スターリン、山田盛太郎から富塚まで
『資本論』第二巻の位置づけ
「恐慌論」を結びつけるのは基本的に誤り
(林 紘義)
「スターリン主義経済学」は何かという一般的議論はさておくとして、その一つが、いかに「マルクス主義経済学」に負の影響を及ぼして来たかについて論じてみることにしたい。
◆すべての発端
山田盛太郎が、以下のような観念を“権威主義的に”持ち出したために(『再生産過程表式分析序論』、一九三一年)、何十年にわたって、いわゆる“マルクス主義”経済学は、それにとことん“引き回される”ことになり――もちろん、“学問”の領域の問題に留まらず、“共産主義運動”(スターリン主義的な意味での)とも、深く関連してきたのだが――、その影響は今にまで深く及んでいる(例えば、“富塚派”のドグマを見よ)。
「以上の諸点は、『資本論』に現われた総再生産過程の分析の外貌である。それらの諸点の内的連関。すなわち生産力展開を軸線とする蓄積のための蓄積、生産のための生産なる資本家的生産の至上命令(特に〔『資本論』〕第一巻第二十二章)、それに伴う資本の有機的構成高度化、したがって、一方、産業予備軍の成立=増大(特に、第一巻第二十三章)、他方、利潤率低下傾向(特に第三巻第二十三章)、しかしてこれを基礎とする所の、主点、剰余価値の生産諸条件とその実現諸条件との間の矛盾の展開。かくのごとき全面的な領域にわたっての内面的連繋のもとに、再生産の表式(第二巻第三篇)の分析と展開がなされている」(『資本論体系』中〔改造社、『経済学全集』第十一巻〕二六一頁)。
山田は、第二巻が、第一巻及び第三巻と「内面的連繋」のもとに書かれていると主張し、とりわけ、恐慌論がそうである、と強調するのである。
かくして、再生産表式を根底とする恐慌理論は、一方で第一巻の理論(「生産のための生産、蓄積のための蓄積」という資本の本性)と、他方で、第三巻の理論(恐慌の「究極の根拠」であろうと、「直接の原因」であろうと、我々にとってはどっちでもいい“言葉の遊び”にすぎないが、いすれにせよ、「大衆の消費制限」による“過少消費”という、もう一つの資本の本性)と、結び付けられ、あるいはそこに根拠が置かれたのである。
もちろん、山田盛太郎は「直接には」、再生産論を根底に置く恐慌論は、こうした資本の本性とは“直接には”関係ないと言いながら、“究極には”そこに基礎づけられるのであり基礎づけられなくてはならないと強調することによって、結局は同じ結論に帰着するのである。つまり、再生産表式と関連して、過剰蓄積もしくは過少消費は、恐慌論の根底をなすものであるということにされたのである。もちろん、「生産のための生産、蓄積のための蓄積」すなわち過剰蓄積といい、過少消費といい、同じことを別の形で言ったものにすぎない。
しかし、マルクスが第一巻で展開した資本の本質的傾向、あるいはい第三巻で強調した、大衆の“制限された”消費という傾向は、第二巻の再生産表式が課題としたこととは全く別であって、それらは全く別個の理論課題として、理解されなくてはならないのである。
◆マルクスの第一巻と第三巻の資本観念
マルクスは確かに第一巻で、資本の「生産のための生産、蓄積のための蓄積」の衝動を暴露している。
「資本家は、人格化された資本であるかぎりにおいてのみ、一つの歴史的価値と、……歴史的存在権を有する。ただそのかぎりでおいてのみ、彼自身の経済的必然性が、資本主義的生産様式の経済的必然性のうちにひそむのである。しかしまたそのかぎりでは、使用価値と享楽ではなく、交換価値とその増加とが、彼の推進的動機である。価値増殖の狂信者として、彼は仮借なく、人類に生産のための生産を強制し、したがって、社会的生産諸力の発展を強制し、各個人の完全にして自由な発展を根本原理とする、より高度な社会形態への唯一の現実的基礎をなしうる物質的生産諸条件の創出を強制する。資本の人格化としてのみ、資本家は尊敬すべきものである。かかるものとして、彼は貨幣退蔵者と絶対的致富衝動を共にする。しかし、貨幣退蔵者にあって個人的狂癖として現われるものは、資本家にあっては、社会的機構の作用であって、この機構において、彼は一動輪であるにすぎない。さらにまた、資本主義的生産の発展は、一個の産業企業に投ぜられる資本を、必然的に、たえず増大させ、競争は、各個の資本家に、資本主義的生産様式の内在的諸法則を、外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に、彼の資本を維持するために、たえずそれを拡大することを強制し、そして資本家は、ただ累増的蓄積によってのみ、それを拡大しうるのである」(第一巻第二十二章、岩波文庫二分冊一四三〜四頁)。
