マルクス主義同志会トップヘージ論文集目次E-メール

論文集目次に戻る

「余剰生産手段」の無概念
素材置換を「蓄積」と強弁
富塚理論の根底を突く
(林 紘義)


 富塚の「余剰生産手段」と「均衡蓄積論」の理論がドグマであるのは明らかだが、その“論理構造”がいかなるものであるかを明らかにし、それを“内在的に”批判するのはそれほど簡単なことではない、というのは、そもそも富塚が何を言おうとしているのかを“合理的に”理解することが困難だからである。彼は思い上がって、マルクスの理論には欠陥があり、未完成だと言いはやしている。もちろん、マルクスの理論であれ、誰の理論であれ、一定の意味で欠陥のない理論、「未完成」でない理論といったものはないであろう。しかし富塚は一体どんな意味で、マルクスの理論(ここでは、拡大再生産の理論もしくはその表式)の欠陥や未完成について騒ぎ立てているのであろうか、それが問題である。

◆富塚の「余剰生産手段」の概念

 そこで、富塚がマルクスの不十分さを“補う”ものとして持ち出すのは、「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」といった奇妙な観念である。

 前に見たように(『海つばめ』一〇〇四号)、富塚の拡大再生産の概念は以下のようなものである。彼の出発式は以下のように提出されている。

 T 6000C+1500V+1500M=9000W1
 U 2000C+ 500V+ 500M=3000W2

 ここには一〇〇〇の「余剰生産手段」が存在し、したがって、それを過不足なく吸収されるべき蓄積が行われなくてはならないが、それは一一〇〇(一〇〇〇+一〇〇、この一〇〇は、一〇〇〇の追加資本が投下される場合の可変資本の大きさである)である。したがってこの一一〇〇を、総剰余価値の二〇〇〇で割って、均衡蓄積率は五五%と計算される。かくして、「拡張再生産の正常的進行のための価値・素材配置」は次のようになる。

 T 6000C+1500V+675M(資本家消費分)+825M(蓄積分)
                                     =9000W1
 U 2000C+ 500V+225M(資本家消費分)+275M(蓄積分)
                                     =3000W2

 彼はこうした表式の自己展開を総括して言う。

「蓄積総額は一一〇〇で余剰生産手段は過不足なく吸収され、またT(一五〇〇+六七五+七五)=U(二〇〇〇+二五〇)で部門間均衡条件は充たされ、さらに蓄積額の両部門への配分比率は元投下資本の部門比率と等しく三対一であり、両部門とも蓄積率五五%、資本の増加率五%であるから、右の表式に示された価値・素材補填の運動がそれに照応する貨幣の流れ(流通・回収)の運動に媒介されながら正常的におこなわれる場合には、拡張過程は、部門間の技術的・経済的な関連性を保持しながら、なんらの撹乱もなしに進行する」(『恐慌論研究』、九一頁)。

 大略、これが富塚の拡大再生産の概念、つまり「余剰生産手段」と「均衡蓄積率」の概念である。

 彼が出発点にするのは、一応は、マルクスの再生産表式である。彼によれば、「均衡蓄積率」の概念はマルクスの表式から出てきたものだそうである。マルクスもまた、「余剰生産手段」の概念から出発している、つまり単純再生産から出発し、そこでの「余剰生産手段」を前提にして資本の蓄積、つまり拡大再生産の問題を論じるのである。富塚が「余剰生産手段」と呼ぶものは、マルクスが拡大再生産のための「物質的基礎」とか「物質的前提」と言っているものであり、いわゆるマルクスの「第一例」の表式において、第T部門の五〇〇という数字で示しているものであるという(第T部門のv+mの二〇〇〇から、第U部門のcと交換される一五〇〇を引いた数字だと、富塚は理解する)。富塚はこの一〇〇〇について、次のように主張している。

「部門Tにおける生産手段の生産総額九〇〇〇のうち、一〇〇〇だけが余剰生産手段として『質的規定』を受け取る。総生産物の価値的・素材的構成=『諸要素の機能配列』となっている。この余剰生産手段量は、それだけの生産手段が蓄積用に利用可能であることを示すと同時に、均衡が維持されていくためには、それだけの余剰生産手段を過不足なく吸収すべき大いさの蓄積が行われなければならない、ということを示す」(『資本論体系・四巻、資本の流通・再生産』、五六頁)。

