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富塚良三の「均衡蓄積率」論批判
再生産表式の意義理解せず
社会的再生産も恐慌も無概念に
(林 紘義)


 富塚良三の「均衡蓄積率」の理論は、マルクスの拡大再生産表式が恐慌論の基礎になるものである、という戦前の“講座派”(“スターリン主義経済学派”)の代表的な論客、山田盛太郎の“伝統”を受け継ぎ、それをいわば“精密に”仕上げ、完成させたものであり、まさに恐慌を“論理必然的に”論証するものである、と持ち上げられている。それはローザ的、過少消費説的欠陥――恐慌を再生産表式から“直接に”説明するやり方――とともに、恐慌論において再生産表式を“軽視する”欠陥をも、つまり両極端の欠陥を止揚する、まさに完璧なものだそうである。我々は、ここでは、彼の理論的根底である、「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の観念を取り上げる。なお、再生産表式とは、資本主義的生産様式における、年々の再生産を(単純再生産の場合も、拡大再生産の場合も)総体的かつ概念的に(法則として)一つの表式で明らかにしたものあり、そこでは、年々の再生産が「価値的側面」と「素材的側面」において全体的に示されているのであって、極めて重要な問題であること――資本主義の全体像の理解にとって、そしてまた将来、労働者階級が権力を奪取し、社会主義的社会を組織して行く上で――に、読者の注意をうながしたい。なお、記号は断わりなき場合、Cは不変資本、Vは可変資本、Mは剰余価値、Wは生産物価値を示すものとする。もちろん、第T部門は生産財(生産手段)生産部門、第U部門は消費財(消費手段)生産部門である。

◆富塚の拡大再生産表式

 富塚の拡大再生産の表式的説明は(したがって、その「均衡蓄積率」等々の説明は)、以下のように全く無概念的で、荒唐無稽なものである。

 富塚は「均衡蓄積率」の概念を以下のような“純”理論的(観念的、恣意的)“操作”によって提出している(『恐慌論研究』八六頁以下などを参照)。

 まず、「社会の投下総資本の構成」が問題だが、両部門とも、その有機的構成は10対1とする、つまり不変資本は可変資本の一〇倍である。

T 15,000K(うち固定資本10,000F、流動資本5,000R)+1,500V
U 5,000K(うち固定資本3,333F、流動資本1,667R)+500V

 この「投下総資本(22,000)の構成」と区別された、「総年生産物W1(12,000)の価値的・素材的構成」は、以下のようである。

T 6,000C+1,500V+1,500M=9,000W1
U 2,000C+500V+500M=3,000W2

 資本構成においては、第T部門の固定資本は10,000であるが、年総生産物における固定資本は1,000にすぎず、あとの5,000は流動資本であるとされている(したがって、不変資本全体は6,000である)。これは固定資本の年間価値移転分が、その10分の1と前提されているからである。固定資本1に対し、流動資本5というわけである。第U部門においても同様であって、固定資本3,333のうちの333のみが、再生産表式に記され、流動資本の1,667と合計されて2,000の不変資本を構成している。

 富塚は、以上の前提に立って、したがって、「余剰生産手段」が1,000である、と主張し、さらに生産力などの諸条件が変化することなく蓄積が行われるとするなら、この「余剰生産手段」が過不足なく吸収されるべきだ、蓄積が行われなくてはならないが、それは1,100(1,000+100、この100は、1,000の追加資本が投下される場合の可変資本の大きさである)である。したがってこの1,100を、総剰余価値の2,000で割って、均衡蓄積率は55%と計算される、というのである。かくして、「拡張再生産の正常的進行のための価値・素材配置」は次のようになる。

T 6,000C+1,500V+675M(資本家消費分)+825M(蓄積分)=9,000W1
U 2,000C+500V+225M(資本家消費分)+275M(蓄積分)=3,000W2

 彼はこうした表式の観念的な自己展開を総括して言う。

「蓄積総額は1,100で余剰生産手段は過不足なく吸収され、またT(1,500+675+75)=U(2,000+250)で部門間均衡条件は充たされ、さらに蓄積額の両部門への配分比率は元投下資本の部門比率と等しく3対1であり、両部門とも蓄積率55%、資本の増加率5%であるから、右の表式に示された価値・素材補填の運動がそれに照応する貨幣の流れ(流通・回収)の運動に媒介されながら正常的におこなわれる場合には、拡張過程は、部門間の技術的・経済的な関連性を保持しながら、なんらの撹乱もなしに進行する」(同九一頁)

 そして拡大再生産は次の年度も、その次の年度も同様に継続していくことになる。つまり次年度の生産の出発点においては、再び、1,050の「過剰生産物」が形成され、それを埋めるためにのみ、拡大再生産が、つまり「蓄積」(剰余価値の資本への転化)が行われるというのであり、かくしてこうした不均衡、均衡の繰り返しとして、拡大再生産は永遠に継続する、というのである。年々の拡大再生産の結果は、ただ恐ろしい不均衡として現れ、そして次年度の総生産は、その不均衡を訂正するために拡大再生産として登場しなくてはならず、この過程は論理上、永遠の自己運動とならざるをえないのであり、まさにその限り、ツガン・バラノフスキーのつまらない幻想の再現以外ではない。