「蓄積せよ、貯蓄せよ! これがモーゼであり、預言者である! 『勤勉は貯蓄によって蓄積される材料を供給する』。ゆえに貯蓄せよ、貯蓄せよ! すなわち、剰余価値または剰余生産物のあたうかぎり大きな部分を資本に再転化せよ! 蓄積のための蓄積、生産のための生産、この公式において、古典派経済学は、ブルジョア時代の歴史的使命を表明した。古典派経済学は、富の産みの苦しみについては、瞬時も見誤ることはなかったが、しかし、歴史的必然を嘆いたとて、何の役に立とうか? 古典派経済学にとってプロレタリアは、ただ剰余価値生産のための機械としか考えられていないとすれば、資本家もまた、ただこの剰余価値を増加資本に転化するための機械としか考えられないのである」(同一四九頁)。
しかしマルクスが、「蓄積のための蓄積、生産のための生産」を資本の本性として述べたからといって、それは第二巻の再生産表式論とは別の次元の理論課題である。マルクスが第一巻で強調しているのは、いわば個別資本の“論理”であり、その衝動であって、第二巻は、そうした個別資本の論理を超えた、総資本(総生産物)の再生産と流通を扱っているのである。個別資本の“行動原理”として現われるものと、総商品資本(総生産数)の相互補填と再生産を全体として、検討し論じるときとは、おのずから分析視点が違うのであって、それを混同することは、それぞれの理論課題をあいまいにし、混乱させ、結局、どこかに追いやることに帰着するであろう。
第三巻のあれこれの文章も同じである。山田盛太郎はいくつもマルクスの言葉を引いてきているが、その代表的なものは以下のようなものである。
「〔あらゆる〕恐慌は、種々の部門における生産の不均衡からのみ、また、資本家自身の消費が彼らの蓄積にたいしてなす不均衡からのみ、説明されうるであろう。しかし事実上は〔事実はそうではないのであって〕、生産に投じられている〔彼らの〕諸資本の補填は、大きな部分が、非生産的諸階級の消費能力にかかっている。他方、労働者の消費能力は、一部は労働賃金の諸法則によって、一部は資本家階級のために利潤を産むように充用されうるかぎりにおいてのみ充用されうるということによって、制限されている。すべての現実の恐慌の究極原因が、あたかも社会の絶対的消費能力のみが限界をなすかのように生産諸力を発展させようとする資本主義的生産の衝動に比しての、大衆の貧窮と消費制限であることに、変わりない」(『資本論』第三巻三十章、岩波文庫七分冊二四九頁、〔 〕内は、エンゲルスが修正しないマルクスの原文)。
こうした第三巻の観念もまた、第二巻の再生産表式の概念と別の次元の問題であるのは一見して明らかであり、それらを“むりやりに”――直接的だ、間接的だ等々と言いはやしながら――結び付けようとすること自体、マルクスの“方法”や、それぞれの固有の理論課題を理解していないことを暴露するのである。
◆スターリンに忠実たらんと欲して
もっとも、山田盛太郎らのこうした努力もまた、スターリンの観念に忠実たらんとする「涙ぐましい」奮闘の一結果でもあった。山田盛太郎は自ら、スターリンを引用して、自らの観念の正当化と権威付けを図っている、つまり自分のドグマが実際にはスターリンに発していることを思わず知らず暴露しているのである。山田の引用するスターリンの観念は以下のようなものである。ロシア共産党十六回大会〔一九三〇年〕での発言である。