 しかし富塚が「余剰生産手段」と呼ぶものは決して「余剰生産手段」ではなく、すでに拡大再生産の結果としての商品資本の内部で、拡大再生産のために素材的に生産され、準備されている部分であって、これから「蓄積」が行われるための生産手段といったものではない。その意味では、拡大再生産の表式では、すでに蓄積という事実は前提されているのである(概念的に、そして実際的にも)。したがって、もう一度蓄積する(「余剰生産手段を過不足なく吸収すべき大いさの蓄積」云々)、などという富塚の表現は途方もない混乱、矛盾であり、ナンセンスの極みなのである。

 彼においては、「余剰生産手段」と、蓄積とは別のこととして理解されているのである。しかし「余剰生産手段」なるものが、素材的に蓄積を表現するもの、拡大再生産のための「物質的基礎」だとするなら、それをもう一度「蓄積する」とは一体どういうことか。

 田口弥一会員の言うところでは(富塚を擁護して言うのか、そうでないのかは明確ではないのだが)、富塚の「蓄積」の概念は、「余剰生産手段」が「資本」に転化するということ、つまり第T部門と第U部門などの間で、素材的置換が行われることと理解されているのだそうである。

 そうだとするなら(それ自体、途方もない観念ではあるが)、富塚は、「蓄積」という言葉で、素材置換のことを語っているのである、つまり素材置換されて、次の年の生産の出発点が与えられることを「蓄積」であると概念規定しているのである、そしてそう理解して初めて、富塚の奇妙な観念が意味を持つのである。だから、彼は拡大再生産表式とその素材的置換が蓄積の概念を与えていると思い込んでいる、あるいは事実上そのように主張するのである。

 だから、富塚は、最初の表式自体は、拡大再生産の概念を前提にして提出されているとは考えない。それは単なる不均衡な表式、わけのわからない「余剰生産手段」を含む表式、偶然的で恣意的な表式、無概念の表式である。

 しかし富塚はなぜ、一〇〇〇の「余剰生産手段」だけを問題にするのか、この式はまた一〇〇〇もの「不足消費手段」の存在をも語っていないのか。つまりそのものとしては、単なるおそるべき不均衡の表式でしかないのである。

 そしてまた、一〇〇〇のいわゆる「余剰生産手段」なるものは、「蓄積用に利用可能であることを示す」ものではない。それはすでに、拡大再生産の概念のもと、蓄積に適応する生産手段として存在しているのである。

 マルクスにあって、拡大再生産の表式は最初から拡大再生産の表式として、その概念を明らかにする表式として提出されている。つまり、それは与えられた条件のもとで、蓄積率六二・五%(富塚の式)、あるいは我々が『海つばめ』一〇〇四号で提出した式では蓄積率五〇%、さらには後に説明する、マルクスのa式の場合には、四五・四五……%の蓄積率をすでに前提として提出されているのである、つまり蓄積を前提とした式なのであり、だからこそ、部門間の(あるいはもちろん、部門間内部の)素材的な相互置換が行われるのであり、行われなくてはならないのである。

 そうでないとするなら、いわゆる拡大再生産の表式は単なる不均衡の、無概念の表式、どんな意味も持たない表式であるにすぎない。

◆拡大再生産の概念的表式

 蓄積分は一〇対一の比率で不変資本と可変資本に分かれなくてはならないという富塚の不合理な観念でなく、マルクスの正しい概念(蓄積分もまた、四対一という有機的構成の比率で、不変資本と可変資本に分かれる)によって計算するなら、「所与の生産物の種々の要素の異なる配列、または異なる機能規定」(『資本論』三巻二一章三節、岩波文庫七分冊二五六頁)によって、富塚の式は以下のようになるはずである。

 T 6000c+1500v+(937・5mc+562・5mv)=9000
 U 2000c+ 500v+(312・5mc+187・5mv)=3000

 富塚は蓄積率を五五%と想定しているが、しかし一一〇〇を二〇〇〇で割るのではなく、一二五〇(蓄積分)を二〇〇〇(総剰余価値)で割るなら、いわゆる「蓄積率」は六二・五%になる、そしてこの蓄積率で計算するなら、富塚の式も拡大再生産の合理的な「均衡式」と同じものとして現われる(合理的な「均衡式」の計算は、『海つばめ』一〇〇四号、三面八段の越村信三郎の数式による)。

 そして第T部門の九三七・五は、七五〇のcと一八七・五のvに分かれ、また第U部門の三一二・五も二五〇cと六二・五vに分かれる。かくして、

 T 6750c+1687・5v+562・5m=9000
 U 2250c+ 562・5v+187・5m=3000

となるが、これは立派に拡大再生産の概念を語っている、というのは、第T部門の1687・5+562・5は第U部門の2250と相互補填され得るからであり、蓄積率は両部門とも六二・五%である。