 富塚とツガンが違うのは、富塚の拡大再生産が表面は不均衡、均衡の繰り返しとして、一応「均衡」を意識しているということだけで、表式の永遠の自己運動を説くかぎり、根本的なところではツガンと幻想を(再生産表式の意義に対する完全な誤解、曲解を)共有しているのである。富塚の拡大再生産の珍奇な観念では、恐慌を決して説明することはできない、というのは、それは不均衡は次の再生産によって均衡に引き戻されるというのだからであり、“恐慌”など理論的に全く必要としないからである。彼は「過剰生産物」を持ち出すかもしれいないが、それは最初からいわば前提として持ち出され、与えられているものであって、拡大再生産の進行とともに現れ、累積して行くといったものではない。かくして、富塚の再生産表式によって恐慌を基礎づける試みは、これまでのすべての同様の試みと同様に、完全に失敗に終わっている。

 しかし富塚は得々として、次のように説明している。

「生産手段および消費手段に関する需給均等関係が成立し〔つまり表式関係は、富塚にとっては「需給均等関係」を明らかにするものなのだ――林〕、また部門間均衡条件も満たされている。生産手段の補填需要8,000(億円)、新投資需要1,000、計9,000の生産手段需要と、再雇用労働者の消費需要2,000、追加雇用労働者の消費需要100、資本家階級の消費需要900、計2,000の消費資料需要という、一定の配分比率と構造連関をもった有効需要(「投資需要」プラス消費需要」)があれば、拡張過程は均衡を維持しながら進行することができる。所与の生産力水準とそれに照応する生産関係の表現たる投下資本総体の資本構成・部門構成・剰余価値率などの相連繋する諸条件によって規定されるところの、総生産物W'の価値的・素材的構成によって《均衡を維持しうべき蓄積総額=並びに平均蓄積率》が決定され、それにともなってまた拡張過程の均衡を維持しうべき総有効需要の構造が規定される」(『経済原論』二六七頁)。

◆恣意的で荒唐無稽な諸観念

 ここで、彼の行っている多くの恣意的な諸規定、ばかげた諸観念のいくつかを明らかにしておかなくてはならない。

 彼は「社会の投下総資本」(22,000)と再生産物の「価値的・素材的構成」(12,000、「資本」だけなら10,000、というのは、ここでは剰余価値2,000が加えられているから)を区別し、再生産表式は後者において問題にする、つまり彼にあっては、再生産表式の問題が、総資本の再生産と流通という意味では理解されていないのである。総資本と「価値的・素材的構成」とは切り離され、別のものである。

 だから、第T部門の剰余価値の蓄積分825は、不変資本と可変資本に分割されるが、その場合、“元の”資本構成によってなされるので、4対1(再生産表式における資本構成の割合)ではなく、10対1の割合でなくてはならない、つまり不変資本750に対して、可変資本75であり、第U部門も同様に、250対25でなくてはならない。

 なぜこんな途方もない観念が生じるかというと、富塚は、社会的総資本の「投下」と、その循環を別のものと考えているからである。前者は固定資本の全体が算入されるが、後者においては、ただ固定資本の中の年々の「磨損・価値移転物」のみが考慮される、と言うのである。確かに、個別資本にあっては、年々の総資本と総生産の規模は違ってくるかもしれない、しかしいま問題になっているのは個別資本の再生産ではなく、総資本の再生産であり、この場合には、総資本の規模と総生産規模は一致しなくてはならない、またそうでなければ、資本家的生産は単なる不合理に帰着するしかなく、再生産問題――単純再生産であれ、拡大再生産であれ――など一切“科学的に”考察できない、ということになるだろう。

 富塚は事実上、22,000は10,000に等しいと言うのであり、最初からこんな不合理を犯して平然としているのである。彼にあっては、「総資本」と「総価値」の再生産と流通は別のものだと言うのである。だが、資本家的生産にあって、総資本は総価値であり、総価値は総資本であり、それ以外ではない(もちろん再生産の最初と、その後では違っているが、ここではそんなことを論じているのではない。おかしな言い掛りを付ける人がいるので、念のため)。

 つまり、彼は「総資本」の観点からではなく、個別資本の観点から、社会的総資本の再生産と流通を考察しようとするのであり(何たる自己矛盾、何たる愚行か!)、それゆえに、社会的総資本(彼にあっては、「総生産物」)の再生産と流通を論じると言いながら、そこに個別資本の“論理”を常に密輸入し、混入してくるのである。

 個別資本においては、確かに固定資本の年々の移転分があるため、投下総資本と年々の運動資本は異なり得る、しかしそれは資本の運動を個別資本として見るからであって――ここでは確かに、固定資本は年々、その価値の一部のみが移転され(その耐用年数に従って)、その限り不均衡が現れるが――総資本として見るなら、個々の資本のこうした不均衡は均され、いわば平均化されるのであり、可変資本に対立するものとしては不変資本として総括されれば十分であって、固定資本と流動資本の区別は不要なのである。不要であるばかりではない、ここで、固定資本と流動資本の問題を何か本質的な契機として持ちだすことは根本的に間違いであって、社会的総資本の再生産の問題を考える上で余計な契機を持ち込み、問題を混乱させ、どこか正しくない道に導くだけであろう(事実、富塚にあってはそうなっている)。

