(商品は自ら価格を付けられないので、ここでは商品所有者やその欲望が前提されなくてはならない、云々)。彼が「廻り道」についておしゃべりするのも、こうした俗流意識にとことんとらわれているからであり、むしろ、表面的な価格現象――商品所有者が自らの商品に価格をつける等々――から出発して商品交換を説明しよう――しなくてはならない――と考えているからであろう。

 A商品はB商品に対して、「自分は価値としてB商品に等しく、いつでもB商品と交換できるのだ」などと言わないし、言う必要もない。また仮に、B商品と等しいと言うにしても、だからといって「いつでも交換できる」ということにはならないし、またそんなことも言うはずもない。一体、富塚は何を言いたいのであろうか。A商品もB商品もともに商品であり、したがって価値物である限り、交換可能性を有するのであって、だからこそA商品=B商品という価値関係に置かれるのである。富塚は、何の意味もない文章を書いているにすぎない。

 では、「その反対に、『B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できるのだ』と〔A商品が〕いう」という文章は、何を言おうとしているのだろうか。

 しかしなぜ、富塚はA商品の価値表現のメカニズムを論じながら、A商品はB商品を「自分に等しく」と書かないで、「A商品に等しく」と書くのであろうか。非常に奇妙に見える。

 A商品がB商品を自分に対置し、B商品に価値の形態規定を与えるのだから、「自分」と書くべきであって、A商品などと書くべきでないのは明らかである。これではまるで、A商品と、B商品に「価値の存在形態」として措定する主体とは、別であるかである。ひょっとすると、富塚は別(別人?)と考えている(考えたい)のかもしれない、つまり富塚はA商品と、B商品を「価値の存在形態」として措定する主体は別である(後者は人間、つまり商品所有者である)とでも考えるのだろうか。

 そもそも、A商品とB商品は、相互に商品であるかぎり、もともと「価値として等しい」のであって、もし両者が違うというなら、ただ価値量において違うということが意味を持ってくるにすぎない。はたして富塚は、価値量を頭において、こんな気取った、奇妙な文章を書いているのであろうか、そうでないとするなら、こんな文章に一体どんな意味があるのであろうか。

 そしてまた、A商品がB商品を、「価値としてA商品に等しい」と言えば、それがどうして「いつでもA商品と交換できる」と言うことになるのか。そしてまた、ここでの「いつでも」という副詞はどういう意味か、なぜ入っているのか。

 A商品がB商品を、自分に等しいと「言った」からといって、どうしてそれで、B商品がA商品と「いつでも」交換できるということになるのか、こんなものは、まるでA商品の恣意であり、ひとりよがりであって、どんな意味ももたない、空虚な文章にしか見えない。これはちょうど、ある人間(A)が他の人間(B)を「愛する」と言えば、BがAを「愛する」と言うようになるといったのと同様なひとり決めであろう、つまりこんな議論はどんな客観性も持たない、勝手気ままなものである。

 そもそも、A商品がB商品を価値の形態として措定し、それによって自らの価値を表現するしかないということと、B商品が「価値体」として、交換可能な形態を得るということは二つの別個の問題である。すべての商品の共同作業によって、ある商品が一般的等価になるなら、その商品は確かに直接交換の形態(“形態”であって、普通言われる“性格”とか“能力”の獲得ということとは、いくらか違うのだ)を得るが、それはもともと商品に内在していた性格が表面化し、一商品に固着したものにすぎず(単なる「形態」の限界内のことである)、何か新しく獲得されたその商品の特別の力とか能力といったものではないのである。富塚は物神崇拝意識にとらわれているので、一般的等価の商品(貨幣)のこの“すばらしい”能力――「何でも買える」――に幻惑されるのである。

 そして、価値表現の問題を「いつでも交換できると言うことだ」などと理解することはとんでもないことであろう。彼はマルクスと全く違ったことを考えているとしか思われない。価格表現のことを言っていると理解するなら、富塚の言わんとすることも、何となくだが、理解できるような気がする。富塚にとっては、商品所有者が価格をつけることは、商品所有者が自分の商品を「いつでも交換できると言うこと」に見えるのだろう。そして、こうした“価格表現”――決して価値表現ではない――を、「価値としてA商品に等しい」と言うことだとでも理解するのだろう。というのは、A商品は(すでに貨幣である)B商品によって、価格を表現するからである。だが、こんな理屈は、貨幣によって貨幣を説明することであっても、価値形態論の課題とは何の関係もないのである。

 富塚は、商品所有者が自らの商品に価格をつけるなら、それは他方では、貨幣を措定することだとでも考えるのだろうが、しかしこうした論理自体が、貨幣の生成の必然性を明らかにするために、すでに貨幣を前提するものであり、したがって空虚な循環論証にしかなりえないということが分からないのである。

 もちろん、A商品がB商品を「価値の存在形態」として措定するのは、もともと価値物ではなかったB商品を価値物にする、といったことではない(商品である限り、使用価値であるとともに、価値であることは前提されている)。そうではなくて、すでに価値でもあり、使用価値でもあるB商品を、「価値の存在形態」(その意味での「価値物」、つまり別の言い方をすれば「価値体」)としてのみ抽象し、“純化”するのであって、かくしてこのように「価値の存在形態」として純化したB商品によって、その肉体を借りて、自らの価値を表現するのであり、することができるのである。つまりB商品が価値の、価値だけの存在形態として登場する限りで、A商品はそれによって、自らの価値を表現できるのであるが、これはまことに分かり易い道理というものではないだろうか。

 これが基本的な価値表現のメカニズムであって、この限り、「廻り道」だと大騒ぎしなくてはならないようなものは何もないのである。

 B商品を「価値の存在形態」として抽象し、措定するということは、富塚の言うような「B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できる」といったことと、何の共通点もないことは、両者の論理をちょっと比べるだけでも明らかであろう。マルクスの理論は合理的なものとして現れるが、富塚の言っていることは、チンプンカンプンの空辞、意味不明の空文句以外の何ものでもない。

◆隠された物神崇拝意識

 「B商品は価値としてA商品に等しく、いつでもA商品と交換できる」といった文章は、子細に検討すればするほど奇妙なものに見えてくる。B商品が「価値として」A商品に等しいと、「A商品が言う」という表現の珍奇さについては、すでに述べた。

 それにしても、「いつでも交換できる」という言い方は、おかしなものである。B商品が獲得するのは、「形態」つまり交換可能な形態であって、交換可能性そのものではないし、またそれが「いつでも」交換できるかどうかといった問題でもない。どんな商品も貨幣と「いつでも」交換できるのは、ただ商品交換の世界、価値関係が支配する社会においてのみであり、ある特定の商品が他のすべての商品によって、価値表現の形態に、つまり一般的等価の形態に祭り上げられている限りのことであるにすぎず、この関係をはなれて「いつでも」交換可能性を獲得するということではないが、富塚がこのことを理解しているように思われない。A商品が「自分に価値として等しいと言えば」、B商品が(つまり、金が)「いつでも」交換できる能力を獲得するというのだから、これはまさに貨幣物神崇拝を説いているようにしか思われない。A商品は、価値の形態に、つまりその自然形態が価値の象徴に、「価値体」に祭り上げられたからこそ、他の商品と「いつでも」交換できる形態を、ただ形態だけを獲得しているにすぎず、交換できる「能力」を獲得したわけではない、しかるに富塚の言い方では、あたかもこの能力を獲得したかに表現されているのである。とするなら、これはまさに物神崇拝意識、巧妙に偽装され、隠蔽されてはいるが、典型的な物神崇拝意識ではないのか。

 おそらく富塚は、直接に交換されえない商品(金)が、「いつでも」交換され得るようになるのだから、これもまた一つの能力として表現して何が悪いのか、どこが間違っているのか、と開き直るのであろう。富塚は、貨幣が商品と「いつでも」交換され得る「能力」を獲得するのが、ただ他のすべての商品によって、一般的等価として措定されているからであり、ただその限りにおいてでしかないということ、問題の根底が「価値の形態」であって、交換可能の「能力」ではないということが分かっていないのである。関心が、交換可能の「能力」にのみ傾いていることこそ、富塚のブルジョア俗流意識を、事実上の“ケインズ主義的”意識を暴露しているのである。

 しかし金は発展した商品世界では、すでにこうした能力を持つものとして現れている、そして富塚は、この直接の現実を見て主張するのである、金は「いつでも」交換可能な商品である、と。そしてこの場合、金が「いつでも」交換可能であるというのは、それが商品と「いつでも」交換され得るからか、それとも商品が「いつでも」金と交換され得るのか、どちらかも明白ではない、あるいは富塚にとっては、どちらでも同じことなのである。

◆総括

 富塚は、等価形態の商品は「直接の交換可能性」を獲得する、と主張する。そしてこの見解が、富塚理論の根底をなしている。したがってまた、それは富塚理論の本質を暴露するものでもある。

 しかし商品は価値として、本来的に他の商品との「直接の交換可能性」を持っているのであって、等価形態において、それを獲得するものではない。価値形態論の第一形態においても、第二形態においても、A商品も、B商品あるいはC商品等々も共に、「直接の交換可能性」において相互に価値関係をとり結んでいるのであって、それを持たない何らかの「使用価値」(商品、ではなくて)が、交換関係において「直接の交換可能性」を持つようになる、といったことではないのである。

 例えば、第二形態を取って見ても、A商品はB商品と、ついでまたC商品と、さらにはD、E、F商品と無限の連鎖において相互的な「交換可能性」を持つことが示されているのであって、ここでは「使用価値による制約」といったことは、全く問題にされていないのである。確かに商品は価値と使用価値の「矛盾的自己同一」である、だが、価値形態論においては、価値の本性から価値形態を導きだすことだけが問題になっているのであって、いわゆる『交換過程論』とは全く異なった視点から分析がなされているのである。

 富塚は、等価形態の商品が「直接の交換可能性」を獲得するかに言うのであるが、しかしいかなる意味でそうなのかを反省しないのである。等価形態の商品の「直接の交換可能性」といったものが、商品の本性が顕在化してきたものであって、商品の本性の中に存在していたものが現われたものにすぎない、ということが理解されていないのである。商品そのものが、価値として相互に「交換可能性」(直接であれ、間接であれ)を持つからこそ、それは一般的等価形態として現実化するのであって、そもそも商品に「直接の交換可能性」がないとするなら、それは一般的等価形態として、貨幣として現われることは決してないのである。

 富塚は事実上、本来商品の持たない「交換可能性」が、商品の価値関係の中で、B商品に与えられると理解する、しかし実際にB商品が受け取るのは、ただその形態にすぎないのである。

 だから、彼の理論は結局物神崇拝の立場に接近するのであり、そこに帰着して行かざるをえない。もし価値形態を、価値の本性から導き出さないとするなら、それはそれ以外のところから持ってくるしかないのであり、したがってまた貨幣の「直接の交換可能性」は金の本性等々から、つまり商品の価値性格以外の契機から(使用価値としての性格等々から)説明する以外ないのである。

 かくして、彼がA商品の所有者の「欲望」といったものを持ち出すのも当然なのである。彼はブルジョア的な効用価値説に近づくのである。貨幣の本性もまた、価値の本性から導きだされないのであり、したがってそれは「直接の交換可能性」を持つものとして、他のそれを持たない商品を動かすものとして(富塚は『運動』を可能とするなどと言う)、つまり何よりも「購買手段」として規定されるのであり、かくしてブルジョア的「需給説」やケインズ主義の「有効需要説」との親近性が強調されるのであり、最終的には、共産党的な「過少消費説」が正当化され、擁護されるのである、つまり恐慌などは「有効需要」「購買力」の不足から説明され、資本主義の根底的変革ではなく、消費拡大による資本主義的矛盾の緩和が、ありきたりの日和見主義と改良主義が、お説教されるのである。