 付けたして述べておくが、富塚は、一〇〇〇の「余剰生産手段」があり、それに追随して二五〇(富塚のもとの式では一〇〇)の可変資本が「必要とされる」というが、しかし蓄積は第T部門、第U部門の双方で行われるのであって、素材的に一〇〇〇の新しい生産手段が想定されるからといって、それは第T部門でのみ蓄積が行われるのでも、また蓄積が生産手段によってのみ代表されるというわけでもないのである。

 一〇〇〇の生産手段と二五〇の消費手段が新しく生産されているのであって(すでに、拡大再生産の表式として与えられた最初の商品資本の構成部分として存在しているのであって)、蓄積は両部門で行われ、そして素材的には生産手段とともに消費手段によっても表現されるのである。

 もう一つ、別の例を持ってきてみよう。『資本論』二巻二一章三節「蓄積の表式的説明」の最初にある式、いわゆる「表式a」(岩波文庫、五分冊二五五頁)などはどうだろうか。

 T 4000c+1000v+1000m=6000
 U 1500c+ 375v+ 375m=2250

 我々は第U部門の数字を少しだけ修正した(計算の都合のためと思われるが、マルクスがvとmを376としたのを、375に戻した)。

 まず、富塚のやり方で「均衡蓄積率」を計算する。余剰生産手段は六〇〇〇−五五〇〇=五〇〇、したがって「均衡蓄積額」は五〇〇+五〇〇×四分の一、で六二五、これを総剰余価値の一三七五で除すると、富塚の言うところの「均衡蓄積率」は四五・四五……%になる。

 そして『海つばめ』一〇〇四号で提出した公式を用いても、十一分の五、つまり四五・四五……%という蓄積率が出てくる(この数字は、マルクスが想定した五〇%ではないが、しかしそれに近い数字ではある)。もちろん、こうした蓄積率を経験主義的、実際的なやり方で見出すことは困難なことであったろう(マルクスが“富塚的な”無概念の計算方法を思いつくことは、天地がひっくり返ってもなかったろうから)。

◆富塚理論の誤りの根底

 もし富塚のやり方でも、均衡的な拡大再生産を示す“正しい”蓄積率が計算され得るとするなら、富塚の観念はいかにして間違っているのであろうか。

 富塚はある意味で、拡大再生産の「均衡式」を表す公式を見出したのであるが、彼はまず、固定資本に捕らわれて、それを合理的な形で示すことができなかったと言えようか。

 しかしより決定的なことは、彼がただ蓄積率六二・五%(富塚の間違った観念によれば、五五%の蓄積率)の場合だけの「均衡式」を絶対化してしまったこと、そしてその結果として、蓄積率は部門間構成(生産力の水準?)によって規定されると主張することになったこと、そしてこうした間違った観念から出発して一つのドグマを作り上げ、そして実践的に、共産党の過少消費説的な立場を“側面から”援護したことである。

 もちろん、蓄積率は決して部門間構成によって決定されるわけでもないし、また、富塚の式においても、蓄積率は六二・五%(富塚に言わせると五五%)に“決定”されているわけでもない。一定の部門間構成のもとでは、蓄積率は一定である(一定でなくてはならない)、などという観念の不合理性は一見して明らかである、というのは、部門間構成によって、蓄積率がア・プリオリかつ絶対的に規定され、決定されるなどということは現実にはあり得ないからである。

 結果として見るなら、蓄積は一定の部門間構成に適応したものとして現われるかもしれない、しかしそれは結果として見ているからであって、実際の蓄積は、部門間構成によってではなく、資本家の蓄積衝動等々によっても左右されるのであって、蓄積率が五〇%になるか、六〇%になるかといったことは、単に部門間構成や生産力水準によって規定されるものではない。

 富塚の表式における一〇〇〇、あるいはマルクスの「表式a」や「第一例」の表式における五〇〇(第U部門のcから第T部門のvとmを引いた数字。あるいは富塚が計算しているように、第T部門の総価値から第T部門と第U部門のcを引いた数字)は「余剰生産手段」といったものではなく、またそうしたものとして評価することは正しくないのである。したがってまた、部門間の相互補填は、それを「吸収」し、解消するための「蓄積」、といったチンプンカンとまったく異なった概念なのである。

 マルクスも言うように、拡大再生産の前提のもとでは、すでに物質的、素材的に、拡大再生産に適合した生産が行われているのであって、だからこそ、第T部門と第U部門との間で(またそれぞれの部門の内部でも)、相互的に素材置換が行われるのであり、また行われ得るのである(したがって、それを理論的に展開し得るのである)。