 仮に十人の資本家がいて、それぞれ十年の耐用年数の固定資本を投下するとする、しかし彼らが毎年、一人ずつ順番にそれを投下するなら、固定資本の年々の移転といったことを、流動資本と特別に区別して考慮する必要がないということ、そして固定資本と流動資本は不変資本として“一括され”、可変資本に対置され、「区別される」だけで十分だということ(年々の総資本の再生産と流通を考察するという問題においては)は余りに明らかであろう。

 だから、富塚にあっては、再生産表式は、「総資本」の再生産と循環ではなく、「総生産物」の再生産であり、循環であるにすぎない。彼にあっては、この二つは区別されるのであり、されなくてはならないのである。マルクスにあっては、「総生産物」は社会的な「“総”商品資本」として考えられている、つまりここでは「総生産物」は明瞭に「総資本」であり、その循環、再生産である。

 しかし――我々は富塚に問わなくてはならないのだが――、一体、「総資本」の再生産や循環と区別された、「総生産物」の再生産(単純再生産、拡大再生産)や循環とはどんなものなのか、そんなものをいくらかでもまともなものとして想定し、規定することができるのか。そんなものを想定しようとするなら、それは開始した途端に破綻するしかない試みとなるであろう。もしくは、せいぜい総「貨幣資本」の再生産や循環といった方向――典型的なブルジョア的で、不合理な試み(ケインズ主義などに見られるような)――にそれ、あるいは帰着していくしかないだろう、あるいはそうしたことと区別がつかない、珍奇な試みに堕していくだろう。

 さらに、富塚の表式は最初から全く空虚で無意味なものとして現れ、総資本の(したがってまた、社会的総生産)の再生産とその流通を、したがってまた総生産物の諸階級間の流通および資本、収入の補填をも表現しない、というのは、社会的総生産とその流通は最初から、アンバランスで成り立たないものとして示されるからである。彼は初めから膨大な「余剰生産手段」が生じるような表式を“でっちあげる”、あたかもそんな資本主義社会があり得るかのように、概念的に想定できるかのように(もちろん、無概念的にやるなら、どんな社会関係も、どんな再生産関係を――したがって再生産表式も――想定することはできる、しかし問題は、概念的にどうか、である)。彼は同じように、絶対的な「過少生産手段」の社会も想定することもできたであろうが、なぜかそうしようとは全くしていない。

 社会的総生産が最初からアンバランスなものとして想定されるなら、そんな再生産表式にどんな意味もない。富塚の表式にあっては、最初から1000もの「余剰生産手段」が前提されている、つまりその限り、絶対的な過剰生産が前提されているのである。それは再生産表式の中ではどんな部門のどんな部分とも交換され得ない部分、つまり絶対的に過剰な部分である。

 富塚はこんな途方もないものをまず前提し、そこから再生産表式を組み立てようというのだから、彼の理屈が全くの恣意的なものになるのは一つの必然であろう。問題は資本家的生産と生産諸関係の再生産であり、その“法則”である。富塚が最初から、1,000もの「余剰生産手段」を含むものとして、再生産表式を提出するのは、彼が再生産表式でマルクスが問題にしている課題が何であるがを全く理解していないからである。だから、彼は常軌を逸しているとしか思われないような混乱した、見当違いのことを言い始めるのである。

 富塚の「余剰生産手段」なるものは、例えば、単純再生産から拡大再生産に「移行する」場合に、単純商品生産の素材的、価値的再編によって生じるといったたぐいの「余剰生産手段」では少しもない。また、第T部門の「優先的蓄積」――それがマルクスの“方法”であるかどうかはさておくとして――といったことから生じる「余剰生産手段」でもない。

 マルクスの表式もある意味で、「余剰生産手段」といったものを想定しているかである。例えば、いわゆる「第一例、B、拡大された規模における再生産のための出発式」(岩波文庫五分冊二六三頁)を見れば、第T部門において、500の「余剰生産手段」が形成されているかであり、富塚のやり方や理屈を正当化しているかである。しかしマルクスにあっては、それは拡大再生産において、すべて同一部門内の交換、あるいは第T部門と第U部門との交換によって解決され、解消されて行くたぐいの「余剰生産手段」であって、マルクスの表式にあっては少しも「困難」ではないのである。つまり、マルクスの500は、マルクスの表式にあっては、少しも「余剰」ではなく、そのうちの400は、第T部門のなかで、その不変資本部分Cに「合併」され、残りの100は第U部門の蓄積によって「均衡」させられるからである。

 マルクスの表式において、第T部門に500の「余剰生産手段」が想定されるのは、マルクスがすでに拡大再生産を前提して論じているからであって――したがって、問題は決して「単純商品生産から拡大再生産への移行」といったことではない――、この500は、富塚が言うような「500を過不足なく吸収する蓄積論」といったものによってではなく、そのうちの400は第T部門の内部での交換により、さらに100は第U部門との交換により、すべてまさに「過不足なく」解決されているのである(もちろん、マルクスはわたしが提出している5の表式――後出――として、それを提示したならよりよかったであろう。後出の5の表式では、第T部門の「余剰生産手段」は500ではなく、546として表されているが、それは単に、この数字だとすべてが“均衡的”に示されるからであるにすぎない。そしてこの場合、500を「過不足なく吸収する蓄積論」など一切必要としない、というのは、すでに「過不足」の問題は解決されている――というより、そんな問題はそもそも存在しない――からである)。