『海つばめ』第1024号●2006年8月27日


2.富塚の「回り道」と
マルクスの「回り道」

――価値関係は「逆の関係を含まない」か――

 私が問題にするのは(私の意識に「ひっかかって」止まないのは)、A商品が、「B商品は価値としてA商品〔自分?〕に等しく、いつでもA商品〔自分?〕と交換できるのだ」と言うことによって、A商品(自分?)の「価値を表現する」という富塚の「回り道」の奇妙な理解であり、彼の価値形態論の根底、出発点である。富塚は、こうした理屈をマルクスの理論だと言いはやしつつ、他方では、マルクスをあれこれ批判し、マルクスの理論に難癖をつけるのであるが、はたして富塚理論はマルクス主義といえるのか、そして彼のマルクス批判に何か正当なものがほんのわずかでもあるのか、ということである。前回に引き続いて、最も根底的な点を論じ、彼の“理論”(空文だ!)がマルクスのそれと「似て非なるもの」であることを明らかにしよう。

◆富塚理論の“秘密”

 富塚は商品が、自ら価値がいくばくだと勝手に言うことができないから、貨幣商品の肉体を借りて、それでもって、「価値を表現する」のであり、それこそが『価値形態論』の課題であると理解するが、しかしこの課題が本当に果たされるのは『交換過程論』においてであって、ただ『価値形態論』はいわばその準備段階であるにすぎない、と主張するのである。

 だから、彼は「回り道」の論理を、「A商品はみずから自分の価値をこれこれであると言うことはできない」から、B商品の体を借りて表現する、という形で述べるのである。A商品がやはり、自分の価値を「表現する」のであるが、ただそれはB商品つまり貨幣によって、円とかドルとか「言う」のが、「回り道」だという理解である。商品が円とかドルとか言えるはずはないので、A商品の価値通りの(?)交換の場合は、どうしても商品所有者が「想定されなくてはならない」とおっしゃるのである。

 商品は自ら自分の価値を表現できないから、「回り道」をしてそれをなす、などというのはもっともらしく見えるが、無内容な同義反復でしかない。商品が自分で自分の価値表現のすべを持っていないということは、他の商品との価値関係の中でそれをなす以外ないということのうちに含まれていることであって、ことさら、商品は自分で価値を表現できないと強調することで、富塚は何を言いたいのであろうか。『価値形態論』の本来の課題以外の、おかしな動機があってのことではないかと、勘繰らざるをえないのである。

 そして、事実富塚や宇野は、他の動機を持っているのであり、だからこそ、「商品は自分で自分の価値表現はできない」といった、ある意味で分かりきった、空虚なことをはやし立てるのである。

 もちろん、商品交換のもっとも表面的な現象を、そのまま叙述しても、「回り道」についておしゃべりすることはできる、というのは、そこでも一般商品は貨幣によって、その価値を表現しているからである、つまり円とかドルという価格を持っているからである。円などの価格が、貨幣による価値表現であるということはその通りであるから、これを商品は自分で自分の価値を――富塚等にとっては、価格を――いくばくと言えないから、貨幣によって、それを「表現する」のだ、それが「回り道」だと考えることもできるのであり、まさに富塚等はそのように理解しているのである。そしてマルクスの『価値形態論』も、この「過程」の、つまり富塚の言うところの「運動」の理論であると勝手に思い込み、自らのこうした俗流意識によって、マルクスは一貫していないとか、間違っているとか言い立てているというわけである。

 だからこそ、富塚は、A商品が自分の「価値」(価格)をいくばくだと「言った」からといって、それはB商品と「必ずしも」交換するということでもないし、B商品の決まった一定量と交換するということでもないなどと、つまらない主張をするのだが、ここで富塚が頭に思い浮かべているのは、市場の具体的な現象、価格現象であるにすぎない。

 マルクスの言う「回り道」とは、単に、A商品が自分の価値を自分で「言う」ことができないから、B商品を媒介にして、自らの価値を「言う」といったことではない、そんなものは、いかにして商品の価格表現がなされ得るかということを、形式的に、無概念的に述べているにすぎず、最も表面的に市場の現象を見ても言えることであろう。富塚はマルクスに似せて、B商品を「価値物」にしてから、それを媒介にして、A商品は自分の価値を表現するというのだが、しかし、なぜ、いかにしてB商品を価値の形態にするのか、なし得るのかを語らないから――理解していないから――、富塚の理屈は無意味なもの、空虚な贅言(ぜいげん)に留まるのである。かくして富塚にとっては、事実上貨幣は前提されている(そうならざるを得ない)、だからこそ、彼は『価値形態論』の意義をどうでもいいもの、単に『交換過程論』の準備的なものと強調するのであり、その独自の意義と内容を否定し、捨て去るのである。

◆商品は「自ら価値を言えない」?

 富塚は、「回り道」の論理を「A商品はみずから自分の価値をこれこれであると言うことはできない」から、B商品の体を借りて表現する、という形で述べるのであるが、しかしこれは極めて問題ある言い方ではないだろうか。私は常に、ここで“ひっかかる”のである。

 そもそも、A商品が「みずから自分の価値をこれこれであると言うことができない」とは、どういうことか。商品はどんな商品であれ、またいかなる形であれ、その価値を「みずから言わない」からこそ商品であって、もし生産物が「みずからの価値」を自ら言うなら(言うことができるなら)、それは共同体社会における、直接に社会的な生産物であって、決して商品ではないであろう。商品は自分から自分の価値を(抽象的人間労働としての本性を)「言わない」だけではない、他の商品の助けを借りても「言わない」のであって(ただ、“物象的な”形で表わすだけである)、こんな文章を書く富塚は、商品というものが何も分かっていないのであり、さらには『価値形態論』における(つまり、商品の)「価値表現」ということの意味も分かっていないのである。

 富塚は商品が「みずからの価値を言う」ということの意味を反省していない、というのは、商品の価値とは(その「実体」は)抽象的人間労働であるということを理解していないからである。どんな商品も、自らのこうした本性を自ら決して語ることはないのであり、だからこそ、ブルジョア社会(商品の社会)では、商品の価値はただ相対的に、他の商品との価値関係の中で現われ、示されるにすぎないのであるが、それは直接には(そのものとしては)、商品の価値の本当の表現といったものとは別なのである。富塚はこの肝心要のことを反省していないのであり、商品が商品として、自らの価値を「言う」などと主張するのだが、実際には(彼が頭で意識しているのは)、それはただ「価格」といったもののことを言っているにすぎないのである。だから、富塚の理論にあっては、話は最初から一つのチンプンカンプン、混乱として現われる以外ない。

 A商品が「みずから」言うことのできない、自分の「価値」を、いかにしてB商品の助けを借りて、その身体を利用して、表現することができるのか。富塚はできる、というのだが、それはB商品をすでに貨幣として措定し、あるいは前提しているからにすぎない。富塚の見ているのは、商品が自らの「価値」を、いくばくの円、ドル等々として表現しているという“事実”である。そして富塚に言わせれば、この円、ドル等々は金の一定量である、つまり商品はかくして、金の助けを借りて、金の一定量として、自らの「価値」を表現している、というわけである。確かに、ここにも「回り道」は存在する!

 富塚は、マルクスに倣って、諸商品は共同作業によって貨幣を生み出すとも言うのだが――それを言わなかったら、富塚は自分の理論を「マルクス主義」として売り出すこともできない――、しかしその貨幣はただ商品の価値と使用価値の矛盾を解決するものとして誕生する、といったことでしかなく、価値の概念からは導きだれるものではない、つまり富塚の強調するところでは、『価値形態論』の課題ではなく、『交換過程論』が説明する問題であるにすぎない。だから、彼の『価値形態論』はただA商品がB商品に一般的等価の形態を一方的に押しつけるという、A商品のひとりよがりとしてしか示されないのであるが、もちろんA商品が一方的に、B商品は一般的等価だなどと宣言することで、どうしてBを一般的等価の形態にすることができるのであろうか。全く恣意的な、奇妙な理屈であるとしか言いようがない(マルクスの言うような「回り道」など、どこにもない)。

 つまり富塚は、一方では、B商品を貨幣として前提し、他方では、A商品がB商品に貨幣の役割を押しつけ、強要する、と言うのであるが、しかしA商品がB商品にであれ、他のどんな商品にであれ、貨幣になれ、と命令すれば、その商品が貨幣になる、などということがあり得ないのは、誰でも(小学生でも)容易に理解することであろう。だから、富塚には貨幣(貨幣形態)を価値の本質から導きだす理論(『価値形態論』)は実際にはないのであり(だからこそ、富塚は『価値形態論』を単に『交換過程論』の予備的なものとしてのみ位置づける)、したがって結局は、それを無媒介的に前提するしかないのである。

◆マルクスの「回り道」

 マルクスもまた価値表現の「回り道」について語っているではないか、というのか。しかしマルクスのそれは、富塚の言うような、「B商品を価値の形態」として一方的に宣告し、それによって、自らの価値を表現するといったものとは全く別のものであろう(こうした俗論も、確かに一種の「回り道」を含んでいる、つまりA商品の価値はB商品を媒介にして「表現」されるのだから)。

 マルクスは「回り道」について語った個所で、次のように書いている。マルクスは商品の価値形態は、ただ一商品の他の商品に対する価値関係によってのみ現われて来るとして、次のように「回り道」について言及している。

「例えば、上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって、上衣にひそんでいる労働は、亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。さて、上衣を縫う裁縫は、亜麻布を織る機織とは種類のちがった具体的な労働であるが、しかしながら、裁縫に等しいと置かれるということは、裁縫を、実際に両労働にあって現実に同一なるものに、すなわち、両労働に共通な人間労働という性格に、整約するのである、この迂路〔回り道〕を通って初めてこう言われるのである、機織も、価値を織りこむかぎり、裁縫にたいして何らの識別徴表を持っていない、すなわち抽象的に人間的な労働であるというのである。ただおのおののちがった商品の等価表現のみが、種類のちがった商品にひそんでいる異種労働を、実際にそれらに共通するものに、すなわち人間労働一般に整約して、価値形成的労働の特殊的性格を現出させる」(『資本論』一巻一章、岩波文庫1分冊九四〜五頁)。

 問題は、商品の価値関係においては、その「価値性格」が現れるということである、つまり商品を生産する労働の“質的な”側面(「価値形成労働の特殊性格」)が出てくるのであって、それは単純な価値関係から始まって、一般的等価形態(貨幣)の形成にいたるまで止まることがないのである。根底的なことは、商品価値の内在的な本性として、したがってまた商品を生産する労働の本性(「特殊性格」)として、貨幣の本質が明らかにされることであって、そのための『価値形態論』であることが決して忘れられてはならないのである。だが、富塚はこの理論の意義を決して理解せず、その最も表面的な内容のみに目をやり、A商品がB商品によって自らの「価値」を表現するのだ、つまり商品は貨幣によって自らの価値を円等々と表現している、マルクスの理論はその説明だ、などと皮相浅薄に曲解するのである。

 マルクスの「回り道」の理論は、単に、富塚が言うような表面的な内容でないことは明らかである。マルクスは、亜麻布が上衣を価値物として自分に等しいと置くことは、共通の価値対象物として対置することだが、しかしそのことは、同時に、上衣を使用価値から抽象して、価値の象徴、価値の存在形態として措定することである、と言うのである。マルクスは、二商品の価値関係は、B商品を生産する労働を、使用価値を生産する労働という性格から抽象して、「共通の抽象的人間労働という性格に整約する」と言っている。つまり、B商品の肉体を借りて、A商品が自らの価値を表現する前に、こうした「回り道」があるのであり、またあるからこそ、B商品が価値の象徴として、価値(その実体は、抽象的な、そして社会的な形で支出された人間労働である)の凝固物、「価値体」として現れることができるのである。マルクスの「回り道」と、富塚の形式的な「回り道」とが“似て非なる”ものであるのは明らかではないだろうか。