「過剰生産恐慌の基礎及びその原因は資本主義的経済体制そのものの中に横たわっている。恐慌の基礎は生産の社会的性質とこの生産による生産物の領有の、資本家的形態との間の対立の中に横たわっている。資本主義のこの根本的矛盾の一表現は、資本家的利潤の最大限を獲得せんとする打算の上に立てられた生産能力の巨大なる発達と、労働者大衆――その生活水準を資本家はたえずその最小限度まで圧し下げようと努力している――の側における支払能力ある需要(有効需要)の相対的限界との間の矛盾である。……根本的に主要購買者たる、労働者農民の幾百万大衆の購買力は国内市場においても国外市場においてもともに低い水準にとどまっている。かくして過剰生産の恐慌が起こる」。
もちろん、スターリンの観念はあいまいであり、“多義的”(ambiguous)である、つまりどうとも取れる、矛盾した表現がいくらでも盛り込まれていて、スターリンを絶対化する人々を常に苦しめ、あるいは言葉の意味やその解釈をめぐる、“神学論争的”議論(つまり無内容な議論)がえんえんと展開される、一つの原因とはなったのだが。
スターリンは一方で、資本主義の根本矛盾は、「生産の社会的性格と領有の私的性格にある」という見解にちょつと敬意を表明する――もちろん、それをしておかないと、まずいことになりかねない――、しかしもちろん、スターリンの本意はそこにあるのではなく、エンゲルスのこうした観念を利用して、一種の過少消費説を持ち出すことである。恐慌論をそこに基礎づけることである(スターリンの引用文の後半を見よ)。
そしてスターリンに「忠実な」山田盛太郎が、スターリンの観念に背くはずもないのである。彼はありとあらゆる理屈と引用を動員して、スターリン的観念の擁護と正当化に、あるいはその“敷衍”と“普及”に大急ぎで従事するのであり(しなくてはらないのであり)、かくして『再生産過程表式分析序論』はどうしても書かれなくてはならなかったのであり、また書かれたのである。
◆富塚の“スターリン主義”的観念
もちろん、山田盛太郎の弟子として、富塚は“スターリン主義”経済学から少しも自由ではない、むしろ彼もまた、その一個の“奴隷”にすぎない。彼は第二巻第三篇(いわゆる“再生産論”)を、次のように位置付けるのである。
「それゆえに、『再生産の諸条件』はまた、『それと同数の異常な経過の諸条件に、恐慌の可能性に転変する』ものとして把握されなければならない。『生産過程と流通過程との統一』の諸条件を把握することは同時にまた、その『分離・背反』の可能性を把握することを意味するのである。しかもそれは、商品流通に含まれる単なる『恐慌の可能性』にとどまるものではなく、総資本の再生産の諸条件それ自体のうちに内包されているものとして、『内容規定の拡大』をえたものである。再生産表式分析は、二部門の交換を結節とする・社会総体としての生産と消費との、それを媒介する資本流通と所得流通との、交錯=連繋の態様を明らかにするものであり、したがってそのかぎりにおいて、第一巻第七篇において基礎的に解明された・『狭隘な消費限界』を土台とする『生産の無制限的発展への傾向』なる矛盾、すなわち言うところの《生産と消費の矛盾》が、生産部門間の連繋をつうじて、いかように社会的総資本の総生産物の《実現》を制約するかを、明らかにするものであるといえよう。その点は、総生産物諸成分の価値的・素材的相互補填運動とそれを媒介する貨幣回流の分析を通じて資本制的再生産過程が資本関係の再生産過程たることが再確認されるという点とともに、十分に評価されなければならない」(『蓄積論研究』四六二〜三頁)。
もちろん、「再生産表式論」は、「《生産と消費の矛盾》が、生産部門間の連繋をつうじて、いかように社会的総資本の総生産物の《実現》を制約するかを、明らかにするもの」では全然ない。それはマルクスの再生産表式を一見するだけで明らかであろう。それは基本的に、総資本の再生産と流通を、つまり総生産物(商品資本)の諸成分の価値的・素材的相互補填を分析し、資本家的再生産の全体がいかに行われるかを明らかにするものであって、「生産と消費の矛盾」といったものとは一切無関係である、というより、むしろ資本家的生産様式における「生産と消費」の全体がいかに関連し、いかに総資本の再生産と流通の中で“解決”されるかを教えるものである(これはアダム・スミスが決して理解もできず、“解決”もできなかった、理論課題である)。
富塚にとっての再生産表式の意義は次のようなものである。