 また、マルクスも確かに富塚と同様に、第T部門の蓄積から初めているように見え、その限り、富塚の“方法”と同じ恣意的なやり方をしているように見える、しかしマルクスがそうするのは、その展開の中で、均衡ある社会的な拡大再生産がいかに行われるかを探るためであって、マルクスにあっては、例えば、最初から拡大再生産や、そのいわゆる“均衡条件”は前提されているのである(だから、第T部門の蓄積に対応して、第U部門の規模や蓄積等々も与えらる等々)。だから、富塚のように勝手に、恣意的に1,000もの「余剰生産手段」を設定する(そんなことが可能である)などということは、マルクスには思いもよらぬことであった。富塚の表式は、最初からどんな「均衡」とも社会的に不可避な相互依存関係とも無関係に提出されている、つまりそれは純粋に恣意的なものであって、どんな歴史的な社会関係も表現しないのである。それはマルクスが提出した、再生産表式の「均衡条件」とは全く別のものである、つまり社会的総資本の生産と流通の諸関係、その補填を明らかにするものでは全くないのだ(全然、していない)。

 拡大再生産が前年の生産に比べての「拡大再生産」である限り、当然、「生産手段」も(したがって生産手段生産部門である第T部門の規模も)前年に比べて増大していく、しかしそれは生産手段が「余剰」になることを少しも意味しないのである。生産手段の規模も(またその総価値額も)、前年のそれに比べれば「過剰」であると言えるが、それは単に前年の規模を超えるという意味以上ではなく、富塚が言いはやしているような、「市場で売れない」とか、「実現が不可能」だとか、そこに需給問題が提出されているとかいった意味では全くない(だが、富塚はまさにこうした“ケインズ主義的で”、皮相浅薄な観念から「余剰生産手段」を持ち出して来る)。マルクス的な意味でなら、生産手段の膨張がどんなに継続的に続いたとしても、それ自体、“均衡”ある拡大再生産を撹乱するものでも、また資本主義的生産の“困難”の拡大を意味するものでもない(そんな風に理解するなら、社会主義社会においても、資本主義的生産様式と同様な矛盾や“困難”が存在する、ということになってしまうではないか)。拡大再生産においては、確かに前年に比べて「生産手段」は増大していく――拡大再生産の概念からして、全く当然のことだが――、しかしそれはその生産手段が「余剰生産手段」であることを少しも意味しないのである。

 富塚が限りなく愚かであるのは、マルクスの拡大再生産の表式の第T部門において、500の「余剰生産手段」があると理解し、それが「実現されえない」と思い込んだことである。だからこそ、彼は次の年に、この「余剰生産手段」を解消させる「均衡蓄積率」といった、奇妙なものを“でっちあげ”なくてはならないのである。しかし実際には、マルクスにはあっては、この500は「余剰生産手段」でも何でもなく、第T部門内部での交換により、さらには第U部門との交換によって完璧に「実現」され得るものとして想定されているのである。

 しかしとんまの教授大先生は、わけの分からない「余剰生産手段」といったものを“でっち上げ”、それをもって自らの“学問的”体系の根底に据えようというのである。ただこのことだけからも、“富塚学説”の荒唐無稽さを我々は結論することができるだろう。

 拡大再生産においても、その表式が与えられるとするなら、それは“均衡的”でなければならない、つまり生産の全体が“均衡をもって”継続され、拡大し得るということが示されなくてはならない。だが、富塚にあっては、最初から表式は全く不均衡なもの、正常ならざるものとして、つまり第T部門が“不均衡に”膨張したものとして提出されるのである、つまりそれはどんな社会的必然性も社会的諸関係も反映しない、全く恣意的で、純粋に偶然的なものである。だから、富塚が彼の再生産表式が一定の段階の「生産力」を表しているというのもペテンであろう。

 彼はこうした全く不合理な前提から出発しつつ、こうした不均衡を解消させ得る「蓄積率」を探し出そうと言うのである。しかし仮に、そんなものが見つかるとして、その後の再生産はいかにして継続するのであろうか、することができるのであろうか。

 しかし実際には、富塚は、その均衡は実は不均衡であり、「余剰生産手段」を前提とする再生産が続かなくてはならない、と強調するのである。かくして彼にあっては、均衡は永遠に存在せず、ただ均衡への努力――シジフォスの努力――のみが現実的だ、とおっしゃるのである。1,000の生産手段の過剰を埋めるために、1,100の資本蓄積が行われたが、その結果は(次年度には)、やはり1,050の資本過剰が生じるというのである。彼は不均衡の継続こそが均衡的生産の継続である、とでも考えるのだろうか。一般に、彼には社会的生産と再生産の概念がない。だから、彼はマルクスの再生産表式の意義を全く間違って理解し、こんな途方もない再生産表式を――おそるべきドグマを――提出して平然としていられるのである。