 マルクスの言う「回り道」とは、A商品がB商品を自らに価値物として等しいと置くことによって、両者を生産する労働の社会的、質的同一性を顕現化させ、したがってまたB商品を生産する労働を、抽象的人間労働に帰着させ、こうして媒介を経て、B商品を(その自然的形態を)価値の形態にするということ(「価値体」の規定を与える、「価値体」として措定する等々)であって、富塚が理解するような、単純にA商品がB商品を勝手に、何か宣言することによって価値形態にして(どうして、宣言することで価値形態になし得るかは、神のみぞ知る、であるが)、それによって、自らの価値を表現するといったことではない。単に「言え」ばいいといったものではないのである。

 富塚の「回り道」とは、ただA商品は「自分で自分の価値は表現できない」から、B商品によって表現するといったことが「回り道」の内容として押し出されているが、マルクスはその前提としての、価値表現のメカニズムの問題として、つまりなぜA商品はB商品によって、その自然的物質的存在によって、価値を表現できるのかの問題として、「回り道」といったことが言われているのである。つまり、B商品を自らに等しいと置くことによって、共通の価値性格を現出させ、そのことを媒介にしてB商品を価値の形態にする――初めて、そうすることができる――ということが、「回り道」ということで言われているのである。

 結局は同じことではないか、と言うのか。しかしこれは決して「同じこと」ではないのである。富塚はただ無媒介的に、A商品はB商品を価値形態に置くというだけであって、それがいかにしてなされるのか、可能なのか、といったことはどうでもいいものとして、仮に言われるとしても、ただ形式的に言われるだけである(マルクスが言っているのだから、そして自分もマルクス主義経済学者を気取るのだから、少しはマルクスの言い回しも並べておかないと示しがつかない、といった程度のことである)、そしてただ、「A商品は自分で自分の価値を表現できない」から、「回り道」をしてB商品で表現するのだ、といったことが繰り返して強調されるのである。

 しかしマルクスにあっては、「回り道」は価値表現の仕方、そのメカニズムの根底にかかわる問題として提出されているのである。なぜこうした形で価値表現が可能か、なされるのかということが根本的に問題にされているのであるが、富塚はただ、そういう事実が現実としてある、と言うだけである。

◆「逆関係は含まない」?

 これらと関係して、いわゆる諸商品の価値関係は「逆関係を含む」というマルクスの主張に対して、富塚のしつっこい異議の申し立てがある。

 富塚は二商品の価値関係は「逆の関係を含ま」ないと言いはやし、そのことを理解していないという点で、マルクスを非難してやまない。富塚が強調することは、二商品の価値関係は、一方における相対的価値形態の商品、他方における等価形態の商品という位置関係もしくは相互関係が決まっているのだから、「逆の関係」を含まないし、含むはずがないといった、つまらないものである。

 ある意味で、富塚の言っていることは平凡で空虚な同義反復である。一方の商品が相対的価値形態の位置にあり、他方の商品が等価形態の位置につくなら、それはそのかぎり、「逆の関係」を含まない、などといったことは、富塚が大げさに言わなくても誰でも知っていることであって、マルクスがそれを知っていなかった、無視しているなどというのは富塚の汚い中傷でしかない。

 問題は、二商品の価値関係としてはどうなのか、ということである。つまりA商品が逆に等価形態に置かれ、他方B商品も逆に相対的価値形態に置かれることがないかどうか、ということである。しかしそうしたことがあり得るのは明白であって、このことは商品の本性から出て来ることである、というのは、商品は社会的価値として、どれも平等であり、同質であって、A商品とB商品の間にどんな違いもないからである。だから、二商品の位置を反対におけば、一方が今度は等価形態となり、他方が相対的価値形態になるのは当然であり、明白であって、富塚がなぜこんな単純なことを理解できないのか、そしてこんなことでマルクスを攻撃するのか、できるのかということこそ奇怪(きっかい)であろう。

 もちろん、そのためには等式を逆転させなくてはならないのであって、そのままで、逆の関係を表現できるなどということがあり得ないのは、当たり前のことである。富塚は、あたかもマルクスがそんなばかげたことを主張しているかに言いはやすのだが、それはただ富塚がマルクス主義の神髄を少しも理解していない――できない――つまらない浅学者であり、さらに悪いことには、卑しい中傷者であるということを暴露するだけである。

 富塚がマルクスを批判してたわ言をつらねるのは、A商品とB商品の関係は、逆の関係を「含まない」、というのは、二商品がこうした関係に置かれるのは、A商品には所有者が前提され、したがってまた、B商品は(その地位、もしくは役割は)A商品の所有者の欲望によって規定されるからだ、などといった奇妙な見解を抱いているからである。つまり、マルクスとは違って、富塚はもともとA商品とB商品は違うのだと叫ぶのだが、価値性質において同一の二つの商品が、いかにして、商品としての本性において違うのかを説明することは決してできないのである。

 おそらく富塚は、例えば、普通の商品と貨幣“商品”は最初から違うではないか、それを同一のもとして理解したのでは、貨幣やその役割の説明はできない、といった卑俗な意識から出発しているのであろう。だから、彼にあっては、A商品――決してB商品ではない――はすでに現実に貨幣である(なくてはならない)、というのは、その所有者の欲望が前提され、それによって他の商品と交換されるからであり、されなくてはならないからである。だから、後で見るように、富塚は、価値関係を「逆転」させなくても、そのままで、相対的価値形態の商品が等価形態になり得るかの理屈を述べ立てるのであり、A商品がそのままで一般的等価に、つまり貨幣に転化するかの暴論を持ち出すのである。もちろん、こうした立場からはどんな「逆転」も必要ないだろうし、また第二形態から第三形態への移行における「逆転」の意味も理解できないであろう、つまり一般にマルクスの『価値形態論』は彼にとって“ブタに真珠”なのである。

 A商品の所有者やその欲望といった契機が――一般的に、A商品の所有者のみならず、商品の所有者一般という契機が――、『価値形態論』では問題にならないこと(捨象されること)は、この論理課題の前提から出てくるのである。つまり、『価値形態論』で問題になるのは、商品相互の価値関係だからであり、その限界内にとどまるからである。富塚はA商品の所有者やその欲望といった契機を考慮しなければ、貨幣の理論――貨幣の本質やその“出生の秘密”等々――は分からないというのだが、こうした主張自体が、彼がブルジョア経済学のレベルに転落していることを教えている。

◆マルクスの『価値形態論』の意義

 我々はここで、マルクスの『価値形態論』の一般的な意義について語っておこう。我々は『価値形態論』はまさに商品を生産する労働の特殊歴史的な性格が表出する過程であり、したがってまた貨幣は、商品価値の本性から導きだされるのであり、また出されなくてはならないと強調してきたが、それは、マルクスの言葉を借りれば、以下のようなことであった。

「商品世界の一般的な相対的価値形態は、この世界から排除された等価商品である亜麻布に、一般的等価の性質を押しつける。亜麻布自身の自然形態は、この世界の共通の価値態容であり、したがって、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換可能である。この物体形態は、一切の人間労働の眼に見える化身として、一般的社会的な蛹化〔ようか〕としての働きをなす。機織〔はたおり〕という亜麻布を生産する私的労働は、同時に一般的に社会的な形態、すなわち、他のすべての労働との統一性の形態にあるのである。一般的価値形態を成立させる無数の方程式は、順次に亜麻布に実現されている労働を、他の商品に含まれているあらゆる労働に等しいと置く。そしてこのことによって、機織を人間労働そのものの一般的な現象形態にするのである。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実的労働のすべての具体的形態と有用なる属性とから抽象された労働として、単に否定的に表現されるだけではない、それ自身の肯定的性質が明白に現われるのである。それは、すべての現実的労働を、これに共通なる人間労働の性質に、人間労働力の支出に、約元したものなのである。
 労働生産物を、無差別な人間労働の単なる凝固物として表示する一般的価値形態は、それ自身の組立てによって、それが商品世界の社会的表現であるということを示すのである。このようにして、一般的価値形態は、この世界の内部での労働の一般的に人間的な性格が、その特殊的に社会的な性格を形成していることを啓示するのである」(同一二二〜三頁)。

 だがもちろん、富塚ら俗学者には、こうした重大な観念も“馬の耳に念仏”にすぎず、ただ素通りするだけである。

『海つばめ』第1025号●2006年9月10日


3.「第二形態」は逆転できない?
――『資本論』の初版こそ正しいと主張――

 富塚は、価値形態の第二形態から第三形態への移行は、第一から第二への移行と違って「本質的な差異」、「本質的な困難」がある、と主張する。しかし一体、どんな「本質的困難」か。マルクスはここで「本質的な変化」があるとは言っているが、「本質的な困難」がある、などとは言っていないのであるが。問題になるのは、いわゆる価値形態の「第三形態」が“同時的に”成立するかどうかということであり、また富塚のように、そんな想定をして議論することがまともな思考か、ということである。

◆全商品の“同時的な”第三形態?

 富塚の主張は以下のようなものである。

 「第三形態は、一見したところ、第二形態を単にひっくり返したものにすぎないようにみえるが、しかし両者の間には根本的な差異がある。第二形態が(第一形態と同様に)各個の商品の『私事』として成立しうるのに対して、第三形態すなわち『一般的な等価形態』は、『商品世界の共同事業としてのみ成立する』のである。……各個の商品についての『開展された等価形態』が同時的に成立することは可能であり、したがって各個の商品の自然的形態が、『いずれもが他を排除するところの』・『特殊的等価』としてあることは可能であるが、しかし、これらの各個の商品についての『開展された等価形態』をひっくり返した形態が、同時的に成立することはできない。――第二形態の左辺と右辺とを入れ変えることによって第三形態をうることは、紙面の上でのみ可能なことであるにすぎないのである。この点、現行『資本論』の価値形態論における第二形態から第三形態への移行に関する論述の仕方には、率直にいって疑問の余地がある。少なくとも、右の問題の所在――マルクス自身によって明らかにされたこの肝要な問題の所在――を不明確にするおそれがあると思われる」(二四〇〜一頁)。

 これが、マルクスの「逆転の理論」は間違っていると非難する、富塚の理屈である。富塚はマルクスの理論は紙上の空論であると勇ましく攻撃する、しかしはたして「紙上の空論」を振りまいているのがマルクスなのか、それとも富塚であるかは、すぐに明らかになるであろう。

 あらかじめ言っておくが、富塚の主張は基本的に、宇野学派がやっている、マルクス攻撃と同じような“いいがかり”、中傷のたぐいであって、どんなまともな根拠もないものである(したがって、マルクス主義者を装う限り、富塚は、許しがたい“修正主義的な”裏切り行為を働いていると言える)。

 要するに、富塚は、第二形態はすべての商品において“同時的に”成り立つが、第三形態はすべての商品において“同時的に”成り立つとは言えない、だから簡単に、第二形態をひっ繰り返して第三形態を導きだすことはできない、と言うのであり、そんなつまらない浅知恵を振りまいているだけのことである。

 富塚は“同時的に”成り立つか、成り立たないかといったことが、何か決定的な問題であるかに騒ぎ立てるのだが、もともとここでは、そんなことはどうでもいいことであって、理論的に少しも問題になっていないのである。

 ただ一つの商品、例えば、亜麻布の例だけで十分に第二形態の概念的説明はできるのであって、それはまたマルクスのやっていることである。ただ、マルクスは亜麻布において言えることは、他のすべての商品についても同様であると説明を加えるのだが、これは第二形態がすべての商品において“同時的に”成り立つといったこととは全く別のことであろう。卑俗な“現実”(混沌たる現象)に目を奪われ、概念というものが理解できない俗学者の富塚は、常にマルクスの理論を曲解するのである。

 だから、マルクスにあっては第二形態の第三形態への「逆転」もまた簡単に、事態の本性に即して説明されるのだが――つまり、亜麻布と、他のすべての商品の立場と役割が反対のものとなり、他のすべての商品が亜麻布を等価形態として措定することで、亜麻布を一般的等価形態にする、という形で――、この単純明確な理屈が富塚には理解できないのである。