 富塚はこうした再生産表式の意義と課題を全く理解してもおらず、知ってもいない。拡大再生産の表式を表面的に、価値的側面においてのみ見て、そこに「余剰生産手段」がある、などというのは見当違いのナンセンスであり、根本から“ずれている”と言わなくてはならない。

 まして、この「余剰生産手段」を解消するために蓄積が行われるのだ、などと“断言する”に到っては、過少消費説論者にふさわしい妄想、転倒した観念と言うしかない。蓄積はすでに前提されているのであり、問題は、その上での拡大再生産の表式的説明なのである。ところが、彼は部門間の相互補填の問題を「蓄積」にすりかえ、ここに需要供給関係などを持ち込むのであり、また持ち込まなくてはならないのである(こうして、過少消費説等々のプチブル経済学、あるいはケインズ主義といった、ブルジョア俗流経済学の水準に転落していく)。

 転倒した観念であるというのは、富塚は例えば、第T部門と第U部門の比率が(そして、有機的構成つまり不変資本と可変資本の比率とか、搾取率などが)、蓄積率を決定すると考えていることであるが、しかしこんな観念は非現実的であって、彼がそう思い込むのは、まず一定の第T部門と第U部門の比率を前提にして、蓄積率を逆算しているからにすぎない。

 確かに、他の条件を等しいものとするなら、蓄積率と第T部門と第U部門の比率は関連するが、それは蓄積率がその比率を左右し、決定するからであって、逆ではない。例えば、我々が『海つばめ』で論じた表式を例に取ってみよう。

 そこでは、同じ有機的構成と搾取率のもとで、蓄積率二五%、五〇%、七五%の場合の“均衡的な”拡大再生産の表式例をあげたが、それぞれの第T部門と第U部門の比率は、二五%の場合は七対三、五〇%の場合は七三・三対二六・七、そして七五%の場合は七六・七対二三・三となって、蓄積率が高いほど、第T部門の比率が大きくなっている。

 ここでは、拡大再生産において、部門間比率は蓄積率にしたがって規定されていること、そしてまた蓄積率は有機的構成(つまり生産力)や剰余価値率によって全然支配されていないことが明瞭に見て取れるのである。確かに、蓄積率が高いに従って、第T部門の比重は大きくなるが、それは蓄積率の高いことの結果であり、その現われであって、その反対ではないのである。つまり、第T部門の比重が高く、第U部門の比重が相対的に小さいから、蓄積率が高くなるのではない、つまり蓄積率が部門間の構成比率によって規定されていることを示すものではない。

 しかし富塚は、この関係を転倒して理解するのであり、例えば、第T部門と第U部門の間に、五〇%の場合を取れば、七三・三対二六・七の比率があるから、蓄積率は五〇%に決定されるのだと主張するのである。かくして彼にあっては、部門間比率(や有機的構成?)は蓄積率に先行して前提され、蓄積率を規定するのである。蓄積率は部門間比率の“従属”関数として現われ、それによって確定しているように見えるのである。

 これはちょうど、他の諸関係が同じなら、転倒した観察者には、利潤率によって剰余価値率が規定され、決定されるようにも見える、というのと同じようなものであろうか。

 だから、彼は蓄積率を有機的構成(生産力?)や搾取率や部門間比率の結果として、つまりそれらの諸要素によって“客観的に”――奇妙な客観主義があるものだ――決定される「余剰生産手段」や「均衡蓄積率」の観念として提出されるのである。

 彼には、同じ有機的構成(すなわち、同じ生産力)や搾取率であっても、いくらでも違った蓄積率があるし、当然あり得るということ、こうしたごく“常識的な”ことが分かっていないのである、あるいは彼のドグマはこうした現実の経験と抵触し、“不整合”をきたしているのである。

 そもそも我々は、「余剰生産手段を解消するための蓄積」といったチンプンカンプンを合理的に理解することができない。蓄積はまるで、「余剰生産手段」なるものが社会の中に形成され、それを一掃するために行われるかではないか。しかしそもそも富塚の言う「余剰生産手段」とは蓄積のこと、その可能性、もしくは現実性のことではないのか、それなのに、なぜそれを解消する必要があるのか。

 そして富塚の方式は、必然的に、「第T部門優先の」蓄積理論である。彼にあっては、「余剰生産手段」一〇〇〇は基本的に、第T部門に形成されるのであり、それに応じて、第U部門において一〇〇(正しくは、二五〇)の蓄積が“付随的に”生じるのであって、第T部門、第U部門において“並行的な”蓄積が想定されているわけではない。富塚は、第T部門において九三七・五の蓄積が(これは七五〇cと一八七・五vに分かれる)、第U部門において三一二・五(これも二五〇cと六二・五vに分割される)の蓄積が生じる、つまり両部門に“並行的に”蓄積がなされると理解しないのである。彼の表式は、まさにスターリン主義者の“伝統的な”ドグマにそったものであり(それの一つの適用としての、歪んだ理論である)、だからこそ、彼の「均衡蓄積」の理論は混沌とした、まやかしものとして現われるのである。