 しかし、1,000の「余剰生産手段」を解消するための資本蓄積とは、一体どういう観念であろうか。そんなにも大きな「余剰生産手段」が存在するなら、必要なことは、資本蓄積ではなく、反対に、資本削減であろう。そして1,000の「余剰生産手段」が存在するときに、さらに1,100の資本を蓄積するなら、「余剰生産手段」の量の増大は、単に50で済むはずもないではないか。一体、富塚は何を考えているのであろうか。ブルジョア的“需給論”(例えば、ケインズ主義)の妄想的観念に囚われているとしか思われない。実際、富塚の頭脳を支配しているのは、「総有効需要の不足」という観念から出発する、ケインズ主義そのものであり、その単なる亜種、変種であるにすぎない。以下のような問題意識は、それを端的に暴露している。

「部門構成の観点を明確に導入した以上の表式展開を基礎として、総有効需要の二つの構成要因たる『生産財需要』と『消費財需要』とが、所与の生産力水準のもとにおいては、ある一定の構造連関をもつべきことを推論することができ、従って、『貯蓄』(意図される蓄積基金の設立)がいかほど大であろうとも、それを埋め合わすべき、『新投資』さえ与えられるならば、なんらの実現の問題も生じないであろうとするケインズ的論定が、一般的には成立しがたいことが、明らかになるであろう。元来、いうところの『有効需要』の問題は、総生産物W1の各構成部分相互の価値・素材補填の運動を媒介する貨幣の流れの問題として、把握されなければならない」(同九三頁)

 ここにはあからさまに、富塚の徹底的に“ケインズ主義的な”問題意識――全く卑俗で、根底においてブルジョア的な――が暴露されている。彼がここで「有効需要」とか「貨幣の流れ」を持ち出すのは特徴的である。ただこうした観念を持ち出すことによってのみ、富塚は、1,000の「余剰生産手段」があるが、それはただ、膨大な資本蓄積を行うことによってのみ、それを解消できるのだという、例のたわ言のつじつまを合わせることが可能になるのだが、この点については、別のところで詳しく論じるしかない。

 さらに、富塚は、蓄積率は「生産力」の水準から計算すれば55%だと言うが、しかし仮に「生産力」がその水準だとしても、そのもとでの実際の社会的蓄積率が、他の率、例えば10、20%、50%、75%等々にならないと、どうして富塚は断言できるのか。全く奇妙なことであると言わなくてはならない。我々は一定の「生産力」のもとでも、いくらでも違った蓄積率を想定することができるのであって――そして、現実もまたその通りであって――、ある「生産力」なら、ある蓄積率になる、などというのは富塚の間違ったドグマ以外ではない。

 富塚が一定の「生産力」のもとでの一定の蓄積率を想定できるのは、それをもともと前提しているからであって、彼は単に論証されるべきものを前もって提出しているのである。つまり1000もの「余剰生産手段」のある総生産を想定し、それを埋め合わせることのできる蓄積率はいくらか、と問うのである。この1000もの「余剰生産手段」は決して「生産力」によって規定されるのではなく、ただ富塚が、そうした「余剰生産手段」があると、どんな根拠もなく設定した条件なのである。富塚の表式において、1000の「余剰生産手段」はただ、それだけの「余剰生産手段」があると宣言されているだけであって、それがいかなる意味で「生産力」の結果であり、“与件”であるかは明らかにされていない(され得ない)。

 彼は二年目には「余剰生産手段は過不足なく吸収される」などと言うが、しかし第二年目には1,050の「余剰生産手段」がまた“再生産”され、存在するというのだから、どこに「吸収」されたのか、全くちんぷんかんぷんであろう。富塚にあっては、常に「余剰生産手段」は存在し、それを「埋める」べく拡大再生産が、つまり資本蓄積が行われるのだが、その結果は、この「余剰生産手段」の解消ではなく、一層の拡大である。そしてこの「余剰生産手段」とその拡大が存在しなければ、資本蓄積は不可能になる、というのは、このギャップを埋めるためだけに、資本蓄積は行われるのだからである。永遠に埋められない「余剰生産手段」こそ、資本蓄積の唯一の動機であり、推進力である。しかしはたして、こんな資本主義が現実に存在するであろうか、こんなものがはたして“正しい”資本主義的再生産の姿であり、資本の実際的な“運動”の反映と言えるであろうか、こんなものが資本主義の「正常な進行」と呼べるであろうか。全くふざけているとしか言いようがない。ここには労働者にとって、何の役にもたたない、最悪のドグマ、観念的インテリのひとりよがりがあるだけである。

 富塚は、こうした「均衡蓄積率」を超えた蓄積(いわゆる「過剰蓄積」)が資本主義の本性であり、そしてそれは恐慌として「必然的に」爆発するというが、彼の「均衡蓄積率」自体が無意味なドグマだとするなら、その「過剰蓄積」といったものも何の意味もない空辞であり、たわ言でしかない。資本主義的生産は結局、「消費」(労働者の過少消費)のよって制約されているのであり、「過剰蓄積」は反転せざるをえないのだそうだが、しかし富塚の「均衡蓄積率」自体が、どんな「消費による規制」も、それとの相互的依存関係もなく設定されているのだから(つまり1,000もの「余剰生産手段」を有する、全くの不均衡そのものとして提出されているのだから)、「消費による制約」も何もあったものではない。勝手に、「消費による制約」といったものを護符よろしく持ち出したところで、そんなものは富塚にあっては、何ら「論証されていない」のである(できるはずもないのだが)。