 富塚は、マルクスが主張するように、第二形態が「すべての商品」において“同時的に”成り立ち、また第三形態でも、それを逆転させて、「すべての商品」において“同時的に”成り立つなどとするなら、すべての商品が“同時的に”貨幣になるしかないではないか、そんな途方もないことが現実としてあり得るはずもない、ここには「困難がある」などとわめき立てるのだが、自分がどんなにばかげた想念に取り付かれているかに全然気がついていないのである。

 彼は、第三形態、つまり「一般的等価形態」について、二〇ヤールの亜麻布=一着の上衣という等式関係においては「左辺と右辺との意味の相違」があるのだ、右辺と左辺の「商品の果たす役割は、本質的に異なっている」、「前者の等式関係が後者のそれを当初から『含んでいる』とすることはできない」、「二〇ヤールの亜麻布=一着の上衣という等式関係は、『上衣は価値として亜麻布に等しく、一着の上衣はいつでも二〇ヤールの亜麻布と交換できる』ということを表現しているのであって、その逆に、『亜麻布は価値として上衣と等しく、二〇ヤールの亜麻布といつでも交換できる』ということを表現しているのではない」、ここでは、上衣は亜麻布に対して「価値物」としての意義をえ、かくして亜麻布の価値が表現される、こうした「廻り道」を通じてはじめて、亜麻布の価値が表現されるのであって、亜麻布が自分で自分に「価値物」としての規定性を与えることはできるはずもない、などど盛んに言いはやしている。

 しかし、こんなことは――富塚流のおかしな言い方は、ここでは問わないとして――商品の価値関係一般について言えることであって、簡単な価値形態(第一形態)でも、発展した価値形態(第二形態)でも同じであり、わざわざ第三形態を引いて騒ぎ立てることもないのである。むしろ、すでに理論的に解決している、こんな初歩的な問題を第三形態において改めて持ち出し、あれこれ言いはやすところにこそ、富塚の立場の愚劣さがさらけ出されている。

 『資本論』をひもとけば明らかなように、「価値形態論」は決して富塚がいうように展開されてはいない、むしろはっきりと、第二形態は亜麻布の「総体的または拡大せる価値形態」として展開されていて、すべての商品の「同時的な」拡大された価値形態として説明されていないのである。つまり富塚にとって極めて都合の悪いものになっているのである、だからこそ“悪賢い”(もしくは小才のきく)富塚は、現行『資本論』ではなく、その「初版」に救いを求め、そこに逃げ込むのである、つまりマルクスが訂正したものではなく、訂正しないものこそが正しいと言いはって譲らないのである。

◆初版の「形態四」を至上視して

 富塚は『価値形態論』では、貨幣の“必然性”を語ることはできず(単に「布石」が置かれたにすぎない)、『交換過程論』における、それは商品の「全面的交換の矛盾」から説かれるべきだと強調するのだが、その論理はマルクス自身によるものだとして、現行『資本論』にではなく、『資本論』初版の文章に逃げ込むのである。

 つまり富塚は、マルクスの『資本論』初版の論理が正しくて、『資本論』現行版の文章は不十分であり、むしろ欠陥を有していると考えるのだが、しかしマルクスがわざわざ書き改め、修正した方が正しくないなどとどうして言えるのか、というのは、マルクスは初版の叙述がより未熟であり、未整理だと思ったからこそ、それを改めたに違いないからである。それとも富塚は、わざわざより悪いものにするために、混乱をもたらすためにマルクスは初版を書き改めたのだ、とでも言い張るつもりであろうか(そして、マルクスはそんなにも愚者であり、富塚は「マルクス以上のマルクス」であり、賢者だとうぬぼれたいのか)。

 富塚は、現行『資本論』はおかしく初版は正しいと言うが、しかし実際にこの両者の理論に基本的な違いなどないのである。富塚は、自分のドグマを展開したければ、マルクスの“あれこれの”見解――というより、文章――を恣意的に持ち出すのではなく、自分の文章と表現でもって、堂々と自分の理論――そんなものが、もしあるとしてのことだが――を述べるべきであろう。マルクスの陰に隠れ、その権威を借りるという形で、こそこそと発言すべきではない。

 さて、富塚が『資本論』の叙述より正しいと美化してやまない、『資本論』初版の「形態四」とは、次のようなものである。

 もちろん、ここで言われている「形態四」とは、『価値形態論』の展開における「形態四」であって、現行『資本論』の「形態四」とは別である。この部分は、初版では、「リンネル〔亜麻布、つまりA商品〕が自分の価値をまず第一に一つの個別的な商品において示し(形態T)、次にすべての他の商品において順次に相対的に示し(形態U)、こうして逆関係的に、すべての他の商品がリンネルにおいて自分たちの価値を相対的に示した(形態V)」(『資本論』初版、国民文庫七五頁)ということによって、亜麻布が一般的等価形態に転化することが語られるが――これは現行『資本論』と基本的に同じである――、その後、それを受けて、「リンネルに当てはまることは、どの商品にもあてはまる」として、形態Vにおける亜麻布(リンネル)の位置(一般的等価形態)に、上衣や、その他多くの商品を置いた等式を展開し、それを形態Yとしているのである。つまり、マルクスは、形式的には、亜麻布だけでなく、どんな商品も一般的等価の地位に座ることができるというのであるが、これは至極もっともなことであろう。

 「二〇エレのリンネル=一着の上衣 または=u量のコーヒー または=v量の茶 または=x量の鉄 または=y量の小麦 または=等々。
 一着の上衣=二〇エレのリンネル または=u量のコーヒー または=v量の茶 または=x量の鉄 または=y量の小麦 または=等々。
 u量のコーヒー=二〇エレのリンネル または=一着の上衣 または=v量の茶 または=x量の鉄 または=y量の小麦 または=等々。……
 しかしこれらの等式のそれぞれは、逆の関係にされれば、上衣、コーヒー、茶、等々を一般的な等価物として現われさせ、したがってまた上衣、コーヒー、茶、等々においての価値表現をすべての他の商品の一般的な相対的な価値形態として現われさせる。一般的な等価形態は、つねに、すべての他の商品に対立して、ただ一つの商品だけのものになる。しかし、それは、すべての他の商品に対立して、どの商品のものにもなる。しかし、どの商品もが、それ自身の現物形態をすべての他の商品にたいして一般的な等価形態として対立させるとすれば、すべての商品がすべての商品を一般的な等価形態から除外することになり、したがってまた自分自身をも、その価値の大きさの社会的に認められる表示から除外することになる」(国民文庫、七五〜六頁)。

 もちろん、初版のマルクスの理論は、『資本論』の修正された叙述と本質的に矛盾したり、食い違ったりする内容は何もないのであって、富塚は自分の都合のいいように、マルクスを勝手に読み込み、曲解し、独り合点しているにすぎない。事実、マルクスは次のように述べて、富塚のマルクス批判――A商品=B商品の等式と、B商品=A商品の等式は「相互に別個で、本質的に異なっている」ことをマルクスは理解していない等々――のばからしさを、そして皮相さを明らかにしている。

 「商品の分析が明らかにしたところでは、これらの形態は商品形態一般なのであり、したがってどの商品のものにもなるのであるが、ただ対立的にのみそうなるのであって、もし商品Aが一方の形態規定にあるならば、商品B、C、等々はこれに対立して、他方の形態を取る、というようになるのである」(同七七頁)。

 『資本論』初版の「形態四」の理論に依拠した、富塚のマルクス批判――徹底的に空虚で、ただ反動的な意味しか持たない――は、以下のようなものである。

 「亜麻布の開展された価値表現の形態を構成する第一形態の諸等式が『逆の関連をも含んでいる』とすることができるならば、同様のことが亜麻布以外の上衣・コーヒー・茶等々の諸商品の第二形態についてもいわれなければならず、かくして、各商品の第二形態を『転倒』した形態が同時的に〔?〕成立しなければならないはずである。だが、一般的等価形態にはどの商品でも立ちうるが、どれか一つの商品のみが立ちうるのであるから、どの商品もが一般的等価形態に立とうとする〔?〕ならば、『すべての諸商品がすべての諸商品を一般的等価形態から排除する』ことになり、かくして、社会的に妥当な・一般的=統一的な価値表現の関係は成立しえないことになる。したがってまた、諸商品の交換も不可能となる。すでに商品がそれぞれに展開し、また展開せざるをえない『開展された価値形態』を転倒した形態が同時的に成立しえないこと、すべての商品が同時に他のすべての諸商品に対する『一般的等価物』たりえないことをあらわしている初版の「形態四」は、諸商品の全面的・相互的な交換関係において生ずる形態的矛盾を、価値形態論の視角から、第二形態から第三形態への移行に関する反省規定として、表示したものにほかならない」(二五〇〜一頁)。

 富塚が初版の「形態四」を持ち出すのは、それが「第二形態を『転倒』した形態が同時的に成立する」ことを示していると、間違って思い込んでいるからであるが、しかしマルクスが言わんとしていることは、形式的には、どんな商品も自らの展開された価値形態を持つことができ、したがってまた、一般的等価の形態を持つことができる、ということであって、それがすべての商品において“同時的に”可能か、可能でないかといったことでは全くない。“同時的に”成り立つかどうかというなら、そんなことがありえないことは明らかであって、そもそも富塚が言いやしているような問題か最初から存在し得ないのである。そして、その問題が最初から存在し得ないなら、「困難」だとか、「困難」ではないといった問題もまた存在しようがないのである。亜麻布が一般的等価となり得るのは、他のすべての商品がなり得るのと――その可能性を持つのと――全く同様である、というのは、どんな商品も商品として平等であり、同一だからであるが、これがなぜ、すべての商品が“同時的に”一般的等価となり得るということなのか。

 宇野とか、富塚とかいった卑しいインテリども(社会の寄生虫)は、マルクスの理論に依存し、依拠しながらも、マルクスを批判するという形を好むのだが、彼らはこうしたやり方によって、自分は決してマルクスの理論を“頭から”批判したり、否定したりしているのではない、マルクス主義に立ちつつ、その意義や偉大さを認めつつも、その矛盾や不充分なところや混乱を指摘し、マルクス主義を“純化”し、あるいは一貫したものに仕上げ、その欠陥をなくして“完成”しようとしているのだといった装いを凝らすことによって、“マルクス批判家”としての、プチブル的な汚い本性を隠すのである。

 富塚が、「どの商品もが一般的等価形態に立とうとするならば」と書いているのは特徴的であり、富塚理論の愚劣さを暴露している。どんな商品も一般的価値形態を取りえるが、しかしそれはその商品がその形態に自分から「立とうとする」からではなく、他の多くの(すべての)商品によって、その「共同作業」によって、一般的価値形態を与えられるからにすぎない。価値関係において、等価形態の商品は決して「積極的な」役割を演じるものではないと、あんなにもマルクスは強調しているのだが、富塚は、そうしたマルクスの忠告を全く知らないかに、どの商品も自ら「等価形態に立とうとする」などと書いて平然としているのである、つまり彼はマルクスの「価値形態論」を――というより、商品の本性も、その価値関係も――何一つ理解していないのである。

 仮にある商品が、自ら進んで一般的価値形態に「立とうとして」も(つまり貨幣になろうとしても)、それはその商品の一人よがり、独善にとどまり、どんな客観性も実際性も持ちえないであろう、というより、そもそもそんなことは起こりえないであろう。富塚は何というばかげたことを口にしていることか。

 マルクスは初版の「形態四」を、後の『資本論』では改定し、事実上削除したが、それはこうした形式的な議論はどうしても展開しなくてはならないとは思わず、一つの商品――亜麻布”――でもって代表させて十分であると考えたからであり、またその方が叙述が単純明快であり、一貫しているように思われたからであろう。もちろん、亜麻布を例として論理展開しても、上衣を例にして説明しても、そこにどんな違いも――まして「困難」も――生じないのは、誰でも(富塚以外の?)理解できる、簡単なことであろう。