 しかしレーニンも言うように、「マルクスの表式から、第U部門に対する第T部門優先などという結論は、いささかも引き出すことができない」のである(『いわゆる市場問題について』、全集一巻八〇頁。ついでに言えば、スターリン主義者たちは、自分たちに都合の悪い、こうしたレーニンの言葉は決して引用しないか、あるいはレーニンが後に捨て去った、間違った理論として言及するのである)。

◆富塚理論の観念性、転倒性

 富塚は、すべての蓄積が第T部門でなされて、第U部門は全く蓄積がない場合も想定できる(彼の「均衡蓄積率」の観念と矛盾しない)、などといった“極端な”ことまで主張している(同五六頁)。何のためにこんなことを言うのか理解しがたいが、とにかく富塚にあっては、均衡蓄積率といったものは、「総生産物」について言えればいいのであって、第T部門と第U部門の等しい蓄積率である理由は全くないのである、つまり彼の均衡蓄積率の観念は“概念”(法則)ではないのである、あるいは再生産表式の意義を全く理解していないのである。彼は自分の観念を擁護して強調する。

「総生産物の価値的・素材的構成=『諸要素の機能配列』によって、部門Tにおいて生ずる蓄積のための『超過分』たる余剰生産手段量があり、それを過不足なく吸収すべき《均衡蓄積総額》が決定されるのであり、個々の資本の蓄積の総結果としての現実の蓄積総額がこの《均衡蓄積総額》に一致するか否かによってまた二部門間の均衡条件の成否如何が制約される。この関連を把握することが肝要なのである」(同五七頁)。

 つまり、均衡蓄積率という“モデル”があり、それに現実が一致するかどうかが問題だ、というのである。まさに逆転した認識論であり、観念論的立場の告白である。彼はマルクス主義的立場もセーの立場も混同し、ごちゃまぜにして攻撃してやまないのである。

「再生産の『条件』は、再生産過程を結果として貫く『法則』としてのみ把握すべきものであって、それは再生産の均衡が維持されてゆくための『条件』・『均衡条件』として把握すべきではないとする主張、また、再生産論においては事実上『セー法則』が前提されているのであって、それによって明らかにされるのは部分的過剰・過少にすぎないとする見解、これらの諸説は一つの共通する思考によるものであり、また、表式分析において蓄積率はもっぱら『独立変数』として、部門間比率(部門構成)はその蓄積率の変化にともなって変化する『従属変数』にすぎないものとして把握すべきだとする立場もまた、これらと事実上、同様の考えによるものである。こうした思考のもとでは、第二部第三篇の再生産(表式)論は、恐慌論に対して極めてネガティブな意味しかもちえないものとなる。再生産過程の全面的撹乱を帰結すべき不均衡化の諸条件そのものの析出を表式分析に求めることは、はじめから断念すべきだとされる」(同五九頁)。

 ここにあるのは、スターリン主義者が振りまいてきた“伝統的な”諸観念であるが、事実上、マルクスの再生産表式の意義を曲解し、多くの理論的な混乱と、不要な理論的、現実的な騒乱を、歴史的にもたらしてきたものである。「再生産の『条件』」がどうのこうとか、「第二部第三篇の再生産(表式)論は、恐慌論に対して極めて」積極的な意義をもっている――すなわち、恐慌の必然性は「第二部第三篇の再生産(表式)論」を媒介にして論証されなくてはならない――とかの理屈は、これまで共産党の運動の中で、いわば“公理”として幅を利かせてきたものであって、その“権威”に反旗をひるがえし、公然と異議を唱えることは異常に困難なことであった。

 富塚は、第T部門優先の理屈を否定しているかであるが、実際にそれに極めて深く捕らわれているのであって、それは彼が「過剰蓄積」についておしゃべりを始めるとき、あまりに明瞭に現われてくるのである。彼の「過剰蓄積」の理屈とは、すなわち第T部門優先のドグマのバージョン、一種の変種以外ではない。

 しかし我々はこうした富塚らの諸観念をこそ拒否するのであり、マルクス主義とは“異質の”観念、一種の観念的なドグマにすぎないと結論し、その一掃を誓うのである。

『海つばめ』第1014号(2006年4月9日)


ページTOP