 そして、なお悪いことには、富塚が「拡張再生産の正常的進行のための価値・素材配置」として示された表式は、どんな「拡張再生産の正常的進行」を保障していないし、そもそもこの表式は「均衡」さえ示していないのである。(そしてもし仮にもし「正常的な進行」つまり「均衡」を示すなら、この表式はここで終わってしまう、というのは、次年度の拡大再生産への動力を失うだろうから)。それはただ、不均衡の――富塚が恣意的に持ち出した不均衡の――永続的進行という不合理を表現しているだけである。

 富塚の表式は全く恣意的に提出されたものであり、どんな実際的な根拠もないもの、単なる観念的構築物である。マルクスの表式も俗学者の目には、マルクスが勝手に作り、提起したものであって、富塚の表式とどんな違いもないように見える、しかしマルクスの表式は、資本の総生産と総流通の概念的総括として、客観的であり、また現実的な諸関係の抽象的表現として真実である(つまり、現実の理論的反映であり、現実そのものの概念である)。富塚におけるような、頭脳の恣意的な、勝手きままな産物とは本質的に別のものなのである。彼は、自らの再生産表式の意味を次のように語って、マルクス主義とは違っているのだ、それでいいのだと厚かましくも宣言する。

「『均衡蓄積率』ならびに『均衡蓄積軌道』なる概念の設定は、(それへの収斂のではなく、)それからの乖離の内的傾向を析出把握するための基準としてのみ理論的意義をもつ。この点、いわゆる『均衡理論』的思考と筆者のそれとは根本的に異なるのである」(同一〇五頁)

 つまり、現実の資本主義的蓄積は、「均衡」へと収斂する傾向をではなく、それから「乖離する」傾向を持つのであり、それを明らかにする拡大再生産表式が確定されなくてはならず、そしてそれが確定されさえするなら、恐慌は「必然的に」――実際には、機械的に――論証される、と言うのである。だから必要なのは、均衡式ではなく、むしろ“不均衡式”であり、そうでなくてはならないのである。

 だが一体、資本主義的再生産が――単純再生産も、拡大再生産も同様に――その内的な法則性において明らかにされないところで、どんな、それからの乖離やそこへの収斂が問題になり得るのか、我々がそれを認識し、確認することができるのか。その法則的な理論的獲得を、非法則的関係にすり代えるとするなら、それは経済科学の代わりに、つまらない、恣意的な現象論を持ち出すことになるであろうし、事実、富塚にあってそうなっている。かくして我々はマルクスの拡大再生産の概念を明らかにしなくてはならないのである。

◆拡大再生産のマルクス主義的概念

 拡大再生産の表式は、マルクスの与えたような均衡的なものから出発しなくてはならない。つまり形式から見れば、単純再生産の表式から、である(これが、どんな意味で単純再生産の表式であって、しかもそうでないかは、後に論じることにする)。

T 4,000C+1,000V+1,000M=6,000W1
U 2,000C+500V+500M=3,000W2(以下、アルファベットを省略する場合もある)

 これは単純再生産の表式であり、均衡式として提示されるが、拡大再生産の表式もまたそうでなくてはならない(富塚のものは、全く不合理である)。そして、この前提のもとで一定の蓄積率が提出されるのであって、その率は決して「生産力」によって決まるのではない。蓄積率は、剰余価値の中から蓄積にまわされる部分であり、したがって他の条件が同じなら、資本家の蓄積欲――もちろん、これを単純に個々の資本家の恣意と考えることはできない、というのは、彼らの社会的行動は諸資本間の競争、その他の社会的条件によって規定されているからである――と資本家的消費の大小によって規定されるのである。資本家の消費が50%なら蓄積には50%がまわされ、また資本家が享楽的に剰余価値の75%を消費すれば、蓄積には25%しかまわらないことになる。他方、資本家がひたすら“節欲”し、25%しか消費せず、蓄積にまわせば蓄積率は75%になる、等々。だから、蓄積率が「生産力」によって決定されるなどいうことは決してないのである。生産力が一定であっても、いくらでも蓄積率は異なり得るし、また違った「生産力」の段階でも、同じ蓄積率もあり得るのである。上記の表式においても、蓄積率は「生産力」によって一義的に決定される、などということはありえないのであって――そんなことをいくらかでも本気で言う人がいるとするなら、彼は蓄積について(一般に経済学についてさえ)何も分かっていないのであるが――、50%もあり得るし、またそれより高い75%も、より低い25%もある(我々はある意味で、100%さえも想定できるが、この想定は全く意味がないわけでも、純粋に空想的だということでもない)。