 要するに、富塚は初版の「形態四」を見て、「商品の第二形態を『転倒』した形態が同時的に成立しなければならないはずである」などと、全くトンチンカンな理解をするのであるが、それは富塚が、自分の気に入らない――というのは、富塚がブルジョア俗流意識に囚われているから――マルクスの理論を“換骨奪胎”させるという、隠された意図を持っているからであるにすぎない。富塚は勝手に、「同時的に成立しなければならないはず」などと主張し、それを自分のドグマの根拠するのだが、そもそも富塚のドグマの出発点となっている、この勝手な憶測が的外れであり、ナンセンスなのだから、富塚の『価値形態論』といったものが、最初から内容のない空中楼閣として現われるのは一つの必然であった。

 そもそもマルクスが「形態四」を逆転した等式が「同時的に成立する」などといったことを考えるはずもないのであって、マルクスの文章を利用して、そこに自分の間違った“解釈”を押しつけ、それを勝手に悪用するようなことは止めるべきであろう。

 しかし彼は「同時的に成立」すべきだが、しかしそれは矛盾であって、そこに“実現の”困難がある、などとでも強調したいのであろうか。とするなら、富塚自身が、「同時的に成立」するといった、途方もないことを想定しており、それが商品の実際の「交換過程」で“解決”されていると事実上主張しているのである。

 しかしいわゆる「形態四」でマルクスの主張していることは、亜麻布が発展した価値を展開できるなら、他の商品もまた同様である、といった、ごく当然のことであるにすぎない。そして亜麻布や上衣や鉄などのすべての商品が、発展した価値形態を展開できるのは――“同時的に”も――明らかであろうが、ただ、それが「逆転」されて貨幣形態にまで止揚されえるかどうかということになれば、「同時的」ではないし、あるはずもないのである。それが亜麻布であるか、上衣であるか、鉄であるか、それとも金であるかは、具体的、実際的な条件によるのである。

◆「価値形態論」は単なる「序説」ではない

 「価値形態論に固有の方法的抽象性のもとにおいても、第二形態から第三形態への移行には本質的な困難があることが明記されるべきであり、少なくとも、第二形態を構成する第一形態の諸等式が『事実上すでに逆の関連を含む』のだとし、それを根拠として第二形態を簡単に転倒することによって、第三形態がえられるとすることは適当ではない。第二形態を逆にした価値表現の関係が成立するとすれば、第二形態に含まれていた根本的な欠陥が克服され、諸商品は価値概念に適合した価値形態をうることとなるが、その価値形態の転換には、(後に『交換過程論』に置いてヨリ具体的に論じられるべき)本質的な困難がある、というように、価値形態論において、その移行は説明されるべきではなかろうか。価値形態論の方法的抽象性のもとにおいても、その移行の困難は指摘されうるし、またなされなければならない。価値形態論が未成熟であった『経済学批判』以来の移行規定がそのまま現行の『資本論』にまで持ち越されてきていることに、筆者は疑問なきをえないのである」(二五二〜三頁)。

 形式的には、どの商品も一般的等価になり得るが、現実的にはそんなことはあり得ないのであって、実際には一般的等価形態は一つの商品に収斂されていくのである。そしてこのことは、決して「全面的交換の矛盾」といったものからではなく、純粋に実際的、“技術的”な契機から生じて来る、すなわち一方では、社会的交換における中心的な役割を果たす重要商品が、そして他方では、自然的性格が一般的等価形態に適応した商品が、その地位を独占するようになるのである(実際には、金がその地位を最終的に襲うことになった)。

 もちろん、それは金が「一般的等価に立とうとする」意図もしくは意志を持ったか、持たなかったかといったこととでは全くない。富塚は、金が貨幣になったのは、金の“意志”や“意欲”の問題であるとでも妄想するのだろうか――物質である金が、いかにしてそんな意志を持ちえるのか――、そして金はその意志を持ったが他の商品は持たなかったから、金は貨幣になり上がった、とでも結論するのであろうか。途方もない“暴論”であり、愚論であるというしかない。

 富塚は、すべての商品が「一般的等価形態に立とうとするなら」、矛盾を来たし、「かくして、社会的に妥当な・一般的=統一的な価値表現の関係は成立しえないことになる」などと、ばかげたことを主張している。

 しかし一体、こんな空疎な議論にどんな意味があるというのか。すべての商品が一般的等価形態(貨幣形態)を取るなどということは論理矛盾であって、そもそもそんなことはあり得ないのである。誰かが、それを「ありえる」と主張しているなら、富塚の見解にもいくらか意味があるかもしれないが、そんなばかげたことを唱えるおかしな人は誰もいないのである(陰湿な富塚は、マルクスが半ばそうだと“匂わして”いる、だから自分はマルクスの“正しい”見解に従って、“間違っている”マルクスを正さなくてはならない、とうぬぼれるのである。何たる愚劣さか!)。

 しかし、マルクスを批判する富塚は、いかにして「社会的に妥当な・一般的=統一的な価値表現の関係」が成立するかを、マルクスとは違ったやり方で“論証”しているであろうか。そんなものは実際には一切ないのである。というのは、富塚はマルクスの『価値形態論』を事実上否定し、捨て去ってしまっているからであり、富塚にとっては、それは「欠陥」ある理論であり、さらには『交換過程論』の単なる序説であり、準備の一つであり、入り口にすぎないからである。

 マルクスの『交換過程論』にこそ答えがあると言うが、その当のマルクスの方は、『交換過程論』には回答はない、『価値形態論』を見よ(岩波文庫第一分冊一五六頁)と書いているのだから、富塚の立場は宙に浮いてしまっている。

 もし「社会的に妥当な・一般的=統一的な価値表現の関係」を概念的に明らかにしようとするなら、マルクスが『資本論』においてやっているように、商品の価値関係を分析するしかない、つまり単純な価値形態から出発し、発展した価値形態(いわゆる第二形態)を経て、そこに含まれている逆の関係を抽象し、かくして一般的等価形態を規定する以外ないのである。それ以外のどんな論証もなかったし、ありえない。

 だが、それを否定して、「全面的交換の矛盾」といったものを持ち出す富塚は、商品の本性から貨幣の概念を引き出すのではなく、商品流通の表面的な「困難」から、貨幣概念を得ようとするのだが、そんなものは“古典派経済学的な”レベル――つまり、ブルジョア俗流理論の水準――であるとこに気がつかないのである。

 富塚といった、おかしな頭脳の持ち主は、『経済学批判』の「未成熟な」理論的立場が『資本論』にまで持ち越されたからよくないと主張するのだが、しかし『資本論』の『価値形態論』は、初版のそれを修正し、書き改めたものだから、むしろ、初版の方が、『経済学批判』の「未成熟」を受け継いでいるとしなくては、決して一貫することはできないのである。というのは、まず『経済学批判』が書かれ、ついでその後に『資本論』初版が出され、マルクスはそれをいくらか訂正して――とりわけ『価値形態論』などを――、『資本論』の再版を出したのだからである。「未成熟」な理論が、なぜ先に書かれた初版に受け継がれないで、それをヨリよきものに書き変えた、再版『資本論』の『価値形態論』に再現されているのかを、富塚は納得のいくように説明すべきであろう(できるなら、のことであるが)。

『海つばめ』第1026号●2006年9月24日


4.「交換過程論」による
ドグマの“完成”

――「一般的等価」は商品所有者の“意欲”――

 富塚のマルクス「価値形態論」に対する非難は、「交換過程論」において“完成”されるが、そうなるとともに、富塚理論の完璧なる荒唐無稽で、空虚な本性が暴露されてくる。実際、富塚理論のナンセンスさは、その結論においては明白である、つまり、彼は「すべての商品所有者が自己の商品を他のすべての諸商品に対する『一般的等価』たらしめようとすることによる『全面的外化の矛盾』は、すべての商品所有者が自己の商品についていだく欲求と正反対の関係を成立せしめることによってのみ解決される」(『恐慌論研究』二六二頁)と断言するのである。こうした無内容で、奇妙な見解は、一体何を言おうとしているのか、なぜにこうしたおかしな理屈をひっさげながら、マルクス批判を行わなくてはならないのか。それが問題である。

◆商品が自己を貨幣として「妥当せしめる」?

 さて、彼の「交換過程論」の出発点は、すべての商品の「展開された価値形態」(いわゆる第二形態)であり、それが一般等価形態(第三形態へと)「逆転され得ない」という、あの理屈である。彼は「交換過程論」は、事実上、この「逆転され得ない」関係を前提する、と言うのである。

「これ(「価値形態論」)に対して、交換過程論においては、すべての商品が同時に、――他の一切の商品を価値関係の客体とするところの、しかも他の一切の諸商品に対して自己を一般的な『価値物』として妥当せしめようとするところの――唯一的な主体たらんとしてあらわれ、かかるものとして相互に他を排除する矛盾した関係を展開する。それに応じて、各商品所有者もまた、すべて同格に、その全き意味において、しかもまた、相互に矛盾する欲求を持つものとして、登場する。……諸商品の現実的関係としてのこの交換過程において……本格的に、諸商品相互の直接的交換の不可能の問題として、登場してくるのである」(同二五五頁)。

 もちろん、こうした理屈は一切無意味な空論で、こんなものはマルクスの理論とは何の関係もないのである。これでは、相対的価値形態の商品(亜麻布)は、最初から、自らを一般的等価(貨幣)として「妥当せしめようとする」ものとして措定されるのであるが、途方もないことと言わなくてはならない。しかしここには、富塚流「価値形態論」の、本質的なものが暴露されている。

 「交換過程論」は、すでに「価値形態論」を前提して、つまり商品の価値関係が商品の一般的等価形態を必然的に生み出すという理解を前提にして、その商品の一般的等価形態が、つまり貨幣が、商品の現実的な運動を媒介し、また可能にすることを明らかにしているのであって、もともと全く違った理論課題を追求しているのである。だから、富塚のように「価値形態論」の論理を「交換過程論」に横滑りさせたり、両者をごちゃまぜにして語ろうとすることは、最初からナンセンスなのである。

 富塚は、商品は一方で、他の一切の商品を「価値関係の客体」として措定するとともに、しかも他方では、「他の一切の諸商品に対して自己を一般的な『価値物』として妥当せしめようとする」主体である、などと言うのだが、これでは「逆転」など不要になるのは当然である、というのは、相対的価値形態の商品(亜麻布)が、そのままで直接に、等価形態になる(なろうとするがなれない、そこに矛盾がある?)と言うも同然だからである。

 そして富塚は、すべての商品は自らの特殊な等価形態の連鎖を展開することができるが(いわゆる第二形態)、しかしすべての商品が「同時に」その逆の関係(第三形態)を展開することはできない、というのは、そんなことをしたら、すべての商品が貨幣になるしかないが、そんなことはあり得ないからである(商品世界は、貨幣だけになってしまい、普通の商品は存在しなくなる)、などと知ったかぶりで強調している。

 そしてそういう「背理」が支配することになれば、すべての商品所有者は自らの商品を交換することができなくなり、どうしていいのか途方にくれるしかないというのである。

 つまり、富塚はマルクスの理論は、こんなばかげたことを主張していると理解するのであり、だからこそ、それは訂正され、修正されなくてはならないと言い張るのである。

 富塚は、だがマルクスが想定するような「関係」は、ただ商品所有者の主観的な願望等々としてのみ存在するのであって、その主観的なものは現実的なものとは別であると、したり顔でマルクスをさとすのである。

 しかしもちろん、そんな奇妙なものが、商品所有者の主観的な表象等々としても存在し得るはずはないのである。

 彼はまず、「価値形態論」では、相対的価値形態(左辺)の商品のみに「商品所有者」を想定できるが、「交換過程論」では、すべての商品にそれを想定できる(しなくてはならない)、ともったいぶって強調する。