「再生産表式論は、『生産的消費』と『個人的消費』との構造連関と拡張過程におけるそれぞれの変化様式を解明することによって、『生産と消費との矛盾』が如何ように蓄積過程における生産物W’の『実現』を制約するかを明らかにするための基礎理論しての意義を持っている」(『恐慌論研究』二八八頁)。
こうした文章には、富塚の再生産表式の意義に対する理解が、つまり徹底的に的外れで、ナンセンスな無理解が暴露されている。
富塚は、あれこれの理屈をさんざんに述べたて、再生産表式と恐慌論は「直接には」関係しない、結び付けるべきではないと繰り返したあと、結局、くだんの「消費制限」(あるいは同じことだが、「生産のための生産、蓄積のための蓄積」)が“均衡ある”再生産表式を「いかにして」制約し、規制するかを明らかにしなくてはならない(それが、恐慌の「必然性」を明らかにする)、などというつまらないおしゃべりに、空論的立場に後退するのである、つまりありきたりの過少消費説論者と同一の次元にすべり落ちて行くのである。
◆いかなる意味で関連するのか
第二巻の再生産表式は、第一巻の七篇二十二章の論理や、第三巻の「過少消費説」的観念とは全く違った理論的課題を追求するものであると主張するやいなや、富塚派(もっと一般的に言うなら、山田盛太郎派つまりスターリン主義派)が、一斉に、「第二巻が、第一巻や第三巻と理論的に無関係だなどということはありえない、『資本論』の諸概念はすべて有機的に結び付いているのであって、第一巻の概念はそれ以降に問題となる資本主義的現実を想定しているのであり、さらには第二巻、第三巻の理論もまた、それ以前の理論を前提としているのであって、『資本論』のそれぞれの側面もしくは契機の理論を切り離し、相互の理論的“連繋”を否定するなど、途方もない暴論であろう」等々といった、非難の大合唱をあげるのが聞こえてきそうである。
もちろん、『資本論』のすべての観念が相互に規定的であり、“内的に”関係しているのは言うまでもないことである。
しかし問題は、第二巻の再生産表式の概念が、第一巻の資本の運動論理や、第三巻の運動論理などど「連繋」しており、そうしたものとして、恐慌論の基礎をなしている、といったドグマであり、またそうした形での「連繋」といったものが実際に『資本論』に存在しているか、ということである。もちろん、そんなものは存在していないし、するはずもないのである。
マルクスは、第二巻の再生産表式が、いかなる意味で、他の巻の諸論理や諸概念と関係しているかを、次のような言葉で教えている。
「買い手が後に等しい価値額の売り手として現われることとその逆のことによって、均衡がもたらされるかぎりでは、貨幣の還流は、購買に際してこれを前貸しした側に向かって、再び買う前に売った方の側に向かって、行われる。しかし、現実の均衡は、商品交換そのものに関しては、年生産額の種々の部分の取引に関しては、相互に取引される諸商品の価値額の、等しいことを条件とする。
しかし、単に一方的な諸取引が、すなわち、一方におけるいくつかの単なる購買、他方におけるいくつかの単なる販売が行われるかぎり――そしてわれわれの見たように、資本主義的基礎の上での年生産物の正常な取引は、この一方的な諸変態を規制する――均衡は、一方的諸購買の価値額と一方的諸販売の価値額とが一致するという仮定のもとにのみ、存在する。商品生産が資本主義的生産の一般的形態であるという事実は、貨幣が単に流通手段としてのみでなく、貨幣資本としてのそこで演じる役割を、すでに含んでおり、そして、正常な取引の、したがって、単純な規模なり拡大された規模なりにおける再生産の正常な進行の、この生産様式に固有な特定の諸条件を産み出すのであるが、この諸条件は、それと同じく多数の、変則的な進行の諸条件に、恐慌の可能性に、一変する。というのは、均衡そのものが――この生産の自然発生的態容にあっては――一つの偶然なのだからである」(第二巻第二十一章、岩波文庫五分冊二三七〜八頁)。
マルクスは、第二巻の再生産表式の概念は、資本主義的生産関係のもとでは、その多くの“均衡”概念は、それと同じくらいの不均衡の可能性を意味する、つまり「恐慌の可能性の拡大」を明らかにする契機であると強調して、第一巻との、そして『資本論』全体との関連を明言しているのである。