 例えば、我々は蓄積率を50%として、以下のような“均衡的な”(すなわち法則的な)再生産表式を想定することができる。総生産の規模は(そしてまた、総資本の価値も)、マルクスの単純再生産表式と同じ9,000(総資本は7,500)、他の諸条件も同一であり、ただ単純再生産ではなく、拡大再生産であることだけが(剰余価値がすべて資本家によって消費されないで、その半分が蓄積されるということだけが)違っている。この表式は越村信三郎が戦後、早い時期に提出したものである。

T 4,400C+1,100V+1,100M=6,600W1
U 1,600C+400V+400M=2,400W2……(1)

 参考のために、次年度の表式を示すと、以下のようになる。

T 4,840C+1,210V+1,210M=7,260W1
U 1,760C+440V+440M=2,640W2……(1’)

となり、総価値は9,000から9,900にまで増大する。以下、単純再生産の場合は、何年経過しようが、総生産規模は9,000のままに留まるが、拡大再生産では、10,890、11,978と年々膨張して行くことになる。

《ここで、上記の拡大再生産の表式(1)を、越村がいかにして導き出しているかを紹介しておこう。彼は拡大再生産の一般的諸関係を、代数式を解くことによって、次のような関数として明らかにしている(『図解資本論』第二巻下、二八二〜五頁を参照)。
(略)
 ここで、W1、W2は、それぞれ第T部門、第U部門の生産物価値であり、mは剰余価値率、aは剰余価値の蓄積率、cは有機的構成(いずれも両部門とも等しい)である(剰余価値率が百%ならmに1を、有機的構成が4対1ならcに4を代入する。蓄積率が50%なら、aはもちろん2分の1である)。越村は、マルクスの式の諸前提に、この公式を適用し、(1)を導き出しているのである》

 富塚は、蓄積率は「生産力」によって(一義的に、あるいは規定的に?)決まるかに言うのだが、もちろんそんなことはたわ言である。様々な水準の「生産力」のもとで同一の蓄積率があり得ると同様に、同一の「生産力」のもとで、無数の蓄積率を想定することができるであろう。例えば、我々は前出の式で(「生産力」などの諸条件のもとで)、蓄積率50%を想定したが、もちろん50%でなくてはならない、あるいは50%に“一義的に”決まるということではなく、どんな高さも可能である。

 例えば、蓄積率が資本の停滞などにより、25%という低い社会などの場合には(いわゆる“高度資本主義”の、すでにブルジョアジーが頽廃し、蓄積衝動が低下した、停滞する社会を想定されたい)、越村の表式を修正すれば、以下のようになる(総生産の規模はいずれも9,000で、他の条件は同じとする)。

T 4,200C+1,050V+1,050M=6,300W1
U 1,800C+450V+450M=2,700W2……(2)

 他方、蓄積率が75%と高いなら――こうした場合としては、例えば資本主義の初期において、資本の蓄積衝動が非常に大きい場合などを頭に描いてほしい――、以下のような表式が得られる。

T 4,600C+1,150V+1,150M=6,900W1
U 1,400C+350V+350M=2,100W2……(3)

 以上、3つの式を見れば、蓄積率が高ければ、蓄積率が低いばあいにくらべ、第T部門がより拡大しており、反対なら、第U部門の方が相対的に膨張するということになるが、それは蓄積という概念から当然に出て来ることであって、ここには不思議なこと、当惑させられるようなことは何もない。

 また、参考のために蓄積率100%で拡大再生産が行われる場合の均衡式は、以下のようになる。

T 4,800C+1,200V+1,200M=7,200W1
U 1,200C+300V+300M=1,800W2……(4)

 もちろん、資本家の個人消費がゼロということは、このブルジョア社会においては現実にはありえない、しかしこれは極端に資本家の蓄積欲が強い場合として、近似的に想定することはできる。少なくとも、表式的には可能であり、資本主義的生産はこの場合でさえ「均衡を保って」――つまりいわゆる「市場問題」、つまり「需給の困難」「実現の不可能」等々など引き起こすことなく――発展していくことができるのである。

 そればかりではない、この表式は、マルサスやケインズのばか話をも根底から粉砕している、というのは、ブルジョアや寄生階級の浪費が――浪費どころか、どんな消費さえ――一切なくても、社会的生産はいくらでも「均衡を保って」発展して行き得ることを示しているからである。つまりこれ事実上、社会主義的生産(の概念)であり、その順調な、調和の取れた「拡大再生産」を表現しているのである(もちろん、価値の「実体」は社会的な抽象的人間労働である等々の必要な変更――したがって剰余価値は剰余労働として現れ、あるいは剰余価値率、つまり剰余労働の割合は社会的な諸条件や必要性を考慮して、社会が好ましいと思い、また妥当であり、合理的と考えられる水準に定められる等々の――がほどこされれば、であるが)。

 以上、蓄積率が「生産力」によって決定されるかに言う富塚の理屈がどんなに途方もないばか話であるかが証明されるのである。

 ついでに言っておけば、これらの正当な拡大再生産の概念――概念であって、それ以上ではないが――にあっては、拡大再生産の「物質的基礎」が「実在していない」場合も無ければ、それを「いかにして新たに作りあげるか」といったばかげた問題も無く、あるいは「蓄積は独立変数で、部門間比率は従属変数」と言わなくてはならない理由も無く、さらにまた、資本主義的拡大再生産における「独立的契機としての可能的貨幣資本の蓄積」が第T部門で「どのように行われるか」といった的外れの問題も、一切存在しないということである(こうしたたわ言を並べているのは、前畑憲子――大谷派?――である)。