 「価値形態論」で相対的価値形態の商品の所有者を想定しなくてはならないといった、“宇野学派的な”ばか話にここで「付き合う」ことはできないが、しかし「交換過程論」では商品一般の所有者が前提されなくてはならないといったことも、富塚の言うような意味ではナンセンスでしかない。

◆「したがって〔daher〕」で媒介された前後の文章

 富塚は、マルクスの文章を曲解し、それを批判して止まない。問題にされているのは、マルクスの「交換過程論」の“さわり”の部分に当たる、次の文章である。

「もっと詳細に見るならば、すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価になっている。したがって〔daher、他の訳では「それゆえに」など――林〕彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる。しかしながら、すべての商品所有者が、同一のことをするのであるから、いずれの商品も一般的な等価ではなく、したがって、諸商品は、それが価値として等置され、また価値の大いさとして比較さるべき、なんらの一般的相対的価値形態をもっていない。したがって、諸商品は一般的に商品として対立するのではなくして、ただ生産物または使用価値として対立するのである」(岩波文庫一分冊一五五〜六頁、原一〇一頁)。

 富塚は、マルクスの「すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価になっている。したがって彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる」という文章を取上げ、それはおかしいと攻撃する。富塚の異議は次のようなものである。

「『資本論』の価値形態論における第二形態から第三形態への移行規定をそのまま容認し、それをそのまま『全面的交換の矛盾』にもちこんで問題を理解しようとするならば、それは、個々の商品所有者の主観的な表象に即して問題を把握することを意味し、それらの商品所有者とともに一般的等価形態に反した結果について単に『当惑』せざるをえないであろう。あるいは、その『当惑』を理論的に表現しようとする場合も、『資本論』初版の『形態四』におけるような、第二形態から第三形態への移行に関する反省規定としての表現にとどまらざるをえないのではないだろうか。第二形態から第三形態への移行規定を容認したうえでのそうした問題把握は、『全面的交換の矛盾』の把握としては、単に形式的・論理的であるにすぎない。――第二形態を構成する単純な価値諸表現の系列が『事実上すでに逆の関係を含』んでいるとすることはできないのである。『他人の商品はいずれも、自己の商品の特殊的等価たる意義をもつ』ということと、『自己の商品が、他のすべての商品の一般的等価たる意義をもつ』ということを、『それゆえに』として直接に結び付けてとらえるのは、個々の商品所有者の主観的な表象に即しての問題把握にすぎない。個々の商品所有者が、事態をそのように表象し、背理を欲求し、背理を行為しようとするところにこそ、交換過程の矛盾があるのである。『全面的交換の矛盾』に関するマルクスの論述は、そうした含意のものとして理解すべきではなかろうか。そう解した場合にのみ、その叙述に、交換過程の矛盾を明らかにするものとして合理的であると思われる」(同二五八〜九頁)。

 富塚の批判は、「したがって」の前後は二つの別個のことであって、「同時的に言うことはできない」(あるいは、言えるとしても、ただ商品所有者の主観や表象、願望としてのみのことにすぎない、実際的な問題ではない)、ということである。

 一見してもっともらしいが、しかしもともとマルクスは、「同時的」などということは夢にも考えていない――そもそも、この二つのことが「同時的」とはどういうことか、そんなことが考えられるはずもないではないか――のだから、富塚の批判は全く的外れでしかない。

 マルクスがここで要約しつつ言っていることは、価値形態論で展開してきたこと、すなわち価値形態の第二形態(「総体的または拡大せる価値形態」)から第三形態(「一般的価値形態」)への移行(いわゆる「逆転」)のことである。第二形態においては、「すべての商品所有者にたいして、あらゆる他人の商品は、彼の商品の特別な等価になっている」のであり、だかこそ(daher=「したがって」)、第三形態においては、「彼の商品は、また他のすべての商品の一般的な等価となる」のだが、これは「同時的」といったことではなく、まさに「等式の逆転」がなされるからこそ、であるにすぎない。だから、富塚とは違って、「主体」もまたはっきり逆転するものとして、マルクスの文章では考えられているのである。そうでなかったら、どうして第二形態から第三形態へと「移行する」(逆転する)ことができるであろうか。

 マルクスは「価値形態論」のいわば総括をここで簡明にやっているのである、すなわち富塚的な言い方をするなら、前半では相対的価値形態の商品(亜麻布)が「主体」だが、「それゆえに」の後の文章では、当然に、他のすべての商品が「主体」(相対的価値形態)となり、亜麻布を一般的等価として措定するのである。そんなことは余りに明白であり、“常識的”であるように思われるのだが、富塚はこんな簡単なことも理解できないのであり、また理解しようともせず、自らの卑俗さにかまけて、「そんなことは同時的に言えるはずもない」と言いはやすのである(驚くべきことだが、こうした無知蒙昧さこそ、ブルジョア大学に巣くうインテリたちの実際である)。

 だから、「同時的」であり得ないのは当たり前のことであって、そんなことをマルクスが知らなかったと考えること自体、そしてそんな理由でマルクスを批判できると考えること自体、異様であり、愚の骨頂というものであろう。

 それ以上に問題なのは、マルクスが「同時的に」考えているとマルクスを言われなく批判する富塚自身が、全く奇妙な形で、まさに「同時的な」逆転について語っていることである。

 富塚の理屈によると、相対的価値形態にある商品は、他の一切の商品を等価形態として措定するとともに、自らも「同時的に」、他の商品によって等価形態に措定されるという願望を持つというのである。つまり、マルクスの言うこと――富塚が理解するマルクスの理論――は、商品所有者の主観的表象としてなら、真実だと主張するのである。

 商品所有者は、すべての商品と、自己の商品の「交換可能性」を要望するが、しかしそれは現実的には不可能であり、実際には、すべての商品の交換不可能性を暴露する、そしてそのことを明らかにすることこそ、まさに「交換過程論」の論理であり、それが教える商品交換の「困難」であり、矛盾である、云々。

 富塚は次のようにも主張する。

「交換過程に登場するすべての商品所有者が、同時に、それぞれの自己の商品について展開しえ、また展開するところの・開展された価値等式関係において、『他人の商品はいずれも、自己の商品の特殊的等価たる意義をもつ』のであるが、それらの価値等式関係においては、自己の商品にとっての『特殊的等価』たる他人の諸商品に対して直接に交換可能ではない。
 各商品所有者にとって、自己の商品が他人の諸商品に対して直接に交換可能となり、かくして、自己の商品をそれと同価値の彼の好むどの他商品とでも交換することができるためには、すなわち、さきにみた商品所有者の行為的欲求が充たされるためには、それらの開展された価値等式関係をひっくり返した形態が成立しうるのではなければならない。
 だが、すべての商品所有者が同時に欲求し、自己の商品を他のすべての諸商品に対する『一般的等価』たらしめようとするのであるから、『どの商品も一般的等価ではなく、したがってまた諸商品は、よってもってそれらが諸価値として等置され、かつもろもろの価値の大いさとして比較されるところの、一般的な相対的価値形態もまたもたない』のである」(同二五九〜六〇頁)

 こうした珍奇な文章で、富塚は一体何を言おうとしているのであろうか。それはつまり、亜麻布や鉄や自動車等々は、それぞれの展開された価値形態を持つが、しかしそれを「逆転」させたら、一般的等価形態の商品が、つまり貨幣が一杯登場してしまうではないか、そんなことはありえないという例のたわ言であり、また亜麻布の所有者は、他人の商品を自己の特殊的等価として、つまり自己にたいする「交換可能」な商品として持つが(何という奇妙な言い方だ、これは価値形態の意味を全く理解していなくては言えない言葉だ)、しかし亜麻布自身は、他の商品に対して「交換可能ではない」というばか話である。

 これがばか話だというのは、亜麻布は他の商品に対しても「交換可能」であり、だからこそ、相互に価値関係に置かれているからである。富塚が「交換可能」ではないと言うのは、亜麻布は他の商品を「買えない」が、他の商品は亜麻布を「買える」と考えるからであるが、相対的価値形態の商品と、等価形態の商品を「買える」「買えない」といった関係でとらえること自体奇怪な主張であり、全く俗流主義的であろう。つまり、亜麻布にとって、他の商品は貨幣だが、それらの商品に対して、亜麻布は貨幣ではないではないか、と言うのである。

 しかし実際には、富塚がここで「他の商品」と言っているのは、第二形態の他の系列にある商品、つまり亜麻布の第二形態と同格の“主体”として展開された、鉄とか、自動車とかの商品のことを想定しているのであろうか。

 そして、亜麻布は、それらの商品との「直接の交換可能性」を持たないとでも言うのだろうか。亜麻布と鉄は、別々に第二形態を展開するのだから、亜麻布は鉄と交換できない、といったことを、まじめに主張しているのだろうか。彼がすべての商品の「展開された価値形態」(第二形態)は逆転できない、それは不可能だとわめいてきたこと、交換過程では、すべての商品所有者は交換の「主体」として現われ、かくして相互に他を「排除」してしまう、だから現実の商品交換は行われなくなると言ってきたことなどを考えると、本当に、こんなことを想定しているようにも思われる。

 しかし、仮にそうだとしても、そんなものは我々にとっては、すでに富塚のひとりよがり、空虚な思弁の世界に属することであろう。

 そして富塚は、ここに「悪循環」を見てとり、次のように語るのである。

「自己の商品が他のすべての諸商品によって『一般的等価』たらしめられた場合にのみ、その商品所有者は、それを『使用価値として実現』すると同時に『価値として実現』し、かくして同価値の・彼にとって使用価値たる彼の好むどの他の諸商品とでも交換することが可能になるのである。
 だが、すべての商品所有者が、商品所有者であるかぎりでは、自己の商品について全く同様の欲求をもたざるをえないのであるから、相互に他人の商品を一般的等価の位置から排除することになり、かくして、諸商品の一般的・統一的な価値表現の関係は成立しえず、諸商品は、『総じて、諸商品として対応し合うのではなく、ただ諸生産物あるいは諸使用価値として対応し合うにすぎない』。すなわち、諸商品の交換関係は、商品所有者が商品所有者として行為しようとするかぎり、成立しえなくなる」(同二六〇〜一頁)。

 ここでは、富塚の論理は完全に“逆転”している、つまり商品(相対的価値形態の商品、亜麻布)の実現について語っていたのに、いつのまにか、亜麻布が一般的等価になる(他の商品によって、そうされる)なら、亜麻布は、使用価値として、価値として「実現する」ことができる、などと言い始めるのである。

 すなわち、亜麻布が貨幣にされるなら、亜麻布は「直接の交換可能性」を獲得し、事実上、「何でも買えるではないか」と勝ち誇って言いはやすのである。

 しかし富塚は、単純にはそうは言わないのである。彼はすべての商品所有者が、自らの商品を貨幣に転化しようと欲求するから、その欲求は衝突してしまい、実際には実現しない、だから、このことは不可能なのである。とするなら、富塚の理論はどうしようもない“困難”に逢着してしまい、決して出口を見出すことができないではないか。

 しかし、富塚はマルクスの言葉に救いを求めることができるのだ。困難に直面して、救いをもたらさないようなマルクスではないのだ、必ず求める文章はどこかにあるのだ。

「わが商品所有者たちは困り果てて、ファウストのように考える。初めに行いありき。したがって彼らは、彼らが考える前にすでに行っていたのである。商品性質の諸法則は、商品所有者の自然本能の中に活動していた。彼らは、その商品をただ価値としてのみ、それゆえにまたただ商品としてのみ、相互に相関係せしめることができるのであるが、それをなすのに彼らは商品を、対立的に、一般的等価としてなんらかの他の商品に相関係せしめていたのである。これを商品の分析は明らかにした。しかし、ただ社会的行為のみが、一定の商品を一般的等価となすことができるのである。したがって、すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する。このことによって、この商品の自然形態は、社会的に用いられる等価形態となる。一般的な等価であることは、社会的の過程によって、この除外された商品の特殊的に社会的な機能となる。この商品は――貨幣となる」(岩波文庫一分冊一五六頁、原一〇一頁)。