しかしこの関連は積極的なものではない、すなわち均衡がそれ自体、資本主義的生産様式のもとでは、不均衡の諸契機に転化する、という意味で、その限りで、『資本論』全体との(つまり資本主義的生産関係全体との)関係が示されているのである。それ以上でもなく、それ以下でもない。したがって第二巻から、その再生産表式の概念から、“恐慌論”を導きだそうというのは――直接であれ、間接であれ――、マルクスの“方法論”にも、その理論的、概念的展開とも全く一致しないのである。一致しないばかりではない、それはマルクスの意図でも、第二巻で課題としたことでも全くないのである。
マルクスは『グルントリッセ』の中でも、一種の表式分析をして、次のようにも語っている。
「生産力発展の所与の段階においては、……生産物が――原材料・機械・必要労働・剰余労働に対応する――部分に分割され、そして最後に、剰余労働自身が消費に帰着する部分と再び資本となるもう一つの部分とに分割される、ある一定の比例関係が生ずる。資本のこの内的・概念的な分割は、交換においては、ある規定され制限された比率関係――生産の発展とともにたえず変動してゆくとはいえ――が、諸資本相互間の交換にとって生じる、というように現われる。……交換は、それ自体としては、これらの概念的には相互的に規定された諸契機に恣意的な定在を与える。これらの諸契機は、相互から独立して存在する。それらの内的な必然性は、それら相互の恣意的な外観を強力的に終止せしめる恐慌において現われる」(『グルントリッセ』原頁三四七〜八、高木幸二郎訳〔大月書店、第二分冊三七七〜三七八頁)。
再生産表式とは、つまり「概念的には相互的に規定された諸契機」の分析であり、その表式的(概念的、“均衡論”的)関係としての解明である、しかし「交換」は、これらの内的に結び付いた諸契機に「恣意的な定在」つまり「相互から独立した」定在を与えるが、しかし内的な必然性(すなわち再生産表式において示された「概念的」関係、内的関係)は自己を貫徹し、恐慌において、その相互的独立という外観を完全に終止せしめるというのである。ここで言われているのは、前記、『資本論』が言うことと本質的に同じである。
◆富塚の恐慌の「必然性」の論証
さて、『資本論』第二巻の「再生産論」から出発する、富塚の恐慌の「必然性」の論証は以下のようなものである。引用が、少々長くなるのもやむをえない面がある、というのは勇敢なる富塚は、恐慌を「論理必然的に」論証し得た、と確信しているからであり、その論理は少なくともいくらかは詳しく紹介されなくてはならないだろうからである。
「上述の《過剰蓄積》への傾向は、具体的には、第T部門の『自立的発展』に主導されての転倒的な拡張過程として現われる。消費需要によって直接に制約されることなく、その増加率を基準として生産計画を立てる第T部門は『自立的発展』の傾向をもち、その傾向は、不均等発展の過程、とくに急激な生産力発展の過程において強く現われる。しかも、第T部門とりわけ第T部門用生産手段生産部門には巨大な固定設備と長期の『建設期間』を要するものが多く、その建設期間の間、なんらの生産物の供給をもおこなうことなく生産諸手段を吸収し続け、また労働者の雇用を通じて消費資料を消費し続け、それに対応して貨幣を流通過程に投入し続け、かくして、その期間を通じてW―GなきG―Wを続行するのであるから、そうした投資は、生産諸手段の継続的需要を通じて一連の関連産業諸部門の拡張を誘発し続け、逆にまたそれによって誘発され、さらには、これらの投資増大に伴う雇用増大・消費需要増大は、第U部門の拡張を通じてなお一層の第T部門の拡張を誘発していく。かくして、第T部門の自立的発展はただちにその限界につき当り調整を受けることなく、部門内部での相互誘発を通じて自己累積的に進展し、しかもそれによって一定限までは雇用・消費需要の増大を通じて第U部門の拡張を誘発し、いわば上から逆に社会的再生産の規模をひきずり上げ拡張せしめながら、したがってまたそのかぎりでは、その『自立的発展』の『自立性』をも(後から)ある程度までは解消せしめ、(それによってかえってヨリ一層の『自立的』発展が誘発され、潜在的に不均衡が累加されていくのだが。)その不均衡としての顕在化を先へ先へとおしやりながら、進展していくのである。