 他方、マルクスの元の式、

T 4,000C+1,000V+1,000M=6,000W1
U 2,000C+500V+500M=3,000W2

であるが、この総生産の規模9,000は、単純再生産の結果としてだけでなく、拡大再生産の結果としても現れ得る。すなわち前年の総生産、

T 4,000C+1000V+1000M=6,000W1
U 1,454C+364V+364M=2,182W2

の拡大再生産の結果としても現れ得る。この場合、総生産は8,182であり、単純再生産の場合より、818だけ小さい規模から出発していることになる。

 この表式は、マルクスが拡大再生産の表式として最初に提起したものに類似している。マルクスはそこで、「9000だった第一の表式におけるよりも小さい」と述べているが(『資本論』岩波文庫七分冊二五五頁)、それは、我々の拡大再生産表式が、マルクスの第一例=「出発表式」の第二年度の表式(同二六五頁)に酷似しているのと同様である。この類似は決して偶然のものではなく、その重大な意味が考えられるべきであろう。

 参考までに、拡大再生産における前々年の総生産規模を示せば、7,438であり、総生産物の価値は、年々、前年の1・1倍のスピードで拡大し続けてきたことになる。

 もちろん、この場合の蓄積率は50%である。前年の総生産の規模は8,182であるが、その1年間の拡大再生産の結果、総生産の規模は9,000となり、単純再生産の場合の規模の9,000と同一になる(その場合の素材的、価値的構成は、表式1のようになる)。つまりこの時点では、年々単純再生産が続いてきた場合と、拡大再生産が続いてきた場合が、総生産規模で一致するのである。だから、もしここで拡大再生産の方が単純再生産に移行するなら、二つの場合はそれ以降、全く並行することになる。またこの年次から単純再生産の方が蓄積率50%で拡大再生産に転換するなら、拡大再生産の方と並行することになる。単純再生産から拡大再生産への移行ばかりが言いはやされているが、しかしもちろん、反対の場合についても、いくらでも語り得るのである(語って悪い、という理由は何もない)。この意味において、マルクスの単純再生産の表式は、単純再生産の結果であるとともに、拡大再生産の結果としても現れ得る(まず総生産の規模において、次に、その内部で質料的、価値的に、単純再生産に適合した形に転換され、再編されるなら、であるが)。

 もちろん、単純再生産から拡大再生産への「移行」といったこと(あるいは一般的に言えば、蓄積率の大きな変動)がもし実際に行われるなら、それは平穏無事な過程としてではなく、大きな経済的激動や恐慌を伴うのであって、単なる表式上(もしくは観念上)の操作といった問題では全くない(“表式主義者”は、わたしがそんな場合は恐慌だ、と叫んだら、とんでもないことを言うという表情をしたのだが)。エンゲルスは『資本論』に、マルクスが単純再生産から拡大再生産への「移行」を課題にしているかの文章を書き加え、そこで「この移行は、必ずしも困難なく遂行されるものではないが、第一部類の一群の生産物が両部類の生産物における生産手段として役立ち得るという事情によって、容易にされる」(岩波文庫五分冊二四一頁)といった、言わずもがなの、卑俗なことを書いている。

 しかし以上すべての表式において、「移行」といったことは本質的には問題になっていないばかりか、生産と消費のバランス、あるいはブルジョアたちが(そして富塚派ら俗流学者が盛んに気にする)「需給のバランス」等々は完璧に保たれているのであって、それは当然のことである、というのは、前提として、我々は資本主義的再生産の総体(単純再生産の場合も、拡大再生産の場合も)を、抽象的な均衡状態において、つまり法則として見ているからである。もちろん、資本主義のもとでは、こうした法則は、ただ資本の無政府的な諸運動によって媒介され、無意識の過程として、恐慌や不断の動揺のなかで、それを通して貫徹されるのであって、あらかじめ生産と交換に先だって存在しているわけでは決してないのだが。

 富塚は我々の表式(に表されている諸関係)がすでにそれ自体で、「消費」と「生産」との関係という問題を、その「均衡」を明示しているということに気がつかない(あるいは、気がつかない振りをしている)。だから彼は、「過剰蓄積」が進行すると「消費」に引き戻される(そうならざるをえない)、それこそが恐慌であり、その「必然性」だと叫ぶのだが、しかしどんな関係に規定された「消費」に引き戻されるのかを語ることは決してできない、というのは、彼にはその概念がないからである(というより、その概念を拒否して、珍奇な「均衡蓄積率」といったものにすり替えてしまったから)。彼にあっては、この「均衡蓄積率」は「消費」と「生産」の関係を合理的な形では示していないのである(示すことができないのだが、とするなら、彼は何という無政府主義者であることか)。富塚派は結局、社会主義社会にまで「恐慌」(とその「必然性」)を事実上持ち込む、ウルトラとんまな連中、と規定することができるだろう。

『海つばめ』第1004号(2005年11月27日)


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