 つまり、商品所有者の実際の「行動」が、富塚のすべての理論的な困難を解決し、解消してくれるのである。マルクスが言っているのだから、これ以上、確かなことはない、というわけだ。

 しかしもちろん、マルクスの文章は富塚が理解するような不合理を述べているのではない。マルクスは商品の交換における「矛盾」は実際には矛盾ではない、商品所有者たちが(そしてブルジョア経済学者たちが)「矛盾」や「困難」と見るのは、実際にそんなものではない、というのは、商品交換の発展自体が、商品の価値形態を発展させ、商品が実際に運動することを可能にし、その問題を解決しているからだ、それはすでに「価値形態論」で理論的に明らかにした通りだ(「これを商品の分析は明らかにした」云々)、と言っているのである。

 またマルクスが「すべての他の商品の社会的行動は、諸商品が全般的にその価値を表示する一定の商品を除外する」と言っていることも、富塚の理解とは違って、亜麻布がその価値方程式の「逆転」によって一般的等価形態になることを言っているのであって、それ以外ではないのである。もちろん、これは鉄でも、自動車でもいいのであって、問題は、個々の商品生産ではないのである(つまり形式的には、可能性としては、どの商品も貨幣になり得るのである)。

 富塚のいう「商品の社会的行動」とか「共同作業」といったものは、それが何であるかは一切不分明である。彼はそれについて言及する、そしてそれだけで、諸商品の「共同作業」というものが論証されたと思い込むことができるのである。彼は展開された価値形態(第二形態)と、その「逆転」が、諸商品の「共同作業」である(その内実である)ということを否定した、だから、富塚にあっては、諸商品の「共同作業」の論理はどこにもないのであり(「商品所有者の表象」や願望以外には)、ただその言葉だけが踊っているにすぎない。

 もちろん、商品の一般的等価形態と、貨幣形態は違う、問題になっているのは一般的等価形態でなく、貨幣を生み出す、諸商品の「共同作業」だと言って言えないこともないが、しかし、商品の一般的等価形態を生み出す諸商品の「共同作業」、つまり相対的価値形態の商品(亜麻布)を、「逆転」によって一般的等価にする諸商品の「共同作業」こそが根底的であり、本質的であるのは明らかであろう。一般的等価形態を金に固着させ、金を貨幣に転化する諸商品の「共同作業」について語ることもできるが、しかしそれは副次的で、むしろ“技術的”問題であろう。

 富塚の理屈によると、何か、相対的価値形態にある商品は、他の一切の商品を等価形態として措定するとともに、自らも「同時的に」、他の商品によって等価形態に措定されるように聞こえるのである。もちろん、この措定は実際にはなされないで、ただ亜麻布がそのように願望し、期待するだけだ、というのであるが。

 そして亜麻布だけでなく、すべての商品がこうした願望を持つがゆえに、商品交換は矛盾してしまい、実際には行われなくなる、これこそが「交換過程論」の矛盾であり、“困難”である。そしてこの「矛盾」を解決するのが、「交換過程」の実際の「運動」であり、貨幣の実際的な登場である――いかにして登場するかは分からないが――というのである。

「価値形態論」は、ただ「交換過程論」のこの“矛盾”、“困難”を述べているだけであり、その意味で“準備的な”意義を持つにすぎない。価値形態論で言われていることは、ただ形式的、観念的なもの、つまり相対的価値形態にある商品の所有者の主観的な願望や期待だけであって、現実的な“解決”ではない、貨幣を必然化するものではない。この課題はただ「交換過程論」によってのみ、交換過程の現実的な運動によってのみ“解決”されるのだというのが、富塚の「交換過程論」であるが、しかしその現実的な運動とは何なのかは一切明らかにされないのである。また彼の「交換過程論」は、肝心要の、貨幣とは何なのか、そしてそれはなぜに商品生産にとって必然なのかという理論(価値形態論)抜きのものとなっているのであり、かくして一つの不合理で空っぽのおしやべりに堕すのである。

 富塚の理屈は、まるで判じ物のようなものである。そもそも、すべての商品が自ら貨幣になりたい(商品所有者が、自らの商品を直接に、そのまま貨幣にしたい)といった願望や欲求を持つとはどういうことか、また実際にそんなものを持つであろうか、あるいは持ったとしても、そんなことが現実に可能であり、生じ得るであろうか。それとも、ここでいう商品所有者の欲求とは、商品を販売して貨幣を得たいという欲求のことなのか。

 マルクスの言うところの「逆の関係」も、「逆転」も否定した以上、富塚は、相対的価値形態の商品を、そのままで等価形態の商品に移行させ、等価形態として“でっちあげ”なくてはならない、そしてその理論は、混沌たる、非合理の空論になるしかないのである。つまり、彼は相対的価値形態の商品は、同時に等価形態の商品であり、またそれが可能だと、事実上いうのである。相対的価値形態にあった商品・亜麻布は、そのままで等価形態に、つまり貨幣になり得るのである、それを展開することこそが『交換過程論』の課題である。

 確かに、これなら「逆の関係含む」という観念も、「逆転」の“方法”も必要ないであろう。だが、それはマルクスの理論を全く無意味なものにし、解消することによってのみ、可能であるにすぎない。

『海つばめ』第1027号●2006年10月8日


5.「回り道」も「共同作業」も別の意味
――俗流意識をマルクスの言葉で語る――

 富塚の「価値形態論」を何回かにわたって論じてきたが、富塚の理論の“わかりにくさ”は、富塚が単純に自分の見解を自分の言葉で語らないで、卑怯にも、マルクスの言葉や概念を借りて、その陰に隠れて語るところにある。富塚のやり口が卑劣であり、ごまかしだというのは、富塚の用いるマルクスの言葉や概念は、マルクスとは全く違った意味や内容で用いられているにすぎないのに、あたかも同じであるかに見せ掛け、自分の理論の空虚さをマルクスの権威に隠そうとするからである。マルクスのいう「価値表現の回り道」という概念も、価値形態の「逆転」ということも、諸商品の「共同作業」ということの意味も、一般的等価の商品(貨幣)が「直接の交換可能」な形態を持つという命題も、富塚にあってはすべてマルクスとは全く違った意味で用いられているのだが、人は、それらがマルクスの言葉でもあるということによって、“コロリと”だまされてしまうのである。

◆マルクスの理論を装うが

 富塚は自分の俗流的意識を表現するに、マルクスの言葉やあれこれの文章に依拠しようとする。

 例えば、富塚は盛んに、価値表現の「回り道」というマルクスの言葉を引き合いに出し、自分の理論を正当化しようとしている。

 しかし富塚にあっては、このマルクスの言葉(回り道)の内容は、ただ亜麻布(相対的価値形態の商品)が、「自分で自分の価値を表現できないから、等価形態にある商品つまり上衣によって、その価値を表現する」といった、卑俗な意味で理解されている。

 富塚はどうやら、亜麻布が自らの価値を何円等々として、つまり価格として表現することを「回り道」と理解しているのである。商品が貨幣によって、自らの価値を金量のいくばくと等しいと言うことを、頭に描いているのである。だから、彼は亜麻布商品にはその所有者が想定されなくてはならない、というのは、金いくばくと価格表現するには、所有者がいなくては不可能だからである、とのたまうのである。

 これでは、まさに「そのまんま」である、つまり商品の貨幣形態を、そのまま言っているだけであって、なぜに、いかにして、商品の価値が貨幣によって表現されるのかを語るものではない。確かに現代の資本主義にあっては(『管理通貨制度』のもとでは)、価格は商品の貨幣表現であるこということがボカされている、だから富塚のような説明も意義がないこともないというなら、その通りかもしれないが、しかしだからといって、富塚の説明が、マルクスの言う「回り道」とは無縁でいるということを否定するものではない。

 マルクスは、『資本論』の初版では、くだんの「回り道」について、次のように述べている。つまりマルクスは、商品は、自分自身を直接に価値形態にすることができないので、他の商品をそうすることによって、そうした「回り道」を経て、自分を価値形態にするのだ、と言うのである。

「その商品〔亜麻布〕は自分の価値を自分自身の身体において、または自分自身の使用価値において、表現することはできないのであるが、しかし、直接的価値定在としての他の使用価値または商品体〔上衣〕に関係することはできるのである。その商品は、それ自身のなかに含まれている具体的な労働に対しては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできないが、しかし、他の商品のなかに含まれている具体的な労働に対しては、それを抽象的な人間労働の単なる実現形態として関係することはできるのである。そうするためにその商品が必要とするのは、ただ、他の商品を自分の等価物として等置する、ということだけである。一商品〔上衣〕の使用価値は、ただ、それがこのような仕方で他の一商品〔亜麻布〕の価値の現象形態として役立つかぎりにおいてのみ、この他の商品のために存在するのである」(岩波文庫五二頁)。

 価値表現の「回り道」としてマルクスが言っていることは、富塚の言いはやしているような卑俗な問題では全くないのである。価値表現の問題つまり商品の価値形態の問題とは、商品を生産する労働の特殊歴史的な性格の問題であり、それが商品の一般的価値形態(貨幣形態)として顕在化する(“物的な”形態を取って現われてくる)メカニズムにかかわる問題なのである。いかにして一商品〔上衣〕の使用価値によって、ある商品(亜麻布)の価値が表現されるのか、それが可能なのか、という問題がまず存在するのだが、富塚は、この根本問題は棚上げして、最も表面的な現象にとらわれているのである。

 マルクスの「回り道」の核心は、ある商品(亜麻布)が、他の商品(上衣)を、価値として自らに等置し、そうすることで、上衣そのものを自分(亜麻布)の価値実体と同じ抽象的人間的労働の存在形態として、価値形態として措定し、こうした媒介を経て、初めて自分の価値を上衣によって、その自然形態によって表現する、ということである。

 商品の貨幣形態(価格形態)に見られる奇妙なこと――つまり、価値という社会的実体が、上衣(貨幣)の自然形態つまり“使用価値”によって表現されるという――が、なぜ、いかにしてなされるかと言えば、それは前もって、上衣が亜麻布のよって価値形態として、その自然形態がそのままで価値の存在形態として、つまり「価値体」として措定されているからである。ここにこそ、いわゆる「回り道」ということの根底がある。

 つまり、上衣を価値形態にする、こうした媒介行為こそが「回り道」の中心的な概念として述べられているのであって、単にこうした媒介行為の結果としての、上衣による亜麻布価値の表現ということではない。

 富塚は、亜麻布の価値が貨幣(上衣の発展形態)によって、貨幣のいくばくかの量として「表現されている」のを見る(何円、等々の価格形態で)、そしてこの事実(表象)を「回り道」の論理だと皮相に考えているのだが、こんなことは、マルクスの理論を借りるまでもなく、ブルジョア経済学者(といっても、リカードなどの古典派経済学者のことであって、現代の経済学者たちのことではないのだが)のみながよく知っていたことなのである。富塚はマルクスと同じようなことを盛んに言うが、しかし彼が見ているのは基本的にこの現象であって、商品の価値表現の(価値形態とその展開の)本質的なメカニズムではないのである。

◆「共同作業」も「逆転」も無概念に

 富塚はまた、マルクスと同様に「逆転」についても語っているが、しかしこれもマルクスの言うこととは全く違ったことであるにすぎない。

 富塚にあっては、マルクスの価値形態論における「逆転」(第二形態から第三形態への移行)とか、商品の一般的等価形態は、諸商品の「共同作業」の結果であるとか、マルクスの論理と全く同じような文章がまさに「散りばめられている」、まさにそれゆえに、人々は富塚理論に幻惑され、富塚の主張が何かマルクス的なものであるかに思い違いするが、実際に富塚が主張していることは、ここでもマルクスのそれとは「似て非なるもの」である。