だが、不均衡としての顕在化が先へ先へとおしやられていくのは、過剰投資の累加によってのみである。すなわち、その過程は、矛盾の累積過程にほかならない。過剰投資がヨリ大きな過剰投資によって蔽われてゆくかぎりにおいて、矛盾の顕在化が回避されてゆく。それゆえにまた、ひとたび蓄積速度が減退するならば、累積した矛盾は全面的に顕在化せずにはいない」(同四八〇〜一頁)。
全くの恣意的な議論であり、こんな議論で恐慌の「必然性」が論証されるというのであれば、他のどんなたわいもない道義反復的な形式議論によっても、それは簡単に“論証”されるであろう。
それにしても、最後の「ひとたび蓄積速度が減退するならば」という概念規定のナンセンスさ、空虚はどうだろう。この「蓄積速度の減退」は富塚にあっては無条件的、無前提的である、つまりアプリオリである。それは必ずやって来なくてはならないからこそ、恐慌は「必然的」である。だが、富塚はそれが必ずやってくることを論証するのではなく、「一度減速するならば」と仮定するだけである。富塚の見事な「恐慌論」は、ただこうした無前提の仮定によって、その根底が支えられているのである、とするなら、その論理の虚構性、同義反復性はあまりに明らかであろう。
ここにあるのは、過剰生産は過剰生産であるという繰り返しだけであって、こんなえせ論理によって「恐慌の必然性が“論証”される」というのは、まさに子供騙しもいいところであろう。
実際、富塚は「生産が生産を呼び、蓄積が蓄積を呼ぶ」という、マルクスの第一巻二十二章の論理、競争渦中にある個別資本について、その衝動について述べた観念を、くだくだと繰り返し、それをごたごたと潤色して、我々にふるまってくれるだけである。
◆今一度、マルクスの拡大再生産の概念について
『海つばめ』一〇〇四号において、「拡大再生産のマルクス主義的概念」を提出したとき、七五%と二五%の蓄積率の表式を提出したが、資本の有機的構成を同一としたことが気になっていた、というのは、蓄積率が七五%と高い社会では当然、有機的構成は低く、蓄積率が二五%と落ちていく社会は、爛熟した資本主義社会であり、当然に資本の有機的構成は非常に高くなっているはずだからである。そこで、その点を考慮して、別の表式を考えて見た。
資本主義初期における拡大再生産表式例
T 2813C+1406V+1406M=5625W1
U 1668C+ 844V+ 844V=3375W2
この表式例においては、資本の有機的構成は二対一、蓄積率は七五%である。つまり有機的構成は低く、他方、蓄積率は高く設定されている。
次に、高度資本主義における拡大再生産表式例
T 5243C+ 874V+ 874M=6991W1
U 1507C+ 251V+ 251V=2009W2
この表式例においては、資本の有機的構成は六対一、蓄積率は二五%である。有機的構成は高く、他方、蓄積率は低く仮定されている(計算が正確になされているか、自信はない。ほぼこんなすう勢だとは思われるが、数学が得意の人が確かめてくれるとありがたい)。
初期資本主義における、資本の年々の拡大率(膨張率)は、二五・一%と劇的に高くなっており、まさに初期資本主義における資本主義の特徴をはっきり映しだしている。
他方、高度資本主義における資本膨張率はわずか三・六%であり、これもまた、高度資本主義の停滞していく本性を暴露している。
参考までに言及すれば、拡大再生産のモデル式(?)の表式5例(『海つばめ』一〇〇四号)では、資本膨張率は一〇%であり、ここでの二つの中間に見事に収まっている。
拡大再生産表式の意義や役割は、こうした分析に用いられる等々にあるのであって(もちろん、これは一例にすぎない)、恐慌論の論証の根底になるとか、あるいは「第T部門の優先的発展を証明する」ためにあるのではない。今や、こうした百年ほども“マルクス主義理論界”を支配した、“スターリン主義経済学”の決まり文句あるいは固定観念と決定的に訣別すべきときなのである。
『海つばめ』第1010号(2006年2月12日)
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