 「逆転」については、前回も検討したが、基本的に、「商品所有者」の主観の問題として理解されている、とするなら、それは最初からマルクスの言う「逆転」とは全く異なったものであろう。

 富塚は、亜麻布を、相対的価値形態に置いたままで(つまり価値関係における「主体」の地位に据えたままで)、いわゆるマルクスの等式の「逆転」を否定し、それがないままで、亜麻布の一般的等価に、つまり貨幣に“でっちあげる”のだが、それはただ、すべての商品所有者がそれを欲し、希求するから、社会的に合意するから、だというのである。現実的な価値関係を否定するなら、残るのはただ商品所有者の観念的な関係だけである。商品所有者が貨幣を欲するから、貨幣は誕生するのであって、それは商品の価値関係の必然的な形成物ではない。

 相対的価値形態の商品つまり亜麻布が、そのままで一般的等価になるなどは全く不可能であろう。だが、富塚はそれが可能だというのである、否、そのように考えることこそが正しく、マルクスは間違っていると断ずるのである。かくして、富塚のいう商品所有者の(マルクスとは違って、商品の、ではない点にも注目されたいが)「共同作業」もわけの分からないものである。

 富塚はもちろん、マルクスに似せて、商品所有者の「共同作業」が貨幣を生み出すというが、その内容は、単なる意思関係としての「共同作業」でしかない(「主体」の逆転を否定するのだから、つまり実際的な「共同作業」を否定するのだから、そうなるしかない)、つまり商品所有者がみな貨幣を欲するから、そうしたブルジョア諸氏の「共同主観」が生まれるから、貨幣が誕生するといったたぐいのものでしかない。

 かくして富塚にあっては、社会関係は人々の意思関係もしくは“ゾレン”の関係(何々でなければならない)に還元されるのであり、マルクス主義は一つの観念的で荒唐無稽なドグマにすり替えられるのである。

 もう少し詳しく見ておくと、富塚は、まず相対的価値形態の商品所有者を想定する(価値形態論において、商品所有者を前提する点で、すでにマルクスと異なっている)、そしてその人間が、自らの商品を一般的等価形態にしようと(したいと)「欲求」するが、すべての商品所有者がそうしても、それは実際に可能になるわけではない(だから、マルクスのいう「逆転」は、ただ商品所有者の主観としてのみあり得るにすぎない)、それはまず何よりも解決不能の矛盾、「困難」として現われる、そのことを明らかにするのが価値形態論の課題である、そしてこの「困難」の解決が「交換過程論」において可能になる、と言うのである。

 しかしもちろん、「交換過程論」をもちだしたところで、彼の言う「困難」が解決されるはずもないのであり、事実、富塚はその「解決」を語ることはできない。彼はただすべての商品所有者が「欲求することと逆の関係を成立せしめるなら」、と言うだけであり、具体的に、それがいかにしてなされるかを明らかにしていない、否、なすことができないのである。

 しかし、彼は「価値形態論」で言えることは、商品所有者は自らの商品を一般的等価形態にするという「欲求」を持つ、しかしそれは「価値形態論」の枠内では矛盾してしまう、と言うのだから、「交換過程論」における“解決”もまた商品所有者の「欲求」としてのみ、つまり主観としてのみ解決されるのであり、それしかないのである。マルクスの言うような“解決”は、現実的なものではなく、ただ商品所有者の「表象」としてのみあり得るにすぎない、などと転倒したことを口ばしるのである。

 富塚は、商品所有者の「共同作業」として、ある特定の商品を一般的等価に、貨幣にするというのだが、その内容は、すべての商品所有者がそうしようと思うから、そう「欲求する」から、と言うしかないのである、つまり広松流の「共同主観」といった奇妙なものがすべてを解決してくれるのである。マルクスの「共同作業」は、商品所有者の主観の作用に、つまり観念的な「共同作業」にすり替えられるのである。「共同作業」という言葉だけはまねしているが、本質的に観念的作用として理解されているのであり、マルクスの理論とは似て非なるものなのである。

 富塚の理屈は結局は、貨幣とは、商品流通の「困難」を解決するために、人々(当事者たち)が発明もしくは発見した都合のいい道具、手段(だからこそブルジョア諸氏の「共同主観」が出てくる)といった、“古典派経済学レベルの”俗流的な「貨幣論」であり、それを“マルクス主義”の名で持ち出しているにすぎない、と結論することができる。

◆「直接的交換可能性」という空語

 富塚はまた、「直接的交換可能性」という言葉を愛用する。これもまた、マルクスが商品の一般的等価形態(貨幣)について語った言葉ではあるが。

 富塚は、相対的価値形態の商品が、他のすべての諸商品――というより、商品所有者――によって一般的等価にされる場合にのみ――いかにしてかは、定かには分からないが――、亜麻布所有者は「同価値の、彼の好むどの商品とでも交換できる」と主張するのである。

 要するに、亜麻布商品――これは相対的価値形態の商品なのだが――が貨幣になるなら、その商品所有者は、どんな商品でも「買える」ではないか、そしてそうなれば、商品実現の「困難」はすべて解決されるではないか、と言うのである。

 実際、すべての商品所有者が自分の商品を貨幣になし得るなら、彼はどんな商品でも「買える」ことは確かだから、富塚の理論は完璧であり、誰一人として、彼の理論の絶対的な正しさを疑うことはできない、というわけである。

 しかし、すべての商品所有者が、自分の商品を貨幣にするといったことはどういうことなのか、そんなばかげたことが一体どこで生じ得るのであろうか。「共同主観」など持ち出しても、この「困難」は決して解決することはできないのである。

 そもそも、貨幣を「すべての商品を買える」道具として理解すること自体が、全く俗流的で、卑俗であるということが、富塚には分かっていないのである。商品の一般的等価形態は、それがすべての商品と交換できるとか、「直接の交換可能性」を持つようになったとかいうこととは、“いささか”違っているのである。それは貨幣の直接的な現象に目を奪われた、ブルジョア的な見方――ブルジョアが普通に抱くありふれた俗見――にすぎない。

 貨幣は商品のもつ「交換可能性」が目に見えるようになった形態にすぎず、商品の本性の“具象化”であって、だからこそ、貨幣とは何であるかを“詳細に”分析した、マルクスの「価値形態論」が大きな意義を持つのである。この限り、貨幣の「直接の交換可能性」といったものには、どんな神秘性も“絶対性”もないのである。ものごとを表面的にしか見ない人々は、富塚の「直接的交換可能性」といったもっともらしい言葉に、ころりとだまされてしまうようだが、この言葉は最初から“曲者”であり、“まがいものくさい”のである。

 一体、「直接的交換可能性」を得る商品とは、どの商品であろうか、相対的価値形態の商品か、等価形態の商品か。言うまでもなく、等価形態の商品であって、相対的価値形態の商品ではないであろう。等価形態の商品(マルクスの例では、上衣)はすでに単純な価値関係においても、相対的価値形態の商品(亜麻布)に対して、「直接的交換可能性」の形態を持っている、しかしそれはそうした《形態》を持っている――正しくは、相対的価値形態の商品によって、「持たされた」――だけであって、価値関係の外で、上衣の自然的属性として備えているわけではない。商品としては、亜麻布も上衣もともに価値として、一般的な「交換可能性」を持っているのである、あるいはそうでなければ、両者は決して商品ではない。

 だから、富塚の場合、「直接的交換可能性」(正しくは、その形態)を持つようになるというのは、ただ等価形態に置かれた商品、つまり上衣であり、価値関係の発展した形態では貨幣ということである。だが、一般的等価の商品、貨幣が「直接の交換可能性」を持つのは当然であって、それは貨幣が一般的等価形態であるということの結果にすぎない、つまりある意味で、ごく当たり前のことにすぎない。

 富塚は、人が貨幣を持つなら、何でも買える、貨幣で買えないものはない、という卑俗なことを(堀江や村上のブルジョア的な観念を)、もっともらしい“経済学的な”言い回しで、さも深遠な内容があるかに言いはやすのであるが、これこそ彼らに特徴的な“もの言い”というものであろう(我々は宇野学派にも、こうした言い方をいくらでも見出すことができた)。

 しかし問題は貨幣ではなく、商品であり、その流通である。貨幣が登場することによって、商品が「直接の交換可能性」を獲得したのかどうか、である。もちろん、このことについて富塚は明言しない、というのは、商品は貨幣が登場したからといって、そのことによって「交換可能性」を持つようになる、といったものではないからである。ただ貨幣による価値表現によって、商品は自ら価値として、他の一切の商品と交換可能であるという性格を表示し、明らかにするのであり、かくして商品流通を可能にするのであるが。しかしこのことは、商品の本性の中に存在していたことであって、貨幣の登場によって商品に付与されたといった性格ではない。

 だから、結局、富塚が「直接的交換可能性」という言葉によって言いたいことは、貨幣についてのことであって、商品についてのことではない。このこと自体、驚くべきことであろう、というのは、マルクスの“価値論”(もちろん、これは「価値形態論」も含むのだが)にとっての根本問題は商品であり、またその流通、運動であって、貨幣ではないからである。商品があって貨幣があるのであって、貨幣があって商品があるのではないということが、俗流的な(貨幣への幻惑にとらわれている)富塚や宇野には決して理解できないのである(言葉としては引用するが、本当に分かってはいない)。

 だが、富塚のは貨幣のみが目に入るのであり、それのみが――その「購買力」や「有効需要」等々が――重要に思われるのだが、こうした見解こそ、彼の階級的本性を、その寄生的本性を(マルサス主義もしくはケインズ主義的立場を)暴露して余りある。

◆富塚理論の行き着く所

 富塚の問題意識は、次の文章に明らかである。

「小論は、昭和二四、五年頃におこなわれた価値形態論に関する宇野・久留間論争の頃から、筆者が折にふれては思考を重ねてきた問題を、とりまとめたものである。『経済原論』第一部の講義で、価値形態論の神髄をできるだけ正確に伝えたいものと努めているうちに、おのずから、かねて懐いていた疑問を表明せざるをえなくなり、私見を整理して発表する必要を感じるにいたった。……価値形態論及び交換過程論を、それが難解だという理由で『形而上学的』だとして回避するならば、いわゆる『有効需要』の問題の把握も、不可欠の理論的基礎を欠くことになる」(二六五頁)。

 こんな講義を聞かされる学生も災難だが、こんな空っぽの“講義”をして、何か意義あることをしていると思い込んでいる“左翼”インテリたちの頽廃、腐敗ぶりについて、我々は何と言うべきであろうか。『形而上学』はマルクスの理論にあるのではなく、まさに空虚な“思弁”にふけっている、富塚の理論にこそあるのだ。実際、富塚のような空虚なたわ言を、“マルクス主義”だとして振舞われるなら、どんな人でも、そんなものにあいそをつかし、捨てて顧みなくなるのは一つの必然であろう。

 実際、『価値形態論』や『交換過程論』を持ってきて、そこに「有効需要」の問題の“回答”を求める富塚の感覚は異様である。このことは、富塚がマルクスのこれらの理論を、そしてマルクス主義の経済理論一般を全く理解していないことを暴露しているばかりではない、彼がどんな階級的、実践的立場にあるかをも決定的に明らかにしていると言うべきであろう。宇野学派は、かつて「価値形態論」に価格現象の“回答”を求めたが、富塚もまた宇野学派と五十歩百歩である。富塚はケインズ主義と同じ理論的立場に立つのであり、そしてこのいやらしい立場をマルクス主義――どんな“マルクス主義”であることやら――によって(『価値形態論』や『交換過程論』といった、全くピント外れの理論まで持ち出して)補強し、正当化しようと策動し、“暗躍”するのである(もちろん、“学界”という極端に狭い、自己満足的な世界の中において、でしかないが)。

(終わり)

『海つばめ』第1028号●2006年10月22日


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